内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 表紙の切手
2017-09-30 Sat 10:50
 きょう(30日)は、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』の奥付上の刊行日です。というわけで、プロフィール画像にも使っている表紙カバーで取り上げた切手についてご説明いたします。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ自治政府・加刷切手

 これは、1995年にパレスチナ自治政府が発行したフィルス額面加刷切手のうち、岩のドームの1000ミリーム切手に1000フィルスの改値加刷を施した切手です。

 1994年5月にはカイロでパレスチナ先行自治協定(PLOによる自治を開始するための具体的協定)が調印され、イェリコとガザで暫定自治が開始されました。これに伴い、5月4日にはガザ地区で、5月9日にはイェリコで、イスラエルの郵政機関が閉鎖され、パレスチナ自治政府の郵政機関が発足します。ただし、当初はパレスチナ自治政府独自の切手は間に合わず、ガザ地区とイェリコでもイスラエルの切手がそのまま使用されていました。

 このため、パレスチナ自治政府としての独自の切手を発行すべく、PLO駐独代表のアブドゥッラー・フランギーが、ドイツ社会民主党の国会議員でアラブ諸国との関係が深く、かつ切手収集家でもあったハンス・ユルゲン・ヴィシュネウスキーと接触。その結果、ドイツの老舗切手エージェント、ゲオルグ・ロール・ナシュフ社のコーディネートの下、国有ドイツ連邦印刷会社が切手を製造することで話がまとまり、1994年夏、ベルリンで切手の製造が行われます。

 切手のデザインは、イェリコのヒシャーム宮殿(5、10、20ミリーム)、東エルサレムの聖墳墓教会(30、40、50、75ミリーム)、パレスチナ自治政府の国旗(125、150、250、300、500ミリーム)に加え、最高額面の1000ミリーム切手(今回ご紹介の切手です)には岩のドームが取り上げられた。

 パレスチナ自治政府がドイツから切手を受け取ったのは1994年10月以降のことで、各地の郵便局では、いつからこれらの切手が実際に販売されたのか、現在となっては正確なデータは残されていません。ちなみに、この切手の収集家向けの販売代理店となったゲオルグ・ロール・ナシュフ社は、1994年8月15日付の“初日カバー”を制作・販売していますが、この日付の時点では切手は実際にはパレスチナに到着していませんから、初日カバーに押されている消印の日付が“後押し”となっている点は注意が必要です。

 ところで、パレスチナ自治政府は、新切手の発行を、1948年の英委任統治終結以来、およそ半世紀ぶりの“パレスチナ切手”の復活と位置付け、英領時代の先例に倣い、切手の額面を“ミリーム”表記とします。

 一方、1994年4月29日付でイスラエルとPLOが締結した“1994年パリ議定書”の第4条によると、自治政府の統治下の通貨は、イスラエルの通貨である新シェケルを基本としつつも、ヨルダン川西岸地区ではヨルダン・ディナール、ガザ地区ではエジプト・ポンドの使用が認められることになっていました。ただし、パレスチナ自治政府には独自通貨の発行権を認める規定はなかったため、イスラエル側は、1994年10月に登場した自治政府の切手の額面がミリーム表示になっていることに強く反発。イスラエル宛またはイスラエルを経由して海外へ逓送される郵便物に関しては、ミリーム額面の切手が貼られている場合は、料金未納扱いにすると自治政府に通告します。

 このため、自治政府側は、パリ議定書で認められた通貨に対応すべく、ミリーム額面の切手に、ヨルダン・ディナールの補助通貨であるフィルス表示の額面を加刷した切手をあらためて発行。これにより、ようやく、パレスチナ自治政府の切手は、郵便料金の前納を示す正規の証紙として、世界的にも承認されることになりました。

 拙著の表紙では、無加刷切手の画像を使うことも考えたのですが、より歴史的な背景事情が反映されているものを選んだ方が良いと考え、あえて加刷切手を持ってきました。なお、表紙の下、帯に隠れてしまう部分にはオスマン帝国時代に発行された岩のドームの切手を置いてみたのですが、こちらについては、いずれ機会があればこのブログでもご紹介したいと思います。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は5日!★★

 10月5日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第9回が放送予定です。今回は、10月9日に没後50周年を迎えるチェ・ゲヴァラの切手にスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


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      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

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 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 世界の切手:ベルギー
2017-09-29 Fri 10:58
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年9月13日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はベルギーの特集(3回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ベルギー・キリスト降架

 これは、1939年7月1日、アントウェルペンにあるリューベンス(英語読みだとルーベンス)の旧宅、リューベンスハイス(ルーベンスハウス)の保存資金を集めるために発行された寄附金つき切手のうち、『キリスト降架』を取り上げた1枚です。

 ピーテル・パウル・リューベンスは、1577年6月28日、アントウェルペン出身のプロテスタントの法律家ヤンの亡命中、ドイツのジーゲンで生まれました。1587年、ヤンが亡くなると、一家はアントウェルペンへ戻り、リューベンスはカトリック教徒として成長します。

 リューベンスはアントウェルペンで人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学び、1590年、13歳でフィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュに誇称として伺候しました。ここで芸術的素養を見込まれ、アントウェルペンの画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められ、トビアス・フェルハーフト、アダム・ファン・ノールト、オットー・ファン・フェーンらに師事し、ルネサンス期の画家の作品を徹底的に模写して修行。1598年に修業を終え、聖ルカ・ギルドの一員となりました。

 1600-08年、イタリアに留学し、ミケランジェロの肉体表現、ラファエロやマンテーニャの古典思想的表現、ティツィアーノなどヴェネツィア派からの豊かな色彩による画面構成、コレッジョからの甘美的表現などルネサンス芸術を研究。一気に才能を開花させます。また、ヴェネツィアの外交使節として、名画を寄贈するためスペインへ向かう途中、大雨により名画を濡らしてしまった際には、自らそれを修復。その出来栄えの良さにスペイン国王のみならず、イタリアの貴族からも絶賛され、その名が広く知れ渡ることになりました。

 1608年、リューベンスは母親の病気の報を受けて帰国。母親の死に目には会えませんでしたが、腕利きの画家として故国に迎えられ、1609年9月、スペイン領ネーデルラント君主のオーストリア大公アルブレヒト7世と大公妃でスペイン王女のイサベルの宮廷画家に迎えられます。同年10月には、アントウェルペンの有力者ヤン・ブラントの娘イザベラと結婚。宮廷が置かれていたブリュッセルではなく、アントウェルペンに工房を設けることを許されました。リューベンスは大公妃イサベルの信任が厚く、画家としてのみならず特使や外交官の役割もこなし、日ごとに高まる名声と多くの弟子に囲まれて、独自の壮大な芸術を展開させていくことになります。

 アントウェルペン時代初期の代表作となったのが、十字架に掛けられるキリストを描いた『キリスト昇架』(1610-11年)と、それに続いて制作した『キリスト降架』(1611-14年)です。特に、今回ご紹介の切手にも取り上げられた『キリスト降架』は、当初、アントウェルペン市長のから、アントウェルペン大聖堂の火縄銃手組合礼拝堂のため、聖クリストフォロス(同組合の守護聖人)を主題とした絵を描くよう依頼を受けたものの、カトリックとプロテスタントの対立で失われつつあったカトリック教会の権威を取り戻すため、また、アントウェルペンの平和のため、見るだけで感動を伝えられる祭壇画をとの画家の説得により、画題を変更して制作されたもので、リューベンスの最高傑作とされています。

 1621年にフランス王太后マリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンブール宮殿の装飾用に、自身と1610年に死去した夫でフランス国王アンリ4世の生涯を記念する連作絵画の制作をリューベンスに依頼。これを受けて、24点の絵画からなる『マリー・ド・メディシスの生涯』(ルーヴル美術館蔵)が作られました。(完成は1625年)

 1627年から1630年にかけて、リューベンスはスペインとネーデルラントの平和交渉のため、スペインとイングランドの宮廷を何度も往来。画家兼外交官として、各地の宮廷で賓客として遇されて作品を残し、スペインとイングランドから爵位を与えられています。

 1630年、当時53歳だったリューベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚(最初の妻、イザベラとは1626年に死別)。彼の代表作の一つとされる『麦わら帽子』は、エレーヌの姉、シュザンヌをモデルに描かれました。

 1635年、リューベンスはアントウェルペン郊外に土地を購入し、ここに建てたステーン城で晩年のほとんどをすごし、1640年、心不全で亡くなり、その遺体はアントウェルペンの聖ヤーコプ教会に埋葬されました。8人の遺児のうち3人がイザベラ、5人がエレーヌとの間に生まれた子供で、最年少の子供はリューベンス死去時に生後8カ月の乳児でした。

 さて、『世界の切手コレクション』9月13日号の「世界の国々」では、リューベンスとその作品についてまとめた長文コラムのほか、ベルギー・ビール、ダイヤモンド、画家ファン・ダイク、アントウェルペン五輪、フライドポテトの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、ベルギーの次は、来週10月4日に発売の10月11日号でのガーナの特集になります。こちらについては、発行日の10月11日以降、このブログでもご紹介する予定です。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は5日!★★

 10月5日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第9回が放送予定です。今回は、10月9日に没後50周年を迎えるチェ・ゲヴァラの切手にスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


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 世界切手展<WSC Israel 2018>のご案内
2017-09-28 Thu 17:40
      イスラエル・郵趣の日(1991)

 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりましたので、本ブログにて、同展の特別規則のうち、出品に関する事項を抜粋し、その概要をお知らせいたします。

 今回の切手展は、伝統・郵便史に限定した専門展で、一般出品の出品料は1フレームあたり80米ドルです。また、通常のFIP切手展のチャンピオンクラスではなく、過去にFIP切手展で金賞・大金賞を受賞した作品を対象としたワールド・スタンプ・チャンピオンシップ(WSC)のクラスが設けられています。

 なお、正式な規則の文言ならびに出品に必要な書類の用紙は、一般社団法人全日本郵趣連合のウェブサイト左側の「国際切手展情報」に掲載のPDFファイルをクリックしてご利用ください。また、同展のウェブサイトでは、随時、情報がアップされていますので、ご興味をお持ちの方は適宜チェックしてみてください。なお、印刷・製本された状態のブルテン等はこの記事をアップした時点では制作されていません。

 出品をご希望の方は、同展の特別規則をご理解いただいたうえで、指定の書類に必要事項を記入し、2017年11月10日までに、内藤宛にお申し込みください。

 以下、世界切手展<WSC Israel 2018>特別規則の概要です

1.会期 2018年5月27 日 –31日(5日間)

2.会場 International Convention Center, Jerusalem

3.パトロネージ、運用される諸規則
 WSC Israel 2018はFIPパトロネージの “Specialised World Stamp” Exhibition(専門世界切手展)に相当します。
次の規則が適用されます。
- The General Regulations of the FIP for Exhibitions (GREX)
- The General Regulations of the FIP for the Evaluation of Competitive Exhibits at FIP Exhibitions (GREV)
- The Special Regulations of the FIP for the Evaluation of Competitive Exhibits at FIP Exhibitions (SREVs)
- Individual Regulations of WSC Israel 2018 (IREX) (GREX Article 3.10)

4.参加資格
 クラス4の現代郵趣とクラス5の文献を除き、競争出品は国内展で、少なくとも金銀賞を受賞していること。

5.出品クラス:
 競争出品
― Class 1:ワールド・スタンプ・チャンピオンシップ
 伝統郵趣もしくは郵便史の作品で以下の資格に該当するコレクション
 A)FIP展で金賞または大金賞を受賞した作品
 B)FIP展でグランプリを受賞した作品
 通常のFIP展のチャンピオンクラスと異なり、受賞期間の制限はありません
― Class 2:伝統郵趣
 A)ホリー・ランドおよびイスラエル
*ホリー・ランドは地域概念としてのパレスチナのこと。
 B)ヨーロッパ
 C) アジア、オセアニア、アフリカ
 D) アメリカ大陸
― Class 3:郵便史
 A)ホリー・ランドおよびイスラエル
 B)ヨーロッパ
 C) アジア、オセアニア、アフリカ
 D) アメリカ大陸
― Class 4:現代郵趣(1980年以降)
 A)伝統郵趣
 B)郵便史
* 国内展での受賞歴に関わらず、コミッショナーの推薦があれば出品できます。また、他部門への出品と重複しての出品も可能です。
― Class 5:文献
 A) 2013年1月1日以降に出版された書籍、パンフレット、研究書
 B) 2016年1月1日以降発行の雑誌、定期刊行物
 C) 2016年1月1日以降に出版されたカタログ
 通常の出品申込書に加え、文献用の情報フォームを記入すること。

6.審査と賞
 競争クラスの出品物はFIP審査員によりGREV、SREVsに従い審査されます。

7.リーフのサイズとフレームの割当数
・フレームの大きさは97cm×120cmになる予定です。1フレームは原則16リーフ構成で1リーフの大きさは23cm×29cm以内としてください。サイズの大きなリーフの場合、一部を重ねて展示することがあります。
・黒色ないしは濃色のリーフは受け付けません。
・ワールド・スタンプ・チャンピオンシップは8フレーム。それ以外は、GREXに従ってください。

8.出品申込と結果の通知
 出品申込に際しては、所定の書式(全日本郵趣連合のホームページもしくは展覧会のウェブサイトでダウンロードできます)に必要事項を記載の上、作品の内容を説明するページ(タイトルないしはプランのリーフ。英文)のコピーを添えてコミッショナー宛にお送りください。郵送だけではなく、電子メールでのご送付も受け付けます。なお、連絡先は文末に記載しております。

 *以前の出品作品のタイトルを変更して出品する場合は、必ず、以前のタイトルを出品申込書に記載してください。

 現地組織委員会への提出期限が2017年11月15日ですので、国内の受付〆切は11月10日(コミッショナー必着)とします。(10月下旬~11月初はブラジリア展へコミッショナーとして参加しているため、11月6日以降に到着するようにお送りいただけると助かります)ご出品の可否は、2018年1月15日までにコミッショナーに告知されることになっています。

9.出品料 1フレームにつき80米ドル。(出品の可否が決まった後、ご請求いたします。なお、2月15日までに組織委員会に送金するよう指示されています)

10.作品の搬入と返却
作品搬入は2018年5月25日までにコミッショナーが行うことになっております。したがって、コミッショナーと同行の上、ご本人が作品を搬入される場合を除き、コミッショナーが作品をお預かりすることになりますが、その場合は、別途、指定の条件をご承諾いただくことが前提となります。そのほか、なお、コミッショナーとの作品の受け渡しに関する詳細等については、内藤までお問い合わせください。
文献出品は2018年2月15日までに各タイトルにつき2部ずつ、下記宛に送付してください。
Israel Philatelic Federation, POB 3301, Tel Aviv 6103201, Israel.
 *価格が75米ドル以上の文献については、約20%のVATが課税されます。その場合、組織委員会がいったん立替払いを行い、後日、コミッショナーにその金額が請求されることになっております。ご出品者には、コミッショナーに請求された金額をお支払いいただきます。(お支払いの時期・方法等は、別途、ご相談させてください)
・〆切を過ぎて到着した作品は審査の対象外となります。作品未着の場合、出品料は返金されません。
・出品物は取り外し可能な保護カバーをつけ、各リーフの表面左下に展示順の番号を記してください。また、出品物は組織委員会の支給する指定の封筒に入れて搬入してください。

11.日本コミッショナー連絡先
 内藤陽介(ないとう・ようすけ)
 ご連絡は本ブログ右側、プロフィール下のメールフォームをご利用ください。

 ちなみに、本日の記事の冒頭に掲げた切手は、1991年にイスラエルで発行された“郵趣の日”の切手で、イスラエル最初の切手の初日印オンピースが取り上げられています。タブにFIPならびに今回の切手展の主催者の一団体、イスラエル郵趣連合のロゴが入っているので、持ってきてみました。

 1人でも多くの皆様のお申込み・お問い合わせを心よりお待ちしております。

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は5日!★★

 10月5日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第9回が放送予定です。今回は、10月9日に没後50周年を迎えるチェ・ゲヴァラの切手にスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 “殺された”国王
2017-09-27 Wed 18:31
 ノルウェー最大級の通信社NTBが、きのう(26日)、「国王のハーラル5世が崩御」という誤報を各報道機関に送信。NTBはすぐに誤報を謝罪するという騒動がありました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ノルウェー・国王在位25年

 これは、昨年(2016年)1月11日、ノルウェーで発行された“国王ハーラル5世在位25周年”の記念切手です。

 ハーラル5世は、1937年、オーラヴ王太子(当時)とマッタ妃の第3子として生まれました。

 第二次世界大戦中、ノルウェーはナチス・ドイツに国土を占領され、当時の国王ホーコン7世(ハーラル5世の祖父)とオーラヴ王太子はロンドンに亡命政府を樹立し、レジスタンスを指導しました。一方、幼いハーラルと母、姉妹たちはスウェーデンに亡命しましたが、ノルウェー本国では親独ヴィドクン・クヴィスリング政権がホーコン7世を廃位してハーラルを即位させようと画策。スウェーデン国内にもそれに同調する動きがあったため、母子は米国まで再亡命し、1945年までワシントンDCで過ごしました。

 1957年9月21日、ホーコン7世の崩御により父のオーラヴ5世が即位すると、20歳で王太子となり、オスロ大学で学んだ後、兵役終了とともにオックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学しました。

 ソニア王妃との結婚は1968年8月29日のことでしたが、王妃が平民(デパート経営者の娘)であったことから、政府と王室には慎重論が強く、2人の交際期間は9年にも及びました。この間、1959年に民間出身の皇太子妃を迎えた日本の皇室を先例として、関係者は協議を重ねたそうです。また、皇太子時代にはヨットの選手として、東京・メキシコ・ミュンヘンの3度の五輪に出場しています。

 1991年1月17日、オーラヴ5世の死去により、ノルウェー国王として即位。6月23日、トロンハイムのニーダロス大聖堂で戴冠式が行なわれました。今回ご紹介の切手には、その時のようすが取り上げられています。

 さて、国王は現在80歳の高齢で、2003年には膀胱癌の手術を受けています。こうしたこともあって、NTBは万一の場合に備えて「ノルウェーは悲しみに包まれている。国王ハーラル5世が崩御。XX歳。王はXXXX(日付)(自宅にて、病院にてなど) 時間XXX」との見出しをデータとして用意していたわけですが、今回は、それが単純な技術的ミスで一斉送信されてしまったのだとか。あらためて、電子メールが主流となった現在ならではの情報管理の重要性を痛感させられますね。


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 切手に見るソウルと韓国:仁川上陸作戦
2017-09-26 Tue 03:05
  『東洋経済日報』9月15日号が発行されました。月一で同紙に僕が連載している「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、発行日の9月15日が1950年の仁川上陸作戦の記念日だったことにちなんで、こんなモノをご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      仁川風景印(2002)

 これは、2002年に仁川で使用された風景印で、彼の地のランドマークとして、仁川自由公園のマッカーサー将軍銅像が取り上げられています。

 仁川自由公園は、朝鮮王朝が開国して間もない1889年頃、仁川在住の外国人のため、仁川港を見下ろす鷹凰山の高台に開設された朝鮮半島最初の西洋式公園で、当初は“万国公園”と呼ばれていました。しかし、日本統治時代の1916年、天照大神と明治天皇を祭神とする仁川神社が埋立地につくられ、周辺一帯の土地が“東公園”となったため、万国公園は“西公園”と改名されます。

 1948年の大韓民国成立後、公園は旧称の万国公園に戻されましたが、朝鮮戦争休戦後の1957年、仁川上陸作戦を記念して園内の東寄りの場所にマッカーサーの銅像を建立するとともに、現在の仁川自由公園に改称されました。

 ところで、仁川のマッカーサー将軍像は、2004年頃から、一部左派勢力によって政治問題化され、韓国では困惑している国民も多いようです。

 すなわち、2003年、親北・左派色が顕著な盧武鉉政権が発足。その流れを汲んで、2004年6月、仁川市が“平和都市”を宣言すると、同年11月、左派系市民団体の仁川連帯が“南北を分断した戦争の張本人”として、将軍像の撤去を要求。以後、左派系市民団体によるマッカーサー像撤去の運動が展開され、上陸作戦55周年を控えた2005年9月には、左派系市民団体、全国民衆連帯の主催の下、4000名余の参加者が自由公園内で銅像の撤去と在韓米軍の撤退等を叫び、警備の警官隊との間で乱闘事件が発生しました。

 一連の銅像撤去運動に対して、朝鮮労働党の機関紙『労働新聞』」は「反米反戦、米軍撤退闘争の炎を激しく燃え上がらせるべきだ」、「銅像を直ちに爆破せよ」との論説を掲載しており、銅像撤去を求める左派系市民団体の背後には、北朝鮮当局の影が見え隠れしています。

 当然のことながら、こうした左派系の動きに対しては韓国内の反発も強く、上陸作戦55周年当日の2005年9月15日には、韓国海兵隊戦友会が銅像前で「国家安保およびマッカーサー銅像死守決起大会」を開催し、太極旗と星条旗を振って韓米同盟の維持を訴えました。

 また、米国でも下院国際関係委員会のヘンリー・ハイド委員長ら5人の議員が、9月15 日、「米議会と米国人たちは、韓国を2度も解放した英雄を“良民虐殺戦犯”のようにみなすことを容認できない。仁川上陸作戦は米韓同盟の基盤であり、仁川での勝利がなかったならば、今日の韓国は存在しなかった」との内容の書簡を盧武鉉大統領に送付。韓国政府にマッカーサー像の保護を求め、それが不可能な場合には銅像の米国への引き渡すことを要請しました。

 結局、この問題に関しては、盧武鉉政権が銅像を撤去しないことで決着したものの、その後も、韓米同盟の破棄を主張する左派系市民団体は倦むことなく銅像の撤去を求め続けています。

 ちなみに、同じく盧武鉉政権下の2005年、民間団体の親日人名辞典編纂委員会が「親日人名事典」を発表。その中には、マッカーサー将軍像の作者である金景承(東京美術学校彫刻科を卒業し、戦時下の1941年には国民総力朝鮮連盟傘下の朝鮮美術家協会で評議員と彫刻分科会の委員を務めたほか、1944年には決戦美術展覧会の審査員を務めた経歴があります)もリストされていたことから、韓国政府は彼を“親日派”と断定してしまいました。

 これに対して、弘益大学の金永元教授が金景承の遺作などの調査を通じて、解放後の金景承の彫刻家としての業績を評価すべきと政府に訴えたことから、政府もこれを受け入れて「(金景承は)親日派の作家とはいえない」という確認書を送付しましたが、この問題をめぐる韓国政府の対応は迷走を重ねています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 クルド人自治区で住民投票
2017-09-25 Mon 11:48
 イラク北部のクルド人自治区で、きょう(25日)、同国からの分離独立の可否を問う住民投票が行われます。というわけで、今日は、この切手です(画像はクリックで拡大されます)

      クルディスタン(2012年)

 これは、今回、住民投票が行われるイラクのクルド人自治政府が2012年に発行した切手で、クルドの少女が取り上げられています。

 クルド人は、トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等にまたがるイラン系の民族集団で、人口は2500-3000万人。独自の国家を持たない民族集団としては世界最大規模とされています。

 このうち、イラク国内のクルド人に関しては、バアス党政権下の1970年、自治区が設置されましたが、イラン・イラク戦争中の1985年から88年にかけて、イラク東部のサルダシュトやハラブジャなどでは、主としてクルド系住民がイラン側に協力したとして、サッダーム・フサイン政権はマスタードガス、サリン、VXガスなどの化学兵器をクルド人自治区で使用し、多くの住民を殺害。こうしたこともあって、1991年に湾岸戦争が勃発すると、クルド人はイラク政府に対して武装蜂起しました。

 その後、イラクに進攻した多国籍軍はイラク北部の北緯36度以北に飛行禁止空域を設けてクルド人を保護。これにより、イラク北東部のアルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県、ハラブジャ県の四県にまたがる“クルディスタン地域”が設定され、クルド人は自治権を獲得し、1992年には反体制派の大同団結集会も行われました。そして、それに伴い、自治区独自の旗が制定され、独自の通貨と切手の発行も開始されています。

 ところが、クルディスタン地域の自治区内では、二大政党であるクルド民主党とクルド愛国同盟の対立が激しく、1994年以降、大規模な戦闘が発生し、クルディスタン地域は事実上の分裂状態になりました。このうち、クルド愛国同盟が反バアス党を優先してイランの支援を受けたことに対抗し、クルド民主党はイラク中央政府と結託。1996年8月には、イラク中央政府の支援を受けたクルド民主党が対立勢力を放逐し、クルディスタン地域は再びバアス体制に取り込まれました。

 2003年、イラク戦争によってサッダーム政権が崩壊すると、クルド人は米軍の駐留を歓迎。2005年には、イラク移行政府の民族バランスに配慮して、クルド愛国同盟を率いたジャラール・タラバーニーが大統領に選出されたほか、翌2006年には連邦制の下での自治政府が発足するなど、政治的にはクルドに対する宥和政策が進められました。

 その一方で、クルド人自治区の位置するイラク北部は石油資源の豊富な地域であったことから、特に、一大油田地帯であるキルクークの管轄権をめぐって、イラク中央政府とクルド自治政府が対立。いったんは、キルクークの帰属については、2007年末までに住民投票を行って決定するとの合意が成立したものの、その実施方法などをめぐって対立が再燃し、住民投票は実施されないままとなっていました。

 その後、キルクークはバグダードのイラク中央政府が統治してきたものの、2014年、“イスラム国”を自称する過激派組織のダーイシュがイラク北部で勢力を拡大し、キルクークに迫ると、イラク軍・治安部隊は撤退を余儀なくされました。これに代わって、キルクークを防衛したのがペシュメルガを中心とするクルド人部隊で、以後、クルド自治政府はキルクークを実効支配を続けており、豊富な石油資源を背景に海外からの投資を呼び込んで、自治区内の経済成長に成功しました。

 こうした状況に加え、湾岸戦争以来25年にも及ぶ自治の影響もあって、社会的・文化的にも自治区内のクルド人のイラク離れが進んだこともあって(たとえば、30歳以下のクルド人の9割はアラビア語を話せないそうです)、クルドの独立傾向は強まり、今回の住民投票にいたったというわけです。

 今回の投票では、独立賛成が多数を占める公算のは確実視されています。自治政府としては、投票後、直ちに独立するわけではなく、民意を受けた形で中央政府との交渉に臨み、2年以内の独立を目指す考えを示していますが、イラク中央政府のみならず、トルコやイランなどクルド人を抱える近隣諸国は国内のクルド人問題への影響を恐れ、投票が行われれば対抗措置を取ると警告。米国や国連安全保障理事会も投票の実施に反対しており、今後の新たな火種となることが懸念されています。

 * 2005年6月からスタートしたこのブログですが、毎日1回ずつ更新していたら、今日の記事でちょうど4500回目になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。


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 “武装難民”の危険性
2017-09-24 Sun 21:17
 麻生太郎副総理兼財務相が、きのう(23日)、宇都宮市での講演で、北朝鮮で有事が発生すれば日本に武装難民が押し寄せる可能性に言及し「警察で対応できるか。自衛隊、防衛出動か。じゃあ射殺か。真剣に考えた方がいい」と発言したことが物議を醸しているそうです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・レヒ(1991)

 これは、1991年12月2日にイスラエルが発行した“レヒ:イスラエル解放戦士団”の顕彰切手で、タブには、レヒの創設者であるアブラハム・シュテルンの言葉「永遠に自由であるために」が記されています。後述するように、レヒは反英テロ組織ともみなしうる団体ですが、現在のイスラエル国家の歴史観では、彼らは、イスラエルの独立に貢献したレジスタンスの闘士という位置づけになっており、今回ご紹介の切手もそうした価値観に沿って発行されたものです。

 1939年5月17日、英国はパレスチナ問題に関する基本方針として「マクドナルド白書」を発表。①アラブ系住民による土地所有の保護(=ユダヤ人移民に対する土地売却の制限)、②10以内にアラブ主導のパレスチナ国家を創設し英国と同盟を結ぶ(=ユダヤ人国家の否定)、③パレスチナへのユダヤ人の新規入植を5年間で7万5000人に制限する(ただし、ヨーロッパのユダヤ人難民に対しては特別に2万5000人の移住許可を与える)、という方針を明らかにします。

 当時、パレスチナのユダヤ人口は45万人に達していたことから、英国はすでにパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”は成立したとみなしうるとの認識の下、アラブ地域の反英感情を和らげようと考えたわけですが、当然のことながら、パレスチナのユダヤ人社会はこれに激しく反発します。

 1939年9月1日、第二次大戦が勃発すると、パレスチナのユダヤ人たちの中にはマクドナルド白書への不満から、英国を含む連合諸国への戦争協力には否定的な者も少なくありませんでしたが、シオニズムの指導者であったダヴィド・ベングリオンは、連合国の戦争に協力することでユダヤ系の実力を示し、それによって、自らユダヤ国家の独立を勝ち取るべきだと考え、「ユダヤ人の敵はマクドナルド白書であって英国ではない」との声明を発表。これにより、多くのシオニストは英国への不満を抑えて、ナチス・ドイツとの戦いを優先させ、中東地域での連合国の作戦に参加することになります。

 その一方で、シオニストの間には、どうしても英国への協力を潔しとしない強硬派も存在していました。

 なかでも、アブラハム・シュテルンはマクドナルド白書と対英融和路線のシオニスト主流派に反発し、1940年、“イスラエル解放戦士団”(レヒ。ただし、この名前が正式に採用されるのは彼の死後で、当時の英当局は彼らをシュテルン・ギャング、もしくはシュテルンと呼んでいました)を組織し、英当局に対するテロ活動を展開。この結果、アブラハム自身も逮捕・投獄されています。

 さらに、1941年12月、レヒの幹部、ナタン・イェリン=モルがナチスと接触し、ドイツに協力して英国と戦う代わりに、東欧のユダヤ人の“解放”するための交渉を計画し、交渉場所のトルコへ向かう途中、シリアで身柄を拘束される事件が発生。このため、1942年2月12日、英国政府はレヒを危険視し、その頭目としてのアブラハムを暗殺しました。

 しかし、アブラハムの暗殺後も組織の壊滅には至らず、レヒは思想的指導者のイスラエル・エルダド、軍事作戦を指揮したイツハク・シャミル(後の首相)、政治的調整を担当するイェリン=モルの三頭体制で存続することになります。

 こうした中で、1941年12月12日、781人のユダヤ系難民を乗せ、ルーマニア(当時は親独政権下)のコンスタンツァ港を出港した難民船シュトルーマ号がパレスチナに入港しようとしたものの、パレスチナ当局はマクドナルド白書を理由に難民船の入港を拒否。シュトルーマ号は行き場のないまま地中海を迷走しつづけ、1942年2月、ルーマニアへ戻る途中、黒海で沈没し、760人以上の難民が亡くなりました。

 いわゆるシュトルーマ号事件です。

 この事件は、ユダヤ系社会に大きな衝撃を与え、英国の責任者にあたる植民地相のウォルター・モインは彼らの怨嗟の対象となり、1944年11月6日、レヒの活動家、エリヤフ・ベト=ズリとエリヤフ・ハキムがカイロでモインを暗殺。これを機に、英国ではシオニスト過激派への反発と不信が決定的になりました。

 さて、1945年5月、第二次大戦はドイツの敗北により終結。これに伴い、アウシュヴィッツをはじめ強制収容所の悲惨な実態が白日の下にさらされるようになると、戦勝国の大義を示すためにも、ユダヤ人犠牲者の救済は重要な課題となります。

 このため、1945年7月、米大統領のトルーマンは英国政府に対して、マクドナルド白書によるユダヤ人のパレスチナへの移住制限の解除するよう要請。さらに、同年8月には、10万人のユダヤ系難民をパレスチナに移民として受け入れるよう、英国首相アトリー宛の書簡で要請しました。

 このトルーマン書簡を契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立され、同委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を事実上撤廃する、という報告書をまとめました。

 ところが、報告書発表の直前、またしても、レヒにより英国人兵士6人が殺害されるテロ事件が発生。態度を硬化させた英国は、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示します。

 パレスチナの英当局からすれば、“難民”というだけの理由で、身元の定かではないユダヤ人を大量に流入させれば、難民に偽装したテロリストも紛れ込み、パレスチナの治安を悪化させるリスクが高まるのは当然で、パレスチナ問題調査委員会の報告書の内容は受け入れがたいものだったのです。

 しかし、第二次大戦以前、ほとんど中東と接点のなかった米国をはじめ、戦勝諸国の大半は、そうしたパレスチナの事情を全く理解しようとはしませんでした。

 否、むしろ、侵略者の独裁国家を打倒して自由と民主主義を守ったことが自分たちの戦争の大義であると主張する必要から、彼らは、ナチス・ドイツの蛮行、特に、ユダヤ人迫害とその犠牲を強調し、彼らが救い出した“かわいそうなユダヤ人”に救いの手を差し伸べなければならないと信じていました。

 かくして、ユダヤ系難民の受け入れに慎重なパレスチナ当局の姿勢は、パレスチナの現実を知らない戦勝国の善男善女から批判を浴びただけではなく、“大英帝国”の一員として英国の戦争を戦ったパレスチナのユダヤ系住民のさらなる不満を醸成。シオニスト過激派による反英闘争も激化の一途をたどることになります。

 その結果、シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国際連合に問題の解決を一任すると一方的に宣言。これが、“英委任統治領パレスチナ”の終わりの始まりとなりました。

 なお、このあたりの事情については、新刊の拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 ラケルの墓
2017-09-23 Sat 12:56
 きょうは秋のお中日。僕は今年も行きそびれてしまいましたが、お墓参りの日です。というわけで、恒例の“お墓”の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      英領パレスチナ・ラケルの墓

 これは、1927年、英委任統治下のパレスチナで発行された普通切手のうち、旧約聖書に登場するヘブライ人の族長、ヤコブの妻、ラケルが埋葬されているとされる墓廟、ラケルの墓を描く10ミリーム切手です。

 『創世記』によれば、イサクの子ヤコブは、双子の兄のエサウを出し抜いて長子の祝福を得たため、兄から命を狙われ、ハランに住む伯父ラバンのもとに身を寄せます。そこでラバンの娘、ラケルを見初めたヤコブに対して、ラバンは「七年働けば結婚を許す」と申し渡し、ヤコブもこれを信じて働きましたが、結婚式を終えて花嫁の顔を見ると、ラケルではなく、姉のレアでした。ヤコブは怒りましたが、ラバンの求めでさらに七年働き、ようやくラケルを娶ることができました。

 ところで、ヤコブとレアの間には子が生まれたものの、ラケルとの間にはなかなか子ができなかったため、ラケルは自らの女奴隷、ビルハにヤコブの子を産ませて自分の子とします。ただし、後にラケル自身にも待望の子供(ヨセフ)が生まれました。

 その後、エサウと和解したヤコブは、神の言葉によってベテルからエフラタ(現ベツレヘム)へ向かいますが、その途中でラケルはベンヤミンを産んだものの、難産のために命を落とし、道の傍らに葬られたとされています。この時作られたのが、最初のラケルの墓です。

 ラケルの墓はユダヤ教の聖地の一つとして古代からユダヤ教徒の巡礼場所になっていましたが、後に、現地のキリスト教徒やムスリムからも神聖な場所として尊重されるようになりました。切手に描かれているドーム型の墓廟はオスマン帝国時代に建立されたもので、参詣した女性は子宝に恵まれるとの伝承があります。

 なお、1927年に英委任統治下のパレスチナで発行された普通切手は、パレスチナの代表的な風景として、今回ご紹介のラケルの墓に加え、岩のドームダヴィデの塔、ティベリアスのモスクが取り上げられています。それらについては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 切手歳時記:鳴子のこけし
2017-09-22 Fri 10:28
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年9月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      栗駒国定公園(鳴子)

 これは、1972年6月20日に発行された“栗駒国定公園”のうち、鳴子峡と鳴子こけしを取り上げた1枚です。
 
 こけしのまち”として知られる宮城県の鳴子温泉では、ことしも9月1-3日、毎年恒例の“全国こけし祭りが開催されました。

 木材を轆轤にかけて削り、挽物と呼ばれる木工品を作る木地師の起源は、文徳天皇(在位827-858)の第一皇子、推喬親王(844ー897) が近江国愛智川上流の小椋庄に隠棲して仏道修行をしていた際に、経軸が回転するのを見て轆轤を考案し、供奉の者に小椋の姓を与えてその技術を伝授したことにあるとされています。

 その後、木地師たちは小椋庄を本貫地とする伝承を守り、その由緒書と伐採、往来の自由を保証する御綸旨の類を携え、良材を求め諸国の山々へ散り、その一部は、東北地方に定着しました。

 木地師たちは、推喬親王由来の御綸旨で、どの山でも八合目以上の木は自由に伐採できる特権が与えられていましたが、江戸末期になると、山地の利用権をめぐる麓との対立などから、多くは山から下りざるを得なくなり、一部は、新たな生活の場として湯治場を選びます。

 それまで、木地師たちは白木のままの椀や盆、仏具などを作っていたが、湯治客と接するうちに、疲労回復と五穀豊穣のイメージを重ねた縁起物を求める需要があることに気づき、幕末の文久・元治年間のころから、赤い染料を使った挽物細工の“赤物”の人形を売るようになります。なお、当時の俗信では、赤色は疱瘡(天然痘)を防ぐ効果があると信じられていました。

 赤物の人形は各地の湯治場で自然発生的に作られるようになりましたので、当初、その呼び名も地域によってさまざまでした。すなわち、木で作った人形の木偶(でく)に由来する“きでこ”、“でころこ”、“でくのぼう”、這い這い人形の這子(ほうこ)に由来する“きぼこ”、“こげほうこ”、芥子(けし)人形に由来する“こげす”、“けしにんぎょう”などが、代表的な呼び名です。

 明治を経て大正時代に入り、鉄道網が発達して東北の温泉地に全国から観光客が訪れるようになると、赤物の人形は民芸品として人気を集めたが、その一方、地ごとに呼び名が異なっているための不都合も目立つようになってきました。

 そこで、1939年8月、鳴子温泉で各地の関係者を集めた“全国こけし大会”が開催され、赤物の人形の名称を仮名書きの“こけし”に統一すべきとの決議が採択され、以来、“こけし”の呼び名が定着します。

 伝統的なこけしは地域ごとに形式が異なっており、その主なものとしては、①土湯系(福島県土湯温泉、飯坂温泉、岳温泉)、② 弥治郎系(宮城県白石市弥治郎)、③ 遠刈田系(宮城県遠刈田温泉)、④ 鳴子系(宮城県鳴子温泉)、⑤ 作並系(宮城県仙台市、作並温泉、山形県山形市、米沢市、寒河江市、天童市)、⑥ 蔵王高湯系(山形県蔵王温泉)、⑦ 肘折系(山形県肘折温泉) 、⑧ 南部系(岩手県盛岡市、花巻温泉)、津軽系(青森県温湯温泉、大鰐温泉・青森)などに分類されています。

 今回ご紹介の切手に描かれた鳴子系こけしは、頭部を胴の部分にはめ込んでいるため、首を回すとキイキイ音が鳴るのが特徴です。ただし、切手では実際の音を聞くのは無理なので、胴に大きく菊が描かれた特徴的なデザインで鳴子系と識別できます。


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 ユダヤ新年
2017-09-21 Thu 07:09
 きのう(20日)の日没をもって、ユダヤ暦5778年の“ローシュ・ハッシャーナー”(新年。直訳すると“年の頭”の意)となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・年賀(2001・軍人)

 これは、2001年9月3日に発行された“年賀切手”の1枚です。2001年のイスラエルの年賀切手は、ハイム・シュタイヤーの年賀絵葉書コレクションから題材を選んで6種セットで発行されました。今回ご紹介の切手の元になった年賀絵葉書は、鳩とオリーヴに兵士を組み合わせることで“平和と安全”を表現しているとのことですが、タブに“Happy New Year”となければ、年賀切手とはわかりづらいかもしれません。

 古代ユダヤには、春から1年が始まる宗教暦と秋から1年が始まる政治暦が併存していました。政治暦は旧約聖書・レビ記23章24節に「第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい」とあるのを根拠として、宗教暦の7月1日から始まります。ただし、ユダヤ暦は太陰暦ですので、毎年、新年の日付は異なります。また、ユダヤ暦の紀元は、ユダヤ教において神が世界を創世した日を西暦に換算したとして、紀元前3761年10月7日とされています。

 さて、第一次大戦以前から、パレスチナに移住したユダヤ系移民は自分たちの定住地で自警団を組織していました。英国によるパレスチナ統治が始まると、ユダヤ系移民の急増に反発するアラブの暴動が発生したため、1920年6月、各地の自警団を統括する民兵組織として“ハガナー”が結成され、英軍による指導・訓練を受けました。また、第二次世界大戦中の1944年5月には、ナチスに対抗するために、英陸軍内にユダヤ旅団が編成され、5000人以上のユダヤ人志願兵が軍事訓練を受け、イタリア戦線に投入されました。

 1948年5月14日、英国によるパレスチナの委任統治が終了し、イスラエルが独立宣言を行うと、これを認めない周辺アラブ諸国がイスラエルに対して宣戦を布告し、第一次中東戦争が勃発します。しかし、この時点では、新生イスラエル国家には正規の国軍は存在しなかったため、5月26日付で臨時政府政令4号が発せられ、国防大臣の下にユダヤ人各武装勢力が集結・統合されることになりました。その結果、最大武装勢力であったハガナー(パルマッハ含む)を基盤に指揮系統等が再編され、5月31日以降、イスラエル国防軍として本格的に活動を開始します。

 第一次中東戦争後は、地下組織だったエツェルおよびレヒも国防軍に参加。以後、イスラエル国防軍はアラブ諸国との戦争をとおして近代化と効率化を進め、世界で最も練度の高い軍隊の一つに成長しました。

 なお、イスラエル建国後のイスラエル国防軍が周辺アラブ諸国・組織とどのように戦ってきたかについては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

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 メキシコでM7.1地震
2017-09-20 Wed 12:07
 メキシコで、現地時間19日午後1時14分(日本時間20日午前3時14分)ごろ、首都メキシコシティに隣接するプエブラ州チアウトラデタピアの西7キロ(同州ラボソの東北東5キロ)・深さ51キロの地点を震源とするマグニテュード7.1の地震が発生。この記事を書いている時点で、149人が亡くなったと報じられています。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・1909年地震25周年カバー

 これは、1909年7月30日のゲレーロ地震から25周年に際して民間で作られたメモリアル封筒の使用例で、1934年8月3日、メキシコシティから米ジョージ州サヴァンナ宛に送られています。1909年のゲレーロ地震はマグニテュード7.6。死者は2人と少なかったのですが、リゾート地として知られるアカプルコでも建物などに大きな被害が生じました。

 さて、メキシコは世界でも有数の地震国で、つい2週間ほど前の今月7日にはチアパスでマグニテュード8.1の巨大地震が発生し、90人以上が亡くなったばかりでした。(ただし、メキシコ地震当局は今回の地震について、7日に発生した地震とは無関係としています)

 また、2000年以降に限っても、2003年のコリマ(M7.5)、2010年4月4日のバハ・カリフォルニア(M7.2)、2012年3月20日のゲレーロ(M7.4)、2014年4月18日のゲレーロ(M7.2)と、マグニテュード7以上の大地震が頻繁に起きています。

 今回、地震が発生した9月19日(現地時間)は、くしくも、1985年にいわゆるメキシコ地震(メキシコ政府の公式発表で死者約1万人、倒壊した建物約3万棟)が起きた日にあたっており、各地で避難訓練などが行われていました。ところが、地震の発生は訓練の終了から2時間後のことだったため、地震警報を訓練の一部だと誤解した人もいたそうです。

 現在、メキシコシティでは約200万人が停電状態にあり、電話回線も不通。複数個所で高速道路や橋が崩壊しているほか、主要ガス管が破損し、大規模な火災や爆発が発生する危険性も指摘されています。

 あらためて、亡くなられた方のご冥福をお祈りし、被災者の方には心よりお見舞い申し上げるとともに、被災地の復旧・復興が一日も早く進むことをお祈りしております。


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 カープが連覇
2017-09-19 Tue 00:03
 プロ野球のセントラル・リーグは、広島東洋カープが昨年に続き、2年連続で優勝しました。というわけで、カープにちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      砥部焼・鯉(みほん)

 これは、1986年3月13日、第1次伝統的工芸品シリーズ第7集として発行された“砥部焼”の切手のうち、「染付鯉文徳利」の切手です。カープの優勝にちなんで鯉の切手をご紹介するのに赤色が使われていないのも愛想がないので、通常の未使用単片ではなく、赤字の“みほん”加刷を持ってきました。

 砥部焼は愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器で、やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴です。また、讃岐うどんの器としてしばしば用いられることでも知られています。

 砥部地域では、古来、外山村より砥石を採取し瀬戸内海辺へ出荷することが行われており、ここから産する砥石は伊予砥として奈良へ送られ、正倉院の鏡を磨くことにも用いられていました。

 ところが、江戸時代の1762年、外山村から砥石を採る際の屑の処理に無償で動員されていた村人が、労役負担の免除を求めて大洲藩に願い出た“砥屑捨夫事件”が発生。このため、砥石屑の処分費用を、大阪の砥石問屋・和泉屋治兵衛が負担することになり、砥石屑の再利用法が模索されるようになりました。そして、1775年、9代藩主の加藤泰候から砥石屑を使った磁器の制作を命じられた杉野丈助が、五本松に登り窯を据え、苦労の末に1777年、白地に藍色の焼き物作りに成功します。これが、砥部焼のルーツです。

 その後、1848年、トンバリと呼ばれるレンガ造の窯が導入されて生産性が向上し、明治維新後の1872年からは、松前(現・伊予郡松前町)の唐津船で、販路が全国に拡大されたほか、輸出商品として、郡中港(現在の伊予港)から出荷された時期もありました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、幕末の上原窯で焼かれた「染付鯉文徳利」で、当時の有力者がわが子の健康を祈って注文したものと考えられています。底の広い船手のかたちで、肩・腰のふくらみも大きくゆったりとした安定感を感じさせる名品で、切手発行時は仲田美惠子の所蔵品で、砥部町の文化財として同町の伝統産業文化会館に展示されています。

 ちなみに、この切手を含む伝統的工芸品シリーズの切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』で詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
      

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      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

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 敬老の日
2017-09-18 Mon 08:42
 きょう(18日)は“敬老の日”です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ警察の日

 これは、2014年1月、パレスチナ自治政府(西岸のファタハ政府)が発行した“2013年 パレスチナ警察の日”の切手シートで、切手部分には、老女をサポートする警察官が取り上げられています。切手は、当初、2013年7月に発行の予定ですが、実際の発行は2014年1月までずれ込んでいます。なお、切手の製造はバハレーンのオリエンタル・セキュリティ・プリンティング・ソリューションが行いました。

 パレスチナ自治政府の警察機構は、1995年9月の暫定自治拡大合意に基づき、3万人を越えない範囲(西岸1万2000人、ガザ1万8000人)で“パレスチナ警察”が設置されたのが最初です。パレスチナ警察は、イスラエル当局と協力しつつ、テロに対処し、これを予防することになっていましたが、2000年9月に始まった第二次インティファーダを機に、イスラエル側との衝突により、特に西岸地区の警察関係機関は大きな打撃を受けました。

 2005年にパレスチナ自治政府の大統領に就任したマフムード・アッバースは就任後、治安組織の改革・強化として、同年4月、すべての治安機関を内務庁、国家治安部隊、総合諜報局の3機関に統合する決定を下すとともに、治安機関幹部の定年退職を実施し、人事の刷新を行いました。その後も、アッバース政権は米国の支援を受けつつ、治安組織の強化に取り組んでいます。

 切手シートの余白には、岩のドームを背景にパレスチナ国旗を掲げて行進する警察官が取り上げられていますが、現実には、岩のドームのある東エルサレムはイスラエルの統治下にあり、ファタハ政府の警察官がこうした場所を行進することはありません。しかし、ファタハ政府としては、今回ご紹介の切手シートを発行することにより、“エルサレムを首都とするパレスチナ国家”の治安は国際的に認められた正統政府としての自分たちが責任を持って守るという意思を示そうとしたものと考えられます。

 さて、先日でき上がってきたばかりの拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』では、2005年のアッバース政権発足後、パレスチナ自治政府が発行した切手についてもいろいろご紹介しております。奥付上の刊行は9月22日で、すでにネット書店での予約販売も始まっておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 *昨日、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」は、無事、盛況のうちに終了いたしました。ご参加いただいた皆様、スタッフならびに関係者の皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

      
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 岐阜450年
2017-09-17 Sun 05:37
 永禄10年8月15日(1567年9月10日) に織田信長が斎藤龍興の居城だった稲葉山城に移り、“井口(いのくち)”と呼ばれていた周辺一帯を岐阜と改称してから、きょうで450年です。というわけで、手持ちのマテリアルの中から、“岐阜”関連で一番派手なモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      岐阜監獄・ボタ印カバー

 これは、1886年11月24日、岐阜監獄に収監されていた囚人が差し出した郵便物の封筒で、岐阜を示す“キ”のボタ印(1885年1月から1888年8月末まで使用されました)が押されています。

 さて、岐阜という地名の由来には諸説ありますが、中国で縁起の良い地名、岐山、岐陽、岐阜の中から、“岐山(周の文王がここから起ったとされる山)”の“岐”と、“曲阜(魯国の首府にして儒学発祥の地)”の“阜”を併せ持つ“岐阜”を、政秀寺の僧、沢彦宗恩が選び、太平と学問の地であれとの意味を込めて命名した説明されることが多いようです。

 関ヶ原の戦いの後、徳川幕府は美濃国に有力な大名が出現しないよう、10万石未満の多数の藩と天領に分割したうえで、現在の岐阜県南部にほぼ相当する地域を天領とし、美濃郡代の陣屋(代官の住居と役所がおかれた建物)として笠松陣屋を設置しました。

 維新後の1868年1月、朝廷の命を受けた東山道鎮撫使の竹沢寛三郎は笠松陣屋を天朝御用所に改め、その後、笠松裁判所を経て笠松県に組織変更されます。これに伴い、美濃郡代時代の郡代牢獄を転用した囚獄(旧幕時代の牢屋敷を継承した未決拘禁施設)と徒刑場(既決拘禁施設)が設置されます。

 1871年、廃藩置県後の第1次府県統合に伴い、笠松県を含む美濃国内の9県は岐阜県に統合されますが、笠松地域の囚獄と徒刑場はそのまま維持され、1886年の官制改革により、“岐阜監獄”と改称されました。今回ご紹介のカバーは、同年の差し出しですから、“岐阜監獄”の封筒としては初期の使用例ということになります。

 岐阜監獄は1922年の官制改革で現在の名称である岐阜刑務所に改称され、1925年に長良西に移転、さらに、1984年に岐阜市則松に移転し、現在に至っています。現在の岐阜刑務所は、短期収容の初犯者および再犯者・若年初犯者・長期収容の再犯者と幅広い分類の受刑者が集まる男子刑務所として利用されています。

 さて、今日は午後から、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」にスピーカーとして登壇するため、このあと東京駅に向かいます。今回のイベントでは、憲政史家で『大間違いの織田信長』が話題の倉山満さんとご一緒するのですが、それが岐阜450年の日に重なるというのも何かの因縁かもしれません。会場では、実物が出来上がったばかりの拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』の初売りも行いますので、お近くの方は、ぜひ、ご参加いただけると幸いです。 


 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★★ 

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 ホークスが2年ぶりの優勝
2017-09-16 Sat 21:28
 プロ野球のパシフィック・リーグはソフトバンク・ホークスが2年ぶり18度目の優勝を果たしました。9月16日の優勝決定は2015年の9月17日より早いリーグ最速記録だそうです。というわけで、きょうは鷹を描いた切手の中からこの1枚です。

      ガザ・ジャアバリー追悼

 これは、2013年6月5日、ガザ地区を実行支配するハマース政府が発行したアフマド・ジャアバリーの追悼切手シートで、ジャーバリーの肖像と並んで、岩のドームを中心としたパレスチナの地図とアラブの象徴としての鷹、上空を飛ぶロケット弾と撃墜されるイスラエル軍の軍用ヘリがコラージュされています。

 アフマド・ジャアバリーは、1960年、ガザ生まれで、ガザのイスラム大学を卒業しました。当初はファタハの活動家として、世俗的な反イスラエル闘争に参加していましたが、1982年に逮捕され、獄中で13年間を過ごす間にイスラム原理主義に感化され、ファタハを離脱してハマースに参加します。

 1995年の釈放後は、ガザで反イスラエルの武装テロ活動に従事して頭角を現し、第二次インティファーダ発生後の2002年、ハマースの軍事組織、イッズッディーン・カッサーム旅団の事実上の司令官として戦闘を指揮。2006年にはイスラエル兵ギラド・シャリートの誘拐と他の兵士2名の殺害に関して主導的な役割を果たしたほか、2007年のハマースによるガザ制圧に際しても軍功を挙げました。

 以後、ハマースの軍事部門トップとして、ファタハ政府(パレスチナ自治政府として国際的な承認を得て西岸地区を統治)とイスラエルの和平交渉の進展を徹底的に妨害すべく、ロケット弾によるイスラエル領内への攻撃を指揮しました。当然のことながら、イスラエル側からすれば、ジャアバリーは、当時のもっとも凶悪・危険なテロリストとみなされていました。

 ところで、2011年9月23日、ファタハ政府は“パレスチナ”として国連への加盟申請を行い、同年10月31日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)がパレスチナを加盟“国”として承認しましたが、これを受けて、国連の場では、パレスチナ自治政府を従来の“オブザーヴァー組織”から“オブザーヴァー国家”に格上げする(=パレスチナを国連の“加盟国”としては認めないものの、正規の独立国であることを国連として事実上承認するという妥協策です)総会決議を2012年に採択する方向で調整が進められていました。これに対して、ハマース政府はガザを拠点にあくまでもイスラエル国家の存在そのものを否定し続けていたため、国連総会での決議採択を前に、イスラエルのネタニヤフ政権はハマースのテロ活動に打撃を与えるべく、2012年11月14日、ガザ地区に空爆を行い、車で移動中のハマースの軍事部門のトップ、アフマド・ジャアバリーを殺害しました。

 さらにジャアバリーの殺害に成功したイスラエル当局は、殺害の模様を撮影した動画を直ちにユーテューブに投稿。トゥイッターでもハマースがテロリストであることを強調したうえで、「ハマースの工作員は階級にかかわらず、今後数日間は地上に顔を出さないよう勧める」と発信します。

 イスラエルによるジャアバリー殺害に対しては、アラブ諸国がこれを批難し、エジプトはイスラエル大使を召還。当事者のハマースはイスラエルの“宣戦布告”に対して、同じくトゥイッターで「我々の神聖な手は、お前たちのリーダーや兵士がどこにいようと届く」と応酬しています。はたして、以後7日間、ハマースによるイスラエル領内への砲撃は激しさを増し、160人を超える死者が発生しました。

 こうした経緯を経て、ガザのハマース政府は、翌2013年6月5日、今回ご紹介の切手シートを発行しました。シートのデザインは、ジャアバリーの主導したロケット弾による対イスラエル攻撃を讃えるとともに、パレスチナ全土は“パレスチナ国家(ここではハマース政府のこと)”のものであり、その防衛のためには今後とも容赦なくイスラエルに対してロケット弾を撃ち込んで行く意思があることが示されています。

 ちなみに、ジャアバリー殺害から約半月後の2012年11月29日に開催された国連総会で、パレスチナ(ファタハ政府)を“オブザーヴァー組織”から“オブザーヴァー国家”に格上げする決議67/19が、賛成138、反対9、棄権41、欠席5の圧倒的多数で承認されました。反対票を投じた9ヵ国はカナダ、チェコ、ミクロネシア、イスラエル、マーシャル諸島、ナウル、パラオ、パナマ、米国で、わが国は賛成票を投じています。

 なお、ガザ地区を実効支配下に置くハマース政府とそのプロパガンダ切手については、新刊の拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろと分析しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

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 パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学
2017-09-15 Fri 11:02
 かねてご案内のとおり、えにし書房から発売予定(奥付上の刊行日は9月30日)の拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』の現物ができあがりましたので、ご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)

      パレスチナ現代史・表紙

 ことし(2017年)は、第1回シオニスト会議の開催(1897年)から120年、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、2012年12月から2017年8月まで『本のメルマガ』に連載していた「岩のドームの郵便学」をベースに、大幅に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』を9月22日付で刊行することになりました。

 連載時のタイトルならびに本書の副題に取り上げた“岩のドーム”は、世界遺産にも登録されているエルサレム旧市街の歴史的建造物で、イスラムでは、メッカのカアバ、メディナの預言者のモスクに次ぐ第3の聖地とされています。したがって、パレスチナをめぐるアラブとユダヤの対立の中で、アラブ・イスラム諸国は、アラブないしはムスリムの土地としてのパレスチナの象徴として、岩のドームを取り上げた切手を数多く発行してきました。

 本書では、そうした岩のドームの切手を歴史的に分析していくことで、シオニズムやアラブ民族主義、東西冷戦、イスラム復興運動などの思想やイデオロギーが複雑に絡みあうなかで、パレスチナ問題をめぐる各国の認識と思惑の変遷を明らかにしています。特に、どの国が、いつ、どのような岩のドームの切手を発行してきたかということを仔細に検証してみると、反イスラエル陣営が決して一枚岩ではなく、彼らの間には微妙な齟齬が存在し続けてきたという現実も浮かび上がってくるのです。

 たとえば、本書では以下のようなエピソードもご紹介しております。

 ・岩のドームを描く最初の切手はオスマン帝国の崩壊直前に発行された
 ・第三次中東戦争直後、イスラエルが発行した岩のドームの切手を貼った郵便物は受け取りを拒絶されることもあった
 ・ホメイニ時代のイランフセイン時代のイラクカダフィ時代のリビアで発行された岩のドームの切手、それぞれの思惑と背景は
 ・2007年以降、ガザを実効支配するハマースが、西岸のファタハ政府とは別に岩のドームの切手をさかんに発行している
 
 つきましては、今後、書店の店頭などで実物をご覧になりましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したいという方は、ご連絡いただければ資料をお送りいたしますので、よろしくお願いいたします。


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 インド高速鉄道きょう起工式
2017-09-14 Thu 10:19
 日本の新幹線方式を導入し、インドで初めてとなる高速鉄道の起工式が、きょう(14日)、同国西部アーメダバードで、安倍晋三首相とインドのモディ首相が出席して行われます。というわけで、インドの鉄道に関する切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・鉄道150年

 これは、2002年4月16日にインドが発行した“鉄道150年”の記念切手(小型シート)で、鉄道開業時のようすが取り上げられています。口述のように、インド最初の鉄道が開通したのは1853年ですので、2002年の発行ということは、150周年ではなく、150年目という年回りになります。

 インドにおける本格的な鉄道建設計画は、1836年、マドラス(現チェンナイ)の技術者、キャプテン・コットンがボンベイ(現ムンバイ)=マドラス間に862キロの鉄道路線を敷設することを主張したのが最初とされています。

 次いで、1841年、マクドナルド・ステファンセンがカルカッタ(現コルカタ)から北西部への鉄道建設が提案され、1843年、具体的な区間として、カルカッタ=ミルザボール間の450キロが設定されました。この計画に基づき、1845年6月1日にロンドンで400万ポンドの資本金で東インド鉄道株式会社が設立されます。一方、ボンベイでは、1844年、ボンベイと内陸の綿花生産地を結ぶボンベイ・グレート・イースタン鉄道が計画されます。

 当初、インドにおける英国の統治機関である東インド会社は、巨額の経費が必要な鉄道の建設には消極的でしたが、1848年1月、英領インド総督に就任したジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)は、インドにおける鉄道建設の意義を認識し、1849年、東インド鉄道と大インド半島鉄道(ボンベイ・グレート・イースタン鉄道から改称)と建設契約を締結しました。

 これを受けて、鉄道建設の工事が始まり、1853年4月16日、ボンベイのボリ・ブンダー港からターネーまでの約34キロで、大インド半島鉄道によるインド最初の鉄道が開通しました。開業当初の機関車はスルターン、シンド、サヒーブの3両で、2都市間の所要時間は45分でした。

 当初、インドの鉄道は、旅客用というよりも、綿花・石炭・の輸送が主目的で、建設に際して英植民地当局は在地のインド人を酷使したため、民族運動などで破壊の対象にされたこともありました。

 独立後の1951年以降、インドの全鉄道は国有化され、現在はインド政府の鉄道省の監督下に置かれています。その総延長は6万3327キロ(・加・に次いで世界5位)、駅の数は6909にも及び、1日あたりの乗客は約1800万人、貨物は200万トンとなっています。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

 9月7日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第8回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、10月5日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、7日放送分につきましては、9月14日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

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 岩のドームの郵便学(54・最終回)
2017-09-13 Wed 11:27
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』655号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、第二次インティファーダについて取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      オマーン・第2次インティファーダ

 これは、2001年7月31日、オマーンが発行した“第2次インティファーダ支援”の切手シートです。画像ではわかりづらいのですが、岩のドームと石を投げる少年、右下の“インティファーダ”のアラビア語の文字部分は、型押しで盛り上がった印刷になっています。

 2000年9月28日、イスラエル野党リクードの党首、アリエル・シャロンが、パレスチナ側の反対を押し切って、護衛の警官とともに、エルサレムの“神殿の丘”に上るパフォーマンスを行いました。

 シャロンはウクライナ系移民の子で、1928年、英委任統治下パレスチナのクファル・マラル村生まれ。1942年、14歳で準軍事組織のハガナーに入隊して軍事訓練を受け、1948年の第一次中東戦争ではハガナーの正規歩兵部隊、アレクサンドロニ旅団の歩兵中隊長として従軍し、負傷しました。1953年、ヨルダン川西岸およびガザを拠点とする反イスラエル武装組織“フェダイーン”を討伐するための第101特殊コマンドの指揮官に就任。同コマンドは1956年にイスラエル軍初の空挺部隊である第202空挺旅団へと改編され、大佐に昇進したシャロンは引き続きその指揮官となります。

 1967年の第三次中東戦争では機甲師団長としてシナイ半島侵攻作戦で軍功を挙げ、戦後、シナイ半島戦域を担当する南部方面軍の司令官に就任しました。

 その後、国会での承認が必要な参謀総長への承認がかなわなかったため、1972年6月、いったん退役しますが、1973年の第四次中東戦争ではイスラエル軍の苦境に接して現役復帰。第143予備役機甲師団の師団長として、スエズ運河を逆渡河する反撃作戦を成功させ、国民的な英雄となりました。

 1973年の国会議員選挙でリクードから出馬して初当選し、1975年にはラビン政権の農水相として初入閣。1977年にアロン入植地委員会委員長に任命されると、入植地建設を強力に推進し、1983年までに西岸地区の入植者数は文字通り倍増させました。

 1981年、ベギン政権の国防相に就任。翌1982年にシナイ半島のエジプトへの返還とそれに伴うヤミット入植地の解体を取り仕切るとともに、レバノン内戦に介入し、PLOをベイルートから撤退させることに成功した。しかし、レバノンでサブラー・シャティーラ事件が発生したため、ラファエル・エイタン参謀総長とともに引責辞任に追い込まれています。

 1990年には、シャミル政権下の住宅建設相に就任。(旧)ソ連からのユダヤ人移民を積極的に受け入れて、入植地をさらに拡大すると、その実績をもとに、リクード党首の座をを狙いましたが、1994年の党首選挙ではネタニヤフに敗北。ネタニヤフ政権下では国家基盤相、外相を歴任します。

 当時、ネタニヤフは米国の圧力を受け、和平プロセスを進展させており、水面下でシリア大統領ハーフィズ・アル=アサドとゴラン高原の返還交渉を行っていましたが、シャロンは外相としてこの交渉を潰しました。しかし、そうした閣内不一致は政権の基盤を弱体化させ、1999年にはエフード・バラック労働党政権が誕生することになりました。

 巻き返しを図るリクードはシャロンを党首に据え、バラック政権の軟弱姿勢を批判。その一環として、2000年9月28日、エルサレムの神殿の丘に登り、岩のドームの前で「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言。パレスチナ人を挑発。彼らの敵意を一身に集めることにより、和平推進派に対するイスラエル国民の支持を失わせ、強力なリーダーシップを持つ自分以外には危機を乗り切ることができないとして求心力を強めようとしたわけです。

 はたして、シャロンの神殿の丘訪問は、パレスチナ域内のみならず、イスラム世界全域から強く非難されました。しかも、事前にパレスチナ側の強い反対があったにもかかわらず、イスラエルのバラック政権はシャロンの行動を阻止しなかったため、翌9月29日、パレスチナのムスリム2万人が抗議行動を開始。その過程で、嘆きの壁で祈祷していたユダヤ教徒への投石を機に、パレスチナ全域で大規模な民衆蜂起が発生します。

 これが、第二次インティファーダです。

 第二次インティファーダが発生した2000年9月は米国大統領選挙の終盤戦にあたっており、現職副大統領のゴア候補の勝利を至上命題としていたクリントン政権には、パレスチナの和平プロセスに力を注ぐ余裕はありませんでした。さらに、11月の選挙でゴアを破って当選を果たした共和党のブッシュ・ジュニアは、当初、内政重視の姿勢を鮮明にしており、パレスチナにおける米国の関与は大幅に後退することは避けられませんでした。

 このため、2000年12月10日、バラックは起死回生の策として辞任を発表し、翌2001年2月、イスラエルの首相公選が行われることになります。

 バラックの目論見としては、“極右”のシャロンに対する国民の指示は一部に留まるだろうし、前首相のネタニヤフも選挙時に国会議員ではない(=首相公選への出馬資格がない)ことから、最終的には、和平交渉の継続を願う世論を背景に自分が再選されるという青写真が描かれていました。

 これに対して、シャロンは、選挙戦を通じてバラックの“弱腰”を徹底的に批判することで国民の支持を獲得し、20ポイントもの大差で選挙に圧勝。2001年3月7日、首相に就任します。

 シャロン政権の発足は、ハマースやイスラム聖戦などの過激派組織を強く刺激し、彼らはパレスチナ自治政府とアラファトの“弱腰”を批判して、3月27日から28日にかけて、エルサレムとネベヤミンで計3件のテロ事件を起こしました。これに対して、28日、シャロン政権はガザ地区とヨルダン川西岸のラマラに対して大規模な報復攻撃を行い、パレスチナでのアラブ・イスラエル紛争が再燃します。

 さらに、4月14日、レバノンを拠点とするシーア派原理主義組織のヒズブッラーがゴラン高原の農場を警備していたイスラエル兵に対してミサイルを発射し、イスラエル兵を殺害する事件が発生すると、その報復として、イスラエルはレバノン領内のヒズブッラーの拠点とシリア軍のレーダー基地を空爆。周辺アラブ諸国とイスラエルの関係は一挙に緊張しました。

 その後、5月から6月にかけて反イスラエルの自爆テロが頻発すると、6月2日、アラファトは「即時、無条件の効果的な停戦実現のために最大限の努力を行う」と声明。紛争の拡大を懸念した米国のブッシュ政権も、クリントン政権下で中東和平交渉に関与してきた経験を持つテネットCIA長官を現地に派遣し、シャロンならびにアラファトと対応を協議させます。

 これにより、ようやく、イスラエルとパレスチナ自治政府の対立は沈静化に向かったが、ハマースをはじめとするイスラム原理主義組織は、その後も独自に反イスラエルのテロ活動を継続。2001年だけで、100人を超えるイスラエル人が“自爆テロ”の犠牲となり、シャロン政権に対する不満と反感の根強さが浮き彫りになりました。

 こうした状況を踏まえ、2001年6月から9月にかけて、アラブ諸国の中には、第二次インティファーダを題材とする切手を発行し、その原因を作ったシャロンを批難し、反イスラエル闘争を支持する姿勢を示すケースもありました。今回ご紹介のオマーンの切手シートも、その一例です。

 さて、ことし(2017年)は、第1回シオニスト会議の開催(1897年)から120年、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、2012年12月から『本のメルマガ』に連載していた「岩のドームの郵便学」をベースに、大幅に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』を9月22日付で刊行することになりました。ちなみに、連載は第二次インティファーダまでを扱ったところで終わりましたが、書籍の『パレスチナ現代史』では、その後も2016年までの現代史の流れをカバーしております。すでにアマゾンなど一部のネット書店では予約販売も始まっておりますが、実物の見本が出来上がってきましたら、あらためて、このブログでもご報告いたしますので、よろしくお願いいたします。 

 また、同書の刊行に伴い、『本のメルマガ』の連載は今回で終了となります。4年以上にわたり、連載にお付き合いいただきました皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 なお、『本のメルマガ』では、今月25日配信号から、題材をガラッと変えて新連載をスタートする予定ですので、引き続き、お付き合いいただけると幸いです。

 * きのう、アクセスカウンターが183万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。
     
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 9月7日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第8回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、10月5日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、7日放送分につきましては、9月14日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

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  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
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 第1回日アラブ政治対話開催
2017-09-12 Tue 15:13
 日本時間のきょう未明(現地時間11日)、わが国の河野太郎外相とアラブ連盟(21ヶ国+パレスチナ)との“日アラブ政治対話”がカイロのアラブ連盟本部で行われ、中東和平の実現などの課題に日本政府としてより深く関与していくなどとした中東政策の基本姿勢を示したうえで、その具体的な取り組みとして“河野イニシアティブ”が発表されました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ガザ地区・アラブ連盟週間(1962)

 これは、1962年、エジプト支配下のパレスチナ・ガザ地区用として発行された“アラブ連盟週間”の切手で、連盟のエンブレムの下、今回の対話が行われた連盟本部ビルが描かれています。

 アラブ諸国の地域協力組織を創設しようという具体的な動きは、もともと、第二次大戦中の1941年5月、アラブ諸国(委任統治下の自治政府等を含む)が枢軸側に就くことを避けるため、英外相アンソニー・イーデンが提案したのが最初です。当時の欧州戦線はドイツ軍に有利な戦況であったことから、アラブ側は様子見の構えで静観していましたが、連合国有利の戦況がほぼ確定した1943年2月になって英国が再提案すると、アラブ側がこれに反応し、具体化に向けて動き出すことになりました。

 ただし、連盟に対するアラブ諸国の思惑はさまざまで、まさに同床異夢の状況にありました。

 すなわち、アラブ随一の大国として、連盟設立の主導権を握っていたエジプトは、連盟はあくまでも国家間の緩やかな協力機構にするとの意向を持っていましたが、第一次大戦後のアラブ分割の結果として発足したトランスヨルダンシリアイラクの三国は、(現在の国名でいう)シリアからパレスチナにいたる“大シリア”を統合したうえで、他のアラブ諸国との連合を目指そうと考えていました。このうち、ハーシム家の王朝であるトランスヨルダンイラクは、ハーシム家による君主制の下、統制の強い国家連合を想定していましたが、シリアは共和政体を主張していました。

 一方、キリスト教徒が人口の半数を占めるように設定されたレバノンは、アラブ諸国が統合されると、全体としてはマイノリティとなるキリスト教徒の権利が制約されることを恐れ、主権の移譲には絶対反対しており、サウジアラビアとイエメンは、そもそもアラブ連盟が実際に設立される可能性は低いと考えていました。

 結局、エジプトが中心となってともかくも各国の妥協をまとめ、加盟国に対するいかなる強制力も持たない緩やかな地域協力機構として、1945年3月22日のアレキサンドリア議定書調印によって、アラブ連盟が結成されます。

 こうした経緯から、アラブ連盟の本部はエジプトの首都カイロに置かれていました。しかし、1978年3月、キャンプ・デービッド合意でエジプトがイスラエルと単独で停戦し、両国が相互承認を行ったことから、エジプトは連盟の対イスラエル共通政策である「和平せず、交渉せず、承認せず」に違反したとして、1979年、エジプトは連盟を追放され、連盟の本部はテュニスに移転しました。その後、1990年にエジプトは連盟に復帰し、本部もカイロへ戻り、現在に至っています。

 さて、ことし(2017年)は、第1回シオニスト会議の開催(1897年)から120年、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、今年8月まで『本のメルマガ』に連載していた「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』を9月22日付で刊行の予定です。すでにアマゾンなど一部のネット書店では予約販売も始まっておりますが、実物の見本が出来上がってきましたら、あらためて、このブログでもご報告いたしますので、よろしくお願いいたします。 


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 世界の切手:チリ
2017-09-11 Mon 16:58
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年9月6日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はチリの特集(3回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      チリ・南極領有宣言7周年

 これは、1947年に発行された“南極領有宣言7周年”の記念切手で、チリ領南極の範囲を示す地図が描かれています。

 19世紀初頭、西洋人による南氷洋でのクジラ、アザラシ、ペンギンの狩猟が盛んになる中、1819年2月19日、英国人の探検家ウィリアム・スミスが、南極地域の最も北方に位置するサウス・シェトランド諸島(南緯61度00分-63度37分、西経53度83分―62度83分)を発見し、英領と宣言。同年10月16日、同諸島最大のキング・ジョージ島に上陸しました。

 さらに、1820年1月下旬、ロシア海軍のベリングスハウゼン、英海軍のエドワード・ブランスフィールド、米国人アザラシ漁師のナサニエル・パーマーが数日間のうちに相次いで南極大陸を“発見”します。こうした中で、1818年にスペインから独立したチリ政府は、当初から南氷洋に関心を持っており、英領サウス・シェトランド島へのチリ国民の狩猟航海を支援していました。

 1898-99年、ベルギー人のアドリアン・ド・ジェルラシ率いる南極探検船ベルジカ が南極圏での越冬に成功すると、各国は相次いで南極探検に乗り出し、1901-04年にはロバート・スコット率いる英国探検隊はマクマード湾に基地を設営し、南極内陸部を探査。さらに、1911年12月14日にはロアール・アムンセン率いるノルウェー探検隊が南極点に到達しました。

 一方、チリ政府は1906年頃から南極大陸での領有権確立に向けて隣国アルゼンチンと交渉を開始しましたが、領土を画定する条約の成立には至らなかった。これに対して、1908年、英国が南緯50度以南、西経20-80度の南極半島を含む地域の領有を宣言。南極をめぐり、各国の領有権争いが始まります。

 1939年1月14日、ノルウェーが0度から西経20度までの地域の領有を宣言すると、同19日にはドイツも東経20度から西経10度の領有を宣言する。これに刺激を受けたチリ大統領のペドロ・アギーレは、第二次欧州大戦勃発直後の同年9月7日、南極権益特別委員会を設立して調査を開始し、各国が大戦の混乱で南極に目を向ける余裕を失っていたタイミングを見計らい、1940年11月6日、布告1747号を発してチリ領南極の領有を宣言しました。

 1940年11月6日に領有が宣言されたチリ領南極の範囲は、大航海時代にスペインとポルトガルの勢力範囲を決めたトルデシリャス条約を根拠の一つとしていました。ただし、同条約は、旧スペイン領のアルゼンチンにとっても南極領有の根拠となるため、チリは、サウス・オークニー諸島に対するアルゼンチンの主張を考慮し、西経53度以西については断念しています。

 チリの領有宣言に対しては、1940年11月12日付でアルゼンチンが公式にこれを拒絶し、チリに抗議したほか、1941年2月25日には英国も反対の意向を明らかにしました。

 チリへの対抗策として、1942年1月、アルゼンチンは西経25-68度24分の南極の領有権を主張。さらに、第二次大戦後の1946年9月2日にはその範囲を西経25-74度へと拡大しました。

 このため、チリはチリ領南極における自らの主権を明確にするため、1947年にはグリーンウィッチ島にカピタン・アルトゥロ・プラット基地を、翌1948年には半島部にヘネラル・ベルナルド・オイギンス基地を建設。さらに、大統領のガブリエル・ゴンサレス・ビデラが一国の元首として初めて南極を公式訪問し、領有権を誇示します。

 こうして、南極をめぐるチリとアルゼンチンの関係悪化が懸念されましたが、1948年3月4日、両国は欧州諸国に対抗するという点で一致し、相互協定を結び、西経25-90度にある互いの南極領土を他国から守ることで合意しました。

 一方、非同盟諸国の旗手を自認していたインドは、南極をめぐる国際対立の激化を懸念し、1953年、国連の場で南極の“国際化”を訴え、南極に領有権の歴史を持たない国々の賛同を得ます。これに対して、あくまでもチリ領南極の領有権を主張するチリは、駐インド大使を通じて、南極の“国際化”の提案を取り下げるよう、インド首相のネルーに圧力をかけました。また、1955年、英政府は国際法廷へ訴える前段階として、チリの裁判所にチリ領南極の領有権無効を訴えて提訴したが、門前払いで却下されています。

 結局、1958年に米大統領のアイゼンハワーが南極問題解決のため、国際地球観測年の会議にチリを招いて説得。このため、1959年12月1日、チリもようやく南極条約に調印(条約発効は1961年)し、南極の領土問題は凍結へと向かうことになりました。

 さて、『世界の切手コレクション』9月6日号の「世界の国々」では、チリと南極のかかわりにフォーカスをあて、関連する切手をいろいろご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のチリの次は、6日に発売された9月13日号でのベルギーの特集になります。こちらについては、発行日の13日以降、このブログでもご紹介する予定です。 


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 桐生が日本選手初の9秒台
2017-09-10 Sun 10:02
 きのう(9日)、福井市で行われた日本学生対校選手権の陸上男子100メートルで、東洋大学の桐生祥秀選手が日本選手初の9秒台となる9秒98の日本新記録をマークしました。というわけで、、きょうは桐生選手を讃えて、ランナーを描く切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      第3回アジア大会(ランナー)

 これは、1958年5月24日に発行された「第3回アジア競技大会」の記念切手のうち、ゴールテープを切るランナーを描く14円切手です。

 4年に1度開かれるアジア競技大会は、戦前の極東選手権競技大会と西アジア競技会が合併するかたちでスタートしました。

 このうち、前者は、1913年、“東洋オリンピック大会”の名の下にフィリピンで第1回の大会が開催されたのが最初で、以後、日本・中国・フィリピンの3ヶ国が持ち回りで主催者となり、1927年の第8回までは、2年ごとに開催されていました。その後は、オリンピックの中間年に行われることになり、第9回大会は1930年に東京で開催されました。なお、この大会からインドが参加国に加わったほか、1934年にマニラで開催された第10回大会からはオランダ領東インドも参加しています。しかし、日中戦争の影響で、1938年に予定されていた第11回大会は中止とされてしまいました。

 一方、西アジア競技大会は、第1回大会が、1934年にニューデリーで、インド、アフガニスタン、セイロン(現スリランカ)、パレスチナ(英委任統治領)の4ヶ国が参加して行われましたが、こちらも、1938年に予定されていた第2回大会は欧州情勢の緊迫に伴い、中止に追い込まれています。

 こうして、戦争の影響で中断されていたアジア諸国のスポーツ交流ですが、1948年、アジア競技連盟が結成され、1951年3月、戦前の両大会を統合して第1回アジア競技大会がニューデリーで開催されました。このときの参加国は、アフガニスタン、ビルマ(現ミャンマー)、インド、フィリピン、セイロン、インドネシア、ネパール、タイ、シンガポール、イラン、日本の11ヶ国で、日本が優勝しています。

 ついで、第2回大会は、1954年5月、マニラで開催され、このときも日本が優勝しました。

 そして、1958年の第3回大会は、アジア競技連盟、東京都、日本体育協会の共催により、5月24日から6月1日まで、東京・明治神宮外苑の国立競技場 で開催されました。

 大会の総裁は皇太子殿下(当時。今上陛下)で、参加国は、アフガニスタン、ビルマ、カンボジア、セイロン、台湾、香港、インド、インドネシア、イラン、イスラエル、日本、韓国、マラヤ連邦(現マレーシア)、ネパール、北ボルネオ、パキスタン、フィリピン、シンガポール、タイ、南ベトナムの20ヶ国で、選手・役員2000名以上が参加しました。

 第3回アジア競技大会に関しては、過去の開催国であるインドとフィリピンが、それぞれ、大会開催時に記念切手を発行していることもあり、郵政省内では早くから記念切手の発行を視野に入れて準備を進めていたようです。

 実際、郵政審議会・郵便切手図案審査専門委員会(以下、図案審査専門委員会)の審議を経て、記念切手の発行が決定されたのは1957年12月20日のことでしたが、同月5-6日には、大会組織委員会の塚原十四一が記念切手発行の打合せを行うために郵政省を訪問。さらに、10日には、デザイナーの木村勝、久野実、渡辺三郎、長谷部日出男が国立競技場の建設現場を取材し、はやくも19日には4人で7枚の下図を作成しています。

 さて、図案審査専門委員会の審議を経て、記念切手の発行が正式に決定されると、1月7日、あらためて原画についての競技が行われました。

 その結果、①5円、10円、14円、24円の4種セットの構成とする、②取り上げる題材は、国立競技場、聖火ランナーと大会マーク、陸上競技、水上競技、とする、③記念名称は、日本語だけでなく、3RD ASIAN GAMESの英文も入れ、西暦、大会マークを入れる、④形は正方形とする、⑤料額以外の文字原稿は、統一をはかるため、一人が代表して書いたものを、製版の際に転写する、という切手制作の基本方針が決定されました。

 これを受けて、1月13日、郵政省は共同通信社からスポーツ記録写真を購入。さらに、翌14日には、大会組織委員会から、大会旗の写真を借り受けています。その際、組織委員会側は、大会旗のマークには“EVER ONWARD(限りなき前進)”との大会スローガンは入っていないが、正式の大会マークにはこれが入っているので、切手にもこれを入れてほしいと要望しています。

 こうして、1月22日、4点の原画が完成しました。この段階では、共同通信社の記録写真に忠実に、14円切手のランナーは女性選手で、24円切手のダイビングは男性選手のシルエットになっていましたが、郵務局長の板野学が男女の組み合わせを入れ替えるように指示したため、そのように修正され、2月4日、印刷局に回されました。

 切手の発行枚数は、5円ならびに10円切手が各3000万枚、14円ならびに24円切手が各1000万枚という、当時としては異例の規模でしたが、これだけの量の記念切手が、すべて、発行初日の5月24日までに、すべて、全国の郵便局に配給されたということではないようです。

 じつは、今回の記念切手は、4種ともにグラビア4色刷であったため、刷色の決定までに郵政省と印刷局との間で調整が難航し、最終的に正式な試刷が提出されたときには、発行日まであと半月ほどに迫った5月7日になっていました。

 このため、一部の地域では、発行初日の5月24日には当初の予定量のごく一部しか配給されないということもあったとの報告が残されています。とりわけ、関西地区では、極端な販売制限が行われたにもかかわらず、一時間以内で完売する局が続出。特に、同日の神戸地区では、今回の5円および10円切手の半分、1500万枚の発行であった“開国百年”の記念切手の半分以下しか新切手の配給がなされておらず、初日のうちに切手を入手できなかった収集家もかなりな数に上りました。

 結局、これらの地域に記念切手の配給が完了したのは、大会も後半になってからのことで、会期終了後の6月2日になると、大阪中央局では、発行初日の発売制限が嘘のように、積極的な販売活動が展開されました。

 このため、第3回アジア競技大会の記念切手は、大会終了後もかなりの長期間にわたって大量に売れ残っており、特に、今回ご紹介の14円切手に関しては、東京中央局の郵趣窓口では昭和50年代まで販売されていたとの報告もあります。

 なお、専門的には、今回ご紹介の切手のバックの赤色に関しては、スクリーンの角度にバラエティがあることが明らかになっています。


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 ビロビジャンに杉原千畝の顕彰プレート
2017-09-09 Sat 09:05
 第二次大戦中にナチス・ドイツに迫害され、亡命を希望するユダヤ人へのヴィザ発給に奮闘した外交官、杉原千畝氏の功績をたたえ、きのう(8日)、ロシア・ユダヤ自治州の州都ビロビジャンのシベリア鉄道駅で、記念プレートを設置する式典が開かれました。

      ソ連・ビロビジャン(1933)

 これは、1933年にソ連が発行したビロビジャンの労働者を描く切手です。

 ハバロフスクの西約150キロの地点にあるビロビジャンは、中国との国境近くのビラ川、ビジャン川沿いにあることが地名の由来です。

 ロシア革命後の内戦期、極東地域には、緩衝国家として極東共和国が樹立されていましたが、列強による干渉出兵の最後の兵力であった日本軍が1922年10月にシベリアから撤退すると、ボルシェビキ政権にとって同国の存在意義もなくなり、同年12月のソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の成立にあわせて、同国はソ連に吸収され、消滅しました。

 しかし、その後も、ソ連にとって極東情勢は必ずしも安泰ではなかったため、ふたたび、極東の緩衝地帯が必要とされるようになります。

 一方、ソ連領内のユダヤ系に関しては、当初、黒海沿岸のクリミア半島の一部に彼らを入植させた民族区を作る構想がありましたが、ユダヤ系を信用していなかったスターリンは、モスクワはもとより中央ロシアやウクライナから彼らを事実上追放するとともに、極東における防波堤として活用することを考えました。

 この結果、1927年、クリミア半島でのユダヤ民族区創設のプランは破棄され、翌1928年、「社会主義的な枠組みのなかでユダヤ人の文化的自治をめざす」との名目で、極東の国境地帯にユダヤ民族区が創設されます。今回ご紹介の切手は、こうした状況を踏まえ、ユダヤ民族区とビロビジャンを宣伝するために発行されたものです。

 はたして、スターリンの予想通り、1929年には中国との間で国境紛争が発生し、1931年に勃発した満洲事変では、日本軍はソ連と隣接する満洲の全域を制圧し、翌1932年には満洲国を建国します。

 こうした状況の下で、極東からの脅威に備えるべく、ユダヤ民族区は1935年にユダヤ自治州に昇格し、ソ連政府は「ユダヤ人の歴史上初めて自分の故郷の建設、自らの民族国家の成就への燃えるような要望が満たされた」と喧伝しました。

 ちなみに、イスラエルの建国は1948年のことで、当時は、ナチス・ドイツの迫害を逃れて欧州のユダヤ人が英国の委任統治領だったパレスチナに大挙して流入し、地元のアラブ住民との確執が深刻化していましたから、ソ連としても、社会主義体制下でのユダヤ自治洲の創設をアピールすることは、プロパガンダとしても重要なことだったわけです。

 一方、日本でも、ほぼ時を同じくして、5万人のドイツ系ユダヤ人を満洲に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満洲の開発を促進させると共に、対ソ防衛の拠点を構築する「河豚計画」が検討されたこともありましたが、結局、日の目を見ないままに終わっています。

 さて、鳴り物入りで発足したソ連のユダヤ自治州ですが、そもそも、20世紀にいたるまでほとんど人跡未踏の地だったという土地の自然環境は苛酷で、道路をはじめとする都市のインフラ機能もほとんど整備されていませんでしたから、それまで都市生活を送ってきたユダヤ系の移住者が定着するのは無理がありました。

 このため、自治州発足から4年後、1939年の時点でさえ、ユダヤ人自治州の名前とは裏腹に、同州の人口10万9000人のうち、ユダヤ人は16%の1万7695人しか住んでいませんでした。現在では、州の人口19万人弱のうち、ユダヤ系はわずか4%ほどで、ロシア人が87%と人口の圧倒的多数を占めています。

 なお、ビロビジャンの詳細については、拙著『ハバロフスク』でも1章を設けて説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

 9月7日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第8回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、10月5日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、7日放送分につきましては、9月14日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
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 バーブーダ島、壊滅的被害
2017-09-08 Fri 09:54
 観測史上最大級の勢力をもつ猛烈なハリケーン“イルマ”が6日(現地時間)、カリブ海北西部の島国を直撃し、各地で壊滅的な被害が生じています。なかでも、アンティグア・バーブーダのバーブーダ島の被害は深刻で、同国のブラウン首相は「バーブーダは文字通り瓦礫と化した」と語っているそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アンティグア・リーワード混貼

 これは、1946年3月11日、バーブーダ島から米ロングアイランド宛に差し出された書留航空便で、アンティグア切手とリーワード諸島共通切手(以下、共通切手)の混貼使用となっているのがミソです。

 
 現在のアンティグア・バーブーダ国家を構成するアンティグア島とバーブーダ島は、いずれも、1493年、クリストファー・コロンブスの第2次航海で“発見”されました。

 このうち、バーブーダ島は、1680年、イギリスのクリストファー・コドリントンとジョン・コドリントンが上陸して以来、コドリントン家の私有財産としてプランテーションが経営されていましたが、1834年、アンティグア島を含む全英領で奴隷が廃止されると、次第に経済は衰退。1860年にはコドリントン家によるバーブーダ島の経営が終焉を迎え、同島はイギリス政府によって併合され、アンティグア島と一括して英領植民地の“アンティグア”が成立します。これを受けて、1862年7月1日には“アンティグア”として最初の切手が発行されると、バーブーダ島でもこの切手が使われるようになりました。

 その後、1890年、アンティグアを含む英領リーワード諸島としての共通切手が発行されると、英領アンティグアとしての独自の切手の発行は一時的に停止されましたが、1903年、共通切手と別に各植民地で独自の切手を発行することが認められ、英領アンティグア切手が復活。以後、1956年まで、バーブーダ島を含む英領アンティグアでは、アンティグア切手と共通切手が併用される事態が続き、今回ご紹介しているような混貼カバーが生まれることになりました。なお、この間、1922年には共通切手に“BARBUDA”と加刷した切手も一時的に発行されています。

 1967年、英領バーブーダは自治領となりましたが、独立以降の強いアンティグア島と、少なからぬ住民が英領への残留を希望していたバーブーダ島の間には微妙な温度差がありました。

 こうしたこともあって、1968年以降、バーブーダ島ではアンティグアとは別に独自のバーブーダ切手を発行するようになります。ただし、バーブーダ島は政治的・経済的にアンティグア島との結びつきが強く、半ばアンティグアの属領のような存在でもあったこともあり、1973年以降、アンティグア切手に“BARBUDA”と加刷した切手も発行・使用されています。

 1981年、英領アンティグアは“アンティグア・バーブーダ”として独立。その際、国名に“バーブーダ”の名が入ったのは、あらゆる面でバーブーダ島を凌駕しているアンティグア島が、バーブーダ島を自分たちと同等に遇するとの配慮を示したものでした。ただし、アンティグア・バーブーダの成立後も、アンティグア・バーブーダ切手とは別に、外貨獲得のための手段として、現在もバーブーダ名義の切手の発行が続けられています。

 さて、今回のハリケーンでは、バーブーダ島の被害は、人口1800人の全住戸に及んでおり、島の90%以上が破壊され、水道も電話も使えなくなっており、ブラウン首相によると“ほぼ居住不可能”の状態になっているそうです。あらためて、亡くなられた方の御冥福をお祈りするとともに、一日も早い復旧・復興をお祈りしております。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

 9月7日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第8回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、10月5日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、7日放送分につきましては、9月14日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

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 切手でひも解く世界の歴史(8)
2017-09-07 Thu 09:48
 本日(7日)16:05から、NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第8回が放送される予定です。(番組の詳細はこちらをご覧ください)。今回は、放送日が、1999年のパナマ運河返還を決めた新パナマ運河条約の調印(1977年9月7日)から40周年ということで、パナマにスポットを当てて、この切手もご紹介しながら、お話をする予定です(画像はクリックで拡大されます)

      パナマ・新条約調印の場面

 これは、1978年1月にパナマが発行した新パナマ運河条約調印の記念切手で、新パナマ条約締結の場面が取り上げられています。切手に取り上げられているのは、米州機構のオルフィラ事務総長をはさんで、左がカーター米大統領、右がトリホス・パナマ大統領です。

 大西洋と太平洋を結ぶパナマ地峡に運河を建設しようという計画のルーツは、古くは1534年、スペインのカルロス1世が調査を指示したことに求められます。

 19世紀になり、スエズ運河を設計したレセップスはパナマ運河の建設を計画し、実際に1880年1月1日に工事も開始しましたが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題、資金調達の面などから、1889年に計画は放棄されてしまいました。

 その後、1902年に米国がパナマ地峡での運河建設を決定。当時、パナマ地峡は自治権をもつコロンビア領でしたが、運河の地政学的重要性に注目した米国は、運河を自らの管轄下におくため、1903年1月22日、コロンビアとの間に、①コロンビアがレセップスの設立した新パナマ運河会社の運河建設権を米国に売却することを認めること、②運河地域の排他的管理権等を米国に付与すること、③米国は一時金1,000万ドル及び運河地域の年間使用料として25万ドルをコロンビアに支払うこと等を規定したヘイ・エルラン条約を結び、運河の管轄権を握ろうとします。

 しかし、コロンビア議会が条約を批准しなかったため、同年11月3日、米国はコロンビアの支配に不満を持っていたパナマ住民を扇動して独立を宣言させます。こうして発足したパナマ共和国を、米国は10日後の11月13日に承認し、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を締結。運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手しました。

 これを受けて1903年に工事が始まると、運河関連地区(いわゆるカナル・ゾーンです)では、1904年6月24日、アンコン、クリストバル、ガトゥン、クレブラ、ラ・ボカに郵便局を開設。パナマ切手および米本国の切手に“CANAL ZONE”または“CANAL ZONE PANAMA”の文字を加刷した切手を使用しました。

 その後、3億ドル以上の資金と10年の歳月を投入し、運河は1914年8月15日に開通。運河収入はパナマに帰属するものの、運河地帯の施政権と運河の管理権は米国に帰属することになりました。さらに、運河地帯両岸の永久租借地には米軍施設がおかれ、南米における米国の軍事拠点として機能することになります。

 こうして、パナマ共和国は、事実上、米国の属国としてスタートしましたが、1956年にエジプトがスエズ運河を国有化すると、パナマでも運河の国有化要求が高まります。

 そうした中で、1964年1月、運河地帯でパナマ国旗を掲げようとした学生等20数名が死亡する事件が起こり、当時のチアリ政権は米国との外交関係を断絶。このため、外交関係再開とともに、新運河条約の交渉が開始され、1967年、ロブレス政権下で米国とパナマの新運河条約の草案が発表されました。

 しかし、1968年、軍事クーデターによってオマル・トリホスが権力を掌握。1970年、トリホスは民族主義を掲げ、国民の支持を背景に1967年の新運河条約草案を破棄するとともに、1972年には新憲法を制定して独裁体制を構築します。

 トリホス政権は運河地帯の主権を回復すべく、キューバのフィデル・カストロ政権にも接近するなどして米国に揺さぶりをかけるとともに、1973年の国連安全保障理事会では、パナマ運河の主権はパナマにあることを確認させ、パナマの主権を尊重した新条約の成立を勧告する決議案を提案させました。この決議案は米国の拒否権により否決されましたが、その後、1977年9月7日にトリホスは米国のカーター政権と、1999年の運河返還を決めた新パナマ運河条約を締結。
 
 これを受けて、1979年以降、運河と運河地帯は米国との共同統治となり、1999年末をもって、その主権は正式にパナマへ返還されました。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は7日!★★★ 

 9月7日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第8回が放送予定です。今回は、1999年のパナマ運河返還を決めた新パナマ運河条約の調印(1977年9月7日)から40周年ということで、パナマにスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 泰国郵便学(50)
2017-09-06 Wed 10:48
  ご報告がすっかり遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第4号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・国王48歳誕生日

 これは、1975年12月5日に発行された国王ラーマ9世48歳誕生日の記念切手です。

 歴史的に中国の文化的影響が強かったタイでは、十二支が一周するたびに“秩寿”を祝う習慣があるため、今回の切手発行は第4秩寿として特別な祝賀の対象となりました。ちなみに、前回、国王誕生日の記念切手が発行されたのは、第3秩寿にあたる1963年のことでした。

 国王48歳誕生日の記念切手は、2種類セットで発行されましたが、そのうちの75サタン切手は、国旗を背景に、上部に王室のエンブレムを、下部に国王のモノグラムを取り上げたデザインになっています。

 王室のエンブレムは、ブラフマー、シヴァとともにヒンドゥーの最高神の一人とされるヴィシュヌが邪悪を弱め毒を中和するために用いる円盤状の武器“スダルシャナ”に、同じくヒンドゥーの最高神の一人であるシヴァが持つ三叉戟(それぞれの先端は意思・行動・知恵を意味する)の“トリシューラ”を組み合わせたデザインで、君主を神の化身とみなすヒンドゥーの神王思想の影響を受けたものです。

 一方、国王のモノグラムは、頂点から光を放つ“勝利の王冠”の下に、ラーマ9世を意味するタイ語の3文字(ภ.ป.ร)を配しています。

 勝利の王冠はチャクリー王朝の王位の象徴の一つで、ラーマ1世治下の1782年につくられました。純金製で、高さ66センチ、重さ7.3キロで、ラーマ4世の時代にインド産ダイヤモンドの装飾が加えられました。高くとがった形状は国王の権威が神に由来するものであり、それゆえ、国王は人民を支配する権利を有することを意味しています。また、ラーマ5世の時代以降、西洋の王室に倣って戴冠式が行われるようになったことに伴い、以後、国王が勝利の王冠を着用するのは戴冠式のみとなりました。

 ところで、1975年は、ヴェトナム戦争の終結に伴い、(南)ヴェトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ三国が相次いで共産化した年でもあります。

 このうち、タイにとって最も衝撃的だったのは、隣国ラオスでの王制廃止と共産化でした。

 1953年以来、断続的に内戦状態にあったラオスでは、1960年代半ばから米国と南北ヴェトナムが介入。米軍はラオス山間部が北ヴェトナムへの物資輸送を行うホーチミン・ルートになっているという理由で空爆を行っていました。さらに、1971年2月、米軍がヴェトナム戦争での局面打開をねらい、右派の支援と称してラオスに侵攻すると、ラオス内戦はヴェトナム戦争の一部に組み込まれます。

 その後、1972年、インドシナ紛争に関するパリ和平会談を受け、ラオスでも王国政府とパテート・ラーオ(共産革命勢力“愛国戦線”の軍事部門)との交渉がスタート。翌1973年1月、パリでヴェトナム和平協定が調印され、ヴェトナムからの米軍撤退が決まると、2月21日、ヴィエンチャンで「ラオス和平協定(ラオスにおける平和回復及び民族和解に関する協定)が調印され、現状位置での停戦が決められ、9月には新政府樹立に向けての中央合同委員会が発足しました。

 1974年4月には、右派(ヴィエンチャン政権)・中間派・左派(愛国戦線)の臨時3派連合政府(第3次連合政府)および政治諮問評議会が樹立されると、主導権を握った愛国戦線の扇動により、同年末、ラオス各地で王党派の軍人・官吏の追放を求める住民デモが発生。王族、高級軍人、議員とその家族など、共産化を恐れた人々が多数タイに脱出します。

 さらに、翌1975年4月30日の南ヴェトナムでのサイゴン陥落を経て、5月21日には反米デモ隊が米国際開発局と広報文化局を占拠。27日までに、米国は両機関を閉鎖し、ラオスから撤退しました。

 その後も左派は各地で攻勢を強め地方政府を革命行政委員会に改組。8月18日にはルアン・パバーンで、8月23日にはヴィエンチャンでも革命行政委員会が成立しました。そして、11月25日の臨時連合政府および政治諮問評議会の解体を経て、12月1-2日にルアンパバーンで開催された全国人民代表大会の結果、王制の廃止と社会主義国家“ラオス人民主共和国”の樹立が宣言されます。

 12月2日、退位を余儀なくされた最後のラオス国王、サワーンワッタナーは、1907年、ルアンパバーン生まれ。父王シーサワンウォーンの崩御を受けて、1959年、ラオス国王として即位しました。

 1949年7月19日、フランス連合内の協同国として成立したラオス王国の王位にはルアンパバーン王が就きましたが、ルアンパバーンの王家は歴史的にタイのチャクリー王朝と良好な関係を築いており、チャクリー王朝はルアンパバーン王家を姉妹都市ならぬ“姉妹王家”と位置付け、相応に遇していました。

 そうした両王室の良好な関係を象徴するものとして、1963年3月22日、タイを訪問したラオス国王のサワーンワッタナーはラーマ9世から“ラーチャミトラーポーン勲章”を授与されています。ちなみに、ラーチャミトラーポーン勲章は、1962年、“王の友好の証”としてラーマ9世自身の発案で制定された、タイ最高位の勲章です。

 このように、ラーマ9世と個人的にも親交のあったサワーンワッタナーが退位に追い込まれ、1354年に成立したラーンサーン王朝以来600年以上にわたって続いていたラオスの王制が断絶し、共産化したことは、南ヴェトナムやカンボジアの共産化に比べて、タイ社会に与えた衝撃ははるかに大きいものでした。

 当時のタイ国内は、1973年の10月14日事件以降、民主化が進行していく中で、石油危機とヴェトナム戦争終結による軍需景気の終焉により経済状況は悪化。労働組合の抗議活動によってモムラーチャウォン、セーニー・プラーモート連立政権が譲歩を迫られると、保守派や軍部は政府の弱腰を批判。それを学生らが“民主主義の危機”と糾弾して集会を呼びかけるなど、情勢は混沌としていました。

 こうした中で、ヴェトナム戦争の終結からわずか7ヶ月余の間に、インドシナ三国が相次いで共産化したことは、まさに、米軍がヴェトナム戦争に介入した大義名分、共産化ドミノ理論が“正しかった”という印象をタイ国民に与え、共産化の波がタイにも押し寄せるのではないかとの不安を醸成する結果をもたらしたわけです。

 また、左右のイデオロギーとは無関係に、ラオスおよびカンボジアから大量の難民が国境を越えてタイに流入してきたという現実は、“タイ王国”を取り巻く国際環境が危機的な状況にあることを否応なしに人々に認識させる結果となりました。

 このため、1975年12月5日、ラーマ9世の48歳誕生日の祝賀行事が行われ、あらためて、国王の威徳が国民に対して強調されると、タイ社会には、王制を護持するためにも、急進的な民主化にはブレーキをかけるべきとの空気が充満していきます。その結果、タイ社会の風向きは、民主化から保守化へと急速に変化し、1976年の総選挙では保守派が前年の選挙を大幅に上回って勝利することになるのです。


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 屋久島で50年に一度の大雨
2017-09-05 Tue 10:26
 鹿児島県の屋久島で、きょう(5日)午前8時までの24時間に降った雨の量が平年の9月1か月分の9割近い352.5ミリに達し、気象台は「50年に一度の記録的な大雨」になったところがあると発表しました。というわけで、大雨による被害が最小限にとどまることをお祈りしつつ、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      縄文杉

 これは、1995年7月28日に発行された第1次世界遺産シリーズ第3集「屋久島」のうち、縄文杉を取り上げた1枚です。

 屋久島は、鹿児島県の大隅半島南南西約60キロの海上に位置する島で、面積は504.88平方キロ。地理的には温帯地域に位置していますが、2000メートル級の山々があるため、山中では杉の原生林がある一方、海岸地帯には亜熱帯のアコウやガジュマルもみられるなど、植物相はきわめて多様です。島の一部は西隣の口永良部島とともに、2014年3月16日に指定の屋久島国立公園を構成しています。

 屋久島のシンボルともいうべきスギは、標高500mを超える山地に自生しており、一般に屋久杉といわれているのは樹齢1000年以上のもので、樹齢1000年未満のものは小杉と呼ばれています。今回ご紹介の切手に取り上げられた縄文杉は、1966年、屋久町役場の観光課長だった岩川貞次が発見し、当初は大岩杉と呼ばれていました。“縄文杉”という名前の由来は、縄文時代から生きているという説と、幹の形が縄文土器に似ているからという説があります。なお、1976年の調査では、縄文杉は樹齢7000年以上という推定結果が発表されましたが、その後、樹木の外側部分の年代測定では樹齢約2700年と判定されました。

 現在、屋久島町の大雨警報は解除されましたが、大気の不安定な状態が続くほか、これまでの雨の量が多くなっているため、気象庁はこのあと数時間は土砂災害や低い土地の浸水などに厳重に警戒するよう呼びかけています。関係する地域の方は、十分ご注意ください。


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 「ノンストップ」に出演しました!
2017-09-04 Mon 12:56
 きのう(3日)、秋篠宮眞子内親王殿下の御婚約発表があったことにちなみ、けさ、フジテレビ系の情報番組「ノンストップ」では皇室関連の記念品の特集が報道され、僕も、明治銀婚以来の“ご成婚”関連の記念切手について解説しました。ご視聴いただいた皆様には、この場をお借りして、お礼申し上げます。今回は、番組の演出上、一部クイズ形式をとっていた部分もあり、事前に予告編の記事はアップしませんでしたので、放送終了後となりましたが、お話しした内容の一部に補足説明を加えて、事後報告として記事を投稿します。(画像はクリックで拡大されます)

      大正御婚儀

 これは、1900年5月10日に発行された“東宮(=皇太子。この場合は後の大正天皇)御婚儀”の記念切手です。

 1889年、明治政府は「大日本帝国憲法」と「皇室典範」を公布しましたが、皇室の儀式についての具体的な規定は法的に整備されないままの状態が続いていました。

 しかし、1900年2月、後に大正天皇となる皇太子・嘉仁親王の婚約(前年8月に内定)が発表されると、明治政府も、御婚儀に関する規定を制定しなければならなくなり、同年4月25日、「皇室婚家令」が制定されます。ちなみに、婚儀の日程が発表されたのが2日後の27日、実際に婚儀が行われたのは半月ばかり後の5月10日でした。

 逓信省では、皇太子の御婚約が公表される以前の1899年末から切手発行の準備を進めていましたが、この時点では「皇室婚家令」は制定されていなかったため、逓信省では、御婚儀の確実な詳細は把握できませんでした。また、婚約が正式に発表されていない以上、皇太子ご夫妻の肖像を取り上げるということも(切手上に肖像を取り上げることが不敬にあたるのか否かという議論とは別の次元で)不可能でした。

 結局、図案選定のための調査を担当した樋畑雪湖は、苦心惨憺の末、御書使の儀と三日夜餅を題材として選びます。

 御書使の儀は、古来、皇后の冊立にあたって最初に行われるもので、御書(紅色の鳥の子紙で、熨斗のように包み、紅色の紙子より二筋で結ばれている)を柳筥(清浄なもののシンボルとしての柳の白木で作られた箱)に入れて男性から女性のもとへと届ける儀式です。

 一方、三日夜餅は、白色・円形の薄型の餅で、女性の年齢の数だけ、紅白の紙を敷いた華盤(銀製の二つ重ねの盃形をしている)4つの上に盛り付けられ、鶴形台(白木に胡粉を塗り、外側に松と鶴を描き、四隅に若松の造物が飾られている)に載せて婚儀の当夜、寝殿に供されます。新たに冊立された皇后が、結婚の初夜、次の夜、3日目の夜、この御餅に箸をつけることになっていることから、この名で呼ばれています。

 完成した切手の図案は、中央に御書の入った柳筥(フタを開けた状態)と鶴形台に盛られた三日夜餅を描き、それを楕円で囲んでいます。今回の番組では、鶴形台に盛られているのが“お餅”あるということがクイズの問題となりました。なお、切手の下部には、愛情のこまやかな鳥として知られる雌雄の燕が描かれ、四隅には、皇太子妃の実家・九條家の家紋にちなみ藤の花が配されています。

 さて、御婚儀が行われたのは5月10日のことでしたが、逓信省は4月28日には早くも今回ご紹介の記念切手を発売し、切手を事前PRの手段として活用しています。御婚儀の日程が公式に確定・発表したのは4月27日のことでしたが、逓信省は、それに備えて、4月中旬までには各郵便局への切手の配給を完了し、宮内省の発表後ただちに記念切手の発売を開始したのです。もちろん、各郵便局では、実物の見本を展示するなど、記念切手の発売に向けた事前の周知・宣伝が行われたことはいうまでもありません。

 発売された記念切手は、原則として、婚儀当日の5月10日以降にならなければ使用できないことになっていました。また、主要な郵便局においては、この切手を貼った郵便物専用のポストが設置され、期日前に専用ポストに投函された郵便物には、5月10日の“イ便”(第一便)の消印を押して配達しされました。現在でも、切手を貼った年賀状には年内の差出であっても1月1日の消印が押されていますが、それと同様のことを想像してもらえばよいでしょう。

 さらに、この切手は、日本統治下の台湾はもとより、朝鮮中国の各地に日本が設置していた郵便局でも大々的に売り出され、最終的に3634万枚が発行されました。日清戦争の勝利を記念する切手が4種合計で2420万枚、おなじく日露戦争の凱旋観兵式の切手が2種合計で499万枚の発行であったことを考えると、その数がいかに膨大なものであったか、お分かりいただけるものと思われます。


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 9月7日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第8回が放送予定です。今回は、1999年のパナマ運河返還を決めた新パナマ運河条約の調印(1977年9月7日)から40周年ということで、パナマにスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 月刊『茶の間』9月号
2017-09-03 Sun 12:10
 お茶と暮らしの情報カタログ・月刊『茶の間』9月号ができあがりました。同誌では「誌上展覧会 小さなアート お茶の切手」という特集があり、僕が切手の画像を提供し、文章を書いています。その中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      日本茶800年

 これは、1991年10月31日に発行された“日本茶800年”の記念切手です。

 わが国におけるお茶の歴史は、遣唐使の留学僧が唐からお茶の種子を持ち帰ったのが始まりとされており、『日本後記』には、嵯峨天皇が琵琶湖西岸の韓(唐)崎へ行幸した帰途、梵釈寺で「大僧都永忠、手自ら茶を煎じて奉御す」との記述があります。

 ただし、平安時代の茶は非常に貴重で、ごく限られた人々しか口にできず、喫茶の習慣が一般に広まることはありませんでした。

 こうした中で、1191年、後に臨済宗の開祖となる栄西は、茶の不眠覚醒作用が禅の修行に有用であることに着目し、留学先の宋から持ち帰った茶の種子を肥前と筑前の境界の背振山に蒔き、布教とともに茶の栽培にも積極的に始めます。さらに、日本に茶生産を広めるため、またその薬効を知らせるために、1211年、『喫茶養生記』を著しました。(同書には、1214年に書写し終わった再治本があるため、年表などにはこちらを採録しているケースもあります)

 今回ご紹介の切手は、栄西の活動によって日本でも喫茶の習慣が本格的に広まったことを踏まえ、栄西が帰国して茶の種子を植えた1191年を起点に、1991年を“日本茶800年”とし、これを記念するために発行されました。切手はチャノハナを画面の手前に置き、その奥に栄西ゆかりの建仁寺の所蔵品で、四頭茶会で使われる茶器のイメージを配した図案になっています。
 
 さて、『茶の間』の記事では、今回ご紹介の切手のほか、和菓子と茶筅、麦茶、茶摘みの風景、茶碗や茶壺などの焼物、街道の茶屋を描く浮世絵、茶に所縁の人物の切手なども取り上げています。機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 ケニア大統領選、やり直しに
2017-09-02 Sat 11:15
 8月8日に投票が行われたケニアの大統領選挙について、同国最高裁は、きのう(1日)、選挙管理委員会による不正があったとして、現職のウフル・ケニヤッタ大統領の再選を無効とし、再選挙を命じました。アフリカ諸国では選挙結果への不正疑惑によりしばしば混乱が生じますが、合法的に当選が無効とされるのは極めて異例のことです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ケニア・独立後最初の切手のFDC

 これは、1963年12月12日に発行されたケニアの普通切手、“ウフル・シリーズ”14種のうち、9種を貼ったエチオピア宛の初日カバーです。カバーに使われている封筒はケニア郵政が作った公式封筒の初日カバー用封筒で、“UHURU”の文字がしっかり入っているのがミソです。

 ケニアは、1963年12月12日、英連邦王国として独立しますが、これに合わせて同日、独立後最初の普通切手が発行されます。切手は、ケニアの主要産業を中心的なテーマとして、5セントから20シリングまでの14種セット構成で、印面には、スワヒリ語で“自由”を意味する“UHURU”文字が共通して入っているため、“ウフル・シリーズ”と呼ばれています。なお、ケニアの現行通貨は1966年に導入されたケニア・シリングですが、今回ご紹介の切手はケニア・シリング導入以前のもので、英領時代のケニア・ウガンダ・タンガニカ等で使用されていた東アフリカシリングの額面となっています。

 現職大統領のウフル・ケニヤッタは、“ケニア建国の父”とされるジョモ・ケニヤッタ(1963-64年は初代首相、1964-78年は初代大統領)の息子で、独立運動最中の1961年に生まれました。“ウフル”という名前もそうした時代背景を反映したものですが、結果として、独立後最初の切手には初代首相の息子の名前が入ることになりました。

 ちなみに、父親のジョモの出生時の名前はカマウ・ウェ・ンゲンギでしたが、独立運動の過程で、彼はスワヒリ語で“ケニアの光”を意味する“ケニヤッタ”姓を名乗りはじめ、息子のウフルもそれを継承しました。

 さて、ウフルは、米国留学を経て、2001年、国会議員に初当選して政界入り。当時のダニエル・アラップ・モイ政権下で地方行政担当相に任命されました。建国の父であるジョモは、すでに1978年に亡くなっていましたが、その権威は依然として絶大なものがあり、モイはウフルを自らの後継者に指名。2002年には大統領選挙にも立候補しましたが、このときは野党候補のムワイ・キバキに大差で敗れています。その後、2007年12月の大統領選ではキバキの再選を支援し、ふたたび地方行政担当相に就任。さらに、同年4月に発足した連立政権では、副首相兼貿易相として入閣。2009年1月以降は副首相兼財務相を務めていました。そして、2013年の大統領選挙で初当選を果たし、再選を目指して、ことし8月の大統領選挙に出馬していました。

 今年8月の大統領選に関して、選管は「現職のケニヤッタ候補が54%の得票で再選された」と発表しましたが、野党候補のライラ・オディンガ元首相の陣営は「選管のコンピューターがハッキングされた」などと主張して受け入れを拒否し、最高裁に提訴していました。

 今回の判決に関して、ウフル大統領は「個人的には同意できないが、尊重はする」と述べるとともに、最高裁の判事(6人)に対し「人民の意思に反した結論を出した」と強い不満を表明しました。一方、オディンガは再選挙への意欲を表明していますが、「選管を信用していない」として、選管の総入れ替えを要求しています。

 ケニアでは2007年の前々回大統領選で、結果発表後に不正への抗議デモが与野党支持者の衝突に発展し、約1200人が死亡したともいわれる惨事となりました。ちなみに、ウフルはこの事件に関して、2010年12月に国際刑事裁判所から“人道に対する罪”で告発されたため、2012年1月に財務省を辞職に追い込まれた(ただし、副首相は留任)という過去があります。このため、今回の選挙でも、2007年と同様の事態の再燃が懸念されており、ウフルの名前通り、ケニアで“自由”かつ公正な選挙が実現されるかどうか、注目したいところです。


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 石澤良昭氏にマグサイサイ賞
2017-09-01 Fri 14:51
 “アジアのノーベル賞”といわれるマグサイサイ賞の授賞式が、きのう(31日)、マニラで開かれ、カンボジアの世界遺産アンコール遺跡群の修復・保全に尽力してきた上智大の石澤良昭教授ら、個人5人と1団体に授与されました。というわけで、今日は、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      カンボジア・アンコールのアプサラス

 これは、1973年にカンボジア(当時の国号はクメール共和国)で発行された“アンコール・ワットのアプサラス像”を取り上げた切手です。アンコール遺跡関連の切手はいろいろあって何を持ってこようか迷ったのですが、今回、マグサイサイ賞を受賞した石澤教授は碑刻文研究がご専門ということですので、物語のレリーフを取り上げた1枚の中から選んでみました。

 アンコール・ワットは、12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世(在位1113-45)によって、ヒンドゥー寺院として建立されました。ちなみに、アンコールは、サンスクリットの“ナガラ(都市)”に相当するクメール語で、ワットは“寺院”を意味しています。

 寺院の境内は東西1500m、南北1300m、幅190mの濠で囲まれており、正門は西側に位置しており、伽藍は、主として砂岩とラテライトで築かれており、近隣の製鉄技術も活用されています。また、前庭の南北には経蔵と聖池があり、前庭の奥には三重の回廊に囲まれ5つの祠堂がそびえています。

 第一回廊の壁面には精緻な彫刻が施されていますが、その題材は、西面南がインド古典文学の『マハーバーラタ』および『ラーマーヤナ』の場面、南面西が施主のスーリヤヴァルマン2世の行幸風景、南面東が天国・地獄図、東面南が乳海攪拌(ヒンドゥーにおける天地創造神話)です。なお、東面北と北面には、16世紀頃のアンチェン1世の時代に彫られた、クリシュナ(ヒンドゥーの最高神の1人、ヴィシュヌの化身)が怪物バーナを討伐する場面の像があります。

 第一回廊と第二回廊の間には、かつては、信者から寄進された無数の仏像が置かれており、それゆえ“千体仏の回廊”を意味する“プリヤ・ポアン”と呼ばれていましたが、それらは、ポル・ポト政権時代に破壊されてしまいました。また、第二回廊には彫刻などはなく、ここを抜けて急勾配の石段を登って第三回廊に入る構造になっています。

 第三回廊は中央と四隅に須弥山(古代インドの神話で世界の中心とされた山)を模したトウモロコシ型の祠堂がそびえ、本堂となる中央の祠堂の高さは65m。かつて本堂にはヴィシュヌが祀られていましたが、現在は壁で埋められ4体の仏像が祀られています。また、第三回廊の壁面には、今回ご紹介の切手に見られるようなアプサラスの像が数多く施されています。
 
 アプサラスはインド神話に登場する女の水精で、もともとの意味は“水のなかで動くもの、雲の海のあいだを行くもの”です。その後、仏教を通じて中国へと伝わり、天女、天人、飛天nなどと漢訳されるにつれ水の属性は薄れ、空の属性が強調されていったと考えられています。ちなみに、拙著『切手が伝える仏像』では、今回の切手を含め、各国のアプサラスと天女・飛天の切手を並べてご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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