内藤陽介 Yosuke NAITO
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 台湾・和平紀念日
2017-02-28 Tue 13:17
 きょう(28日)は、1947年2月28日の“二・二八事件”にちなんで、台湾では“和平紀念日”の祝日です。ことしは、事件から70周年の節目の年でもありますので、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      中国・228事件30周年(10分)

 これは、1977年に中国(大陸の中共政権)が発行した「台湾省人民“二・二八”蜂起30周年」の記念切手の1枚で、五星紅旗を手に持ち、北京・天安門前の「我們一定要解放台湾(我々は台湾を解放しなければならない)!」のスローガンに呼応する台湾の人々が描かれています。この切手が発行された当時、台湾は国府による戒厳令下にあり、二・二八事件はタブー視されていましたので、中共側が発行したこの切手が、事件を取り上げた切手としては最初の1枚となりました。

 さて、日本の敗戦後、台湾を接収した国府は、すでに共産党との内戦に追われていたこともあり、台湾に良質の人材を配置する余裕はありませんでした。このため、台湾に進駐してきた外省人には“十官九貪”とよばれたほど貪官汚吏が多く、復興に使われるべき工場施設や備蓄されていた米や砂糖を投機のために上海や南京に売り飛ばすことが横行。「1年の豊作で3年食べられる」といわれた台湾で、日本統治下では戦争末期にもなかったほどの深刻なコメ不足が発生したほか、日本時代の1920年代以来途絶えていたコレラが流行しています。島から逃げ出す犬(強圧的ではあったが規律のあった日本人)と入ってくる豚(無規律で腐敗・無能が蔓延する外省人)を並べ、「犬は人間を守ることはできるが、豚はただ喰って眠るだけだ」と記した風刺画が各所に貼られたのは、この時期のことです。これに対して、外相人の官吏は本省人(第2次大戦以前からの台湾居住者)の“奴隷根性”を批判。両者の溝は深まるばかりでした。

 こうした状況の下で、1947年2月27日、台北市でヤミタバコを販売していた老婆を国府官憲が発見し、暴行を加えた上、商品と所持金を没収するという事件が起こると、かねてから国府の台湾支配に不満を持っていた市民の怒りが爆発。自然発生的な暴動が台湾全土を覆うことになりました。これが、いわゆる二・二八事件です。

 これに対して、国府は大陸から第21師団を派遣して、本省人に対する大規模な弾圧を開始。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄・拷問され、約3万人が犠牲になったといわれています。

 事件後、国府は台湾支配を強化するために台湾省を設置。さらに、1949年には国共内戦に敗れて台湾に移転し、事件から40年後の1987年に戒厳令が解除されるまで恐怖政治を続けることになります。

 こうした背景の下、かつての中共は、二・二八事件を“国民党政府に対する台湾人民の英雄的抵抗”として盛んに賞賛していました。今回ご紹介の切手も、そうしたプロパガンダの一環として発行されたものです。

 しかし、1988年に発足した李登輝政権が、それまでの「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという“中華民国在台湾”を主張。以後、台湾の台湾化が進行し、台湾での二・二八事件についての歴史的評価が大きく変わると、中共側は台湾独立論を警戒し、事件を称揚しなくなりました。

 まぁ、もともと、二・二八事件は、台湾に対する外省人の理不尽な統治に原因があったわけですから、中共であれ国府であれ、台湾人を無視して「我們一定要解放台湾(我々は台湾を解放しなければならない)」と主張する人たちは、信用されるはず、ありませんけどね。
 

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 出島に130年ぶりの橋
2017-02-27 Mon 21:18
 江戸時代、海外との貿易拠点だった長崎市の出島に、当時と同じように橋を渡って往来できるよう、きょう(27日)、およそ130年ぶりに新しい橋が架けられました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      オランダ・出島(2014)

 これは、2014年にオランダで発行された“日蘭友好”の記念切手のうち、1824年に出島出入絵師の川原慶賀が描いた出島の絵が取り上げられています。

 出島は、もともと、江戸幕府がポルトガル人を管理するため、長崎の有力者に命じて作らせた扇型の島で、1636年に完成。面積は約1.5 ha で、建設費銀200貫目(約4000両)については、門・橋・塀などは幕府が出資し、それ以外は25人の有力者(出島町人)が出資しました。

 1638年、島原の乱を鎮圧した幕府がカトリック諸国との関係断絶を真剣に考えるようになると、翌1639年、オランダ商館長のフランソワ・カロンはポルトガルとの関係の断絶を幕閣に訴え、オランダがポルトガルに代わって、日本が求める輸入品を確実に提供できると主張。その後、幕府はポルトガルとの関係を断絶しても経済的に支障がないことを確認したうえで、ポルトガル人を出島から退去させます。

 この結果、出島は無人状態となったため、出島築造の際に出資した出島町人の不満を抑えるべく、1641年、それまで平戸にあったオランダ商館が出島に移され、出島にはオランダ人が居住することになりました。

 以後、長崎には毎年2隻のオランダ船がバタヴィアからバンカ海峡、台湾海峡などを経て、7 - 8月ごろ来航し、その年の11-12月に帰路につくというスケジュールが定着。船の停泊中は出島には多くのオランダ人が滞在していましたが、それ以外の期間には商館長(カピタン)以下、出島に住んでいたオランダ人は15人前後で、いずれも、許可なく出島の外に出ることは禁じられていました。また、これとは別に、100人以上の日本人も出島で働いていました。

 ちなみに、1797年、ナポレオン戦争でオランダ本国がフランスに占領されると、1809年までに米国船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行っています。また、ナポレオン戦争の影響で、オランダ本国がフランスに併合され、バタヴィアが英国の占領下に置かれていた期間は、オランダ本国から出島への連絡が途絶えたため、幕府が在留オランダ人に対して生活物資を提供。ナポレオン戦争後の1815年にネーデルランド王国が成立するまでの5年間は、出島のみが全世界で唯一オランダ国旗が翻る場所となっていました。

 1854年、マシュー・ペリーの再来航により日米和親条約が結ばれると、翌1855年、これに倣って日蘭和親条約が締結され、オランダ人の長崎市街への出入りが許可されます。これを受けて、1856年には出島開放令が発せられ、さらに1859年には、出島のオランダ商館も閉鎖され、海外貿易の窓口としての出島の機能は事実上、終了しました。

 明治維新後の出島は、中島川河口の工事によって島の北側部分が削られたことにくわえ、港湾改良工事により周辺が埋め立てられ、“島”ではなくなっていましたが、1951年以降、長崎市が復元整備を開始。1996年からは出島内の建物の復元も進められていました。

 かつて、出島唯一の出入り口だった橋は5m ほどの石橋ですが、現在、出島地区は国の史跡に指定されていることから土台工事ができないため、今回の新橋は、出島側に重さをかけずバランスをとる特殊な鉄製の橋となり、長さも38mになりました。今後、橋は床材を張り、手すりや照明を整備して、11月下旬には通行できるようになる予定だそうです。


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 圏央道、茨城区間開通
2017-02-26 Sun 21:42
 首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の茨城県内区間が、きょう(26日)、開通。これにより、圏央道は常磐道や関越道など6つの高速道路とつながり、成田空港から神奈川県の湘南まで、都心を経由せずに高速道路で結ばれました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      つくば博・40円

 これは、1985年3月16日に発行された国際科学技術博覧会(つくば博)の記念切手のうち、テーマ館とシンボルタワーを取り上げた40円切手です。きょう開通した圏央道の茨城県内区間は境古河インターチェンジICとつくば中央ICの間の28.5kmですが、このうちのつくば中央ICと接続するサイエンス大通りは、つくば博の開催期間中、常磐自動車道の谷田部ICから、万博会場を直接結ぶメインアクセス道路として機能していました。

 高度経済成長に伴い、東京の過密状態を緩和させるための具体的な措置として、1963年9月、筑波山麓(現・つくば市および牛久市)に研究学園都市を建設する計画が決定され、1967年、6省庁36機関の移転が閣議了解されます。そして、1970年5月の筑波研究学園都市建設法の施行を機に都市建設と各機関の移転が進むことになりました。

 しかし、筑波研究学園都市には新たな庁舎等が建設され、各機関が移転はしたものの、当初は都市としてのインフラ整備は未整備のままの状態が続き、人口もなかなか増加しませんでした。そこで、新たな研究学園都市のお披露目とあわせて、東京から研究学園都市へのアクセスを改善し、あわせて国際会議場、宿泊施設等を建設する契機として、1977年、国際科学技術博覧会を開催する案が科学技術庁内で浮上。これに国土庁と建設省、通産省が賛意を示したことで、1978年から具体的なプランの検討が開始されます。

 科学技術庁以外の省庁がつくば博の開催に協力的だった背景には、1984年の冬季オリンピック大会の開催地として札幌市が有力視されていながら、最終段階でサライェヴォ市が開催地に決まったことから、東京より北の地域で大型公共事業を展開する契機が別途必要となったとの事情がありました。このため、当初の計画では、つくば博は1984年の開催予定とされていました。

 その後、地元との調整を経て、1978年9月30日、茨城県議会がつくば博誘致を決議。10月5日には筑波六町村が国際科学技術博誘致委員会を設置したほか、11月には国際科学技術博覧会開催促進議員連盟が発足し、当初のプランより一年おくらせて1985年のつくば博開催を目指す動きが本格化します。

 これに対して、大蔵省は、巨額の経費が必要な博覧会の実施に否定的な立場でしたが、科学技術庁の担当課長であった福島公夫が同年11月、博覧会国際事務局(BIE)のリード議長に直接接触し、つくば博の構想を相談して好感触を得ると、科学技術庁は、自民党国会議員の後押しもあって大蔵省との折衝で国際的科学技術博覧会調査費の名目での予算獲得に成功し、翌1979年3月、土光敏夫を会長とする国際科学技術博覧会推進協議会を発足させ、つくば博開催は実現に向けて大きく前進します。

 こうして、つくば博の開催は1979年11月27日に閣議で了解事項となり、翌28日のBIE総会において日本政府としての正式開催通告がなされたのを受け、1980年9月のBIE調査団が来日。1981年4月22日の総会での正式承認により、“人間・居住・環境と科学技術”(BIEに提出された“Dwellings and Surroundings ―Science and Technology for Man at Home”を日本語訳したもの)をテーマとする国際科学博覧会の開催が決まりました。

 今回ご紹介の記念切手は、つくば博会期初日の3月17日が日曜日だったため、前日16日に発行されました。図案となったテーマ館は、日本政府出展のパビリオンで、高さ42mの透明なタワー(郵政省が発表した図案説明では“シンボルタワー”)と左右に広がる2棟のガラス張りの建物です。内部では、「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに、13×20mのスクリーンを使っての日本の四季、国土の映像上映が行われたほか、譜面を見て演奏をするロボット“WASUBOT”やトマトとジャガイモを掛け合わせた“ポマト”などの展示が注目を集めました。切手の原画作者は清水隆志です。

 ちなみに、つくば万博のメイン会場は、Dブロックの跡地に“科学万博記念公園”が作られたほかは、工業団地(筑波西部工業団地)に転用され、切手に描かれたテーマ館も取り壊されましたが、科学万博記念公園内には、42mのシンボルタワーを4分の1に縮小した高さ10mの“科学の門”が建てられています。

 なお、つくば博関連の切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 切手に見るソウルと韓国:韓国畜産史
2017-02-25 Sat 18:54
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』2016年2月10日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、忠清北道と全羅北道の農場で同時に口蹄疫が発生し、農林畜産食品部が全国規模での移動停止命令を出した直後の号でしたので、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・セマウル運動(1973)

 これは、1973年12月10日に発行されたセマウル運動(日本統治時代の農村振興運動をモデルにした韓国の地域開発運動)の宣伝切手で、“漢江の奇跡”の象徴・高速道路の脇での畜産風景が描かれています。

 朝鮮王朝時代、家畜としての牛は食用というより、農耕用もしくは荷駄用が中心で、牛肉を口にできるのはごく一部の限られた上流階級のみでした。ただし、一般庶民が牛肉を食べられるのは冠葬祭の時ぐらいしかなかったことから、逆に、牛一頭、内臓まで余すことなく食べられる調理方法が生み出されることになります。

 日本統治時代になると朝鮮の一般家庭でも肉食が徐々に普及しましたが、それが本格化するのは朝鮮戦争以降のことです。その後、朴正熙政権下での経済成長に伴い食肉需要が高まったことから、1968年、「農漁村所得増大特別事業」が始まり、農民が養蚕・畜産・商品作物などを共同で展開するための補助金の支給や低利融資が開始されます。これらは、1970年に始まるセマウル運動でもこの方針は継続されました。今回ご紹介の切手のデザインも、こうした事情を反映したものです。

 こうした畜産奨励の結果、農産物品目別生産額の構成中、1962年に6.6%しかなかった畜産は、朴正熙政権末期の1979年には17%にまで急増します。

 1980年代初頭、韓国における牛の飼養頭数は150万頭前後でしたが、オリンピック景気に牽引される形で牛肉需要がさらに増加したため、韓国政府は肉牛を海外から輸入。その結果、1985年には飼養頭数が255万頭を超えるまでに増加し、肉牛の価格も下落しました。

 その後も、韓国内の牛肉消費は拡大し、牛飼養頭数も増加しましたが、1997年の通貨危機や牛肉の輸入拡大から、国内の飼養頭数は減少に転じます。

 2001年の牛肉の輸入自由化はこうした状況の下で行われたため、国内の畜産農家に打撃を与えることが懸念されましたが、国内経済の回復もあって、肉用牛飼養頭数は、2001年以降は底を打ち、2007年の韓牛飼養頭数は、203万4000頭にまで回復。これは、韓牛のみの頭数データが入手できる2003年と比較すると、59.3%増、頭数にして75万7000頭の増加となりました。

 なお、屠蓄前の雄牛が攻撃的になるとエネルギーとグリコーゲンが大量に消費され、解体後、肉の色が悪くなって質の低下を招くため、日本では肉用牛の牛は原則として去勢されるのですが、韓国には伝統的に雄牛を去勢しないで肥育する習慣があったため、韓牛のうち去勢される比率は3分の1程度にとどまっています。これは、韓国の食習慣では、肉の柔らかさを求めるのではなく、煮込みや骨付き肉でスープを取ることが重視されたことに加え、脂肪の少ない非去勢牛も一定の需要があるため、去勢することにより肉質を良くするよりも“量”で収入を確保するという、韓国畜産農家の経営判断によるものです。


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 リオのカーニヴァル
2017-02-24 Fri 11:53
 ことし(2017年)のリオデジャネイロ(以下、リオ)のカーニヴァルのメインパレードが、きょう(24日・現地時間)から27日まで行われます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・国際観光年(カーニヴァル)

 これは、1967年11月22日、ブラジルで発行された“国際観光年”の切手で、“リオのカーニヴァル”が取り上げられています。(リオに限らず)カーニヴァルがブラジル切手の題材となったのは、これが最初でした。

 西方キリスト教会では、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる祭りが行われます。これが“謝肉祭”で、いわゆるカーニヴァルというカタカナの言葉は“carne vale(肉よさらば)”という表現に由来するものです。

 この断食の前の祝祭に、キリスト教伝来以前からのゲルマン人の春の到来を祝う祭りが融合し、街中を練り歩いたり、どんちゃん騒ぎをしたりする習慣になったと考えられています。

 この種の行事は、ポルトガル人入植者によってリオにももたらされましたが、リオのカーニヴァルの起源をどこに求めるかについては諸説があります。

 たとえば、1565年のリオデジャネイロ市の建設を記念して、1567年に人々が街を練り歩いたという記録が残されており、カーニヴァルの中心をパレードに求めるのなら、これが最古の例ともいえます。また、17世紀以降、遅くとも1723年までに、アゾレス諸島、マデイラ諸島、カーボ・ヴェルデからのポルトガル人移民が春祭りの“エントルード”を持ち込んだことをもって、リオのカーニヴァルの起源とされることも多いようです。

 エントルードというのはポルトガルの春祭りのことで、人々は仮面をつけ、通りで水や泥、柑橘類を投げ合うもので、じっさい、19世紀前半までのブラジルの街頭でのカーニヴァルは、“灰色の水曜日(カーニヴェル後の水曜日、すなわち、この日から四旬節が始まる日)”までの3日間、かつらや仮面をつけて、液体を掛け合ったり、小麦粉やタピオカ粉を投げつけあったりするのが、庶民の間では一般的なスタイルでした。

 一方、春祭りの時期のパレードとしては、1786年、前年(1785年)のポルトガル王ドン・ジョアン6世の結婚を祝って山車が作られたほか、1808年にポルトガル王家がナポレオン戦争の戦禍を逃れてブラジルに遷移してきた際に、ブラジル在住のポルトガル人たちが仮面をかぶり、派手な衣装をつけ音楽を鳴らして町中を練り歩き歓迎したことが、記録に残されています。

 こうした経緯を経て、1840年代になると、地元新聞社が主導して、かつてのローマやヴェネツィアに倣って、街の中で仮装をつけ、コンフェッテ(紙吹雪)をかけあう“カーニバル・パレード”の復活キャンペーンが始まりましたが、この時点では、カーニヴァルの音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流です。ちなみに、音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」(ギタリストのドゥンガとジャーナリストのマウロ・ヂ・アルメイダの作品)が最初の1曲とされています。「電話で」は、翌1917年の大ヒット曲となり、当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなりますが、これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。

 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの音楽はマルシャが中心で、パレードには公式には中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。

 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれていくことになります。

 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。

 さらに、1930年からは、カーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グローボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなったことで、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがり、優れた演出、楽曲が次々に誕生するという結果をもたらしました。

 こうして、ブラジルの他の地域に比べて“リオのカーニヴァル”が突出した存在になっていくと、ブラジル・ナショナリズムの高揚を目指していたヴァルガス政権の下、政治が介入し始めます。

 すなわち、1935年にはリオ市長のペドロ・エルネストが、コンテスト上位4位のエスコーラへの賞金の支給を開始。あわせて、出し物にテーマやナショナルイベントを選択させるようにしたことで、民族的なテーマを持った出し物が登場しました。

 さらに、1937年に権威主義的なエスタード・ノーヴォ体制がスタートすると、カーニヴァルのテーマにも“ブラジルらしさ”が強く求められるようになります。その際、サンバとカーニヴァルの組み合わせは、(当時の)ヨーロッパにはなかった“黒人”という要素を全面的に取り込んでいるものとして、ヨーロッパに対するブラジルの独自性や国家アイデンティティを強調するうえで格好の素材として認識されました。

 1939年のカーニヴァルで、白雪姫をテーマに参加しようとしたエスコーラが、“国際的にすぎる(=ブラジルらしくない)”との理由から、参加を却下されたのも、上記のようなヴァルガス政権のナショナリズムとサンバ・カーニヴァルの関係を端的に象徴していると言ってよいでしょう。

 もっとも、こうしてブラジルの象徴(の一つ)になっていった“リオのカーニヴァル”ですが、1945年までのエスタード・ノーヴォ体制下では、それでも卑俗にすぎるとして切手に取り上げられることはありませんでした。

 1964年、軍事クーデターによって、カステロ・ブランコ将軍を大統領とする軍事政権が誕生すると、軍事政権は、政治の腐敗を正し、国家転覆の危機を排除するとの名目で憲法を停止。政府に批判的な政治家を1万人以上、逮捕・追放する一方、親米反共の砦として米国の支援を受けることで権威主義的な開発独裁体制を維持しようとしました。

 1966年10月に布告された軍政令第2号では、大統領の間接選挙(投票は連邦議会議員と地方代表で構成される選挙人団は行う)既成政党の廃止が決定された。これを受けて、それまでの政党に代わって、旧政党は与党の国家革新同盟と野党のブラジル民主運動に再編され、大統領選挙では国家革新同盟の推すアウトゥール・ダ・コスタ・エ・シウヴァ将軍が当選。そして、コスタ・エ・シルヴァ大統領の就任直前の1967年1月、軍事政権はそれまでに布告された軍政令を取り込んだ新憲法を公布します。

 同憲法により、議会は形骸化し、大統領に戒厳令の施行や地方諸州への介入権が認められたほか、国名もそれまでのブラジル合衆国から現在のブラジル連邦共和国と改められました。

 これに対して、学生のデモや労働者の抗議集会、ストライキが頻発しただけでなく、リオデジャネイロやサンパウロでは、キューバ革命の影響を受けたカルロス・マリゲーラ率いる民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動などが軍事政権の打倒を唱えて武装闘争を展開。こうした状況の中で、あらためて、“ブラジル国民”としての団結を強調する必要に迫られた軍事政権側は、かつてのエスタード・ノーヴォ体制がナショナリズム涵養の手段としてサッカーとサンバを奨励した先例に倣い、“リオのカーニヴァル”に注目し、国際観光年の切手の題材にも取り上げたというわけです。

 さらに、切手が発行された11月22日というタイミングが、12月2日の“サンバの日”の直前であることも見逃せません。“サンバの日”には、毎年、翌年2月前後に行われるサンバ・カーニヴァルの曲集が発売され、いよいよ、リオのみならず、ブラジル全体でサンバ気分が盛り上がってくる時期です。したがって、この時期にカーニヴァルの切手を発行することは、日常的に使われる切手を通じて、そうした雰囲気をいっそう盛り上げ、国民の関心をカーニヴァルに集中させようという政府の意図もうかがえます。

 なお、リオのカーニヴァルについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも1章を設けて取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 ダッハウの門扉返還
2017-02-23 Thu 22:02
 ドイツ南部のダッハウ強制収容所跡から2014年11月に盗まれ、昨年12月、ノルウェー南西部のベルゲンで発見された“働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)”の文言の入った鉄製の門扉の返還式典が、きのう(22日)、ダッハウの収容所跡で行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ダッハウ・1939年

 これは、1939年3月22日、ダッハウ収容所の収容者がウィーン宛に差し出したカバーです。

 1933年1月30日に政権を掌握したヒトラーとナチス(国家社会主義労働者党)は、同年2月27日に起こった国会議事堂放火事件を奇禍として、翌28日、ヒンデンブルク大統領名で「民族と国家の防衛のための緊急令」を発し、警察に対して「好ましくない人物」を、期限を定めずに“保護拘禁”する権限を与えます。これにより、放火事件の犯人として逮捕したドイツ共産党員を対象として、オラニエンブルク(ベルリン中心部から北に35キロ、ハーフェル川沿の都市)にある電機会社の工場を改造して拘禁施設を設けました。これが、後に“オラニエンブルク強制収容所”と呼ばれる施設です。

 一方、これをほぼ時を同じくして、ミュンヘンの北西15キロにあるダッハウにも、1933年3月20日、第一次大戦中の火薬工場跡を利用して、Konzentrationslager、すなわち、集団生活所という名の強制収容所が設置されます。ちなみに、今回返還された門扉の“働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)”の文言は、後に、アウシュヴィッツの門扉にも同様の文言が掲げられていたことから、ナチスの強制収容所と結び付けられることが多いのですが、この文言は、もともとは、1873年に発表されたロレンツ・ディーフェンバッハの小説のタイトルで、ワイマール共和国の時代には、失業対策として公共事業を拡充する際の標語としても使われていたこともあり、ナチスが考案したものではありません。

 なお、Konzentrationslagerという施設に関して、ヒトラーは1941年に「Konzentrationslagerの発明者はドイツ人ではない。英国人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べているほか、ゲーリングはニュルンベルク裁判で「Konzentrationslagerはボーア戦争の際に英国が南アフリカに建設したconcentration campをモデルにした」と証言しており、少なくとも、彼らの意識の中では、ナチスの強制収容所は、ボーア戦争以来の先例を踏襲したものと理解されていたことがうかがえます。

 さて、ダッハウ収容所は1933年3月22日に開設され、翌23日には最初の収容者として60人の政治犯が送られてきましたが、同年5月には、収容されていた共産党の国会議員4名が殺害されたことから、初代所長のヒルマール・ヴェケルレは解任され、テオドール・アイケが着任。アイケは、同年10月1日、収容所規則を制定し、収容者を250人ずつのブロックに分けて管理する体制や収容者への罰則規定、さらに、収容者を処刑する際の基準(たとえば、収容所内での政治的扇動やデマ、破壊活動、反逆的行為、脱走、看守への暴行などが、処刑に値する“罪”とされた)等を体系化します。これが、その後の各地の強制収容所の運営の基本的なモデルとなりました。

 今回ご紹介のカバーは、第二次大戦開戦以前の1939年3月22日、ダッハウ収容所の収容者が差し出したものですが、封筒は緑色の用紙で、中央には差出人(=収容者)の氏名、生年月日、収容所内の監房番号を書くスペースがあり、左側には、収容者と郵便物をやり取りする際の注意事項が6項目にわたって列挙されています。その概要は、以下の通りです。

 1.収容者は1月に2通の手紙もしくは2枚の葉書を親族に送り、または親族から受け取ることができる。収容者宛の通信はインクでよく読めるように書かねばならず、便箋1頁につき15行まで書いてよい。便箋は通常の大きさのもののみ認められる。二重封筒の使用は認めない。12ペニヒ切手5枚のみ同封できる。それ以外のものは禁止されており、没収の対象となる。葉書は10行まで記載してよい。写真を葉書として使うことは認められない。
 2.(収容者への)送金は認められる
 3.新聞(の購読)は認められるが、収容所当局を通して注文しなければならない。
 4.収容者は収容所内で何でも買うことができるので、収容者宛に小包を送ることは認められない。
 5.収容者の釈放に関する嘆願は受け付けない。
 6.収容者への面会や収容者との会話は原則として認められない。

 また、注意書きの末尾には、これらの要件を満たさない通信は廃棄されることが明記されています。この封筒のフォーマットは、アウシュヴィッツを含め、ナチス支配下の多くの収容所で収容者に支給される郵便用の用紙類の基本形のひとつとなります。このことは、郵便の面でも、ダッハウが収容所のモデルとなっていたことをうかがわせるものといえましょう。

 なお、このあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。  

 * 本日、アクセスカウンターが176万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 竹島の日
2017-02-22 Wed 12:22
 きょう(22日)は、“竹島の日”です。というわけで、昨年同様、竹島関連の切手の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・竹島(2014)

 これは、2014年に北朝鮮が発行した竹島(彼らの呼称では独島)の地図切手で、女島(同・東島)、男島(同・西島)の2つの島を中心に、周辺の岩礁をふくめて、きっちり描かれています。

 竹島問題に関する北朝鮮側の基本的な姿勢は、韓国を朝鮮半島の正統政府と認めるか否かはともかくとして、“独島”が朝鮮民族の領土であり、日本の領有権を認めるわけにはいかないという点では、韓国と共同歩調を取っています。したがって、北朝鮮としては、“日帝三十六年間”同様、“独島”をキーワードに、韓国の親北派の歴史学者との討論会を開いたり、韓国での対日抗議行動を好意的に報道しています。切手の題材としては、2004年4月20日と2005年5月5日には、ストレートに竹島を取り上げた切手が発行されているほか、彼らの取り上げた朝鮮半島の地図には、“統一朝鮮”の領土として竹島もしっかり書き込まれています。

 さて、竹島問題の経緯を改めて整理してみると、以下の通りになります。

 朝鮮戦争の勃発後、連合諸国の対日講和条約が具体的に議論されるようになると、韓国政府は大韓民国臨時政府による対日宣戦布告を根拠として、“戦勝国”として講和条約に調印することを主張しましたが、国際社会からは全く相手にされませんでした。1945年以前の朝鮮半島は大日本帝国の正規の領土であり、大韓民国臨時政府は連合諸国から承認された存在ではなく、したがって、朝鮮人による抗日闘争はあったにせよ、韓国が国家として日本と戦った事実はないというのが国際社会の共通認識だったからです。当然のことながら、1951年9月、サンフランシスコで開催された講和会議にも、韓国が参加を許される余地は全くありませんでした。

 このため、講和条約調印後の1951年10月、あらためて日本と韓国との国交樹立に向けた予備会談がスタートしましたが、日本を反共の防波堤として育成することを企図していた米国は、韓国側の対日賠償請求を押さえ込もうとしていました。このため、新たな交渉材料を作り出す必要に迫られた李承晩政権は、1952年2月に国交正常化交渉(第1次会談)が開始される直前の1月18日、突如「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を発します。

 講和条約調印時、日本漁船の活動可能領域は、SCAPIN第1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」によって、北緯24度東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度東経180度を結ぶ線内、すなわち“マッカーサー・ライン”の内側とされていました。これに対して、李の宣言は、国防と漁業資源の保全を理由として、韓国沖合の部分について、マッカーサー・ラインよりも日本寄りに“平和線”(日本側では“李承晩ライン”と呼ばれていました)を設定。これを領海として、水域内のすべての天然資源、水産物の利用権を主張したものでした。

 日本敗戦後の1946年1月29日、GHQは「若干の外郭地域の日本からの統治上及び行政上の分離に関する総司令部覚書」(以下「外郭地域分離覚書」)を発し、“日本”の範囲を「日本の四主要島(北海道、本州、九州及び四国)と約1000の隣接諸小島を含むものと定義される」と規定しました。

 この“隣接諸小島”には対馬も含まれていましたが、1949年1月7日、韓国政府は一方的に対馬の領有を宣言し、占領下で主権が制限されている日本に対して対馬の返還を要求。しかし、この要求は連合諸国から一蹴されています。

 ついで、講和会議直前の1951年7月19日、韓国政府は講和条約草案を起草中の米国政府に対して、①日本の在朝鮮半島資産の韓国政府および米軍政庁への移管、②竹島、波浪島を韓国領とすること、③マッカーサー・ラインの継続を要求する要望書を提出。ここで②の要求の根拠となったのが、「欝陵島、竹島及び済州島」は日本の“隣接諸小島”から除外するという「外郭地域分離覚書」の規定です。

 これに対して、8月10日、米国は、国務次官補ディーン・ラスク名義で、①の日本資産の移管についてのみ認め、それ以外の韓国政府の要求を明確に拒否する旨の文書(「ラスク書簡」)で回答。9月に講和条約が調印され、翌1952年4月28日の条約発効をもってマッカーサー・ラインも廃止されることになっていました。

 さて、李承晩ラインでは、「外郭地域分離覚書」の規定を根拠に、その内側に竹島(韓国名“独島”)を含めて領有権を主張しており、これが、いわゆる竹島問題の発端となります。

 当然のことながら、1905年の「内務大臣訓令」によって竹島を島根県隠岐島庁へ編入して以来、第二次大戦の終結まで一貫して竹島を領有していた日本側は、李承晩ラインの設定に猛反発。米国も韓国政府を非難しました。

 こうしたなかで、1952年2月、日韓国交正常化交渉(第1次会談)が始まりましたが、会談では、“戦勝国”として日本に対して賠償を要求する韓国と、植民地支配は国際法上合法として、逆に、韓国内で接収された旧日本資産の補償を主張する日本との間で議論が平行線をたどり、同年4月には早くも無期延期となります。

 その間にも、李承晩ラインを侵犯したとして韓国側に拿捕される日本漁船が続出。さらに、戦後、朝鮮戦争や済州島四・三事件の混乱を逃れて日本に密入国した韓国人の送還問題もあって、韓国との交渉再開は日本側にとって緊急の課題となっていました。

 このため、1953年4月、日韓交渉(第2次会談)が再開されたものの、同年6月、韓国側が朝鮮戦争の休戦成立に備える必要から中断。さらに、同年10月の第3次会談では、日本側代表の久保田貫一郎(外務省参与)が「日本としても朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成したりした」、「当時、日本が朝鮮に行かなかったら中国かロシアが入っていたかもしれない」などと発言したことから、日韓双方による非難の応酬となり、会談は決裂し、国交正常化交渉は1958年4月まで中断されてしまいます。

 日韓両国の対立を懸念した米国大統領のアイゼンハワーは、1954年7月、韓国に対して李承晩ラインの撤回など日本への宥和を求めたのですが、これは逆効果となり、態度を硬化させた韓国側は米国との交渉をも決裂させ、翌8月には対日経済断交措置を発動してしまうといったありさまでした。

 その後も現在にいたるまで、日本政府は竹島の領有権を主張しつづけているものの、韓国による竹島の実効支配を黙認してきたのが現実です。

 竹島に限らず、領有権を巡って複数の国が争っている地域に関しては、あらゆる機会をとらえて、それが自国の領土であることを繰り返し訴え続けるというのが国際社会では常識です。その意味では、韓国が官民挙げて“独島”の領有権をアピールし、北朝鮮がそれに追従するのは、その主張の是非とは別の次元で、ある意味当然の行動でしかありません。

 むしろ、そうした彼らの主張に対して、多くの日本国民が竹島問題には無関心で(“竹島”が、今回ご紹介の切手に描かれているように、男島・女島を中心に、多くの岩礁で構成されていることをきちんと理解している日本人は、決して多くはないでしょう)、日本政府もほぼ無策のまま60年間を過ごしてきたということが、今日の事態を招いてしまったのだという現実を受け止め、真剣に反省することがまずは必要ではないでしょうか。

 なお、竹島問題と切手の関係については、拙著『朝鮮戦争』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
      

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 泰国郵便学(47)
2017-02-21 Tue 15:08
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第1号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・ムエタイ(1975年・肘打ち)

 これは、1975年5月20日に4種セットで発行されたムエタイ(ムアン・タイ)の切手のうち、肘打ちの場面を取り上げた2バーツ75サタン切手です。ムエタイが切手に取り上げられたのは、1966年12月9日、バンコクで開催された第5回アジア大会に合わせて発行された「タイの伝統競技」の切手(の1種)以来、これが2度目のことでした。

 さて、今回ご紹介の切手が発行された1975年は、ムエタイならびにタイの国際式ボクシング(我々が通常イメージするボクシング)における不世出の天才、センサク・ムアンスリンの黄金時代の幕開けにあたっており、そうした国民的英雄の登場が切手の発行にも少なからず影響を及ぼしていたと考えるのが自然なように思われます。

 センサク・ムアンスリン(本名ブンソン・マンシリ)は、1951年8月13日、ペッチャブーン県生まれ。ムエタイ選手だった兄の影響を受けてムエタイを始め(階級はジュニア・ウェルター級)、18歳でデビューした頃は初めの10試合で7敗するなど、あまり目立った選手ではありませんでしたが、その後は順調に白星を重ねて、ルンピニー・スタジアムのスーパーライト級チャンピオンとなり、68戦59勝(55KO)9敗の戦績を残しました。

 この間、ムエタイ王者として来日し、日本のキックボクサー、玉城良光(後の全日本ライト級王者)と戦い、3回KO勝ちを収めています。この時の試合で、センサクはパンチの得意な玉城を膝蹴りで一蹴。玉城はダウンしなかったものの、レフェリーが即座に試合を止めました。試合続行を望む玉城は、当初、この判定に不服でしたが、試合後、身体の異変を訴えて病院に直行。内臓破裂ですぐに緊急手術を受けています。後に、玉城は「まだやれる!と怒ったが、経験豊富なレフェリーの判断は正しかった。もう一発もらっていたら、命はなかった」と語っています。

 その後、93%という驚異的なKO率、しかも、その半分以上がパンチによるものであったことから、センサクは周囲の強い勧めを受けて国際式ボクシングに転向。まずはアマテュアとして1973年9月、シンガポールで開催された東南アジア競技大会では5試合すべてでRSC(レフェリー・ストップ・コンテスト。プロボクシングのTKOに相当)勝ちを収めて金メダルを獲得。その実績をもとに、1974年、国際式のプロボクサー(ジュニア・ウェルター級)に転向しました。

 デビューに際して、センサクのマネージャーは3戦で世界チャンピオンとなることを宣言。11月7日、いきなりWBC世界ランキング6位のルディ・バロ(フィリピン)と対戦し、1回KO勝ちを収める衝撃のデビューを果たしています。

 さらに、1975年2月16日、第2戦でWBC世界ランキング2位のライオン古山(日本)と戦い、7回、左フックで古山をグラつかせて連打し、レフェリーストップのTKO勝ち。そして、同年7月15日、WBC世界王者のペリコ・フェルナンデス(スペイン)と対戦し、8回、TKO勝ちを収めて公約通り、わずか3戦目で世界王者となり、いちやく、タイの国民的な英雄となりました。

 近代スポーツとしてのムエタイのルールが整備されたのはラーマ6世時代の1920年代のことでしたが、1932年の立憲革命後、タイのナショナリズムが強調され、タイは後進国ではなく、文化的に優れた民族の国であることを内外にアピールすることが要請されていく中で、ムエタイも、タイ独自の“伝統文化”として国軍を中心に奨励されるようになりました。

 すなわち、1935年以降、国軍がスアン・チャオチュートでのムエタイ興業をプロモートしたほか、1937年には教育省体育局が「ムエタイに関する規定」を策定して正式に“国技”として指定。さらに、1945年12月に王室の出資でラーチャダムヌーン・スタジアムが作られ、1956年にはルンピニー公園近くの陸軍所有地にルンピニー・ボクシング・スタジアム(陸軍が運営する株式会社の創業は1953年)がオープンします。これらは、いずれも、ムエタイが単なる娯楽ではなく、タイの国技にして文化であることを強調するための施策でした。

 こうしたこともあって、1970年代までには、ムエタイはタイの国技であるとの認識が国民の間に深く浸透します。1972年、日本の野口ジムがバンコクで“キック・ボクシング・ジム”を開設した際、その名称がタイの国技を侮辱したものであるとして国民の反感を買い、抗議集団による襲撃事件が発生。ジムの閉鎖を余儀なくされたという事例は、タイ社会におけるムエタイの地位を雄弁に物語っているといえましょう。

 名実ともにムエタイの王者として君臨していたセンサク・ムアンスリンが国際式ボクシングに転向するや、たちまち東南アジア競技大会で圧倒的な強さを示して優勝したのは、上述の野口ジム事件の翌年、1973年のことでした。このことは、ムエタイを国際式ボクシングの亜流であるかのように見なした(と少なからぬタイ人が理解した)事件の屈辱を晴らす、痛快な事件だったに違いありません。

 1975年に発行された切手の企画は1974年中に決められていますが、その過程で、身をもって国際式に対するムエタイの優位を示したセンサクを意識して、ムエタイ・シリーズも立案されたものと推定できます。

 なお、当時のタイの切手は日本の大蔵省印刷局で製造されることも多かったのですが、1975年のムエタイ切手はフィンランドのフィンランド銀行印刷局に印刷が委託されています。ただし、そこに、野口ジム事件の影響があったか否かは定かではありません。

 なお、センサクは、1976年1月25日、ライオン古山の挑戦を退けて王座を防衛しましたが、同年6月30日、スペインでミゲル・ベラスケスに敗れて王座から陥落。ただし、この時の対戦は、センサクがダウンを奪うなど一方的にリードしていたところ、4回終了間際のラッシュ中にゴングが鳴り、その直後にセンサクのパンチがベラスケスに入ってベラスケスがダウンしたことから、センサクが反則負けとみなされたものでした。そこで、センサク陣営は「力の入ったパンチではなく、偶然に緩いパンチがゴング直後にかすっただけで、観客の声援が大きすぎてゴングも聞き取れなかった」とWBCに訴え、4ヶ月後の再戦ではセンサクがベラスケスを下して王座に返り咲いています。

 ちなみに、ムエタイ出身のセンサクは国際式の試合でもムエタイの癖が抜けず、前蹴りが出そうになっただけでなく、左ジャブをわざと外して相手の首を巻くように上から押さえつけ、すかさず右を叩き込んだり、フックの打ち終わりに肘を当てたりする(今回ご紹介の切手には、まさに、肘打ちの場面が取り上げられています)など、ムエタイの技を応用した“反則”が巧みでした。

 センサクはタイトルを7度防衛したが、1978年12月30日、金相賢(韓国)に13回KOされ陥落。以後、王座を回復することはなく、1981年4月5日、OPBF東洋太平洋J・ウェルター級王者の黄忠載(韓国)と対戦し、12回判定負けとなったのを最後に引退しました。国際式ボクシングでの通算成績は20戦14勝(11KO)6敗。

 引退後は、試合の後遺症で右目を痛めたこともあって生活が荒み、現役時代に結婚した元女優の妻とも離婚。周囲に担ぎ上げられ選挙に出馬するも落選し、経済的にも不遇のまま、2009年4月16日、バンコク市内の病院で亡くなりました。


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 闘牛場近くでテロ
2017-02-20 Mon 17:22
 コロンビアの首都ボゴタのマカレナ地区にあるサンタマリア闘牛場の近くで、昨日(19日)、テロとみられる爆発があり、警備の警察官を中心に31人が負傷(うち2人は重傷)し、10人を超える容疑者が拘束されました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      コロンビア・闘牛場

 これは、1981年にコロンビアで発行された航空切手で、今回のテロ事件が起きたサンタマリア闘牛場が取り上げられています。

 サンタマリア闘牛場(正式名称はトーレス・デ・サンタマリア広場:Plaza de Toros de Santamaría)は、レンガ造りの円形野外スタジアムで、1931年に完成しました。収容人員は1万4500人で、闘牛のみならず、コンサートや各種のスポーツイヴェントも行われています。ムーア風の瀟洒な建築が人気で、建物じたいがボゴタのランドマークになっています。

 さて、ラテン・アメリカ諸国では、旧宗主国スペインの影響もあって、伝統的に闘牛が盛んに行われてきました。このため、闘牛は芸術的表現の一種であり、コロンビアの文化や伝統の一部であるというのが、一般的なコロンビア人の認識です。

 ところが、2012年のボゴタ市長選挙で、左翼ゲリラ組織“4月19日運動(M-19)”の武装ゲリラとして、1985年11月6日に発生した最高裁判所ビル占拠事件にも関与した過去のあるグスタボ・ペトロが当選。極左政治家の常として、ペトロは過激な動物愛護運動とも関係が深かったこともあり、闘牛を“動物虐待”と認定し、サンタマリア闘牛場も閉鎖してしまいました。

 当然のことながら、こうした措置には不満を持つボゴタ市民も多く、彼らは、法廷闘争の末、憲法裁判所から闘牛再開を支持する判断を勝ち取ります。その結果、今年1月22日、4年ぶりに競技が再開されましたが、当日は再開に反対する動物愛護の活動家らが闘牛場を取り囲むなどの抗議活動を展開。その後も、サンタマリア闘牛場では毎週日曜日に闘牛が行われていますが、そのたびに、多数の警察官を動員しての厳戒体制が敷かれています。

 今回の爆破事件を受けて、現ボゴタ市長のエンリケ・ペニャロサはツイッターで「われわれはテロリストを恐れない。容疑者を捕らえるため、必要なことは何でもする」と述べています。なお、現在のところ、コロンビア当局は事件と爆発事件との関係について明らかにしていませんが、たしかに、闘牛反対派でなくても、左翼ゲリラや密輸にかかわる犯罪組織など、爆破事件を起こしそうな集団が少なからず存在している国ですから、事件の背後関係については慎重に捜査を進めるしかないのでしょう。
      

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 世界の国々:モルディヴ
2017-02-19 Sun 09:49
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2月15日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はモルディヴの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      モルディヴ・ヒジュラ暦15世紀

 これは、1981年2月、モルディヴから英国宛に差し出された葉書で、西暦1980年11月9日にヒジュラ暦の15世紀(=1401年)が始まったことを記念して使われた聖地メッカをデザインした円形の印と、コーラン第21章第92節もしくは第23章第52節の文言「本当に、あなたがたのこのウンマこそは、唯一の共同体である(إِنَّ هَذِهِ أُمَّتُكُمْ أُمَّةً وَاحِدَةً)」のアラビア語オリジナルと英訳・ディベヒ語(モルディヴの公用語)訳が入った角印が押されています。

 モルディヴ環礁の一帯には、いまから約2000年前にセイロン(現スリランカ)と南インドから仏教徒が移住し、以後、この地の先住民たちは、土着の信仰であった太陽崇拝を捨てて仏教に改宗しました。モルディヴの仏教には土着の要素が強く反映されており、海の魔物“ジニ”に生贄として処女を捧げる風習も残っていました。

 モルディヴにイスラムが伝来し、人々が改宗した経緯については、1656年、首都・マーレに建設されたジュムア・モスクに記録が残されています。

 それによると、1153年、モルディヴを訪れ、生贄の習慣を目にしたアラブ商人アブー・バラカートは、自分が生贄になることを申し出て、コーランを朗誦して魔物を追い払います。これに感謝した仏教徒は感謝の品をアブー・バラカートに与えようとしましたが、モルディヴは貧しく、それに値するモノは何もありませんでした。そこで、アブー・バラカートが「コーランに書かれている来世の楽園をこの地に作り、多数の処女を集めよう」と勧めると、島の仏教徒たちは競ってイスラムに改宗し、処女を集めます。しかし、住民の改宗が終わると、処女たちは消えてしまい、以後、アブー・バラカートとその子孫がイスラム系の地方君主、スルターンとしてモルディヴを支配するようになりました。

 その後、大航海時代の1558-73年、マーレはポルトガル人に占領され、ポルトガル人は島民にワインを与えてキリスト教に改宗させようとしましたが、島民は「処女があふれているわけでもないのに、楽園の美酒に酔うわけにはいかない」として改宗を拒否。 1573年には、ムハンマド・タクルファーンがポルトガル人を破り、マーレを王都としてウティーム王朝を開きます。ウティーム王朝は、1697年にインド南部から侵攻したフラーゲ王朝に滅ぼされるまで、12人のスルターンを輩出しました。

 ウティーム王朝はサンゴで作られた壮麗な王宮を建設し、王朝の開祖にちなんでムハンマド・タクルファーン宮殿と命名しました。同宮殿は、ウティーム王朝の崩壊後も歴代の王朝が王宮として使用されたほか、敷地の一部は大統領の私邸として現在も利用されており、モルデイヴを代表する文化遺産のひとつとして、今回ご紹介の葉書の切手にも取り上げられています。

 なお、モルディヴは1645-1796年にはオランダの保護国となり、1877-1965年には英領となりましたが、これらの時代にも島民のキリスト教への改宗はほとんど進まず、現在のモルディヴ国家はイスラムを国境としており、住民のほぼ100%がムスリムです。

 さて、『世界の切手コレクション』2月15日号の「世界の国々」では、モルディヴのイスラムについて扱った長文コラムに加え、特産のカツオ、ガーフダール環礁、ココヤシ、ディベヒ語とアラビア語のバイリンガルの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のモルディヴの次は、15日に発売された2月22日号でのブルキナファソの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の22日以降、このブログでもご紹介する予定です。 


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 ディック・ブルーナ、亡くなる
2017-02-18 Sat 11:26
 ウサギのキャラクター“ミッフィー(母国オランダでの名称はナインチェ・プラウス)”の生みの親であるオランダの作家、イラストレーターのディック・ブルーナ氏(以下、敬称略)が、老衰のため、きのう(16日)、ユトレヒトで亡くなりました。享年89歳。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      オランダ・ブルーナ(1969)

 これは、1969年11月11日にオランダが発行した児童福祉切手で、ヴァイオリンを弾く少女を描くブルーナのイラストが取り上げられています。ブルーナのイラストは、母国オランダのみならず、日本でも何度か切手に取り上げられていますが、その最初となったのが、今回ご紹介の切手を含む1969年のオランダ児童福祉切手です。

 さて、ブルーナは、1927年8月23日、オランダのユトレヒト市で、出版社“A・W・ブルーナ&ズーン(以下ブルーナ社)”を経営する父アルバートと母ヨハナのもとに生まれました。

 幼少時から絵を描くことが好きで、中学生時代、レンブラントやファン・ゴッホの作品に強い衝撃と感銘を受けたことで、ブルーナ社のデザイナーの下で、絵の基本を学び、油絵を描くようにりました。

 1945年にオランダがナチス・ドイツの占領から解放されると、ブルーナは画家になるべく、“後継者としての研修をするならば”との条件で父親を説得し、通っていた高校を退学。オランダの書店や、イギリス、フランスの出版社に研修に出向き、出版の基礎を学びました。

 1947年、20歳でオランダに帰国したブルーナは、経営者ではなくアーティストになることを宣言。アムステルダムの国立美術アカデミーに入学するものの、ほどなく退学し、アンリ・マティス、レイモン・サヴィニャック、カッサンドルなどのシンプルで訴求力のある作品を独学で研究し、自らのデザインスタイルを確立させていきました。

 1951年頃からはブルーナ社の専属デザイナーとして働くようになり、同社が発行するさまざまな書籍の装丁を担当します。ブルーナの装丁はシンプルで斬新なデザインスタイルで注目されたほか、彼のデザインした同社のシンボルの熊は、デザインの一部を修正して、ブラック・ベア(Zwarte Beertjes)として、読書週間のポスターなどに使用されました。

 代表作となったナインチェ・ブラウス(ミッフィー)は、1955年に発表された絵本『ナインチェ』の主人公です。『ナインチェ』は、当時は画期的な“文字のない絵本”で、子供たちの支持を獲得。この成功を受けて、ナインチェ・ブラウスを主人公とした字のある絵本も制作されるようになります。1963年以降、それらは各国語に翻訳され、1964年には日本でも石井桃子訳の『ちいさなうさこちゃん』(福音館)が刊行されました。ちなみに、日本で定着してる“ミッフィー”との名前は、1960年に英国で英訳版が発売される際に付けられた英語風の名前で、わが国では、1979年に講談社の絵本で使われたのが初出です。なお、現在でも、絵本のタイトルとしては、福音館が“うさこちゃん”、講談社が“ミッフィー”と異なる名前が使われています。

 1971年には、作品の著作権管理会社のメルシス社を設立。1975年には創作に専念するため、1975年にブルーナ社を退職します。その後は、2011年に引退するまで、社会福祉関係の仕事にも力をいれ、障害者向けの案内記号、歯の健康、献血、赤十字などの公共広告のポスター、デザインを数多く手がけました。その意味では、日本の“ふみの日”やパンのキャラクターではなく、今回ご紹介の児童福祉切手の方が、ブルーナ追悼にはふさわしいのかもしれません。 


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 楽しく学ぼう シリア現代史(新番組)
2017-02-17 Fri 10:25
 インターネット放送・チャンネルくららにて、きのう(16日)から、内藤がレギュラー出演する新番組「楽しく学ぼう シリア現代史」がスタートしました。というわけで、きょうは、新番組スタートのご挨拶を兼ねて、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます。昨日配信分はこちらをクリックしてご覧ください)

      おすまん帝国・ダマスカス発カバー(1918)

 これは、1918年1月17日、ダマスカスからイスタンブル宛に差し出されたカバーで、当時のダマスカスの主権者であるオスマン帝国の切手が貼られています。

 地域概念としての“シリア”は、歴史的には、現在のシリア・アラブ共和国の領域にとどまらず、現在の国名でいうギリシャ、トルコ、シリア、キプロス、レバノン、イスラエル・パレスチナ、エジプトにまたがる地域として、アラビア語ではシャーム、欧米語ではレヴァントと呼ばれていました。

 こうした歴史的シリアは、第一次大戦以前、オスマン帝国の支配下に置かれており、1841年以降、オスマン帝国はベイルートからダマスカス、アッカを経てエルサレムにいたる郵便物の定期輸送を行っており、その料金を徴収するためにオスマン帝国の切手が使われていました。

 一方、地中海東岸の歴史的シリアでは、オスマン帝国の郵政とは別に、列強諸国の郵便局が活動していました。その先鞭をつけたのはロシアで、1721年にサンクトペテルスブルグ=イスタンブール間で外交文書を運んだのが最初です。その後、ロシアは1774年にイスタンブールの領事館で郵便物の定期的な取り扱いを開始。以後、ロシアが“治外法権”を援用するかたちで郵便網を拡充していったことで、列強諸国もこれに続くことになります。ただし、今回ご紹介のカバーのダマスカスには、列強諸国の郵便局は設けられませんでした。

 第一次大戦中、敵国であるドイツとオスマン帝国に対抗するため、英国はオスマン帝国の支配下にあったアラブ地域に目をつけ、メッカの太守であったシャリーフ・フサインに接近。1915年から16年にかけての、いわゆるフサイン・マクマホン書簡を通じて、「アラブがイギリスと共にオスマン帝国と戦えば、戦後、アラブの独立国家をつくる」との密約を結びます。これにしたがって、シャリーフ側は、1916年6月、シャリーフの影響下にあったアラブがオスマン帝国に対して反旗を翻しました。これが、いわゆるアラブ叛乱で、映画「アラビアのロレンス」でご存じの方も多いかと思います。

 オスマン帝国に対して反旗を翻したアラブ軍は、メソポタミアの英印軍とも共同して対オスマン帝国のゲリラ戦を展開しながら北上し、翌1917年にはアカバを攻略し、エルサレムにも進撃します。

 しかし、その裏でイギリスは、サイクス・ピコ協定を結んで大戦後の中東分割をフランスとの間で密約し、さらに、バルフォア宣言を発して、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を作ることに同意するなど、フサイン・マクマホン書簡の密約と矛盾する内容の外交を展開していました。

 こうした英国の“三枚舌外交”は、アラブ側に英国に対する不信感を抱かせることになりましたが、それでも、1918年に入ると、ファイサル率いるアラブ軍とアレンビー率いる英軍は、共同作戦を展開して勝利を重ね、9月30日にはダマスカスを占領。ファイサルを首班とするアラブ政府の樹立が宣言され、レヴァント内陸部の広大な地域は英国の占領下に置かれました。

 こうして、歴史的に“シリア”と呼ばれていた地域が、第一次大戦後のオスマン帝国の解体に伴い、分割されることでシリアの現代史がスタートします。「楽しく学ぼう シリア現代史」では、その後、フランス委任統治時代を経て現在のシリア国家が建国され、2011年の内戦にいたるまで、どのような歴史をたどっていったのか、僕の専門である切手や郵便物も使いながら、できるだけわかりやすく解説していこうというものです。

 配信は毎週木曜日の18:00を予定しており、どなたでも無料でご覧いただけますので、来週以降もご贔屓のほど、よろしくお願いいたします。

 * 2015年4月から配信していた「きちんと学ぼう!ユダヤと世界史:ユダヤ陰謀論を叱る」は、無事、今年(2016年)2月1日に最終回を迎えました。いままでご視聴いただいた皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。なお、同番組は、今後も、こちらでご覧いただけますので、よろしかったら、ご覧ください。
 

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 紙幣30トンを積んで横転
2017-02-16 Thu 15:27
 パラグアイの首都アスンシオンから約150キロの付近で、きのう(15日)、ブラジルとの国境の町、サルト・デル・グアイラで武器販売人から押収した約30トンのヴェネズエラ・ボリヴァル紙幣を輸送中のトラックが横転したそうです。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェネズエラ銀行100年(紙幣)

 これは、1989年にヴェネズエラが発行した“ヴェネズエラ銀行100年”の記念切手のうち、1936年の50ボリヴァル紙幣を取り上げた切手です。

 ヴェネズエラの通貨は、独立当初は国名にちなむヴェネゾラノでしたが、1879年、シモン・ボリヴァルにちなむボリヴァルが導入されました。当時のヴェネズエラは銀本位制で、1ボリヴァルは純銀4.5グラムと等価で、導入時の新旧通貨の交換レートは5ボリヴァル=1ヴェネゾラノでした。その後、ヴェネズエラでは1910年に金本位制に移行しますが、1930年には金本位制から離脱。1934年に1米ドル=3.914ボリヴァルの固定相場となりました。今回ご紹介の切手に取り上げられた50ボリヴァル紙幣はこの時期のものです。なお、1937年には1米ドル=3.18ボリヴァルにレートが変更されています。

 1980年代初頭までヴェネズエラ・ボリヴァルはカリブ海地域で最も安定した通貨でしたが、1983年2月18日の原油価格暴落を機に通貨危機が発生。以後、ヴェネズエラ・ボリヴァルは下落の一途をたどり、チャヴェス政権下の2003年2月5日には1米ドル=1600ボリヴァルにまで暴落しました。

 このため、2008年1月1日付で、1000分の1のデノミが実施され、“強いボリヴァル”を意味する新通貨、ボリヴァル・フェルテが導入されました。しかし、その後もヴェネズエラ通貨の下落に歯止めはかからず、2016年には、当時のヴェネズエラの最高額紙幣の100ボリヴァルは、公定レートでも米ドル換算で15セント、市中の実勢交換レートでは2セントにしかならないほどに下落したため、マドゥロ政権は、12月11日、72時間以内に現行の100ボリヴァル紙幣を撤廃して硬貨に入れ替えるとともに、500、5000、2万ボリヴァルの新紙幣を発行すると突如発表。このため、100ボリヴァル紙幣が廃止される前に米ドルなどに交換すべく、ヴェネズエラ市民が国境を越えてコロンビアに殺到します。

 ところが、新紙幣流通開始予定日の12月15日になっても新紙幣は市中には出回らなかったことにくわえ、同日、マドゥロ政権は「マフィアがヴェネズエラの通貨をコロンビアに移動させている」としてコロンビアとの国境を封鎖したことから混乱が拡大。結局、旧50および100ボリヴァル紙幣に代わる新硬貨は、当初予定より10日以上遅れた28日から市中での流通が始まったものの、新紙幣が本格的に流通するようになったのは年が明けた2017年1月16日のことでした。

 これに伴い、旧紙幣と新硬貨・紙幣との交換は2月20日をもって打ち切り(交換場所は、カラカスのヴェネズエラ銀行本部ビルの1ヶ所のみ)とされましたが、1月の時点では、首都カラカスでさえ金融機関のATM は新紙幣に対応しておらず、市民生活の混乱は続いています。

 今回、問題となった紙幣は、おととい(14日)、パラグアイ警察がサルト・デル・グアイラで押収したもので、すべて50および100ボリヴァルの旧紙幣で、重量から推定すると、最大で200億ボリヴァル(100ボリヴァル=2セントとすると、米ドルで200万ドル、邦貨で約2億2770万円)になるそうです。これらの紙幣は今月21日以降は交換打ち切りで紙くずになってしまいますので、なんとか、それまでに届けなければ…との焦りによる無理な運転が、今回の横転事故につながったということなのかもしれません。


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 金正男、殺害される
2017-02-15 Wed 12:44
 北朝鮮の故金正日総書記の長男で、現在の最高権力者・金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男氏(以下、敬称略)、おととい(13日)、マレーシアのクアラルンプール国際空港で殺害されていたことが明らかになりました。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、金正男がらみでこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・強勢大国の偉大な転換の年

 これは、1999年8月17日に北朝鮮が発行した「強勢大国建設の偉大な転換の年 主体88(1999)年」と題するプロパガンダ切手で、中央下部にコンピューターを操作する人物が描かれています。北朝鮮においてコンピューターを描く切手が発行されたのはこれが最初ではありませんが、“強勢大国”と結び付けた切手はこれが最初です。

 さて、金正男は、1971年、金正日と女優・成蕙琳の下に平壌で生まれました。スイス・ジュネーヴのインターナショナルスクールなどでの留学を経て、1988年、17歳でコンピュータ委員会委員長に就任し、1990年には、コンピュータ技術、IT技術のための国営の研究・開発機関(表の研究開発と並行して、監視、盗聴、ハッキングなど広範囲などの秘密活動も行う)である“朝鮮コンピューターセンター”の創設に関わったとされています。

 また、朝鮮人民軍内部では、1986年に米軍暗号解読のために100人規模の“サイバー軍(の原型)”が創設されていましたが、コンピューターセンター創設翌年の1991年、彼らが暗号解読と情報分析から湾岸戦争での米軍の攻撃開始の正確な時刻を的中させたことで、金正日はサイバー戦の重要性を認識。1996年には朝鮮労働党作戦部所属のコンピューター専門部隊が設立されました。金正男はコンピューター委員長として、これら一連の流れに深くかかわっています

 一方、切手に記されている“強勢大国”という語は、1998年8月22日付の『労働新聞』(朝鮮労働党の機関誌)に登場したもので、その内容としては、思想強国、政治強国、軍事強国、経済強国が挙げられています。この直後の同年8月31日、テポドン1号が打ち上げられ、“人工衛星”とコンピューターは“強勢大国”を象徴する科学技術の二本柱となりました。

 かつて金正日は、映画・演劇を通じたプロパガンダ工作で実績を上げ、金日成の信頼を得て後継者としての立場を固めて行きましたが、その過程で、金正日の肖像切手が発行されるずっと前から、北朝鮮では映画の切手を発行するようになっています。したがって、金正日と映画の関係に倣い、金正男の実績としてのコンピューターを切手に取り上げることで、金正日から金正男への権力継承が動き始めたことを表現していたとみることができます。

 なお、金正男は、2001年5月1日、金正男はドミニカ共和国の偽造パスポートを使用して、“胖熊”との偽名で入国を図ったところを、拘束・収容され(4日に事実上の超法規的措置で強勢強制)、以後、金正日の後継候補から脱落したとされています。

 ただし、この時点では、異母弟の金正哲(1981年9月生まれ)は19歳、金正恩(1984年1月生まれ)は17歳ですので、ただちに金正男が失脚したというわけでもなさそうです。その証拠に、事件から1年後の2002年5月2日には、「科学技術は強勢大国建設の推進力である」と題したプロパガンダ切手(下の画像)が発行されています。

      北朝鮮・科学技術は強勢大国建設の推進力である

 この切手では、1999年の切手に比べて、パソコンを操作する人物の姿がはるかに大きくなっており、“強勢大国”におけるコンピューターの重要性が、以前よりも高まっているとの北朝鮮の認識が表現されています。この時点で、金正男は依然としてコンピューター委員長の地位にとどまっていますから、まさに、切手のタイトルにある“強勢大国建設の推進力”(の一人)だったわけで、あえて事件から1年というタイミングでそうした切手が発行された背景には、そうした金正男の立場を擁護する(少なくとも、金王朝の有力者としての立場を完全に失っていたわけではなかったことを示す)意図がうかがえます。

 じっさい、2005年の時点でも、韓国の国家情報院は、金正男が国家保衛部を通じて保安及び防諜活動を行い、平壌の朝鮮コンピューターセンターを通じて北朝鮮内の海外通信を統制し、海外情報収集及びモニタリング活動をしており、韓国へのサイバー攻撃の黒幕は金正男と推定されるとの報告を上げています。

 なお、金正恩が金日成の後継者としての立場を固めたのは2007年頃のことで、2009年に行われたサイバー・テロは、金正恩指揮下の海外情報タスクフォースが主導したとされています。

 いずれにせよ、今回の事件により、金正男はその肖像が切手に取り上げられることのないまま亡くなったわけですが、一部の切手からは、彼の痕跡がほの見えるのが興味深いところです。


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 ふんどしの日
2017-02-14 Tue 12:46
 きょう(14日)は、2と14で“ふんどし”と読む語呂合わせから、日本ふんどし協会(2011年12月14日設立)が制定した“ふんどしの日”です。というわけで、昨年同様、“ふんどしの日”を祝して、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      沖縄・航空(赤風神)

 これは、1961年9月21日、米施政権下の沖縄で発行された航空切手で、ふんどし姿で風を吹かせている赤色の風神が描かれています。沖縄では、1959年10月15日に海外向け郵便料金が改正されましたが、新料金に対応した切手の発行は遅れ、今回ご紹介の切手を含む“天女・風神航空”の切手が発行されるまでは、加刷切手でしのいでいました。なお、今回ご紹介の切手の27セントは米本土、アラスカ、カナダ、中近東など宛の航空書状の料金に相当しています。

 日本絵画の伝統では、風神は大きな袋を持った鬼の姿で描かれます。俵屋宗達の『風神雷神図』(屏風)はその代表的な事例ですが、宗達の風神は袴のようなものを着用しており、褌そのものは見えません。これに対して、今回ご紹介の切手に取り上げられた山田真山の風神は褌がしっかりと見えるので、“ふんどしの日”に相応しい1枚といえましょう。

 切手の原画を制作した山田真山は、1885年、沖縄県那覇市生まれ。本名は渡嘉敷兼慎です。幼くして父を亡くし、貧困の中、石垣や西表島などを転々として生活していましたが、空き缶で作った船の出来栄えに感心した大工の親方に見込まれて養子となり、
東京で大工としての修業をはじめました。

 しかし、柱にカンナをかけていた際、柱の節が人の顔に見えてきたため、思わずその顔を彫りこんでしまったことから、用かを放逐され、絵はがきの絵をかく店で働き、牛乳配達をしながら資金をため、20歳の時に、東京美術学校に入学。彫刻家・山田泰雲(高村光雲の弟子)に塑像を学び、後に、泰雲に見込まれて養子となって“山田真山”と名乗るようになりました。

 美術学校卒業後、真山は中国・北京の美術学校の教師となり、帰国後、小堀鞆音に日本画を学びます。小堀は、東京・明治記念聖徳絵画館の壁画、「東京御著輦」を制作しましたが、その縁で、1924年、同館の壁画「琉球藩設置の図」を描いて、一躍、脚光を浴びました。

 その後、故郷の沖縄に戻り、1945年には沖縄戦を体験。その経験を踏まえ、戦没者の慰霊と人類の平和を願い、世界100カ国の霊石を集め、1957年から高さ21m の観音像(平和祈念像)の制作を始め、20年の歳月をかけて完成させました。また、「郷土の文化を守る会」の会長として文化遺産の収集、再興に尽力しています。

 さて、相撲のまわしまで含めると、ふんどし姿の男性を描く切手はいろいろとあります。やはり日本男児たるもの、毎年2月14日には、そうした切手を毎年1枚ずつご紹介していこうかと思いますので、よろしくお付き合いください。


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 トルクメニスタン大統領3選
2017-02-13 Mon 19:20
 中央アジア・トルクメニスタンで、きのう(12日)、大統領選挙が行われ、独裁体制を強化してきた現職のグルバングル・ベルドイムハメドフ大統領が(中央選管の発表によれば)得票率97.69%で最多の票を得て3選されることになりました。というわけで、きょうはこの1枚です(画像はクリックで拡大されます)

      トルクメニスタン・馬(1992)

 これは、1992年にトルクメニスタンで発行された“黄金の馬”ことアハルテケの切手です。

 アハルテケはトルクメニスタンが原産で、現存する最古の馬種のひとつとされています。水や食料の不足しがちなトルクメニスタンの過酷な自然環境にも対応しうる頑健な馬で、1935年には、トルクメン人の騎手団がアシガバート(トルクメニスタンの首都)からモスクワまでを84日で走破した際には、途中の砂漠地帯を水なしで3日で横断したというエピソードもあります。また、フォームと優美さでも知られており、“黄金の馬”として、トルクメニスタンの誇りとされ、同国の国章にも描かれています。

 クリミア戦争後の1869年、ロシアはカスピ海東岸に上陸し、1873年にザカスピ軍区を設置しました。その後、ヒヴァ戦争や2次にわたるアハル・テケ遠征を経て、1881年、現在のトルクメニスタンの首都アシガバートがロシアに占領され、翌1882年、現在のトルクメニスタン国家の領域とウズベキスタンのカラカルパクスタン共和国、カザフスタンのマンギスタウ州の一部に相当する地域をあわせて“ザカスピ州”が創設され、カフカス総督の管轄下に置かれます。

 第一次大戦を経てロシア帝国が崩壊すると、1921年、地元のムスリムの反乱を制圧した赤軍は、ザカスピ州をトルキスタン自治ソヴィエト社会主義共和国内のトルクメン州に再編。さらに、1924年には、中央アジアの民族境界画定工作が行われ、トルクメン州については、その一部をウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に割譲したうえで、同州をベースにしたトルクメン・ソビエト社会主義共和国が成立。これが、現在のトルクメニスタン国家の直接のルーツとなりました。

 その後、ソ連時代末期の1990年8月22日に主権宣言を行い、10月27日には直接選挙による大統領選挙でサパルムラト・ニヤゾフが98.8%の得票率で当選。1991年10月26日の国民投票を経て、ソ連からの独立を達成しています。

 初代大統領となったニヤゾフは2006年に急死するまで独裁者として君臨しましたが、ニヤゾフ政権下のトルクメニスタン国内では、①首都と大学を除く図書館の廃止(ニヤゾフいわく「田舎の人はどちらにしても字が読めないのだから」)、②バレエ、オペラ、サーカス、映画などの禁止(ニヤゾフいわく「白鳥の湖の男性ダンサーの衣装が気に入らない」)、③首都を除く地方の病院を閉鎖(ニヤゾフいわく「ちゃんとした医師は首都にいる。病人は首都に行けばよい」)、④女性の金歯を禁止(ニヤゾフいわく「女性には金歯が似合わない」)、⑤高齢者向け年金の停止など、かなり無茶苦茶な政策が行われていました。

 ニヤゾフの死後、2007年2月14日の大統領選挙を経て、ニヤゾフ政権下で副首相を務めたグルバングル・ベルドイムハメドフが第2代大統領に就任。ベルドイムハメドフは、ニヤゾフ時代の荒唐無稽な政策を撤廃するとともに、天然資源の好調な輸出を原資に公共料金を無料化したり、インターネットの利用を解禁したりするなど、一定の脱ニヤゾフ化政策を展開しました。その背景には、豊富な天然ガスをテコにした資源外交を活発化させていくなかで、ニヤゾフ時代に定着した“中央アジアの北朝鮮”との国際イメージを払拭したいという現政権の意図があるとされています。

 しかしながら、ベルドイムハメドフ政権による脱ニヤゾフ化政策も、完全な民主化とは程遠く、秘密警察による監視は続いており、体制批判は現在なおタブーです。また、街中ではベルドイムハメドフの肖像が増加するなど、個人崇拝は年々強化され、昨年(2016年)の憲法改正では、大統領任期は5年から7年に延長されただけでなく、70歳までとの年齢制限も撤廃されました。この結果、ベルドイムハメドフは、制度的には、ニヤゾフに次いで終身大統領となることが可能になっており、独裁体制の強化はむしろ進んでいるとも見られています。

 ちなみに、2015年、大統領への個人崇拝を強化すべく、首都アシガバートには、高さ6m で金色のベルドイムハメドフ騎馬像が建立されましたが、“黄金の馬”ことアハルテケならぬトルクメニスタン国民が、いつまで、過酷な環境に耐え続けられるものなのか、気になるところです。


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 歯舞に“デレヴィヤンコ島”
2017-02-12 Sun 15:40
 ロシアのメドヴェージェフ首相が千島列島で名前がついていなかった5つの島に対して、ロシア名をつける指示書に署名し、そのうちの一つで、ロシアが不法占拠している日本領・歯舞群島の秋勇留島付近の島が“デレヴィヤンコ島”と命名されたそうです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ロシア・戦勝70年(デレヴィヤンコ)

 これは、2015年にロシアが発行した“第二次大戦終結70周年”の記念切手で、今回の島名の由来となったクズマ・デレヴィヤンコが、1945年9月2日、ミズーリ号上で日本降伏文書に調印する場面が描かれています。

 デレヴィヤンコは、1904年11月14日、ロシア帝国支配下のコセニヴカ(現・ウクライナ領)で生まれました。1922年、赤軍に兵士として参加し、1927年にソ連共産党に入党。独ソ戦が勃発するとドイツとの戦闘で軍功を上げて将官にまで栄進し、1945年、赤軍を指揮してウィーンに入城しました。

 ソ連の対日参戦後は、極東米軍との間のソ連軍事使節団連絡将校としてマニラに派遣され、日本降伏後はソ連軍総司令官代表に任命され、9月2日の降伏文書調印にはソ連代表としてサインし、そのまま、ソ連の対日軍事使節団団長に任じられました。翌1946年、対日理事会(連合国日本管理委員会)が発足すると、同理事会のソ連代表に就任。占領下の農地改革では、1945年9月2日現在すべての小作地・不在地主所有地を国家が強制収用するという案を提出するなど、左派色の強い占領改革案を提案しました。

 デレヴィヤンコといえば、マッカーサーに対して、ソ連による北海道占領を繰り返し要求していたことでも知られています。マッカーサーの専用車に同乗中、この問題を持ち出したデレヴィヤンコに対して、マッカーサーは「ここで停めなさい。中将は降りて一人で歩いて帰るそうだから」と運転者に命じ、デレヴィヤンコは黙ってしまったというエピソードは有名です。その後も、デレヴィヤンコは日を改めてGHQのオフィスでマッカーサーに北海道占領を要求していますが、この時は、さすがにマッカーサーも「日本にソ連兵が一人でも現れたら、ソ連代表団をみんな刑務所にぶちこむぞ!その時はあんたが一番だ!」と怒鳴りつけたのだとか。

 また、東京裁判で死刑判決を受けた“A級戦犯”7名の処刑に際しては、当初、マッカーサー自身は遺骨を遺族に渡す意向だったと言われていますが、デレヴィヤンコが「遺骨を保管すれば軍国主義が復活する」と強硬に反対。このため、遺骨は粉砕して東京湾に撒かれることになりました。ただし、その散骨前に、 弁護士の三文字正平と久保山興禅寺の住職・市川伊雄が火葬場の飛田場長と共に遺骨の遺棄された場所に忍び込んで遺骨の一部を密かに持ち出し、それらは、1960年、愛知県三ケ根山に移されて“殉国七士廟”が建てられています。

 結局、デレヴィヤンコは、1950年5月27日まで対日理事会のソ連代表を務め(ただし、この間、1947年8月7日から1948年8月31日まではアレクセイ・パヴロヴィチ・キスレンコが職務を代行)てソ連に帰国。1954年12月30日に亡くなりました。

 今回、ロシアが歯舞群島の島の一つをデレヴィヤンコ島と命名したのも、あらためて、歯舞群島に対する彼らの時候支配を強調する意図があったからなのですが、それにしても、デレヴィヤンコが日本でやってきたことを思い起こすと、このネーミング、日本に対する嫌がらせ以外の何物にも思えませんな。


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 建国記念の日
2017-02-11 Sat 13:28
 きょう(11日)は、建国記念の日です。というわけで、例年どおり、建国神話にちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

     天橋立

 これは、1960年7月15日に発行された日本三景切手の“天橋立”で、観光写真などで定番の成相山(西岸の江尻の後ろ側)の傘松公園から眺めた風景が取り上げられています。

 天橋立は、京都府の北部、若狭湾国定公園の一角にあり、1952年11月に国の特別名勝に指定されました。日本海に面する宮津湾の潮流と風によって運ばれた砂が積もって出来た砂嘴で、西岸の江尻から対岸の文殊まで、南西に2.2 km 突き出しています。

 『丹後国風土記』には、国産み神話の伊射奈芸命(イザナギ)は天に通うために天に通うための“椅(はしご)”として“天椅立(あまのはしだて)”をつくりましたが、命が眠っている間に椅が倒れ、現在の“天橋立”になったとの記述があります。また、『古事記』の国つくりの場面で、イザナギ・イザナミが立っている“天浮橋”は天橋立であるとする伝承もあります。

 なお、この切手は、当初の年間計画で7月の発行とされており、3月中には試刷もつくられ、4月1日に正式な刷色も決定されるなど順調に作業が進められていました。ところが、4月後半になって、突如、郵政省は8月1日に発行の予定であった足摺国定公園切手を7月15日に発行する代わりに、7月15日に発行の予定であった天橋立の発行は8月1日に変更すると発表。しかし、結局、5月に入ると、両切手の発行日は当初の予定通りとすることがあらためて発表されるなど、マネージメント面での混乱が見られました。

 さて、以前から繰り返し書いていることですが、天孫降臨神武東征などの建国神話は、それがそのまま歴史的事実であるとは考えられません。ただし、そういうレベルでいえば、『聖書』の記述にも歴史的事実としては認めがたい部分が多々あるわけで、欧米のキリスト教世界で(信じるか信じないかは別の問題として)『聖書』の物語をたしなみとして国民に教えているのであれば、わが国でも民族の物語=神話としての建国神話を日本人の大半が常識として共有しているのが本来の姿だと僕は思います。

 したがって、僕に言わせれば、歴史の授業ではなく、国語の授業でこそ、小学生のうちから徹底的に記紀神話を教え込むべきだと思うのですが、そういうことを言うと、左巻きの人たちは「戦前の皇国史観が大日本帝国の侵略戦争を支える役割を果たした」などと主張して反対するんでしょうな。困ったものです。


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 “封筒の日”制定
2017-02-10 Fri 15:59
 封筒・手提袋など紙製品メーカー (株)ムトウユニパックが、封(=2)筒(=10)の語呂合わせで、今年(2017年)から2月10日を“封筒の日”とし、一般社団法人日本記念日協会の認定を受けたそうです。というわけで、きょうは封筒を描いた切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      万国郵便連合加盟50年(6銭)

 これは、1927年6月20日に発行された“万国郵便連合加盟50年”の記念切手のうち、世界地図を背景に手紙を運ぶハトが描かれています。日本の切手に封筒が描かれたのはこれが最初ですが、世界的に見ると、1845年に発行された“バーゼルのハト”が封筒を描く最初の切手となります。

 1840年に英国が世界最初の切手を発行して以来、切手を用いる近代郵便制度は急速に全世界へと拡大。当初、国境を越えた郵便物のやり取りに関しては、それぞれの国がさまざまな国との間で二国間条約を結んで処理していましたが、各国ごとに郵便物の重量についての制限や段階などが異なっていたほか、条約ごとに料金体系もさまざまでした。このため、一口に外国郵便といっても、宛先によって料金や手続きがまちまちで、利用者や郵政の現場では、さまざまな不便・不都合がありました。

 こうした不便を解決すべく、1862年、米国の郵政長官・ブレアは、世界共通の国際郵便条約締結を目指し、国際会議の開催を提案。これを受けて、1863年、英仏をはじめ14ヶ国の代表がパリに集まり、重量や料金の統一などについて討議し、31ヶ条からなる一般原則を採択しました。

 こうした流れを受けて、1868年、北ドイツ連邦の郵政長官・シュテファンが国際郵便条約の草案を発表します。

 19世紀初頭のナポレオン戦争以降、いわゆるウィーン体制下のドイツ圏では、オーストリア主導の下、35の領邦(地方君主国)と4の自由都市の緩やかな連合としてドイツ連邦が構成されていました。その後、このドイツ連邦内の主導権をめぐり、プロイセンとオーストリアが対立し、1866年6月、プロイセンはドイツ連邦からの離脱を宣言し、オーストリアに対して宣戦を布告しました。これが、いわゆる普墺戦争です。

 この戦争に勝利を収めたプロイセンは、ドイツ連邦を解散し、マイン川以北の領邦との間で新連邦を形成。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国、ハノーヴァー王国、ヘッセン選帝侯国、自由都市フランクフルト・アム・マインはプロイセン領とされました。こうして、1867年、プロイセンを盟主として、22の領邦の連合体による北ドイツ連邦が成立。これを母体に、1871年に誕生したのがドイツ帝国です。

 ドイツ統一以前の領邦国家の中には独自の切手を発行している国も多く、領邦間の郵便交換の調整は深刻な問題で、シュテファンが外国郵便の簡素化を各国に提唱したのも、多数の領邦国家を抱えるドイツとして、大いに不便を感じていたという事情もありました。

 さて、シュテファンの提案は、ドイツ統一後の1874年、スイスの召集により開催された郵便大会議において討議され、会議最終日の10月9日、「一般郵便連合の創立に関する条約」が調印されます。この条約は1875年7月1日から施行され、以後、一般郵便連合加盟国の間で交換される郵便物は均一料金となり、現在の国際郵便網の原型ができあがりました。

 一方、わが国では1871年に近代郵便が創業され、その郵便網は急速に整備されていきます。当初、日本郵政は外国宛の郵便物を取り扱うことはできず、開港地に置かれた米仏の郵便局を頼らざるを得ませんでしたが、1873年8月、日米間で皇米郵便交換条約が締結され、1875年1月1日以降、米国の仲介を頼ったとはいえ、日本の郵政は外国宛の郵便物の取り扱いを開始しました。

 こうした実績を踏まえ、1877年、わが国は一般郵便連合への加盟が認められ、郵便に関しては欧米諸国と対等の地位を獲得します。

 ちなみに、わが国は同連合創立以来、28番目の加盟国ですが、普仏戦争の影響から、フランスでさえ同連合に加盟したのは、日本の加盟前年の1876年のことでしたから、当時の日本の総合的な国力に比して、日本の国家郵政に対する国際社会の評価は極めて高かったといってよいでしょう。

 なお、一般郵便連合は1878年のパリ会議で万国郵便連合と改称されました。そして、1945年6月の国連憲章調印により、国連の専門機関となり、今日にいたっています。


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 露伴ではなく漱石
2017-02-09 Thu 11:33
 1867年2月9日(慶応3年1月5日) に文豪・夏目漱石が生まれてから、今日でちょうど150周年です。というわけで、今日はストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      夏目漱石(文化人)

 これは、1950年4月10日に発行された“文化切手(文化人切手のことを当時はこう呼んでいました)”の第3弾として発行された夏目漱石の切手です。

 漱石を描く“文化切手”は、小説家を取り上げた日本切手としては最初の1枚となりますが、実は、日本の小説家切手第1号の候補に挙げられたのは、漱石ではなく、幸田露伴でした。

 もともと、“文化切手”の企画は、1946年8月に発足した学生郵便切手会(以下、学生切手会)が、同年12月、「文化貢献者の肖像切手 」の発行を提唱したことが出発点となったものといわれています。

 学生切手会の提案は、1947年6月の逓信文化委員会において、郵便事業の収支改善のための増収策として記念・特殊切手を積極的に発行する方針が採択されると、「肖像入り切手」の企画として採用されました。

 当初、逓信省の企画では、「肖像入り切手」は「わが國の文化貢献者などを新聞社などに委嘱、懸賞募集して、記念切手と同様趣旨 で一月から三種程度發行する」ものとされていました。もっとも、この段階では、「肖像入り切手」の具体的な内容は漠然としたものでしかなく、具体的な発行計画などは白紙の状態であったようです。

 これに対して、日本出版協会(以下、出版協会)は、「肖像入り切手」の企画が明らかになるや、「わが國文化史上不朽の功績を殘した文化人の像を圖案化した郵便切手を發行し國民の文化愛好の精神の振興を計る」ためとして、その実現に向けて積極的な運動を展開。1948年4月には、逓信大臣宛に次のような建議書を逓信大臣宛に提出しています。

  日本文化史上に不朽の足跡を印した文化人を郵便切手の圖案とする件、その第一着手として幸田露伴の像を圖案とせる記念切手をその一周忌(昭和二十三年七月三十日)に發行する件

 我が國が今日新憲法により世界に向つて平和を提唱し、民主政治の徹底と人間性の尊重を宣言していることは改めて言う迄もなく、之と共に進んで國民に平和を求め眞理を尊び文化を昂め藝術を愛する精神と熱情を振起浸透することは今後の施策に於て最も緊要であり切望せられるところと確信する 我々はこの所信に基きかかる線に沿う我國の文化施策の一として、茲に日本文化史上に不朽の業績を遺し巨歩を印した文化人を郵便切手の圖案として採擇せられることを建議し、その第一着手として幸田露伴の像を収めた記念切手をその一周忌に發行せられんことを提案するものである 露伴は明治二十二年文壇に一旗幟を飜して以來死に至る迄六十余年、明治、大正、昭和の三代に渉り稀に見る識見と學殖と文章をもつて、我國文運の進展に寄與した偉大なる業績については敢えて贅言する迄もなく、昭和十二年にはその文化的功績を嘉せられて文化勲章を授けられ、又その死去に當つては、政府に於て國葬の議さえあつたと聞く 我々の建議案の第一着手として露伴を選び、しかもその一周忌(昭和二十三年七月三十日)を期して記念切手の發行せられんことを望むことは最も妥當であり意義極めて深いことを信ずる 當局が我々の意のあるところを賢察せられ、右の建議を速かに實現せられることを多大の期待をもつて懇請する次第である

昭和二十三年四月十五日
日本出版協會々長 石井滿

逓信大臣 富吉榮二殿
 
 出版協会の建議は、共同通信のニュースとして配信されるなど社会的にも注目を集め、同年5月13日に開催された逓信文化委員会でも議事として採り上げられています。

 会議の結果、残念ながら、出版協会の主張する露伴切手の発行は見送られましたが、逓信省もようやく文化人切手の発行に本腰を入れて取り組むようになりました。そして、これを受け、共同通信は同年7月7日付で以下のような記事を各新聞社宛に配信しています。

 文化郵便切手十月頃發賣
 逓信省は郵便事業の赤字對策として文化郵便切手を十月頃から發行する これはわが國の文化面における先覺者中から世界に誇れる文化的偉人の肖像を圖案化する切手で、外國にも販路をひろめて外資導入にも一役買うものである さしあたり、第一次計畫として本年度から三ヶ年間に毎年四、五種(三ヶ年に十五人)をその文化的偉人の誕生日、命日またはその業績に關係の深い日などに順次發行する この文化的偉人の選定は「文化郵便切手選定審査會」を設けて決定する なお同切手の収益は年間二億圓を目標とする

 こうして、シリーズとしての概要や発行までの具体的な手順などが固まったことで、文化人切手の発行がにわかに現実味を帯びて語られるようになります。切手に取り上げる文化人切手の人選に関しては、1948年の段階では、文部省が、野口英世二宮金次郎、福沢諭吉、新井白石、新島襄、鈴木梅太郎、西田幾多郎等を候補者として逓信省に示していただけで、具体的な選考作業はいっさい行われていませんでした。ただし、この時点では、文部省としては漱石を積極的に推そうという意思はなかったようです。

 また、この時点で、一部新聞などでは、文部省の協力の下、芸術院・学士院の各会員を中心に衆参両院議長など30名からなる「文化偉人切手選定委員会」が設立され、その会議において文化人切手の第一段として野口英世が採り上げられることが内定したとの報道がさかんになされていましたが、これは完全な虚報で、1948年中に「文化偉人切手選定委員会」が設立された形跡はありません 。

 1949年6月、逓信省が郵政省と電気通信省に分割されると、これにともない、同年7月、新生郵政省の諮問機関として、郵政審議会(会長の末弘厳太郎 以下、35名の委員で構成)が発足。同月25日に開かれた第1回会合で、前年来、企画途中で放置されていた文化人切手が再び議題として取り上げられました。

 審議会の結果、文化人切手を発行するという方針は確定されましたが、その具体的な人選に関しては、このときの会議では結論が出なかったため、切手候補者選定のための専門委員を置くこととなります。

 専門委員は“各界の権威者”のなかから13名 に委嘱され、9月1日、第1回の委員会が開催。委員会は、漱石を含む65名の候補者を挙げ、そこに、審議会会長の末弘の推薦により梅謙次郎を加えた計66名の中から、①正確な肖像写真がある(すなわち、明治以降の人物に限定する)、②政治家・軍人を省く、③生存中の人物も除く、などの条件で絞り込んだうえで、学術関係・文化関係(思想、教育、評論など)・芸術関係(文学、美術、演劇など)の三分野のバランスをとって、切手に取り上げる18名が決定されました。このうち、漱石は“芸術関係”の筆頭にリストされ、“学術関係”筆頭の野口英世、“文化関係”筆頭の福沢諭吉に次いで、文化切手の3番目に取り上げられることになったのです。

 さて、漱石切手の元になった肖像写真は、明治天皇の大葬後まもない1912年9月19日、東京の写真館で写真家・小川一真が撮影した4枚のうちの1枚で、オリジナルの写真では腕に喪章が付けられていますが、切手ではその部分はトリミングでカットされています。なお、旧1000円札の肖像の肖像も、この切手と同じ写真をもとに制作されました。

 切手としての原画は、木村勝が1950年1月に完成させ、渡辺文雄が原版の彫刻を担当しています。今回のデザインは、先に発行された野口・福沢の両切手とは若干趣を変えて、肖像の背景が白抜きではなくツブシとなったほか、額面数字のスタイルも変更されました。

 こうして、1950年4月10日、漱石切手が発行されましたが、切手の発行日は漱石関連の記念日とはいっさい関係がなく、単に郵政省の事務的な都合で設定されたものと思われます。このため、当日は(切手発行以外の)漱石関連の行事は何も行われず、記念スタンプの類も使用されませんでした。ただし、切手の贈呈式は福沢切手の先例にならって行われ、第一号のシートが遺族(当時は鏡子未亡人が存命)に贈呈されました。


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 英領ヴァージン諸島
2017-02-08 Wed 12:41
 先月退任したばかりのオバマ前米大統領が、カリブ海の英領ヴァージン諸島のネッカー島でカイトサーフィンなどを楽しむ写真が、きのう(7日)、公開されました。前大統領はサーフィンが趣味ですが、大統領在職中の8年間、安全上の理由で禁じられていたため、今回の退任を受け、同島のオーナーで、英ヴァージン・グループ創業者のリチャード・ブランソンが同島のリゾートに招待したのだそうです。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

      英領ヴァージン諸島(1866)

 これは、1866年に発行された英領ヴァージン諸島最初の切手のうちの6ペンス切手で、同諸島の紋章(ランプを持つ聖女ウルスラと1万1000人の処女を象徴する11基の燭台を描く)が描かれています。

 伝説によれば、ウルスラはブリトン人の王女で、南西イングランドにあったドゥムノニア王国の父王ドノートの求めに応じて、異教徒の総督、アルモリカのコナン・メリアドクに嫁ぐため、1万1000人の処女なる侍女たちと船出しました。彼女たちは神の恩寵により1日で海を渡り、ガリアの港に到着。ここで、ウルスラは、結婚の前に、ヨーロッパ全域をめぐる巡礼の旅を行うと宣言し、ローマを経て、フン族に包囲されていたコローニュ(ケルン)へと向かいましたが、383年、フン族によって虐殺され、殉教したとされています。

 ローマで彼女が謁見したという“教皇キュリアクス”が実在の人物とは確認できないことなどから、現在では、ウルスラ伝説は歴史的事実とは認められないとされていますが、中世カトリック世界では人々の信仰を集め、1493年、クリストファー・コロンブスは、プエルトリコ東方の海上で発見した島々に、人間によって汚されていない自然なままの姿が残されていることに感銘を受け、ウルスラ伝説にちなんで、ここを“ヴァージン諸島”と命名。後に、その東部が英領となると、ウルスラ伝説にちなみ、今回ご紹介の切手に描かれているような紋章が採用されました。

 英領ヴァージン諸島の首府ロードタウンは、カリブ海の英領リーワード諸島最西の港として重要な意味を持っており、1787年、首府ロードタウンのあるトルトラ島に最初の開設されました。英本国から切手が持ち込まれるようになったのは1858年のことで、当初は、“A13”の抹消印が使用されました。英領ヴァージン諸島としての最初の切手は1866年12月に発行され、額面としては、今回ご紹介赤色の6ペンスのほか、緑色の1ペニーがあります。


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 サファイア・ジュビリーを寿ぐ
2017-02-07 Tue 12:14
 英国のエリザベス女王が、きのう(6日)、1952年2月6日の即位以来、“サファイア・ジュビリー”と呼ばれる即位65年を迎えました。これは英国の歴代君主として最長の在位期間というだけでなく、存命の君主としても世界最長だそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英国・朝鮮戦争野戦局

 これは、朝鮮戦争の休戦後間もない1953年9月16日、国連派遣軍として朝鮮に派遣された英軍の野戦局から本国宛に差し出されたカバーで、エリザベス女王戴冠式の記念切手が貼られているのがミソです。

 朝鮮戦争の開戦以前、英国は朝鮮半島に対してほとんど無関心でしたが、戦争が勃発すると「ソ連が扇動してこの紛争を起こしたのでなければ、共謀して起こしたはずだ」との認識に基づき、1950年7月24日の国防委員会で朝鮮に1 個旅団を派兵することを決定します。その背景には、チェンバレン首相がミュンヘン協定を結び、ヒトラーに対して宥和政策を取ったことが第二次大戦の直接的な原因になったことへの反省がありました。

 当初、英国の派兵計画では最初の部隊の挑戦上陸は10月頃とされていましたが、釜山橋頭堡をめぐる攻防は熾烈を極めており、国連軍側はいまにも釜山から追い落とされそうな雰囲気であったため、米国統合参謀本部議長のブラッドレーは「明日の1 個中隊よりも、今すぐ手に入る1 個小隊の方に価値がある」と主張。このため、7月25日の閣議決定では、香港駐屯の2個大隊を即座に派遣することとなり、8月29日には最初の部隊が現地に到着します。

 朝鮮半島での英国軍は、早速、釜山橋頭堡防衛戦に参加したほか、1950年9月の仁川上陸作戦後は米軍とともに中朝国境の鴨緑江へ進撃しています。また、中国人民志願軍の参戦による撤退期には、米第2師団が北朝鮮の軍偶里から撤退するのを擁護しました。

 1951年4月22日から3日間の“臨津江の戦い”では、英国軍中心の第29歩兵旅団が、中国人民志願軍の第26個師団と朝鮮人民軍第1個軍団の南下を阻止しています。その際、英国軍のグロスター大隊の750名は退路が遮られたため、生死をかけた戦闘のあげく、50人余りの兵士だけが劇的に脱出に成功しました。

 さらに、休戦2ヵ月前の1953年5月28日の仁川とソウルを結ぶ交通の要路を見下ろす“フック丘の戦い”(この場合のフックは地名ではなく、英国軍の陣地の形が釣り針に似ていたことから命名された)では、英国軍が中国人民志願軍の最後の猛攻をしのいで陣地を守り抜き、死者142名、負傷者440名の大きな犠牲を出しています。この時の戦闘での中国側の死者は600-900名とみられています。

 ちなみに、フック丘の戦いから間もない6月2日、英本国ではエリザベス女王の戴冠式が行われましたが、これに呼応して、英国軍砲兵連隊では女王の即位を祝う大型の横断幕を作成し、京幾道漣川郡三和里の砲兵連隊の幕舎の前に掲げています。この時の横断幕は、その後長らく行方が分からなくなっていましたが、2014年に発見され、英国に返還されて話題となりました。なお、朝鮮戦争の全期間を通じて、英国は総兵員数2万2000名という、米軍に次ぐ兵力を派兵しましたが、英陸軍の戦死者は約870名でした。

 このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 千代田区の由来
2017-02-06 Mon 10:18
 小池百合子東京都知事と都議会自民党との“代理戦争”と呼ばれた東京都千代田区長選の投開票が、きのう(5日)行われ、都知事が支持した現職区長が自民推薦候補の3倍を超える得票で5選を決めました。というわけで、きょうは“千代田区”の名前の由来にちなんでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      万国郵便連合加盟25年絵葉書(千代田城)

 これは、1902年6月18日に発行された「万国郵便連合加盟25年祝典」の記念絵葉書のうち、“千代田城及楠正成銅像”の1枚です。

 現在の千代田区は、19473月15日に麹町区と神田区が合併して誕生したもので、区域が、現在の皇居=“江戸城”の外濠の内側部分とほぼ一致していることから、江戸城の別名である“千代田城”にちなんで命名されました。ちなみに、千代田城という名前は、江戸城の建設された土地が千代田村と呼ばれていたことによるもので、千代田そのものは、“千代=永遠”の“田”、すなわち、末々まで繁栄し続ける田園地帯との意味です。なお、千代田城とともに葉書に取り上げられた楠公像は、住友財閥が1890年の別子銅山創業200年の記念事業として東京美術学校の高村光雲らに制作を依頼したもので、1900年7月に完成し、宮内庁に献納されました。

 さて、今回ご紹介の葉書は、1900年10月1日の郵便法施行により、私製はがきの使用が認められたことを受けて、逓信省が発行した官製記念絵葉書としては最初のものとなります。

 しばしば誤解されるのですが、郵便法の施行以前にも、あらかじめ印面が印刷された官製はがき以外の用紙を使って葉書状のものを郵便で送ることは可能でした。しかし、それらはあくまでも、通常の封書と同じ扱いで、割安な葉書料金で送ってよいのは官製はがきに限られていました。

 一方、諸外国でも、当初、葉書は官製はがきに限定されていましたが、1872年、世界で初めて、ドイツで私製はがきの使用が認可されます。

 官製はがきしかなかった時代から、通信面に絵柄などを刷り込んだ絵葉書は自然発生的に作られていましたが、当時の印刷技術では、葉書の用紙には写真を美しく再現することが困難であるなど、さまざまな制約があったため、官製はがきの制約にとらわれず、より自由なデザイン、趣向の葉書を作って差し出したい利用者は、個人で葉書の用紙を調達して差し出していました。その場合、料金は通常の封書料金と同額です。

 これに対して、郵送するものの形状・重さが官製はがきと同じであるなら、料金も葉書料金とすべきではないかとの声が利用者から上がり、ドイツの郵政当局は(主として絵葉書を想定して)私製はがきの使用を承認。これに続き、翌1873年にはフランスでも私製はがきの使用が認可されると、私製の絵はがきをやり取りする習慣は欧州大陸に広まり、1894年にはドーヴァー海峡を渡って英国へ、さらに、1989年には米国でも私製はがきの使用が認められるようになり、諸外国と平仄を合わせるかたちで、1900年にはわが国でも(葉書料金での)私製はがきの使用が認められるようになったというわけです。

 なお、諸外国では、“官製絵はがき”という場合、郵政機関が料額印面こみで発行するものが主流となっていますが、戦前日本の逓信省発行の絵はがきの場合は印面なしのものが大半であるため、海外の切手展などでは“官製”と認定されないことが少なくありません。

 さて、現在の“万国郵便連合(Union Postale Universelle)”の前身にあたる“一般郵便連合(Union Postale Generalle)”に、1877年6月1日付でわが国の加盟が認められたのは、同年3月3日のことでした。ただし、通達の遅れから、日本政府が条約を公布したのは6月19日にずれ込み、同条約の施行は翌20日からとなります。

 現在、わが国の万国郵便連合加盟記念日は、日本政府が加盟申請を行ったのが明治10年2月19日だったことから、2月19日とされていますが、今回ご紹介の葉書の発行名目となった万国郵便連合加盟25周年祝典は、条約施行の記念日に合わせて、6月20日に行われており、葉書は、これに先立ち、同月18日に発行されました。

 ちなみに、葉書は6枚1組で売価は5銭。そのデザインは、今回ご紹介のモノに加え、①山陽道沿岸の鉄道での郵便受け渡し場、②明治10年の条約加盟当時の駅逓局と日本の加盟を承認した大会議が行われたスイス・ベルンの会議場、③祝典当時の郵便航路を含む日本地図、④条約加盟当時の横浜郵便局と、祝典当時の横浜郵便局、⑤東京郵便電信局舎と郵便発着口、の計6種がありました。


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 世界の国々:パラグアイ
2017-02-05 Sun 10:51
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年2月1日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はパラグアイの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      パラグアイ・日系移民80年

 これは、2016年、日本人移民80周年を記念してパラグアイが発行した切手シートです。

 パラグアイへの日本人の制度的な移民は、1930年、わが国の在アルゼンチン特命全権公使がパラグアイのホセ・パトリシオ・グヒアリ政権から日本人のパラグアイ移住を歓迎するとの感触を得て、「パラグアイ拓殖計画」を日本政府に提出したのが出発点となります。

 当時の日本は経済力に比して人口が過剰で海外への移住が奨励されていましたが、南米に関しては、ペルーとブラジルへの移民が主流だったこともあり、1930年の時点では、パラグアイへの移民が真剣に検討されることはありませんでした。

 ところが、1934年、ブラジルではナショナリズムを強調するヴァルガス政権が「移民二分制限法」(新規の移民は、すでに定住している当該国人の2%を超えることが出来ないとする制度)を発令。このため、それまで年間2万人だった日本からブラジルへの移民枠は年間2500人にまで制限されました。そこで、ブラジルに代わる日本人の移民先として、パラグアイが注目されることになり、1935年、アヤラ政権は、日本人100家族に対して、パラグアイへの入国許可を出します。

 しかし、1936年2月17日、ラファエル・フランコ大佐のクーデターが発生し、アヤラは失脚。権力を掌握したフランコは、「日本人移民の入国許可は前政権が出したものであって、現政権はこれを認めない」として、日本からの移住計画を白紙にすると表明します。

 その結果、日本政府としては表だって準備が進められなくなったため、実際には拓務省がパラグアイへの移民準備を進めるものの、名目上は、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の専務理事であった宮坂国人が個人の名義で日本からの移民の入国許可申請の手続きを行い、入植地の購入を行うことになりました。ちなみに、今回ご紹介のシート左側の人物は、入植地選定のための調査を行った笠松尚一(2代目パラグアイ日本人会連合会会長)です。

 さて、宮坂は、1936年3月、首都アスンシオンから東南約130kmの地点にあるラ・コルメナ地区の1万1000ヘクタールの土地を入植地として選定するとともに、ブラ拓内にパラグアイ拓殖部(パラ拓)を設けて、体制を整え、時季を待つことになります。

 こうした敬意を経て、1936年4月30日、パラグアイ政府が大統領令第1026号をもって日本人移民100家族に対する受入許可を出すと、同年5月15日にはパラ拓スタッフが、6月にはブラジルからの指導移民が、それぞれ先遣隊としてラ・コルメナに入り、8月、日本から到着した最初のパラグアイ移民を迎えました。

 1941年の日米開戦に伴い、パラグアイは日独伊三国と国交を断絶。以後、ラ・コルメナへの入植者も途絶します。さらに、1945年にパラグアイが日本に宣戦布告をすると、ラ・コルメナ移住地は全パラグアイの日本人収容地となり、日本人の移住地以外への外出は制限されました。

 大戦後も、ラ・コルメナ移住地では1946-47年に大規模な蝗害が発生するなど入植者の苦難は続きましたが、移住者は徐々に増加し、移住地も他の地域に拡大していきます。

 1954年にクーデターで政権を掌握したアルフレド・ストロエスネルは、1989年まで35年の長きにわたり、強権的な開発独裁制作を続けましたが、彼は生年が明治天皇崩御の1912年、誕生日が旧明治節の11月3日ということから、みずからを“明治大帝の生まれ変わり”と信じていたことにくわえ、日系農家の生産性が高かったこともあって、親日的な傾向が強い人物でした。このため、ストロエスネル政権は、1959年に日本・パラグアイ移住協定に調印し、30年間に8万5000人の日本人移民の受け入れを約束。実際にはそこまで多くの移民は集まりませんでしたが、日本はパラグアイに対する援助を拡充し、日系移民の社会的な地位も大いに向上することになります。

 ちなみに、日本人移民の入植以前は、パラグアイでは小麦はほぼすべて輸入に頼っていましたが、日本人の農場で小麦が生産されるようになったことで、現在のパラグアイは小麦の輸出国になっています。また、1960年代に日系移民が始めた日本への大豆輸出は、現在ではパラグアイの主要輸出作物の一つに成長しており、2011年の東日本大震災後には「100万丁豆腐プロジェクト」として100万丁分の原料の大豆と製造加工費の日本への支援も行われています。

 さて、『世界の切手コレクション』2月1日号の「世界の国々」では、パラグアイにおける日系移民についての長文コラムに加え、特産品のひまわり、カアクペの聖母、チャコ戦争、フリージア帽を守るライオンの紋章切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のパラグアイの次は、8日に発売予定の2月15日号でのモルディヴの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の15日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 日本版“ウォリアー・モンク”
2017-02-04 Sat 08:44
 きのう・きょう(3・4日)の日程で、米国のジェームズ・マティス国防長官が来日中です。先月21日に発足したばかりのトランプ政権の閣僚の訪日は初めてということなので、国防長官のあだ名の一つ”ウォリアー・モンク(Warrior Monk)”にちなんで、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ふるさと切手(京都)・義経と弁慶

 これは、1995年4月3日に発行された“ふるさと切手(京都府)”の「牛若丸と弁慶」で、京・五条大橋での牛若丸(源義経)に襲い掛かる荒法師の武蔵坊弁慶が描かれています。

 マティス国防長官のあだ名としては、“マッド・ドッグ(Mad Dog)”とウォリアー・モンクが知られています。このうち、マッド・ドッグは、日本のメディア等では“狂犬”と直訳して紹介されることが多いのですが、米国では、文字通りの意味というよりも、いい意味での“恐れを知らぬ荒くれ者”というニュアンスが強いのだそうです。

 一方、ウォリアー・モンクは、長官に結婚歴がなく、子供もいないことから、“独身で禁欲的な戦略家”のイメージでつけられたもので、日本語としては“戦う修道士”と訳されることが多いようです。ただ、歴史用語としては、比叡山などの僧兵も“(Buddhist) Warrior Monks”と訳されますので、今回は、歴史上、最も有名な僧兵として、弁慶の切手をご紹介したという次第です。

 歴史上の人物としての弁慶については、ほとんど資料が残っていないのですが、芝居や講談などでは、元は比叡山の僧で、武術を好み、1000本の刀を集めるとの願をかけたものの、その1000本目を狙って五条大橋で義経に挑んだものの敗れたのを機に、義経に仕えるようになったとされています。

 今回ご紹介の切手の原画は、1940年に京都で生まれた日本画家・扇面絵師の水島征夫が制作したものです。なお、弁慶関連の切手としては、ほかに、歌舞伎の「勧進帳」を題材としたモノもあるのですが、「勧進帳」での弁慶は山伏姿ですので、“Warrior Monk”を直訳して“僧兵”ということであれば、やはり僧形の弁慶でないと格好がつきますまい。

 ところで、弁慶が使っていた薙刀は“岩融”と呼ばれる大型のもので、記録によれば、刃渡り3尺5寸(105cm)もあったとされています。

 ちなみに、“なぎなた”の漢字表記としては、薙刀の他に長刀がありますが、“横に大きく振り払って切る”という意味の“薙ぐ”刀、すなわち、刃の重さと遠心力を使って相手にダメージを与えるという、この武器としての本質からすると、薙刀の方が適切です。長刀という表記だと、単に刃渡りの長い“長刀(ちょうとう)”と区別できませんので…。

 さて、弁慶の時代の標準的な薙刀は刃渡り3尺(90cm)以下でしたから、やはり、岩融は別格の大きさです。弁慶は、生涯、岩融を愛用し続け、1189年に衣川の戦いで戦死し、有名な“弁慶の仁王立ち”となったときにも、その手にはしっかりと岩融が握られていたとされています。今回ご紹介の切手に描かれている薙刀も、もちろん、岩融のはずなのですが、切手を見る限り、どうも刃渡りが3尺5寸もあるようには見えないのが、ちょっと残念です。

 なお、南北朝の争乱の頃までは、薙刀は武器として盛んに用いられていましたが、応仁の乱の後、足軽の歩兵集団が誕生し、兵たちが密集して攻撃を仕掛ける戦法が主流になると、兵たちには薙刀を振り回すだけの空間的な余裕がなくなります。そこで、穂先が軽量で、部隊として一斉突撃に向いている槍が普及し、薙刀は実用的な武器としてはすっかりすたれてしまいました。

 その後、江戸時代に入ると、薙刀は敵の殺傷そのものを目的とはしない“武芸”の具として発展し、女性による女薙刀が競技として定着。これが、現在のスポーツ競技としての“なぎなた(競技名としては、かな書きが正式)”の源流となりました。

 ちなみに、薙刀の歴史と女性との関係については、拙著『日の本切手 美女かるた』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 羅刹の王
2017-02-03 Fri 10:32
 きょう(3日)は節分です。というわけで、例年どおり、鬼に関連する切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・ラーヴァナ

 これは、1974年にインドで発行された仮面の切手のうち、鬼神・ラークシャサ(羅刹)の王、ラーヴァナの面を取り上げた1枚です。

 ラーヴァナは『ラーマーヤナ』に登場するラークシャサの王で、10の頭、20の腕と銅色の目、月のように輝く歯と山のような巨体を持つとされています。

 ラークシャサの一族は、かつてランカー島に住んでいましたが、その傲慢さと悪行のゆえに島を追われました。ラーヴァナは一族の再興を目指して、千年の間、10の頭を1つずつ切り落として火にくべるという荒行に励み、最後の1つを切ろうとしたとき、ブラフマー神に認められ、「神仏に負けない」という絶大な特権を得ます。また、シヴァ神の住むカイラス山を揺らして罰せられたラーヴァナは、シヴァに許された際、“月の派”を意味する剣、チャンドラハースを下賜されます。この二つを持って、ラーヴァナは当時ランカーを治めていたクベーラ神と戦って、空を飛翔する戦車プシュパカ・ラタを奪取し、クヴェーラ神をカイラス山に撤退させ、ランカーを奪取しました。

 その後、ラーヴァナは征服戦争に乗り出し、ラーヴァナ軍はインドラ神をも破って、多くの王や聖仙、半神たちから人妻や娘を奪ってランカーに連れ去りました。

 そこで、神々はヴィシュヌ神に助けを仰だため、ヴィシュヌ神はアヨーディヤーの王子ラーマとして転生し、ラーヴァナを討つことを約束。一方、ラーマによって同族が殺されたことに怒ったラーヴァナは、ダンダカの森でラーマの妃シーターを拉致し、これをきっかけに勃発したラーマとラーヴァナの大戦争の物語が、『ラーマーヤナ』のストーリーの中心となります。


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 ルーマニアで革命以来の大規模デモ
2017-02-02 Thu 14:50
 ルーマニアで、きのう(1日)、汚職を免罪する緊急命令を発令した政府への抗議デモが全土で30万人にまで拡大し、1989年にニコラエ・チャウシェスク大統領の社会主義政権を打倒したデモ以来、最大の規模となったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・1989年革命(ブカレスト)

 これは、1990年、1989年革命1周年を記念してルーマニアで発行された寄附金つき切手で、首都ブカレストでのチャウシェスク政権に対する反政府デモのようすが描かれています。

 社会主義経済が破綻していたルーマニアのチャウシェスク政権は、起死回生の策として、1988年3月、“農村再編計画”を発表。生産を高めるためとの名目で、農地整備のためにトランシルヴァニアを中心に8000もの村落を破壊し、農民を強制移住させようとしました。

 当然のことながら、“農村再編計画”は国民、なかでも、強制移住の対象者が多かったハンガリー系(当時のルーマニアの人口の27%を占めていました)の猛反発を招き、体制に絶望したハンガリー系住民のハンガリーへの逃亡が続出。ハンガリー政府もルーマニアの政策を人権侵害として国連人権委員会に提起するなかで、ラースロー・テケシュという一人のカルヴァン派牧師の存在がにわかにクローズアップされていくことになります。

 テケシュは1952年生まれ。最初の任地であったデジュで当局の意向に反してハンガリーの文化と歴史を講じて解職され、2年間のブランクの後、1986年、ティミショアラに赴任しました。

 ティミショアラでの彼は、次第に体制批判の度を強め、ハンガリー系のみならずすべての抑圧されたルーマニア人のための人権擁護運動を展開し、幅広い支持を集めるようになります。これに対して、テケシュの行動を苦々しく思っていたルーマニア政府は、1989年7月、厄介払いの意味も込めて、彼の申請を受理してハンガリー行きの旅券を発給しました。

 出国したテケシュはハンガリーでカナダのテレビ局のインタビューを受け、トランシルヴァニアのハンガリー系住民の苦境について語り、そのインタビューがハンガリーで放映されると、大きな話題となりました。

 当然、テケシュはそのままハンガリーに亡命するものと思われていたのですが、予想に反して、ルーマニアに帰国してしまいます。

 その後、テケシュの元には毎日のように脅迫状が舞い込み、9月には支持者が謎の“自殺”に追い込まれました。さらに、治安当局は彼を12月15日限りでティミショアラからの退去と北部の寒村、ミネウへの強制移住を命じます。

 これに対して、ティミショアラからの強制退去期限の12月15日が近づくと、その数日前から、彼を守ろうとする信者たちが教会に泊まり込むようになりました。そして、15日の当日はさらに多くの信者や市民が集まって教会を取り囲み、出動した治安警察部隊に激しく抗議します。さらに、翌16日、期限切れを理由に治安警察がテケシュを連行しようとすると、ついに市民の怒りが爆発。多数の市民が市内中心部に集まり、共産党ティミショアラ県委員会本部がある市役所に乱入して、書類を破り、チャウシェスクの肖像画を窓から投げ捨て、街路で火をつけるなど、ティミショアラは騒乱状態となりました。

 報告を受けた党政治執行委員会は緊急会議を招集し、チャウシェスクは治安警察部隊に実弾を供給していなかったとして、ヴァシレ・ミレア国防相とトゥドル・コスタニク内相、ユリアン・ブラッド秘密警察長官(内務副相)の三人を厳しく叱責。「党の建物に侵入した者を生きたまま帰すな」と厳命します。

 さらに、17日、チャウシェスクはティミショアラに内務省秘密警察、国境警備隊、治安警察の応援部隊を派遣し、市内中心部のオペラ劇場付近に集まっていた市民に対して自動小銃や装甲車の車載銃などで発砲。多数の死傷者が生じ、大聖堂正面の階段は、堂内に逃げ込もうとしたものの、背後から治安部隊の銃弾を受けた子供たちの鮮血で赤く染まりました。こうして、“暴徒”を鎮圧したチャウシェスクはすっかり安心し、予定通り、翌12月18日から外遊先のイランへと旅立ちます。

 一方、治安部隊の発砲によりティミショアラで多数の犠牲者が出たという情報は、ただちにVOA(アメリカの声)などによって全世界に伝えられました。ルーマニア国内では事件についての報道はなく、首都ブカレストも表面的には平穏を保っていましたが、17日の流血事件の情報は口コミでルーマニア国内を駆け巡り、ブラショフ、アラド、シビウ、クルージュなどでも暴動が発生。翌19日にはルーマニア全土に非常事態宣言が布告されました。

 チャウシェスクは20日にイランから帰国し、情勢報告を受けると、国営ルーマニア放送のテレビを通じて演説をおこない、発砲は“暴徒”鎮圧のためにやむを得なかったと説明。しかし、ティミショアラの市民や犠牲者たちを“フーリガン”“外国のスパイ”と非難した彼の演説は、結果的に、多くの国民の猛反発を買います。

 そして、21日、チャウシェスクはブカレスト中心部の勝利広場で官製集会を開きましたが、群衆の中から「チャウシェスク打倒」、「ティミショアラ」の野次が飛び、爆竹が炸裂し、演説を中断。翌22日、全土に戒厳令を発し、軍に治安回復を命じましたが、軍は命令を拒否し、かえって装甲車で大統領官邸のある共和国広場に押し寄せてきました。ここにいたり、チャウシェスク夫妻は党本部からヘリコプターで脱出。独裁政権は崩壊しました。

 さて、今回の大規模デモは、昨年12月の選挙で政権を奪還した社会民主党(PSD)ひきいるルーマニア政府が、先月31日夜、一部の汚職犯罪について免罪するとの緊急命令を出し、汚職による損失額が4万4000ユーロ以上だった場合のみ収監対象とすると宣言したことに対して、現在2万4000ユーロの汚職容疑で起訴されているPSD党首のリビウ・ドラグネアを救済しようとする意図が露骨だとして、抗議活動が広がったもので、首都ブカレストでは、昨晩、一部のデモ参加者がペットボトルや爆竹、石などを治安部隊に投げつけ、治安部隊側が催涙ガスで応酬。警官とデモ参加者、合わせて数人が軽傷を負う騒ぎになったそうです。

 なお、1989年のルーマニア革命については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 沢村栄治100年
2017-02-01 Wed 17:00
 日本のプロ野球草創期の大投手として知られる沢村栄治が、1917年2月1日に生まれてから、きょう(1日)でちょうど100年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      沢村栄治(20世紀デザイン)

 これは、2000年3月23日に発行された「20世紀シリーズ」第8集のうち、“沢村栄治投手の活躍”を取り上げた1枚です。切手の図案は野球体育博物館提供の写真をもとにコラージュとして制作されています。写真の沢村が実際に着用していたユニフォームは、グレーの生地の上下に胸の文字は黒、襟と袖の線は紺色でアンダーシャツは黒(もしくは濃紺)でしたので、デザイナーによる着色は実際のイメージとはかなり異なります。まぁ、切手では、沢村の使っているグラブが紫色という、当時としては、ほぼありえない色となっていますので、そもそも、デザイナーには、あくまでもデザイン性優先で、史実を忠実に再現しようという意識はなかったのかもしれません。

 さて、沢村は、1917年2月1日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)で生まれました。京都商業学校(現・京都学園高等学校)の投手として、1933年春、1934年春・夏の甲子園に出場した後、1934年に京都商業を中退し、同年11月、読売新聞社主催の日米野球の全日本チームに参戦。11月20日、静岡県草薙球場で開催された試合では、7回裏にルー・ゲーリックにソロ本塁打を浴びたのみで、メジャーリーグ選抜チームを8回5安打1失点と好投し、ベーブ・ルースに称賛されたことで脚光を浴びました。

 同年末、全日本チームを基礎に職業野球チームとして「大日本東京野球倶楽部」(現・読売ジャイアンツ)が結成されるとこれに参加。プロ野球リーグが始まる前の1935年、第1次米国遠征に参加して21勝8敗1分け、同年の国内巡業では22勝1敗、翌1936年の第2次米国遠征でも11勝11敗の成績を残しました。そして、プロ野球リーグが開始された1936年秋には史上初のノーヒットノーランを達成したほか、同年12月、大阪タイガースとの最初の優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらしています。また、1937年春には24勝(うちノーヒットノーラン1度を含む)・防御率0.81の成績を残して、プロ野球史上初となるMVPに選出されたました。

 しかし、徴兵によって甲種合格の現役兵として入営、1938年から満期除隊の1940年途中まで中国大陸に出征。この間、手榴弾を投げさせられたことから右肩を痛めたほか、戦闘で左手を銃弾貫通で負傷、さらにマラリアに感染しました。1940年の復帰後はサイドスロー転向し、抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球で3度目のノーヒットノーランを達成しています。

 1941年終盤から1942年にかけて、ふたたび応召により予備役の兵として軍隊に戻り、1943年に球界に復帰したものの、1943年7月6日の対阪神戦の出場が最後で、3イニングで8与四死球と2被安打で5失点で降板となり、同年10月24日、代打での出場が最後の公式戦となりました。

 現役引退後の1944年10月2日、またもや応召し、同年12月2日、フィリピンに向かうため乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ海軍潜水艦「シーデビル」により撃沈され、屋久島沖西方で戦死しました。享年27歳。職業野球通算63勝22敗、防御率1.74。

 戦後の1947年7月9日、巨人軍は沢村の功績をたたえて背番号14を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定したしたほか、同年、沢村の功績と栄誉を称えて“沢村栄治賞(沢村賞)”が設立されたのは広く知られるところです。現在、東京ドームそばの「鎮魂の碑」には、石丸進一ら太平洋戦争で戦死したプロ野球選手とともに、沢村の名も銘記されています。

 なお、沢村をモデルとした切手は、今回ご紹介のモノのほか、1984年に発行された“日本プロ野球50年”の記念切手があります。こちらについては、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しく説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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