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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 “武装難民”の危険性
2017-09-24 Sun 21:17
 麻生太郎副総理兼財務相が、きのう(23日)、宇都宮市での講演で、北朝鮮で有事が発生すれば日本に武装難民が押し寄せる可能性に言及し「警察で対応できるか。自衛隊、防衛出動か。じゃあ射殺か。真剣に考えた方がいい」と発言したことが物議を醸しているそうです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・レヒ(1991)

 これは、1991年12月2日にイスラエルが発行した“レヒ:イスラエル解放戦士団”の顕彰切手で、タブには、レヒの創設者であるアブラハム・シュテルンの言葉「永遠に自由であるために」が記されています。後述するように、レヒは反英テロ組織ともみなしうる団体ですが、現在のイスラエル国家の歴史観では、彼らは、イスラエルの独立に貢献したレジスタンスの闘士という位置づけになっており、今回ご紹介の切手もそうした価値観に沿って発行されたものです。

 1939年5月17日、英国はパレスチナ問題に関する基本方針として「マクドナルド白書」を発表。①アラブ系住民による土地所有の保護(=ユダヤ人移民に対する土地売却の制限)、②10以内にアラブ主導のパレスチナ国家を創設し英国と同盟を結ぶ(=ユダヤ人国家の否定)、③パレスチナへのユダヤ人の新規入植を5年間で7万5000人に制限する(ただし、ヨーロッパのユダヤ人難民に対しては特別に2万5000人の移住許可を与える)、という方針を明らかにします。

 当時、パレスチナのユダヤ人口は45万人に達していたことから、英国はすでにパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”は成立したとみなしうるとの認識の下、アラブ地域の反英感情を和らげようと考えたわけですが、当然のことながら、パレスチナのユダヤ人社会はこれに激しく反発します。

 1939年9月1日、第二次大戦が勃発すると、パレスチナのユダヤ人たちの中にはマクドナルド白書への不満から、英国を含む連合諸国への戦争協力には否定的な者も少なくありませんでしたが、シオニズムの指導者であったダヴィド・ベングリオンは、連合国の戦争に協力することでユダヤ系の実力を示し、それによって、自らユダヤ国家の独立を勝ち取るべきだと考え、「ユダヤ人の敵はマクドナルド白書であって英国ではない」との声明を発表。これにより、多くのシオニストは英国への不満を抑えて、ナチス・ドイツとの戦いを優先させ、中東地域での連合国の作戦に参加することになります。

 その一方で、シオニストの間には、どうしても英国への協力を潔しとしない強硬派も存在していました。

 なかでも、アブラハム・シュテルンはマクドナルド白書と対英融和路線のシオニスト主流派に反発し、1940年、“イスラエル解放戦士団”(レヒ。ただし、この名前が正式に採用されるのは彼の死後で、当時の英当局は彼らをシュテルン・ギャング、もしくはシュテルンと呼んでいました)を組織し、英当局に対するテロ活動を展開。この結果、アブラハム自身も逮捕・投獄されています。

 さらに、1941年12月、レヒの幹部、ナタン・イェリン=モルがナチスと接触し、ドイツに協力して英国と戦う代わりに、東欧のユダヤ人の“解放”するための交渉を計画し、交渉場所のトルコへ向かう途中、シリアで身柄を拘束される事件が発生。このため、1942年2月12日、英国政府はレヒを危険視し、その頭目としてのアブラハムを暗殺しました。

 しかし、アブラハムの暗殺後も組織の壊滅には至らず、レヒは思想的指導者のイスラエル・エルダド、軍事作戦を指揮したイツハク・シャミル(後の首相)、政治的調整を担当するイェリン=モルの三頭体制で存続することになります。

 こうした中で、1941年12月12日、781人のユダヤ系難民を乗せ、ルーマニア(当時は親独政権下)のコンスタンツァ港を出港した難民船シュトルーマ号がパレスチナに入港しようとしたものの、パレスチナ当局はマクドナルド白書を理由に難民船の入港を拒否。シュトルーマ号は行き場のないまま地中海を迷走しつづけ、1942年2月、ルーマニアへ戻る途中、黒海で沈没し、760人以上の難民が亡くなりました。

 いわゆるシュトルーマ号事件です。

 この事件は、ユダヤ系社会に大きな衝撃を与え、英国の責任者にあたる植民地相のウォルター・モインは彼らの怨嗟の対象となり、1944年11月6日、レヒの活動家、エリヤフ・ベト=ズリとエリヤフ・ハキムがカイロでモインを暗殺。これを機に、英国ではシオニスト過激派への反発と不信が決定的になりました。

 さて、1945年5月、第二次大戦はドイツの敗北により終結。これに伴い、アウシュヴィッツをはじめ強制収容所の悲惨な実態が白日の下にさらされるようになると、戦勝国の大義を示すためにも、ユダヤ人犠牲者の救済は重要な課題となります。

 このため、1945年7月、米大統領のトルーマンは英国政府に対して、マクドナルド白書によるユダヤ人のパレスチナへの移住制限の解除するよう要請。さらに、同年8月には、10万人のユダヤ系難民をパレスチナに移民として受け入れるよう、英国首相アトリー宛の書簡で要請しました。

 このトルーマン書簡を契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立され、同委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を事実上撤廃する、という報告書をまとめました。

 ところが、報告書発表の直前、またしても、レヒにより英国人兵士6人が殺害されるテロ事件が発生。態度を硬化させた英国は、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示します。

 パレスチナの英当局からすれば、“難民”というだけの理由で、身元の定かではないユダヤ人を大量に流入させれば、難民に偽装したテロリストも紛れ込み、パレスチナの治安を悪化させるリスクが高まるのは当然で、パレスチナ問題調査委員会の報告書の内容は受け入れがたいものだったのです。

 しかし、第二次大戦以前、ほとんど中東と接点のなかった米国をはじめ、戦勝諸国の大半は、そうしたパレスチナの事情を全く理解しようとはしませんでした。

 否、むしろ、侵略者の独裁国家を打倒して自由と民主主義を守ったことが自分たちの戦争の大義であると主張する必要から、彼らは、ナチス・ドイツの蛮行、特に、ユダヤ人迫害とその犠牲を強調し、彼らが救い出した“かわいそうなユダヤ人”に救いの手を差し伸べなければならないと信じていました。

 かくして、ユダヤ系難民の受け入れに慎重なパレスチナ当局の姿勢は、パレスチナの現実を知らない戦勝国の善男善女から批判を浴びただけではなく、“大英帝国”の一員として英国の戦争を戦ったパレスチナのユダヤ系住民のさらなる不満を醸成。シオニスト過激派による反英闘争も激化の一途をたどることになります。

 その結果、シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国際連合に問題の解決を一任すると一方的に宣言。これが、“英委任統治領パレスチナ”の終わりの始まりとなりました。

 なお、このあたりの事情については、新刊の拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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