内藤陽介 Yosuke NAITO
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 三の酉
2017-11-30 Thu 00:17
 【謹告】 本日(30日)16:05~  NHKラジオ第1放送で放送予定だった「切手でひも解く世界の歴史」は、国会中継のため、放送が休止となりました。あしからずご了承ください。なお、次回の「切手でひも解く世界の歴史」は、12月14日の予定です。

 というわけで、きょうは三の酉でもありますし、国会議事堂と3羽の鳥の組み合わせということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      議会開設80年

 これは、1970年11月29日に発行された“議会開設80年”の記念切手です。

 1970年は、1980年11月29日に第1回帝国議会の開院式が行われてから80周年にあたっていました。

 このため、これを記念して衆参両院では記念式典が行われました。80周年といういささか半端な年回りで記念式典が行われたのは、沖縄の祖国復帰が決定されたことを受けて、1970年11月に戦後初の沖縄の国政参加選挙が行われ 、次回国会からその代表が審議に加わることを記念する意味合いも込められていたためです。

 なお、記念事業の一環として、1960年に開館した尾崎記念館の北側に憲政記念館を建設することが決定されました。憲政記念館は、1972年3月に開館し、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集して常時展示するほか、特別展などが開催されています。なお、憲政記念館の開館に伴い、尾崎記念館は同館に吸収・統合されることになりました。

 さて、当時の郵政省には、周年記念切手を発行する場合には、原則として四半世紀ごとの節目にあわせるという基準がありました。このため、80周年という年回りは、本来、記念切手発行のタイミングとはならないはずなのですが、衆参両院は、1960年に“議会開設七十年”の記念切手が発行された先例 を理由に、7月10日、郵政省に対して記念切手の発行申請を提出。郵政省にこれを呑ませています。なお、国会側は“議会開設七十周年”の時の先例に倣って、今回の記念切手も2種類発行することを希望していましたが、製造日数の関係からそれは不可能なため、一種のみの発行となりました。

 11月29日の記念式典当日に発行された切手は国会議事堂と祝賀のテープをくわえた鳩を描くもので、武荒勧嗣が原画を制作しました。発行枚数は、当初は2100万枚と発表されましたが、後に増刷されて最終的に2400万枚となっています。

 ちなみに、今回ご紹介の切手を含め、書状基本料金15円時代の記念切手については、拙著『一億層切手狂の時代』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 パレスチナ人民連帯国際デー
2017-11-29 Wed 10:23
 きょう(29日)は、ちょうど70年前の1947年11月29日に国連でパレスチナ分割決議が採択されたことにちなみ、“パレスチナ人民連帯国際デー”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ユダヤ国身評議会(地図)

 これは、イスラエル独立宣言直前の1948年5月、テルアヴィヴのユダヤ国民評議会が制作した暫定切手で、1947年のパレスチナ分割決議で定められた地図を描く義捐証紙に、ヘブライ語で“郵便”の文字が加刷されています。

 第2次大戦末期の1945年4月、ローズヴェルトの死により、急遽、米国大統領となったトルーマンは、中東地域に関して具体的な戦略的見通しを持っておらず、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしないとアラブ側に約束した前任者の方針を基本的には継承します。しかし、ナチス・ドイツの敗北により悲惨な収容所の実態を知ることになった彼は、ユダヤ人犠牲者の救済という視点から、パレスチナにユダヤ国家の建設を目指すシオニストに同情的な姿勢をとるようになっていきます。

 このため、1945年7月、トルーマンは英国政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住制限を解除するよう要請。さらに、同年8月には、パレスチナが10万人のユダヤ系難民を移民として受け入れるよう、アトリー(英首相)宛の書簡で求めています。

 これを契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立され、委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を撤廃する、との報告書をまとめます。しかし、報告書発表の直前、シオニスト過激派により英軍兵士6人が殺害されるというテロ事件が発生。態度を硬化させたイギリスは、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示しますが、このことは、イギリスの対応に不満を持つシオニストたちの反英闘争をより激化させる結果をもたらしました。

 シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国連に問題の解決を一任すると一方的に宣言います。これを受けて、5月に設立された国連パレスチナ問題特別委員会は、パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くというパレスチナ分割案を多数派意見として発表。同案は、同年11月29日、国連決議第181号(パレスチナ分割決議)として採択されました。ちなみに、今回ご紹介の切手の地図では、分割決議が規定したユダヤ国家の領域が濃色、アラブ国家の領域が淡色で塗り分けられています。

 しかし、パレスチナ分割決議は、当時、全体の1割の土地を所有していたに過ぎないユダヤ系住民に対して、東地中海の肥沃な農耕地を含むパレスチナ全土の過半数が与えられるというもので、アラブ系住民にとっては承服しがたいものでした。しかも、この分割案の作成に際しては、当事者であるパレスチナのアラブ住民の代表が意見を求められることもありませんでした。

 この結果、アラブ地域では、国連決議が採択された11月29日は“服喪と圧政の日”とされ、第2次大戦中は比較的収まっていたパレスチナ全土で反シオニストの武装闘争が再燃。アラブ住民とシオニストとの間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナ全土は事実上の内戦の突入していきます。

 これに対して、パレスチナの治安に責任を負うべきはずの英国は、英軍兵士や警官の死傷があいついだことを理由に、1947年12月、先の国連決議で決められた8月1日という日程を2ヵ月半も繰り上げ、1948年5月15日をもってパレスチナから撤退すると発表。委任統治国としての責任を放棄し、みずからの中東政策の失敗が招いた混乱を放置してパレスチナから逃げ出すのです。

 事実上の内戦に突入したパレスチナでは、1948年3月、国連のパレスチナ分割決議を受けて、シオニストたちがテルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立。新国家樹立に向けての具体的なスタートを切り、英国撤退の軍事的空白を利用して、1948年5月のイスラエル建国に向けて、準備を進めていきました。

 その一環として、英国撤退直前の1948年5月に入ると、ユダヤ国民評議会は、テルアヴィヴ、ハイファエルサレムの各郵便局でユダヤ国民基金の義捐証紙などにヘブライ語で“郵便”を示す加刷したものを臨時の切手として発行し、自らの支配地域内における郵便物に貼付させるようになります。こうした暫定切手は、5月3日(1日説もある)からイギリスの委任統治が終了する同月14日(一部では15日)まで発売され、イスラエル建国宣言後の同月22日まで有効とされています。また、これらの切手は、ユダヤ人地区(間)においてのみ有効で外国郵便には無効でした。

 なお、イスラエル独立宣言前後の混乱した状況と郵便の関係については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は30日!★★

 11月30日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、12月1日に予定されているパレスチナの西岸地区とガザ地区の統治一元化にちなんで、ガザ地区の歴史についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 切手に見るソウルと韓国:自由の家(板門店)
2017-11-28 Tue 15:35
 『東洋経済日報』11月17日号が発行されました。月一で同紙に僕が連載している「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、北朝鮮兵士が板門店で越境した直後の号でしたので、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・自由の家(板門店)

 これは、1966年2月15日に発行された“自由の家(板門店)”の切手です。切手に取り上げられた旧“自由の家”は、切手発行の前年(1965年)に完成。伝統建築風の壁や展望台が印象的な外観でしたが、老朽化のため、1998年7月9日、現在の建物に建て替えられました。

 1950年6月25日に始まった朝鮮戦争の休戦交渉は、1951年7月10日から開城で休戦交渉が開始されました。

 当初、国連軍側は、交渉は1ヵ月程度で妥結するものと楽観視していましたが、会談は議題の設定をめぐって最初から難航。①議題の採択、②非武装地帯の設定と軍事境界線の確定、③停戦と休戦のための具体的取り決め、④捕虜に対する取り決め、⑤双方の関係各国政府に対する通告、という5項目を議題とすることが決定されたのは7月26日のことでした。

 その後も、軍事境界線は、現在の勢力圏の北側にすべきとする国連側と、あくまでも38度線にすべきとする共産側との溝は埋まらず、交渉はただちに暗礁に乗り上げます。そして、8月22日、共産側は、国連軍機による開城上空の侵犯を理由に会談の打ち切りを通告しました。

 その後、2ヶ月半の中断の後、会談は再開されるが、その際、会談場所として選ばれたのが板門店でした。

 板門店は、ソウルと新義州(朝鮮半島北西部の中朝国境の都市)を結ぶ京義街道の一寒村で、北緯38度線の南方5キロ、北朝鮮・開城市の東方9キロの地点、現在の休戦ライン上の西端に位置しています。ちなみに、ソウルからは北西に62キロ、平壤からは南方に215キロ、それぞれ離れています。

 休戦会談が行われるようになった当初、この地は、パンムンジョムではなく、ノルムンリ(板門里)と呼ばれていました。当初の会談場所は、現在、テレビなどでおなじみの“板門店”と呼ばれている場所から約1キロ北側で、周辺には、草屋4棟の他は、会談場として使われたプレハブ2棟、簡易式の宿舎3棟しかなかったそうです。

 その後、会談場が現在の地点に移された際、この会談に参加する中国の代表の便宜をはかり、会談場近くの雑貨店を漢字で「板門店」と表記したことから、この名が定着しました。

 さて、10月25日に板門店で再開された休戦会談は、紆余曲折の末、11月27日になって「現在の接触線を基にする」との国連側の主張に沿って、「議題の採択」に次ぐ第2の議題(実質的な第1議題)であった「非武装地帯の設定と軍事境界線の確定」の問題が妥結。しかし、その後も、第3の議題であった「停戦と休戦のための具体的取り決め」や第4の議題であった「捕虜に対する取り決め」などをめぐって会談は紛糾が続き、延々、1076回にも及ぶ会談の末、板門店の休戦会談本会議場において、国連軍首席代表のハリソンと朝鮮人民軍(朝鮮人民軍)代表の南日との間で休戦協定が調印されたのは、1953年7月27日のことでした。

 休戦協定の調印後、板門店内には、同年10月以降、“中立国監視委員会”と“軍事停戦委員会”の本会議場が設置され、停戦協定遵守の監視を行うことになりました。なお、軍事停戦委員会の本会議場は韓国(国連)側、中立国監視委員会は北朝鮮側の施設となっています。

 中立国監視委員会は、スイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4ヵ国で構成されていました。このうち、チェコスロバキアとポーランドは(少なくとも形式的には)朝鮮戦争に関しては中立という立場を取っていましたが、1955年にワルシャワ条約機構に加盟したため、名実ともに中立国ではなくなりました。なお、両国の共産主義政権は1989年の革命で崩壊しましたが、いずれも1999年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟したため、再び“中立国”ではなくなり、さらに、現在では両国とも委員会そのものから脱退。現在の委員会メンバーはスイスとスウェーデンだけになっています。

 板門店は、現在でも、南北間唯一の公式の接点として、南北間の軍事連絡特別委員会や南北赤十字会談所が置かれています。また、北朝鮮側には「板門閣」が、韓国側には「自由の家」が、それぞれ設置され、各種の南北会談に用いられているだけでなく、報道関係者や観光客(原則として団体のみ)が訪れています。

 ちなみに、板門店経由での北朝鮮兵士の亡命は、1998年2月と2007年9月に発生しているが、JSA(共同警戒区域)で「銃声」が響いたのは1984年11月、北朝鮮の板門店観光ツアーに訪れていたソ連人大学生が軍事境界線を越えて韓国領内に闖入したのを機に、南北双方で銃撃戦になって以来、33年ぶりのことでした。

 なお、 朝鮮戦争と板門店については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 バリ島アグン山の噴火
2017-11-27 Mon 09:12
 今月21日、インドネシア・バリ島のアグン山が、1963年以来、54年ぶりに噴火。当初の噴火は小規模でしたが、25日から26日にかけて断続的な噴火が発生し、26日早朝の噴火では山頂から3000-4000mの高さまで噴煙が立ち上がり、その影響で、同日午後、ロンボク島の空港が閉鎖されたほか、バリ島南部、デンパサールの国際空港も、きょう(27日)、閉鎖されました。きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・アグン山噴火(1963)

 これは、1963年6月29日、前回のアグン山噴火に際して、被災者救援のために発行された寄附金つき切手で、噴火するアグン山が描かれています。

 アグン山はバリ島北東部に位置する成層火山で、標高は3014メートル。バリ島では古くから聖なる山とされており、バリ・ヒンドゥーの総本山とされるブサキ寺院が同山の中腹にあるほか、周囲には多くのバリ・ヒンドゥーの寺院があります。

 1800年以降の噴火は、1808年、1821年、1843年、1963年、2017年の5回ありますが、このうち、1963年の噴火は20世紀の世界最大規模の噴火の一つとされています。すなわち、同年2月18日に最初の噴火が発生してから26日間にわたり、塊状溶岩が7.5kmにわたって流下。3月17日の爆発では推定海抜19-26kmの高さの噴煙柱が発生したほか、5月16日の爆発でも20kmの高さの噴煙柱が発生しています。以後、1964年1月27日まで断続的な噴火が発生し、火砕流とラハールにより、死者1148名、負傷者296名が出たほか、噴煙と火山灰の影響で北半球の平均気温を0.5度近くも低下させました。

 アグン山では、今年8月以降、火山活動が活発化していたことから、9月22日、インドネシア当局は警戒レベルを最高位に引き上げ、半径6~7・5キロkmの住民約2万5000人が退避勧告に基づき避難していました。

 僕にとっては、バリ島は新婚旅行で訪ねた場所ですし、ロンボク島も日本占領時代の太陽加刷切手の故地として現地を訪ね、そのいきさつを拙著『蘭印戦跡紀行』の一章としてまとめたことがあり、どちらも、思い出深い場所です。それだけに、ともかくも、今後、噴火が無事に収束していくことを望むばかりです。
 

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 花蓮で日本時代の建築が復元・供用開始
2017-11-26 Sun 12:18
 台湾東部・花蓮県の豊裏小学校で、日本統治時代に建てられた講堂(ことし8月に復元工事が完成。日本統治時代は、武道館=剣道の稽古場として使用)の供用開始を祝うセレモニーが、昨日(25日)、行われました。というわけで、きょうは、日本統治時代の花蓮に関連して、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      台湾・花蓮港風景印

 これは、日本統治時代の台湾・花蓮港で使われた風景印のオンピースです。

 台湾東部中央に位置する花蓮は、もともと“奇莱”と呼ばれていた土地で、1622年、この地に来航したスペイン人は砂金の採取を行い、ここを多羅満と呼んでいたとの記録が残されています。もともとは先住民のアミ族の居住地で、漢人がはじめて入植したのは1851年のことでした。

 日本統治時代の1909年、台湾総督府は現在の花蓮県に相当する地域に花蓮港庁を設置。花蓮港庁の地域は、その大部分を山岳地帯が占めており、当時、外部から庁内沿岸部にある市街地への交通は、事実上、海路に限られていたため、地名も花蓮“港”とされています。その後、日本人の入植が本格的に始まり、花蓮にも移民村が形成されると、1913年には、今回のニュースで取り上げられた豊裏小学校の前身として、日本人入植者の子弟を対象に、花蓮港庁豊田尋常高等小学校が開校しました。

 現在の花蓮県の県政府所在地となっている花蓮市は、1920年、花蓮港庁花蓮港支庁花蓮港街として再編されました。また、1932年には、宜蘭県蘇澳鎮から太魯閣などを経て花蓮港街にいたる蘇花公路が開通し、ようやく、陸路での外部との交通が可能となりました。なお、行政上は、花蓮港街は1940年の市制施行により花蓮港市となり、中国国民政府による接収後の1946年、花蓮市と改称されて現在に至っています。

 今回、復元されて供用開始となった旧武道館は、第二次大戦後は講堂として使われ続け、古い校舎が次々と建て替えられる中、ただ一つ当時の名残をとどめた建物として、2009年には、花蓮県の歴史建築に指定されていました。ちなみに、文化資産となった学校建築は、台湾東部ではここだけだそうです。

 日本国内でさえ、戦前の建物が消えつつある中で、台湾の人々が日本統治時代の遺産を大切に受け継いでくれているのは、本当にありがたいことですね。


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 シナイ半島で235人死亡のテロ
2017-11-25 Sat 15:21
 エジプト北東部、シナイ半島北部アリーシュ近郊で、きのう(24日)、イスラム武装勢力が爆弾と銃でモスクを襲撃。この記事を書いている時点で235人が死亡し、109人以上が負傷しました。エジプトでのイスラム武装勢力による襲撃事件としては過去最悪規模の被害だそうです。というわけで、亡くなられた方の御冥福と、負傷された方の一日も早い御快癒をお祈りしつつ、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・シナイ半島返還

 これは、1982年にエジプトで発行された“シナイ半島解放”の記念切手で、半島の地図にハトとオリーブが描かれています。

 シナイ半島は、16世紀以降、ながらくオスマン帝国の支配下にありましたが、1805年に成立したエジプトのムハンマド・アリー朝は1840年までに半島を実効支配下に置き、その後は、エジプトの領有権が確立されました。

 1956年の第二次中東戦争に際しては、イスラエル軍により一時的に占領されましたが、戦後はエジプトに返還されます。しかし、1967年の第三次中東戦争で再びイスラエルに占領されました。

 このため、1970年にナセルの死を受けて政権を継承したサダトは、シナイ半島奪還を目指して、シリア大統領ハーフィズ・アサドとも連携をとりながら、対イスラエル戦争のプランを練り始めます。

 戦争計画の策定にあたっては、サダトとアサドは、戦争の長期化は絶対に避けるとの前提の下、イスラエルに軍事的な大打撃を与えることで、大国による和平の仲介を引き出すという基本方針を確認。このため、戦争計画は、緒戦の電撃的な侵攻作戦に重点が置かれ、スエズ運河の潮流や月齢などを考慮した結果、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キップール)でイスラエル軍の態勢が手薄になる1973年10月6日が開戦予定日として設定されました。

 かくして、1973年10月6日、エジプト・シリア連合軍によるイスラエルの奇襲攻撃によって、第四次中東戦争の火ぶたが切って落とされます

 開戦当初の3日間、エジプト軍はイスラエルに対する大規模攻撃を展開し、スエズ運河を渡河して、イスラエルの航空機五十機と戦車550両を撃破するという華々しい戦果を挙げました。このうち、スエズ運河渡河作戦の成功は、イスラエルに対するアラブ最初の勝利として大々的に喧伝され、サダトは「渡河作戦の最高指揮官=イスラエル軍不敗神話を破ったアラブの英雄」として、その権威は絶大なものとなります。

 一方、イスラエル=シリア国境のゴラン高原では、シリア軍が快進撃を続け、アラブに対するイスラエルの不敗神話は崩壊しました。

 もっとも、エジプト・シリア両軍の優勢は長続きしませんでした。はやくも10月11日にはイスラエルはゴラン高原での大反攻を開始し、シリア領内に突入。さらに、シナイ半島方面でも、同16日にはスエズ運河の逆渡河に成功してエジプト領内に進攻し、形勢は逆転します。

 ところが、翌17日、アラブ産油国10ヶ国が米国とイスラエル支援国に対する原油輸出の5パーセント削減を発表すると同時に、同6ヶ国が原油価格の21パーセント引き上げを決定。さらに、イスラエル軍が1967年の第3次中東戦争以前の境界線まで撤退しない限り、以後、毎月5パーセントずつ原油生産を削減すると発表しました。いわゆる(第一次)石油危機の発生です。

 10月20日、サウジアラビアが米国に対する石油の全面的な輸出禁止を発表すると、イラクをのぞくアラブ産油国の全てがこれに同調。アラブ諸国から米国とオランダ(米国のイスラエル軍事援助に際して国内の空軍基地使用を許可したことから、アラブ諸国から「敵」と認定されていました)への石油の輸出が全面的に停止されました。アラブ諸国の強硬姿勢に接してパニックに陥った西側諸国は、自国の経済を防衛するため、イスラエルとの友好関係を見直すようになります。

 ところで、戦況が次第にイスラエル有利に傾いていくと、ソ連はエジプト(サダトによる軍事顧問団の追放後もソ連はエジプト領内の基地使用権を保有していました)とシリアが第三次中東戦争に続いて大敗することで、中東におけるパワーバランスが大きく崩れることを懸念し、米国と協議を開始。ソ連がエジプトとシリアに対して、米国がイスラエルに対して、それぞれ、早期の停戦を受け入れるよう、強く説得しました。

 これに対して、イスラエル敗北の既成事実を作った上で停戦協定を結び、シナイ半島を奪還することを(本音の)戦争目的としていたサダトも、緒戦の優位が失われていたことから、停戦の受け入れに前向きな姿勢を示します。一方、戦況が好転しつつある中での停戦受諾はイスラエルにとっては不満の残るものではあったが、米国はなんとかイスラエルの説得に成功しました。

 こうして、10月22日の国連安保理において、関係諸国に対する停戦決議(決議第338号)が採択され、同25日、停戦が成立します。

 第四次中東戦争の停戦の成立を受けて、1973年12月22日、米ソ両国の主導によりジュネーヴで中東和平会議が開催されました。

 会議の席上、米国務長官キッシンジャーはスエズ運河周辺とゴラン高原でアラブ、イスラエル両軍の兵力を引き離すための協定締結に向けて合同委員会を設置することを提案。これを受けて、1974年1月18日、①40日以内に、イスラエルがスエズ西岸の橋頭堡を放棄し、スエズ東岸で運河から約20マイル撤兵する、②エジプトは東岸に一定の兵力を維持する、③両軍の間を国連の休戦監視軍がパトロールする、というシナイ半島の兵力分離協定が調印されました。

 シナイ半島奪還という目標が外交努力によって徐々に達成されつつあるのを確認したサダトは、イスラエルに対する融和的な姿勢を強め、1975年9月にはシナイ半島での第二次兵力分離協定を調印。さらに、1977年11月、サダトは、ついに、アラブ国家の元首としてはじめてイスラエルを公式訪問し、イスラエル国会で演説し、イスラエルとの単独和平を目指す姿勢を明らかにします。これを受けて、同年12月、返礼のため、イスラエル首相のベギンもカイロを訪問し、エジプト=イスラエル間の関係は急速に改善されていきました。

 このように、第四次中東戦争停戦後、サダトが展開してきた一連の対イスラエル外交は、関係国との個別交渉を通じて問題の解決を図ろうとするイスラエルの方針に沿ったもので、イスラエルの存在そのものを容認しないという“アラブの大義”に照らして絶対に許容されえないものでした。このため、サダトはアラブ諸国から激しい非難を浴び、シリア、アルジェリア、リビア、南イエメン、リビアがエジプトと断交します。

 そして、1978年9月17日、いわゆるキャンプ・デイヴィッド合意が成立。この合意では、シナイ半島の返還に関してはエジプトの主張が大幅に認められており、両国間の平和条約調印も定めていましたが、ヨルダン川西岸とガザ地区のイスラエル占領地に関しては「パレスチナ人の統治について協議を開始する」とされたものの、実質的に、イスラエル軍の駐留継続を追認する内容となっていました。

 このため、キャンプ・デイヴィッド合意は、自国の利益のためにパレスチナをイスラエルに売り渡したものとして、エジプトを除く全アラブ諸国から激しく非難され、エジプトは周辺諸国から完全に孤立。1981年10月6日、サダトは、“第6回1973年10月の勝利記念パレード”を閲兵中、イスラム原理主義組織“ジハード団”のメンバーだったハリド・イスランブーリーによって暗殺されました。

 一方、シナイ半島はキャンプ・デイヴィッド合意の後、1982年までに、数段階を経て、エジプトに返還されています。

 エジプトへの返還後のシナイ半島は、軍事的な要地ではあるものの、経済開発や住民のための行政サービスは不十分なままの状態が続いています。このため、治安状況も不安定で、2004年にタバ、2005年にシャルム・シェイク、2006年にダハブで外国人観光客を狙った爆破事件が発生。2011年の革命の後はさらに治安が悪化し、過激派組織が、天然ガスのパイプラインの破壊、イスラエルに対する越境攻撃、エジプト軍と警察に対する襲撃といった武装闘争を展開しています。 

 なお、シナイ半島奪還をめぐるサダトの動きについては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は30日!★★

 11月30日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、12月1日に予定されているパレスチナの西岸地区とガザ地区の統治一元化にちなんで、ガザ地区の歴史についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 世界の切手:サウジアラビア
2017-11-24 Fri 11:05
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年11月15日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はサウジアラビア(と一部ニカラグア)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      サウジアラビア・建軍80年

 これは、1980年4月5日に発行された“建軍80年”の記念切手で、サウジアラビア国旗を背景にした馬上のイブン・サウードが描かれています。

 サウジアラビア王国の初代国王、アブドゥルアズィーズ・ブン・アブドゥッラフマーン・ブン・ファイサル・アール・サウード(以下、イブン・サウード)は、1876年に生まれました。

 19世紀初頭、アラビア半島の大半を支配していたサウード家ですが、その後、オスマン帝国とエジプトの介入を受けて衰退し、イブン・サウードが生まれた時には、その領域はリヤド周辺のみになっていました。さらに、サウード家はラシード家との権力闘争に敗れ、1891年、放浪の末にクウェートに亡命します。

 こうした中で、1901年、イブン・サウードは、クウェートの大首長ムバーラク・ブン・サバーハ・サバーハとジャバル・シャンマル王国のラシード家との戦いに参加。別働隊としてリヤド攻略を担当するも、本隊が大敗したため、リヤドの奪還は成りませんでした。

 次いで、1902年、22歳のときに40人の兵力でマスマク城に居を構えていたアジュラーン総督を討ち取り、リヤドを奪還。ナジュド(アラビア半島中央部)のスルターンとしての地位を確立しました。現在のサウジアラビアは、これをもって国軍の始まりとしており、今回ご紹介の切手もここから起算して、ヒジュラ暦(完全太陰暦のため、1年は約354日)で80年になるのを記念して発行されたものです。なお、当時は、まだ“サウジアラビア王国”は発足しておらず、当然、サウジアラビア国旗も存在していません。

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、英国に協力。しかし、英国側は、インド総督府がサウード家をしたものの、大勢はハーシム家のヒジャーズ政府を支援しており、サウード家の勢力拡大には否定的でした。

 英国との実力差を十分に認識していたイブン・サウードは英国との直接対決は避け、1921年、まずは、サウード家の勢力拡大の障碍となっていたクウェートのラシード家を打倒。さらに、1924年、ハーシム家のシャリーフ・フサインが“カリフ”を僭称し、イスラム世界で孤立すると、その機会を狙って、同年8月、軍を率いてヒジャーズに侵攻します。これに対して、ヒジャーズ側は敗退を重ね、翌1925年12月には、最後まで残っていたメディナとジェッダが相次いで陥落し、イブン・サウードはヒジャーズをも支配下に収め、1926年1月8日、ヒジャーズ主要都市の有力者の推戴という形式を取って“ヒジャーズ王”として即位し、「ヒジャーズの王にしてナジュドとその属領のスルタン」となりました。

 その後、1927年、イブン・サウードは英国とジッダ条約を結び、ナジュドの独立を認めさせたうえで、1931年にはヒジャーズ・ナジュド王国の建国を宣言して、自らマリク(王)となります。そして、翌1932年、国号をサウジアラビア王国に変更し、そのまま、その初代国王となり、1953年に亡くなるまで、王国の基礎を築くことに尽力しました。

 さて、『世界の切手コレクション』11月15日号の「世界の国々」では、オスマン帝国支配時代からサウジアラビア建国までの歴史をまとめた長文コラムのほか、預言者のモスクメッカ巡礼民族衣装の女性の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のサウジアラビアの次は、22日発売の11月29日号での中国(清朝)の特集になります。こちらについては、発行日の29日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 11月30日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、12月1日に予定されているパレスチナの西岸地区とガザ地区の統治一元化にちなんで、ガザ地区の歴史についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 勤労感謝の日
2017-11-23 Thu 10:56
 きょう(23日)は勤労感謝の日(もともとは収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する新嘗祭)です。というわけで、農家の方々に感謝して、“収穫”を取り上げた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・バアス党23年

 これは、1970年4月7日、イラクが発行した“バアス党創設23周年”の記念切手で、バアス党の理念である汎アラブ旗(パレスチナの旗と同じ)を持つ軍人を先頭に、工員や鎌と収穫された麦の穂を持つ農民などが描かれています。

 バアス党の党名は、日本語に訳すと、アラブ社会主義復興党となります。“アラブ社会主義”は、きわめて単純化してしまえば、金融を含む重要産業の国有化と計画経済による開発独裁体制のことで、いわゆるマルクス・レーニン主義のように、宗教を“民衆のアヘン”として排斥するものではありません。このアラブ社会主義と、アラブ世界における既存の国境を解体してアラブの再統合を図るというアラブ民族主義が、バアス党の基本綱領として掲げられています。

 バアス党のルーツは20世紀初頭にも遡るとされることもありますが、制度的には、1940年12月、シリアの民族主義者(宗教的にはアラウィ―派)のザキー・アルスィーズィーらがダマスカスで秘密結社として組織した“アラブ・バアス党”がその源流となっています。

 シリア独立後の1947年4月7日、同党は、ミシェル・アフラクとサラーフッディーン・ビータールらを中心に結党大会を開いて公然組織となり、以後、シリアを本部として、イラク、レバノン、ヨルダン、イエメンに支部を拡大していきます。党名が現在のアラブ社会主義バアス党となったのは、1953年にアラブ社会党と合併してからのことです。

 1958年にエジプトとシリアの合邦により発足したアラブ連合共和国は、1961年、シリアの離反によって破綻。その後もナセルは“アラブ連合”の大義名分を放棄せず、アラブ諸国の再統合を水面下で模索し続けましたが、その際、自分に代わって各国のバアス党が連携して国家統合を進めることには警戒感を抱いていた。

 こうした背景の下、イラクでは、1963年2月にバアス党も加わったラマダーン革命が発生。しかし、革命後の同年11月、非バアス党員でナセル主義者のアブドゥッサラーム・アーリフはバアス党を政権から追放し、革命の果実を独占します。

 アブドッゥサラーム・アーリフは、1966年4月13日の飛行機事故で亡くなり、その後は、アブドゥッラフマーン・バッザースによる3日間の暫定大統領を経て、アブドゥッサラームの兄、アブドゥッラフマーン・アーリフが大統領職を継承しました。アーリフ兄弟はいずれもエジプトとの連携を強化し、1967年の第三次中東戦争にも参戦したが、結果として敗北。翌1968年のバアス党のクーデターでアブドゥッラフマーンは失脚し、トルコへ亡命しました。

 ところで、イラクがアーリフ政権下にあった1966年、シリアでは大統領のアミーン・ハーフィズに対して、ハーフィズ・アサドとサラーフ・ジャディードがクーデターを起こし、バアス党内の実験を掌握します。これに伴い、バアス党の創設者の一人にして、その代表的なイデオローグであり、クーデター発生時のシリア・バアス党の委員長だったミシェル・アフラクが失脚しました。

 この結果、アフラクの権威を否定するシリア・バアス党と、従来通り、アフラクをバアス党の理論的支柱とみなすイラク・バアス党の間で対立が生じました。

 1966年のシリアでのクーデター直後、ダマスカスで開催された第9回バース党大会でアフラクとその支持者が追放されると、これを受けて、当時、アーリフ政権下で下野していたイラク・バアス党は直ちにベイルートで“真の”第9回党大会を開き、アフラクを民族指導部事務総長として迎え入れます。以後、アラブ世界各地のバアス党運動はシリア派とイラク派に分裂し、両者は対立するようになりました。

 こうした経緯を経て、1968年、イラクでバクルひきいるイラク・バアス党政権が成立。同政権は、1970年4月7日、今回ご紹介の切手を発行し、アフラクを迎えた自分たちこそがバアス党の本流であることを誇示しようとしたわけです。

 すなわち、この切手は1947年、アフラクも参加してダマスカスで行われたバアス党結党大会から起算して“23周年”になるのを記念して発行されたもので、「社会主義」「自由」「統一」というバアス党のスローガンが掲げられ、アラブの連帯の象徴としてパレスチナの地図と岩のドームも描かれています。その一方で、“シリア”をイメージさせる要素は一切なく、あたかも、イラク・バアス党が1947年以来、バアス党運動の中軸を担ってきたかのような印象操作が行われています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


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 ムガベ大統領、辞任
2017-11-22 Wed 02:46
 1980年の独立以来、37年間にわたってジンバブエのジエンを握り続けてきたロバート・ムガベ大統領が、きのう(21日)、辞任しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジンバブエ・独立10周年

 これは、1990年にジンバブエで発行された“独立10周年”の記念切手で、左側のグレーのスーツ姿の人物がムガベです。

 ロバート・ムガベは、1924年2月21日、英領南ローデシアの西マショナランド州ジンバ郡で生まれました。カトリック教徒として育てられ、17歳で教員資格を取得。1951年に南アフリカのフォート・ヘア大学文学部を卒業したほか、南アフリカ大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス等で学び、1958年、ガーナのアクラで師範学校に勤務しました。

 1960年、南ローデシアに帰国後はマルクス主義に傾倒。ジョシュア・ンコモ率いる国民民主党(NDP。後にジンバブエ・アフリカ人民同盟:ZAPU)に参加しましたが、1963年に同党を離党し、同党と対立関係にあったジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)に参加し、書記長に任命されました。

 一方、1960年代に入って黒人の独立運動が激しくなると、1965年、現地の植民地政府は白人中心のローデシア共和国として独立を宣言し、南アフリカ共和国のアパルトヘイトにならった人種差別政策を展開。この間の1964年、ムガベは、ンコモらとともに逮捕、拘留され、10年間されました。

 1974年、刑期を満了して釈放されたムガベはモザンビークに出国し、中国の軍事支援を受けジンバブエ・アフリカ民族解放軍(ZANLA)を結成してローデシア政府軍と武装闘争を展開。1978年3月3日、スミス白人政権と、アベル・ムゾレワ司教、シトレら黒人穏健派指導者は、ソールズベリーの総督官邸で停戦協定が調印されます。その結果、暫定国家“ジンバブエ・ローデシア”を経て、1980年、英国の調停により、ローデシア共和国を解消したうえで、あらためて独立国家ジンバブエが誕生しました。初代大統領はカナーン・バナナ、首相はロバート・ムガベです。

 首相に就任したムガベは、当初、黒人と白人の共存した国づくりを訴え、白人の土地を黒人に分け与える農地改革の実施も凍結。イアン・スミス元首相ら旧政権の白人指導者も逮捕されず、教育や医療に資金を充てたことで低い乳児死亡率とアフリカ最高の識字率を達成し、経済運営も順調でした。白人社会との融和政策は「アフリカでの黒人による国家建設のモデル」と称賛され、経済運営の成功とも相まって、当時のムガベ政権は“ジンバブエの奇跡”と絶賛されていました。また、現在となっては信じられないことですが、独立当初のジンバブエ・ドル(ZWD)の対外レートは、米ドル1に対してZWD0・68と、ZWDの方が米ドルよりも価値が高かったほどです。

 ところが、1987年末、大統領に就任したムガベは次第に独裁傾向を強め、徐々に教育や医療の予算は削られ、一族による国費の濫費が目立つようになります。はたして、1990年には17%(年率。以下同)だったインフレ率は、1991年には一挙に48%にまで急上昇。その後、1993-97年には、インフレ率はおおむね20%で落ち着きますが、1998年には再び48%を記録。1999-2000年には50%台となりました。

 その背景には、1998年に勃発したコンゴ内戦がありました。1999年、ムガベは、コンゴ国内に一族の名義で所有していたダイヤモンド鉱山を守るとともに、コンゴでの新たな資源獲得を目指して、大規模な兵力を派遣しましたが、経済状況が悪化する中での大義なき戦争は、当然のことながら、国民の怨嗟の的になります。

 このため、対応を迫られたムガベは、2000年8月、白人の所有していた大農場を強制的に接収し、協同農場で働く黒人農民に分配し始めました。いわゆる“ファスト・トラック”政策です。この結果、白人の持っていた農業技術や農場経営のノウハウが失われ、ジンバブエの農業は壊滅状態に陥り、食糧危機が発生しました。インフレは加速され、2001年にはついにインフレ率132%を記録。以後、ZWDの価値はつるべ落としのごとく急落し、2004年にはインフレ率624%に到達します。

 国家経済の破綻に直面したジンバブエ準備銀行(中央銀行)は、2006年8月、1000旧ZWDを1第2ZWDとするデノミネーション(デノミ)を断行。米ドルに対する交換レートも1米ドル=101第2ZWDへと切り下げ、事実上の預金封鎖や暴力による交換の阻止などを行って、マネー・サプライの22%に相当する数十兆の旧ZWDを第2ZWDに交換させずに紙屑とするという荒療治に打って出ます。ちなみに、資産防衛の必要に迫られた人々が、手持ちの旧ZWDを使いきるために証券を買いあさったため、ジンバブエ証券取引所の株価指数は、2006年6月から2007年6月までの1年間で株価が3万9000%上昇するという異常なバブルとなりました。

 しかし、こうした荒療治を持ってしても、政府の根本的な経済政策が改まらない以上、物価は沈静化せず、2006年のインフレ率は1281%を記録。苛立つジンバブエ準備銀行は、インフレーションを“違法”と宣言。生活必需品の値上げが法律によって禁止され、製品を値上げしたとの理由で会社経営者が逮捕されるという前代未聞の出来事まで起こっています。もはや、ジンバブエにまともな経済政策が存在しなくなったことは誰の目にも明らかになり、2007年のインフレ率は6万6212%にまで跳ね上がりました。

 このため、2008年8月1日、100億第2ZWDを1第3ZWDとする再デノミが行われましたが、インフレはとどまるところを知らず、2008年のインフレ率は35万5000%を記録。日本でも話題となった100兆ZWD紙幣の登場は、この第3ZWDの時期のことです。

 その後、2009年2月2日には1兆第3ZWDを1第4ZWDとするデノミが行われましたが、第4ZWDの寿命も長くはないものと予想されたため、第4ZWDの導入に先立ち、ジンバブエ政府は、米ドルおよび南アフリカ・ランドでの国内決済を可能とし、公務員の2月分の給与を米ドルで支払いました。ついに、政府が自ら自国通貨での支払いをストップしたのです。

 以後、ジンバブエのハイパー・インフレは急速に終息。ムガベ政権はインフレを終息させた“実績”を口実に独裁傾向を一層強め、反対派を弾圧して権力の座に居座り続けました。

 ところが、2016年12月17日、与党ZANUは2018年に予定される大統領選挙の候補者としてムガベを指名した頃から、後継者問題が真剣に議論されるようになります。というのも、2018年の大統領選挙でムガベが7選を達成し、その任期を満了すると、彼は100歳近くまで在職することになるからです。

 ムガベ本人は90歳を超えても後継者の指名や、自身の退任に関して言及することを避けてきたものの、グレース・マルフ夫人(ムガベは、最初の妻・サリーとの死別後、1996年に再婚。ムガベの41歳年下)と、軍の支持を得るエマーソン・ムナンガグワ副大統領の間で後継争いが激化します。そして、2017年11月6日、グレースを後継者としたいムガベがムナンガグワを第1副大統領から解任したことで国軍が反旗を翻し、事実上のクーデターを敢行して国家権力を掌握。ムガベは自宅軟禁下に置かれました。

 当初、ムガベは2018年の大統領選挙より前の辞任を拒否していましたが、11月19日、与党ZANU-PFはムガベを党首の座から解任。21日には、議会ではムガベがグレース夫人に権力奪取を許したことを理由に弾劾手続きを開始したことから、同日、ムガベは辞表を提出し、37年間の超長期政権にも、ようやく幕が下りることになりました。


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 路氹 (コタイ)が海だった頃
2017-11-21 Tue 18:47
 きのう(20日)、澳門・路氹 (コタイ)地区にある世界最大のカジノ・リゾート、“澳門威尼斯人渡假村酒店(ザ・ヴェネチアン・マカオ、以下、ヴェネチアン)”で開業10周年祝賀セレモニーが行われました。というわけで、きょうは路氹 地区に関連して、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      澳門地図(1956)

 これは、1956年、ポルトガル領時代のマカオで発行された地図切手で、当時の“マカオ地図”として、一番北のマカオ半島の南側に氹仔(タイパ)島と路環(コロアネ)島の2島が描かれています。

 マカオ半島の南2.5キロの地点には、もともと浅瀬に隔てられた大氹仔と小氹仔のふたつの島がありました。氹仔という語は、高い丘のない低地を意味する“潭仔”がなまったもので、1851年にここを占領したポルトガル人は、20世紀初めにふたつの島の間を干拓し、あらたに氹仔島というひとつの島を形成しました。

 その間、1864年にポルトガルはさらに南の路環島を占領しており、行政区域としての“マカオ”といえば、今回ご紹介の切手に見られるように、半島部と氹仔島、それに路環島という組み合わせの時代が長く続いてきました。なお、マカオ半島と氹仔島の間の交通としては嘉楽庇総督大橋、澳門友誼大橋、西湾大橋の3本がありますが、このうち、もっとも古いのが1974年に開通した嘉楽庇総督大橋です。一般に、この橋は単に澳氹大橋と呼ばれることも多く、他の2本と区別する必要があるときは、舊(旧)澳氹大橋ないしは舊大橋と呼ばれることもあります。

 嘉楽庇総督大橋は、その名の通り、ポルトガルのマカオ総督だったノブレ・デ・カルバリョの在任中の1970年に着工され、彼の退任(1974年11月)直前の1974年10月に完成しました。総距離は2569.8メートル、幅は9.2メートルです。当初は有料道路でしたが、後に無料となりました。

 1980年代に入ると、世界最高水準と言われた人口密度を緩和すべく、マカオ政府は浅瀬を埋め立てて、土地を広げる政策に乗り出します。その際、大規模な埋め立て地として計画されたのが、マカオ半島の新口岸地区と、氹仔=路環間を埋め立てる路氹地区でした。ちなみに、路氹という地名は路環と氹仔の地名をあわせた造語です。

 その後、路氹地区の開発に伴う交通量の増加を見越して、1994年、マカオ半島と氹仔島を結ぶ第2の橋として友誼大橋が完成しましたが、埋め立て事業そのものは経済の鈍化で当初の予定よりも工事が大幅に遅れ、埋め立て事業が一通り完成したのは“返還”直前の20世紀末のことでした。また、返還後の2000年3月には蓮花大橋が完成し、路氹地区と広東省珠海市の横琴島が陸路でつながり、入出境業務も開始されています。

 路氹地区では、当初、人口密度の緩和を目的に住宅地中心の開発が想定されていましたが、2007年8月にヴェネチアンが開業して以来、隣接地域には、プラザマカオ、サンズコタイセントラル、パリジャンマカオと大型複合リゾート施設が相次いでオープンし、現在ではアジアを代表するカジノ・リゾート地となりました。ちなみに、なお、ヴェネチアンの開業10周年祝賀セレモニーは、当初、8月28日に開催予定でしたが、直前の23日に台風13号(国際名:ハト)がマカオへ襲来し、大きな被害が生じたことから、昨日まで延期されていました。

 なお、路氹地区ができる以前の古き良き氹仔・路環の面影については、拙著『マカオ紀行』でいろいろ書いておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 英女王夫妻が結婚70周年
2017-11-20 Mon 13:09
 英国のエリザベス女王と夫のフィリップ殿下が、1947年11月20日に結婚されてから、今日でちょうど70周年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英国・QEII結婚記念標語印

 これは、1947年11月20日の結婚式当日、バッキンガム宮殿を所管とするロンドンSW1局から結婚記念の機械標語印を押し、ロンドン市内のチャリング・クロス局留めで差し出された記念カバーです。カシェには、当時のご夫妻のイラストが描かれています。

 英国王ジョージ6世の第一王女エリザベスと、ヴィクトリア女王の玄孫で“ギリシャ王子およびデンマーク王子”の称号を有していたフィリップ・マウントバッテンの婚約は1947年7月9日に発表され、同年11月20日、ロンドンのウェストミンスター寺院で結婚式が行われました。ちなみに、結婚に先立ち、1947年2月、フィリップは英国籍を取得するとともに、ギリシア正教会から英国教会に改宗し、さらに“ギリシャおよびデンマークの王子”の地位を放棄。結婚式当日から、“殿下(Royal Highness)”の敬称が与えられ、翌日にはジョージ6世からエディンバラ公爵・メリオネス伯爵・グリニッジ男爵の各爵位が授与されています。

 王女の婚約が発表されると、英本国および英連邦諸国では記念切手の発行が検討されましたが、結婚式までの準備期間が短いことから、英本国では記念切手の発行を早々に断念。その代りに、結婚式当日の11月20日から11月末まで、英本国全域で記念の機会標語印を使用することとしました。

 記念の機会標語印のデザインは、ウェディング・ベルとエリザベスのE、フィリップのPを結びつけるリボンを組み合わせたもので、1947年8月、英国郵政の技術スタッフだったR.H.ヒギンズが制作しました。

 ちなみに、カナダでは、エリザベス王女の結婚記念切手を発行することを決定したものの、さすがに結婚式当日には間に合わず、切手発行は1948年2月にずれ込んでいます。

 また、オーストラリアでは、たまたま、王女の肖像を描く普通切手を準備していたため、この切手を結婚式当日の11月20日に発行することで結婚を祝福しました。なお、オーストラリアの切手については王女の結婚記念の切手して紹介されることも多いのですが、この切手の発行計画が発表されたのは、王女の婚約発表以前の1947年5月28日のことで、発行の理由も「現行の王妃を描く1ペー切手に替えてフレッシュな図案を採用する」ということでしたので、やはり、王女結婚の記念切手とみなすのは無理があるように思います。


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 インド美女の切手
2017-11-19 Sun 12:14
 昨日(18日)、中国・海南島で開催された第67回ミス・ワールド世界大会は、インド代表の医大生マヌシ・チラーさんが優勝しました。インド代表の優勝は6度目で、これにより、ヴェネズエラと並ぶ歴代最多優勝国となりました。というわけで、インドの美女を取り上げた切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・ニーラ・バノット

 これは、2004年10月、アショーカ・チャクラ章の受賞者として、ニールジャー・バノート(英語読みでニーラ・バノットと表記されることもあります)を取り上げたインド切手です。

 ニールジャーは、1963年、北インドのチャンディーガルで生まれ、ムンバイで育ちました。ムンバイでモデルとして活動した後、1985年3月、カタールのドーハ在住の男性と見合い結婚をするものの、2ヶ月で家族の元へ戻っています。同年、パンナムのフライト・アテンダントに採用され、フランクフルト=インド路線に乗務。フライト・アテンダントとしてきわめて優秀だったため、マイアミでの研修を経て、1年でチーフ・パーサーに昇格しました。なお、パンナム就職後も、モデルとしての活動は併行して続けていました。

 1986年9月5日、彼女の乗っていたムンバイ発フランクフルト経由ニューヨーク行きのパンナム73便が、給油中のパキスタン・カラチ空港リビアの支援を得たテロ組織“アブー・ニダル”の4人組にハイジャックされる事件が発生。犯人グループは、乗客365人と乗員13人を人質に、キプロスへ向かい、キプロスで拘留されているパレスチナ人政治犯の釈放を要求しました。

 このとき、ニールジャーは、まず、2階のコックピットにいたパイロットに非常事態を連絡し、パイロットが天井から脱出することに成功します。

 また、犯人グループはハイジャック早々、インド系米国人を射殺し、その後も“処刑”する米国人を特定するため、乗客のパスポートを集めるようにニールジャーに命じましたが、彼女は部下に米国のパスポートを隠すよう指示し、非米国人のみのパスポートを犯人に渡しました。ちなみに、当時の機内には、最初に暗殺された人を除き、43人の米国人がいましたが、彼らは全員無事でした。

 事件発生から17時間後、飛行機の電源が落ち、機内の照明は消え、無線も不通になりましたが、これを突入開始の合図と勘違いした犯人グループは無差別銃撃を開始。一方、17時間後に電源が落ちることを知っていたニールジャーは飛行機のドアを開け、乗員・乗客379人中359人を無事に逃がすことに成功しましたが、米国人の子供3人を銃撃からかばった際に狙撃され、亡くなりました。

 なお、犯人はいずれもパキスタン当局に逮捕され、有罪判決を受けて収監されましたが、2001年、米国人を射殺したザイド・ハサン・アブドゥッラティーフ・マスウード・サファリ-二-はいったん釈放された後、タイのバンコクで米FBIに身柄を拘束されました。また、他のメンバーは2009年、刑期を終えて出所しています。

 事件後、ニールジャーの勇敢な行動は称賛され、米国、パキスタンなど関係諸国から数々の賞が授与されたほか、インド政府も、平時において国家のために勇敢な行いをした人物に授与する最高賞の“アショカ・チャクラ賞”を彼女に授与しています。ちなみに、彼女はアショーカ・チャクラ章を受賞した最初の女性にして、史上最年少の受賞者でした。また、彼女の死後、遺族は保険金とパンナムからの報奨金を原資として、“ニールジャー・バノート賞”を創設。毎年、社会的不公正に直面しつつも、それに負けずに勇気ある行動を行ったインド人女性に対して、賞状・トロフィーと、副賞として150万ルピーの賞金が贈られています。

 ちなみに、ハイジャック事件を起こした“パレスチナ・ゲリラ”については、拙著 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも縷々ご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 二の酉
2017-11-18 Sat 10:51
 きょう(18日)は二の酉です。というわけで、一の酉の時と同様、パレスチナがらみの“鳥”の切手の中から、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) 

      パレスチナ自治政府(国鳥・2013)

 これは、パレスチナ自治政府(ファタハ政府)の国連オブザーバー資格取得を受けて、2014年に発行された“国が生まれた”の切手のうち、パレスチナ自治政府の国鳥とされるキタキフサタイヨウチョウと国花とされるアネモネを取り上げた1枚です。

 2007年以降、“パレスチナ”は、ファタハ政府支配下のヨルダン川西岸地区とハマースが実効支配するガザ地区に事実上分裂。このうち、国際社会は、西岸地区を支配するファタハ政府をパレスチナの正統政府として認知し、ハマース政府の正統性は認めませんでした。

 こうした状況を受けて、2011年9月23日、ファタハ政府は国連への加盟申請を行い、同年10月31日、まずは国連教育科学文化機関(ユネスコ)への加盟が承認されました。これに対して、ユネスコがパレスチナを加盟“国”として承認したことに強く反発。米国もユネスコ分担金の支払いを停止しています。

 その後、ファタハ政府の“パレスチナ”としての国連への加盟申請については、イスラエルと米国のみならず、日本を含む西側主要国の多くがファタハ政府に対する国家承認を見送っている実情を踏まえ、従来の“オブザーヴァー組織”から“オブザーヴァー国家”に格上げする総会決議を採択する方向で調整が進められることになります。これは、パレスチナを国連の“加盟国”としては認めないが、正規の独立国であることを国連として事実上承認するという、いわば妥協の産物でした。

 国際社会がファタハ政府を認める方向で進む中、ハマース政府はガザを拠点にあくまでもイスラエル国家の存在そのものを否定し続けていたが、国連総会での決議採択を前に、イスラエルのネタニヤフ政権はハマースのテロ活動に打撃を与えるべく、11月14日、ガザ地区に空爆を行い、車で移動中のハマースの軍事部門のトップ、アフマド・ジャアバリーを殺害しました。
 
 イスラエルによるジャアバリー殺害に対しては、PLOを含むアラブ諸国がこれを批難し、エジプトはイスラエル大使を召還。当事者のハマースはイスラエルの“宣戦布告”に対して、同じくトゥイッターで「我々の神聖な手は、お前たちのリーダーや兵士がどこにいようと届く」と応酬した。はたして、以後7日間、ハマースによるイスラエル領内への砲撃は激しさを増し、160人を超える死者が発生します。

 こうした経緯を経て、2012年11月29日に開催された国連総会では、パレスチナ(ファタハ政府)を“オブザーヴァー組織”から“オブザーヴァー国家”に格上げする決議67/19が、賛成138、反対9、棄権41、欠席5の圧倒的多数で承認されました。ちなみに、反対票を投じた9ヵ国はカナダ、チェコ、ミクロネシア、イスラエル、マーシャル諸島、ナウル、パラオ、パナマ、米国で、わが国は賛成票を投じています。

 今回ご紹介の切手は、オブザーヴァー国家への格上げから1周年にあたる2013年11月29日にあわせて発行が計画されていましたが、実際の切手発行は2014年1月にまでずれ込みました。

 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 スプートニクとガガーリンの闇(2)
2017-11-17 Fri 15:46
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、先月25日、『本のメルマガ』第661号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年について取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・ロケットメール(1957)

 これは、国際地球観測年の初日にあたる1957年7月1日、米国で行われた“世界最大のロケット郵便”で運ばれたカバーです。

 気象、地磁気、電離層、宇宙線、経緯度、海洋、地震、重力などの諸現象について、期間を定めて、全世界の研究者たちが共同観測を行う極年(Polar Year)は、1882一83年に第1回が実施されました。

 その50年後の1932-33年には第2回の極年が行われ、第3回は1982-1983年に予定されていましたが、1951年の国際学術連合会議(ICSU、現・国際科学会議)で、米オックスフォード大のチャップマンが、第二次世界大戦後の科学技術の急速な発展を考慮し、25年目となる1957-58年に繰り上げることが提案され、承認を得ます。

 さらに、計画が進むうちに、共同観測の対象範囲を極地だけでなく全地球に拡大することや、観測項目にも追加が相次いだため、イベントの名称も“極年”から“国際地球観測年(International Geophysical Year、略称:IGY)”に改称され、1957年7月1日から1958年12月31日まで、ICSUの統括の下、60ヵ国以上が参加し、極光(オーロラ)、大気光(夜光)、宇宙線、地磁気、氷河、重力、電離層、経度・緯度決定、気象学、海洋学、地震学、太陽活動の12項目、すなわち、地球物理のほぼすべての分野にわたる観測が実施されました。中でも最重要課題とされたのは、太陽の磁気が地球に与える影響の研究でした。

 IGYの計画が持ち上がった当初から、米国はロケット観測を提案。これと連動するかたちで、1955年2月、情報機関のための提案としてキリアン報告書「奇襲攻撃の脅威への対処」がまとめられています。同報告書は、テレビカメラを利用した原子力偵察衛星の実現を目指すフィードバック計画と、高空飛行偵察機の実現を目指すCL282(後のU2)計画が二つの柱となっていました。

 一方、全米科学財団理事長のウォーターマンは、IGYの一環として科学衛星を打ち上げることを提案。国家安全保障会議文書NSC5520として「米国科学衛星計画に関する政策」がまとめられ、1955年7月29日、ホワイトハウスは「(IGY期間中の)1958年春までに人工衛星を打ち上げる」と発表しました。いわゆるヴァンガード計画です。

 これを受けて、ソ連も宇宙開発計画を明らかにするのですが、この時点では、世界の大勢は人類最初の人工衛星は米国が打ち上げるものと信じていました。

 こうした米国の空気を反映して、IGY初日の1957年7月1日、ネヴァダ州ダグラス群から州境を挟んでカリフォルニア州のトパーズまで、“世界最大のロケット郵便”のデモンストレーションが行われました。今回ご紹介のカバーは、そのイベントで実際に運ばれた郵便物です。

 地形的に通常の輸送方法で郵便物を配達することが困難な地域では、“飛び道具”に郵便物を載せて運ぼうとする“ロケット郵便”は以前から試験的に試みられてきました。たとえば、インド北東部、急峻な山岳地帯で知られるシッキムでは、1935年4月7日以降、9回にわたって、当時のシッキム藩王の認可の下、ガントク郵便局からシッキム王立高校まで200通の郵便物を載せたロケットが発射されています。

 1957年7月1日のロケット郵便も、同じく、計5000通の郵便物を載せた5台のロケットをネヴァダ=カリフォルニア両州の境を挟んで発射したもので、イベントの資金調達の手段として宣伝ラベル(封筒の左下に貼られています)も作られましたが、ラベルのデザインは、ヴァンガード計画をイメージして、地球の周囲を廻る衛星の軌道がデザインされています。

 このロケット郵便を企画したのは、民間のロケット研究所長、ジョージ・ジェイムズですが、彼のみならず、ラベルを買って資金援助を行った人々、さらには、ロケットで運ばれた郵便物を記念品として買った人々は、誰一人として、IGYの期間内にヴァンガード計画によって米国は人工衛星を発射することに何の疑念も抱いていなかったに違いありません。

 それだけに、同年10月4日、ソ連が米国に先立ってスプートニク1号の打ち上げに成功したことは、ロケット開発や宇宙研究の専門家以上に、ジェイムズの記念品を買った善男善女に衝撃を与え、彼らを大いに落胆させることになりました。


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 イスラエル・ワイン
2017-11-16 Thu 08:53
 きょう(16日)は11月の第3木曜日。いわずと知れたボジョレー・ヌーボーの解禁日です。というわけで、毎年恒例、ワイン関連の切手の中から、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』にちなんで、この1枚です。

      イスラエル・申命記(1993)

 これは、1993年8月22日にイスラエルで発行された“年賀切手”の1枚で、ワインを意味するブドウが描かれています。タブには、ワイン絞りの道具と、『申命記』第11章14節の「主は(あなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、)穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ」との文言が入っています。

  ワインは『旧約聖書』のノアやモーセの物語にも登場しますが、実際、パレスチナの地域では紀元前2000年頃にワインが製造されていたことを示す遺跡が発見されています。ローマ帝国の時代には、パレスチナ産のワインは人気が高く、帝国各地に輸出されていましたが、7世紀に入り、パレスチナがムスリム(イスラム教徒)の支配下に入ると、キリスト教徒やユダヤ教徒が儀式のために使う少数の例外を除き、ワインの製造も禁止されてしまいました。

 ちなみに、近代以前、パレスチナのユダヤ人がワイン製造に際して使っていた圧搾施設は、今回ご紹介の切手のタブに見られるように、石造りのプールのような場所にワインを入れて足で踏みつぶし、プールの底にあけた穴に溜まった果汁を集めるというものでした。

 さて、パレスチナの地でワインの生産が再開されるのは1848年のことで、同年、この地で最初の近代的ワイナリーが開業します。その後、ロスチャイルド家のエドモンドが1882年にワイナリーを創設し、南仏の品種を導入して、ユダヤ教徒によるワイン製造を積極的に支援しました。ただし、当時のパレスチナ・ワインは、ユダヤ教の儀式に使用される甘口赤ワインが中心で、品質はあまり高くはありませんでした。

 しかし、第一次大戦後、パレスチナは英国の委任統治領となり、さらに、1933年以降、ナチスの迫害を逃れたユダヤ系難民がヨーロッパから大挙してパレスチナに移住したことで、パレスチナのユダヤ教徒の間でも、儀式用の甘いワインではなく、辛口ワインへの需要が高まりました。この傾向は、1948年のイスラエル建国後、さらに加速されましたが、1970年代半ばまでは中東戦争が相次いだこともあり、イスラエル国内ではなかなかワイン生産が広がりませんでした。

 その後、1976年、ゴラン高原で葡萄の植樹が行われ、1980年代以降、カリフォルニアを中心に、フランス、オーストラリアなどのから技術移転により、イスラエル・ワインの品質は飛躍的に向上することになりました。中でも特筆すべきは、1983年に創業のゴラン・ハイツ・ワイナリーで、同社が1984年にリリースしたヤルデンとガムラのヴィンテージはイスラエル・ワインとして初めて国際的な評価を得ただけでなく、2011年にはワインのオリンピックともいわれる“ヴィニタリー2011”で最優秀賞を受賞するなど、名実ともに、イスラエルを代表するワイナリーとして知られています。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 パレスチナ独立宣言記念日
2017-11-15 Wed 11:14
 きょう(15日)は、1988年11月15日にアルジェで開催されたパレスチナ国民評議会(PNC)で、PLOがテロを放棄し、イスラエルの存在を認めたうえで、東エルサレムを首都とする“パレスチナ国”の独立宣言が採択されたことにちなみ、“パレスチナの独立宣言記念日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ・ダルウィーシュ(2008)

 これは、2008年7月29日、パレスチナ自治政府が発行したマフムード・ダルウィーシュ(1988年のパレスチナ独立宣言の起草者)の切手です。

 マフムード・ダルウィーシュは、1,941年3月13日、英委任統治下のガリラヤ地方のビルワで生まれました。彼の故郷は、1948年の第一次中東戦争で壊滅的な打撃を受けたため、一時的にレバノンに避難します。1950年、一家はイスラエル支配下のガリラヤ地方の別の村に帰還しましたが、法的には“不法滞在の外国人”として扱われました。

 ダルウィーシュは10代から詩作を始め、当初はイスラエル共産党の文芸誌『アル・ジャディード』に自作の詩を投稿していましたが、ほどなくして同誌の編集に携わるようになり、次いで、イスラエル労働党の文芸誌『アル・ファジュル』の編集者となります。1960年、19歳の時に発表した第一詩集『翼のない鳥』を皮切りに、1960年代には何冊かの詩集を出版。「書き留めてくれ/私はアラブ人」のリフレインで知られる詩「身分証明書」、故郷パレスチナを恋人に見立てて愛を謳った詩「パレスチナの恋人」などで、パレスチナを代表する詩人として高く評価されました。

 しかし、そのことは、パレスチナ人の民族意識を高揚させ、反イスラエル世論を煽動するものとしてイスラエルからは危険視され、投獄や自宅軟禁等の処罰を受けることになります。

 彼の作品は世界的にも高く評価され、1969年、アジア・アフリカ作家会議が創設したロータス賞の第一回受賞者となりましたが、1970年、事実上の国外追放処分を受け、ソ連のミハイル・ロモノーソフ・モスクワ国立総合大学に一年間、留学。その後、カイロを経てベイルートに入り、1973年、PLOに参加。詩作を続ける傍ら、執行委員会のメンバーとして反イスラエル闘争に積極的に関与しました。

 PLOのテュニス移転とともにテュニスに移り、第一次インティファーダを経て、1988年にアルジェで開催されたパレスチナ民族評議会ではアラファトが読み上げた「独立宣言」を起草しました。

 その後、1993年のオスロ合意の内容に失望し、PLOの役職を辞職しましたが、1995年、パレスチナ自治政府の暫定自治がヨルダン川西岸地区の主要都市にまで拡大され、自治政府がラマッラーに移ると、PLOと和解し、ラマッラーに“帰還”しました。晩年はパレスチナと米国を往来しながら、ファタハとハマースの抗争を批判し、特に、ハマースの奉じるイスラム原理主義を激しく批判しています。

 晩年は毎年のようにノーベル文学賞の有力候補の一人としてメディアに名前が挙げられましたが、2008年8月9日、心臓病の治療のため入院していた米ヒューストンで亡くなりました。享年67歳。その葬儀は、アラファトに次いでパレスチナ自治政府として2人目の“国葬”とされ、大統領のアッバースは自治政府として3日間の服喪を決定しています。

 今回ご紹介の切手は、当初、2007年に発行が予定されていたもので、切手にもその旨の表示がありますが、実際には、彼の死の直前、2008年7月29日に発行されています。切手の背景に岩のドームが描かれているのは、彼の起草した「独立宣言」が、パレスチナ国家の首都はエルサレムに置くとしていたことを示したものと考えられます。

 なお、今回ご紹介の切手を含め、パレスチナの切手と郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 日本・モルディヴ国交50年
2017-11-14 Tue 12:05
 1967年11月14日に日本とモルディヴ(1965年独立)の外交関係が樹立されてから、きょうでちょうど50周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モルディヴ・鰹節

 これは、1981年、“(国連)婦人の10年”の題目でモルディヴが発行した切手のうち、日本の鰹節とよく似たモルディヴの伝統調味料、”モルディヴ・フィッシュ”の製造風景を描いた1枚です。

 1975年の国際婦人年の成果を踏まえ、同年の第30回国連総会では、1976‐85年を国際婦人年の目標達成のため“国連婦人の10年”とすることが宣言されました。これを踏まえて、1979年には国連で女子差別撤廃条約が採択され、翌1980年にコペンハーゲンで行われた“国連婦人の10年中間期世界会議”が行われました。今回ご紹介の切手が発行された1981年は、女子差別撤廃条約が発行した年にあたっており、今回ご紹介の切手は、これに合わせて、モルディヴの伝統的な女性の労働風景を描くものとして発行されました。

 現在のモルディヴ経済は観光部門がGDPの3分の1を占めていますが、歴史的には漁業が最大の主要産業で、現在でも労働人口の3割が漁業およびその関連業務に従事しており、GDPの15%以上を占めています。また、モルディヴは、1人あたりの1日の魚介類消費量が381グラムで世界一(日本は155グラムで6位)の国でもあります。

 モルディヴ環礁周辺の赤道付近は世界有数のカツオの産卵地域であるため、1年を通じてカツオ漁が可能で、漁獲高の70%はカツオが占めていることもあって、単に“(英語の)fish”というとモルディヴではカツオを指すのが一般的。漁獲量は年間約9万トンで、その大半は、缶詰もしくは冷凍にされ、主としてヨーロッパや日本などに輸出されています。

 このように、カツオ漁が盛んなモルディヴでは、日本の鰹節に似た“モルディヴ・フィッシュ”が14世紀から作られてきました。

 その作り方は、生のカツオを塩水で煮たものを燻煙し、天日干しにするもので、日本の荒節とほぼ同じです。ただし、日本の鰹節(枯節)と異なり、モルディヴ・フィッシュにはカビ付けはされません。また、日本では鰹節を削り、出汁を取る場合には出汁ガラは基本的に捨ててしまうのに対して、モルディヴ・フィッシュは石臼で挽いて粉末状にしたモノを他の食材に混ぜて食すのが一般的です。

 ちなみに、伝統的な食文化として鰹節の利用が定着しているのは日本とモルディヴだけだそうです。それゆえ、日本の鰹節はモルディヴから東南アジア、沖縄経由でもたらされたとする説も提起されていますが、こちらについては、具体的な伝達経路などが立証されておらず、現時点では、推論の域を出ていません。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

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 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 イラン・イラク国境地帯でM7.3地震
2017-11-13 Mon 12:40
 イラク北東部、イランとの国境にも近いスレイマニア県を震源として、現地時間12日午後9時20分ごろ(日本時間13日午前3時20分ごろ)、マグニテュード7.3の大地震が発生。震源に近いイラン西部やイラク北部のクルディスタン地域で建物の倒壊などによる死傷者が出ており、なかでも、イラン西部、イラクとの国境に位置するケルマンシャー州では、この記事を書いている時点で少なくとも141人が亡くなったそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラン・ケルマンシャー加刷

 これは、第一次大戦中の1917年、オスマン帝国占領下のケルマンシャーで発行された暫定加刷切手です。

 イラン西部ケルマンシャー州は米や野菜を産する豊かな農業地帯として古代から人々が定住しており、州都ケルマンシャーの歴史はピーシュダード朝(イラン最初の王朝とされる伝説上の王朝)のタフモレス・ディーヴバンドの時代にまでさかのぼるとされています。都市としての本格的な建設は、西暦4世紀、ササン朝のバフラーム4世の時代に進められ、以後、同王朝の下で何度かペルセポリスに次ぐ副都に指定されて繁栄を極めました。その後、アラブの侵攻により大きな被害を受けましたが、16世紀から18世紀にかけてのサファヴィー朝支配下では都市として復活しています。

 第一次大戦中、当時のペルシャを支配者であったカージャール朝は中立を宣言したものの、戦略的な要衝であるがゆえに各国の軍隊が進駐。1915年にはオスマン帝国の侵攻により、ケルマンシャーも同帝国の占領下に置かれました。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下で、1917年、12シャヒおよび24シャヒ切手が不足したため、1キラン(クランとも。1クラン=100シャヒ)切手に暫定的に改値加刷を行って発行されたものです。

 なお、この切手が発行されて間もなく、ロシアで10月革命が発生したため、ケルマンシャーを含むペルシャ北西部は、ロシア内戦に干渉するための前線基地として、英国がオスマン帝国を駆逐して占領しました。

 1979年のイスラム革命後、ケルマンシャーは、地名の“シャー”が忌避され、“バーフタラーン”と改称されましたが、イラン・イラク戦争(ケルマンシャーも国境の都市として大きな被害を受けました)の休戦後、旧称のケルマンシャーに復し、現在に至っています。ちなみに、ケルマンシャー州の現在の人口は約195万2000人、州都ケルマンシャーの人口は約82万3000人です。

 今回の地震では、ケルマンシャー州内では、イラクとの国境に近いサルポル・エ・ザハブの被害が特に深刻で、死亡者のうち60人以上が同郡に集中しているそうです。このほか、イラクのクルディスタン地域でも、東部スレイマニア県のダルバンディカン、カラル、アルビル県のコレなどで死者が出ているほか、ダルバンディカンには農業・発電用の利水ダムがあるため、クルド自治政府は余震に備えて住民に避難を呼びかけています。

 あらためて、亡くなられた方の御冥福と、被災地の一日も早い復旧・復興をお祈りしております。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

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 泰国郵便学(51)
2017-11-12 Sun 14:43
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第5号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・オニテナガエビ(1976)  

 この切手は、1976年2月18日に発行された“タイの代表的な食用エビ”の切手のうち、オニテナガエビを取り上げた1枚です。次いでですので、バンコクの海鮮レストランで生簀の中のオニテナガエビを撮影した写真が手元にありましたので、下に貼っておきます。

      オニテナガエビ・実物

 タイでエビの養殖がいつから始まったかは定かではありませんが、1960年代に地元の古老を対象に行った聞き取り調査によると、遅くとも、1930年までにはエビの養殖が始められていたようです。初期のエビの養殖は、主としてタイランド湾の河口に近い低地の米作農家が乾季の間の副業としてエビを飼い、販売するものでした。

 一方、タイランド湾に面したサムットプラーカーン県、サムットサーコーン県、サムットソンクラーム県は伝統的に製塩業が盛んでしたが、1950年頃、塩の値段が暴落したため、塩田の多くがエビの養殖に転業します。

 1960年代後半までにエビの養殖はタイランド湾沿岸のほぼ全域に拡大しましたが、その中心は上記3県で、ほかに、ラヨーン県、チョンブリー県、チャンタブリー県が主要な生産地でした。当時のエビ養殖業者は、一軒あたり平均4ヘクタールの養殖池で年間1356キロのエビを生産してました。

 1970年代に入ると、日本でのエビの需要の拡大に伴い、エビの輸出も拡大しましたが、その反面、乱獲により天然エビ漁は衰退し、養殖エビの重要性も増大します。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下で、輸出商品としてのエビを宣伝する目的で発行されました。

 切手に取り上げられたオニテナガエビは、タイ、マレーシアなどの東南アジア原産の淡水産のエビで、オスで最大32センチ、メスで25センチに成長します。色は藍色で、頭部が大きく、第二歩行足が体長よりも長くなっています。タイ語では、一般に川エビを意味する“グン・メーナーム”と呼ばれ、レストランの英文メニューでもその直訳の“River Prawn”と表示されていることも多いようです。ただし、英語表現としては、FAO(国連食糧農業機関)の指導により、マレーシアで本格的な養殖が始まったことから、マレーシア・プローンの通称で呼ばれるのが一般的です。

 レストランなどで調理される場合は、このエビの最大の特徴である鋏が外されてしまうことが多いので、バナメイエビとよく似た外観になりますが、バナメイエビに比べて兜が幅広いので識別は難しくはありません。タイでの調理方法としては、“シューシー・グン(レッドカレー炒め。カレーとしてではなく、一品料理として供される)”や“グン・オップ・ウンセン(エビと春雨の蒸しもの)”などが好まれています。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 ルーヴル・アブダビ開館
2017-11-11 Sat 12:56
 アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビ・サーディヤト島で建設が進められていたフランスのルーヴル美術館の別館 “ルーヴル・アブダビ”がオープンし、きょう(11日)から一般公開されます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ザール・ミラノの貴婦人

 これは、1956年12月10日にザールで発行された慈善切手で、ダ・ヴィンチの「ミラノの貴婦人」が取り上げられています。「ミラノの貴婦人」はパリ・ルーヴル美術館の収蔵品として有名ですが、今回のルーヴル・アブダビのオープンを記念して、ルーヴル・アブダビに移管され、その目玉として展示・公開されることになりました。

 ルーヴル・アブダビは、2007年の政府間の合意を経て、当初、2012年に開館の予定でしたが、世界的な金融危機や原油価格下落などの影響で完成が大幅に遅れていました。

 洋上に建設された美術館はプリツカー賞を受賞したフランスの建築家、ジャン・ヌーヴェルの設計で、直径180m・高さ36mの8層構成(4層の外層はステンレススチール、4層はアルミニウム)のドーム型。総重量はエッフェル塔と同じ7500トンあり、110m間隔で設置された4つの桟橋によって支えられています。ドームは7850個の星を組み合わせたデザインで、星々の隙間から光が差し込むと、ヤシの葉から落ちる木漏れ日を思わせる“光の雨”が降る仕掛けになっています。

 美術館としては23のギャラリーがあり、600点の所蔵作品に加えて、フランスの13の美術館・博物館から、今回ご紹介の切手に取り上げられた「ミラノの貴婦人」を含む300点が貸し出され、年間4回の企画展が予定されています。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた「ミラノの貴婦人」はレオナルド・ダ・ヴィンチの作品といわれており(異説もあります)、フランス革命以前からフランス王室が所蔵していました。17世紀初めの時点では、作品に描かれている女性が金物商の妻もしくは娘と考えられていたことから、欧米では『美しき金物商(フランス語では La Belle Ferronnière)』と呼ばれるのが一般的ですが、モデルについては、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの公妃ベアトリーチェ・デステもしくは愛人のルクレツィア・クリヴェッリという説もあります。
 
 *  明年(2018年)5月にエルサレムで開催予定の世界切手展<WSC Israel 2018>の出品申し込みは、かねてご案内の通り、昨日(10日)でいったん締め切りました。同展の日本コミッショナーとして、お申込みいただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
 なお、現在、主催者側に送るべく書類の取りまとめ作業中ですが、うっかり申し込みを忘れたという方は、急ぎ内藤宛に申込書をお送りいただければ、可能な限り対応いたしますので、よろしくお願いいたします。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

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 モーリタニア=アルジェリア国境、開放へ
2017-11-10 Fri 11:43
 北アフリカ・モーリタニアの同国国営通信によると、1960年の同国独立以来封鎖されてきたアルジェリアとの国境が開放されることになった(ただし、国境開放の具体的な日時などは現時点では未定)そうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モーリタニア独立

 これは、1960年のモーリタニア独立に際して同国が発行した記念切手で、同国地図と国旗を掲げる白人と黒人の手が描かれています。この地図のうち、今回開放されることになったアルジェリアとの国境は同国の北端から南東方向に延びている部分で、その東の頂点から水平方向に西に延びた部分と南へ下った部分はマリとの国境になります。

 モーリタニアの沿岸には、15世紀以降、ポルトガルやスペイン、オランダなどの西洋人が交易を求めて姿を現すようになりましたが、17世紀以降はサン・ルイ(現セネガル)に基地を確保したフランスが影響力を拡大。19世紀末から20世紀初頭にかけての征服戦争を経て、1904年、モーリタニアは“民政区”として、1895年に設立された“仏領西アフリカ連邦”に編入されました。

 第二次大戦末期の1944年1月、フランスは仏領コンゴの首府ブラザヴィルで“フランス=アフリカ会議”を開催。会議の結果として採択されたブラザヴィル宣言では、①原住民制の廃止、②強制労働の廃止、③教育の整備、④工業開発の重視、⑤(戦後に予定される)フランス制憲議会への現地代表参加、⑥フランス国会への現地代表参加、⑦フランス連合の連邦議会の設置、⑧セネガルの植民地議会同様の議会を各植民地に設置、などの項目が、ヴィシー政府打倒後の新政権への勧告として盛り込まれていました。いわば、植民地は戦争協力と引き換えに、戦後の自治権拡大を約束された格好になります。

 これを受けて、大戦後の1945年10月21日、憲法制定のための制憲議会選挙が行われ、翌1946年5月5日に憲法草案が制定されて国民投票が行われました。ただし、この時の憲法草案は否決されたため、6月2日に再度、制憲議会選挙が行われ、再度作成された憲法草案が10月13日に国民投票にかけられて可決され、10月27日、フランス第四共和政がスタートしました。

 第四共和政下では、仏領西アフリカはフランス連合を構成する海外領土となり、モーリタニアにも地方議会が置かれ、フランス本国に代表を送るための選挙が1946年中に実施されました。

 その後、アルジェリア情勢が緊迫する中で、仏領植民地の自治拡大は急速に進み、1956年6月の基本法でフランス人の高等弁務官を首相とし、アフリカ系を副首相とする行政府が組織され、弁護士のムフタール・ワルド・ダッダーが初代のモーリタニア副首相に就任します。

 さらに、1958年の国民投票により、モーリタニアはフランスからの完全独立はせず、セネガルなどのアフリカ諸国とともにフランス共同体内の共和国として残留することを選択。これに伴い、同年10月、モーリタニア・イスラム共和国が発足します。しかし、その後、フランス共同体の解体は急速に進み、1960年夏には旧フランス領アフリカ諸国の大半が独立。同年11月28日には、モーリタニアも独立を宣言しました。今回ご紹介の切手は、これに伴って発行されたものです。

 さて、1960年11月の独立時、アルジェリアは独立戦争の最中にあり、モーリタニアとしてもアルジェリアとの国境を開放できるような状況にはありませんでした。また、1660年に成立したアラウィー朝(モロッコの現王朝)が、かつて、現在のモーリタニアを含む北西アフリカの一帯を支配下に置いていたことを根拠として、1956年に再独立したモロッコはモーリタニアの自国への再統合を主張し、モーリタニアの独立に異議を唱えていました。

 これに対して、モーリタニア国内にもモロッコの主張に同調する勢力が一体数存在していたことに加え、北アフリカ諸国の加盟するアラブ連盟もモロッコを支持したため、モーリタニアは独立を維持するためにフランスおよび穏健外交路線を採る旧仏領諸国(ブラザヴィル・グループと呼ばれた)との関係を強化することになります。

 これに対して、そもそもフランス共同体への参加を拒否したギニアや、セネガルとの連邦が破綻した後、汎アフリカ主義者として急進化したモディボ・ケイタのマリ、旧英領アフリカ諸国で独立運動の中心となったガーナが、ブラザヴィル・グループに対抗して急進派諸国を糾合した会議を開催することを計画すると、モロッコ国王ムハンマドはこれに協力し、1961年1月4日から7日まで、カサブランカ会議を開催。開催国モロッコのほか、エジプト、ガーナ、タンガニーカ、ギニア、マリと、独立戦争のさなかにあったアルジェリアのアルジェリア共和国臨時政府が参加し、“カサブランカ・グループ”を構成しました。

 その後、モロッコとアルジェリアは国境地帯のティンドゥフとベシャールの帰属をめぐり、砂戦争を戦うことになりますが、上記のような経緯もあって、モーリタニアは460キロにわたるアルジェリアとの国境を封鎖し、国境地帯を軍事区域として民間人の往来を禁止し続けてきました。

 もっとも、両国の国境地帯はほぼ無人の砂漠が延々と広がっており、実際には、武器や石油、薬物の密輸、移民の密入国が横行武装勢力の衝突も絶えない状況が続いていました。今回の国境“開放”は、国境地域の管理をきちんと行うことで、治安の改善を図ろうというもので、アルジェリアのベドゥイ、モーリタニアのアブデッラの両国内相は、国境開放で地域がより安全になると強調しています。

 * 昨日、アクセスカウンターが185万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

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 切手でひも解く世界の歴史(11)
2017-11-09 Thu 09:20
 本日(9日)16:05から、NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第11回が放送される予定です。(番組の詳細はこちらをご覧ください)。今回は、おととい(7日)、100周年を迎えたロシア10月革命にスポットを当てて、この切手もご紹介しながら、お話をする予定です(画像はクリックで拡大されます)

      ロシア10月革命記念

 これは、1918年にボリシェヴィキ政権が発行した10月革命の記念切手です。

 1917年3月8日の2月革命(旧暦2月23日)でロシア皇帝ニコライ2世が退位してロマノフ王朝は崩壊し、臨時政府が樹立されます。一方、労働者・農民・兵士はソヴィエト(評議会)を結成して休戦を強く要求し、戦争を継続しようとする臨時政府と対立。第一次臨時政府は崩壊しました。

 混乱の中、同年5月5日、旧臨時政府の自由主義者に加え、社会革命党(エスエル)とメンシェビキ(旧ロシア社会民主労働党右派)を中心とする社会主義者たちが参加する第一次連立政府が成立しますが、この政府もウクライナ自治問題をめぐって立憲民主党(カデット)の閣僚が辞任して崩壊。社会主義者であるケレンスキーを首班とする第二次連立政府が成立します。

 こうした状況の中で、6月16日、ケレンスキー政権はガリツィアでドイツ・オーストリアに攻撃を開始。緒戦こそロシアが勝利したものの、ロシア軍の士気は低く、7月2日には作戦は失敗に終わっただけでなく、8月にはドイツ軍のリガ攻勢によりリガ(現在はラトヴィアの首都)を奪われてしまいます。

 このため、兵士らの戦争への不満と労働者らの飢餓や苦境への不満が爆発。7月16-20日、首都ペトログラードではボリシェヴィキ(旧ロシア社会民主労働党左派。後のソ連共産党の前身)に率いられた労働者や兵士らが臨時政府に対する七月蜂起を起こしましたが、臨時政府による「ボリシェヴィキの指導者レーニンはドイツのスパイである」との宣伝が功を奏したこともあって、蜂起は失敗に終わりました。

 しかし、8月、「死につつあるロシアの大地を守る」としてコルニーロフ(日露戦争等の英雄で、7月、臨時政府の最高司令官に就任)が、臨時政府の一角を占めるソヴィエトを打倒すべくクーデターを起こすと、当初、ケレンスキーはコルニーロフを支持して軍の首都への導入を依頼したものの、軍が首都に接近すると、自らも打倒されるかもしれないと不安に感じて変心。ケレンスキーは、臨時政府の軍人たちを信頼できず、ボリシェヴィキの赤衛隊などの武装勢力に救援を要請し、ボリシェヴィキの説得を受けた兵士やコサック兵らはコルニーロフを見捨て、クーデターは失敗に終わりました。

 その後、10月10日、ボリシェヴィキの中央委員会は投票を行い、10対2で「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択。ペトログラード・ソヴィエトは、10月12日、軍事革命委員会を設置しました。

 10月23日、ボリシェヴィキの指導者の一人でエストニア人のヤーン・アンヴェルトがエストニア自治政府の首都タリンで武装蜂起を開始。翌24日、最後の反撃を試みた臨時政府がボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠すると、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始。赤衛隊はペトログラードの印刷所、郵便局、発電所、銀行などの要所を制圧し、10月25日(11月7日)、「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立つ軍事革命委員会に移った」との宣言が発せられました。

 さらに、25日午後9時45分、防護巡洋艦アヴローラの砲撃を合図に、ウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ率いる部隊が、臨時政府の閣僚が残る冬宮に進入。26日未明に占領されました。

 これが、ロシア10月革命で、公式な日付としては、冬宮を除くすべての政府機関が占領された10月25日(グレゴリオ暦11月7日)とされています。

 10月27日、第二回ソヴィエト大会は、臨時政府に代わる新しいロシア政府として、レーニンを議長とする「人民委員会議」を設立。世界最初の社会主義国家として、ソヴィエト・ロシア共和国が成立しました。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、1918年初頭に発行されたもので、国名表示は、単に“ロシア”となっています。その後、同年7月19日、ロシア共和国憲法の制定により、国名がロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国(РСФСР=RSFSR)へと改称されると、1921年には“РСФСР”表示の切手が発行されることになります。

 なお、革命の混乱の中で、旧ロシア帝国の各地では、さまざまな勢力が入り乱れての内戦が発生しますが、最終的に、内戦は赤軍勢力の勝利に終わり、1922年、ロシア共和国、ザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国、白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国の4ヵ国からなるソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は9日!★★

 11月9日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第11回が放送予定です。今回は、11月7日に100周年を迎えたロシア革命についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 世界の切手:ルーマニア
2017-11-08 Wed 09:26
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年10月25日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はルーマニア(3回目)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・モルドヴィツァ「コンスタンティノープルの攻防戦」

 これは、1969年に発行されたモルドヴィツァ修道院の壁画「コンスタンティノープルの攻防戦」を取り上げた1枚です。

 現在のモルドヴィツァ修道院の場所には、もともと、アレクサンドル善公が1410年に物見の塔のある要塞を兼ねた石造りの教会を建てたといわれています。これをもとに、1532年、モルダヴィア公のペトゥル・ラレシュが要塞としての防御機能を強化して建てたのが現在の修道院の原型です。

 ペトゥル・ラレシュの時代、モルダヴィア公国はオスマン帝国に膝を屈し、その宗主権を認めて貢納を行う属国となりました。その一方で、オスマン帝国はモルダヴィアに対して一定の自治権を与えていたため、ルーマニア人貴族の勢力は温存され、結果的に、公国は平和と繁栄を享受しています。

 “奴隷の平和”を受け入れざるを得なかった時代環境の中で、“トルコ人”に対する複雑で鬱屈した心理状態が反映されているのが「(626年の)コンスタンティノープル攻防戦」という画題でした。すなわち、この画題は、626年、ホスロー2世率いるペルシャ軍がコンスタンティノープルを包囲した際、彼の地のキリスト教徒は団結して敵を撃退したという史実を表現したものですが、この時代のブコヴィナ地方のフレスコ画では、ペルシャ軍をオスマン帝国風の服装や装備で描くというかたちで表現しています。特に、モルドヴィツァ修道院は、「コンスタンティノープル攻防戦」の戦闘場面が念入りに描かれていることでも有名です。

 さて、『世界の切手コレクション』10月25日号の「世界の国々」では、ブコヴィナの5つの修道院(フモール、ヴォロネツモルドヴィツァスチェヴィツァアルボーレ)についてまとめた長文コラムのほか、ブランクーシの「大地の知恵」、カルパティア山脈、スチャヴァの大城塞、ブラック・セラミックの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のルーマニアの次は、本日(8日)発売の11月15日号でのサウジアラビアの特集になります。こちらについては、発行日の15日以降、このブログでもご紹介する予定です。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は9日!★★

 11月9日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第11回が放送予定です。今回は、11月7日に100周年を迎えたロシア革命についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 ボルネオの吹き矢
2017-11-07 Tue 11:48
 マレーシアを訪問中のチャールズ英皇太子は、きのう(6日)、ボルネオ島北部サバ州で伝統の武器である吹き矢に挑戦したそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英領ノースボルネオ・吹き矢(1939年)

 これは、1939年1月1日、英領ノースボルネオで発行された“先住民(プナン人)の吹き矢”を取り上げた12セント切手です。ちなみに、この切手ではプナン人は長い筒を両手で持って構えていますが、昨日のチャールズ皇太子は、下の写真のように筒の反対側を台に乗せて吹いていました。

      チャールズ・吹き矢

 さて、ボルネオ島北部、現在のマレーシア・サバ州の地域は、かつては、フィリピン諸島とボルネオ島の間に連なるスールー諸島を領土とするスールー王国の支配下にありました。

 1865年、ブルネイ駐在の米領事クロード・リー・モーゼズはノースボルネオの10年間の租借権を獲得しましたが、南北戦争の直後ということもあって、米国政府には植民地経営の余裕がなく、租借権は米国ボルネオ貿易会社に売却されます。しかし、同社はボルネオ経営に失敗し、租借権はオーストリア・ハンガリー帝国の香港領事フォン・オーバーベックに売却されました。フォン・オーバーベックは、当初、本国政府にボルネオ経営を持ちかけたものの失敗し、さらに、イタリアへの売却交渉も不調に終わったため、1880年、ボルネオから撤退します。

 こうした事態を受けて、英系商社・デント商会の係累に当たるアルフレッド・デントが、英国の外交官、ラザフォード・オールコックらの支援を受けて、1881年7月、英国ノースボルネオ会社を設立。翌1882年、ヴィクトリア女王の勅許を得てこの地の統治を始め、1888年7月、ノースボルネオをイギリスの保護領とし、英国ノースボルネオ会社がこれを統治する体制を確立しました。これが、いわゆる英領ノースボルネオです。

 ただし、フォン・オーバーベックとスールー王国のスルタンとの間で結ばれた条約は、あくまでもノースボルネオの賃貸契約であり、売買契約ではないため、その後も、1898年にスールー王国が米領フィリピンの一部に組み込まれるまで、同国がノースボルネオの主権者というのが建前でした。

 第二次大戦中、ノースボルネオを含むボルネオ島北部の英領地域は“北ボルネオ”として日本軍に占領されましたが、戦後、日本軍が撤退すると、ノースボルネオは1946年に英国の直轄植民地となりました。

 その後、1963年、立憲君主制連邦国家マレーシア連邦が建国されると、英領ノースボルネオは同国に編入され、同国のサバ州となり、現在に至っています。ただし、スールーのスルタンの末裔はノースボルネオのスールーへの返還を要求。さらに、スールー王国を継承したとするフィリピン政府もこの立場を支持したため、旧ノースボルネオの帰属をめぐって、フィリピンとマレーシアの対立が生じました。

 ところで、ボルネオ島には数多くの先住民族がいますが、このうち、切手に取り上げられたプナン人は、唯一、伝統的に移動生活をしてきた民族として知られています。吹き矢や銃で狩りを行い(ただし、近年は銃も使用されますが)、植物の採集で食糧を得て、2-3ヶ月に一度、森林資源が減ってくると移動する生活を繰り返してきました。

 その後、1960年代に定住がはじまり、政府の定住化政策や森林資源の枯渇などの理由で、1980年代以降はほとんどのプナン族が定住生活を行うようになりました。現在、約1万人とされるプナン人のうち、移動生活を維持しているのは200人程度とされています。
 

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は9日!★★

 11月9日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第11回が放送予定です。今回は、11月7日に100周年を迎えたロシア革命についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 一の酉
2017-11-06 Mon 08:31
 きょう(6日)は一の酉です。というわけで、例年同様、最新の拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』の重版を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヨルダン・第一次インティファーダ4周年

 これは、1991年にヨルダンが発行した“(第一次)インティファーダ4周年”の記念切手で、パレスチナ地図とハトを背景に、岩のドームとアクサーモスク、それに投石する人々が描かれています。

 ヨルダンとイスラエルの和平交渉は、第一次インティファーダ直前の1987年、当時のイスラエル外相シモン・ペレスとヨルダンのフサイン国王が極秘裏に会談し、ヨルダン川西岸(の一部)をヨルダンに返還する平和条約の調印に向けて水面下で準備が進められましたが、このときは、イスラエル首相イツハク・シャミルの反対で破談になっています。

 その後、第一次インティファーダを経て、1988年にPLOがイスラエルの承認とテロの蜂起を前提とする“パレスチナ国”の樹立を宣言すると、ヨルダンはヨルダン川西岸地区の領有権(の主張)をパレスチナ国に譲渡しましたが、岩のドームを含む神殿丘の管轄権は、引き続き、ヨルダン宗教省が維持することになりました。

 今回ご紹介の切手でも、こうしたことを踏まえて、岩のドームを含む神殿の丘のイメージが取り上げられています。

 一方、ヨルダンが、神殿の丘の管轄権を除き、ヨルダン川西岸の領有権(の主張)をパレスチナ国に譲渡したことになっているのに対して、ヨルダン川西岸地区を実効支配していたイスラエルは、現在にいたるまでパレスチナ国を国家承認していません。

 このため、1993年のオスロ合意を受けてヨルダン川西岸地区でパレスチナ人の自治を行うにしても、いったん、当該地域の帰属をめぐって、イスラエルとヨルダンの間で調整が必要となります。

 かくして、1994年年に入ると、イスラエルのラビン首相とペレス外相、ヨルダンのフサイン国王の三者で和平交渉が開始されました。

 交渉に先立ち、国王はエジプトのホスニー・ムバーラク、シリアのハーフェズ・アサドの両大統領に意見を求めましたが、ムバーラクが和平交渉に賛意を示したのに対して、アサドはイスラエルとは交渉のみにとどめ、いかなる合意も結ぶべきではないと主張したと伝えられています。

 これに対して、米国のクリントン大統領はヨルダンに対してイスラエルと交渉を開始し、和平協定を結べば、九億ドルにも及ぶヨルダンの対米債務を免除することを約束。この結果、1994年7月25日、米国でイスラエルのラビン首相とヨルダンのフセイン国王が“ワシントン宣言”に調印。同年10月、ヨルダンとイスラエルの平和条約が調印されました。

 同条約により、国境が一部修正され、一部の土地がヨルダン領に編入されましたが(その場合でも、イスラエルの農民が耕作していた土地に関しては、リース方式を導入することで、従来どおりの使用権が保証されました)、ヨルダンは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区の領有権を放棄したことが確認されました。そのうえで、神殿の丘の管轄権はヨルダンにあること、イスラエルは毎年、ヨルダンに対して5000万立法メートルの水を提供し、ヤルムーク川(シリア南西部を水源とし、ゴラン高原の東から南へ回り込んでヨルダンとシリアの国境を、次いでヨルダンとイスラエルの国境を形成し、ヨルダン川に流れ込む川)を水源として活用することを認めること、両国は互いに相手国に対して敵対的なプロパガンダを中止し、安全保障面で協力することなどが定められました。

 これを受けて、1995年9月、イスラエルとPLOはワシントンでパレスチナ自治拡大協定を調印し、PLOの自治権が行使される地域や分野などが具体的に定められることになります。
 

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は9日!★★

 11月9日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第11回が放送予定です。今回は、11月7日に100周年を迎えたロシア革命についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 ホークスが2年ぶり日本一
2017-11-05 Sun 06:47
 プロ野球の日本シリーズは、福岡ソフトバンクホークス横浜DeNAベイスターズを4勝2敗で下して2年ぶりの日本一となりました。というわけで、“鷹”の切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ・パスポート

 これは、2012年にパレスチナ自治政府が発行した自治政府の活動を紹介する切手のうち内務省を表す1枚で、アラブ諸国で広く用いられている“サラディンの鷹”の国章を表紙にあしらった自治政府のパスポートが取り上げられています。

 “パレスチナ”表示のパスポートは、英委任統治時代の1924年、“British passport, Palestine”名で発行されたのが最初です。

 1948年5月15日、英国のパレスチナからの撤退とイスラエルの独立宣言を受けて、英国・パレスチナ表示のパスポートは無効となりました。このため、第一次中東戦争で周辺諸国に逃れたパレスチナ難民の多くは国際的に有効なパスポートを持っていませんでしたが、エジプト、シリア、レバノンの各国は、そうした難民に対して、自国のパスポートの発給を認めませんでした。

 第一次中東戦争を経て、旧英領パレスチナの地域は、イスラエル、ヨルダン、エジプトの三国により分割されると、イスラエル領内の住民に対してはイスラエルのパスポートが、エジプト支配下のガザ地区の住民に対しては1949年から1959年まで“全パレスチナ”表示のパスポートが、ヨルダン支配下のヨルダン川西岸地区の住民に対してはヨルダンのパスポートが、それぞれ発給されることになりました。このうち、イスラエルとヨルダンのパスポートは通常のパスポートと同様でしたが、エジプトの発給した“全パレスチナ”のパスポートでは、エジプト本国への自由な入国は認められていませんでした。

 1967年の第三次中東戦争の結果、ヨルダン川西岸はイスラエルにより占領されますが、ヨルダン政府は西岸地区の住民に対して引き続き、ヨルダンのパスポートを発給しつづけました。ただし、このパスポートは、西岸地区の住民が国境を越えて他国に入国する際、1回限りで有効(旅行のたびに新たなパスポートを取得することが必要)という制限がありました。

 1993年のオスロ合意を経て、パレスチナ自治政府が発足すると、1995年4月2日から自治政府は、自らの支配地域の住民を対象に、今回ご紹介の切手に取り上げられた独自のパスポートの発給を開始しました。ちなみに、米国はパレスチナ自治政府を国家承認していませんが、自治政府発行のパスポートでの米国への入国を認めています。また、日本政府は2007年10月以降、自治政府のパスポートでの入国を認めるようになりました。

 なお、パレスチナ自治政府とその切手・郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとっってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(4日)、東京・浅草での全国切手展<JAPEX>会場内で行われた拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』の刊行記念トークイベントは、無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただきました皆様、スタッフ・関係者の皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は9日!★★

 11月9日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第11回が放送予定です。今回は、11月7日に100周年を迎えたロシア革命についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 本日、トークやります。
2017-11-04 Sat 06:17
 本日(4日)12:30より、東京・浅草で開催中の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを行います。というわけで、その予告編として、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      オスマン帝国・メフメト6世即位紀念

 これは、1919年、オスマン帝国が発行した“メフメト6世即位”の記念切手です。

 第一次大戦末期の1918年7月4日、オスマン帝国のスルターン、メフメト5世が崩御し、弟のメフメト6世が後継スルターンとして即位しました。しかし、新スルターンの即位後まもない10月30日には、オスマン帝国はムドロス休戦協定を結んで連合国に降伏してしまいます。

 同協定では、

 ①オスマン帝国は、アナトリア半島の外にある要塞を明け渡し、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡を管理する要塞を占領する権利を連合国に認める
 ②無秩序状態が起こり、連合国の安全に対する脅威となる場合は、オスマン帝国の領土のいかなる部分も占領できる権利を連合国に認める
 ③オスマン帝国軍は、自ら武装解除されることを認める
 ④オスマン帝国は、港湾・鉄道・その他戦略的要地に対する使用権を連合国に認める
 ⑤カフカース(コーカサス)地方では、オスマン帝国軍は大戦前の国境まで撤退する

 ことが定められ、11月13日に首都イスタンブールが英仏伊軍によって占領されたのを皮切りに、連合国による国土占領が進められていきました。

 この時点で、オスマン帝国は事実上の滅亡に等しい状況に陥ったのですが、それでも、形式的にはオスマン帝国政府は残存しており、それゆえ、オスマン帝国の郵政機関は従前どおり、住民に対して郵便サービスを提供していました。

 こうした中で、ともかくも、オスマン帝国郵政としては、メフメト6世即位の記念切手を発行することになったが、彼らには、新たなデザインの切手を発行する余裕はすでになかったため、とりあえず既存の切手に即位の年号である“1334(イスラム暦)-1919(西暦)”の文字や、敗戦後の混乱の中で進行しつつあったインフレに対応するための新額面を加刷したものが、即位の記念切手として発行されました。

 加刷に使われた台切手の中には、大戦中、オスマン帝国軍のエジプト進攻を想定して、占領地で使うために準備していたものの、敗戦により不発行のままに終わっていたものも何種類か含まれていましたが、そのうちの一種が、岩のドームを描く10ピアストル切手でした。今回ご紹介の切手は、これに加刷を施したメフメト6世即位の記念切手で、これこそが、岩のドームを取り上げた最初の切手となりました。

 さて、<JAPEX>のトークイベントでは、今回ご紹介の切手以降、岩のドームがどのように切手に取り上げられてきたのか、その歴史的な変遷を背景事情とともにたどってみたいと考えます。ぜひ、1人でも多くの方にご参加いただけると幸いです。


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 きょうから<JAPEX>
2017-11-03 Fri 08:54
 きょう(3日)から5日まで、東京・浅草の東京都立産業貿易センター台東館6・7階で全国切手展<JAPEX>が開催されます。僕も、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』のプロモーションを兼ねて「パレスチナ郵便史 1995‐2001」と題して、パレスチナ自治政府発足以降のカバーをまとめた1フレーム作品を出品しております。というわけで、きょうはその作品の中からこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      メヴォ・アッザ交換局カバー(1996)  メヴォ・アッザ交換局カバー(1996・裏)

 これは、1996年10月28日、西岸地区北部・ナーブルスの南6㎞に位置するフワーラからガザ地区宛に差し出されたものの、受取人不明で差出人に返戻された郵便物です。

 1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領されたヨルダン川西岸地区(以下、西岸地区)とガザ地区では、1993年のオスロ合意に基づき、1994年5月、カイロでパレスチナ先行自治協定(PLOによる自治を開始するための具体的協定)が調印され、イェリコとガザで暫定自治が開始されました。

 これに伴い、5月4日にはガザ地区で、5月9日にはイェリコで、それぞれ自治政府管轄地域内ではイスラエルの郵政機関が閉鎖され、西岸地区とガザ地区(の自治政府統治地域)および東エルサレム(現在、エルサレム全域はイスラエルの実行支配下にあるが、パレスチナ自治政府は旧市街のある東エルサレムを“首都”と主張)を対象に、パレスチナ自治政府の郵政機関が発足しました。

 その際、飛び地の関係にあった西岸地区からガザ地区宛の郵便交換は、西岸地区からイスラエル領内を経由してガザ地区の入り口にあたるメヴォ・アッザに設けられたイスラエル側の交換局を通じてガザ地区に持ち込まれることとされました。

 今回ご紹介のカバーは、1996年10月28日、西岸地区のフワーラから差し出され、11月4日、ガザ局(ガザ地区の中央局)を経由して、翌5日、宛先のザワーイダまで運ばれています。しかし、受取人不明でガザ局に戻され、保管期間が経過した後、1997年2月5日、メヴォ・アッザの交換局に引き渡され、差出人に返戻されました。ちなみに、料金はこの時期のパレスチナ域内宛書状基本料金の100フィルスです。

 今回の展示は、紙幅の関係から、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便史』ではあまり触れることのできなかった自治政府の郵便制度について、実際に逓送された郵便物を展示して、その概要をまとめてみました。あす(4日)12:30からの『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』の刊行記念トークとあわせて、ご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


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 バルフォア宣言100年
2017-11-02 Thu 09:04
 1917年11月2日、アーサー・バルフォア英外相名義で、英国が大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めた“バルフォア宣言”が発せられてから、きょう(2日)でちょうど100年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・バルフォア宣言50年

 これは、1967年にイスラエルが発行した“バルフォア宣言50年”の記念切手のうち、バルフォア外相の肖像を取り上げた40アゴロット切手です。タブの部分には、エレミヤ書第31章17の一節「あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると主は言われる。」との文言が印刷されています。

 第一次大戦中、ロンドンではシオニズム(世界各地に離散したユダヤ人が“民族的郷土”であるシオンの丘=エルサレムに結集し、ユダヤ人国家を再建しようという政治的主張)の運動を展開していたシオニストたちが英国政府の支援を取り付けるべく工作を展開していました。

 そうしたなかで、シオニスト評議会の議長で、英海軍省の技術顧問だったハイム・ヴァイツマンは、第一次大戦の勃発後、英国に協力し、自らが開発したバクテリア発酵法(無煙火薬の原料となるアセトンをデンプンから合成する技術)の工業化に成功。この結果、年間3万トンのアセトンが英国軍に供給されることになり、その功績から、英政府・軍とのコネクション築きました。

 ヴァイツマンは、そうした人脈を最大限に活用し、アーサー・バルフォア外相から、ユダヤ系貴族院議員ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド男爵宛の書簡というかたちで、「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に民族的郷土を樹立することを好意的に見ており、その目的の達成のために最大限の努力をいたします。ただし、すでにパレスチナに在住している非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、及び他の諸国に住むユダヤ人が享受している諸権利と政治的地位が、これによって害されるものではないことは明確に了解されます」との表明させることに成功しました。

 これがバルフォア宣言です。

 しかし、この時点で、英国はアラブに対して、英国とともにオスマン帝国と戦えば、大戦後、中東地域にアラブの独立国を樹立することを約束していた(フサイン・マクマホン書簡。ただし英国はアラブに対して“独立国”の範囲を明確にしていません)ほか、フランスとは、東地中海のアラブ地域の分割案であるサイクス・ピコ協定をまとめていました。

 こうした中で、1917年11月7日、ロシア10月革命が発生すると、社会主義政権の外相に就任したレフ・トロツキーは旧政権の悪事を暴くとして、サイクス・ピコ協定の内容を暴露。この結果、バルフォア宣言と併せて、中東における英国の“三枚舌外交”が明らかになり、国際世論は騒然となります。

 そこで、釈明を求められたバルフォアは、

 ①メソポタミアは英国の自由裁量(保護国としてのアラブ国家イラク誕生)
 ②レバノンは“純粋なアラブの地”ではなく、フランスの植民地
 ③シリアはフランスの保護下でアラブ人国家となる。ただし、ダマスカス周辺については、“純粋なアラブの地”なのかフランスの勢力圏なのかは不明確
 ④パレスチナは“純粋なアラブの地”の範囲外で、サイクス・ピコ協定で定めた“共同統治”とユダヤ人居住地を意味する“民族的郷土”は矛盾しない、

 とする議会答弁を行い、フサイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言の三者は矛盾しないと主張しました。

 これに対して、アラブ側は英国に対して強い不信感を抱きましたが、戦時下においてはともかくもオスマン帝国に対する勝利を優先し、英国と行動を共にしました。しかし、当然のことながら、大戦後、それらの矛盾が噴出。英国によるパレスチナの委任統治が始まると、バルフォア宣言に基づいてパレスチナへの移住を求めるシオニストと、それを拒否するアラブ、そして両者の間で右往左往する英国という3者により、パレスチナは混乱の渦に巻き込まれていくことになります。

 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 無事帰国しました。
2017-11-01 Wed 23:39
      ブラジリア・コミッショナー・メダル拝領

 本日19:00頃、無事、カタール経由で帰国いたしました。世界切手展<Brasilia 2017>の会期中、現地では、日本から参加された審査員の佐藤浩一さんご夫妻をはじめ、多くの方々にお世話になりました。在伯中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。冒頭の写真は、開会翌日の10月26日夜の懇親会時、今回の展覧会のFIPコンサルタントのピーター・マッキャン氏から、審査員としての参加メダルと感謝状を頂戴している場面です。

 今回頂戴したメダルのデザインは、以下のようなモノで、表面にはカンダンゴ像を取り上げた切手展のロゴマークが彫刻されています。

      ブラジリア・メダル

 また、今回の世界切手展は、ブラジル国内切手展<Brapex 2017>と併催の複合イベント<Colecionar 2017>の一部として開催された形式を取っているため、メダルの裏面には<Colecionar 2017>のロゴマークが彫刻されていました。

      ブラジリア・メダル(裏)

 一方、感謝状は下の画像のようなものでした。

      ブラジリア・賞状

 右上のロゴマークでは、<SPECIALZED WORLD STAMP EXHIBITION>となっていますが、感謝状の見出しは<WORLD STAMP EXIBITION>と“EXHIBITION”の“H”が抜けているあたりは、まぁラテンの国らしいご愛嬌といえましょうか。ちなみに、出品者用のメダルは、賞の上下に関わらず、審査員・コミッショナー用のモノと全く同一なので事前に準備されており、作品と一緒に持ち帰りましたが、賞状は審査結果を受けてからの制作で、後日、コミッショナー宛にまとめて送られてくるそうです。その際には、スペルミスが修正されていると良いのですが…。

 なお、今回の切手展の会期初日にあたる24日、ブラジル郵政は、世界遺産・ブラジリアを題材にした切手シートを発行し、その余白に<Brasilia 2017>および<Brapex 2017>のロゴを入れています。切手展の開催を直接的に記念する切手類は、今回はこれだけでした。
 
      ブラジリア・記念切手

 さて、今年の国際切手展は今回の<Brasilia 2017>でおしまいですが、次は、来年(2018年)は5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展には、僕もコミッショナーとして参加することになっており、現在、出品物の応募も受け付けております。今後とも、皆様にはいろいろとお世話になることがあるかと思われますが、よろしくお願いいたします。


★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

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 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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