内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 英領香港の終焉から20年
2017-06-30 Fri 13:56
 1997年6月30日をもって、英領香港の歴史に幕が下りてから、今日でちょうど20年です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。

      香港・英領香港最終日シート(葉書)

 これは、英領香港最終日の1997年6月30日に発行された切手シートを貼り、オランダ宛に差し出された葉書です。この切手シートに収められている切手は1991年に発行された“香港郵政署150周年”の記念切手の5ドル切手で、英領であることを示す王冠のマークが入っていますので、発行翌日の7月1日以降は郵便には無効となりました。このため、使用可能なのが1997年6月30日の1日しかなく、初日カバー以外の実逓便を探そうとするとそれなりに苦労します。今回ご紹介の葉書は、おそらく、現地に滞在していた外国人が差し出したものだろうと思いますが、欲を言えば、着印が押されるよう、書留にしてくれたらなおよかったですな。

 なお、葉書に押されている最終日の印は英領香港初期の1841-42年に使われた郵便印を模したスタイルになっています。

 葉書に貼られているシートには、中央郵便局の局舎と英領香港切手の変遷がまとめられていますが、左上の緑色の図が、アヘン戦争中の1841年、ヴィクトリアピークの中腹に設けられた最初の局舎です。その後、市街地の開発とともに郵便局も維多利亜の地域に移転し、1846年には畢打街と皇后大道中の交差点に2代目の局舎(シート右上)が設けられました。香港最初の切手が発売されたのは、この局舎の時代です。

 古き良き時代の香港の象徴として有名なエドワード様式の重厚な局舎(シート右下)は3代目で、1911年、2代目の局舎が手狭になったため、旧局舎から100メートルほど北側の海寄りの場所、つまり、西側を畢打街、北側を干諾道中、南側を徳輔道中で囲まれた一角に建てられました。

 現在の中央郵便局(小型シート左下)は、そこからさらに北へ200メートル弱動いた場所、つまり、中環の康樂廣場に面したところにあります。中央郵便局が現在の場所に移ったのは、地下鉄の中環駅を建設するためで、かつての郵便局の跡地には27階建ての環球大廈が実質的な駅ビルのような格好で建っています。

 さて、ことしは香港返還20周年ということで、僕も、7月15-17日(土-月・祝)に東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催の全日本切手展に、昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。 ぜひ、当日会場でご覧いただけると幸いです。

 なお、1997年までの香港の歴史については、拙著『香港歴史漫郵記』でもまとめておりますので、こちらも併せてご覧いただけると幸いです。

 * 6月29日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第5回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。


 ★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月15-17日(土ー月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオーストラリア切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2017ポスター

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 ことしは、香港“返還”20周年ということで、内藤も昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。よろしかったら、ぜひ会場にてご覧ください。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

  6月29日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第5回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲があるため、少し間が開いて7月27日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、29日放送分につきましては、放送から1週間、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 切手でひも解く世界の歴史(5)
2017-06-29 Thu 07:36
 本日(29日)16:05から、NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回が放送される予定です。(番組の詳細はこちらをご覧ください)。今回は、7月1日の香港“返還”20周年にちなんで、こんな話をする予定です。(画像はクリックで拡大されます)

      1994年・香港切手展シート

 これは、1994年に香港で発行された“香港切手展”の切手シートで、当時の香港島・ヴィクトリア湾のウォーターフロントが取り上げられています。

 香港で年々増殖し続けている高層ビル群は経済発展にあわせて無秩序に林立していったようにも見えますが、その背後には、香港の人たちが心の拠り所(の一つ)としている風水が色濃く影を落としています。

 たとえば、今回ご紹介のシートでは、エリザベス女王の切手の左上に1990年に完成した中銀タワー(香港の中国銀行ビル)がそびえたっていますが、当初、この建物を見た香港の風水師は仰天したそうです。というのも、ビルの形状が包丁のように見えるだけでなく、その刃の面が、一方は英総督府の方向に、他方は香港上海銀行(香港金融界の支配者とされる英国系の銀行)の方向に、それぞれ、向けて建てられていたからです。

 はたして、中銀タワーができてから総督府の敷地内の大木が枯れ、当時のウィルソン総督も怪我をしてしまいました。このため、香港社会は、中国政府が返還前に英国の香港支配の拠点に殺気を送るためにこのようなビルを建設したと大騒ぎになり、総督府側もこれを放置できなくなり、総督府構内の中庭の池は四角形から円形に改められ、その側に柳の木を三本植えるという風水上の対抗手段が取られています。

 一方、総督府同様、中銀タワーから刃先を向けられることになった香港上海銀行の新社屋は、中銀タワーに先立ち1986年に完成していましたが、こちらは、1階部分が4本の柱に支えられて空洞になっており、地に足がついていないことから、返還後、銀行の金をイギリスへ持ち出すには最高の風水といわれました。じっさい、香港上海銀行は1990年にロンドンにグループの持株会社、HSBCホールディングスを設立し、その傘下に入っています。

 こうした風水戦争は、その後も続けられ、中銀タワーの殺気をそぐため、中環にはエンターテインメント・ビルが、湾仔にはセントラルプラザ(切手シートでは、資格に囲まれたロゴマークのビルです)が、それぞれ建てられました。この2つのビルは、いずれも、刃物に対抗するためにヤスリの形を意識して造られています。そうした返還直前の香港の町並みは、当時の切手シートにもはっきりと描かれています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろ解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、こちらも併せてご覧いただけると幸いです。 


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は29日!★★★ 

 6月29日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 泰国郵便学(49)
2017-06-28 Wed 10:20
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第3号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・王室御座船シリーズ(75サタン)

 これは、1975年11月18日にタイで発行された“王室御座船”シリーズのうち、供奉船の“スックリープ・クロン・ムアン”を取り上げた75サタン切手です。

 王室御座船は、王室の特別な行事に際してのみ使用される豪華な装飾船で、その歴史はスコータイ王朝(1463年滅亡)の時代に、カオパンサー(入安居)の蝋燭点灯式やローイ・クラトーンの燈籠流し等に際して、国王の行幸船として用いられたのが始まりだとされています。

 アユッタヤー王朝時代には、首都が河川と運河に囲まれていたこともあり、王の権威と権力を可視化するための行事として御座船のパレードが行われたほか、ナーラーイ王(在位1633-88年)の時代、フランス国王ルイ14世の使節団をもてなすため、200艘のロングボートによるパレードも行われました。さらに、ボーロマコート王(在位1733-58)の時代には、御座船パレードの際に使用される楽曲も整えられています。なお、当時の御座船はいずれも平底船でした。

 アユッタヤー王朝滅亡の際、王室の御座船は戦乱により焼失しましたが、チャクリー王朝の創始者、ラーマ1世は、1782年にバンコクに遷都した後、アユッタヤー王朝時代以来の御座船の伝統を再興しただけでなく、新しい御座船の建設を命じました。なかでも、タイの代表的な木材であるチークの1本材を削りだして作られた長さ50mの船“シー・スーパンナホーン”は、船首に聖鳥“ホン(ブラフマー神の乗り物とされる金の白鳥)”の装飾が施されており、王室御座船の最高傑作として、王専用の船として用いられていました。

 ちなみに、シー・スーパンナホーンは後に老朽化が進んだため、ラーマ6世の時代に、これを模して建造されたのが、現在のタイの御座船を代表する名船として知られる“スリ・スーパンナホーン”です。

 ラーマ4世の時代になると、御座船はトートカティンの儀式での船渡りにほぼ使用が限定されるようになりました。トートカティンは、雨季の終わりを祝うオーク・パンサー(毎年、陰暦11月の満月の日)の日に僧侶に僧衣を贈呈する儀式のことで、バンコクでは国王みずからが御座船に乗ってワット・アルンに出向き、僧たちに僧衣を下賜しています。

 チャクリー王朝の成立後も王室御座船とパレードの習慣は継承されていましたが、1932年6月に立憲革命が起こり、立憲君主制に移行すると、御座船の管理は王室とタイ海軍が行うことになり、バンコク・ノーイのドックがその保管場所になりました。バンコク・ノーイは、大東亜戦争(タイの歴史用語としては、第二次大戦は大東亜戦争と呼ばれています)中、連合軍の空襲を受け、御座船も大きな被害を受けたため、1947年、芸術局が御座船の修復を担当。芸術局は、その後も引き続き修復された御座船の管理を行なっています。

 なお、大東亜戦争後、王室によるトートカティンの船渡りは再開されましたが、文化財としての御座船を保護するため、現在、御座船の使用は王族の重要な行事に限定されています。また、1972年には、御座船のドックは芸術局所属の王室御座船国立博物館となり、一般公開されています。

 御座船のパレードでは、4艘の王室御座船を中心に52艘の供奉船が全長1.2Km・幅90mの隊列を組み、総勢2082人の漕手によって、ワースグリー桟橋からワット・アルン桟橋までの4.5 Kmを進んで行きます。今回ご紹介の切手を含む“王室御座船シリーズ”の切手の背景には、いずれもワット・アルンのシルエットが描かれていますが、これは、トートカティンの船渡りを含め、御座船の運行経路を踏まえたものです。なお、国王が実際に乗り込む御座船では、国王は船体中央の船室内に着座し、黄金と赤の櫂を持つ漕手が総勢50名、舵手と航海士が各2名、その他船尾信号旗手・漕手監督・王座天蓋支持者が伺候することになっています。

 今回ご紹介の75サタン切手に取り上げられているのは、『ラーマキエン物語』に登場する猿族の王、将の像を船首に掲げるクラビー型の供奉船のうち、猿王スックリープの像を掲げる“スックリープ・クロン・ムアン”です。

 『ラーマキエン物語』によると、サケート国の君主であった仙人のコドムは、火の中から生まれた美女、アッチャナーを妻とし、2人の間にはサワーハという娘が生まれました。

 その後、コドムの留守中、インドラ神は一人きりになったアッチャナーを見初めて彼女と関係を結びます。アッチャナーはインドラ神の子を身籠り、10カ月後、エメラルド色の男の子が生まれました。コドムはこの子をインドラ神の子とは知らずにサワーハよりもかわいがりました。

 別の日、コドムが留守の間に、西の空を照り付けていた太陽神を見たアッチャナーは彼に恋をし、10ヶ月後、太陽神のように赤い男の子が生まれます。

 当初、コドムはサワーハよりも2人の男の子をかわいがっていましたが、サワーハから男の子の父親が自分ではないと聞かされ激怒。3人の子を川に突き落とし、自分の子であれば泳いで戻ってこられるけれども、そうでなければサルになってしまうよう呪いをかけます。その結果、サワーハは戻ってきましたが、2人の男の子はサルになり、森の中に逃げ込みました。

 これを見たインドラ神と太陽神は、サルとなった2人を不憫に思い、2人のためにキートキンの国を作ってやります。そして、ヴシュヌ神が鬼を退治するその日まで、その国を治めるようにインドラ神の子をパーリー、太陽神の子をスックリープと名付け、兄のパーリーを国王に、弟のスックリープを副王としました。ちなみに、2人に軍師として仕えたのが白猿の将軍、ハヌマーンです。

 さて、あるとき、パーリーとスックリープは悪鬼と戦い、追い詰められた悪鬼は洞窟に逃げ込みました。パーリーは弟のスックリープに洞窟の入口で見張りをさせ、単身、敵を追って洞窟の中に入っていきましたが、洞窟内は複雑に入り組んでいて、悪鬼を探し出して討伐する間に1年が経ってしまいました。

 この間、スックリープは、パーリーが戻ってこなかったため、兄が悪鬼との戦いで戦死したと思い、悪鬼が洞窟から出てこないように入り口をふさいで都に戻り、重臣たちによって王として推戴されます。

 ところが、悪鬼を倒して洞窟の入口に戻ってきたパーリーは入口がふさがれているためになかなか外に出られませんでした。苦心の末にようやく洞窟の外に出たパーリーは、スックリープが王となっていることを知り、激怒。王位を簒奪したスックリープを追放し、さらに追手を差し向けます。

 こうしてパーリーとスックリープは互いに敵味方に分かれて戦うことになりましたが、最終的に、ラーマ王子の援助を受けたスックリープがパーリーを打ち負かします。なお、パーリーはラーマの放った矢によって落命しますが、死の間際、ようやく、スックリープに対して抱いていた猜疑心から解放されました。

 なお、タイの王室御座船については、拙著『タイ三都周郵記』でも関連の切手や絵葉書をご紹介しておりますので、機会がありましたら、そちらも併せてご覧いただけると幸いです。


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 ジブチ共和国独立40年
2017-06-27 Tue 21:57
 1977年6月27日にアフリカのジブチ共和国が独立して、今日で40年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジブチ・三角(1894)

 これは、1894年、仏領時代のジブチで発行された切手で、現地兵を描く枠の中に、当時のフランスの砲艦が描かれています。

 19世紀後半、スエズ運河の建設が始まると、フランスは紅海に連なるタジュラ湾のオボック港を租借。あわせて、周辺への勢力拡大を図り、1888年、ジブチ港の建設を開始しました。ちなみに、オボックが紅海を通過するフランス船の寄港地として重要視されていたのに対して、ジブチはエチオピア進出への拠点とみなされていました。

 ジブチで最初の切手が発行されたのは1894年のことで、当初は、オボック切手(1892年から発行開始)に加刷したものでしたが、次いで、今回ご紹介のモノを含む正刷切手の発行がスタートします。

 ジブチ初期の切手は無目打なのですが、今回ご紹介の切手のように、周囲に目打状の印刷が施されているのが特徴で、素朴なデザインとあわせていい味を出しています。時間とお金に余裕があれば、個人の趣味として、単純素朴に集めてみたい切手ですな。

 なお、その後、ジブチとオボックを含むアデン湾奥の西岸地域は1896年に仏領ソマリ・コーストとして正式に統合されます。第二次大戦後、アフリカ諸国の独立が進む中で、仏領ソマリコーストはソマリ系のイッサ人とエチオピア系のアファル人の対立のため独立は困難な状況が続き、1967年、住民投票により仏領にとどまるとの住民の選択を受け、仏領アファル・イッサと改称されます。その後、議会選挙でアファル人の進歩党が圧勝するとともに、イッサ人独立派の独立アフリカ人民同盟も勢力をのばしたことから、1977年、首都の名前を冠した新国名を掲げて独立したのが現在のジブチ共和国となります。

 ジブチといえば、自衛隊の海外拠点があることですし、いずれ機会があれば、現地を訪問して“切手紀行”の本を作りたいですね。


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 バハーワルプル
2017-06-26 Mon 12:04
 パキスタン・パンジャーブ州バハーワルプルで、きのう(25日)、ガソリンを積んだタンクローリーが横転し、漏れ出したガソリンを回収しようと住民らが集まったところで爆発が発生。この記事を書いている時点で153人以上が亡くなる大惨事となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      バハーワルプル・1945年(8アンナ)

 これは、1945年1月1日にバハーワルプル藩王国が発行した8アンナ切手で、デラワール砦に隣接するアッバーシー・モスク(1849年建立)が描かれています。

 バハーワルプルの地は、18世紀後半にはアフガニスタンのドゥッラーニー朝の支配下にありましたが、1802年にバハーワル・ハーン2世が自立し、独自の地方政権を樹立しました。1833年2月22日、バハーワル・ハーン3世は英国東インド会社と軍事保護条約を結び、英配下の藩王国となります。この結果、1845-46年および1848-49年の英国とシク王国(ラホールを拠点にインド北西部を支配していた王朝)のシク戦争でも英国を支持し、シク王国の滅亡後も存続することになります。

 1854年、東インド会社により全インドを対象とした近代郵便制度がスタートすると、バハーワルプルにも東インド会社、後に英領インドの郵便サービスが導入され、英領インド切手が使用されました。

 これに対して、1924年に親政を開始した藩王、サーディク・ムハンマド・ハーン5世は、自らも切手収集家であったことから、他の藩王国の中には独自の切手を発行している国もあったことから、バハーワルプルでも独自の切手発行を計画。1933年、英国との軍事保護条約締結100周年の記念切手とあわせて、バハールワルプルの風景・動物などを描く普通切手6種を準備しました。

 しかし、これらの“切手”は事前に英領インド当局の許可を得ていなかったため、1933年の時点では発行が認められませんでした。これに対して、何としても独自の切手を発行したかったバハールワルプル側は英領インド当局と交渉を重ね、すでに準備された6種の普通切手に関しては、ウルドゥー語で“公用”を意味する加刷を施したうえで、公用切手として、藩王国政府の発信にのみ認めるということで妥協が成立。今回ご紹介の切手を含む加刷切手6種が1945年1月1日に発行されました。

 1947年、インドパキスタンが分離独立すると、バハールワルプル藩王国はパキスタンに帰属します。その際、バハールワルプル側は、旧バハールワルプル藩王国の領域では独自の切手を使用することを認めさせま、1952年まで、バハールワルプル切手が使用されていました。


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 朝鮮戦争で届かなかった葉書
2017-06-25 Sun 12:10
 今年もまた、朝鮮戦争の始まった“ユギオ(韓国語で625の意)”の日がやってきました。というわけで、毎年恒例、朝鮮戦争ネタのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      朝鮮戦争・米→釜山宛返戻

 これは、朝鮮戦争初期の1950年8月18日、米オハイオ州から釜山宛に差し出されたものの、戦争により、朝鮮宛の郵便物が取扱停止となっていたため差出人戻しとなった葉書です。

 1950年6月25日、南侵を開始した北朝鮮の朝鮮人民軍は、3日後の6月28日、首都・ソウルを陥落させた後も破竹の勢いで南侵を続け、7月4日には水原(京畿道)を、同20日には大田(当時は忠清南道)を、それぞれ占領しました。

 その後、7月7日、国連安保理が国連派遣軍(以下、国連軍)の創設を決議し、7月13日には米第8軍司令部が横浜から大邱(慶尚北道)に進出したものの、朝鮮人民軍の南侵は止まず、16日に大邱に撤退した韓国政府は、早くも翌17日にはさらに釜山に移転。その後も、朝鮮人民軍は南侵を続け、7月27日には河東・咸陽・安義、30日には晋州(いずれも慶尚南道)を占領します。

 こうした事態を受けて、8月1日、米第8軍司令官のウォルトン・ハリス・ウォーカー中将は、洛東江陣地線への後退を指令。以後、いわゆる釜山橋頭堡(朝鮮半島南東部の馬山=洛井里=盈徳を結ぶ南北153キロ、東西90キロの防御線)の攻防をめぐり、激戦が展開されることになりました。今回ご紹介の葉書は、まさに釜山橋頭堡をめぐる攻防戦最中の釜山宛に差し出されたものです。

 なお、1950年8月の時点では、戦局は全体として北朝鮮側が圧倒的に有利ではあったものの、すでに北朝鮮の補給能力は限界を超えており、朝鮮人民軍は2度にわたって猛攻をかけたものの、結局、釜山橋頭堡を制圧できませんでした。一方、国連軍側は緒戦段階から制空権・制海権を掌握していましたが、米本土からの弾薬船が釜山に到着するようになったのは8月下旬以降のことで、それまで、第8軍は日本本土に備蓄されていた弾薬で急場をしのがざるをえず、苦境が続いていました。

 こうした中で、8月以降、釜山には兵員・物資が続々と陸揚げされていったことで、ようやく国連軍は徐々に戦力を回復。北朝鮮側の戦力が釜山橋頭堡攻略に集中している機会をとらえて、9月15日、国連軍総司令官のマッカーサーは朝鮮人民軍の後背地にあたる仁川上陸作戦を敢行。これにより、戦況は一挙に逆転し、朝鮮人民軍は敗走していくことになります。

 なお、朝鮮戦争と関連の切手・郵便物については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 6月29日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 切手に描かれたソウルと韓国:跆拳道
2017-06-24 Sat 08:34
 『東洋経済日報』6月23日号が発行されました。月一で同紙に僕が連載している「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、本日(24日)から茂朱で開幕の世界跆拳道(テコンドー)選手権大会にちなんで、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・世界跆拳道選手権(2017)

 これは、今回の世界跆拳道選手権に先立ち、6月16日に韓国が発行した大会の記念切手です。

 跆拳道については、高句麗時代の壁画に跆拳道の型と似たような姿勢をとる人物が見られることから、韓国などでは、その歴史は2000年前にまでさかのぼると主張する人もありますが、これはいささか牽強付会な説で、実際には、解放後、近代スポーツとして体系化されたと考えるのが妥当です。

 すなわち、日本統治時代に学徒出陣した崔泓熙は、1946年に軍事英語学校(現韓国陸軍士官学校)を卒業し、陸軍少尉として、武術を教えはじめました。

 崔は、日本統治時代の1918年、北朝鮮・咸鏡北道に生まれ、少年時代に朝鮮の伝統的な武芸であるテッキョンに親しんだほか、青年時代には日本に渡り京都で空手を学んでいます。その経験を活かして、陸軍の武術教官となった崔は、解放後の祖国にふさわしい、民族独自の新しい武道を考案すべく研究し、テッキョンや空手をベースに、1954年までに、新しい武道の基礎的な技術を完成。この武道は、1955年、正式に“跆拳道”と命名され、1959年には崔が主催していた“大韓空手道協会”も“大韓跆拳道協会”に改称されました。ちなみに、跆拳道の“跆”は、踏む、跳ぶ、蹴る、という足技を、“拳”は、突く、叩く、受ける、などの手技を、“道”は、礼に始まり礼に終わる人の道、精神を表しているとされています。

 その後も崔は陸軍の将官として勤務していましたが、1962年、陸軍を退役し、マレーシア大使に転出。これが跆拳道国際化の端緒となりました。

 崔は1964年に韓国に帰国しますが、1966年、跆拳道のさらなる国際化を目指して、ソウルに本部を置く“国際跆拳道連盟(ITF)”を設立し、自ら総裁に就任。しかし、当時の韓国の武道家の中には崔の創設した跆拳道が脚光を浴びることや跆拳道の国際化に不満を持つ者も多く、同年、崔は内部対立から協会の会長を辞任に追い込まれてしまいます。

 さらに、世界跆拳道本部総本部道場国技院が設立された1973年、崔は東ベルリン事件(東ベルリンの北朝鮮大使館と接触した韓国人が一斉摘発された事件)への関与が疑われ、カナダへの亡命を余儀なくされました。

 これに伴い、ITFの本部もカナダ・トロントに移されたため、同年、韓国内ではソウルに本部を置く“世界跆拳道連盟(WTF)”が設立され、跆拳道の国際団体が並立する状況が生まれました。

 その後、1973年にはWTFがソウルで第1回世界大会を開催すると、翌1974年にはITFも第1回世界大会を開催するなど、両団体の競合が続きます。さらに、1980年、IOC総会が韓国公認の国際組織としてWTFと跆拳道種目を承認すると、同年10月、ITFは北朝鮮への跆拳道の普及を開始。以後、跆拳道はITFを通じて(旧)東側諸国に急速に広まり、ITFの運営に北朝鮮の関係者も深く関与していくことになるのです。

 2002年6月、「生涯の最後は故郷で終えたい」と述べた崔は北朝鮮に入国し、現地で死亡。すると、彼の「遺言」を根拠に、北朝鮮国籍のIOC理事、張雄が臨時特別総会でITF総裁に選出されます。しかし、これに反発する旧来の韓国系師範は、北朝鮮での新総裁選出はITF憲章に違反しているとして、従来の規則通りの定期総会で選出されたトラン・トリュウ・クァン8段師賢(カナダ国籍)を総裁とし、張雄派と袂を分かちました。また、これとは別に、崔泓熙の息子、崔重華を総裁とする分派もあり、現在のITFは3派に分裂しています。

 さて、今回の世界選手権では、そうしたITF3派のうち、北朝鮮が主導権を握る張雄派の張雄国際オリンピック委員会(IOC)委員・国際跆拳道連盟(ITF)名誉総裁、李勇鮮ITF総裁ら32人が10年ぶりに訪韓し、演武を行うことになっています。韓国内では、彼らの訪韓は、文在寅政権発足後、初の南北スポーツ交流として大きく報じられています。

 親北姿勢が鮮明な文在寅政権としては、まず、韓国内の北朝鮮に対する反発・反感を和らげるため、“朝鮮民族”のアイデンティティを強調するプロパガンダ攻勢を展開していくのは当然の措置なわけで、その文脈からすると、“国技”である跆拳道の国際大会は南北スポーツ交流の場として格好の機会といえます。

 実際、今回の大会開催じたいは朴槿惠政権時代に決まっていたことですが、韓国政府高官によれば、北朝鮮選手団の訪韓は「WTFの招請を北朝鮮が受け入れる形で、すでに1ヵ月以上前に決まったこと」なのだそうです。政府高官の発言が、“前政権の時代から”ではなく、あえて“1ヵ月以上前から”となっているのは、5月10日の文在寅政権発足当初から話が具体的に動き始めたことを意味していると理解するのが自然でしょう。また、ITF3派のうち、最大の会員数を擁するのはトラン派ですが、報道などではその存在は意識的に無視されており、北朝鮮が主導権を握っている張雄派を“ITF”として紹介しているあたりにも、政治的な意図が滲み出ているのは明らかです。ちなみに、今回の北朝鮮演武団の航空運賃や宿泊費などの“滞在費”は、韓国側の南北協力基金から約7000万ウォン(約684万円)が支給されており、文在寅政権の考える“南北交流”の性格を考えるうえで、きわめて示唆的なものとなっています。

 さらに、今月20日には、韓国の都鍾煥・文化体育観光相が、来年2月の平昌冬季五輪について、北朝鮮の馬息嶺スキー場の利用や韓国が出場権を得た女子アイスホッケーの南北単一チームの結成、聖火リレーの北朝鮮通過などについて検討する考えを示しており、今回の世界跆拳道選手権にあわせて訪韓しているIOCのバッハ会長も交えて、北朝鮮の平昌五輪への関与について協議したいとの考えを示しています。冬季五輪の競技の一部を北朝鮮内の会場で行うというプランは非現実的ですが、南北単一チームの結成や聖火リレーの北朝鮮通過などはありえない話でもありませんし、仮に、それが実現しなかったとしても、民族アイデンティティを強調することで、北朝鮮に対する宥和的な世論を盛り上げることができれば、文政権としては、最低限の目的は達したことになるとの自己評価を下すことになるでしょう。

 いずれにせよ、もともとは朴槿惠前大統領が引退の花道に利用するための政治ショウとして企画された平昌五輪ですが、親北派の文在寅政権の登場により、その意味付けが根本的に変質したことは間違いないわけで、今後の推移にも注目していきたいところです。

 なお、このあたりの事情については、文在寅政権の発足に合わせて5月11日に配信した「チャンネルくらら」も併せてご覧いただけると幸いです。


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 6月29日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 マラウィ危機発生1ヶ月
2017-06-23 Fri 11:49
 5月23日、フィリピン・ミンダナオ島中部のマラウィ周辺で国軍とイスラム過激派との戦闘(マラウィ危機)が始まってから、きょう(23日)で1ヵ月となりました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・イスラム伝来600年

 これは、1980年3月28日にフィリピンが発行した“イスラム伝来600年”の記念切手です。
 
 現在のフィリピン国家の領域にイスラムが伝来したのは、1380年 スールー諸島西端のタウィタウィ島にアラブのムスリムが到来したのが最初とされており(今回ご紹介の切手はここから起算して600年になるのを記念して発行されたものです)、これを機に先住民のイスラムへの改宗が進みました。

 1457年、イスラム王朝のスールー王国が成立。同王朝は、最盛期には、ミンダナオ島西部(サンボアンガ半島)からボルネオ島北部(現マレーシア・サバ州)、パラワン島までその支配は及んでおり、彼らの支配地域にはイスラムが定着しました。

 16世紀後半以降、現在のフィリピンの島々のうち、ミンダナオ島以外はスペインが征服しましたが、ミンダナオ島西部は19世紀後半までスペインの統制が及ばず、ムスリムのスルターン(地方君主)が実効支配する時代が長く続きます。そして、1878年にはスペイン=スールー王国条約が結ばれ、スールー王国はスペインの主権を認めることになりましたが、スペイン軍の駐屯地やサンボアンガやコタバトなどの都市部以外は、従来通り、スルターンの統治が維持されています。

 1898年の米西戦争の結果、スペインはミンダナオ島を含むフィリピンを放棄。その後、米国の支配に抵抗する米比戦争の時期には、ミンダナオ島のムスリムも武装蜂起しましたが、1910年代に米軍により制圧されました。以後、米支配下で、ミンダナオ島にもルソン島などからキリスト教徒の入植が進み、ミンダナオ島でもムスリムは少数派に転落していきます。

 1946年、フィリピン共和国が独立すると、フィリピン政府は新国家建設に際して、国民統合の象徴としてカトリックを強調しますが、ミンダナオ島を中心に、ムスリムはこれを“同化政策”として不満を募らせました。さらに、1965年に発足したマルコス政権がミンダナオ島へのキリスト教徒の移民を“奨励”したことへの反発から、1970年、フィリピンからの分離独立を求めるモロ民族解放戦線(MNLF)が結成され、フィリピン国軍との間の武力衝突が発生しました。ちなみに、“モロ”とは、フィリピンのスールー諸島・パラワン島・ミンダナオ島などの島に分布するムスリムの総称です。
  
 1976年、マルコス政権とMNLFとの間で、ミンダナオやスールー諸島の14州の自治を約束するトリボリ協定が締結されますが、この和平協定への対応を巡り、1977年、MNLFはミスアリ派(MNLF議長のヌル・ミスアリ率いる穏健派)とサラマト派(サラマト・ハシムを中心とする強硬派)等に分裂。さらに、1981年には、サラマト派が正式にMNLFを脱退し、モロ・イスラム解放戦線(MILF)を組織します。そして、反米の立場からリビアがMILFを支援するという構図が生まれました。

 1986年のピープル・パワー革命でマルコス政権が崩壊し、コラソン・アキノ政権が発足。アキノ政権は、ムスリムの自治を盛り込んだ新憲法を制定するなど宥和政策を推進し、1989年に成立した「自治基本法」では、ミンダナオでムスリム自治区の設立が決定されます。

 これを受けて、ミンダナオ島西部・南部一帯の州と市で“ムスリム・ミンダナオ自治地域(ARMM)”への加入の是非を問う住民投票が13州9市で行われ、賛成多数となったラナオ・デル・スル州、マギンダナオ州、スールー州、タウィタウィ州の4州で、1990年、ARMM(首府はコタバト)が発足しました。なお、ARMMには、2001年にマラウィ市とバシラン州(ただし、イサベラ市を除く)が追加加入しています。

 ARMMの発足に対して、MNLFは“不完全な自治”に反発し、武装闘争の継続を宣言しましたが、1993年、イスラム諸国会議機構の仲介でラモス政権とMNLFの間で暫定的な停戦合意が成立。和平交渉の末、1996年、ミンダナオ南部などの14州での暫定的な行政機関“南フィリピン和平開発評議会(SPCPD)”の設立やMNLF兵士の国軍統合、ミスアリをARMM知事選の与党候補とすること、教育制度や宗教に関する取り決めなどが合意されました。これに対して、あくまでもARMMへの参加を拒否する勢力はMNLFを脱し、MILFやアブ・サヤフに合流して、武装闘争を継続します。
 
 このうち、アブ・サヤフは、1991年、フィリピン人ムスリムでシリア、サウジに留学経験があり、アフガニスタンのムジャーヒディーン闘争に参加経験のあるアブドラガク・ジャンジャラーニがMNLFから分離して設立した組織で、組織名は、アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟議長のアブドゥル・ラスル・サイヤフに由来しています。設立の目的は、ミンダナオ島周辺のイスラム社会をキリスト教徒中心のフィリピンから独立させることで、設立資金はウサーマ・ビン・ラーディンから渡され、アル・カーイダのラムジ・ユセフなどから軍事援助を受けていたとされています。

 その後、1997年には、MILFとフィリピン政府の間で和平協定が成立しますが、2000年、エストラーダ大統領がこれを破棄したことで、MILFはフィリピン政府に対する“ジハード”を宣言。マニラを含むフィリピン各地でテロが頻発し、急速な治安悪化の責任をとって、2001年1月、エストラーダ政権は退陣に追い込まれました。

 エストラーダ政権の後を継いで発足したアロヨ政権は、2001年9月の米国同時多発テロ後の国際的な反テロ気運を活用し、アブ・サヤフらイスラム系過激派のテロに対して、米軍を巻き込んでミンダナオ島などで掃討作戦を展開。これにより、アブ・サヤフは壊滅的な打撃を受けましたが、その後も、MILFの実効支配地域で、ジェマー・イスラミア(JI)メンバーから軍事訓練を受ける一方、暴力的イスラム改宗者組織“ラジャ・ソレイマン・イスラム運動(RSIM)”及びMILF強硬派と連携。2004年には、マニラ湾コレヒドール島近海で旅客船スーパーフェリー14を爆破し、死者・行方不明者116名という、フィリピン史上最悪のテロ事件を引き起こしました。

 ただし、MILF主流派は、2003年に創設者のサラマト・ハシムが亡くなってから徐々に穏健化。2012年10月には、フィリピン政府とミンダナオ和平に関する「枠組み合意」に署名し、2014年3月には包括和平協定に調印しましたが、和平に反対のアブ・サヤフ、バンサモロ・イスラム自由戦士(BIFF。MILF強硬派司令官アメリル・ウンブラ・カトが2010年、MILFを脱退して設立)、マウテ(2012年、アブドゥッラーとオマルのマウテ兄弟が“ダウラ・イスラミヤ”として設立)などは2014年頃からダーイシュの影響下に入ることで勢力を維持・拡大。ここに、2010年にインドネシア政府の掃討攻撃を受けて大きな打撃を受けたインドネシアのジェマー・イスラミア(JI。1993年、元アフガン義勇兵を中心に結成)の残党の一部がミンダナオに流入、合流しているとの報告もあります。

 こうした中で、2017年5月23日、アブ・サヤフ幹部のイスニロン・ハピロンがマラウィに潜伏しているとの情報を得たフィリピン国軍が、アジトへの奇襲攻撃を敢行するも失敗。これを機に、フィリピン国軍とアブ・サヤフ、地元テロ組織のマウテとの間で戦闘に発展し、ドゥテルテ大統領がミンダナオ島に戒厳令発令して、いわゆるマラウィ危機が発生しました。

 ミンダナオ島での戦闘は、ほぼマラウイ周辺に限定されているものの、軍によると死者は市民26人を含め360人、避難民も30万人にのぼっています。また、フィリピン空軍がマラウィ市内の一部に空爆を行うと、アブ・サヤフとマウテは市民を“人間の楯”にして抵抗しているだけでなく、彼らの実効支配地域では、極端な原理主義的政策による人権侵害も横行しています。

 フィリピン政府は米軍の支援も受けて鎮圧に躍起になっていますが、マラウィ周辺の内戦地域には、各地のテロ組織から“兵士”が流入していることもあって、事態の長期化に対して懸念が高まっています。

 なお、このあたりの事情については、22日配信の「チャンネルくらら」でもまとめてみましたので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 世界の国々:ウズベキスタン
2017-06-22 Thu 08:22
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年6月14日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はウズベキスタンの特集(雑誌としては2回目ですが、前回は別の方が担当しました)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ウズベキスタン・船の墓場

 これは、2016年にウズベキスタンで発行された“船の墓場”の切手です。なお、切手上の表記は2015年になっていますが、実際の発行は2016年までずれ込んでいます。

 ウズベキスタンとカザフスタンにまたがる塩湖のアラル海は、かつては世界第4位、6万6-8000平方キロの湖沼面積があり、中央アジアのオアシス的な存在でした。しかし、1940年代、中央アジアでの綿花栽培の灌漑のため、ソ連が開始した“自然改造計画”により、1950年代以降、アムダリヤ川の流れが人為的に変更されたことで面積が急激に縮小。塩分濃度も上昇して淡水魚は生息できなくなりました。

 また、1960年代には年平均20センチ、1970年代には年平均60センチと急激に水面が低下。一晩で数十メートルも湖岸線が遠のき、切手に描かれているように、退避できないままその場に打ち捨てられた船が散見されるようになり、それらは“船の墓場”として、旧ソ連による環境破壊の象徴として広く知られるようになりました。

 さて、『世界の切手コレクション』6月14日号の「世界の国々」では、ブハラ・ユダヤ人についての長文コラムのほか、アブドゥラフマノフの絵画、金塊、ナヴォイ劇場、タシュケント地下鉄、野生のチューリップの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のウズベキスタンの次は、6月21日発売の6月28日号でのキューバの特集になります。こちらについては、発行日の28日以降、このブログでもご紹介する予定です。 
 

 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★ 

 6月15日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第4回目は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は6月29日(木)16:05~の予定ですので、引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、15日放送分につきましては、放送から1週間、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

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 南極の夏至
2017-06-21 Wed 09:48
 きょう(21日)は夏至です。東京はあいにく朝から雨降りなので、せめて気分だけでも太陽をということで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      仏領南極・夏至

 これは、2007年に仏領南極で発行された“6月21日のデュモン・デュルヴィル(基地)での太陽の動き”の切手です。北半球と南半球では夏と冬が逆になりますが、夏至と冬至に関しては北半球にあわせて、南半球でもきょうが“夏至”になります。ただし、南半球では生活上、冬の季節に“夏”というのは違和感もあるため、慣用的に“冬至”ということもあるのだとか。

 19世紀以降、南極探検が盛んに行われるようになると、英国・フランス・ノルウェーオーストラリア・ニュージーランド・アルゼンチン・チリの各国は、豊富な地下資源や領海内の水産資源の確保を目指して、自分たちが調査した地域の領土権を主張しはじめます。

 このうち、フランスは、1840年にフランス人探検家デュルヴィルが発見した南極大陸北岸を“アデリー海岸(アデリーはデュルヴィルの妻の名)”と命名。1955年には、南極点を頂点に東経136度から東経142度にかけての扇型の範囲をアデリーランドとして領有権を主張しています。このアデリーランドにアムステルダム島、セント・ポール島、クロゼ諸島、ケルゲレン諸島を加えた範囲が“フランス南部および南極領土(以下、仏領南極)”となるのですが、実際には、フランスも締約している南極条約によって、南極地域における領土主権、請求権は凍結されています。

 また、仏領南極の切手は、当時フランス領だったマダガスカルの切手に“Territoire des Terres Australes et Antarctiques Françaises”の文字を加刷したものが1955年に発行されたのが最初で、正刷切手としては1956年のものが最初となります。

 さて、6月の夏至の時季、北極海を中心に北極圏では、1日中太陽が沈まない“白夜”となりますが、南極圏以南は逆に1日中、夜が続く“極夜”となります。ただし、南極大陸のうち、南極圏(南緯66.5度)より南に位置する地域では、わずかですが、夏至の時期でも太陽が見られます。今回ご紹介の切手のデュモン・デュルヴィル基地は、南緯66.4度の位置にあるためギリギリ太陽が拝めるわけで、切手では、6月21日10時25分の日の出から14時53分までのわずか4時間半の太陽の移動が表現されています。
 

 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★ 

 6月15日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第4回目は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は6月29日(木)16:05~の予定ですので、引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、15日放送分につきましては、放送から1週間、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

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 ヴィクトリア女王即位180年
2017-06-20 Tue 11:59
 1837年6月20日に英国のヴィクトリア女王が即位してから、今日でちょうど180年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      カナダ・ジュビリー(1897)

 これは、1897年にカナダが発行したヴィクトリア女王即位60周年の記念切手で、即位当時(1837年)の肖像と切手発行時(1897年)の肖像が並べて取り上げられています。

 ヴィクトリア女王は、英国王ジョージ3世の第4王子であるケント公エドワードの一人娘として、1819年5月24日に生まれました。出生時の王位継承順位は第5位でしたが、1820年1月23日、生後8ヶ月にして父親のケント公が薨去し、さらに、同29日には国王ジョージ3世が崩御します。これを受けて、伯父の皇太子ジョージがジョージ4世として即位します。ジョージ4世は子のないまま、1830年6月26日、崩御。すでに、国王の次弟ヨーク公は1827年に亡くなっており、三弟クラレンス公ウィリアムがウィリアム4世として即位しましたが、この時点でウィリアム4世はすでに65歳の高齢で子がなく、ヴィクトリアは議会から“暫定王位継承者”に認定されます。

 その後、1837年5月24日にヴィクトリアは18歳となり成人。その直後の同年6月20日、ウィリアム4世が崩御したことで、ヴィクトリアが18歳にして英国女王として即位することになりました。

 今回ご紹介の切手の左側の肖像画は、女王の即位直後の1837年7月、英国議会の開会を宣言するため、女王として初めて公の場に姿を現した時の彼女を描いたもので、ジュネーヴ出身のアルフレッド・エドワード・シャロンが女王本人の依頼を受けて制作しました。ちなみに、ペニー・ブラックの元になった“ワイオンのメダル”は、1837年11月9日の女王のロンドン市庁舎訪問を記念して作られたものですから、肖像としてはシャロンの制作したものの方が、即位後より早い時期のものということになります。ちなみに、女王は完成した肖像画を、母親のマリー・ルイーゼ・ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトにプレゼントするつもりだったそうです。

 シャロンの肖像画は、1838年6月28日、ロイヤル・アカデミーの彫刻家、サミュエル・カズンズによって銅版画として刊行され、“女王即位の肖像”として広く知られるようになりました。

 この肖像を採用した最初の切手は、1851年4月9日に英領カナダ連合で発行された緑色の71/2ペンスおよび黒色の12ペンス切手で、印刷はニューヨークで行われています。その後、シャロンの肖像画をもとにした切手は、1853年にはノヴァ・スコティア(カナダ東部の州)で、1855年にはニュージーランドタスマニア(オーストリア南部の州)で、1859年にはバハマ(カリブ海)ナタール(現南アフリカ共和国北西部の州)で、1860年にはニューブランズウィック(カナダ東部の州)とクイーンズランド(オーストラリア北東部の州)、グレナダ(カリブ海)で、そして、1870年にはプリンス・エドワード島(カナダ東海岸の島)でも発行されています。

 もともとのシャロンの肖像画は女王の全身像を描いたものでしたが、切手では小さな印面に収まるよう、顔の部分を中心にトリミングされています。切手のデザインが“シャロン・ヘッド”と呼ばれているのはこのためです。なお、多くの植民地では、切手のデザインは女王のネックレスから上の部分を中心に図案が構成されていますが、ネックレスよりも上の部分だけのデザインのものや、ニュージーランドのように胸から上の部分を大きくデザインしたものもあります。

 なお、拙著『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』では、1837年のヴィクトリア女王の肖像を取り上げた切手なども多数ご紹介しております。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★ 

 6月15日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第4回目は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は6月29日(木)16:05~の予定ですので、引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、15日放送分につきましては、放送から1週間、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

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 おかげさまで180万PV
2017-06-19 Mon 11:24
 おかげさまで、昨日(18日)、カウンターが180万PVを超えました。いつも、閲覧していただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。というわけで、“180”に絡んで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・中西(1.80)

 これは、2002年に香港で発行された“中西文化通用票(普通切手)”のうち、フォーク・ナイフと蓮華・箸を並べた1ドル80セント切手です。

 中西文化通用票は、1999年から発行されていた“香港特色景點與名勝通用票”に続く普通切手のシリーズです。東西文化の結節点という視点から、香港社会の諸相を切手上で表現しようとしたもので、1枚の切手の画面を左右に分割して、一方に西洋起源のもの、他方に中国の伝統的なものを配した統一デザインとなっており、今回ご紹介の切手では、フォーク・ナイフと蓮華・箸が並べられています。

 “食”を題材とした香港切手といえば、英領時代の1990年に発行された“世界の料理(International Cuisine)”と題する6種セットがあります。その内訳は、中華料理(蒸したイセエビ、冷菜の二種)に加え、インド料理(カバブ:串焼き)、タイ料理(プラー・プリアオワーン:魚の丸揚げに甘酢ソースをかけたもの)日本料理(寿司)、フランス料理(アスパラガスと生ハム)となっており、香港では世界のあらゆる料理が味わえることをアピールすることで、“グルメ天国”香港への外国人観光客を誘致する目的から発行されました。

 地元の広東料理のみならず、世界各地の料理を取り上げたのは、香港における“食”の多様性を表現することが一義的な目的ですが、そのことは、当然、見る者に香港社会そのものの多様性を印象づけることになります。

 1997年時点の香港社会は中国系が98パーセントと圧倒的多数を占めていたとはいえ、英国人をはじめとする欧米人、インド系(貿易商としてやってきたパル-シー教徒、グジャラート人、マルワル人、シンド人、軍事・警察要員としてやってきたシーク教徒など)、主としてメイドとして働いているフィリピン人などのエスニック・グループも社会的に無視できない存在でした。当然のことながら、これらのマイノリティと中国系との融和は香港社会にとって重要な課題となっていました。

 その真意はどうあれ、香港に“民主化”の置き土産を残していこうとした英国の香港政庁は、民主主義の前提である多様な価値観の共存を、理念ではなく、よりリアルなかたちで人々に実感させるため、“世界の料理切手”を発行し、香港社会の多様性を“食”という側面から表現しようと考えられます。

 これに対して、1997年7月以降の中国香港の切手においては、西洋の文化を取り込むことで香港の文化や社会に奥行きができていることを強調しつつも、英領時代のように、さまざまなマイノリティ集団を含むという意味での社会の多様性が強調されることはなくなります。“中西文化”という通常切手の企画そのものが、あくまでも中華世界の伝統的な文化と欧米式の文化のみを対比しており、英領時代の切手に取り上げられていたインドやタイ、日本などのマイノリティ集団の文化を示す要素が完全に排除されています。このことは、そうした中国香港当局の姿勢をはからずも露呈させたものと考えて良いでしょう。

 なお、“中西文化”の通常切手を導入するにあたって、中国香港郵政は、新切手のコンセプトを表現する例として、茶を取り上げて以下のように説明しています。

 香港の人々は中国茶とイタリアのカプチーノを同じように飲んでいます。実際、古今東西の最良のものを吸収する、こうした能力は、コーヒーと茶をブレンドした「鴛鴦」という名の香港式の飲物が人気を集めていることに典型的に見て取れます。

 ここで紹介されている鴛鴦(鴛鴦茶といわれることもある)とは、コーヒーとミルクティーをブレンドした香港独特の飲料のことです。鴛鴦は本来オシドリのことで、相性が良いとの意味から転じて、2つのものをブレンドした飲食物につける形容詞としても用いられる単語ですが、現在では上記の鴛鴦茶を指すのが最もポピュラーな用例のひとつとなっています。

 この鴛鴦茶がどのような経緯で生まれたのかは必ずしも定かではないが、おそらく、スターバックスの香港への出店が相次いだ1992年以降のことと考えられています。当時、スターバックス側は、本格的なコーヒーと西洋式の喫茶店文化が定着する機が熟したと判断したわけですが、コーヒーや紅茶をそのまま飲むと身体に悪いとの固定観念が根強かった香港では、“普洱茶とコーヒーのブレンド”などの注文が店頭で相次ぎ、そのことが、鴛鴦(茶)を生み出し、定着させることになりました。

 “中世文化”の事例として挙げられた、鴛鴦(茶)は、中国香港当局にとって、欧米の要素を貪欲に吸収しつつ独自の文化を作り上げる、中国人のバイタリティや懐の深さといったものを象徴するものとして高く評価されるべきものなのであり、そうした視点の下に作られた“中西文化”の切手が、多様性を確保するためのマイノリティの尊重よりも、圧倒的多数を占める中国系のもつ力量を誇示することに主眼を置いているのも、いわば、自然な成り行きといってもいいのかもしれません。ただし、そうした姿勢が、西側社会から評価されるかどうかは全く別の次元の話ですが…。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろと分析してみましたので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 父の日
2017-06-18 Sun 10:19
 きょう(18日)は“父の日”です。というわけで、“母の日”の時と平仄をあわせて、パレスチナ関連の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ムハンマド・ドゥラ事件(イラク)

 これは、2001年9月20日にイラクが発行した“パレスチナのために”の切手のうち、銃撃されるジャマールとムハンマドのドゥラ父子を取り上げた1枚です。

 オスロ合意後の和平プロセスが停滞する中で、2,000年7月、イスラエルのエフード・バラック労働党政権はパレスチナ自治政府に対してヨルダン川西岸地区からのイスラエル軍の撤退を含む“寛大な申し出”を行うことで和平の進展を目指しましたが、東エルサレムの帰属に固執するアラファトはこれを拒否。和平交渉は決裂します。

 こうした状況の下、9月28日、翌2001年2月の首相公選をにらんで支持拡大を狙っていた野党リクードの党首、アリエル・シャロンが、護衛の警官1000人とともに、エルサレムの“神殿の丘”に上るパフォーマンスを行いました。

 第三次中東戦争の結果、東エルサレムはイスラエルの占領下に置かれましたが、岩のドームを含むハラム・シャリーフ(ユダヤ教の用語では神殿の丘)は歴史的にワクフが設定されていることから、ヨルダン宗教省が引き続きその管理を行い、原則として、ユダヤ教徒とキリスト教徒による宗教儀式は禁じられているという変則的な状況となっていました。

 ちなみに、ワクフというのはイスラムに独特の財産寄進制度で、なんらかの収益を生む私有財産の所有者が、そこから得られる収益を特定の慈善目的に永久に充てるため、その財産の所有権を放棄すること、またはその対象の財産やそれを運営する組織を意味しています。一度、ワクフとして設定された財産については一切の所有権の異動(売買・譲渡・分割など)が認められません。パレスチナ、特に、ハラム・シャリーフがワクフであるとの根拠は、638年、第2代正統カリフのウマルが、エルサレムの無血開城に際してギリシャ正教会総主教と結んだ盟約にあるとされています。

 これに対して、イスラエル国内の反アラブ強硬派は神殿の丘にあるイスラムの建物を破壊してユダヤ教神殿を再建することを主張していましたから、対パレスチナ強硬路線を掲げていたシャロンが神殿の丘に登ることはきわめて挑発的な行為として、パレスチナ域内のみならず、イスラム世界全域から強く非難されました。しかも、事前にパレスチナ側の強い反対があったにもかかわらず、イスラエルのバラック政権はシャロンの行動を阻止しなかったため、翌29日、パレスチナのムスリム2万人が抗議行動を開始。その過程で、嘆きの壁で祈祷していたユダヤ教徒への投石を機に、パレスチナ全域で大規模な民衆蜂起が発生しました。

 これが、第二次インティファーダです。

 第二次インティファーダ発生翌日の9月30日、ガザ地区でジャマールとムハンマドのドゥラ父子が、“イスラエル軍監視所方向から”の銃撃を受け、父親のジャマールは重傷を負い、当時12歳だったムハンマド君が亡くなります。ちなみに、事件当日、ガザ地区内の学校は休校措置が採られており、ムハンマドも家にいて、当初はインティファーダを見に行きたいといっていました。しかし、棄権が大きすぎるとの両親の反対で断念。代わりに、父親のジャマールとともに車の競売(ジャマールはその直前に、それまで乗っていた1974年式のフィアットを売却しており、新たな車が必要だったそうです)に出かけ、その途中で遭難したわけです。

 フランスのテレビ局、フランス2のパレスチナ人カメラマン、タラール・アブー・ラフマは、市街地での銃撃戦に巻き込まれて恐怖の表情で身を隠す父子の映像と、しばしの中断の後、銃撃されたぐったりした父子の映像を撮影。これが、フランス2のみならず、CNNなどを通じて全世界に放送され、全世界に衝撃を与えるとともに、インティファーダの激化を招きました。

 件の映像が放映された直後、イスラエル当局はイスラエル軍による発砲を認めて“謝罪”を表明。これを受けて、アラブ諸国は、父子への銃撃をイスラエルの非道を象徴するものとして、こぞって悲劇の場面を取り上げた切手を発行します。今回ご紹介のイラクの切手もその1枚ですが、事件はガザ地区での出来事にもかかわらず、サッダーム・フサインの主張するリンケージ論を強く印象付けるため、エルサレムの岩のドームを左上に配した図案構成になっています。なお、この切手では、ムハンマド少年の亡くなった日は“2000年10月1日”となっていますが、上述のように、少年が亡くなったのは9月30日で、切手に記された日付は少年の死が報じられた日というのが正確です。

 ところが、2002年3月、ムハンマド少年の遺体が、事件後、解剖などの捜査もないまま、異例の速さで埋葬されたことなどに疑問を抱いたドイツのテレビ局ARDが現地で聞き取り調査などを実施し、ドキュメンタリー番組を作成。背後の壁に残された弾痕の形状やイスラエル軍の監視所の位置関係から、少年の命を奪ったのは、イスラエル軍の発砲による可能性は低く、むしろ、パレスチナ側からの発砲による可能性が高いと指摘しました。

 これを受けて、イスラエルは再調査の上、2005年に少年の死はイスラエル軍による発砲だったとの見解を撤回。2013年の最終報告書では、イスラエル軍の発砲によって父子を殺傷することは物理的に不可能だったと結論づけています。

 一方、父親のジャマールとエンダリン、フランス2は、少年の死はあくまでもイスラエルの発砲によるものと主張。2012年には、フランス2が、同局の“捏造報道”を非難するジャーナリストのフィリップ・カーセンティを名誉棄損で提訴し、翌2013年、カーセンティには7000ユーロの罰金を科す判決が出るなど、事件をめぐる対立は現在も続いています。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 


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 切手歳時記:国蝶論争
2017-06-17 Sat 09:16
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年6月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      オオムラサキ(旧)

 日本の国蝶、オオムラサキの成虫は、年に1度、6-7月に発生します。1956年に発行の75円切手も、オオムラサキの季節に合わせ6月20日に発行されました。

 切手の発行当時の郵政省の説明では「国蝶としても恥ずかしくない風格を持ち」となっていましたが、実は、オオムラサキが正式に国蝶として決定されたのは、切手発行の翌年、1957年のことでした。

 もともと、国蝶の選定は日本政府によるものではなく、1933年、蝶類同好会のメンバーが集まった宴席での雑談で、“国蝶”を決めてはどうかという話題になったのが発端とされています。

 蝶類同好会は、“同好会”と銘打っていましたが、当時の日本の主な博物学者はほぼ全員が会員という本格的な組織で、九州帝国大学教授の江崎悌三が会長を務めていました。

 さて、件の宴席で、江崎は国蝶にはオオムラサキが相応しいと提案します。

 オオムラサキは日本で発見された蝶で、それゆえ、昆虫学者で近代養蚕学・製糸学を開拓した佐々木忠次郎にちなんで学名(属名)も“佐々木の~”を意味する“Sasakia”となっています。また、江崎は、佐々木門下の俊英として、日本の昆虫学を牽引した人物でした。

 宴席に居合わせた会員の多くは江崎の提案に賛同。後日、会報で会員に賛否を問うた上で、正式に国蝶を決定しようということでお開きになりました。

 ところが、江崎の提案が会報で報じられると、会員の結城次郎が真正面から異議を唱えます。

 結城は広島工業学校(現県立広島工業高校)の数学教師で、1936年6月21日、宮島でミヤジマトンボを発見し、その名を日本の昆虫(学)史に残すことになるのですが、江崎に論争を挑んだ1933年当時は無名のアマテュア研究家でした。

 結城は、国蝶の条件として、①日本全国に分布する、②小学校の教科書にも載っている、③飛び方が優雅である、という3点を挙げ、オオムラサキではなくナミアゲハこそが国蝶に相応しいと提案します。

 オオムラサキを国蝶にという江崎の提案の根拠がいまひとつ曖昧だったこともあり、以後、同好会はオオムラサキ派とナミアゲハ派に分れて激しい論争が巻き起こりました。論争は4年間も続き、最後は、会報上で相手陣営を罵倒しあうなど、殺伐たる雰囲気にりました。

 そこで、会員投票で決着させることになり、その結果、オオムラサキが78票を得て、2位のナミアゲハの35票を大きく引き離して1位となります。ところが、投票総数が過半数に達しなかったため、反オオムラサキ派は投票の無効を主張。そうこうしているうちに、本格的な戦争の時代が到来し、同好会は解散に追い込まれてしまいました。

 こうして、昆虫関係者の間で国蝶の話題がタブーとなっていたなかで、戦後の1954年、保育社から『原色日本蝶類図鑑』が刊行されます。同書の校閲は江崎が担当し、オオムラサキの項目には「国蝶として…」との文言がさりげなく付け加えられていました。

 今回ご紹介の75円切手の制作は、こうしたタイミングで行われたわけです。

 図案の制作を担当した久野実は、当初、天然記念物のミカドアゲハを取り上げるつもりだったようですが、蝶についての専門知識のなかったため、“蝶聖”との評判が高かった林慶に助言を求めます。

 その林は、戦前からの論争では、オオムラサキ派の急先鋒。林からすれば、久野が接触してきたのは、まさに「飛んで火にいる~」といったところだったでしょう。久野から相談を受けると切手の図案には“国蝶”のオオムラサキこそがふさわしいと力説しました。蝶に対する特段のこだわりがなかった久野も、林がそこまでいうのならと、オオムラサキの図案を制作し、“国蝶としても恥ずかしくない風格”の75円切手が世に出ることになりました。

 こうして、オオムラサキ派は、周到に“世論”を誘導し、郵政省の“お墨付き”も得たうえで、1957年の日本昆虫学会総会で、オオムラサキを国蝶とする緊急動議を抜き打ちで提出。これが通ったことで、オオムラサキは正式に国蝶としての地位を確立したのです。

 * 今回の記事の作成に際しては、主として、星野フサ「第21回談話会 国蝶オオムラサキ選定論争始末記(後援者:青山慎一 昆虫ボランティア)」(北海道大学総合博物館『ボランティア・ニュース』第23号:2011年12月 4頁)を参照しています。


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 豊見城でのAKB 開票イベント中止
2017-06-16 Fri 18:05
 AKB48は、きょう(16日)、あす17日に沖縄・豊崎海浜公園豊崎美らSUNビーチで開催予定だった“第9回AKB48選抜総選挙”開票イベントおよびAKB48グループコンサートを中止することを発表しました。梅雨前線の停滞の影響で、沖縄本島で記録的な豪雨が続いており、あすの現地の天気も「昼前から夕方 雷を伴い激しく降る」で降水確率80%、雷注意報が発表される可能性が高いため、安全を最優先にした結果だそうです。というわけで、会場に予定されていた豊崎美らSUNビーチにちなんで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      沖縄・ハーリー

 これは、1969年9月5日、米施政権下の沖縄で発行された民俗行事シリーズの“ハーリー(爬龍)”の切手です。

 ハーリーは、いまから約600年前、南山王国(現在の糸満市を中心に沖縄県島尻郡南部に存在した王国。山南王国とも)の王子で、明の南京国子監に留学した汪応祖(後の第3代南山王。在位は1403?-13)が、留学中に見た龍船を模した船、爬龍船を作らせ、5月初、城下の饒波川河口(漫湖)に浮かべ、競わせたのが始まりとされています。また、豊見城で最初に作られた龍船は、そのころ、中国・福建省から渡来した久米(閩人36姓)がつくったとの説もあります。

 中華世界では、旧暦5月5日の端午節にはドラゴンボートの競漕行事(祭事)が行われますが、これは、端午節に入水自殺した屈原を助けようとした漁民がドラゴンボートを使ったという伝承があるためです。これに対して、ハーリーは、旧暦5月4日、航海の安全や豊漁を祈願する神事として豊見城で始まり、そこから沖縄各地、さらには徳之島などへも拡大していきました。

 現在でも、ハーリーには神事としての側面が残っているため、ハーリーの開催に先立ち、毎年4月下旬から5月上旬にかけて、ハーリー発祥の地、豊見城の豊見瀬嶽(御嶽)で、那覇ハーリーと豊見城ハーリーの成功と五穀豊穣を祈願し、祈祷と供物、ハーリー歌や空手を奉納する古式行事が行われています。

 その一方で、現在のハーリーには競漕競技および観光イベントとしての側面もあるため、大会そのものは必ずしも旧暦5月4日にはこだわらず、4-5月のゴールデンウィークや祝祭日、夏休み期間中の日曜日などに行う地域もめずらしくありません。じっさい、ハーリー発祥の地とされる豊見城の今年のハーリー大会は、7月16日、今回のAKB48 のイベント会場となるはずだった豊崎海浜公園豊崎美らSUNビーチの北側で開催が予定されていますが、この日は旧暦では6月23日にあたります。


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 切手でひも解く世界の歴史(4)
2017-06-15 Thu 08:05
 本日(15日)16:05から、NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第4回目が放送される予定です。(番組の詳細はこちらをご覧ください)。今回は、先日開幕したアスタナ万博にちなんで、こんな話をする予定です。(画像はクリックで拡大されます)

      カザフスタン・ナザルバエフ(2016)

 これは、2016年にカザフスタンで発行されたヌルスタン・ナザルバエフ大統領の切手シートで、シートの余白には黒川紀章のマスタープランに沿って建設が進む首都アスタナの景観が取り上げられています。その右下には、新首都のシンボルとして建設された塔“バイテレク(カザフ語で、遊牧民の伝説に登場する正名の木とされる「ポプラ」を意味します)”が見えますが、その高さ105mの展望台上るためのエレベーターは日本製です。 
 
 さて、切手に取り上げられたナザルバエフ大統領は、1940年7月6日生まれの現在76歳。1979年、ソ連時代のカザフ共産党中央委員会書記となり、1980年代、ペレストロイカを推進したゴルバチョフ政権下で中央アジアの代表として台頭しました。 1989年、カザフ共産党中央委員会第一書記に就任し、翌1990年4月にはカザフ・ソビエト共和国大統領に就任します。

 ソ連末期の1991年12月8日、ロシアのボリス・エリツィン大統領、ウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長がベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、これら3国のソ連からの離脱とEUと同レベルの国家の共同体の創設が宣言されます。これを受けて、カザフスタンも12月16日に独立を宣言。12月21日には、カザフスタンの当時の首都、アルマ・アタでソ連を構成していた共和国の首脳が会談し、独立国家共同体(CIS)の創設が決定されました。これが、いわゆるアルマ・アタ協定です。

 こうして、ソ連が完全にその存在意義を失ったことを受け、12月25日、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領が辞職し、ソ連は消滅します。したがって、しばしば、カザフスタンはソ連崩壊後独立したと言われますが、実際には、カザフスタンなどが独立したことでソ連が崩壊したというのが正確なところです。

 カザフスタンの独立とともに、ナザルバエフは新国家の大統領に横滑りし、その後も、大統領として当選を重ねます。そして、2007年5月18日、カザフスタン議会はナザルバエフを終身大統領とする決議案を圧倒的賛成多数で可決しました。同日採択された憲法改正案で大統領任期を7年から5年に削減し3選は禁止するとの規定がありましたが、ナザルバエフは“独立国家カザフの創始者”として、その例外とされています。

 その後、2010年、大統領の任期を2020年まで延長するための国民投票実施を求める署名運動が行われ、カザフスタン議会も国民投票を可能にする憲法改正案を可決。実は、その背景には、ナザルバエフには反対しないが、重要な事柄について国民投票を可能にしてほしいとの暗黙の民主化要求があったのですが、大統領側はこれを逆手に取って任期延長提案を拒否。2011年に大統領選挙を行い、得票率95.5%で4選を果たしています。ちなみに、この時の大統領選挙の立候補者はナザルバエフ以外に3人いましたが、3人ともナザルバエフの2020年までの任期延長に賛成しており、そのうちの1人はナザルバエフに投票したそうです。

 こうしたこともあって、ナザルバエフ政権に対しては独裁批判も強いのですが、その一方で、ナザルバエフは「安定と経済発展」のスローガンの下、カザフスタン=中国石油パイプラインを建設するなど、潤沢な天然資源を積極的に輸出して急激な経済成長を実現。国民の生活水準は中央アジア随一となっています。

 日本との関係では、2008年に来日時して当時の福田康夫首相と会談し、原子力の平和的利用などエネルギー分野での二国間協力協定に調印したほか、2016年には核軍縮への取り組みが評価され、日本政府の招待を受けて、カザフスタンの大統領として初めて(といっても、歴史上、カザフスタンの大統領は彼しかいないのですが)広島・長崎を訪問。旧ソ連時代、セミパラチンスク核実験場で行われた核実験で延べ120万人が被曝し、現在なお健康被害に苦しんでいることを踏まえ、「日本とカザフスタンは核兵器の大被害を受けた意味では運命が似ている。」と記しています。


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 世界の国々:チリ
2017-06-14 Wed 08:51
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年6月7日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はチリの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      チリ・イースター島

 これは、1986年にチリが発行した切手シートで、部族対立で倒されたモアイ像の広がる風景が描かれています。

 モアイの島として知られるイースター島(スペイン語ではパスクア島)は、75万年前に海底マグマの噴火によって造成された火山島で、全周は60km、面積は180km2ほど(北海道利尻島とほぼ同じ)です。

 最も近い有人島の英領ピトケアン島まで2000km余という絶海の孤島で、ポリネシア系先住民の言語では、古くは“テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)”、“マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)”などともいわれましたが、19世紀以降は“ラパ・ヌイ(広い土地)”の呼称が定着しました。

 ポリネシア系の先住民がこの地に移住してきたのは西暦800年頃のことで、花粉などの研究から、当時のラパ・ヌイは、巨大椰子の豊かな林が生い茂っていたと考えられています。

 ラパ・ヌイに上陸したポリネシア人たちは、“ラノ・ララク”と呼ばれる噴火口跡から、軟らかく加工しやすい凝灰岩を採石し、玄武岩や黒曜石の石斧で加工して、7-8世紀頃には石の祭壇“アフ”を作り始めました。ただし、青銅器や鉄器が使われた形跡はありません。

 モアイ像の制作は、遅くとも10世紀頃には始まったと考えられていますが、制作年代によって像のスタイルには相違がみられます。

 最初期の第1期に作られた像は人間の姿に近く、下半身も作られていますが、第2期以降は下半身がなくなる。第3期の像には、頭上に赤色凝灰石で作られた被り物の“プカオ”が載せられています。しかし、一般的なモアイ像のイメージに近いのは第4期の像で、長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口などが特徴的です。

 モアイ像は集落を守るように立てられているため、海沿いの像は海を背にしていますが、内陸部の像には海を向いているものもあります。なお、アフの上に建てられた像の中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなります。

 さて、モアイ像は17世紀まで盛んに作られていましたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていきました。

 そのきっかけは、急激な森林破壊(その原因については、人口が一挙に拡大したとの説や、外部から持ち込まれたネズミが天敵のない環境で大量に繁殖したとの説などがあります)にあったと考えられています。すなわち、島内で人口が一挙に増加し、そのため、森林破壊が進行して沃土が海に流出し、農業不振から食糧不足が生じ、耕作地域や漁場を巡って部族間の武力闘争が発生。モアイは目に霊力が宿ると考えられていたため、敵対する部族を攻撃する場合、彼らはモアイ像をうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊しました。

 いずれにせよ、島内での“モアイ倒し戦争”は50年ほど続き、島民の生活は大いに疲弊し、生活水準も大きく後退したと考えられている。

 1722年の復活祭(イースター)の夜、オランダ海軍のヤーコプ・ロッヘフェーンは西洋人として初めてラパ・ヌイを発見。その日付にちなんで、この島を“イースター島”と命名し、モアイ像の存在が西洋にも知られるようになります。ちなみに、スペイン語名の“パスクア島”は“イースター島”のスペイン語訳です。

 1774年には、英国の探検家、ジェームズ・クックも上陸。クックは倒壊したモアイ像を数多く目にしたが、それでも、この時点では半数ほどは直立しており、作りかけの像も放置されていたという。今回ご紹介の切手には、まさにそうした光景が描かれています。

 さらに、18世紀後半から19世紀にかけて、スペインのペルー副王領政府の命を受けた奴隷商人がイースター島を訪れるようになり、1862年にはペルー人による大規模な奴隷狩りが行われます。この結果、わずか数ヶ月間での内に当時の住民の半数に当たる約1500人が島外に拉致されました。そこへ、追い打ちをかけるように、外部から持ち込まれた天然痘や結核が蔓延し1872年には島民はわずか111人にまで激減します。

 その後、イースター島は1888年にチリ領になり、現在に至っているわけですが、現在、島内に立っている像は、基本的に、チリによる領有後、倒壊した像をクレーンなどを立て直したものです。

 さて、『世界の切手コレクション』6月7日号の「世界の国々」では、イースター島についての長文コラムのほか、チリ・ワイン、パン・デ・アスカル国立公園、サンティアゴ中央郵便局、イキケ海戦の英雄・プラット艦長の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のチリの次は、6月7日発売の6月14日号でのウズベキスタンの特集になります。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。 
      

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 “レズビアン”の由来となった島
2017-06-13 Tue 11:42
 きのう(12日)、エーゲ海北東のレスボス島プロマリの南11キロ、深さ約10キロを震源とするM6.3の地震が発生し、住宅が損壊・倒壊するなどの被害が出たほか、現在判明している時点で、同島の女性1人が亡くなったほか、10人が負傷したそうです。というわけで、亡くなられた方々の御冥福と負傷された方々の一日も早い御快癒をお祈りしつつ、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ギリシャ・レスボス島

 これは、1912年末、レスボス島を占領したギリシャが発行した暫定加刷切手です

 レスボス島は、1462年、メフメト2世統治下のオスマン帝国に占領されて以来、約450年間に渡ってその支配下にありましたが、1912年の第一次バルカン戦争でギリシャが占領し、ギリシャ領に編入しました。レスボス島を占領したギリシャ軍は、島で使われていたオスマン帝国の切手を接収し、地元の新聞印刷所で“ギリシャ占領ミティリニ(ミティリニはレスボス島の中心都市)”を意味するギリシャ語の“Ελληνική Κατοχή Μυτιλήνης”と加刷した切手を発行しました。ただし、当時のミティリニではギリシャ通貨のドラクマは流通していなかったため、切手は、従来通り、トルコ通貨のピアストル額面で販売されています。

 さて、レスボス島といえば、紀元前7世紀末から紀元前6世紀初にかけて活動した古代ギリシャの女流詩人、サッフォーの出身地として知られています。彼女は、自らが選んだ若い娘しか入れない“学校”をレスボス島に作るとともに、様々な女性に対する愛の詩を多く残したため、生前から女性の同性愛と結び付けて語られてきました。このため、彼女の出身地である“レスボス島の”を意味する英語の形容詞、“lesbian”やそこから派生した“Lesbianism”は、女性の同性愛を意味する言葉(日本語でいう“レズビアン”)として、20世紀以降、世界各国に広まります。

 この結果、レスボス島、特にサッフォーの出身地であるエレソスは女性同性愛者の間では“聖地”として観光地になりましたが、その反面、地元ではそうした観光客を歓迎しない人も大勢います。このため、現在では、レスボス島の名に変えて、中心都市ミティリニにちなむ“ミティリニ島”の呼称を使い地元住民も多いのだとか。今回ご紹介の切手の地名表記にも、あるいは、そうした意識が働いたのかも知れません。

 自分たちの出身地または居住地が性的な用語と結び付けて語られれば、それに不快感を持つ人が多いのも当然のことで、2008年、レスボス島民を中心とするグループは、ギリシャ国内のLGBT団体、“ギリシャ・ゲイ・レズビアン連合(OLKE)”を相手どり、団体名から“lesbian”の語を削除することを求める訴訟をアテネの裁判所に起こしました。ところが、これに対して、裁判所は「島民たちがこの名称によって侮辱されたと感じる理由はない」として訴えを棄却。門前払いを食らわせています。

 そういえば、日本でも、ソープランドに相当する施設はかつて“トルコ風呂”と呼ばれていましたが、1984年、東京大学で地震学を学んでいたトルコ人留学生、ヌスレット・サンジャクリが、小池百合子(現東京都知事。当時は通訳・キャスター)に相談の上、厚生省(当時)に名称変更を訴え出たことが発端となり、同年12月19日、現在の名称“ソープランド”に改称されたということがありましたな。

 レスボス島の人たちからすれば、同島の出身者として “I am Lesbian.”と語ることが憚られるというのは、納得できなくて当然です。そうであれば、人権や反差別を主張する人たちこそ、“トルコ風呂”の先例に倣い、自ら率先して“レズビアン”やLGBTの語を使うのを止め、それに代わる用語を提案すべきだろうと思います。少なくとも、レスボス島民の苦悩に無頓着なまま、LGBTの権利のみを声高に主張し、挙句の果てに、自分たちの意見に賛同しない人たちを“差別主義者”と糾弾して回るような輩は、“人権”を隠れ蓑にした“差別の当たり屋”以外の何物でもなく、心の底から軽蔑するしかありませんな。
 
 
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 上野のパンダ・シンシンが出産
2017-06-12 Mon 21:18
 妊娠の兆候があった上野動物園の雌のジャイアントパンダ“シンシン”が、きょう(12日)午前11時52分、赤ちゃん1頭(現時点での性別は不明)を出産しました。上野動物園でのパンダ誕生は、今回と同じシンシンの2012年7月の出産以来、約5年ぶりのことです。というわけで、きょうはパンダを描いた切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      中日平和友好条約8分

 これは、1978年の日中平和友好条約調印に際して中国側が発行した記念切手(このため、紀念銘は“中日”になっています)の1枚で、両国の少女を中心に、左下にはパンダの玩具が描かれています。今回生まれたばかりの赤ちゃんパンダは体重150グラム程度だそうですから、それに近い大きさのパンダが描かれている切手ということで持ってきました。

 さて、日本と中国との平和友好条約に関しては、すでに、1972年9月の“国交正常化”の際に発表された日中共同声明の第8項において、将来の締結をめざすことがうたわれていました。

 これを受けて、1974年11月、平和友好条約締結に向けての予備交渉がスタートします。しかし、ソ連を“覇権主義”と批判していた中国側が条約に“反覇権”の文言を盛り込むことを強く主張したため、ソ連との関係悪化を懸念する日本側との間で交渉は難航。さらに、1975年から1977年にかけては日本では田中金脈問題やロッキード事件、中国では毛沢東の死と4人組の逮捕などがあり、両国ともに国内の政治状況が不安定 だったこともあって、交渉は中断されました。

 その後、1977年になって、新たに中国の最高実力者となった鄧小平が“柔軟姿勢”を示すとともに、米中国交正常化の動きが活発化したことを受けて、日本政府(福田赳夫内閣)も交渉打開に積極的に取り組むようになります。翌1978年8月、日本側外相の園田直が訪中して交渉をまとめ、8月12日に中国側外交部長(外相に相当)の黄華が来日し、東京で「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約(日中平和友好条約)」が調印され、同年10月23日、鄧小平が来日して批准書の交換が行われ、即日発効しました。

 条約は、主権と領土の相互尊重・相互不可侵・相互内政不干渉などをうたった“平和五原則”を両国関係の基礎とするとした第1条、“反覇権”をうたった第2条、「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」とする“第3国条項”を記した第4条など、前文と本文5条からなっています。また、中国側は日本に対して(日中戦争に関する)賠償金の請求を放棄する見返りとして、日本から多額の経済援助を長期間にわたって引き出し続けることに成功。その後の経済発展の基礎を築くことになります。

 
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 岩のドームの郵便学(51)
2017-06-11 Sun 10:48
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』646号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1994年のパレスチナ自治政府発足について取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ自治政府最初の切手(岩のドーム)

 これは、1994年に発行されたパレスチナ自治政府最初の切手のうち、岩のドームを取り上げた1000ミリーム切手です。

 湾岸戦争後の1991年10月末、米国は崩壊間際のソ連と共同してスペインのマドリードで中東和平に関する国際会議を開催します。この会議は、全当事国が一堂に会したという点で中東紛争の歴史の中で画期的なもので、その後の和平プロセスの起点となりました。

 当初、イスラエルはこの会議への参加を渋っていましたが、米国が会議への協力がなければイスラエルの求めている債務保証の申し出を拒否すると圧力をかけたこともあり、最終的に会議に参加。PLOはイスラエルの拒絶にあい参加しませんでしたが、パレスチナ代表団はPLOの意を体したメンバーで構成されました。

 会議では、シリア、レバノン、ヨルダンの各国とイスラエルとの二国間交渉の枠組みと、水資源や難民問題、安全保障などの多国間問題についての共同会議設立が決定され、1991年12月以降、米ワシントンで二国間交渉が個別に行われます。

 当初、イスラエル側は和平に対する意欲に乏しく、占領地でのユダヤ人の入植を拡大し続けていましたが、1992年の総選挙で新たに労働党のイツハク・ラビン政権が誕生すると、和平交渉は進展する兆しが見られるようになりました。

 しかし、和平プロセスの進展に対しては、ヨルダン川西岸とガザ地区を完全な自国領とみなして占領地の返還を拒否するイスラエル国内の右派勢力と、パレスチナ全域からのイスラエルの撤退を主張するパレスチナの強硬派がともに激しく反対。特に、イスラム原理主義組織ハマースは各種のテロ活動を展開し、多くの犠牲者を出していました。

 ハマースの闘争に手を焼いたラビン政権は、1992年12月、ハマス関係者415名を一挙に国外追放処分にしましたが、この結果、米国が仲介する公式の和平交渉は完全に行き詰まってしまいます。

 一方、PLOは、湾岸戦争でイラクを支援したツケが響いて破産寸前の状態に追い込まれていました。

 すなわち、1990年の湾岸危機の時点で、すでに、冷戦時代にPLOを支援していた東側共産主義諸国の大半は崩壊していましたが、湾岸戦争を経て、サウジアラビアをはじめ湾岸諸国からの資金援助(年間約3億5000万ドルにも及んでいました)も打ち切られます。さらに、クウェートのパレスチナ人労働者は職を失い、彼らからPLOに納められる税収(PLOはクウェートで働くパレスチナ人から一定の「税収」を得ていた)もほぼ完全に途絶しました。

 経済的に追い詰められたPLOは、組織として急速に弱体化し、ラビン政権が発足した頃には、イスラエルとの対話路線を定着させる以外に存続のための選択肢は残されていませんでした。このため、もはやPLOはイスラエルにとっての脅威ではなくなっていたのですが、イスラエル側は、逆に、現状を放置すれば、PLOに代わってより過激なハマースがパレスチナ人の代表権を獲得するのではないかとの懸念を抱くようになりました。

 この結果、ハマースの勢力伸張は、イスラエルとPLO双方にとって共通の脅威となり、彼らは反ハマス連合として和解に到達するのです。

 かくして、イスラエルのラビン政権は、和平プロセスに関与しすぎた米国ではなく、ノルウェーのホルスト外相を通じてPLOと非公式に接触。1993年9月、イスラエルとPLOの相互承認とガザならびにイェリコ(ヨルダン川西岸地区の重要都市)でのパレスチナ人の自治を骨子とするオスロ合意がまとめられました。米国は、このオスロ合意を引き取るかたちで、ワシントンで合意の調印式を開催します。

 その後、1994年5月にはカイロでパレスチナ先行自治協定(PLOによる自治を開始するための具体的協定)が調印され、イェリコとガザで暫定自治が開始されました。

 暫定自治の開始に伴い、5月4日にはガザ地区で、5月9日にはイェリコで、イスラエルの郵政機関が閉鎖され、パレスチナ自治政府の郵政機関が発足します。ただし、当初はパレスチナ自治政府独自の切手は間に合わず、ガザ地区とイェリコでもイスラエルの切手がそのまま使用されていました。

 このため、パレスチナ自治政府としての独自の切手を発行すべく、PLO駐独代表のアブドゥッラー・フランギーが、ドイツ社会民主党の国会議員でアラブ諸国との関係が深く、かつ切手収集家でもあったハンス・ユルゲン・ヴィシュネウスキーと接触。その結果、ドイツの老舗切手エージェント、ゲオルグ・ロール・ナシュフ社のコーディネートの下、国有ドイツ連邦印刷会社が切手を製造することで話がまとまり、1994年夏、ベルリンで切手の製造が行われます。

 切手のデザインは、イェリコのヒシャーム宮殿(5、10、20ミリーム)、東エルサレムの聖墳墓教会(30、40、50、75ミリーム)、パレスチナ自治政府の国旗(125、150、250、300、500ミリーム)に加え、最高額面の1000ミリーム切手(今回ご紹介の切手です)には岩のドームが取り上げられた。

 パレスチナ自治政府がドイツから切手を受け取ったのは1994年10月以降のことで、各地の郵便局では、いつからこれらの切手が実際に販売されたのか、現在となっては正確なデータは残されていません。なおちなみに、この切手の収集家向けの販売代理店となったゲオルグ・ロール・ナシュフ社は、1994年8月15日付の“初日カバー”を制作・販売していますが、この日付の時点では切手は実際にはパレスチナに到着していませんから、初日カバーに押されている消印の日付が“後押し”となっている点は注意が必要です。

 ところで、パレスチナ自治政府は、新切手の発行を、1948年の英委任統治終結以来、およそ半世紀ぶりの“パレスチナ切手”の復活と位置付け、英領時代の先例に倣い、切手の額面を“ミリーム”表記とします。

 一方、1994年4月29日付でイスラエルとPLOが締結した“1994年パリ議定書”の第4条によると、自治政府の統治下の通貨は、イスラエルの通貨である新シェケルを基本としつつも、ヨルダン川西岸地区ではヨルダン・ディナール、ガザ地区ではエジプト・ポンドの使用が認められることになっていました。ただし、パレスチナ自治政府には独自通貨の発行権を認める規定はなかったため、イスラエル側は、1994年10月に登場した自治政府の切手の額面がミリーム表示になっていることに強く反発。イスラエル宛またはイスラエルを経由して海外へ逓送される郵便物に関しては、ミリーム額面の切手が貼られている場合は、料金未納扱いにすると自治政府に通告します。

 このため、自治政府側は、パリ議定書で認められた通貨に対応すべく、ミリーム額面の切手に、ヨルダン・ディナールの補助通貨であるフィルス表示の額面を加刷した切手をあらためて発行。これにより、ようやく、パレスチナ自治政府の切手は、郵便料金の前納をします世紀の証紙として、世界的にも承認されることになりました。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。

 
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 6月15日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第4回目が放送予定です。今回は、6月10日に開幕したばかりのアスタナ万博にちなんで、開催国のカザフスタンにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 アスタナ万博開幕
2017-06-10 Sat 09:30
 カザフスタンの首都アスタナで、「未来のエネルギー」をテーマにしたアスタナ国際博覧会(アスタナ万博)が、きょう(10日)から始まります。というわけで、今日はストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      アスタナ万博

 これは、ことし3月14日にカザフスタンが発行した50テンゲの普通切手で、アスタナ万博のロゴとスローガンが大きくデザインされています。カザフスタンは今年3月に新デザインの普通切手7種を発行していますが、そのうちの4種が、今回ご紹介した切手と同じデザインで、万博の宣伝を兼ねたものとなっています。

 1991年にカザフスタンが独立した時の首都はアルマ・アタ(のちカザフ語のアルマトイに改称)でしたが、1994年、同国北部のアクモラを新首都とすることが決定されます。

 ちなみに、アクモラが新首都に選ばれた理由としては、アルマトイが中国との国境に近すぎること、活断層があり地震多発地帯であること、地形的に更なる発展が困難だったこと、などが挙げられています。またアスタナが位置するカザフスタン北部にはロシア人が多かったため、遷都によって北部にもカザフ人の割合を増やし、将来的な分離独立問題を抑え込む意味もあったといわれています。

 新首都に選ばれたアクモラは、ソ連時代にはツェリノグラードと呼ばれていた都市で、独立後、カザフ語で“聖地”を意味するアクモラと改称されました。さらに、1997年に実際に遷都が行われると、翌1998年、カザフ語で“偉大な都市”を意味するアスタナと改称され、現在に至っています。

 さて、独立後のカザフスタンは、石油や天然ガス、鉱物資源など豊富な資源を背景に目覚ましい経済発展を遂げましたが、新首都の建設には、その成果を世界にアピールする意図も込められていました。そこで、1998年、カザフスタン政府は新首都建設のマスタープランとデザインに関する国際コンペを実施。参加した27チームの中から黒川紀章の都市計画案が1位になりました。

 アスタナの首都建設事業は、2030年までに100万都市とすることを目指して、現在も段階的に建設が進められていますが、今回の万博開催もその一環として企画されたものです。
 
 なお、アスタナ万博の会期は9月10日までの3ヶ月間の予定で、わが国を含む100カ国余りの再生可能エネルギー分野の国際組織・大手企業が出展。きのう(9日)おこなわれたオープニング・セレモニーには中国の習近平国家主席、ロシアのプーチン大統領も出席し、開催国のナザルバーエフ大統領は開会の辞で「将来的に、効率的で安全なエネルギーが次々と発明されるだろう。今回の国際博覧会がこうした発展に貢献することを確信している」と述べ、万博開催の意義を強調したそうです。

 
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 臺灣鐡路節
2017-06-09 Fri 22:24
 きょう(9日)は、1887年6月9日、台北・大稲埕(現台北市大同区)で台湾初となる鉄道の起工が宣言されたことを記念し、台湾では鉄路節(鉄道記念日)です。ことしは130周年の節目の年ということで、現地では各種の記念イベントも取り上げられているということなので、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      台湾龍馬票(鉄道:台北-錫口)

 これは、不発行に終わった台湾龍馬票に加刷して鉄道の乗車券として転用したものです。

 清朝政府が通商ならびに国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになったのは1870年代以降のことで、それまでは、台湾は福建省に属する辺境の地という程度にしか認識されていませんでした

 1884年、ヴェトナムの宗主権をめぐって清仏戦争が勃発するとフランス軍は台湾に進攻。清朝側は劉銘傳を督台湾軍務に任命して抗戦しましたが、台湾は一時的にフランス軍に占領されてしまいます。このため、清仏戦争終結後の1885年、清朝は、台湾の防備体制を改めて台湾を省に昇格させ、劉銘傳を主任台湾巡撫に任じてフランス軍と戦い、台湾島の実効支配を回復しました。

 巡撫に任じられた劉は台湾の経済開発に乗り出します。赴任後の1887年に上奏して台湾での鉄道敷設の必要性を訴え、勅許を得て同年6月9日、基隆から台北を経て新竹に至る区間で狭軌(1067mm)の鉄道建設工事が始まります。また、1886年には招商局(後の台湾商務局)を設立して近代海運制度を導入したほか、道路網の整備、電信事業の創業なども行いました。

 こうした近代化改革の一環として、従来の駅逓(政府の公文書を扱う機関)は、台湾郵政総局に改編され、1888年3月から切手を用いた近代郵便制度も実施されることになりました。

 当時、台湾には、淡水、台南、高雄の3ヵ所に海関の郵便部が置かれていましたが、海関の郵便部は主に在留外国人が中国本土ないしは外国宛に差し出す郵便物を扱うだけで、台湾島内の郵便には無関心でした。また、切手は使用されず、郵便物には料金を収納したことを示す印が押されるのみでした。

 これに対して、劉銘傳は、西洋諸国に倣って独自の切手を発行し、公用便と民間便を併せて扱う近代郵便制度の創業を目指し、台湾全島に站(郵便局に相当)を設け、郵便網の整備を企画します。もっとも、站は、記録によれば、43ヶ所存在したことになっていますが、その全てについて、実際に活動が行われていたことが確認されているわけではありません。

 さて、近代郵便の発足に伴い、劉は切手の発行を計画します。当初の切手は、現地製の用紙に木版・手刷でつくられたものでしたが、後に、ロンドンのブラッドバリー・ウィルキンソン社に本格的な切手の製造が発注されています。発注された切手は30.5×32ミリの凹版印刷で、中央上部には皇帝の象徴である龍が、その下には交通・通信を象徴する馬が、それぞれ描かれています。また、右側には「大清臺灣郵政局」の文字が、上下には欧文で“FROMOSA CHINA”と記されており、このことから、“大清台湾郵政局龍馬票”(以下、龍馬票)と呼ばれています。

 もっとも、龍馬票は、1888年6月から発行・使用される予定でしたが、台湾郵政局側が事前に清朝中央政府の許諾を取っていなかったため、発行直前になって「中央の龍が人間の顔に似ており、皇帝の権威の象徴としてのイメージを損なう」とのクレームがつけられ、実際には切手として発行されないままに終わってしまいました。

 一方、1887年6月9日に着工された鉄道は、1888年7月、台北駅(大稲埕) - 錫口(現松山)間が開通。同年秋には水返却(現汐止)まで路線が延伸されます。これに伴い、鉄道の乗車券を調達しなければならなくなったことから、不発行の龍馬票が乗車券の用紙として流用され、地名や料金表示など、乗車券としての必要な文字が加刷して使われました。今回ご紹介のモノでは、台北=錫口の区間名と、料金が加刷されています。

 なお、龍馬票が切手としてお蔵入りとなった後も、台湾に中国本土から清朝の切手が持ち込まれて使用されることはなく、日本に割譲されるまで、台湾では木版・手刷りの切手が使われていました。その後も、日本統治時代を経て現在に至るまで、台湾で中国本土と同一の切手が使われたことは一度もありません。こうした事実もまた、台湾は歴史的にも中国と不可分の領土であったと主張する“一つの中国”論が、いかに荒唐無稽な言説であるかを雄弁に物語っていることは、もっと注目されても良いように思います。

 
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 テヘランで同時テロ
2017-06-08 Thu 07:53
 イランできのう(7日)、複数の武装グループが首都テヘラン中心部の国会議事堂と郊外のホメイニー廟をほぼ同時に襲撃。治安当局との銃撃戦で、民間人を含む少なくとも12人が死亡、40人以上が負傷しました。事件に関しては、“イスラム国”を自称するテロリスト集団、ダーイシュが「両事件はいずれもイスラム国の兵士らが実行した」とする声明を発表しています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラン・ホメイニー廟

 これは、1991年6月4日にイランが発行した“ホメイニー追悼”シリーズのうち、今回の事件現場のひとつ、ホメイニー廟を取り上げた切手です。

 ホメイニー廟は、イラン・イスラム革命の指導者、アーヤトッラー・ホメイニーと彼の家族(妻のハディージャ・サカフィーと次男のアフマド・ホメイニー)、ラフサンジャーニー大統領、ハサン・ハビービー副大統領、アリー・サイイド・シーラーズィー中将、思想家サーデク・タバタバーイーの遺体を安置した墓廟を中心とした複合施設です。

 ホメイニー廟の建設は、1989年6月にホメイニーが亡くなった直後の同年7月19日、テヘラン南郊のベヘシュテ・ザフラー墓地内で建設が開始され、墓廟本体は1992年6月2日に完成。4本のミナレットに囲まれた金色のドーム屋根は周辺一帯のランドマークとなりました。現在も、複合施設としてのホメイニー廟の建設は続けられており、に、最終的には、文化・観光センター、イスラム大学、ショッピング・モール、2万台収容可能な駐車場などからなる敷地面積20平方キロの複合施設となる予定です。

 ホメイニー廟はホメイニーの孫でイスラム法学者のアーヤトッラー・サイイド・ハサン・ホメイニーが管理しており、ホメイニーを慕う人々の参詣の場であるとともに、国賓がイランを訪問した際に訪れる象徴的な場所とされています。また、毎年6月4日のホメイニーの命日にはイラン政府要人と外国大使、それに一般国民が参加しての式典が行われています。今回の事件は、そのわずか3日後に起きたわけで、犯行が6月4日の式典当日に行われていたら…と考えると、本当に恐ろしいことです。

 あらためて、亡くなられた方々の御冥福と負傷された方々の一日も早い御快癒をお祈りいたします。
 
 
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 世界の国々:タジキスタン
2017-06-07 Wed 09:03
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年5月31日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はタジキスタンの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タジキスタン・戦勝50年

 これは、1995年にタジキスタンで発行された“戦勝50周年”の記念切手シートです。

 1924年、ソ連中央政府は中央アジアを民族別の共和国に分割する「民族境界区分」を画定。これに伴い、“中央アジアのイラン系言語(タジク語)を用いる定住民”を“タジク人”とする定義が採用され、タジク人の民族共和国として、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内にタジク・ソヴィエト社会主義自治共和国が設定されました。ただし、境界画定の過程で、タジク人には十分な発言権を与えられず、タジク人が数多く居住するブハラ、サマルカンド、フェルガナ盆地はウズベク領となり、タジク人は歴史的領域の重要部分を失うことになります。

 タジク・ソヴィエト社会主義自治共和国は、1929年、タジク・ソヴィエト社会主義共和国に昇格。1939年には同共和国でも徴兵制も実施されました。

 1941年に独ソ戦が勃発すると、多くのタジク兵が出征。1945年の終戦までのタジク人戦死者は6-12万人と推定されています。今回ご紹介の戦勝50年記念の切手シートは、独立後の1995年に発行されたもので、戦車を組み込んだ戦勝記念碑を描く5000ルーヴル切手が収められています。なお、シート余白の“ソヴィエトの”を意味するロシア語の単語は“СОВЕТСКОГО”が正しいのですが、今回ご紹介のモノは“СОВТСКОГО”となっており“Е”が抜けたスペル・ミスとなっています。その後、スペル・ミスの切手は回収され、正しいスペルのモノが改めて発行されましたが、市場価値としては、どちらも特にお宝というほどのものではありません。

 さて、『世界の切手コレクション』5月31日号の「世界の国々」では、民族としての“タジク人”についての長文コラムのほか、現地の農業、古典文学の『シャー・ナーメ』、ホジェンド(フジャンドとも)旧市街のシャイフ・ムスリヒディーン・モスク、フェルガナ盆地のブドウの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のタジキスタンの次は、5月31日発売の6月7日号でのチリの特集(2回目)になります。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。
      
 
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 7国・地域がカタールと断交
2017-06-06 Tue 11:41
 アラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、イエメン、サウジアラビア、エジプト、モルディブのイスラム圏6ヵ国とリビア東部を支配するリビア臨時政府は、昨日(5日)、カタールとの国交断絶を発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      カタール・ガザの涙

 これは、2009年にカタールが発行した“ガザの涙”と題する切手です。

 パレスチナ自治政府内部では、発足当初から、PLO傘下のファタハとイスラム原理主義勢力のハマース(ハマス)が対立し、各地で散発的な戦闘が発生していました。2007年6月、ハマースがガザ地区を武力制圧。現在に至るまで、ガザ地区はハマースが、ヨルダン川西岸地区はファタハが事実上支配しています。
 
 さて、対イスラエル強硬派のハマスがガザ地区を支配下に置くと、イスラエルはガザへの人や物の出入りを従来にもまして厳しく制限。これに反発したハマースは、2008年1月9日、ブッシュ米大統領のイスラエル・パレスチナ歴訪に合わせてイスラエルへのロケット弾攻撃を敢行し、イスラエルがその報復としてガザを完全封鎖。さらに、同年12月27日から翌2009年1月18日まで、イスラエルはガザ地区に対して大規模な攻撃を行いました。

 今回ご紹介の切手は、そうした状況を踏まえ、イスラエルのガザ攻撃を非難し、ハマス政府を支持する意図を込めてカタールが発行したものです。

 ところで、ハマースの最大の支援国は、かつては、シリアとイランで、サウジも一定の資金援助と軍事支援を行っていました。しかし、世界的に反テロ気運が盛り上がってきたことにくわえ、サウジにとっては最大の敵国であるイランがハマースを支援していることもあり、現在のサウジは反ハマースの立場を船名にしています。

 2011年にシリア内戦が勃発し、諸勢力が血みどろの戦闘を展開する中で、スンナ派原理主義勢力としてのハマスは、シリアのアサド政権(アサド本人はシーア派系のアラウィー派ですが、政権全体としては世俗主義)と距離を置き、スンナ派系の反体制派への支持を表明。この結果、ハマースはアサド政権と決別しましたが、イランがこの“背信”を批難すると、イランとハマスの関係も冷却化します。

 こうした状況の中で、2012年10月23日、カタールのハマド首長(当時)は、ハマースのガザ制圧以来、外国元首として初めてガザ地区を訪問してハマースを支持する姿勢を鮮明にしました。

 もともと、カタールの外交政策は、長年にわたって(事実上の)敵対関係にあるバハレーンに対抗するため、その後ろ盾となっているサウジの影響力をいかに抑え込むかということを基本方針の一つとしています。ちなみに、バハレーンの首長家とサウジ王家は縁戚関係にあり、それゆえ、バハレーンは“サウジの事実上の保護国”と呼ばれることもあります。

 このため、サウジをはじめとする湾岸首長国が、安全保障上の最大の脅威(ちなみに、イランに言わせると「バハレーンは歴史的にイランの領土だった」そうです)としてイラン敵視政策を採る中で、カタール・イラン関係は比較的良好な関係を保ってきました。また、2014年以来のイエメン内戦では、カタールは、シーア派系武装組織“フーシ派”と戦うために結成されたサウジアラビア主導の国際連合軍に参加していながら、フーシ派とも密かに関係を維持していたとされています。ハマースとの関係も、反サウジ勢力とも一定のパイプを維持しておくことで、湾岸アラブ諸国の中で圧倒的なプレゼンスを有するサウジに対抗する切り札として、これを活用したいとの思惑があったものと考えられます。

 今回の断交の直接のきっかけは、今年5月のトランプ米大統領のサウジ訪問後、タミーム現首長が、米大統領とサウジ国王はイランを世界の主要テロ支援国と名指しし、反イランの機運を醸成していると非難。あわせて、ハマスを支持する発言も行ったとの主旨の報道が流れたことにあるとされています。報道内容について、カタール政府は事実関係を否定し、ハッキング被害に遭ったものだと主張しましたが、サウジや他の湾岸諸国はアルジャジーラなどカタールのメディアを遮断。各国のマスコミはカタールの外交姿勢を痛烈に批判する報道を続けていました。

 ちなみに、今回のカタールとの断交は、まず、長年の宿敵であるバハレーンが5日朝に国交断絶を宣言し、これに、サウジ、エジプト、UAEが続き、さらにイエメン、モルディヴ、リビア臨時政府が加わるというかたちになりました。サウジ外務省は、カタール政府が①国内にテロ組織を住まわせテロを支援している、②報道機関でテロ組織の宣伝を行っている。③カティーフ県にいるイランと関わりがあるテロ行為を支援している、④過激派組織に居住許可を与えている、⑤イエメンのフーシ派を支援している、ことから、“国の治安のため”カタールとの断交に踏み切ったと説明しています。

 今回の断交措置を受けて、サウジ、UAE、エジプト、バハレーンは、カタール籍の航空機や船舶が自国の領空や領海を通過することを禁止し、在留カタール人は2週間以内の国外退去を命じるとともに、自国民のカタールを訪問も禁止しています。郵便史的な関心からすると、上記4カ国経由でのカタール発着の郵便物の取り扱いも停止されるわけで、返戻便や大幅な迂回ルートで逓送されたカバーなど、興味深いマテリアルがいろいろと生まれそうです。

 いずれにせよ、今回の一件は今後もしばらく尾を引きそうですので、状況の変化に合わせて、このブログでもいろいろフォローしてみたいと思います。

 
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 第三次中東戦争勃発50年
2017-06-05 Mon 12:10
 1967年6月5日に第3次中東戦争が勃発してから、今日(5日)でちょうど50周年です。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・再統一50年

 これは、今年(2017年)4月4日にイスラエルが発行した“再統一50年”の記念シートです。ここでいう“再統一”とは、第三次中東戦争の結果、それまでヨルダン領だった東エルサレムをイスラエルが占領し、戦前からのイスラエル領だった西エルサレムと統合したことを意味しています。ちなみに、イスラエルでは“(エルサレム)再統一”の記念日(ヨム・イェルシャライム:エルサレム記念日)は、毎年、ユダヤ暦イヤール月(第8月)28日に祝うことになっているため、一般的なグレゴリオ暦では毎年、日付が異なっており、今年は5月25日がその祝日にあたっていました。

 1956年の第二次中東戦争(スエズ動乱)は、英仏の侵攻に屈せず耐え抜いたという点で、エジプトは政治的に勝利を収め、ナセルの権威は絶頂に達したものの、純粋に軍事的な見地から見ると、英仏との密約によりエジプト領内に侵攻したイスラエル軍は、いともたやすくシナイ半島を横断してスエズ運河地帯まで進軍し、エジプト軍はそれを阻止することができず、惨敗に等しい状況でした。

 このため、イスラエルとの全面戦争になればエジプトには勝ち目はないことをナセルも思い知り、イスラエル打倒の勇ましいスローガンとは裏腹に、本音では、イスラエルとの戦争を回避しなければならないと考えるようになりました。そこで、ナセルは、対イスラエル闘争の統一司令部として“パレスチナ解放機構(PLO)”を作り、その傘下にパレスチナ人の武装組織を組み込むことで、強硬派の暴走を抑え、イスラエルを決して本気で怒らせない(=全面戦争には突入しない)程度に“抵抗運動”を継続して、パレスチナ解放の大義は維持した体裁をとりながら、アラブ世論のガス抜きをするという戦略を立てます。

 ところが、現実には、パレスチナ人武装勢力の中には、ナセルの微温的な姿勢を拒否して、PLOには参加せず、イスラエル領内での武装闘争をエスカレートさせるものも少なくなくありませでした。その代表的な存在が、ヤーセル・アラファート(以下、アラファト)ひきいるファタハです。

 1957年に創設され、反イスラエルの武装闘争(イスラエル側から見ればテロ活動)を展開していたファタハは、武装闘争/テロ活動をエスカレートさせてイスラエルの報復攻撃を引き出せば、アラブ諸国も対イスラエル全面戦争に参加せざるを得なくなると考えており、ソ連、東欧はもとより、中国を含む反西側諸国から武器を調達し、シリアの庇護下で戦闘能力を強化していました。

 一方、イスラエルの政府と国民にしてみれば、PLO傘下の団体であろうとなかろうと、国内の治安を乱すテロリストは駆逐すべき存在ですから、その討伐を求める世論が高揚。イスラエル=シリア国境では緊張感が高まっていきました。

 こうした中で、1967年4月、シリア、イスラエル両国の空軍が空中戦を展開し、シリアのミグ戦闘機6機が撃墜される事件が発生。これを機に、軍事的緊張は一挙に高まり、“アラブ世界の盟主”ナセルにイスラエルへの実力行使を求めるアラブ諸国の世論が沸騰します。

 当初、ナセルは慎重姿勢を保っていましたが、同年5月14日、アラブ諸国からの要請を拒否しきれずに、シナイ半島に兵力を進駐させ、第二次中東戦争の終結以来駐留を続けていた国連緊急軍に撤兵を要求。同月22日、チラン海峡(紅海につながるアカバ湾の出口)を封鎖しました。

 アラブ諸国はナセルの決断を歓迎し、5月30日にはヨルダンとエジプトとの間で相互防衛条約が調印されたほか、エジプトとシリア、ヨルダンの間では軍事同盟が結成された。さらに、イラク、クウェート、スーダン、アルジェリアの各国も有事の際の派兵を約束。イスラエルは周囲を完全に包囲されます。

 このため、イスラエルはアラブ諸国軍に対する戦闘準備を急ぎ、先制攻撃を計画。当初、米国はイスラエルの先制攻撃に反対し、問題の政治的解決を求めましたが、最終的には、和平解決のための具体的行動をとる用意がないことをイスラエルに通告します。これを受けて、6月5日、イスラエルはアラブ諸国軍に対する先制攻撃を開始しました。

 こうして、いわゆる第三次中東戦争の勃発します。

 戦争の勝敗は、開戦後まもなく、イスラエル空軍が、エジプト、ヨルダン、シリア、イラク各国の空軍基地を壊滅状態に追い込んだことによって、早々に決せられました。イスラエル軍は早くも6月7日には東エルサレムを占領し、同月10日にはゴラン高原のシリア軍が潰滅。この間、6月8日には国連安保理の勧告を受けて、エジプトが無条件停戦に応じ、シリアも10日には停戦に応じました。このため、イスラエル側は、この戦争を誇らしげに“6日戦争”と呼んでいます。

 第三次中東戦争の結果、イスラエルの占領地は一挙に戦前の3倍に拡大します。しかし、理由はどうあれ、戦争がイスラエル側の先制攻撃ではじまったことから、イスラエルによる占領地拡大の正統性については、アラブ諸国はもとより、社会主義諸国や中立諸国なども否定的で、同年11月22日の国連安保理はイスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致(中華民国、フランス、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、アルゼンチン、ブラジル、ブルガリア、カナダ、デンマーク、エチオピア、インド、日本、マリ、ナイジェリア)で可決。ただし、同決議では撤退期限は定められず、経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかったため、イスラエルは決議を無視し、現在でも、東西エルサレムはイスラエルの“不可分の永遠の首都”であるというのが彼らの主張です。

 ちなみに、今回ご紹介の切手では、シートは中央のタブを挟んで左右に1枚ずつ切手が収められていますが、エルサレムを象徴するものとして左側の切手にはヘブライ大学の時計塔を、右側の切手には嘆きの壁を、それぞれ取り上げています。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。
 
 
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 世界卓球、吉村・石川組が金
2017-06-04 Sun 10:55
 ドイツ・デュッセルドルフで開催中の卓球の世界選手権は、昨日(3日)、混合ダブルスの決勝が行われ、日本の吉村真晴・石川佳純組が、台湾の陳建安・鄭怡静組に4-3で競り勝ち、優勝しました。この種目での日本の金メダルは1969年ミュンヘン大会の長谷川信彦・今野安子組以来48年ぶり、全種目を通じても1979年平壌大会の男子シングルス・小野誠治以来38年ぶりの快挙となりました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・卓球世界選手権(1979)

 これは、前回、日本選手が金メダルを獲得した1979年平壌大会に際して、開催国の北朝鮮が発行した小型シートです。

 1979年の卓球の世界選手権は4月25日から5月6日まで、平壌体育館(1973年4月3日完成)で開催されました。今回ご紹介の切手には、平壌中心部の千里馬像の上に世界各国の参加を歓迎するとの意味で“WELCOME/환영”の文言も見られますが、実際には、北朝鮮当局は外国の選手やメディアが一般の北朝鮮国民に接触することを極端に警戒しており、とても歓迎ムードといった雰囲気ではなかったようです。

 大会を取材した『デイリー・メイル』紙のリチャード・ルイスによると、会期中、北朝鮮選手の応援には北朝鮮国民が動員され、北朝鮮選手の得点や相手選手のミスには大歓声が沸き起こる反面、相手選手が得点すると罵声が浴びせられたそうです。

 また、北朝鮮の李ソンスク選手と中国の葛新爱選手が戦った女子・個人の決勝戦では、第1ゲームを李選手が先取した際には場内は熱狂の渦に巻き込まれたものの、第2ゲームを葛選手が取ると場内は水を打ったように静まり返り、そのまま、第3、第4ゲームも葛選手が連取して優勝すると、李選手は葛選手との試合終了後の握手を拒否して会場を後にし、動員された北朝鮮の観客も一斉に退場してしまいました。

 その結果、それまで5000人いた観客は、わずか300人に激減。続いて行われた小野誠治(日本)と郭躍華(中国)の男子・個人決勝戦は、外国人だけが観戦する閑散とした会場内で行われ、異様な雰囲気の中で小野選手が優勝を果たし、金メダルを獲得しました。今回の吉村・石川組の金メダルは、この時以来の快挙というわけです。

 
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 Baccarat が巴卡拉に
2017-06-03 Sat 10:33
 中国の投資会社、フォーチュン・ファウンテン・キャピタル(沣沅資本)は、きのう(2日)、フランスのクリスタルメーカー、バカラ(漢字表記は巴卡拉)の保有会社から株式88.8%を約1億6400万ユーロ(約205億円)で買収し、経営権を手に入れたと発表しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス・バカラ(2014)

 これは、2014年にフランスが発行した“バカラ”の切手で、同社のグラスが取り上げられています。

 1764年、フランス東部、ロレーヌ地方統主のモンモランシー・ラバルはガラス業界への参入を希望し、国王ルイ15世にガラス工場の設立を認めるよう請願。これが認められ、ナンシーの南東50 kmのムルト川岸のバカラ村にガラス工場が作られました。これが、現在のバカラ社のルーツとなりました。ちなみには、バカラ村の地名は、酒神バッカスに由来するBacchi-araが語源とされています。

 当初、バカラ村の工房では窓ガラスや鏡、ビン類などの生産が中心でしたが、ナポレオン戦争後の1816年頃から、30%の酸化鉛を含むクリスタルガラスの生産を開始。1823年のパリ国民博覧会では金賞を受賞し、復古王政のルイ18世がバカラのグラスセットを注文したことでう有名になりました。その後、1825年にはアルクール公爵家の注文を受けて、現在まで続く“アルクール”シリーズが登場。1896年にはロシア皇帝ニコライ2世から特別注文を受けて、ウォッカ用グラスを含む豪華なグラスセットを納入したほか、1921年には訪欧中の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)がパリのバカラ・ショップを訪れるなど、各国王室の御用達となり、名実ともに、クリスタル・ガラスの頂点として君臨し続けてきました。

 さて、バカラ社は、ながらく、1734年に創業した老舗シャンパーニュメゾンのオーナーであるテタンジェ家が経営してきましたが、2005年、不動産業を専門とした米投資ファンドのスターウッド・キャピタル・グループが買収。2012年には仏高級品ブランドLVMHモエヘネシー・ルイヴィトン傘下の米投資会社Lカタートンがバカラに出資し、スターウッドが株式の66.62%を、残りはカッタートンが保有していました。

 現在、バカラの従業員は約500人で、2016年の売上高は1億4800万ユーロ(約185億2300万円)。2015年に赤字だった損益は、2016年には黒字に転じて220万ユーロ(約2億7500万円)となりました。今回の買収では、フォーチュンはスターウッドとLカタートンが保有するバカラ株1株につき222.70ユーロを支払うことで合意し、2013年からCEOを務めているダニエアラ・リカルディ氏は買収後も留任の予定だそうです。

 まぁ、資本の論理で仕方がないとはいえ、中国資本がバカラまで買収してしまうとは驚きました。我が家にも、少しばかりバカラのグラスはあるのですが、この機会に、紹興酒を注いで飲んでみる気には…ちょっとならないですね。

 
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 おかげさまで 12周年
2017-06-02 Fri 10:35
 おかげさまで、2005年6月1日にこのブログをスタートさせてから、12年が過ぎました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、お礼申し上げます。 というわけで、きょうは額面12のこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・コルコヴァードのキリスト像50周年

 これは、1981年にブラジルが“コルコヴァードのキリスト像50周年”を記念して発行した12クルゼイロ切手です。

 ブラジルの通貨は、もともとはレアル(複数形はレイスもしくはヘアイス)が使われていましたが、インフレの昂進により、1942年、1/1000のデノミにより新通貨クルゼイロが導入されました。さらに、1967年には1/1000のデノミにより新クルゼイロが導入されますが、1970年には新クルゼイロはクルゼイロに改称されます。その後、1986年には1/1000のデノミによりクルザードに、さらに1989年には1/1000のデノミにより新クルザードが導入されました。新クルザードは、1990年、クルゼイロに改称されましたが、1993年、1/1000のデノミによりクルゼイロ・レアルが導入され、翌1994年、1/2750のデノミにより現行のレアルが導入され、現在に至っています。

 リオデジャネイロのコルコヴァードの丘にキリスト像を建立しようというプランは、帝政時代の1850年代半ば、愛徳姉妹会(貧しい人々のはしため、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会)のペドロ・マリア・ボス司祭が、皇女イザベラを称えるものとして提案したのが最初だといわれています。

 当時、ブラジル皇室はカトリックを国教と定めていましたが、皇帝ドン・ペドロ2世は財政上の理由から、キリスト像の建設を許可せず、また、1889年の革命で誕生した共和国政府は、憲法で政教分離をうたっていたため、国家としてキリスト像を建立する道は閉ざされてしまいました。

 このため、教会は独自に建設費用を調達することにしましたが、ようやく、ある程度の資金の目途がついたのは1921年のことでした。ちなみに、像の建設費用25万ドルは、現在の価値では、330万ドルに相当しています。

 ときあたかも、翌1922年はブラジル独立100周年の記念すべき年だったため、キリスト像は独立100周年の記念事業として宣伝され、1923年に設立されたカトリック連盟が本格的に寄附金を募ることになりました。

 建設場所としては、当初、ポン・ヂ・アスーカルも検討されましたが、最終的に、当時の大統領エピタシオ・ペッソアがコルコヴァードの丘の頂上に建立するゴー・サインを出しています。

 設計を担当したブラジルの建築家、エイトール・ダ・シウヴァ・コスタは、当初、チリ=アルゼンチン国境の標高4000メートルの地点に立つキリスト像をモデルとすることも考えたようですが、最終的にキリスト自身を十字架に見立てたデザインを考案。夜明けの薄光の中でキリストを仰ぎ見ることで始まった一日が、沈みゆく夕日を背にしたキリストの姿で暮れていくことをイメージしながら、図面を引いたそうです。

 ダ・シウヴァ・コスタの設計ができあがると、キリスト像の実際の制作では、ルーマニア出身のゲオルゲ・レオニダがキリストの顔を作り、カルロス・オズヴァウヂが最終的なデザインを監修して、ポーランド出身のポール・ランドウスキが造形を担当。フランスで作られた像は輪切りにして運ばれ、現地で、鉄筋コンクリートの基礎から上部に向かって順番に組み立てて、頭、両腕、両手を付け加え、最後に、表面にリオデジャネイロ州の北隣にあるミナス・ジェライス州産の石鹸石を表面に貼って仕上げられました。

 1931年10月12日に完成したキリスト像は、高さは30メートル(台座を含めると38メートル)、両手を広げた長さが28メートル。その大きさは、奈良の大仏のおよそ2倍という堂々たる巨躯です。

 完成式典は1931年10月4日から12日まで続き、カトリックの集会のみならず、無線電信の開発で知られるマルコーニがローマのオフィスから無線を利用して、キリスト像の照明に点灯するパフォーマンスも行われました。ちなみに、現在のように、キリスト像の夜間ライトアップが常態化するのは、翌1932年、ブラジルの大手日刊紙『オ・グローボ』が照明機材を寄贈してからのことです。

 なお、コルコヴァードのキリスト像については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも1章を設けて解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 昨日の放送は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は6月15日の予定です。ちょっと間が開いてしまいますが、引き続き、よろしくお願いいたします。 

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 切手でひも解く世界の歴史(3)
2017-06-01 Thu 09:01
 本日(1日)16:05から、NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第3回目が放送される予定です。(番組の詳細はこちらをご覧ください)。今回は、先日、サミットが行われたシチリアにちなんで、こんな話をする予定です。(画像はクリックで拡大されます)

      イタリア・シチリア切手150年

 これは、2009年にイタリア発行された“シチリア切手150年”の記念切手です。

 1861年にイタリア王国が建国される以前、イタリアは小国分裂の状態にあり、シチリア島とナポリを中心とする南イタリアは両シチリア王国を構成していました。もともと、両シチリア王国に相当する地域はノルマン人の王朝(オートヴィル朝)が支配していましたが、後にシチリア島とイタリア半島南部の領土が分裂。この2つの王国はどちらも“シチリア王国”を名乗っていました。ただし、半島側の王国は次第に“ナポリ王国”という名が定着します。18世紀になると、ナポリとシチリアはともにハプスブルク家の、ついで、スペイン・ブルボン家の支配下に入ります。

 ナポレオン戦争の時代、ナポリ王国はフランスに占領され、ナポリ王(にしてシチリア王)のフェルディナンドはシチリア島に退避しましたが、ナポレオンの失脚後、1815年6月にナポリに帰還。翌1816年12月、フェルディナンドはナポリとシチリアを両シチリア王国の名の下に合併します。これに伴い、フェルディナンドは、“ナポリ王フェルディナンド4世”と“シチリア王フェルディナンド3世”のふたつの称号をまとめて“両シチリア王フェルディナンド1世”と称することになりました。

 こうして、両シチリア王国として統合されたナポリとシチリアでしたが、切手に関しては、1858年にナポリ王国として独自の切手が発行され、これとは別に、翌1859年にはシチリア王国として独自の切手が発行され、ナポリとシチリアで別々の切手が使われることになります。

 このうち、今回ご紹介のシチリア最初の切手には、両シチリア王・フェルディナンド2世の肖像が描かれていました。

 フェルディナンド2世は、1810年、先王フランチェスコ1世の子として生まれ、1830年に即位しました。青年期は自由主義にも一定の理解を示し、税制改革で減税路線を推進しつつも、王都ナポリ内での実験的な鉄道設置、ナポリ・パレルモ間の電信設備の完備、蒸気船の造船などの近代化政策を推進しました。

 ところが、1837年にシチリアで立憲君主制への移行を求める大規模なデモが発生すると、王は態度を硬化させて、これを軍で鎮圧。その後、1848年1月のシチリアでの農民反乱をきっかけに、自由主義革命がシチリア全域に広まると、自由主義者との妥協を迫られた王は、いったんは1848年憲法の制定を認めます。ところが、王は議会に対する監督権を手放さなかったため、これに抗議する国民がさらなる暴動を起こすと、王は軍を動員して暴動を徹底的に弾圧するとともに、議会を解散しました。また、1848年4月13日、シチリアで自由政府による独立が宣言されると、王は2万の兵をシチリアに上陸させ“反乱軍”を打倒するとともに、報復として、海軍を用いて海沿いの町を徹底的に破壊しました。このため、王は反対派からは憎しみをこめて“砲撃王(= bomba)”と呼ばれています。これにちなんで、シチリア最初の切手は、“ボンバ・ヘッド”と呼ばれることもあります。

 ところで、19世紀の欧米諸国では国家元首の肖像切手が多かったのですが、自らの肖像に消印が押されることを全く気にしない元首がいる一方、それを嫌がる君主もいました。シチリアのフェルディナンド2世は後者の1人で、国王の意向に配慮して、切手の再使用を防ぐための抹消印は、肖像を汚さないように、アーチ型のものが使用されました。今回ご紹介の切手は、そうした消印とその印顆も描かれているので、イメージしやすいのではないかと思います。

 その後、イタリア統一運動(リソルジメント)が進む中で、1860年、両シチリア王国はガリバルディ率いる赤シャツ隊に占領されます。ガリバルディはフェルディナンド2世を廃位し、占領した両シチリア王国の領土をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上。これを受けて、翌1861年にイタリア王国が成立しました。

 ちなみに、イタリア王国が発足すると、旧両シチリア王国の支配下にあった南イタリアは冷遇されます。このため、1880年代以降、南イタリアから、故郷に見切りをつけて米国に渡る移民が急増。彼らの中から、映画『ゴッド・ファーザー』に見られるような在米イタリア・マフィアが生まれてくるのです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回 は1日! ★★★ 

 6月1日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第3回目が放送予定です。今回は、5月26-27日にG7サミットが行われたシチリアにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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