内藤陽介 Yosuke NAITO
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 1年間ありがとうございました。
2016-12-31 Sat 08:39
 2016年もいよいよ大晦日です。今年も皆様には本当にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、主なものだけでも、下記のような仕事を残すことができました。

 <単行本>

      リオデジャネイロ歴史紀行 『リオデジャネイロ歴史紀行』 えにし書房

 <連載>
 ・「泰国郵便学」 『タイ国情報』(1月号~2017年も継続)
 ・「切手に見るソウルと韓国」 『東洋経済日報』(1月~2017年も継続)
 ・「小さな世界のお菓子たち」 『Shall we Lotte』(1月~2017年も継続)
 ・「岩のドームの郵便学」 『本のメルマガ』 (1月~2017年も継続)
 ・「切手歳時記」 『通信文化』 (1月~2017年も継続)
 ・「世界の国々」ほか 『世界の切手コレクション』 (1月~2016年も継続)
 *「世界の国々」は複数の執筆者で分担しましたが、内藤が担当したのは以下の号です。
  ニュージーランド(68号・1月6日号)
  ウルグアイ(70号・1月20日号)
  セントヴィンセント(71号・1月27日号)
  アンティグア・バーブーダ(72号・2月3日号)
  パキスタン(74号・2月17日号)
  ローデシア(73号・2月24日号)
  インドネシア(76号・3月2日号)
  ケイマン諸島(78号・3月16日号)
  ニジェール(79号・3月23日号)
  スリランカ(83号・4月20日号)
  レソト(84号・4月27日号)
  国際連合(85号・5月4日号)
  ヴァティカン(86号・5月11日号)
  インド(88号・5月25日号)
  エジプト(91号・6月15日号)
  ブラジル(92号・6月22日号)
  グレナダ・グレナディーンズ(94号・7月6日号)
  英連邦(95号・7月13日号)
  イスラエル(96号・7月20日号)
  ベリーズ(97号・7月27日号)
  フランス植民地帝国(98号・8月3日号)
  アジュマーン(99号・8月10日号)
  ルーマニア(101号・8月24日号)
  メキシコ(102号・8月31日号)
  ラオス(104号・9月14日号)
  ニカラグア(106号・9月28日号)
  カンボジア(108号・10月12日号)
  インド(109号・10月19日号)
  ベルギー(110号・10月26日号)
  キルギス(111号・11月2日号)
  トーゴ(112号・11月9日号)
  ベナン(114号・11月23日号)
  セントルシア(115号・11月30日号)
  ギニアビサウ(118号・12月21日号)
 ・「郵便学者の世界漫郵記」 『キュリオマガジン』(3月~2017年も継続)
 ・「切手で訪ねるふるさとの旅」 『散歩人』第32-33号(6月、11月号)

<単発モノの論文・エッセイなど>
 ・「切手・郵便物で再構成する朝鮮戦争」 『青鶴』第7号(公益財団法人韓昌祐・哲文化財団)
 ・「UAE成立以前の郵便と社会(1964年まで)」 『UAE』第59号(2016年春号)
 ・「毛沢東切手クロニクル」 『毛沢東:中国を建国した“20世紀の巨人”』 洋泉社MOOK
 ・「世界の毛沢東切手」 『毛沢東:中国を建国した“20世紀の巨人”』 洋泉社MOOK
 ・「マルレディ・カバーとアヘン戦争(馬爾雷迪郵資封與鴉片戰爭) 『環球華郵研究』第二期
 ・「UAE成立以前の郵便と社会(1964-67年)」 『UAE』第60号(2016年夏号)
 ・「終戦と軍国切手」 『丸』2016年8月号
 ・「藤田書簡の郵便ルート」 藤田嗣治(林洋子監修)『藤田嗣治 妻とみへの手紙 1913-1936 下巻』 人文書院

<切手展出品>
 ・A History of Hong Kong (世界切手展<NEW YORK 2016>
 ・アウシュヴィッツ郵便史1939-1945 (全国切手展<JAPEX 16>)

 このほかにも、実行委員長を務めた7月の全日本切手展、審査員を務めた世界切手展<PHILATAIPEI 2016>、コミッショナー兼審査員を務めた12月のアジア国際切手展<CHINA 2016>をはじめ、公私にわたり、実に多くの方々より、ご支援・ご協力を賜りました。関係者の皆様にはあらためてこの場を借りて、皆様に厚くお礼申し上げます。明年も引き続き、ご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 最後に、来る年の皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げ、年末のご挨拶といたします。どうぞ、良いお年をお迎えください。

 内藤陽介拝


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 わが最後の別れ
2016-12-30 Fri 17:06
 フィリピン独立運動の志士、ホセ・リサールが1896年12月30日に処刑されてから、きょうでちょうど120年です。というわけで、ただ単にリサールの肖像切手を持ってきても芸がないので、ちょっとひねってこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・独立小型シート  フィリピン・独立小型シート(部分拡大)

 これは、1943年10月1日、日本占領下でフィリピン第2共和国が独立したことを記念して、同月14日に発行された独立記念切手の小型シートです。小型シートは3種の記念切手を収めていますが、切手の下に、リサールの辞世の詩として有名な「わが最後の別れ(MI ULTIMO ADIOS)」の手稿の一節(右側にその部分を拡大した画像を貼っておきます)が印刷されているのがミソです。

 リサールは、1861年6月19日、スペイン領時代のルソン島カランバで生まれました。幼少時から神童の誉れ高く、1877年、16歳にしてマニラのアテネオ学院(現アテネオ・デ・マニラ大学)に入学して農学を学び、さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、サント・トマス大学で医学を学びました。また、在学中の1879年にはスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を獲得しています。

 1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌1882年にサント・トマス大学医学部を修了した後、宗主国スペインの国立マドリード大学医学部および哲文学部の両学部に入学。1885年、マドリード大学の哲文学博士と医学士の号を取得した後、フランス、ドイツの各大学でも学び、ドイツ滞在中の1887年、ベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ(私に触れるな)』を出版し、同年8月、フィリピンに帰国しました。

 帰国後のリサールは、故郷のカランバで医者として働いていましたが、ドイツで出版した『ノリ・メ・タンヘレ』がスペイン修道会の怒りを買い、再び“留学”の名目で日本、米国経由でヨーロッパに逃れました。

 1891年には帰国しようとしたものの、スペイン当局は彼の帰国を認めなかったため、香港で眼科医を開業したものの、望郷の念発ちがたく、1892年6月に帰国。帰国後は、スペインの統治を認めたうえで、穏健な改革を求める“フィリピン同盟”を結成しましたが、これを危険視したスペイン当局は彼を逮捕し、ミンダナオ島のダピタンへ流刑としました。

 1896年7月、刑期の満了後、彼は軍医としてスペイン海軍の巡洋艦「カスティリア号」に乗り込み、スペイン領キューバへ向かいましたが、船が地中海に入ったところで、フィリピンで“1896年革命”が勃発したことから、革命への関与を疑われて逮捕され、マニラへ移送の後、同年12月26日、軍法会議で銃殺刑の判決を受け、30日に処刑されました。享年35歳。その死は多くの人々に衝撃を与え、1898年に成立したフィリピン第1共和国大統領のエミリオ・アギナルドは、リサールが処刑された12月30日を“リサールの日”に指定。現在でも、この日はフィリピンの祭日となっています。

 処刑前日の1896年12月29日、獄中のリサールの元へ、彼の母親と2人の妹、2人の甥が面会に訪れ、アルコールストーブを託されます。そのストーブの中には、2枚の紙に無記名・無題、日付のない詩が書かれたメモが入っていました。この詩は、リサール処刑後の1897年、「わが最後の別れ」との題名とをつけて香港で発表され、国際的に広く知られるようになりました。

 「わが最後の別れ」は、「さようなら、愛する祖国、懐かしい太陽の地よ(Adiós, Patria adorada, región del sol querida)」の一節で始まる長編詩で、小型シートには、詩の第4連部分のリサールの手稿が取り上げられています。

 Mis sueños cuando apenas muchacho adolescente,
 Mis sueños cuando joven ya lleno de vigor,
 Fueron el verte un día, joya del Mar de oriente,
 Secos los negros ojos, alta la tersa frente,
 Sin ceño, sin arrugas, sin manchas de rubor.

 ちなみに、「わが最後の別れ」の日本語訳としては、リサールの生誕100周年にあたる1961年、加瀬正治郎が「ホセ・リサール/一八九六」の邦題で発表したものが有名で、小型シートに引用されている部分は、加瀬訳だと以下のようになっています。

 私は夢みた はじめて生命のひらかれたとき
 私は夢みた 若き日の希望に胸の高鳴ったとき
 おお 東の海の宝石よ きみの晴れやかな顔をみる日を
 憂愁と悲しみよりとき放たれて
 きみの顔にかげはなく きみの眼に涙のない日を


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 泰国郵便学(46)
2016-12-29 Thu 10:18
 ご報告が大変遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第50巻第6号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・野生動物(第2次)ガウル

 これは、1975年3月5日に発行された第2次野生動物シリーズのうち、ガウル(インドヤギュウ)を取り上げた75サタン切手です。

 ガウルは、インド、カンボジア、タイ、中国・雲南省、ネパール、ミャンマーの標高1800メートル周辺にある森林に8-11頭からなる群れを形成し生息する偶蹄類で、体長240-330cm、肩高160-220cm、体重580-1000㎏。肩は隆起し、胴体の中ほどで胸椎の突起が短くなります。背面の毛衣は暗黄褐色で、四肢下部の体毛は白色です。

 開発による生息地の破壊、狩猟、家畜からの伝染病などにより生息数は激減しており、現在では保護区が設定されていますが、タイ中部プラジュアブキリカン県クイブリ国立公園では、2013年8月2日から12月22日までの間にガウル12頭の死体が相次いで発見されたことが大きく報じられました。死体にはいずれも外傷はなく、汚染された水が原因だったと見られています。

 ところで、ガウルは、タイでは栄養ドリンクの商品名としても有名です。

 もともと、鎮痛剤の製造・販売を行っていたTCマイシン社の経営者、チャリアオ・ユーウィッタヤーは、1978年、TCファーマシューティカル・インダストリー社(以下、TCF)を設立し、それまで、日本の大正製薬が販売するリポビタンDがほぼ独占していた栄養ドリンク市場に参入しました。

 ユーウィッタヤーは、この時売り出した商品を、タイ語で“赤いガウル”を意味する“クラティン・デーン”と命名。低所得者層のマーケットに重点を置き、100万本以上の試供品を配布するなどの積極的な営業方針でシェアを拡大。同社を現在65%のシェアを誇る業界最大手に育て上げました。

 ちなみに、TCFの成功に目を付けたオーストラリア人実業家のディートリヒ・マテシッツは、1984年、クラティン・デーンの国際的な販売権を獲得。独自の配合で数年をかけて改良を加えて“レッド・ブル”を売り出し、栄養ドリンク業界において、売上、シェア共に世界一の座を獲得しています。レッドブルのマークに描かれている牛のモデルは、今回ご紹介の切手のガウルということになりますな。

 僕自身は、普段はあまり栄養ドリンクの類は飲まないのですが、せっかくなので、きょうはレッド・ブルを飲んで、残りわずかとなった2016年を乗り切ろうかと思います。


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 安倍首相、真珠湾訪問
2016-12-28 Wed 12:09
 ハワイ訪問中の安倍晋三首相は、けさ(現地時間27日午前)、米国のオバマ大統領と共に日米開戦の発端地となった真珠湾を訪問し、慰霊の献花を行いました。戦後、日本の首相による真珠湾訪問は4人目、現職の米大統領とともに献花するのは初めてです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      真珠湾攻撃(吉岡堅二)

 これは、1943年12月8日に発行された“大東亜戦争記念報国葉書”のうち、吉岡堅二の戦争画「ハワイ眞珠灣強襲」を取り上げた1枚です。“大東亜戦争記念報国葉書”は、額面2銭の葉書を3種セット30銭で販売したもので、このうちの10銭が国防献金となっています。

 「ハワイ眞珠灣強襲」の作者、吉岡堅二は、1906年、東京市本郷区に日本画家・吉岡華堂の次男として生まれました。

 11歳の時に父を亡くし、当初は彫刻家を志したものの、画家に転じて、父と寺崎広業門で同門であった野田九浦の居仁洞画塾に入門して日本画の修業を積み、1912年に帝展初入選。1930年には帝展特選となりました。翌1931年の第1回独立美術協会展でのフォーヴ的な傾向に大きな刺激を受けて日本画の革新へと大きく転回し、1934年、福田豊四郎らと美術人社を結成。若手作家らによる昭和の日本画革新運動の中心的作家の一人として活躍しました。

 1937年に支那事変(日中戦争)が始まると、翌1938年9月から1939年1月まで、従軍画家として、大連-奉天-新京-哈爾賓-吉林-斉々哈爾-洮南-奉天-承徳(熱河)-北京-天津-済南-青島-上海-九江-安慶-蕪湖-南京-蘇州-上海-大連の順に各地を回り、この間、大連および新京の商工会議所で福田豊四郎との2人展開催しています。

 帰国後の1939年、日本大学芸術科学園美術科の日本画講師に就任し、中国での体験をもとに、同年4月の第五回煌土社展に「駱駝」、「雲崗石窟(素描)」、「雲崗石仏(素描)」、「閘北戦趾(素描)」を出品。また、同年、陸軍美術協会が設立されるとこれに参加し、7月に開催の聖戦美術展(陸軍美術協会、朝日新聞社共催)の審査員として、油彩画「爆撃用意」を出品しました。

 1941年に大日本航空美術協会(会長:堀丈夫中将)が結成されると、発起人としてこれに参加。同年7月の第2回聖戦美術展で審査員をつとめ、「雨中急迫」、「マレーの敵軍航空基地爆撃」を出品したほか、9月には第1回航空美術展の審査員をつとめ「群像」を出品。さらに、開戦直前の10-11月にはハノイ、サイゴン、ユエ、ハイフォンで開催された仏印巡回日本絵画展に「芙蓉」を出品しています。

 大東亜戦争開戦後は、1942年3月に東京・日本橋の三越百貨店で開催された日本画家報国会主催軍用機献納作品展に「雉子」を出品したほか、同年5-8月には陸軍作戦記録画制作のためジャワに派遣され、この間、小磯良平から油彩画の手ほどきを受けています。また、1944年12月からは台湾経由でマニラに派遣され、1945年2月3日の米軍のマニラ進入直前まで現地で調査・取材を続けました。

 この間、吉岡が現地体験を活かして制作した戦争絵画としては、「カリジャティ西方の爆撃」(1942年12月・第1回大東亜戦争美術展)、「猛追」(1943年・陸軍美術展)、「蘭印軍兵器参考図」(1943年・第6回新美術人協会展)、「小田軍曹機の体当り敢行よく船団を救う」(1944年・陸軍美術展)、「ブラカンマティ要塞の爆撃」(1944年・文部省主催戦時特別美術展覧会)、「(昭和19年度陸軍作戦記録画)高千穂降下部隊レイテ敵飛行場を攻撃す」(1945年・戦争記録画展)などがあります。

 また、1939-44年に靖国神社の春・秋の大祭ごとに制作した『靖国の絵巻』にも、「 峻嶮難行(ニューギニア) 南政善」(1943年春)、「敵拠点を衝く(ニューギニア)」(同)、「陸鷲のダーウイン初爆撃」(1943年秋)、「北千島に敵の反攻粉砕」(1944年春)、「印度洋上死の船団掩護」(1944年秋)等が収められています。

 しかしながら、今回ご紹介の葉書に取り上げられた「ハワイ真珠湾強襲」は、彼の業績としてリストに挙げられることはほとんどありません。純粋に、絵画としての完成度としては、上述の作品に比べると劣るということなのかもしれませんが、我々収集家としては、ちょっと残念ですな。

 さて、戦後の吉岡は、1948年に福田豊四郎、山本丘人、上村松篁らと反官展を表明する創造美術を設立。1959年には東京芸術大学教授に就任し、1971年、日本芸術院賞を受賞。また戦前期の法隆寺金堂壁画模写事業および戦後の壁画再現事業にも従事しました。1990年没。

 戦後の代表作としては「楽苑」(1950年・第3回創造美術展 芸能選奨文部大臣賞)、「鳥碑」(1970年・第34回新制作展 日本芸術院賞)などがあります。なお、吉岡は、魚介シリーズの「うなぎ」の原画も制作していますが、今回ご紹介の絵葉書の「ハワイ眞珠灣強襲」と「うなぎ」の作者が同一人物だったとは、言われないと気付かない人も多いかもしれません。


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 世界の切手:ギニアビサウ
2016-12-27 Tue 09:38
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年12月21日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はギニアビサウの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニアビサウ・ボラマ島の女性

 これは、ポルトガル領ギニア時代の1948年に発行された、先住民の女性を描く切手です。ポルトガル領ギニアでは、1948年に現地の風俗などを題材とした普通切手のセットを発行していますが、その中でも、この切手は個人的にお気に入りの1枚なので、持ってきてみました。

 西アフリカにおけるポルトガルの植民地は、1444年、ポルトガル人のディアゴ・ディアスがアフリカ大陸西端のヴェルデ岬(カーボヴェルデ)から500kmほど沖合の島々を“発見”したことに始まり、その後、西アフリカの沿岸部にも拡大します。それらは一括して“ポルトガル領カーボヴェルデ”と呼ばれていました。

 その首府は、1558-1697年は大陸のカシェウに置かれていましたが、その後、1770年まではサンティアゴ島のリベイラ・グランデ(現シダーデ・ヴェーリャ)が、1879年までは同島のブライアが首府となっていたことが示すように、あくまでも、植民地経営の中心は大西洋上の島々にありました。

 ところで、1659年、セネガル川河口の中洲にサン・ルイ商館を建設して以来、フランスは西アフリカのセネガンビア地域(現在のセネガルおよびガンビア国家に相当する領域)に進出します。

 これに対して、1792年、英国はフランスの西アフリカ権益に打撃を与えるべく、ジェバ川およびグランデ川の河口沖合に位置するビジャゴ諸島のボラマ島に上陸したものの、定住には至りませんでした。その後も、1794年と1814年に英国人はボラマ島に上陸し、定住の拠点を築こうとして失敗しています。

 これに対して、アフリカ大陸側のビサウやカシェウを大西洋貿易の拠点としていたポルトガルは英国の進出に危機感を抱き、1830年、ボラマ島の領有を宣言。しかし、英国はこれを認めず、ポルトガルとの間で領有権争いが発生します。

 さらに、1860年、英国はボラマ島の英領シエラレオネへの併合を宣言したため、ポルトガルがこれに猛抗議し、軍事衝突の危険が高まりました。そこで、1870年、アメリカ大統領、ユリシーズ・グラントが仲裁に乗り出し、ボラマ島をポルトガル領とすることが正式に確定します。

 一連のイギリスとの対立を通じて、アフリカ大陸西岸の植民地防衛に不安を感じたポルトガルは、1879年、従来の“ポルトガル領カーボヴェルデ(現在のカーボヴェルデとギニアビサウをあわせた領域に相当)”からアフリカ大陸部分とその沿岸のビジャゴ諸島を分離して、“ポルトガル領ギニア”(現在のギニアビサウに相当する部分)を創設しました。

 ポルトガル領ギニアの最大都市はビサウでしたが、ポルトガルは、ボラマ島が自国領であることを示すため、あえて、ビサウではなく、ボラマをポルトガル領ギニアの首府としています。

 以後、ポルトガル当局は道路や港湾施設、金融機関など、ボラマのインフラ整備を進めるとともに、ここを拠点に、ビジャゴ諸島の他の島々でポルトガルの支配に抵抗していた先住民の鎮定を進め、1936年までかかって、同諸島に対するポルトガルの領有権を確定していきました。

 もっとも、ボラマ島内には淡水の水源がなく、ビサウから飲料水などを輸送する必要があり、島内での生活は非常に不便でした。そこで、ビジャゴ諸島の領有権が他国から侵される可能性がほぼなくなったことを確認したうえで、1941年、ポルトガル領ギニアの首府は、経済的な中心地のビサウに移されます。このことが、ポルトガル領ギニアが独立に際して、新国家の国名が“ギニアビサウ”となる要因となりました。

 さて、『世界の切手コレクション』12月21日号の「世界の国々」では、かつてポルトガル領ギアナの首都であったボラマ(島)についての長文コラムに加え、ビサウ教会、伝統的な織物のパノ、マングローブ林、ニシアフリカコビトワニの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のギニアビサウの次は、24日に発売された2017年1月4日号でのチャドの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の1月4日以降、このブログでもご紹介する予定です。
 

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 アレクサンドロフ・アンサンブル
2016-12-26 Mon 10:03
 昨日(25日)、ロシア南部のソチからシリアのラタキア近郊のロシア空軍基地に向かっていたロシア軍所属のTu154型旅客機が、黒海に墜落。ロシア軍所属の合唱団、アレクサンドロフ・アンサンブルのメンバー60人、報道関係者9人を含む乗客84人と乗員8人の計92人全員の生存は絶望視されています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・アレクサンドロフ生誕100年

 これは、1983年3月22日、ソ連が発行した“アレクサンドル・ワシーリエヴィチ・アレクサンドロフ生誕100周年”の記念切手で、彼の作曲したソ連国歌の楽譜を背景に、アレクサンドロフの肖像が描かれています。

 アレクサンドロフは、1883年4月13日、モスクワ近郊のプラヒノで生まれました。幼少期から抜群の歌唱力で知られ、サンクトぺテルブルク・カザン聖堂の合唱団に入り、サンクトぺテルブルクとモスクワで作曲を学んだ後、1918年に音楽教授となりました。

 1928年、労農赤軍に属する合唱団・演奏団(アンサンブル)を創設し、同団の指揮者に就任。1936年に彼が作曲した「ボリシェヴィキ党歌』は、1944年以降、歌詞を変更してソ連国歌となり、そのメロディは2001年に制定された現在のロシア国家にも継承されています。

 アレクサンドロフ自身は、1946年、巡業先のベルリンで亡くなりましたが、その死後、彼の創設したアンサンブルは、その功績をたたえて“赤旗勲章二重受章 А.V.アレクサンドロフ記念アカデミー ロシア軍歌と踊りのアンサンブル(通称・アレクサンドロフ・アンサンブル)”と改称され、息子のボリス・アレクサンドロヴィチ・アレクサンドロフが後任の指揮者となりました。

 アレクサンドロフ・アンサンブルは、1928年の創立以来、現在にいたるまで、ソ連・ロシア時代を通じて、名実ともに、いわゆる赤軍合唱団(旧赤軍・旧ソビエト連邦軍・現ロシア連邦軍・ロシア内務省国内軍など、ソ連・ロシアの軍隊・準軍事組織等に属する合唱団の総称)の最高峰として君臨し続け、世界的にも高い評価を受けてきました。

 今回、アレクサンドロフ・アンサンブルは、ラタキア近郊のロシア軍基地での新年コンサートに参加するための移動中、搭乗機が墜落したとのことで、一部報道によると、シリア政権軍が制圧を宣言したばかりのアレッポで記念演奏会を行う予定もあったとか。今回の墜落ではアンサンブルのメンバーの大半が失われたとみられており、単なる墜落事故の枠を超えて、ロシア国内に与えた衝撃の大きさは想像に余りあるものがあります。プーチン大統領も事態を重視し、事故調査のための特別委員会を設置するようメドベージェフ首相に指示したほか、きょう(26日)を“服喪の日”とする考えを示したそうです。

 謹んで、亡くなられた皆様の御冥福を心よりお祈りいたします。


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 Merry Christmas Again!
2016-12-25 Sun 10:51
 きょう(25日)はクリスマスです。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・クリスマス(1975)

 これは、1975年に米国で発行されたクリスマス切手で、1878年にルイス・プランが制作したクリスマスカードが取り上げられています。

 クリスマス・カードの起源は、1840年に英国で郵便改革が行われたことを受けて、ヴィクトリア・アルバート美術館長のヘンリー・コールが、郵便事業の振興を兼ねて、1ペニー料金で送ることのできるグリーティング・カードを制作したことに求めるのが一般的です。 一方、米国では、早くも1840年代にマサチューセッツ州の女性、エスター・ホランドがカード制作会社を設立。ヴァレンタイン・カードから着想を得て、装飾用のレースの紙などを輸入して手作りカードを販売しています。

 ただし、初期のクリスマス・カードは、制作コストがかかりすぎるなど、庶民にはなかなか手の届かないものだったため、実際にカードのやり取りが普及するようになるのは、大量印刷が可能になった1860年代以降のことでした。

 こうした中で、1873年(日本語の資料では1874年とされていることも多いのですが、これは誤り)、ドイツ系移民のルイス・プラングが亜鉛版を利用したクリスマス・カードを制作して英国に輸出。翌年には国内での販売も開始します。

 プラングは、1824年、プロイセンの支配下にあったブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)で織物職人の家に生まれました。1840年代前半、彼は印刷と織物の修行のため、ボヘミア周辺を旅していましたが、そのために、1848年革命に際しては革命派との関係ができ、プロイセン領内にはいられなくなります。そこで、1850年、スイス経由で米国に渡り、ボストンに定着しました。

 渡米当初、プラングは建築書の出版と皮革製品の制作を行っていたものの、こちらはあまり成功せず、書籍の挿絵として木版画の制作を開始。これが徐々に軌道に乗っていったことから、1856年、マサチューセッツの建築や風景を専門とするリトグラフの制作・販売を行う“プラング&メイヤー”を設立しました。1860年、プラングは共同経営者のメイヤーら経営権を買い取り、プラング&メイヤーを“L.プラング商会”に改組。多色刷の広告制作にも着手したほか、南北戦争中の戦況地図(主として新聞掲載用)を制作して大いに繁盛しました。さらに、1864年、プラングは渡欧してドイツの平版印刷技術を学び、翌1865年に帰国すると、美術品の複製等も手掛けるようになります。

 その後、プラング商会は学校の教科書や美術教師向けの指南書など、あらゆる印刷物を手掛けるようになりましたが、その一環として、1873年、いまだ割高だった英国のクリスマス・カードに目をつけ、英国向けのカードを制作して輸出。これが成功したことから、翌1874年には米国内でもクリスマス・カードの販売を開始しました。

 プラング商会のカードは、それ自体、当時の米国社会で人気を集めましたが、プラングは自社の成功だけに満足せず、クリスマス・カードのコンテストを主催するなどして、カード交換の習慣を普及させるうえで多大な貢献をしたため、現在では“米国におけるクリスマス・カードの父”とも称されています。

 さて、今回ご紹介の切手は、クリスマス・カードから図案を採っていますので、当然のことながら、“Merry Christmas!”の文言が切手にもしっかり入っています。この切手が発行された1975年当時は、こうした切手を発行しても、誰も文句を言う人はいませんでした。

 ところが、1980年代に入り、いわゆるポリティカル・コレクトネスが猖獗を極め、差別を是正するという大義名分のもと、リベラル勢力による激しい言葉狩りが横行(議長を“チェアマン”と呼ぶのは男女差別なので“チェアパーソン”と呼ばねばならない、など)するようになると、“メリー・クリスマス”は非キリスト教徒に配慮して“ハッピー・ホリデー”と言い換えなければならないとされるようになり、米国切手から“Merry Christmas!”の文言は消えていくことになります。

 もちろん、明かな悪意を持って差別語を使うことは厳に慎むべきでしょうが、あまりにも極端なリベラルの主張に対して、善男善女が素朴な疑問を持つのは当然のことです。しかし、これまでの米国の言論空間では、フツーの人たちが、自分たちの“常識”に照らして、ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎに疑義を呈することさえ、“差別”として糾弾されかねないという現状があり、そうした風潮に対する不満が、今年の大統領選挙でのトランプ候補の当選につながったという面があったことは間違いありません。

 ちなみに、トランプ次期大統領は、選挙戦を通じて、極端なポリティカル・コレクトネスの愚行を非難し、「米国が再び『メリークリスマス』と言える国に」と訴え続けてきました。そして、今月13日には、ウィスコンシン州での遊説で、「18カ月前、私はウィスコンシンの聴衆にこう言った。いつかここに戻って来たときに、我々は再び『メリークリスマス』と口にするのだと。......だからみんな、メリークリスマス!」と語っています。

 僕は、トランプ次期大統領を全面的に支持するというわけではないのですが、“メリー・クリスマス”ということさえタブー視される社会というのは、やはり異常だと思います。そうした気持ちから、今年のクリスマスには、“メリー・クリスマス”の文言の入った米国切手をご紹介した次第です。


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 サンタはコンドルで手紙を運ぶ
2016-12-24 Sat 14:35
 きょう(24日)はクリスマス・イヴです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・クリスマスカード(1936) ブラジル・クリスマスカード(1936・裏面)

 これは、1936年のクリスマスに際して、シンジカト・コンドル航空が作ったクリスマスカードで、同年12月19日、サンパウロからプラハ宛に送られています。葉書に書かれている“BOAS FESTAS”は、直訳すると“良いパーティーを”の意味ですが、クリスマスと新年のあいさつに使われるポルトガル語で、英語で言えば、“Merry Christmas and Happy New Year”のような表現です。

 さて、葉書を制作したシンジカト・コンドル航空は、ロイド・ドイツ航空が、コロンビア企業のSCADTA(コロンビア=ドイツ空輸会社:Sociedad Colombo-Alemana de Transporte Aéreo )と合同で1924年に設立したコンドル・シンディカート社(本社ベルリン)を母体として、1927年12月1日、リオデジャネイロで設立されました。

 当初は、飛行艇ユンカースG-24を用いて、リオ=ポルト・アレグレ間で週2便の定期運航を行っていましたが、次第に路線を拡大し、1936年までに、ベレン=リオデジャネイロ=ポルト・アレグレ(以上、ブラジル)=モンテヴィデオ(ウルグアイ)=ブエノス・アイレス(アルゼンチン)=サンティアゴ(チリ)線およびブラジル国内のサンパウロ=コルンバ=クイアバ線(その後、ボリヴィアまで乗継可)を主力路線とする航空会社に成長しました。

 一方、ドイツのルフトハンザは、フランスのアエロポスタルに対抗して、欧州=南米間の旅客および郵便輸送を計画した際、もともと、ドイツとの関係が深かったシンジカト・コンドルに目をつけます。そして、ルフトハンザが飛行船を用いてフリードリヒスハーフェン(ドイツ)=ナタール=レシフェ=リオデジャネイロまでの路線を運航し、そこからシンジカト・コンドルの路線につなぐということで、欧州=南米間の航空網をカバーすることになりました。今回ご紹介の葉書も、そうした文脈にそって制作されたものです。

 その後、1939年に第二次大戦が勃発し、1942年にブラジルが連合国側に立って参戦すると、シンジカト・コンドルはブラジル政府の指示によりドイツ系の経営陣を一掃したうえで、セルビソス・アエレオス・コンドル航空と改称。さらに、1943年にはポルトガル語で南十字星を意味するクルゼイロ航空と改名します。1975年にはヴァリグ・ブラジル航空の傘下に入り、同社を補佐するかたちで国内外の路線を運航していましたが、1993年1月、ヴァリグ・ブラジル航空に完全に吸収合併され消滅しました。

 なお、ヴァリグ・ブラジル航空とその歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 


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 アサド政権がアレッポ制圧宣言
2016-12-23 Fri 19:05
 2011年から続くシリア内戦で最大の激戦地となってきた北部のアレッポで、昨日(22日・現地時間)、反政府勢力の撤退と市民の避難が終わり、アサド政権は全域の制圧を宣言しました。これにより、シリア内戦は大きな転換点を迎えることになります。というわけで、シリア内戦に絡んで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      オーストリア・ユニセフ(2016)

 これは、今年(2016年)2月18日、オーストリアが発行した「ユニセフ:すべての子供に公平なチャンスを」と題する寄附金つき切手で、雪中のレバノンのベッカー高原に避難するシリア難民の少女(2015年撮影)の写真が取り上げられています。額面68セントに対して寄附金の2ユーロ32セントを加えて3ユーロで販売され、寄付金はユニセフに寄付され、シリアおよび周辺地域の難民支援のために使われます。

 さて、アレッポは2012年夏に反体制派が市の東部を制圧して以来、政権側と反体制派が市街地を二分して激しい抗争を続けてきました。しかし、今年9月、政権側は反体制派支配地域を包囲して食料や医薬品の補給を断つとともに、ロシア軍の支援を受けて空爆を実施。11月には大規模攻勢を開始して反体制派の防御線を突破し、今月12日までにアレッポ全域をほぼ制圧していました。

 このため、市内の一角で包囲されていた反体制派は重火器を放棄して市外に撤退することで合意。反体制派支配地域の民間人も政権側の迫害を恐れて市外への避難を希望する人が多かったため、今月15日以降、3万4000人以上がアレッポ県西部や隣接するイドリブ県に逃れていました。

 そして、22日、反体制派と民間人を乗せた最後の車列がアレッポ市東部を去ったことを受けて、政権側は「殉死者らが流した血、そして勇猛なわが軍と同盟部隊が払った犠牲のおかげで(…中略…)アレッポがテロリズムとテロリストから解放され、同市に残っていた人々も退避したことを受け、政府軍総司令部は同市に安全が戻ったことを宣言する」、「アレッポの治安の回復は重要な転機となる勝利だ」との声明を発表し、アレッポ全域の制圧を宣言しました。

 反政府勢力は今後も戦闘を続けるとしていますが、政権側の優位はもはや動かし難い状況ですから、いずれ、シリアの内戦は政権側に有利な停戦で終わるということになるのでしょう。

 まぁ、アサド父子のバアス党独裁体制には問題が多々あることは事実ですが、それでも、切手の少女を含め、長年の混乱に疲れ切ってしまった人々からすれば、西洋風の“民主化”より、かつてダマスカスで大法官を務めたイブン・ジャマーアが残した有名な言葉、「40年間の専制は1時間の無政府状態より良い」の方が、結局は得心の行くものということなのかもしれません。


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 サントメ・プリンシペ、台湾と断交
2016-12-22 Thu 10:59
 台湾の外交部は、きのう(21日)、西アフリカの島国サントメ・プリンシペとの断交を発表しました。5月に民主進歩党の蔡英文政権が発足して以降、台湾と断交する国は初めてです。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      サントメ・プリンシペ(1869)

 これは、ポルトガル領時代の1869年、サントメ・プリンシペで発行された最初の切手です。

 ギニア湾沖合のサントメ島とプリンシペ島は15世紀まで無人島でしたが、1469年、ポルトガル人が初めて到来し、アフリカ本土への中継地としてポルトガル領となりました。

 西洋人の入植がはじまったのは1490年代以降のことで、初期には主としてユダヤ人の流刑地として用いられていましたが、後にサトウキビ栽培が行われるようになり、フェルナンド・ポー島とアフリカ大陸から黒人奴隷が導入され、16世紀後半には世界有数の砂糖の産地となりました。

 1800年にブラジルからコーヒーが、1822年にカカオが導入されると、主にポルトガル人の不在地主と外国資本による大規模なプランテーション経営が行われ、1842年に約18コントに過ぎなかった両島の輸出額は、1910年には8000コント以上に急増しました。この間、1869年には、ポルトガル帝国全域で奴隷制を即時廃止する法律が制定されましたが、奴隷制によるプランテーションが経済の根幹となっていたサントメ・プリンシペ両島では、奴隷制度の廃止は1876年にまでずれ込んでいます。さらに、奴隷制廃止の前年の1875年には、実質的に奴隷制を温存する“奉公人”制度を定めた法律が制定され(施行は1878年)、現地住民に重労働が強制される体制は維持されました。

 こうした強制労働制度は、第二次世界大戦後も維持されていたため、1953年、黒人労働者による抗議の暴動が発生。これに対して、ポルトガル人が労働者を多数虐殺する“バテーパの虐殺”が起きたことで、反ポルトガルの独立運動が本格的に始まります。1960年9月には、対岸に位置するガボンの首都、リーブルヴィルにてサントメ・プリンシペ解放委員会(CLSTP)が結成されます。CLSTPは、後にサントメ・プリンシペ独立運動(MLSTP)に改組され、ガボンとリベリアを拠点として独立運動を展開しました。

 1974年4月25日、ポルトガル本国でカーネーション革命が発生し、革命後の新政権は全てのポルトガル領植民地を放棄する方針を表明。これにより、サントメ・プリンシペも独立が認められ、1975年7月12日、“サントメ・プリンシペ民主共和国”として独立。MLSTPの指導者マヌエル・ピント・ダ・コスタが初代大統領に就任します。

 独立後のサントメ・プリンシペでは、MLSTPによる一党制が敷かれ、アンゴラやキューバなど旧社会主義陣営と密接な関係にあり、その文脈で、台湾ではなく中国と外交関係を持っていました。その後、MLSTP政権は、経済立て直しのため1980年代から親西欧・親米政策に転換。東西冷戦終結に伴い1990年8月の国民投票で複数政党制に移行しますが、中国との外交関係は維持されていました。

 しかし、1996年の総選挙では、現職大統領のミゲル・トロボアダが新政党の独立民主行動(ADI)を結成して再選。MLSTPが野党に転落すると、翌1997年、中国と断交して台湾との外交関係を樹立しました。

 ところが、独立以来、慢性的な財政難にあったサントメ・プリンシペに対して、中国は“経済支援”を武器に再接近を図り、2011年7月の総選挙で初代大統領のマヌエル・ピント・ダ・コスタが勝利して大統領職に復すると、2013年には両国間の貿易推進の合意を取り付けます。これに対して、サントメ・プリンシペ側は、中台双方の支援額を比較する“天秤外交”を展開し、最近も台湾に対して巨額の支援要請を行いました。その要請が台湾側としては受け入れられる内容ではなかったため、台湾外交部はこれを拒否。すると、サントメ・プリンシペは、台湾に対して断交を通知してきたということです。

 今月に入り、トランプ次期米大統領が蔡総統と電話協議したことや、トランプが“一つの中国”に疑義を唱えたことから、危機感を強めた中国は台湾と国交を有する国々の切り崩しにかかっており、今回の一件は、その一つの“成果”となりました。これで、台湾と国交を有する国は21になってしまいましたが、なんとか日本が22番目になれないかと思っているのは僕だけではないと思います。


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 “ブルガリ”レストランで食中毒
2016-12-21 Wed 10:50
 東京都は、きのう(20日)、イタリアの高級ブランド、ブルガリの日本法人が運営する銀座のレストラン“イル・リストランテ ルカ・ファンティン”で今月11日に行われた立食パーティーで集団食中毒が発生したと発表。同店を20日から3日間の営業停止処分としました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イタリア・ブルガリ125年

 これは、2009年にイタリアが“メイド・イン・イタリー”の一種として発行した“ブルガリ125周年”の記念切手で、1965年にブルガリが制作したネックレスが取り上げられています。ネックレスは、(切手に取り上げられていない部分を含めて)ターコイズ計38カラット、カボション・カットのエメラルド計88.50カラット、カボション・カットのアメシスト計22カラット、ブリリアント・カットのダイヤモンド計72カラットを、シンメトリックに組み合わせたもので、ブルガリの宝飾品の中でも有名な逸品として知られています。

 ブルガリの創業者、ソティリオ・ブルガリは、1857年、ギリシャ・エピルスの銀細工職人の一家に生まれました。

 1881年、ローマへ移住。ローマで作った銀製のオーナメントが評判になると、1884年、ローマ市内のヴィア・システィーナ85番地に、最初の店舗を構えました。現在、ブルガリはこれを持って現在の同社の創業としており、今回ご紹介の切手もここから起算して125周年になるのにあわせて発行されたものです。

 その後、ソティリオの店は順調に発展。1905年には、2人の息子コンスタンティノとジョルジョも事業に加わり、コンドッティ通りに店舗を移転しました。これが現在のブルガリ本店となります。さらに、ソティリオは外国人旅行者を意識して、避暑地として有名なスイス・サンモリッツにも店舗をひらくなど事業を拡大し、1934年に亡くなるまでに現在の同社の隆盛の基礎を築きました。

 ブルガリの名が全世界的に知られるようになったのは、女優エリザベス・テーラーによるところが大でした。すなわち、1962年、映画『クレオパトラ』の撮影でローマに滞在していたエリザベス・テーラーは、共演者で後に彼女の夫となるリチャードバートンから、ステップカットが施された8角形のエメラルド(7.4カラット)とぺアシェイプ・ダイヤモンド(計5.3カラット)があしらわれたプラチナ製リングを贈られ、以後、ブルガリを好んで使うようになりました。また、2人の関係が進展するにつれ、ブルガリの店舗は2人の逢瀬の場となり、1962年の婚約時にはコロンビアンエメラルド(23.44カラット)のペンダントトップが、1964年の結婚の際には16のステップカットが施された8角形のコロンビアンエメラルド(計60.5カラット相当)とブリリアントカットおよびペアシェイプのダイヤモンドに囲まれたネックレスが、それぞれ、バートンから彼女に贈られています。エリザベス・テイラーはこのネックレスを結婚式はもちろん、1966年にアカデミー賞主演女優賞を受賞した際にも身に着けており、そうした彼女の姿がメディアで大々的に報じられたことで、ブルガリの名は(ブルガリの宝飾品を買えない庶民を含めて)全世界に広く浸透することになりました。

 こうした状況を受けて、1970年代以降、ブルガリは本格的に海外進出を展開。顧客の多いニューヨークを皮切りにパリ、ジュネーブ、モンテカルロなどに出店し、現在では、日本のブルガリ銀座タワーを含め、世界で150店ほどの直営店を展開しています。

 その過程で、1977年、高級腕時計の“ブルガリ・ブルガリ”を発売。このヒットを機に、1980年代以降、高級時計事業にも本格的に参入するようになり、1982年には部品の供給を受けずに自社で時計を一貫生産するための“ブルガリ・タイム社”を設立。さらに、1990年代以降は、香水やスカーフのほか、テキスタイルからグッズまで多角的な商品展開に乗り出し、2004年にはブルガリ・ホテルズ&リゾーツを設立してホテル経営にも乗り出しました。

 このように、イタリアから全世界に拡大するブルガリの事業は、イタリアが自国製品を広く内外に紹介するために毎年発行してきた“メイド・イン・イタリー”の題材として相応しいものといえましょう。ただし、“メイド・イン・イタリー”の切手に取り上げられているのは、ブルガリのような高級品ばかりではなく、庶民的なジェラートが取り上げられることもあります。

 まぁ、今回、食中毒を起こした銀座の“ブルガリ”レストランは2010年3月にも食中毒を起こしているそうですから、僕からすれば、同じ“メイド・イン・イタリー”であっても、口に入れるのなら数百万円・数千万円のブルガリよりも、ひとつ100-200円のジェラートの方が良いですな。


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 クリスマスマーケットにトラック
2016-12-20 Tue 12:59
 ベルリン中心部で、昨晩(現地時間、日本時間20日未明)、大型トラックがクリスマスマーケットに突っ込み、この記事を書いている時点で、少なくとも12人が死亡、48人が負傷しました。トラックを運転していた容疑者は逮捕されたものの、背後関係はわかっておらず、独政府や警察はテロの可能性があるとみて背後関係を調べているそうです。というわけで、亡くなられた方々の御冥福と負傷された方々の一日も早い御快癒をお祈りしつつ、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ドイツ・クリスマスマーケット(1937)

 これは、1937年にベルリンC2郵便局で使われた“クリスマスマーケット(Weihnachtsmarkt)の記念印が押されたオンピースです。ベルリンC2局は、後にテンペルホーフ空港内局となりますが、今回ご紹介の記念印が使われた1937年の時点では市内中心部にあり、主として航空郵便を取り扱う郵便局でした。なお、戦前のドイツでは、1936-38年にベルリンのクリスマスマーケットにあわせて記念印が使われています。

 さて、ドイツのクリスマスマーケットの起源については諸説あり、1393年にフランクフルト・アム・マインのクリスマスマーケットで行われたのが最初とする説や、それ以前にドレスデンもしくはストラスブール(現フランス領)で開催されていたとする説などがあります。ただし、いずれにせよ、初期のクリスマスマーケットは、厳冬期を前に、日用品を売買する最後の機会とされていました。

 19世紀以降、クリスマスマーケットは、クリスマスのデコレーションや地域の民芸品、レープクーヘンなどの焼菓子や玩具などを売買する場となり、現在では、ドイツ国内では2500以上のマーケットが開催されています。そのうち、“世界最大”のシュトゥットガルト、“(自称)世界最古”のドレスデン、“世界一有名”なニュルンベルクが三大クリスマスマーケットとされていますが、これに対して、ベルリンは“世界で一番種類が多く、個性的”なクリスマスマーケットの地として自らをアピールしています。

 今回、事件のあったクリスマスマーケットは、ベルリン中心部、ベルリン動物園と道路を挟んで向かい側にあるブライトシャイドプラッツ広場内のカイザー・ヴィルヘルム記念教会前で開催されていたもので、トラックはブダペスター通り方面から歩道を乗り越えて露店に突っ込み、人々を次々となぎ倒したうえ、カイザー・ヴィルヘルム記念教会前のクリスマスツリーのそばで止まりました。

 また、トラックはポーランドの運送会社所有のもので、鉄骨を積んでイタリアからポーランドに戻る途中、ドライバーがベルリンで休憩したいたところ、19日正午ごろからドライバーとの連絡が取れなくなったとのことで、おそらく、容疑者らに乗っ取られものたとみられています。

 トラックで突っ込むテロ事件といえば、今年7月、フランスのニースで花火の見物客に大型トラックが突入し、86人が亡くなった事件が記憶に新しいところですが、この時は、事件後に過激派組織“イスラム国”ことダーイシュが犯行声明を出しています。

 今回の事件については、現時点では背後関係が明らかになっておらず、ベルリン警察は周辺の住民に対し家に留まり、噂を広めないよう呼びかけてはいるものの、一部報道では、逮捕された容疑者はアフガニスタン人もしくはパキスタン人とみられているとされており、ただでさえ、メルケル首相の難民危機対応への不満がくすぶっているなかで、ドイツ政府はさらに難しい対応を迫られることになりそうです。


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 小さな世界のお菓子たち:ブルーンケーアの切手
2016-12-19 Mon 09:15
 大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第34号(2016年冬号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      デンマーク・クリスマス(2015)

 これは、2015年にデンマークが発行したクリスマス切手のシートで、クリスマス向けにアイシングされたブルーンケーア3種が取り上げられています。主役のクッキーに加えて、上下に書かれた北欧雑貨風の文字が、何とも言えない味わいを醸し出しています。

 欧米のキリスト教文化圏でクリスマスの風物詩となっているジンジャー・クッキーは、14世紀頃、現在のベルギーとドイツの国境付近で作られるようになったレープクーヘンがルーツと考えられていますが、レープクーヘンはヨーロッパ全体へ広まっていく過程で、地域ごとにさまざまなヴァリエーションが生じました。

 その中でも、デンマークのブルーンケーアは、必ずしもショウガを使わず、他の欧米諸国にはない、独特の材料が使われているのが特徴です。

 まず、一般的なジンジャー・クッキーでは通常の砂糖が使われていますが、ブルーンケーアでは、砂糖の代わりにブルーン・ファリンを使います。ブルーン・ファリンは、粗糖と呼ばれる茶色い砂糖にシロップを混ぜた甘味料で、デンマークではクッキーやケーキだけでなく、肉料理や魚料理にも使われています。

 このブルーン・ファリンとバター、さらにシロップを加えて温めたものに、クローブ、オールスパイス、シナモンの3種のスパイス、小麦粉と“ポタスケ”の溶液、アーモンドとオレンジの皮を加えてザックリと混ぜて生地を作ります。この生地を棒状にまとめてしばらく寝かせた後で、薄くスライスし、オーブンで5-6分焼くというのが、ブルーンケーアの基本的なレシピです。

 ポタスケというのは食用に加工した炭酸カリウムの粉末です。日本では、炭酸カリウムは中華麺のかん水として使われるのが一般的です。ブルーンケーアでは、これを重曹やベーキングパウダーの代わりに使うことで、一般的なクッキーに比べてかなりの薄焼きであるにも関わらず、焼き上がりがパリパリとしすぎず、クリスピーでありながら、しっとりとした食感を保つことができるのです。

 今回ご紹介の切手では、クリスマス向けにアイシングされた男の子と女の子、そしてハート形のブルーンケーアを取り上げた3種セットで発行されました。なお、切手に記されている“BAGVÆRK”は、直訳すると“ペストリー”の意味です。

 3種の切手を収めたシートには4隅に割られたブルーンケーアが描かれています。シートの下部にある“HYGGESTUNDER”の語はデンマーク語で“居心地の良い時間”の意味ですが、クリスマス・ツリーを見ながら、ブルーンケーアを一口サイズに割って口に運ぶ瞬間の気持ちを言い表す表現としてピッタリといえましょう。


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 国連加盟記念日
2016-12-18 Sun 12:05
 きょう(18日)は、1956年12月18日に日本の国際連合加盟案が全会一致で可決され、国連加盟が承認されたことにちなみ、“国連加盟記念日”です。ことしは加盟60周年ということで、明日(19日)午後には、国連大学のウ・タント国際会議場において、外務省及び日本国際連合協会の主催により、皇太子殿下の御臨席の下、記念行事も行われるとのことなので、きょうは、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      国連・日本の平和の鐘(1970)

 これは、1970年に国連(ニューヨーク)の発行した“日本の平和の鐘”の切手です。“日本の平和の鐘”は、日本が国連に加盟する以前の1954年、元愛媛県宇和島市市長の中川千代治氏の尽力によって寄贈されました。

 中川は、1905年、愛媛県八幡浜市向灘生まれ。第2次世界大戦に応召し、ビルマ戦線での激戦の中、意識を失い、気が付くと鐘楼の中で一人生き残るという体験をしました。この経験から、1950年2月、自らの菩提寺であった宇和島市の泰平寺の吊り鐘が戦時中に供出され球間になっていたことに気づき、自分が戦場に携えた軍刀と世界26国のコインを溶かして平和を祈り、「世界絶対平和万歳の鐘」を奉納しました。

 この実績をもとに、翌1951年、パリで開催された第6回国連総会に日本国連協会代表でオブザーバーとして実費参加した中川は、「世界の平和を願う人々からコインを貰い、その平和への祈りを一つにした鐘を国連に寄贈し、 その鐘を世界の平和のために鳴らして欲しい」と訴え、泰平寺の鐘の音をテープで流します。これを受けて、 1952年、国連社会経済理事会は、「世界絶対平和万歳の鐘」を人類希求の声として、ニューヨークの国連本部が完成した際にはその記念に受理することを決定。非加盟国・日本の一国民の申請を国連が受理したことは、当時としては画期的なことでした。

 その後、中川は総会参加国65国の代表者から各国の硬貨の寄贈を受けたほか、ヴァティカンではローマ法皇ピウス12世に拝謁し、キリスト及びマリア像の金貨を拝領。さらに、ベルリンでは自動小銃を構えたソ連兵に「平和の鐘」の趣旨を訴え、カペイカ貨幣を貰うなどの活動をして、帰国します。

 その後、中川の元には集まった古銭、30貫の硬貨、日本刀、弾丸、銅章、各宗派のバッジ、神社の銅板等を材料として、高松市の多田鋳造所、第14代多田丈之助が鐘を鋳造、宇和島市津島町須下の宮大工、大下林平が鐘楼を建設。1953年5月、宇和島市の城南中学校校庭で、市長、教育長出席のもと宇和島市の小中学生1500人が参加して、出来上がった鐘の除幕式が行われました。

. 完成した鐘は、同年12月、日本国連協会の名のもと、横浜港よりニューヨーク国連本部に向け出発。その際、広島で被爆された禅宗住職と、長崎のキリスト教徒の女子学生から、鐘楼の礎石の下に埋めて欲しいと届けられた被爆地の土も、あわせてニューヨークに送られています。

 鐘は、1954年3月、飯野海運の常島丸でニューヨークに到着。同年6月8日 澤田廉三国連大使、ベンジャミン・コーエン国連事務局次長立会いのもと、贈呈式が行われました。“日本の平和の鐘”はそれから2年半、日本の国連加盟を待ち続けることになります。

 なお、“日本の平和の鐘”の贈呈式に際して、その最大の立役者ともいうべき中川は旅費が工面できず、参加がかないませんでしたが、こうした活動実績などが市民から高く評価され、1959年には宇和島市長に当選。以後、1967-71年を除き、市長を務め、在任中の1972年2月25日、肝臓がんで亡くなりました。

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 南アの複葉機
2016-12-17 Sat 12:21
 1920年代から1930年代にかけて製造された複葉機12機がギリシャ・クレタ島から南アフリカ共和国・ステレンボッシュ(ケープタウン東方50kmの都市)までの約1万3000kmを36日間かけて縦断するレース、“ヴィンテージ・エア・ラリー”は、きのう(16日・現地時間)、終着地のステレンボッシュに参加機が到着しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      南ア・航空(1925・1d)

 これは、1925年2月26日に南アフリカ連邦(当時)が発行した南ア最初の航空切手で、郵便機として利用されていた複葉機が描かれています。今回の“ヴィンテージ・エア・ラリー”の参加機は1920-30年代の複葉機ということですから、まさに、その時代に南アの空を飛んでいた飛行機の切手ということで持ってきました。

 現在の南アの地における航空事業の歴史は、南ア連邦創設以前の1907年、英領オレンジ川植民地のブランドフォートで、民間人技師のジョン・ウェストンが自作の飛行機制作を始めたことからスタートします。ただし、ウェストンは飛行能力のあるエンジンを自作できなかったため、フランスの航空機メーカー、ヴォワザン社の協力を得て、1910年、グノーム・ロータリー・エンジンを搭載した機体を用いて、フランスでの試験飛行に成功しました。

 一方、1908年にはヴォワザン社の飛行機がケープタウンに輸入され、翌1909年12月28日には、イースト・ロンドンのケニルワース城でフランス人パイロット、M. キンメリングを招いての試験飛行も行われました。これが、南ア域内における動力飛行の最初となります。

 その後、主要都市近郊での試験飛行を経て、南ア連邦創設後の1911年12月27日、最初の航空郵便(試験飛行)が行われます。この時のルートは、ケープタウンのケニルワース競馬場からミューゼンバーグのオールダム競技場までの13km で、イヴリン・フレデリック・ドライヴァーの操縦する単葉機が7分半でエアメールを運びました。

 連邦域内で航空郵便が定期的に行われるようになったのは1919年のことで、1925年には今回ご紹介の航空切手も発行されました。ちなみに、海外向けの航空郵便の開始は1932年のことです。

 なお、今回ご紹介の切手が使われていた頃の南ア連邦、特にケープタウンとその近郊のようすについては、拙著『喜望峰』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 サンバ100年
2016-12-16 Fri 12:25
 1916年12月16日、音楽としてのサンバの最初の一曲とされる「電話で(Pelo Telephone)」がブラジルで楽曲登録されてから、今日でちょうど100年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      コパカバーナ・宣伝絵葉書  

 これは、ニューヨークのナイトクラブ、“コパカバーナ”が1950年代末に制作した宣伝絵葉書で、1930-40年代に“ブラジルの爆弾”、“サンバの女王”と呼ばれたカルメン・ミランダをイメージしたフルーツ・ハットの女性の顔が大きく描かれています。

 ニューヨークのコパカバーナは、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸にちなんで名づけられたナイトクラブで、バリー・マニロウの往年のヒット曲『コパカバーナ』は、ここを舞台にした悲恋の歌です。ちなみに、現在、“デヴィ夫人”として芸能活動を行っている根本七保子が働いていた赤坂のクラブ、コパカバーナは、ニューヨークのクラブを真似て作られたものです。ちなみに、ついでですので、今回ご紹介の葉書のイラストの元ネタともいうべき、実際のカルメンの写真を下に貼っておきます。

      カルメン・ミランダ絵葉書

 さて、サンバの原型となった舞踏と音楽は、19世紀初までにアフリカ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーアに持ち込まれました。その後、1888年の奴隷制の完全廃止を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めて、当時のブラジルの首都だったリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれることになります。

 19世紀末以降、リオに流入した黒人たちは、プラッサ・オンゼ(第11広場)と呼ばれる地域を中心に集住。この地域では、“チア”と呼ばれる年配女性の家がアフリカ系の土着信仰の礼拝所にして、ダンスや音楽などの社交場となっていましたが、なかでも、“チア・シアータ”と呼ばれていたイラーリア・バチスタ・ヂ・アルメイダの家には、腕の良いミュージシャンたちが数多く集まっていました。

 当時、彼らが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみで演奏する2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパ伝来のポルカやマズルカの要素が入り込む。「電話で」とサンバは、こうしたチア・シアータでのセッションから生まれた1曲でした。

 さらに、1920年代以降、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置き、ゆったりとしたリズムで男女がペアで踊る“サンバ・カンサォン”が誕生。このサンバ・カンサォンの女王として君臨したのがカルメン・ミランダです。

 カルメンは1909年、ポルトガル北部のマルコ・デ・カナヴェセスで生まれ、翌1910年、リオに渡りました。生まれた時の名は、マリア・ド・カルモ・ミランダ・ダ・クーニャでしたが、オペラ好きの父は、ビゼーのカルメンにちなんで、彼女をカルメンと呼び、それが、後に彼女の通り名になります。

 カルメンは、幼いころから歌と踊りの才能を発揮。10代からラジオ番組のオーディションを受け、パーティーやイベントで歌っているうちに、作曲家のジョズエ・デ・バロスに見出され、1929年、最初のレコーディングを行いました。

 さらに、1933年、ラジオ・メイリング・ベイガと2年契約を結び、サンバ・カンサォンの歌手としてデビュー。さらに、翌1935年には「アロー・アロー・ブラジル」「エストゥダンテス」などの映画にも出演し、女優としても注目されます。1939年の映画『バナナ・ダ・テラ』で彼女が歌った「O Que E Que A Baiana Tem?(バイーア女には何がある?)」は、現在なお、ブラジル音楽のスタンダードとして有名です。

 カルメンの人気に目を付けた米ブロードウェイの劇場主、リー・シューバートは、1939年6月、英語がほとんど話せなかった彼女をニューヨークに呼び寄せました。翌1940年、彼女は『遥かなるアルゼンチン』に出演して成功しましたが、ブラジルでは「米国人の偏見を強調し、ステレオタイプにはめこんで売り出している」として彼女への反感も強く、1940年7月、彼女がリオで行った凱旋公演には容赦のない罵声が浴びせられました。ショックを受けた彼女は楽屋で号泣し、以後14年間、帰国しなかったほどです。

 その一方、米国での彼女の人気はますます高まり、1943年、果物を盛った“フルーツ・ハット”をかぶって出演した映画「ザ・ギャングス・オール・ヒア」で、ハリウッドでの人気は頂点に達する。ギャラも高騰し、年収は20万ドル(現在の貨幣価値で200万ドル以上と推定)にまで跳ね上がります。“フルーツ・ハット”のインパクトは絶大で、その後も、多くのデザイナーが彼女にインスパイアされたフルーツ・ジュエリーを制作するようになりました。今回ご紹介の宣伝絵葉書にも、カルメンを意識したと思しきフルーツ・ハットの女性の顔が描かれていますが、当時の米国人にとっては、“コパカバーナの女神”といえば、やはり、カルメン以外にはありえないということだったのでしょう。

 第二次大戦後は1950年に発表した「ウェディング・サンバ」が全米23位のヒットとなります。この頃になると、ブラジル社会も彼女の米国での成功を素直に祝福するようになっており、1953年10月、彼女が過労で倒れた後、休養のためにブラジルに帰国した際には、人々は温かく彼女を迎え、彼女も1955年4月までブラジルに留まりました。

 しかし、ブラジルから米国に戻った直後の1955年8月5日、カルメンはロサンゼルスでの番組の収録後、ビバリーヒルズの自宅で、急性心臓発作で亡くなりました。享年46歳。彼女の遺体はリオデジャネイロへ戻り、6万人がリオ市役所での彼女の追悼儀式に参加。50万人以上のブラジル国民に見送られて、リオデジャネイロのサン・ジョアン・バティスタ墓地に埋葬されました。

 なお、カルメンのエピソードを含むサンバの歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 カジノ法案成立
2016-12-15 Thu 09:09
 カジノを含む統合型リゾート(IR)を解禁する法案(IR推進法案、通称カジノ法案)が、けさ(15日)未明、前日の参院本会議に続き、衆院本会議で可決され、成立しました。というわけで、カジノといえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

      マカオ・カジノ(ルーレット)

 これは、1987年にマカオで発行された“カジノ”の切手のうち、ルーレットを取り上げた1枚です。

 マカオのカジノは、1860年頃、十月初五街の康公廟前の露店で開帳されていた賭場を管理するため、マカオ政府が賭場開帳の権利を特定の組織に独占的に与えるようになったのが起源とされています。

 マカオ政庁は競争入札によって賭博場の権利を特定の業者に独占的に販売し、賭博場の経営者から莫大な税を徴収し、財政基盤としていましたが、1937年から61年までの24年間、当時のマカオにおける最高級ホテル、セントラルの賭博場開設の権利を独占していたのは、高可寧と傅老榕が共同で経営する泰興娛樂總公司(泰興公司)でした。同公司がマカオ政庁に毎年収めていた賭博税の金額の180万パタカは、当時の税収全体の40%を超えていたといわれています。

 これに対して、1960年、長年にわたって泰興公司の経営を取り仕切ってきた傅老榕が亡くなると、1961年、葉漢、葉徳利、何鴻燊、霍英東の4人は、マカオのカジノ経営権独占を実現すべく、澳門旅游娯樂有限公司(以下、娯楽公司)を設立。ポルトガル人の妻を持つ何はポルトガルに渡り、植民地を監督・経営する海外省などをまわって泰興公司とマカオ政府の癒着を告発するとともに、次期マカオ総督(任期は1962年4月から)に内定していたロペスとも面会し、カジノの収益をマカオのために使い、大戦後、香港の復興とともに経済が停滞していたマカオを再建してほしいと訴えました。

 はたして、1961年10月に行われた入札では娯楽公司が年316万7000パタカでカジノの経営権を獲得。政府はこの金額の10%をマカオの慈善事業に使い、残りの使途は娯楽公司との協議のうえで決めるということになります。このとき、娯楽公司はマカオ政府に対して、①カジノを世界的な水準のものとする、②一流のホテルを3件建てる、③新しい船着場を得建設する、④マカオ=香港間に水中翼船を就航させる、⑤港湾を含めマカオの交通事情を改善する、⑥毎年、港の底の100立方メートルの土砂を浚渫する、ことなどを約束しました。

 1962年、娯楽公司はまず、新花園に最初のカジノを開業した後、各地に小規模なカジノを次々に開業し、年末には内港の16号埠頭に“澳門皇宮”と名付けた大型カジノ船を係留しました。

 これに対して、何ら新興勢力の台頭を喜ばない有力者たちは何に対して脅迫状を送り付けたほか、マカオ船籍の船の香港との往来を妨害するなどの抵抗を試みましたが、何は脅迫状の内容を公開して世論の同情を集めるとともに、香港籍の船を確保。さらに、自分に対する暗殺指令が出ていることを察知すると、24時間以内に自分を狙っている暗殺者を発見した者には100万パタカの報酬を支払うとの新聞広告を大々的にうち、旧勢力を追い詰めていきました。

 さらに、それまでのマカオ経済の中心は内港エリアにありましたが、何は外港に新たなフェリーターミナルを建設。1975年には香港=マカオ間のフェリーの定期運行化を実現し、香港からの日帰りカジノ旅行を可能としました。また、場内で俳優や歌手を招いてショウを行うなど、ラスベガスに倣った最新式のカジノを備えたホテル、リスボアなどを外港エリアに相次いで建設し、外港との間に無料のシャトルバスを運行させるとともに、カジノ税の使途は娯楽公司と政府の協議によって決めるという条項を利用して、公共工事・公共事業の支出は外港エリアに集中させ、内港エリアへはほとんど支出しないようにすることで、内港地域を拠点としていた旧勢力を徹底的に干し上げました。

 かくして、マカオの繁華街は急速に外港寄りのエリアへとシフトし、セントラルを中心とする内港エリアは急速に衰退。新たなカジノが集中する外港エリアが繁栄するようになりました。

 なお、このあたりの事情については、拙著『マカオ紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 切手歳時記:あらまき
2016-12-14 Wed 10:36
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2016年12月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      高橋由一・鮭

 これは、1980年2月22日に発行された近代美術シリーズ第5集のうち、高橋由一の「鮭」を取り上げた1枚です。

 僕が子供の頃は、年末になると、誰かしら新巻鮭を送ってくれる人がありました。

 もともと“あらまき”というのは、塩漬けの魚を藁や竹の皮などで包んだものを指す言葉で“苞苴”と書き、塩漬けにする魚も鮭とは限らなかったようです。長野県の佐久地方で現在でも“新巻鯉”が作られているのは、その名残だと考えられています。

 江戸時代には“あらまき”には“荒巻”の字を当てるのが一般的でしたが、その語源は、①荒縄で巻いたから、②荒く巻いたから、③藁で巻いた“藁巻”に由来する、④塩を粗くまい“粗蒔き”に由来する、などの諸説があります。また、年末年始の贈答品に荒巻鮭を送る風習が広まったのも江戸時代後半のことだといわれています。

 その後、明治も中頃になると、鮭の収穫時期からほどなくして、年末に荒巻をやり取りすることから、新しく収穫された鮭、新物の鮭の意味で、現在のように“新巻”の文字があてられるようになりました。ただし、今回ご紹介の切手に取り上げられた「鮭」は、1875-77年頃の作品ですから、この鮭に充てる漢字は“荒巻”だったと思われます。

 作者の高橋由一は、文政11年2月5日(1828年3月20日)、下野国佐野藩士の長男として江戸大手門前の藩邸で生まれました。

 12-13歳の頃から狩野洞庭らに日本画を学びましたが、西洋の写実的な版画に感激して洋画を志し、1862年、蕃所調所(幕府直轄の洋学研究機関)の画学局に入り、川上冬崖の指導を受けます。さらに、1866年以降、英字紙の特派員として横浜に在住していたワーグマンに実技を学び、1876年には工部大学校(現東京大学工学部)付属の工部美術学校教授として来日したイタリア人画家A.フォンタネージの指導を受け、西洋の写実主義を自家薬籠中のものとしました。また、1873年、日本橋浜町に画塾、“天絵楼(のち天絵舎、天絵学舎)”を開設し、油絵の普及と弟子の育成に努めました。

 由一の自宅兼画塾があった日本橋浜町から、当時の魚河岸があった本船町から本小田原町一帯(現在の日本橋本町一丁目から日本橋室町一丁目付近)までは目と鼻の距離です。江戸時代の浜町には大名屋敷や蔵屋敷が立ち並んでいましたが、明治維新後は、地の利を活かして、大名屋敷の跡地を利用して多くの料亭や飲食店が開業しました。

 由一は、油絵に対する世間の理解を得るため、日本人にとって身近な題材を積極的に取り上げましたが、彼が特に鮭を選んだ背景には、そうした土地柄もあったのでしょう。

 さて、由一が描いた鮭は、鼻の曲がり具合から、荒巻の定番、シロサケだとわかります。口から鰓に縄を通した鮭を上から吊るしているので、身の重みで尾の方に皺が寄っており、、鮭は半身の腹部が切り取られた状態になっています。

 僕の記憶では、わが家に届いた新巻は祖母や母がすぐに3枚におろし、塩抜きしてから冷蔵庫にしまっていましたが、由一の家では軒に吊るしたまま、その日に食べる分だけを切りだしていたようですな。西洋の生ハムやサラミと同じような消費の仕方ですが、それだと、尾の身を食べる頃にはかなり塩が回っていたはずで、その部分はお茶漬けにでもしないと辛くて食べられたものではなかったと思います。

 新巻が届いて数日後、忘年会でしたたかに酔っぱらった由一が帰宅し、鮭の尾の身を少し削って、火鉢であぶり、ご飯に載せてお茶をかけてすすっている…忘年会の季節になると、連日連夜、酔眼朦朧で帰宅するわが身に引き付けて、そんな後日談の風景も想像してみたくなる1枚です。


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 ヴェネズエラが国境封鎖
2016-12-13 Tue 15:36
 南米ヴェネズエラのマドゥロ大統領は、12日(現地時間。以下同)、13日に予定されている新紙幣の導入を前に、隣国コロンビアとの国境を72時間の間封鎖すると発表しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェネズエラ・航空(1930年)

 これは、1930年にヴェネズエラで発行された航空切手で、同国の地図が隣国との国境を含めてしっかり描かれています。

 現在のヴェネズエラ国家の領域は、スペイン統治時代の1777年に成立したヴェネズエラ総督領がベースになっています。その後、シモン・ボリヴァルの指導の下で1821年にスペインからの独立を達成し、一時期、現在のコロンビアパナマエクアドルとともに“大コロンビア”を形成しましたが、1830年に分離して独立国になりました。

 ちなみに、1830年の分離独立時、ヴェネズエラは東部国境に関しては、エキセボ川までのグアヤナ・エセキバの領有権を主張して英領ギアナと対立。その後、いったんはグアヤナ・エセキバの地を両国の中立地帯とすることで妥協が成立したものの、19世紀後半に金鉱が発見されたことで対立が再燃したため、1899年、米英露三国の調停により、係争地の大半は英領ギアナに属するものとされ、ヴェネズエラもこれを受け入れましたが、1966年にガイアナが英国から独立すると、ヴェネズエラは再びグアヤナ・エセキバの領有権を主張。現在にいたるまで対立が続いています。

 さて、ヴェネズエラとコロンビアの国境地帯は、1999-2013年のチェヴェス政権時代、しばしば緊張状態になっていました。
 
 すなわち、反米・社会主義路線を鮮明にしていたチャヴェス政権に対して、ヴェネズエラ国内の既存のエスタブリッシュメントは強く反発し、2002年にはCIAが関与するクーデター未遂事件も発生しました。

 米国をはじめとする西側諸国は武器禁輸措置によって、反米に舵を切ったチャヴェス政権を封じ込めようとしましたが、かえって、その穴を埋めるように、ロシア製を中心に、中国製、スウェーデン製の兵器がヴェネズエラへ大量に流入。具体的には、2006年のプーチン=チャヴェス会談の結果、ヴェネズエラはロシアのスホーイ30多用途戦闘機24機の購入契約を結び、陸軍の制式自動小銃をベルギーのFN FALからロシアのAK-103に変更。この結果、スホーイ戦闘機24機とヘリコプター53機も含め、2005-06年の間に両国間で交わされた兵器の売買契約は総額およそ30億ドルにものぼりました。

 ヴェネズエラが急激に軍備を増強させれば、当然のことながら、近隣諸国との軍事バランスは崩れ、地域の不安定化につながります。

 はたして、2008年、隣接する親米国家のコロンビアが国内の反政府左翼ゲリラ“コロンビア革命軍”討伐のため、エクアドルに対して越境攻撃を行い、両国関係が緊張すると、チャヴェス政権はコロンビアを非難し、コロンビア国境に軍を集結させ、“アンデス危機”と呼ばれる一触即発の状況が到来しました。

 このときは、米州機構の仲介により、コロンビアが謝罪することで事態は一応収拾されましたが、ヴェネズエラはロシア大統領のドミトリー・メドヴェージェフ(当時)をカラカスに招き、ロシアとの合同軍事演習を行い、コロンビアの背後にいる米国を牽制しています。

 また、2009年7月、コロンビアはコロンビア革命軍に対してヴェネズエラ政府がスウェーデン製の対戦車砲を転売したと公に指摘。これに対して、チャヴェスは即座に否定し、報復措置として、コロンビアとの外交関係凍結を発表しました。

 さらに、コロンビア革命軍は麻薬カルテルとも深いつながりがあるとされていますが、コロンビア政府は、2009年8月、麻薬組織対策のために駐留米軍の増強を計画していることを発表。その背景にはヴェネズエラを牽制する意図があるのは明白でしたから、チャヴェスはこれをヴェネズエラに対する“敵対行為”であるとして激昂。ロシア製の戦車を多数調達すると発表して対抗しています。

 実際に、同年8月14日、米・コロンビアの軍事同盟が発効すると、チャヴェスはこれに対して“宣戦布告”と猛反発し、コロンビアとの断交も辞さないとの姿勢を明らかにします。このとき、チャヴェスは、「コロンビアと米国はヴェネズエラ攻撃をたくらんでおり、両国政府が一緒になって世界を欺こうとしている」と主張しました。

 このように、反米左派の姿勢を鮮明にしていたチャヴェス政権でしたが、結果的に、財界との対立は経済の低迷を招いたほか、深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化を抜本的に解決することができないまま、2013年、チャヴェス本人は癌のためにより死亡。後継のニコラス・マドゥロ政権も、有効な打開策を講じることができず、ヴェネズエラ国内ではインフレが昂進し、深刻な経済危機が続いていました。

 急激にインフレが進む中、ヴェネズエラの原稿最高額紙幣の100ボリヴァルは、公定レートでも米ドル換算で15セント、市中の実勢交換レートでは2セントにしかならなくなったため、マドゥロ政権は、11日、72時間以内に現行の100ボリヴァル紙幣を撤廃して硬貨に入れ替えるとともに、500-2万ボリヴァルの新紙幣を発行すると発表。このため、100ボリヴァル紙幣が廃止される前に米ドルなどに交換すべく、ヴェネズエラ市民が国境を越えてコロンビアに殺到するという状況となっていました。

 今回の国境封鎖に関して、マドゥロ大統領は「マフィアがヴェネズエラの通貨をコロンビアに移動させている」と述べ、国境封鎖は「我が国の通貨を攻撃する犯罪への対抗措置」と主張しています。もっとも、仮に一部でマフィアが暗躍していたとしても、そもそも、突如、現行の最高額紙幣を撤廃しなければならない状況に追い込まれたということは、そのこと自体、現政権の経済失政が原因だったわけで、そのあたりの問題が根本的に解決されない限り、混乱はまだまだ続きそうです。


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 コプトの大聖堂で爆弾テロ
2016-12-12 Mon 11:21
 カイロ中心部、アッバセイヤにあるコプトの総本山、聖マルコ大聖堂に隣接する教会で、きのう(11日)、爆弾テロが発生し、国営テレビによると、25人が死亡、49人が負傷しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・コプト(1967)

 これは、1967年にエジプトが発行した“文化遺産”の切手のうち、コプト博物館所蔵のコプト教会の後陣壁画が取り上げられています。

 コプトは、もともとはアラブ化される以前の古代エジプト王国の流れを汲むエジプト先住民のことですが、次第に、キリスト教の一派と結びついた概念となりました。

 すなわち、伝承によれば、西暦42年頃、マルコがアレクサンドリアにキリスト教会(アレクサンドリア教会)を建立したのがエジプトにおけるキリスト教の始まりとされています。

 451年のカルケドン公会議の後、キリスト教会は、「キリストは神性と人性という二つの本性を持つ」とするカルケドン派(両性説。現在のキリスト教多数派)を正統とし、「受肉によってキリストの人性は神性に融合されて一つの性=神性となった」とする単性論派を異端として排除しました。この時点では、エジプト先住民という意味でのコプトは双方の教会に属していましたが、もともと、エジプトでは単性論派が有力だったことに加え、641-42年にムスリムがエジプトを征服すると、東方正教会系のコプトはエジプトから逃れていきました。この結果、コプトは、エジプトの単性論派キリスト教会(ただし、彼ら自身は単性論派と呼ばれることを忌避しています)の信徒を指す言葉として使われるようになり、現在に至っています。

 現在、エジプトにおけるコプトの割合は人口(約8000万人)の5%程度というのが公式の数字ですが、実際には、1割程度いると推定されており、その中には、国連の事務総長を務めたブトロス・ブトロス=ガーリ―を始め、有力者も少なくありません。また、現行のエジプト憲法は“信教の自由”を保障しており、制度上、ムスリムとコプトの間で差別は無いことになっており、2007年には「ムスリムは自由に改宗することができる」とするファトワー(宗教令)も出されています。

 ただし、実際には、コプトはエジプト国内においては圧倒的な少数派であり、ムスリムからコプトへの改宗は現実の問題としてほぼ不可能です。また、迫害や差別の対象となることも多く、2011年1月1日にはアレクサンドリアのコプト教会前でイスラム過激派によるテロ事件が発生したほか、最近では、イスラム過激派組織、イスラム国ことダーイシュに忠誠を誓う過激派組織、シナイ州が、エジプト政府に協力しているとして、これまでにもキリスト教徒などを標的にしており、各地で宗派間抗争の犠牲になる例が増えています。

 今回のテロ事件に関して、この記事を書いている時点では、犯行声明の類は出されていませんが、エジプトでは9日にもカイロ近郊ギーザの検問所近くでテロとみられる爆発があり、警察官6人が殉職。このため、シシ大統領は事件後すぐに声明を出し、「この憎むべきテロに関わった者が誰であれ、法の裁きにかける」として、テロ事件だと断定したうえで徹底した捜査を行うことを強調しています。

 いずれにせよ、今回の事件で犠牲になった方々の御冥福と負傷された方々の一日も早い御快癒をお祈りするとともに、一日も早い犯人の逮捕を願うばかりです。
 

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 “王冠を賭けた恋”から80年
2016-12-11 Sun 22:02
 1936年12月11日に英国王エドワード8世が、ウォリス・シンプソンとの“王冠を賭けた恋”によりわずか325日で退位してから、今日でちょうど80年です。というわけで、エドワード8世がらみのマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      KEVIII 香港からシンガポール転送

 これは、1937年2月24日、英国スコットランドのアナンからエドワード8世の切手6ペンス分を貼り、香港宛に差し出されたものの、シンガポール宛に転送されたカバーです。

 エドワード8世の肖像が入った普通切手の発行が開始されたのは1936年9月1日のことで、彼の退位までの期間はわずか3カ月しかありませんので、在位期間中の使用例で気の利いたものを探そうとするとかなり苦労します。今回ご紹介のカバーも退位後のものではあるのですが、後継国王として即位したジョージ6世の肖像入り普通切手の発行は1937年5月10日以降のことですので、それ以前の使用例ということで、まぁ、許容範囲といえましょうか。

 さて、今回のカバーの当初の宛先となった香港に関しては、エドワード8世にちなむ“プリンス・エドワード・ロード(太子道)”があります。

 1902年に締結された日英同盟は、当初、帝政ロシアを仮想敵国としてスタートしましたが、その後、日露戦争での日本の勝利に伴い、主要な仮想敵国はドイツへと変化します。さらに、第一次大戦を通じて、帝政ロシアは革命によって崩壊し、ドイツも敗北しましたが、日本としては、第一次大戦後も同盟関係を維持しようと考えていました。そして、そのための地ならしとして、英王室と友誼を通じ、日英両国の絆を内外にアピールすることで、英国内で日英同盟存続の世論を喚起するため、皇太子裕仁親王が訪欧します。

 裕仁親王は欧州各国、中でも英国で大歓迎を受け、日本政府も“皇室外交”によって英国の世論を味方につけたことを確信。そして、日英同盟の存続をかけて、1921年末から翌1922年にかけて、米国が召集したワシントン会議に参加しましたが、同会議では、大戦後のアジア・太平洋問題と軍備制限が議題として取り上げられ、米英日の主力艦の保有率を5・5・3とする海軍軍縮条約をはじめ、太平洋での相互不可侵を決めた米英日仏の4ヶ国条約、そして、中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を定めた9ヶ国条約(米英日仏伊中蘭白葡)が締結されました。この結果、日本は大戦中に獲得した山東半島の権益を放棄させられ、肝心の日英同盟も、4ヶ国条約の締結により意義を失ったとして破棄されてしまいます。

 もっとも、米英は日本にこれら諸条約を呑ませるため、英国は東経110度以東、すなわち、シンガポール以東の要塞を強化しないことを約束しています。当然のことながら、英国の中国艦隊は削減され、香港の軍事的価値も減少します。

 さて、9ヵ国条約が掲げていた中国の主権尊重という大義名分は、それなりに実現され、英国は威海衛の返還に同意しました。しかし、同時に英国は中国がパリ講和会議ならびにワシントン会議で一貫して要望していた香港・新界の返還については拒絶。その後も、中国は不平等条約撤廃と新界の返還を主張し続け、英国がそれを拒絶するという構図が続くことになります。

 一方、日英同盟が廃棄され、日英関係が微妙なものとなりつつあった1922年、日本との関係改善策の一環として、裕仁親王の英国訪問の答礼というかたちを取って、エドワード皇太子(後のエドワード8世)が日本を訪問しました。

 その途中、皇太子は香港にも立ち寄り、8人乗りの籠に乗ってのパレードを行ったほか、精力的に香港各地を訪問。九龍の旺角と界限街の間を東西に走る道はこれを記念して“太子道”と命名されました。

 当時、香港でのエドワード皇太子の一挙手一投足は、さまざまなメディアを通じて世界に発信されましたが、こうした“次期国王”のパフォーマンスによって、大英帝国は、来るべきエドワードの御世においても、香港島と九龍市街地、そして新界租借地が一体となった“英領香港”の枠組を維持するのだという意思を世界に、とりわけ、中国に対して見せつけようとしていたわけです。

 このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


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 元祖・名誉革命の切手
2016-12-10 Sat 15:30
 きのう(9日)、韓国の朴槿恵大統領の弾劾訴追案が可決されたことについて、朝鮮日報や中央日報など、韓国の主要メディアはこれを“(国民の)名誉革命”と報じているそうです。まぁ、流血を伴わずに現政権を(事実上)打倒したという意味なのでしょうが、“名誉革命”というと、僕などはこの切手の題材となっている方を思い出しますな。(画像はクリックで拡大されます)

      オランダ・名誉革命300年

 これは、1988年にオランダで発行された“名誉革命300年”の記念切手で、同革命で英国に渡ったオレンジ公ウィリアムと妻マリーの肖像が描かれています。

 1660年にイングランド王として即位したチャールズ2世は艶福家で庶子には恵まれていましたが、正室でポルトガルのブラガンザ王家出身の王妃キャサリンとの間には子がありませんでした。このため、弟でヨーク公のジェームズが有力な後継候補となりましたが、彼はカトリックであったことから、その王位継承に反対する人々はホイッグ党を組織しました。一方、ホイッグ党とは逆に、チャールズ2世の後継者としてヨーク公の即位を認める勢力はトーリー党を組織します。

 ちなみに、1680年、ロンドン市内とその近郊でウィリアム・ドクラが創業した郵便の戸別配達サービス(ドクラのペニー・ポスト)の大口スポンサーであったロバート・マレイはホイッグ党の有力な活動家で、ドクラのペニー・ポストには、王室郵便の利益を独占的に与えられていたヨーク公の“財布”に打撃を与えようという意図もあったとみられています。

 さて、ドクラのペニー・ポスは、創業当初こそ、初期投資の必要もあって赤字運営でしたが、1682年初頭には事業収支は黒字に転換しました。すると、この機会をとらえて、1682年11月、ヨーク公は政府を動かし、ドクラに対して、彼の事業は郵便憲章が定める郵便事業の政府独占に違反しているとして、事業の特許を放棄し、2000ポンドの罰金を支払うよう要求。さらに、ペニー・ポストの事業を無償で没収し、強引に国有化したうえで、翌12月、ドクラの組織をそのまま引き継ぐかたちで官営のペニー・ポストを再開しました。

 その後、ヨーク公は、1685年、チャールズ2世の崩御を受けて、イングランド国王ジェイムズ2世として即位します。

 即位当初、ジェイムズ2世には嫡子がなかったため、国教会派の拠点である議会も、ジェイムズ2世1代限りであればカトリックの王もやむなしという立場でしたが、1688年、王妃が王子を産むと状況は一変。次の国王もカトリックとなることは絶対に許容できないと考えた議会は、ホイッグ・トーリーの党派対立を超えて、ジェイムズ2世の後継者として、国王の長女メアリとその夫で新教徒のオランダ総督ウィレム(英語読みでオレンジ公ウィリアム)を国王として招聘し、ジェイムズ2世を王位から追放しました。

 これが、いわゆる名誉革命で、今回ご紹介の切手はここから起算して300年になるのを記念して発行されたものです。

 翌1689年、イングランド議会は「権利の宣言」を提出。ウィレムとメアリはこれを承認してウィリアム3世とメアリ2世として即位します。さらに議会は権利宣言を「権利の章典」として制定し、イングランドにおける立憲君主制が成立しました。

 こうした時代の変化を受けて、1690年以降、ドクラもペニー・ポストの考案者として、毎年500ポンドの年金を受け取れるようになり、名誉を回復。さらに、1697-1700年にはペニー・ポストの監査官も務めました。

 なお、このあたりの事情については、拙著『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 昨晩、アクセスカウンターが173万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 キリンが絶滅危惧種に
2016-12-09 Fri 12:53
 国際自然保護連合(IUCN、本部・スイス)は、きのう(8日)、絶滅の恐れがある動植物を記載した「レッドリスト」の最新版を発表しましたが、その中で、キリンが新たに絶滅危惧種として指定されました。農業や鉱業開発で生息する場所の環境が破壊されたり、密猟されたりして、過去30年間でキリンの個体数は4割減少したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ニヤサ(1901.キリン)

 これは、1901年、ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)のニヤサ(ニアサとも)会社領が発行した切手で、キリンを描く切手としては世界最初の1点とされています。

 現在のモザンビーク国家に相当する領域は、16世紀末のヴァスコ・ダ・ガマの航海以来、喜望峰経由でインドへ進出したポルトガルが中継地として確保したていましたが、ポルトガル人は、ながらく沿岸部に拠点を築くだけで、内陸部は放置していました。

 1822年、ポルトガルにとってドル箱の植民地だったブラジルが独立すると、ポルトガル国内では政治の混乱が続き、経済も低迷。国家財政も急速に悪化し、ポルトガルは鉄道や鉱山の利権を担保に英国から借金を重ねて行きました。

 こうした状況の中で、19世紀後半、列強諸国によるアフリカ分割の過程で、ポルトガルはモザンビークとアンゴラを横断する“バラ色地図計画”を発表したものの、1890年には英国の圧力で現在のザンビア、ジンバブエ、マラウイに相当する地域の領有を断念し、1891年の条約で“ポルトガル領東アフリカ”の領域が確定されました。これが、現在のモザンビークの領域となります。なお、同じく1891年にはポルトガルは英仏資本の勅許会社、モザンビーク会社とニアサ会社に対して、ポルトガルの植民地政庁に対して、裁判所の運営経費や宗教活動への援助を負担する代償として、司法権を除く各種の権利(警察権や徴税権、通貨発行権や郵便事業、鉄道建設、鉱山開発、農場経営などの権利)開発を与えました。

 このうち、ニアサ会社が行政権を掌握していたのは、モザンビーク北部、ドイツ領東アフリカ(現タンザニア)との国境に接するの20万平方キロの地域です。ちなみに、英国は、ポルトガルがさらなる借款を申し込んできた際には、英独でポルトガル領モザンビークを南北に分割・領有する密約を1898年にドイツと結んでいましたが、翌1899年にボーア戦争が勃発すると、英国は、ポルトガル領内における英軍の通行券と引き換えに、ポルトガル領の保全を約束したため、ニアサ会社の領域が英領に組み込まれることはありませんでした。

 さて、ニアサ会社では、1895年、域内の郵便事業を展開するため、英国製の切手(額面合計で約1億5800ヘアイス相当)を準備しました。しかし、英葡間の協定では、同社が支配地域で郵便事業を展開する場合には、ポルトガル製の切手を使用しなければならないとの条項があったため、ポルトガル側は英国製の切手の使用を認めず、これらの切手は廃棄されています。

 ニヤサ会社領としての最初の切手は、1898年、ポルトガル領モザンビーク切手に“NYASSA”と加刷して発行されました。その後、切手に関して英葡間の妥協が成立し、ポルトガル国王カルロス1世の肖像を入れるという条件で、ロバート・エッジカンブが原画を制作し、ロンドンのウォータールー&サン社で印刷した英国製の切手が、1901年から発行されました。今回ご紹介の切手はそのうちの1枚で、同時に発行された13種の切手のうち、50ヘアイス以下の低額面がキリン、75ヘアイス以上の高額面が駱駝のデザインとなっています。

 
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 無事帰国しました。
2016-12-08 Thu 16:19
      南寧展・メダル授与

 本日昼前、無事、バンコク経由で南寧から帰国いたしました。アジア切手展<CHINA 2016>の会期中、現地では、日本から参加された審査員の大原敏正さん、山田廉一さん、榎沢祐一さん、出品者の井上和幸さんをはじめ、多くの方々にお世話になりました。現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。冒頭の写真は、関係者の慰労を兼ねたエクスカーションが行われた12月4日の昼食時、焦暁光審査員長から、審査員としての参加メダルを頂戴している場面です。

 さて、今回頂戴したメダルのデザインは、以下のようなモノで、切手展会場をデザインしたロゴマークと切手展のマスコット・キャラクターが彫刻されています。

      南寧展メダル・表 南寧展メダル・裏 

 このうち、裏面に彫刻されたキャラクターは、南寧の民芸品として知られる綉球を元にデザインされたもので、今回の記念切手の1枚にも、下の画像のように、綉球とキャラクターが並べて描かれています。(右側には、キャラクターをデザインしたキーホルダーの画像も貼っておきます)

      南寧展・記念切手(玉) 南寧展・キーホルダー

 切手に取り上げられた綉球は、チワン族の間では、吉祥のシンボルとして、友愛の情を示すために贈られてきたもので、切手を通じて参加各国の友好親善を深めるという切手展の趣旨を象徴する題材として、切手やマスコット・キャラクターの題材にも取り上げられました。

 なお、来年は3-4月にオーストラリア・メルボルンでアジア切手展、8月にインドネシア・バンドンで世界切手展、10月にブラジル・ブラジリアで世界切手展が予定されています。今後とも、各切手展の際には、皆様にはいろいろとお世話になることがあるかと思われますが、よろしくお願いいたします。

 
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 <CHINA 2016>終了
2016-12-07 Wed 22:50
      南寧展会場臨時局

 早いもので、2日に始まったアジア国際切手展<CHINA 2016>は、昨日(7日)、無事に終了しました。昨晩のうちに作品のピックアップはすべて終え、本日午前中の飛行機で中国を出国し、現在、経由地のバンコクにおります。

 3日の記事でも申し上げましたが、今回は中国当局のネット規制に対応すべく、中国でもグーグルやフェイスブック、本ブログを含むFC2利用のサイトにアクセス可能になるというルーターを日本出国時に手配してきたのですが、結論から申し上げると、全く接続できませんでした。ルーターは無事に機能しており、中国当局の規制対象とならないサイトには通常通りアクセスできましたので、これならホテルの無料ワイファイで良かったのに…と思っています。

 いずれにせよ、斯様な事情で、ご報告が遅くなりましたが、コミッショナーとして、以下の通り、今回の受賞結果をご報告申し上げます。(カタログ掲載順。カッコ内は点数です)

 ・井上和幸 Japan Definitives 1883-1892 LG (96) 特別賞つき(グランプリインターナショナル候補)
 ・須谷信宏 Japan Definitives: Vocational Series LV (88) 特別賞つき
 ・有吉伸人 Napoléon non Lauré-FRANCE1852-1862 G (91) 特別賞つき
 ・小林莞爾 Swiss Definitive Stamps (1854-82) V (80)
 ・井上和幸 Postal History of NIUAFOOU and Tin Can Mail 1882-1947 LV (85)
 ・伊藤純英 Foreign Mail in Nagasaki, Japan 1875-1905  LV (85)
 (以下、文献)
 ・(公財)日本郵趣協会 『年賀郵便 ―年賀状と切手の歴史―』 LS (78)
 ・正田幸弘 『国際展物語 1965-2004』 S (72)
 ・(公財)日本郵趣協会 『ビジュアル日本切手カタログ』 1-4 V (80)

 受賞者の皆様、おめでとうございます。

 明日の午前中、無事に帰国いたしましたら、あらためてご挨拶申し上げますが、今回の切手展に日本から参加された審査員の大原敏正さん、山田廉一さん、榎沢祐一さん、出品者の井上和幸さんをはじめ、お世話になった皆様には、あらためてお礼申し上げます。

 なお、冒頭の画像は、今回の切手展に際して開催国の中国が発行した記念切手の1枚(チワン族の伝統的な錦織が取り上げられています)を封筒に貼り、会場内郵便局の12月2日(切手展の会期初日にして切手の発行日)を押したものです。会期中、現地からの記事のアップができませんでしたので、せめて、海外にいる間にと思って中継地のバンコクから記事をアップするにあたって持って着た次第です。


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 世界の国々:セントルシア
2016-12-06 Tue 10:59
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年11月30日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はセントルシアの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      セントルシア最初の切手(1ペニー)

 これは、1860年に発行されたセントルシア最初の切手のうちの1ペニー切手です。

 カリブ海のセントルシア島は、大航海時代初期にスペイン人によって“発見”されたことからヨーロッパ人の入植がはじまり、1660年、フランスが現地の先住民と結んだ条約によって植民地化され、1674年、フランスの王室植民地となりました。

 1723年以降は、基本的に、バルバドスを拠点とする英国とマルティニークを拠点とするフランスの緩衝地帯として両国の中立地帯とされ、一時的にフランスが占拠するという状況が続いていました。

 そうした中で、英仏7年戦争末期の1762年、英国はセントルシア島を占領。近隣4島とともに、現地の郵便副長官に郵便業務を行わせました。しかし、翌1763年、7年戦争が終結し、セントルシア島もフランスに返還されると、英国による郵便事業も自然消滅。その後、フランス革命とナポレオン戦争の混乱の中で、セントルシアの宗主権も英仏間をめまぐるしく移動しましたが、最終的に、1814年、セントルシアは英領となりました。

 1844年、英国はセントルシアの首府、カストリーズに最初の郵便局を設置し、1日1便、カストリーズとスフレの間の郵便を取り扱いはじめます。この時点では切手は導入されず、郵便物は手押しの印を押すことで料金が徴収済みであることを示していました。

 1858年4月1日、セントルシアから英本国宛の郵便物は料金の前納が義務づけられ、4月16日、2ヶ月分の需要を見込んで1ペニー、4ペンス、6ペンスの3種の本国切手、計50ポンド相当と、“A11”の抹消印がセントルシア宛に送られました。後に、2ペンス切手と1シリング切手も送られましたが、当時のセントルシアには文字が読み書きできるのは200人ほどしかおらず、郵便の利用はごくわずかでした。なお、現在確認されている限り、“A11”の抹消印の最初期使用例は、1858年4月28日です。

 セントルシアとしての最初の切手は1860年12月18日に発行されました。額面は1ペニー(赤。今回ご紹介の切手)、4ペンス(青)、6ペンス(緑)の3種ですが、数字の表示はなく、刷色で区別する形式になっています。中央の女王像は、サウス・オーストラリアの9ペンス切手に使われたものを流用してロンドンのパーキンス・ベーコン社が凹版印刷で製造し、1860年11月17日に英本国から発送され、現地に到着次第、発売が開始されています。

 さて、『世界の切手コレクション』11月30日号の「世界の国々」では、セントヘレナの郵便史についてまとめた長文コラムのほか、主要輸出品のバナナ、民族音楽のシャクシャクの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のセントルシアの次は、14日に発売の12月21日号でのギニアビサウの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の21日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 ドン・ペドロ2世125年
2016-12-05 Mon 17:58
 ブラジル帝国最後の皇帝、ドン・ペドロ2世が1891年12月5日に崩御してから、今日でちょうど125年です。というわけで、今日はストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ドン・ペドロ2世(1866)

 これは、1866年7月1日、ブラジルで発行された皇帝ドン・ペドロ2世の肖像を描く10ヘアイス切手です。

 ドン・ペドロ2世は、1825年、初代ブラジル皇帝ドン・ペドロ1世の長男として生まれました。

 1822年のブラジル独立に際して、ドン・ペドロ1世はポルトガルの王位継承権を放棄しないまま、初代ブラジル皇帝として即位しました。このため、1826年にポルトガル本国でジョアン6世が崩御すると、ドン・ペドロ1世はポルトガルの王位継承権を主張しましたが、本国では、保守派がドン・ペドロの継承権を無効として弟のドン・ミゲルの擁立を主張します。

 このため、両者の妥協として、ドン・ペドロ1世はブラジルを離れずにポルトガル王ペドロ4世として即位を宣言するものの、直ちに、長女マリア・ダ・グロリアに譲位し(マリア2世)、マリアとドン・ミゲル(マリアとは叔父=姪の関係)と結婚させ、ミゲルを摂政とすることで決着が図られました。

 ところが、1828年、ドン・ミゲルがこの約束を破棄してポルトガル王ミゲルとして即位を宣言したため、ポルトガルにはマリア2世とミゲルの2人の王が併存する異常事態となります。このため、1831年、ドン・ペドロ1世は1825年に生まれた長男のドン・ペドロ2世にブラジル皇帝の地位を譲位し、ポルトガルに帰国して長女マリアの王位を主張しました。ちなみに、ポルトガルの混乱は、1834年にミゲルが退位し、王位はマリア2世に統一されることで決着します。

 即位当初のドン・ペドロ2世は幼少であったので摂政がつけられましたが、1840年、14歳で親政を開始。1843年には両シチリア王国の王女テレサと結婚し、1846年には皇女イザベルが生まれました。

 さて、ドン・ペドロ2世は、国教のカトリック教会の権利を制限したり、黒人奴隷制の廃止にも尽力したりするなど、リベラルな君主でした。また、コーヒー栽培のための乱開発でリオデジャネイロの裏山が荒れ果てていたことに心を痛め、コーヒー農園を奥地に再配耕し裏山の再植林を命じています。さらに、電信・電話、鉄道の導入などの近代化に尽力し、1865-70年の三国同盟戦争を勝利に導いてブラジルの国土を拡大しました。

 ところが、教会と地主の権利・権益を制限したことで有力者の反感を買い、1889年、軍部のクーデターにより、皇帝は廃位され、ブラジルは共和制に移行しました。

 これに対して、一般国民の間では、“名君”としてのドン・ペドロ2世の現在なお人気は高鋳物があります。
 
 たとえば、1858年に開業したリオデジャネイロの鉄道中央駅は“ドン・ペドロ・セグンド(ペドロ2世)駅”と命名されましたが、この駅名は共和革命後も維持され、1925年のドン・ペドロ2世生誕100周年には、駅構内に国王の銅像(下の画像)は建立されています。

      ドン・ペドロ2世像(リオ中央駅)

 この銅像は、1943年に現在の駅舎が完成した際には、旧駅舎から移設され、現在まで構内に置かれています。また、1988年には、中央駅の駅名は、現在のセントラル・ド・ブラジル駅に改称されましたが、それから20年近くが過ぎた現在でも、中央駅のことを旧称の“ドン・ペドロ・セグンド”と呼ぶ人も多く、彼が現在なお、ブラジル国民の敬愛を集めていることがわかります。

 なお、現在のブラジルに残るドン・ペドロ2世時代の痕跡については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 岩のドームの郵便学(46)
2016-12-04 Sun 20:58
 『本のメルマガ』628号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1985年にテルアヴィヴで開催された世界切手展<Israphil '85>について取りあげ、その会期初日に発行された記念切手(下の画像。クリックで拡大されます)をご紹介しました。

            イスラエル・Israphil '85

 イスラエルでの世界切手展の開催は建国10年目にあたる1957年9月17-23日にテルアヴィヴで開催された<Tabil '57>が最初のことで、ついで、1974年3月25日から4月2日まで2回目の展覧会として<Jerusalem '73>エルサレムで行われました。1974年の開催であるにも関わらず、展覧会の名称が<Jerusalem '73>となっているのは、当初の会期予定が1973年12月19-30日だったものの、同年10月に第4次中東戦争が勃発したため、会期が延期されたという事情によるものです。

 <Israphil '85>はこれに続くイスラエル3回目の世界切手展の開催で、1985年5月14日から22日まで、テルアヴィヴで改愛されました。今回ご紹介の切手は、その会期初日に発行されたもので、エルサレム旧市街の3宗教の聖地、岩のドーム(イスラムの聖地)、嘆きの壁(ユダヤ教の聖地)、聖墳墓教会(キリスト教の聖地)を一つずつ取り上げています。

 さて、1974年の切手展はエルサレムで開催されたにもかかわらず、記念切手はエルサレムを想起させるデザインではなく、1948年に発行されたイスラエル最初の切手をデザインしたものでした。これに対して、1985年の切手展はテルアヴィヴでの開催にもかかわらず、エルサレムを象徴するデザインとなっているのが興味深いところです。

 1949年、第一次中東戦争の休戦協定により、エルサレムは東西に分断され、3宗教の聖地のある旧市街を含む東エルサレムはヨルダン領に、新市街のある西エルサレムはイスラエル領となりました。これを受けて、1950年、イスラエル議会はエルサレムを首都と宣言して、テルアヴィヴの首都機能を西エルサレムに移転します。

 その後、1967年6月の第三次中東戦争でイスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸を占領しましたが、同年11月22日の国連安保理はイスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致(中華民国、フランス、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、アルゼンチン、ブラジル、ブルガリア、カナダ、デンマーク、エチオピア、インド、日本、マリ、ナイジェリア)で可決。ただし、同決議では撤退期限は定められず、経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかったため、イスラエルは決議を無視し、占領地の支配を継続しました。

 こうした事情もあって、東エルサレムの占領を誇示するようなデザインの切手は“平和維持に反する意図をもつ切手”として、そうした切手の貼られた郵便物の逓送を拒否する国もあったほどです。

 1974年にエルサレムで開催された切手展に関しても、そうした事情を反映して、“エルサレム”を想起させるデザインの切手を発行すれば、親アラブ諸国(ソ連東欧諸国など)からの作品の出品やブース出店がキャンセルされる可能性は十分にありました。この切手展に関しては、イスラエル郵政としては、ともかくも世界各国の出品者や郵政機関、切手商を1人でも多くエルサレムに集め、イベントを無事に成功させることで、“イスラエル支配下のエルサレム”という枠組みを認知させることが最優先課題でしたから、余計な摩擦を避けるためにも、“イスラエル最初の切手”という切手収集家・郵政関係者の関心を呼びそうな題材を記念切手に採用したものと考えられます。

 その後も、現在に至るまで安保理決議242は有効であり、国際社会はエルサレムがイスラエルの首都であることを認めていませんが、1979年のイスラエル=エジプト平和条約を経て、1980年、イスラエル議会は、あらためて、東西エルサレムを統合した“統一エルサレム”はイスラエルの永遠の首都であると宣言しました。エジプトとの平和条約により国境が画定し、エルサレムの支配も追認されたというのがイスラエル側の主張です。

 しかし、これに対して同年の国連総会は、安保理決議242が有効であることを改めて確認したうえで、イスラエルによる東エルサレムの占領を非難し、エルサレムを首都としたイスラエルの決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議しています。

 1985年の切手展がテルアヴィヴで開催されたにもかかわらず、その記念切手がエルサレムを題材としたものとなっていたのも、1980年のエルサレム首都宣言後最初の世界切手展として、東エルサレムがイスラエルの支配下にあること、そして、彼ら自身はエルサレムが首都であると主張していることを、あらためて、全世界の収集家・郵政関係者にアピールする意図が込められていたものと考えるのが妥当でしょう。

 ちなみに、その後も、現在に至るまで、イスラエルはエルサレムを首都と宣言していますが、多くの国はこれを認めておらず、エルサレムに大使館・領事館を置いている国は一つもありません。先日の米国大統領選挙で当選したドナルド・トランプは、選挙期間中、親イスラエルの立場を明確にするため、イスラエル首相のベンヤミン・ネタニヤフ首相に対して「エルサレムは(東エルサレムも含め)イスラエルの不可分で永遠の首都だ」と伝えていますが、同様の“リップ・サービス”は歴代の大統領や大統領候補も繰り返しており、特に目新しいものではありません。
 

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 世界漫郵記:リオデジャネイロ⑩
2016-12-03 Sat 19:57
 『キュリオマガジン』2016年12月号が発行されました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は前回に続き、リオデジャネイロ篇の第10回目(最終回)。今回は、コパカバーナ海岸にフォーカスをあてました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      ボリヴィア・コパカバーナ

 これは、1939年7月19日にボリヴィアで発行された“コパカバーナの聖母像”を描く航空切手です。

 コパカバーナというと、現在では、リオデジャネイロのビーチを連想する人が圧倒的多数だと思いますが、もともとは“美の女神”を意味するアイマラ語(ボリビアとペルーの公用語の一つ)の“コタ・カワニャ”が転訛したもので、ティティカカ湖に面したボリヴィアの地名でした。

 ボリヴィアのコパカバーナは、かつてのインカ帝国時代、ティティカカ湖に浮かぶ“太陽の島”への巡礼の拠点で、聖地として太陽神の神殿が置かれていました。ところが、16世紀にこの地を征服したスペイン人はインカ時代の神殿を破壊し、その跡にカトリックの教会を建立。先住民の職人、ティト・ユパンキに幼いイエスを抱いて葦船に乗った聖母像を作らせました。これが、今回ご紹介の切手に取り上げられた“コパカバーナの女神”です。

 こうして、地元の先住民も、やむを得ず、この聖母像に祈るようになりますが、聖母像の霊験はあらたかで、祈りをささげた善男善女は病気が治ったとか、船が難破しても助かったなどの噂がボリヴィアの領域を越えてラテンアメリカ全域、さらにはスペイン本国にも広まり、17世紀初めにはかの地で大規模な聖堂も建立されました。

 その“コパカバーナの聖母”の霊験にあやかろうと、18世紀半ば、サコペナパンと呼ばれていたリオの岬の突端に彼女を祀る礼拝堂が建てられ、いつしか、その周辺一帯はコパカバーナと呼ばれるようになりました。

 当初の礼拝堂は、1908年、岬の突端に首都防衛のための要塞が建設された際に取り壊されてしまいましたが、要塞の敷地内には新たな礼拝スペースが設けられ、現在も下の画像のような聖母像が安置されています。

      コパカバーナの聖母像(リオ)

 ちなみに、コパカバーナ海岸の要塞と礼拝堂については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 なお、雑誌『キュリオマガジン』の連載、「郵便学者の世界漫郵記」ですが、2016年3月号からスタートしたリオデジャネイロ篇は今回で終了し、次回・2016年1月号からは新たに泰国篇がスタートします。ぜひ、ご期待ください。

  
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 <CHINA 2016>開幕
2016-12-02 Fri 11:57
 きょう(2日)から、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心で開催のアジア国際切手展(FIAP展)<CHINA 2016>がスタートしました。中国大陸でのFIAP展開催は、1996年の北京、2003年の綿陽、2011年の無錫についで、今回の南寧が4回目。本来なら、今回の切手展の記念切手をご紹介したいところですが、日本出発までに手配できませんでしたので、過去の“南寧での切手展”に関するマテリアルということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マカオ・南寧展加刷

 これは、1999年4月、同年末のマカオ返還に先立ち、南寧で開催された“中葡友好切手展”に際して、会場内のマカオ郵政ブースで販売された記念加刷の小型シートです。台切手は、1999年、己卯の年のマカオの年賀切手の小型シートで、ウサギの顎の下に金色で “ Amizade Luso-Chinesa 中葡友好/Transferência de Soberania de/MACAU 1999 澳門/回歸年/Guangxi Nanning 廣西南寧/04/1999”の文字が加刷されています。なお、小型シートの切手は目打の部分までウサギの身体が印刷されていますが、通常のシート切手は目打の内側にマージンがありますので、単片でも区別ができます。

 1984年12月19日、香港返還を決めた英中共同声明が署名されたことを受けて、マカオ問題に関する中国とポルトガルの交渉が開始されたのは1986年のことで、翌1987年4月、マカオは中国の領土であり、ポルトガルは1999年12月19日までマカオの行政管理責任を有し、中国は翌20日にマカオに対し主権を回復することを定めた中葡共同声明が署名されました。中華人民共和国の特別行政区なったマカオが、以後50年間、ポルトガル領時代の社会・経済制度が維持される建前は、香港の場合と同様です。

 なお、マカオ返還とその前後の状況については、拙著『マカオ紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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