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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ナウル共和国独立50年
2018-01-31 Wed 10:32
 太平洋の島国で、“世界最小の共和国”として知られるナウルが、1968年1月31日に独立してから、今日で50年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ナウル・独立記念

 これは、1968年のナウル独立時に発行された記念切手で、ナウル地図と苗を植える手が描かれています。

 ナウル島が西洋人によって“発見”されたのは1798年のことでした。1888年、同島はドイツ領となり、翌1889年、豊富なリン鉱石が発見されます。これは、地下の鉱脈があったというわけではなく、島に積もっていたアホウドリの糞が長い年月をかけてリンに変化していったというものです。

 ナウルにおけるリン鉱石の採掘は1906年から本格的に始まりましたが、1914年に始まる第一次大戦の過程でオーストラリアがこの島を占領。ナウルは英国の支配下に入りました。

 第一次大戦後、ナウルは英国、オーストラリア、ニュージーランド3国の委任統治下におかれ、リン鉱石は英国が採掘することになります。第2次大戦中は日本軍に占領されますが、戦後の1946年、米国が占領。翌1947年からは国連の信託統治領となりました。

 さて、 島全体がリン鉱石の塊といっても良い状態だったナウルは、1990年代までは、リン鉱石の輸出によって経済的に潤っていました。当時はほぼすべての食料品と工業製品の調達はもちろん、政府職員を除くほぼすべての労働力も出稼ぎ外国人が担っており、貿易依存度は輸出、輸入とも100%を超えていました。借金してまで一切の物資を輸入するため、先物のような形で輸出もすべて予約が入っているという状況でした。

 この間、1962年には、当時のロバート・メンジーズ豪首相が、「リン鉱石の過剰な採掘によってナウルの経済発展や農業の機会を奪った責任がある」と認めたうえで、英豪ニュージーランドの3カ国は「ナウル国民が納得できる未来を差し出す明確な義務を負う」として、ナウルの全住民が集団移住できる島を豪政府として探し始めます。その候補地としては、当時は英領だったフィジーソロモン諸島オーストラリアの委任統治領だったパプアニューギニア、オーストラリア北部のノーザンテリトリー周辺海域、クイーンズランド州のフレーザー島、カーティス島などがあがりましたが、結局、話はまとまりませんでした。

 こうしたなかで、1968年1月31日、ナウルは英連邦内の共和国として独立しますが、その後も、リンの採掘に依存する経済運営が続きました。特に、1982年から1990年にかけてナウル政府がリンの採掘を行っていた時期は、リンの輸出によって入ってきた収入を国民にばら撒きつづけていたため、国民の労働意欲は極限まで低下。働くことを知らない国民(!)が相当数を占めるようになってしまいました。

 それでも、リン鉱石が無尽蔵に採れれば問題ないのですが、1990年代後半から資源は枯渇し始め、ナウル経済は急速に悪化。貧すれば鈍するの言葉どおり、ここでナウル政府は、海外からの資金流入と国際金融業の参入を狙って、ほぼすべての規制を廃止するという賭けに出ますが、結果として、やってきたのはマネーロンダリングをしようという輩ばかりで、世界の警察官・米国を激怒させ、元通り規制を復活せざるを得なくなりました。

 さらに、2001年には、オーストラリアに向かったアフガニスタン難民を受け入れる見返りとして、オーストラリアから援助を引き出していますが、肝心の難民たちがオーストラリア入りを希望し、ハンガーストライキを始めてしまったため、彼らはオーストラリアに引き渡されるというありさまでした。それでも、これを機に、オーストラリアに向かう難民を引き受けるという名目で、ナウル政府はオーストラリアからの補助金を得るというモデルが出来上がりました。

 そのほかにも、2003年2月には、諸外国からナウルへの通信が途絶し、すわ政変かと国際社会が注目していたところ、単にお金がなくて通信設備が維持できなくなっただけだったことが判明したり、財政危機により政府所有の旅客機がオーストラリアに差し押さえられたりと、なんとも間抜けな話題が次から次へと出てきます。

 現在、ナウル政府は、まず国民に“働く”ことを教えようと、小学校の高学年で働き方を教える授業を行っていますが(大人たちに関しては、もう諦めたということなんでしょうね)、これも一朝一夕に効果が出るというものではありません。そもそも、現在のナウルには企業そのものがほとんど存在していませんし、約90年間に及ぶリン鉱石採掘のため、島の中央部は一切の車両通行が不可能なほど荒れており、インフラの整備もままならないという状況では、リンが枯渇したこの島に投資しようという奇特な外国企業なんてあるはずもないのが現状です。



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 犬吠埼マリンパークあす閉館
2018-01-30 Tue 11:19
 銚子市犬吠埼の水族館、犬吠埼マリンパークは、きのう(29日)、来館者の減少や施設の老朽化を理由にあす(31日)で閉館すると発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      第28回国体

 これは、1973年10月14日に発行された第28回国民体育大会(国体)の記念切手で、女性ランナーの背景に、銚子市の東突端に立つ犬吠埼灯台が描かれています。

 1973年の秋季国体は、千葉県の県政百年の記念事業の一つとして、10月14日から19日までの日程で、千葉県下22市6町の64会場で実施されました。大会名称は“若潮国体”で、スローガンは「輝く心 輝く力 輝く太陽」。競技数は28(うち、山岳と芸術の2競技は公開競技)で、参加者は1万6531名でした。

 今回ご紹介の切手に描かれている犬吠埼灯台は、日本に5つしかない最大の第1等レンズを使用した第1等灯台で、灯塔高 (地上から塔頂までの高さ)は、煉瓦製の建造物としては尻屋埼灯台に次ぐ、日本第2位の31.3 mです。英国の灯台技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計・施行により、1874年に竣工・初点灯しました。

 切手では、灯塔に小さく窓が見えますが、犬吠埼灯台では灯塔の窓は敷地入口のある陸側にのみありますので、陸側から見た姿とわかります。今回、突然の閉鎖が発表されたマリンパークは灯台から西へ約200mのところにありますので、画面の左手前方向に切手の外側にあるイメージとなりましょうか。

 犬吠埼マリンパークは、1954年、銚子市により銚子水族館として開館し、当初は、銚子市観光協会が運営していました。その後、1963年に京成電鉄が銚子市から譲渡されて“京成マリンパーク犬吠埼水族館”となりましたが、1984年、(昭和59年)に、京成電鉄が撤退したため、水族館内にテナントとして出店していた富士食品が6億円で水族館を買収。富士食品の出資する子会社として“犬吠埼マリンパーク”が運営することとなりました。

 その後、富士食品は2002年2月に民事再生法の適用を申請して倒産しましたが、これに先立つ同年1月、マリンパークの経営は富士食品から分離され、営業が続けられていました。

 水族館の運営会社、犬吠埼マリンパークによると、ピーク時は来館者数が年間30万人ありましたが、2011年の東日本大震災後、銚子市内の宿泊施設は無事で、地元で採れる魚や農産物からは国の基準値を超える放射性物質は検出されていないにもかかわらず、根拠のない風評被害が広がったこともあり、犬吠埼の観光客が激減。マリンパークの来館者数も、現在は4-5万人にまで落ち込んでいました。

 こうした中、マリンパークも建物の耐震化工事や老朽化した設備を更新するための資金繰りのめどが立たなくなり、今月31日での閉館にいたったそうです。

 ちなみに、犬吠埼の地名の由来は、諸説ありますが、源義経の愛犬“若丸”が岬に置き去りにされ、主人を慕う余り、7日7晩鳴き続けたことから犬吠(犬が吠く)と名付けられたという説が有力だそうです。水族館の閉鎖後、せめて、置き去りにされた魚が鳴きつづけるということにはならないようにお願いしたいですね。


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 世界の切手:インドネシア
2018-01-29 Mon 10:33
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年1月24日号が刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はインドネシア(3回目)を取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      軍事郵便はがき(蘭印・パレンバン)

 これは、日本占領下のパレンバン州政庁に勤務していたスタッフが、兵庫県宛に差し出した“特別軍事航空はがき”の往片です。差出人のアドレスとして「スマトラ南パレンバン州」との記載がありますが、当時の州名は“パレンバン州”ですので、文意としては、スマトラ南で切れると理解してください。

 特別軍事航空はがきは、先の大戦中、南方のセンチ=内地(日本本土)間の私用軍事郵便を迅速に配達するため、陸軍省と海軍省が製造した往復はがきで、往信・返信ともに軍用機によって輸送されました。料金は無料で、軍人・軍属に限り、月2枚ずつ支給されています。

 第二次大戦以前のオランダ領東インド(現インドネシア。以下、蘭印)全体の石油産業は、バターフセ石油会社(BPM。ロイヤル・ダッチ・シェル系)、スタンダード・ヴァキューム石油会社(スタンバック)、オランダ太平洋石油会社(NPPM。現カルテックス)の3社体制で、1939年の総生産量は800万トンでしたが、そのうち、スマトラ島南部パレンバン周辺地区での産出量は300万トンで、同じくスマトラの北アチェ地区やボルネオのサンガサンガ地区、ジャワのチェプー地区の100万トンを大きく上回っていました。ちなみに、当時のわが国の石油の年所要量は約500万トンです。

 戦前の大日本帝国は石油資源の8割を米国に依存していたため、輸入先の多角化は重要課題でした。このため、距離的にも近く、豊富な石油資源を持つ蘭印との関係強化が必要とされ、1934年には長尾春一大使を主席とする代表団をバタヴィアに派遣し、両国の友好親善の促進が図られています。

 しかし、いわゆる日中戦争(支那事変)が始まった1937年以降、石油の需要は増大したにもかかわらず、蘭印からの石油の輸入量は約87万トン(1937年)→約67万トン(1938年)→約57万トン(1939年)と減少しました。

 1939年9月1日に第二次欧州大戦が勃発すると、わが国は欧州の戦火がオランダに波及しないことを切望することをオランダに伝え、当初はオランダも対独戦争は回避できるとの見通しを示していました。

 ところが、1940年5月10日、ドイツはオランダに侵攻し、全土を占領。同月13日にはオランダ女王と政府はロンドンに亡命します。

 事態の進展を受けて、5月11日、日本政府は各国に対して蘭印の現状維持を申し入れるとともに、5月18日、オランダに対して、石油100万トン、ボーキサイト20万トン等の対日輸出の確約を求めましたが、オランダ亡命政府は明確な回答をしませんでした。

 日蘭交渉が停滞しているうちに、1940年9月、日本軍は北部仏印進駐を行い、日独伊三国軍事同盟を調印。米国は日本に対する態度を硬化させ、屑鉄の対日輸出を禁止すると、オランダも米英への傾斜を強め、米英中蘭の“ABCD包囲網”が形成されていきます。

 その後、米国による対日資産の凍結(1941年6月)、石油の対日禁輸措置(同8月)などで追い詰められた日本は、蘭印、特にパレンバンの石油と飛行場を確保するための南方作戦を立案。1941年12月、米英蘭に宣戦布告し、いわゆる太平洋戦争が勃発しました。

 1942年2月14日、日本陸軍の第1挺団は、パレンバンの油田・製油所と飛行場に対して落下傘で降下。翌15日午後には、第2悌団がパレンバン市街地南側の湿地に降下し、パレンバン市全域を占領し、肝心の油田と製油所もほぼ無傷で確保します。これが、いわゆる“空の神兵”で、戦時歌謡や渡辺義美監督の映画の題名になりました。

 郵便に関しては、2月14日の奇襲攻撃を受けてパレンバン市内の業務が一時停止されましたが、この間、略奪行為が横行し、郵便局でも額面総計20万ギルダーもの切手が盗難に遭ったといわれています。

 このため、日本の占領当局は3月23日付でパレンバン中央郵便局のI・P・レンコン局長に、略奪された切手と区別できるよう、再開後に販売する切手には加刷を施すように」と通達。これを受けて、翌24日から郵便業務が再開され、4月以降、州内(および隣接するベンクーレン州のケパヒアン局とジャンビ州のサルラングン局)では局長のイニシャル“IPL”などを加刷した切手が順次発行されました。

 さて、『世界の切手コレクション』1月24日号の「世界の国々」では、パレンバンにフォーカスをあて、戦前のパレンバン発着のエアメールや、日本の戦争賠償としてインドネシア政府に供与されたアンペラ橋インドネシア陸軍司令官アフマド・ヤニ2011年の東南アジア競技大会の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。また、併せて拙著『蘭印戦跡紀行』もご覧いただけると幸いです。

 なお、僕が担当する「世界の国々」は、次回は1月31日発売の2月7日号でのペルー(と一部セントルシア)の特集になります。こちらについては、2月7日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 大相撲は栃ノ心が優勝
2018-01-28 Sun 14:58
 大相撲初場所は、きのう(27日)、千秋楽を待たずにジョージア(グルジア)出身の西前頭3枚目の栃ノ心が優勝を決めました。ジョージア出身では初めてで、欧州出身では琴欧洲把瑠都に続く3人目、平幕優勝は2012年夏場所の旭天鵬以来6年ぶりです。というわけで、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      グルジア最初の切手

 これは、1919年5月26日、グルジア民主共和国が発行したグルジア最初の切手で、中央にはグルジアの守護聖人、聖ゲオルギオスが描かれています。

 ロシア帝国時代、現在のジョージアを含む南コーカサス地方はチフリス(現トビリシ)カフカース総督府の管轄下に置かれていましたが、1917年のロシア二月革命後、その権限は超党派のザカフカース特別委員会に引き継がれました。委員会は、ボリシェヴィキによる十月革命には従わず、1917年11月にザカフカース委員部を形成。同盟国側のオスマン帝国軍の侵攻を受けたため、1918年2月、独自の立法機関としてザカフカース議会を設置して対抗しました。

 これに対して、同年3月、ボリシェヴィキ政権は同盟国側とはブレスト=リトフスク条約を結び、ザカフカース委員部に諮ることなく、カルス州とバトゥーム州を放棄したため、4月22日、ザカフカース議会はロシアからの分離とザカフカース民主連邦共和国の建国を宣言します。

 同共和国はグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンというそれぞれ背景の異なる3国の寄り合い所帯で、トルコ人と敵対関係にあったアルメニア人がオスマン軍を撃退することを当面の急務と考えていたのに対して、ムスリムが多いアゼルバイジャンではオスマン帝国を支持する声が多く、グルジアではオスマン帝国よりもドイツと交渉して利益を確保することを目指していました。こうしたことから、内部対立の深刻化により、1918年5月26日、グルジアはグルジア民主共和国の建国を宣言して独立しました。今回ご紹介の切手は、ここから1周年になるのに合わせて発行されたものです。

 ちなみに、1918年5月26日のグルジア独立に続いて、翌27日にはアゼルバイジャン民主共和国が、さらに28日にはアルメニア共和国が建国されています。

 独立後のグルジアはドイツと協定を結び、ドイツ軍が進駐しましたが、同年11月のドイツ降伏に伴いドイツ軍は撤収。1918年12月には英軍が進駐し、最大の港湾都市であったバトゥミは英国の占領下に置かれました。

 ロシア内戦中、グルジア政府はボリシェヴィキのロシアと対立して白軍を援助していましたが、1920年に入り、隣接するアルメニア、アゼルバイジャンがソヴィエト化すると、グルジアもロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国と平和条約を締結せざるを得なくなります。そして、1921年2月11日、ロリでグルジア共産党(ボリシェヴィキ)による蜂起が始まると、オルジョニキーゼ率いる赤軍がグルジアに侵攻。2月25日、赤軍の支援の下、グルジア革命会議が首都チフリスを支配下に置き、ソヴィエト派によってグルジア社会主義ソビエト共和国が建国されました。
 
 その後、グルジア民主共和国政府はバトゥミに移ったものの、3月17日に国軍が降伏。1922年末にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が発足すると、バトゥミを含むグルジアは連邦を構成するザカフカース・ソヴィエト連邦社会主義共和国の一部となり(1936年にグルジア・ソヴィエト社会主義共和国として連邦構成共和国に昇格)、1991年に再独立を果たすまで、ソ連の支配下に置かれ続けました。


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 国際ホロコースト記念日
2018-01-27 Sat 11:01
 きょう(27日)は、1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が解放されたことにちなみ、“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(国際ホロコースト記念日)”です。というわけで、アウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      RSHA郵便工作・紫印

 これは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の存在を外部に秘匿するための、いわゆる“RSHA郵便工作”によって差し出された葉書です。

 1942年1月に「ユダヤ人問題の最終解決」を策定して以降、ナチス・ドイツは本格的にユダヤ人絶滅政策に着手していくことになりますが、彼らは、自ら行っているユダヤ人の大量虐殺の事実が明るみに出て、国際社会の指弾を受けることについてはできる限り避けたいと考えており、そのためのさまざまな偽装工作が行われました。

 その代表例が、ベーメン・メーレン保護領のボヘミア地方に置かれていたテレージエンシュタット(チェコ語名テレジーン)収容所でした。

 テレージエンシュタット収容所は、国際赤十字の視察調査を受け入れるための施設という色彩が強かったため、他の収容所より外観が丁寧に整えるなど、収容者を優遇していることを装う風が整えられていましたが、それでも、1941年11月24日から1945年4月20日までの間、総計14万人以上のユダヤ人が収容され、そのうち3万3000人以上が亡くなっています。この数字は、他の収容所よりは多少はましだったのかもしれませんが、それでも、過酷な状況であったことには変わりありません。

 このように、外部世界に対するショウ・ウィンドウとしてテレージエンシュタット収容所を作ってまで、自分たちの残虐行為を秘匿しようとしていたナチス・ドイツにとっては、最大規模の絶滅収容所である、ビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所は、その存在さえ、外部には知られたくないものでした。

 このため、アウシュヴィッツ・ビルケナウの存在そのものの秘匿工作の一環として、1942年8月以降、“RSHA郵便工作”と呼ばれる偽装工作が開始されます。ちなみに、RSHAとは、ナチス親衛隊の12本部のうち、ドイツ本国およびドイツ占領地の敵性分子を諜報・摘発・排除する政治警察機構の司令塔であった“国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt der SS)の略称です。

 RSHA郵便工作では、新たにアウシュヴィッツに到着した収容者に手紙を書かせる際、通常の収容者の葉書のように注意事項が印刷されてない用紙を支給し、差出人の住所としては強制収容所の施設名として一般に使われる“Konzentlationslager”ではなく、労働者が集団生活を行っているという意味で“Arbeitslager”が用いられています。

 工作活動の一環として書かされた手紙ですから、内容面でも、収容者の健康状態が良好である、食事や居住環境などに不満はない、労働面でも厚遇されているといった類のもので、収容所におけるユダヤ人迫害を否定し、ナチスの“人道的措置”をアピールするものとなっています。この種の葉書を受け取ったユダヤ人の中には、同胞からの手紙の内容を信じて、アウシュヴィッツに行けばゲットーの中にいるよりも生活状況が改善されると思わされて、自らアウシュヴィッツ行を希望してしまった者さえ少なからずあったと報告されています。

 RSHA郵便工作では、主として、テレージエンシュタット収容所からビルケナウ収容所に移送されてきたばかりの収容者にこうした手紙を書かせていました。上述のように、テレージエンシュタットの収容者の待遇は、他の収容所に比べれば比較的良好でしたから、その経験の上に、ビルケナウでも屋内の軽作業に従事させてから手紙を書かせれば、「(他の人々の劣悪きわまる悲惨な状況に比べれば)自分たちは良い条件の下で働いている」との手紙の文面は、あながちウソではないとの収容所側の強弁も成立しないわけではないかもしれません。しかしながら、そうした手紙を書き終えた後、収容者たちの生活環境は一挙に暗転するのが常でした。

 さて、RSHA郵便工作の葉書はビルケナウからいったんベルリンに送られた後、そこで検閲を受けるとともに、いまだ収容所に移送されていない受取人の住所氏名をチェックしたうえで、返信時の注意を記した紫色の印を押されて、ベルリン市内のシャルロッテンブルク郵便局に持ち込まれました。

 紫色の印の文面は「葉書についての返信はドイツ語で、ベルリン市N65、イラニッシェ通り2番地のドイツ帝国ユダヤ人協会を通じてのみ受け付ける(Rückantwort nur auf/ Postkarten in deutscher Sprache/ über die/ Reichsvereinigung der Juden in Deutschland./ Berlin N65, Iranische Straße 2)」となっていますが、実際に、このルートで収容所の収容者に届けられた郵便物は確認されていません。なお、ドイツ帝国ユダヤ人協会は、オーストリアとベーメン・メーレン保護領を除くドイツ本国の“全ユダヤ人”が強制的に加入させられた組織で、1939年7月4日に創設され、国家保安本部が管轄していました。

 郵便工作による郵便物は、ベルリンに運ばれた後、国家保安本部によって6ペニヒ切手を貼られた後、ベルリン・シャルロッテンブルク2郵便局から発送されました。

 今回ご紹介の葉書は、そうした郵便工作によってビルケナウの収容者がブリュン宛に差し出した葉書で、葉書が書かれたのは1943年10月20日、シャルロッテンブルク郵便局の消印は同年11月15日である。宛先のブリュンは現在のチェコ共和国ブルノのこと。第一次大戦以前はハプスブルク帝国が支配していましたが、戦間期にチェコスロヴァキア領に編入されています。モラヴィアの中心都市でしたが、ナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア解体によりベーメン・メーレン保護領に編入。歴史的にはドイツ系住民が多かったため、周囲をチェコ語圏に囲まれたドイツ語の言語島を構成していましたが、第二次大戦後、この地域に住んでいたドイツ系住民は復活したチェコスロヴァキア政府により国外追放処分となりました。

 なお、葉書に押されている消印には、「食糧は武器だ(Nahrung ist Waffe)」と戦時下の食糧増産を訴えるスローガンが入っており、この点からも当時の世情がうかがえるのが興味深いところです。

 ちなみに、アウシュヴィッツと郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 ラムセス2世像、ギザへ
2018-01-26 Fri 18:29
 エジプトできのう(25日)、かつてカイロのラムセス駅前に置かれていた古代エジプトのファラオ、ラムセス2世の巨大像が、ギーザ(ギザ)の大ピラミッドの近くに建設中の大エジプト博物館の正面玄関に設置するための移設工事が行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・航空切手(ラムセス像・1971年)

 これは、1971年にエジプトで発行された航空切手で、カイロ・ラムセス駅前のラムセス2世像が描かれています。切手の左側にはナセル(ガマール・アブドゥン・ナーセル)の肖像が入っていますが、ナセル本人は切手発行以前の1970年9月28日に亡くなっていますので、この切手には彼を追悼する意味も込められています。

 今回、ギーザに移設されたラムセス像は、3200年前に作られたと考えられており、重さは83トン。1882年に、ギーザの20キロ南方のメンフィスにあるフウト・カ・プタハ神殿で発見されときは、ばらばらの状態になっていました。

 一方、今回ご紹介の切手に取り上げられたラムセス駅は、もともとは、1856年にカイロ=アレキサンドリア間の鉄道が開通した際に、カイロ側の終着駅として建設されたもので、当初はミスル駅(ミスルはアラビア語でエジプトの意)と呼ばれていました。それが、ナセル政権下の1955年、革命後のアラブ・ナショナリズムの高揚を反映して、リビア、ヌビア、パレスチナに版図を拡大したラムセス2世にちなんでラムセス駅と改称され、あわせて駅前広場(ラムセス広場と改称)にメンフィスで発見されたラムセス2世像が修復され、設置されました。今回ご紹介の切手にも取り上げられているのは、その風景です。

 その後、ラムセス広場のラムセス2世像はカイロ中心部のランドマークとなっていましたが、カイロ市内でも最も繁華な地域に置かれていることもあって、排ガスや地下鉄の振動によって像の劣化が進行。このため、ギーザに開館予定の“大エジプト博物館”に移されることになり、2006年に同館の建設敷地内に移送されていました。

 当初、博物館は2011年に開館予定でしたが、建設作業は大幅に遅れ(これを2012年1月の“革命”やその後の政治的混乱のせいにするのは、さすがに無理があるでしょうね)、工事の70パーセントがようやく完成したことを受けて、きのう、ようやく正面玄関に移設されることになったというわけです。

 今回の移設工事では、ラムセス2世像は、2台の大型トレーラーに設置された専用の金属フレームに収められ、軍楽隊が演奏する中、およそ400メートルの道のりをゆっくりと移動し、その様子はメディアでも実況されました。ちなみに、関係者によると、博物館は1年以内に一部開館の見通しということですが…。
 

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 南ヴェトナム国旗を掲げ禁錮刑
2018-01-25 Thu 11:09
 ヴェトナムの国営メディアは、きのう(24日)、2016年4月30日の“南ヴェトナム解放記念日”に旧南ヴェトナム(ヴェトナム共和国)の国旗を掲げた1人を含む仏教徒の活動家4人が、“反国家的プロパガンダ”の罪で6-12年の禁錮刑の判決を受け、収監されたと報じました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェトナム共和国5周年

 これは、1960年、南ヴェトナムが発行した“ヴェトナム共和国5周年”の記念切手で、ヴェトナム地図を背景に、今回問題となったヴェトナム共和国の国旗が描かれています。

 1945年3月、日本軍は明号作戦を発動してインドシナ全域を軍事占領下に置きましたが、同年8月には降伏してしまいます。こうした混乱の中で、フランスに対して植民地解放闘争を戦ってきた越南独立同盟(ヴェトミン)はヴェトナム独立を宣言してハノイで蜂起。ホーチミンを国家主席とするヴェトナム民主共和国が樹立されます。

 これに対して、1945年9月、英国の支援を受けたフランス軍は、インドシナ半島に再上陸し、ヴェトミンと戦闘状態に突入。第一次インドシナ戦争がはじまりました。

 こうした中で、フランスは、ヴェトナム民主共和国に反感を持つ反共知識人や反共民族主義者、阮朝時代の官人や南部ヴェトナムの諸宗教団体などの支持も得て、香港に亡命していた阮朝最後の皇帝バオ・ダイを擁立してヴェトナム国の建国を計画。1948年5月27日、暫定政府としてヴェトナム臨時中央政府を成立させます。これにあわせて、画家のレ・ヴァン・デにより、ヴェトナムでは、古くから、民族の象徴旗として“黄色旗”をベースに、ヴェトナムの北部・中部・南部を象徴する3本の赤線を入れた国旗が制定されました。

 その後、1949年3月のフランス・ベトナム協定を経て、同年6月14日、ヴェトナム国に正式に発足。さらに、1954年にジュネーヴ協定が結ばれて第一次インドシナ戦争が休戦となると、ヴェトナムは北緯17度線を軍事境界線として、ヴェトナム民主共和国(北ベトナム)とヴェトナム国(南ベトナム)に分割され、バオ・ダイは正式にベトナム国元首となります。

 しかし、バオ・ダイは自らが首相に指名したゴ・ディン・ジエムと対立し、クーデタを企図するも失敗。逆に、米国の支援を受けたゴは、1955年に国民投票を行なってバオ・ダイを免職し、“ヴェトナム共和国”を樹立して自らが初代大統領に就任しました。今回ご紹介の切手は、ここから5周年になるのを記念して発行されたものです。

 なお、ヴェトナム共和国の発足に際して、国旗はヴェトナム国時代のモノがそのまま継承され、1975年の国家消滅まで使用されましたが、ヴェトナム社会主義共和国の成立に伴い、旧南ヴェトナム国旗の掲揚は法律によって禁止され、現在にいたっています。 逆に、海外在中のヴェトナム人の間では、現在のヴェトナム国家に対する体制批判の象徴として、また、中国の侵略を受けている西沙諸島がヴェトナム共和国の領土であったことを示す反中国の象徴として、デモなどに際して掲げられることがあります。
 

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 月探査レース、終了宣言
2018-01-24 Wed 22:49
 民間による世界初の月面探査レース「グーグル・ルナ・エックスプライズ」を主催する米エックスプライズ財団は、きょう(24日)までに、今年3月末の期限内に月面に到達する可能性があるチームがなくなったとして、レースの終了を宣言しました。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ルナ9号飛行ルート(1966)

 これは、1966年11月25日にソ連が発行したルナ9号の飛行ルートを描く切手です。

 1957年10月、スプートニク1号で人工衛星の地球周回軌道投入に成功したソ連にとっての次なる課題は無人の月探査でした。

 このため、1958年に入ると、ソ連はルナ探査機を3回にわたって打ち上げたものの、同年中はすべて失敗に終わっています。

 しかし、1959年1月1日、ソ連首相のフルシチョフが新年の辞で社会主義の優位をうたいあげ、その翌日の2日、バイコヌール宇宙基地から探査機を載せて打ち上げられたボストーク・ロケットは、ついに月へと向かう軌道に探査機を投入することに成功しました。これがルナ1号です。ただし、ルナ1号は月面への着陸ないしは衝突を目的としていましたが、結果的に、同機は1月4日に月から5995キロの地点を通過し、初期の目的を達成できずに終わっています。

 続いて同年9月12日に打ち上げられたルナ2号は、翌13日、月面に到達。世界で初めて月面に到達した人工物となりました。この間、ルナ2号は観測活動を行い、月には地球にあるような磁場が無くバンアレン帯のような放射線帯も存在しないことを明らかにしたほか、いわゆる太陽風(太陽から流れ出る大量のイオン流)の存在を確認するなどの成果を上げています。

 さらに、3週間後の10月4日に打ち上げられたルナ3号は月の裏側を世界で初めて撮影することに成功。この時点では、米国のパイオニア計画では、パイオニア4号が月から6万キロの距離を通過した程度で、米ソの宇宙開発はソ連が圧倒的にリードしていました。

 その後、ソ連は有人宇宙飛行の実現に力を入れたため、月探査はしばらく中断されましたが、1961年4月12日、ボストーク1号が米国に先んじて世界初の有人宇宙飛行に成功すると、ソ連は有人月飛行の調査と技術開発のためルナ計画を再開。1966年1月31日に打ち上げられたルナ9号が2月3日に世界で初めて月面への軟着陸に成功し、陸地点周辺のパノラマ撮影を行い、データを地球へ送信しました。

 さて、今回の月探査レースは、これまで、国家レベルのプロジェクトと考えられていた月探査を、起業家や技術者、投資家で構成される民間の小さなチームで実現を目指したという点で画期的なもので、日本の民間月面探査チーム「HAKUTO」のほか、「SpaceIL」(イスラエル)、「Moon Express」(米国)、「Synergy Moon」(国際チーム)、「TeamIndus」(インド)の計5チームが参加していました。残念ながら、ミッションをやり遂げるチームは一つも出ませんでしたが、その蓄積は、ぜひ、今後に生かしていただきたいですね。


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 プエブロ号事件50年
2018-01-23 Tue 12:18
 1968年1月23日、北朝鮮が米海軍の情報収集艦“プエブロ号”を拿捕したプエブロ号事件の発生から、今日でちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・プエブロ号事件(2008)

 これは、2008年の“反米共同闘争月間”にあわせて北朝鮮が発行した切手で、平壌の大同江に係留されているプエブロ号と北朝鮮に捕えられた乗員が取り上げられています。

 “反米共同闘争月間”は、1950年に朝鮮戦争が勃発した6月25日から1953年に休戦協定が調印された7月23日までのほぼ1ヵ月間、「年代と世紀を継いで米帝の極悪な対朝鮮圧殺策動を粉砕し、民族の自主権と尊厳を守り、祖国の統一を成し遂げるための朝鮮人民のたたかいを力強く支持、声援する契機」とすることを目的として、1963年、朝鮮戦争(北朝鮮側の呼称は“祖国解放戦争”)の休戦10周年を機に設定されました。

 さて、プエブロ号は、1944年4月、米陸軍のカマノ級軽輸送艦 FS-344 として進水し、1966年、米海軍に移管。その際、コロラド州プエブロにちなんで“プエブロ号”と改名され、諜報活動のための情報収集艦として用いられるようになりました。

 ヴェトナム戦争中の1968年1月5日、プエブロ号は、対馬海峡で行動するソ連海軍の潜水艦の探知と北朝鮮の通信傍受のため、日本の佐世保基地を出航。同月21日、朴正煕大統領の暗殺を目的に、朝鮮人民軍が青瓦台襲撃未遂事件を起こしたこともあって、プエブロ号は北朝鮮東岸の元山沖の洋上でNSAの電波情報を収集していましたが、これに対して、北朝鮮警備艇が領海侵犯を理由に攻撃。乗員1名が死亡し、82名が北朝鮮に身柄を拘束され、拷問を伴う取り調べを受けています。

 プエブロ号が実際に領海侵犯を行ったかどうかについては米朝間で意見が食い違っており、領海侵犯はなかったとする米国は、当初、空軍に戦闘準備を命じ、海軍空母部隊(航空機200機)を日本海に展開して乗組員の解放を要求しました。しかし、最終的に、ヴェトナム戦争が拡大し、青瓦台襲撃未遂事件で朝鮮半島情勢が緊迫化する中で、ソ連の介入を招くのは得策ではないとの判断から、同年12月23日、米国は北朝鮮の用意した謝罪文書に署名。乗員は11ヵ月ぶりにようやく解放されました。

 北朝鮮当局は、米国に対する“勝利”の象徴として、事件後もプエブロ号の船体を返還せず、元山港に係留していましたが、1998年頃、船体を平壌市内の大同江・忠誠橋付近に移動。現在もプエブロ号は同地で一般公開され、国民の反米教育に利用されています。


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 51歳になりました。
2018-01-22 Mon 10:17
 私事ながら、本日(22日)をもって51歳になりました。「だからどうした」といわれればそれまでなのですが、せっかく年に1度のことですから、“1月22日”関連のマテリアルのなかから、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ・1月22日カバー

 これは、いまから20年前の1998年1月22日、ガザ地区のハーン・ユーニスからオーストラリア宛に差し出された書留便で、パレスチナ自治政府の切手、計1260フィルスが貼られています。当時のパレスチナ自治政府の料金体系だと、イスラエル経由のオーストラリア宛書状(20-50g)が450フィルス、外信書留料金が760フィルスですので、50フィルスの過貼ということになります。

 貼られている切手は、1995年に発行されたフィルス額面加刷切手(国旗・250フィルス)および“委任統治領時代の切手”3種セット、1996年に発行されたアラファトの肖像を描く普通切手(10フィルス)切手です。

 このうち、“委任統治領時代の切手”はパレスチナ自治政府の発足により、1948年の英委任統治終了以後途絶えていた“パレスチナ切手”が復活したことを受けて発行されたもので、1927年シリーズのうち、ラケルの墓を取り上げた2ミリーム切手(150フィルス)、ダヴィデの塔を描く5ミリーム切手(350フィルス)、岩のドームを取り上げた8ミリーム切手(500フィルス)が取り上げられています。1927年シリーズのデザインとしては、このほかにティベリアスのモスクを取り上げられたものもあるのですが、こちらは、ティベリアスがヨルダン川西岸地区の外のイスラエル領内にあるため、1995年の切手には取り上げられませでした。

 なお、今回ご紹介の切手を含むパレスチナの切手と郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 予算不成立で自由の女神閉鎖
2018-01-21 Sun 20:56
 米連邦予算をめぐる民主、共和両党の対立により、現地時間20日未明までに、政府の運営を続けるための“つなぎ予算”が成立しなかったため、米政府機関の一部が20日から業務を停止。ニューヨークの自由の女神も4年ぶりに閉鎖されました。というわけで、自由の女神を取り上げた切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・自由の女神(1942)

 これは、1942年2月23日、キューバが発行した“民主主義のために”の切手のうち、自由の女神を取り上げた13センタヴォ切手です。

 1933年、“軍曹の叛乱”を主導したフルヘンシオ・バティスタ軍曹は、同年、軍参謀総長となり軍の実権を掌握。さらに、1936年にはミゲル・マリアノ・ゴメス・アリアス大統領の下、国防相兼軍総司令官に就任し、政治の実権を握ります。1940年7月には、新憲法を公布したうえで、大統領に当選し、名実ともにキューバの独裁者となりました。

 バティスタは、もともと、スペインのフランコ政権に親和的な姿勢を示していたこともあり、当初、米国はキューバが枢軸陣営に加わることを懸念していました。しかし、バティスタ政権は、発足後すぐに膨大な量の砂糖を英国に無償で提供しただけでなく、1941年2月には独伊両国の領事館員を追放。同年12月の真珠湾攻撃を機に米国が第二次大戦に参戦すると、すぐさまこれに呼応して、12月11日には枢軸国に対して宣戦を布告し、米軍に対独戦用の海軍基地を提供しています。

 今回ご紹介の切手は、バティスタ政権の参戦後まもない1942年2月、米国と共に戦うとの旗幟をいち早く鮮明にするために発行したものです。

 その後、1944年の大統領選挙で、バティスタの推すカルロス・サラドリガスが敗北し、不正の追及を恐れた彼はフロリダに逃亡。デイトナビーチでカジノを経営しながら、米国マフィアとのコネクションも強化しつつ、キューバ政界復帰のタイミングをうかがうことになります。そして、1948年の選挙で上院議員に立候補して政界に復帰。1952年には軍事クーデターを決行し、大統領に就任しました。

 米国は、第二次大戦中、米国への忠勤に励んだバティスタの政権復帰を歓迎。以後、1959年のキューバ革命まで、バティスタは、キューバにおける米国政府、企業、マフィアの利権を保護する代わりに、国家を私物化する状況が続くことになります。


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 教皇専用機で挙式
2018-01-20 Sat 07:45
 チリを訪問中のローマ教皇フランシスコ猊下は、18日(現地時間)、LATAM航空機でサンティアゴから北部イキケに向けて移動中、8年前に婚姻届を出していたものの、2010年のチリ地震でサンティアゴの教会が被災し、結婚式を挙げられなかった客室乗務員夫婦のため結婚式を行いました。法王専用機上での挙式は初めてだそうです。というわけで、LATAM航空にちなんで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      チリ・航空切手(1931)

 これは、1931年にチリが発行した航空切手で、アンデス上空を飛ぶLAN航空(LATAM航空の前身)のプロペラ機とコンドルが描かれています。

 LATAM航空の前身にあたるLAN航空は、1929年、チリの空軍将校アルトゥーロ・メリーノ・ベニテスによって設立され、同年3月5日、サンティアゴ=アリカ間での航空郵便の運行を開始しました。“LAN”は、もともとは“国営航空”を意味する“Línea Aérea Nacional”の頭文字で、この語は、今回ご紹介の切手の上部にもしっかり入っています。

 第二次世界大戦後はダグラス DC-3などの米国製旅客機を導入し、ブラジルやアルゼンチン、ペルーなどの近隣諸国への路線を拡充。さらに、1960年代にはボーイング707を導入して北米やヨーロッパへの路線を開設したほか、ボーイング727を導入し、国内線や近距離国際線のジェット化を進めました。ちなみに、1967年にはサンティアゴ=イースター島路線が開設されましたが、同路線は、1971年にはタヒチまで延伸されています。

 ながらく国営会社として運営されてきたLANですが、ピノチェト退陣後の1989年9月、チリ政府はLANの資産の大半を持株会社“Icarosan”およびスカンジナビア航空に売却。これにより、LANは民営化され、その頭文字は“Latin American Network”の意味に変更されました。

 その後、1998年10月には、LANはチリ第2位の航空会社で、国内線と南米域内路線を運航していた“Ladeco”を吸収合併。さらに、2004年、LANは、チリの本社とペルー、エクアドル、ドミニカの各LAN子会社の商標を再統一すべく、社名を“LAN Airlines”に変更。2012年8月13日には、ブラジル最大の航空会社だったTAM航空を買収し、現在のLATAM航空となりました。


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 隠れパイナップル切手
2018-01-19 Fri 17:41
 ポルトガルとスペインの警察は、17日、リスボンの港でパイナップルの中に詰められたコカインおよそ745キロを押収するとともに、密輸組織のメンバー9人を逮捕したと発表しました。というわけで、パイナップル関連の切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャマイカ最初の切手  ジャマイカ・パイナップル透かし

 これは、1860年11月23日に発行されたジャマイカ最初の切手で、パイナップルの透かし(右の画像)が入った用紙に印刷されています。

 1670年、マドリード条約によってジャマイカを領有した英国は、早くも翌1671年10月31日、ガブリエル・マーティンを初代局長として郵便局を開設し、スパニッシュタウンのセント・ジャゴとパッセージ・フォート間での郵便輸送を開始しました。ただし、初期の頃の郵便経営は不安定で、植民地政府による郵便事業が確立するのは1720年のことでした。

 1858年5月8日にはキングストン局で英本国切手の使用が始まり、同年11月には島内の他の局にも本国切手が配給されるようになります。

 こうした経緯を経て、1860年5月、ジャマイカの植民地当局はロンドンのトマス・デ・ラ・ルー社製に切手の製造を発注します。その際、偽造防止の観点から、ジャマイカ当局は透かし入りの用紙に切手を印刷するよう強く要望しました。ただし、ジャマイカ当局が透かしのデザインについてデ・ラ・ルー社に対して何か希望を述べた記録はなく、他の英領植民地のように王冠の透かしではなく、パイナップル模様の透かしが入った用紙が採用された経緯は定かではありません。

 ちなみに、パイナップルはジャマイカにとってシンボリックな植物で、1661年に制定された国章は、現地の男女が支える盾の中にパイナップを描くデザインとなっています。国章の左側に立つ女性は熱帯の果実を持ち、盾の上には木材産業を意味する原木とワニが描き、かつては、下のリボンに、先住民のタイノ人とアラワク人が英国人入植者に隷属することを意味するラテン語の文言として“INDVS VTERQVE SERVIET VNI(2人のインディアンが1人に仕える)”が入っていましたが、この文言は、独立前年の1961年に現在の“Out of Many, One People”(多数から一つの国民に)へと変更されました。ついでですので、下に、現在の国章の画像を貼っておきます。

      ジャマイカの国章
 

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 世界の国々:アルゼンチン
2018-01-18 Thu 12:59
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年1月10日号が刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はアルゼンチン(3回目)を取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      アルゼンチン・切手つき封筒(1900) アルゼンチン・切手つき封筒・内側

 これは、1900年にブエノスアイレスからアルゼンチンのモンテヴィデオ宛に差し出された切手つき封筒で、内側(右の画像)には、ブエノスアイレス中心部の5月広場の1800年の風景と1900年の風景が並べて取り上げられています。

 “5月広場”は、もともとはスペイン人入植後の1580年以降、市庁舎(カピルド)や大聖堂が建設された場所で、アルゼンチン独立運動の端緒となった1810年5月25日の“5月革命”にちなんで現在の名前となりました。広場に面した大統領府から国会議事堂までは5月大通りが伸びています。広場中央の“5月のピラミッド”は5月革命1周年を記念して1811年に建てられたものですが、今回ご紹介伊の切手つき封筒でも1800年の風景(厳密にいうと、この時点では“5月広場”という名前ではありませんでしたが)にはピラミッドがないことが確認できます。 

 さて、昨年10月、僕はブエノスアイレスに行ってきましたが、滞在中の22日は、日本と同じくアルゼンチンでも国会議員選挙が行われたため、市内中心部では左派系の政府批判デモが行われており、彼らの中には、アルゼンチン出身の革命家、ゲヴァラの肖像を描いた横断幕などを掲げて行進するグループもありました。以下、現地で撮影した写真をいくつか貼っておきます。

      ブエノスアイレス・ゲヴァラ横断幕1  ブエノスアイレス・ゲヴァラ横断幕8  ブエノスアイレス・ゲヴァラ横断幕5

      ブエノスアイレス・ゲヴァラ横断幕2  ブエノスアイレス・ゲヴァラ横断幕3

      ブエノスアイレス・ゲヴァラ横断幕6  ブエノスアイレス・ゲヴァラ横断幕7  

 現在制作中のゲヴァラの本では、ゲヴァラの肖像が、彼の死後、どのような意味を与えられ、どのように使用されてきたかという点も扱うつもりですので、上の写真も掲載することになるだろうと思います。

 さて、『世界の切手コレクション』1月10日号の「世界の国々」では、エヴィータことエヴァ・ペロンの夫でアルゼンチンの大統領だったフアン・ペロンとその時代についてまとめた長文コラムのほか、ノラ・ボルヘスの絵画、トウモロコシ、アルゼンチン領南極の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のアルゼンチンの次は、17日に発売された1月24日号でのインドネシアの特集になります。こちらについては、発行日の24日以降、このブログでもご紹介する予定です。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★

 1月11日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第14回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、2月8日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、1月11日放送分につきましては、1月18日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 芥川賞は『百の泥』ほか
2018-01-17 Wed 09:31
 第158回芥川賞の選考会が、きのう(16日)行われ、石井遊佳さんの『百年泥』と若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』が選ばれました。このうち、石井さんの『百年泥』はインド・タミルナードゥ州のチェンナイ(旧マドラス)を舞台にした作品ということなので、チェンナイのランドマークを描いたこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・マドラス大学(1957)

 これは、1957年にインドで発行された3大学(ムンバイ大学、コルカタ大学、マドラス大学)創立100周年の記念切手のうち、マドラス大学の議事堂を取り上げた1枚です。

 1854年7月、英国東インド会社の理事会は本国に特使を派遣して、カルカッタ(コルカタ)、ボンベイ(ムンバイ)、マドラス(チェンナイ)にそれぞれ高等教育機関を設立するよう進言。これを受けて、1857年9月5日にインド立法議会の法律によりマドラス大学が設置されました。同大は、ロンドン大学を範として、理学、工学、商学、美術、医学、教育学、法学などの学部のほか、ロヨラ・カレッジ、マドラス医学カレッジなどのカレッジで構成されています、構成カレッジがある。講義は英語とタミル語で行われており、学生数は約 10万 7500名です。

 切手に取り上げられた議事堂は、1869年、マドラス大学の中で最初に建てられた建物で、インド・サラセン様式とビザンティン様式を調和させた名建築として知られています。設計はロバート・フェローズ・チゾムです。現在、老朽化に伴い修復が計画されていますが、150万ドルの資金繰りが難航しており、工事開始の目途は立っていません。


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 1月11日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第14回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、2月8日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、1月11日放送分につきましては、1月18日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 三池淵の位置
2018-01-16 Tue 15:08
 韓国と北朝鮮は、昨日(15日)、板門店の統一閣(北朝鮮側の施設)で実務者協議を行い、北朝鮮が過去最大規模の140人以上で構成する芸術団“三池淵管弦楽団”を平昌五輪期間中に派遣し、ソウルとスケート競技会場のある江稜で公演することで合意しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・茂山地区戦闘50年

 これは、1989年5月19日、北朝鮮が発行した“茂山地区戦闘勝利50年”の記念切手で、戦闘に関連する地域の地図を背景に、戦闘場面をイメージした銅像と記念碑が描かれています。

 切手に描かれている地図は、朝鮮半島北東部、現在の両江道の中朝国境地帯を中心としたのもので、国境線から近い北西の△が白頭山で、三池淵は、そこから南東方向の赤い楕円形の場所になります。

 三池淵は、もともとは、白頭山麓の三つの池がつながってできた湖(周囲12.4キロ)ですが、行政単位としての三池淵郡は、1961年3月、両江道内の普天郡鯉明水労働者区・胞胎里、咸鏡北道延社郡新徳労働者区・駕洞労働者区・新興労働者区・三上労働者区・老隠山労働者区をあわせて設置されました。

 冬季はシベリア高気圧の影響を強く受ける位置にあることに加え、標高1381mの高地にあることから、過去には氷点下39.7℃を記録(高山地帯では非公式に氷点下45.1℃を観測)するなど、朝鮮半島最寒の地とも言われています。

 北朝鮮当局の説明によると、1939年5月、パルチザンを率いて満洲から朝鮮に進軍した金日成らが最初の宿営地としたのが三池淵の湖畔で、このため、同地は“革命の聖地”とされています。三池淵から北上した一行は満洲国との国境地帯で日本側官憲を攻撃したため、日本側の国境守備隊と警察隊は南下して逃げるパルチザンを追撃。これに対して、6月に入ると、パルチザン側は大紅湍(切手では大きな赤旗の下の丸印の場所)の小高い丘に伏兵陣を張り、追撃してくる日本側に対して一斉射撃を行い、大きな戦果を挙げたと言うのが、北朝鮮側の主張です。

 こうしたこともあり、1979年には、“茂山地区戦闘勝利40周年”を記念して、金正日の指導により、三池淵には、巨大な金色の金日成象を中心に、祖国・宿営・進軍などテーマごとの彫刻群像が配置されました。また、この時点では、金正日の生誕の地は、単に白頭山中というだけで、その具体的な場所については説明がありませんでした。

 その後、1987年2月16日の金正日45歳の誕生日にあわせて、抗日武装闘争中、金日成が拠点としていたとされる白頭山中の秘密アジト(密営)が三池淵郡内で捏造復元・公開されましたが、この段階でも、北朝鮮当局は、密営の場所については白頭山中とだけしか述べておらず、捏造復元された密営の所在地が、かつての密営の所在地であるか否かについては明言を避けていたのですが、いつしか、その場所がそのまま金正日の出生地であるかのように宣伝されるようになりました。報道などで、“北朝鮮が金正日の出生地としている三池淵”との表現が用いられるのは、こうした事情によるものです。

 なお、歴史的な事実関係を言えば、金正日は父親の金日成と母親の金貞淑(正淑)がソ連領内で軍事訓練を受けていた時に生まれたことが確認されており、彼が白頭山中で生まれたとする北朝鮮当局の主張は事実と異なります。ちなみに、実際に、金正日の生誕の地とされるハバロフスク近郊のヴャツコエ(異説もあります)に関しては、拙著『ハバロフスク』にて現地の訪問記を書いておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★

 1月11日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第14回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、2月8日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、1月11日放送分につきましては、1月18日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 アタリの番号は27と86
2018-01-15 Mon 11:22
 “平成30年お年玉付年賀はがき”の抽選会が、きのう(14日)、東京・丸の内のJPタワーで行われ、お年玉切手シートの当選番号は27と86に決まりました。というわけで、例年どおり、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      年賀小型シート(2018)

 これは、きょう(15日)から引換が始まった今年(2018年)のお年玉切手シートです。かつて成人の日が1月15日に固定されていた時代には、年賀はがきの抽選が成人式と並ぶ1月15日の風物詩となっていたわけですが、いわゆるハッピーマンデーの導入により、成人の日が1月の第2月曜日となったことで、その前提が大きく変わってしまい、抽選日も近年は1月半ば以降の日曜日ということで毎年変わっています。

 また、かつての切手シートは、(原則として)干支の郷土玩具を描く年賀切手と同じものを収めていましたが、昨年から、通常のシート切手とは別に、“年間を通して利用できる”オリジナルデザインの切手(書状基本料金用と葉書料金用1枚ずつ)を収めた構成となりました。なお、切手シートの余白部分には、右上に昨年の切手のデザインが額絵として掲げられているほか、左下には昨年と同じ花が描かれていますので、来年の切手シートにも、何らかの形で、今年の切手のデザインが顔を出すことになるかもしれません。(下の画像)

      年賀小型シート(2018・部分D)  年賀小型シート(2018・部分E)

 ちなみに、昨年の切手シートはこんな感じです。

      年賀小型シート(2017)

 さらに、今回の切手シートに関しては、シート全体に花模様がパールインク(傾けると光を反射するインク)で地紋のように印刷されており、上の画像でも、それがはっきり確認できます。パールインクで印刷された地紋のデザインは、余白の部分と切手の部分で異なっており、“小さな犬”を描く62円切手では、犬の耳の部分にはパールインクで♥が印刷されています(下の画像)。“大きな犬”を描く82円切手にも、犬の首の部分にパールインクで★が印刷されており、肉眼ではしっかり見えるのですが、濃い色の上に印刷されているので、上手くスキャンできませんでした。

      年賀小型シート(2018・部分B) 

 このほか、今回のシートは、切手の目打の一部が骨型になっていたり、カラーマークが足跡型になっていたり、かなり遊び心のある1枚となっています。

      年賀小型シート(2018・目打) 年賀小型シート(2018・カラーマーク)

 なお、お年玉葉書の末等商品としての切手シートとその歴史については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取っていただけると幸いです。

 * 僕宛の今年の賀状の中では、福井和雄さん、松本純一さん(50音順)から頂戴した2通がアタリでした。この場をお借りして、お礼申し上げます。


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 尖閣諸島開拓の日
2018-01-14 Sun 16:27
 きょう(14日)は、1895年1月14日、日本政府が尖閣諸島の日本領への編入を閣議決定したことにちなむ“尖閣諸島開拓の日(尖閣の日)”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      中国・駆逐艦昆明(2015)

 これは、2015年6月3日、中国が発行した“中国船舶工業”の切手のうち、南海艦隊に所属する防空ミサイル駆逐艦“昆明(2012年8月29日進水、2014年3月21日就役)”を取り上げた1枚ですが、背景に、尖閣諸島(一番左が魚釣島)が描かれています。

 わが国は、1885年以降、沖縄県当局等を通じて尖閣諸島の現地調査を幾度も行い、無人島であるだけでなく、清国を含むいずれの国にも属していない土地(無主地)であることを慎重に確認したうえで、1895年1月14日の閣議決定で、尖閣諸島を沖縄県に編入しました。

 翌1896年、魚釣島と久場島はまもなく八重山郡に編入され、北小島、南小島と共に国有地に指定され地番が設定。同年9月、魚釣島、久場島、北小島及び南小島は実業家の古賀辰四郎に対して30年間無償で貸与されることになり(無償貸与期間終了後は1年契約の有償貸与)、1932年、4島は古賀辰四郎の嗣子である古賀善次に払い下げられ私有地となりました。

 古賀家の私有地として、尖閣諸島では、アホウドリの羽毛の採取、グアノ(海鳥糞)の採掘、鰹漁業、鰹節の製造等が行われていましたが、1940年頃、古賀善次は尖閣諸島での事業を撤退し、再び無人島となります。

 第二次大戦後の1946年1月29日、GHQは「外郭地域分離覚書」を発し、北緯30度以南の南西諸島の行政権は日本から分離されました。これに伴い、尖閣諸島は沖縄の一部として米国の施政権下に置かれることになりました。

 ところが、1969年、国連アジア極東経済委員会の海洋調査で、尖閣周辺にイラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告されると、1971年4月、台湾の国民政府が尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。さらに、同年12月には、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めました。

 しかし、そうした主張は国際的には全く相手にされず、1971年6月に沖縄返還協定が調印され、1972年5月に沖縄が祖国に復帰すると、尖閣諸島もそれに伴い、日本国沖縄県の一部となりました。

 これに対して、近年、中国は尖閣諸島への領土的野心を隠そうとせず、2008年以降、尖閣諸島沖の日本領海内での侵略行為を頻繁に繰り返しているほか、彼らの息のかかった反日団体を魚釣島西側の岩礁に不法上陸させるなど、まさにやりたい放題の状態になっています。

 こうした活動と並行して、中国側は“釣魚島(尖閣諸島の中国側の呼称)”の領有権を主張するための対外的なプロパガンダ攻勢を強めており、今回ご紹介の切手もその一環として発行されたものです。切手の発行時の報道資料には、この切手は昆明が尖閣周辺を航行している場面を取り上げたものであることは触れられていなかったため、日本側でもそのことに気付いた人は多くはなく、さしたる抗議行動も行われませんでした。この結果、尖閣周辺をわが物顔で航行する中国の駆逐艦を描く切手が、堂々と発行され、流通していくことになったというわけです。

 尖閣諸島に限らず、 領有権を巡って複数の国が争っている地域や他国の侵略によって自国の領有権が脅かされている地域に関しては、あらゆる機会をとらえて、それが自国の領土であることを繰り返し訴え続けるというのが国際社会では常識です。その意味では、中国側が今回ご紹介のような切手を発行するのも、その主張の是非とは別の次元で、ある意味当然の行動といえます。

 むしろ、そうした中国側の主張に対して、多くの日本国民が無関心で、日本政府もほぼ無策のまま過ごしてきたということが、今日の事態を招いてしまったのだという現実を受け止め、真剣に反省することがまずは必要ではないでしょうか。

 なお、領土と切手をめぐる関係、そして、そうした問題に対する日本政府の対応の拙さについては、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 「私は弾劾する」120年
2018-01-13 Sat 13:50
 フランスの文豪エミール・ゾラが、1893年1月13日付の『オーロール』紙に、ドレフュス裁判の誤りを告発する「私は弾劾する」を掲載してから、きょう(13日)でちょうど120年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・ドレフュス事件

 これは、1994年にイスラエルが発行したドレフュス事件100周年の記念切手で、タブには、ゾラの「私は弾劾する」が掲載された紙面が取り上げられています。

 1871年、普仏戦争に敗れたフランスでは、経済的苦境を背景に、ブーランジェ将軍のクーデター未遂事件が発生するなど、社会的に不安定な状況が続いていました。

 1894年9月、陸軍情報部がパリのドイツ駐在武官邸から軍内に対独通牒者がいることを示すメモを入手。筆跡が似ていることを理由に、物証がないまま、参謀本部付のユダヤ人砲兵大尉、アルフレド・ドレフュスが逮捕されました。

 これに対して、反ユダヤ系の「自由言論」紙が事件をスクープし、「軍部は祖国を裏切る売国奴、ユダヤ人をかばっている」と糾弾。世論の批判を恐れた軍首脳部は、証拠もなく、ドレフュスが無罪を主張したにもかかわらず、非公開の軍法会議で有罪判決を下し、ドレフュスの軍籍を剥奪し(切手にはドレフュスが軍刀を奪われ、へし折られる場面が取り上げられています)、仏領ギアナ沖のディアブル島に終身禁錮としました。

 ところが、判決確定後の1896年、情報部長に着任したピカール中佐により、ドレフュスではなく、ハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐こそがドイツに通じていることをが発覚。ピカールは直ちに参謀総長に報告しました。

 ところが、軍上層部は、参謀次長がピカールに「終わったことだ、忘れるように」と諭しただけでなく、軍の権威失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールをテュニジアに左遷。エステルアジに対しては、形式的な裁判で無罪判決を出して釈放しました。ちなみに、エステルアジはその後、英国に逃亡し、そこで平穏な生涯を終えることになります。

 エステルアジの無罪判決に憤ったゾラは、1898年1月13日付の『オーロール』紙に「私は糾弾する」と題する公開質問状を掲載。以後、事態はドレフュス個人の事件から、自由と民主主義・共和制擁護か否かの政治闘争化し、1906年、ようやく、ドレフュスは無罪判決を勝ち取りました。

 なお、ドレフュス事件以前のテオドール・ヘルツルは、ユダヤ人はドイツ社会・文化と積極的に同化すべしとの立場でしたが、ジャーナリストとしての取材経験から、西欧では最もユダヤ人の権利が保障されていると見られていたフランスで事件が起きたことに衝撃を受け、以後、ユダヤ人の失われた祖国“イスラエル”を取り戻すシオニズム運動を主導するようになりました。

 そのシオニズムが1948年のイスラエル建国につながっていくプロセスについては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 インドはチベットと国境を接する
2018-01-12 Fri 23:27
 ウェブサイト上で台湾とチベットを“国”として表記していた米・デルタ航空は、中国の圧力に屈して、きょう(12日)、謝罪に追い込まれ、チベットについては0800GMT(日本時間午後5時)時点で早々にウェブサイトから削除しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・国境警備(2012)

 これは、2012年にインドが発行した“インド=チベット国境警備警察”の切手です。中国との国境ではなく、あくまでも“チベットとの国境”としているのがミソです。

 チベットと中国中央政府との「国交」は唐代にまでさかのぼることができますが、宗主国と保護国という両者の関係が確立されたのは17世紀中葉の清朝初期のことです。その後、清朝は、チベットに駐蔵大臣を派遣し、チベットの財政・外交・軍事などに強い影響力を行使するようになりました。

 もっとも、この段階では、チベット政府の独自性も確保されており、両者は国境の確定もあいまいなまま、共存する状態にあったといえます。そもそも、清朝の体制は、満洲族の皇帝が漢族を含む他の諸民族を中央集権的に支配するというのではなく、どちらかというと、域内諸民族の緩やかな連合国家という性質の強いものでしたから、それも当然のことと言えましょう。

 しかし、こうした状況は、1858年にインドを植民地化した英国が中印国境地域に侵食していくことで、変容を迫られます。この結果、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、チベットをめぐって、清朝と英国との対立が生じましたが、両者の対立は、1907年のシムラ会議により、チベットにおける清朝の主権が確認されたことで、いちおう決着しました。ただし、この間、当事者であるチベットの意向が真剣に考慮されることはありませんでした。

 ところで、1911年の辛亥革命で清朝を打倒した孫文らの革命活動は、“駆除韃虜 恢復中華”のスローガンの下、満州族の支配を打倒して漢民族の政治的・文化的支配を復活させることを建前としていました。したがって、“韃虜”に分類される満洲・チベット・モンゴル・ウィグルの各民族からすれば、自分たちを駆除するということを公言してきた革命政権に服属しなければならない理由はまったくないわけで、清朝の滅亡後、チベットは中華民国に対して分離・独立を宣言します。

 これに対して、中華民国側は自分たちが清朝の継承者であるとの建前から、チベットの独立を認めず、中国領チベットの支配を継続しようと目論見ます。しかし、革命後の混乱により、中国中央政府の統制はチベットには及ばず、チベットは実質的に中国とは別の国になり、チベットでは貨幣や切手も独自のモノが発行されました。現在のチベット亡命政府は、このことを、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして挙げています。

 1947年、英領インド帝国が解体され、インドとパキスタンが分離独立すると、新生インド政府はラサの英領インド外交部を継承し、チベット−英国間の条約も継承されます。インドは、チベットを“国”として認め、チベット外務省に対して「インド政府は、今後新たな協定を結ばない限り現状の関係を維持したい、という貴国の意向を歓迎いたします。インド政府が英国政府から継承した条約関係につきましては、他の国もすべて、そのまま継承していただいております」との書簡を送っています。

 ところが、1951年4月、中国人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに武力進駐。同年5月23日、中国はチベットに対して「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(いわゆる17条協定)を押し付け、チベットの独立を奪いました。

 これに対して、チベットでは1956年以降、カムやアムド地方での武装闘争が始まります。抵抗運動を何とか抑え込みたい中国側はチベット東部には人民解放軍を増派するだけでなく、チベットの村や僧院に対して制裁攻撃を実施。人民解放軍の司令官はポタラ宮ダライ・ラマ14世を攻撃するとの恫喝も行っていました。

 こうした状況の中で、1959年3月1日、中国側がダライ・ラマを観劇に招待。会合前日の3月9日、人民解放軍陸軍の将校たちは、ダライ・ラマの観劇に際してはボディガードを同行させないことや、ダライ・ラマ14世が宮殿から会見場所の人民解放軍駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを強く要求しましたが、中国がダライ・ラマの監禁ないしは誘拐をたくらんでいると察知したチベットの人々は、翌10日、ダライ・ラマが宮殿から連れ出されるのを防ごうと宮殿を取り囲みました。

 事態が緊迫する中で、3月12日、チベットの人々は独立を宣言。ラサの通りにはバリケードが築かれるとともに、インド領事に対してもチベット支援の訴えが行われました。そして、3月17日、ついにダライ・ラマの宮殿の近くに2発の砲弾が着弾したことで、ダライ・ラマは亡命を決断するのです。

 一連の混乱の中で、チベット亡命政府の推定値によると、およそ8万6000人のチベット人が亡くなり、ノルブリンカ宮殿には、約800発の砲弾が打ち込まれました。また、ラサの三大寺院であるサラ、ガンデン、デプンは砲撃によって深刻な損傷を受け、ラサ市周辺の僧院や寺院は略奪もしくは徹底的に破壊されました。ラサに残ったダライ・ラマのボディガードたちは、数千人の僧侶とともに処刑されています。

 その後も チベットでは、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられていますが、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行っており、絶望したチベット人による抗議の焼身自殺が相次いでいることに対して、国際社会が厳しく指弾しているのは周知のとおりです。

 現在、中国との関係やビジネス上の利益を考えて、こうした状況を見て見ぬふりをする国や企業は多く、今回、中国側の理不尽な要求に唯々諾々と従い、謝罪までしたデルタ航空はその一例でしかありません。

 それだけに、チベット亡命政府の受け入れ先として、今回ご紹介の切手では、あえて“インド=中国国境”ではなく、“インド=チベット国境”との表記を使ったインドの英断は高く評価されるべきものといえましょう。


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 切手でひも解く世界の歴史(14)
2018-01-11 Thu 05:35
 本日(11日)16:05から、NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第14回が放送される予定です。(番組の詳細はこちらをご覧ください)。今回は、今年最初の放送ということで、こんなモノもご紹介しながら、1887年に世界で最初の犬切手を発行したニューファンドランドについてお話します。(画像はクリックで拡大されます)

      ニューファンドランド・カナダ混貼

 これは、1949年、ニューファンドランドのカナダ編入時に作られたニューファンドランド切手とカナダ切手の混貼カバーで、ニューファンドランドを象徴する犬とカナダを象徴するビーヴァーが握手するイラストがカシェとして描かれています。

 大西洋北西部のニューファンドランド島へは、1497年、イタリア人の探検家、ジョン・ガボットが上陸して以来、隣接するラブラドール半島の大西洋岸(ラブラドール地方)ともども、英仏やスペインなどから漁民が渡ってくるようになりました。これは、この地域の沖合はタラの好漁場だったためで、その後、漁業権や領有権をめぐってはたびたび英仏間で対立が生じています。

 1713年のユトレヒト条約により、ニューファンドランドは英領植民地になりますが、その後、米国の独立戦争フランス革命などを経て入植者たちは自治を求めるようになったため、1854年、ニューファンドランド自治政府が樹立。この自治政府の下、1857年、ニューファンドランドとして最初の切手が発行されました。以後、1949年3月まで、ニューファンドランドは独自の切手を発行し続けています。

 ところで、現在のカナダの領域には、当時、ニューファンドランドの他にも、上カナダ(現在のオンタリオ州)、下カナダ(現在のケベック州)、ノヴァスコシア、ニューブラウンズウィックといった英領植民地がありました。1867年に制定された英領北アメリカ法により、カナダの英領植民地の大半は統合され、カナダ自治領が発足し、現在のカナダの原型ができあがるのですが、ニューファンドランドはこれに加わらず、独自の自治領という立場を維持。1907年、自治権を拡大して、事実上の独立国となりました。なお、ラブラドール半島でのニューファンドランドとカナダ・ケベック州との境界線が最終的に確定されたのは1927年のことです。

 1914年、第一次世界大戦がはじまると、ニューファンドランドは英国とともに参戦しましたが、戦費の負担は重く、また、出征した若者の4分の1が戦死するなど、大きなダメージを受けました。さらに、1929年の世界恐慌により財政事情は一層悪化します。

 このため、1931年にウェストミンスター憲章が成立して自治領の独立が認められた際にも、カナダが独立国となったのに対して、ニューファンドランドは同憲章を受け入れる余裕がなく自治領にとどまらざるをえませんでした。このため、1934年には自治権を返上してイギリスの直轄植民地に復帰。結局、第二次大戦後の1949年3月31日、ニューファンドランドは住民投票により、ニューファンドランド州としてカナダ連邦に加わります。今回ご紹介のカバーに貼られている緑色のカナダ切手は、これを記念して発行されたものです。

 その後、1964年から、州内ではニューファンドランド・ラブラドール州という名称を使用し始めますが、ラブラドール半島の主部を占めるケベック州が難色を示したため、連邦レベルで正式に採用されることはありませんでした。2001年10月のカナダ憲法改正により、同年12月6日以降、州の名称は正式にニューファンドランド・ラブラドール州へと変更され、現在に至っています。

 *昨日(10日)の「クロノス」の放送は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。
      
 
★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は11日!★★

 1月11日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第14回が放送予定です。今回は、年明け最初ということで、世界で最初に犬の切手を発行したニューファンドランドについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 ムーミンの作者、トーベ・ヤンソンの切手
2018-01-10 Wed 00:32
 かねてご案内の通り、本日(10日)午前7時20分から、TOKYO FMの朝のワイド番組「クロノス」に内藤がゲスト出演します。同番組への出演は、2014年に英領ギアナの1セントのことをお話しして以来ですが、今回は、きょう、ムーミンの切手が発行されるということで、お座敷がかかりましたので、その予告編を兼ねて、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      フィンランド・トーベヤンソン

 これは、ムーミンの作者、トーベ・ヤンソンの生誕100周年を記念して、2014年にフィンランドが発行した切手シートです。

 ムーミンのキャラクターを取り上げた切手は、日本でも2015年に発行されたことがありますが、母国フィンランドでは、1992年、1993年の切手展<Nordia 1993>のプロモーションのために発行されたのが最初で、その後、1994年、1998年、2000年、2003年、2004年、2007年、2009年、2011年、2013年、2015年、2017年に発行されています。いずれも、“フィンランド”の名において、フィンランドを代表する文化資源としてのムーミンを、広く世界に向けて発信していこうという意思の下に発行されたものであることは言うまでもありません。

 その『ムーミン』の原作者として知られるトーべ・ヤンソンは、1914年8月9日、フィンランドの首都ヘルシンキで生まれました。

 父親のヴィクトルは彫刻家、母親のシグネ・ハンマルステンはスウェーデン人の画家という芸術一家で、トーべ自身も15歳で雑誌『ガルム』の挿絵を描き始めます。ストックホルム(スウェーデン)の工芸専門学校、ヘルシンキの芸術大学、パリの美術学校などで本格的に美術を学び、1944年頃、ムーミン・トロールのキャラクターを『ガルム』誌の挿絵として発表。さらに、翌1945年から小説としての『ムーミン』シリーズを発表し、文学者としての地位を確立し、1966年、国際アンデルセン賞作家賞を、1984年にフィンランド国民文学賞を受賞しています。

 今回ご紹介の切手シートは、彼女の肖像を取り上げた2種の切手を収めたセルフ糊式のもので、額面は国内基本料金用の永久保証切手です。オランダのエンスケデ社の製造で、発行枚数は20万枚。

 ところで、シートの下部に描かれているのは、彼女が1965年から30年間にわたり、私生活上のパートナーだったトゥーリッキ・ピエティラ(女性)と毎夏を過ごしたクルーヴハル島の別荘です。

 クルーヴハル島は、トーベ自身によると「ぐるりと歩いて約8分」程度の小さな岩島で、彼女はピエティラとともにワンルームの小屋を建て、そこを別荘兼アトリエとしてボートで通っていました。一方、ピエティラは米国生まれのフィンランド人グラフィック・デザイナーで、トーベより3歳若い1917年生まれ。トーベとは美術学校時代の学友で、フィンランド芸術アカデミーで長年教鞭を取っていたほか、ムーミンのフィギュアやムーミン屋敷の制作でも知られています。

 さて、ムーミンの作者としてのトーベを顕彰する切手を発行するのであれば、他の芸術家同様、彼女の肖像や作品を取り上げればそれで十分と思われますが、今回ご紹介の切手に関しては、彼女とピエティラが過ごしたクルーヴハル島の別荘をあえて取り上げ、彼女が女性同性愛者の代表的な存在であることが暗示されているのが重要なポイントと思われます。

 すなわち、2014年はトーベの生誕100周年にあたっていましたが、同時に、フィンランド国会で、賛成101、反対90の僅差で同性婚の合法化法案が可決された年でもあります。

 フィンランドは、帝政ロシアの下の大公国だった1906年、世界で初めて、女性に参政権と被選挙権を同時に認めた国ですが、フィンランド福音ルター派教会とフィンランド正教会が国教として扱われていることもあって、いわゆるLGBTの人たちの権利拡大に関しては、国民世論の中にも慎重な声が根強くありました。このため、ヨーロッパ全体の趨勢にあわせて、同性カップルそのものは2002年に法的に認めたものの、その後も、同性カップルの権利は異性婚の夫婦と比べて制限される状態が続いていました。

 一方、北欧諸国においては、ノルウェーとスウェーデンが2009年、アイスランドが2010年、デンマークが2012年に同性婚を完全合法化していたのに対して、フィンランドでは、2014年の法案可決までに、同性婚の完全合法化法案は3回、国会で否決されています。

 こうした経緯を踏まえ、当時の国民連合党政権(リベラル保守)は、同性カップルに対する社会的な抵抗感を和らげる意図を込めて、トーベ・ヤンソンの生誕100周年の記念切手に、あえて、フィンランド国民にとっては“同性婚”のシンボリックな存在ともいうべき、クルーヴハル島を取り上げたのではないかと推測されます。

 ちなみに、トーベ・ヤンソン生誕100周年の切手シートが発行されたのと同じ2014年、フィンランド郵政は、“トム・オブ・フィンランド”の切手シートも発行しています。(下の画像)

      フィンランド・トムオブフィンランド

 トム・オブ・フィンランド(本名:トウコ・ラークソネン)は、自らも同性愛者として、それまで女性的に描かれることの多かった男性同性愛者を、レザーなどの衣装を身に纏い、筋骨隆々とした逞しい“ハード・ゲイ”として描いた最初の画家で、世界のポップカルチャーやファッションなどに大きな影響を与えました。切手は、その文化的な功績をたたえて発行されたものですが、彼が生まれたのは1920年、トム・オブ・フィンランドのペンネームで活動を始めたのは1957年、亡くなったのは1991年ですから、2014年は周年としてはキリの良い年回りではありません。したがって、この切手が2014年というタイミングで発行された背景には、同性婚の完全合法化をめざして、LGBTとの社会的共存を訴えようとの意図が込められていたとみるのが妥当でしょう。

 なお、今回ご紹介の切手シートが発行された2014年、フィンランド国会は同性婚の完全合法化法案を可決しましたが、これに対して、保守系の市民団体が法案の撤廃を求める申し立てをしたことに加え、2015年の議会選挙で第2党に躍進し、連立与党に加わった“真のフィンランド人”(フィンランド民族主義・社会保守主義)が、キリスト教民主党とともに、同法に対する異議申し立てを支持したたため、同法は当初予定されていた2016年には施行されませんでした。

 このため、2017年2月、裁判所が申し立てを却下したことで、同年3月1日、ようやく、同性婚完全合法化法の施行が確定。これにより、フィンランドでは、同性カップルがパートナーの姓を名乗ったり、養子を迎えられたりできるようになり、同性婚と異性婚の間の法的な差別が(少なくとも制度上は)解消されることになりました。

      
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 バングラデシュのお寒い切手
2018-01-09 Tue 12:55
 熱帯地域に位置するバングラデシュで、きのう(8日)、観測史上最も低い気温2.6度を記録し、当局は防寒対策として貧困層に約7万枚の毛布を配布したそうです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      バングラデシュ・パレスチナとの連帯

 これは、1980年、バングラデシュが“パレスチナとの連帯”をアピールするため、発行を計画したものの、スペル・ミスという“お寒い”事情のため、発行中止となった切手です。

 1947年に英領インド帝国が解体された際、現在のバングラデシュに相当する地域はムスリムが人口の多数を占めていたことから、東パキスタンとして、現在のパキスタンに相当する西パキスタンとともにパキスタン・イスラム共和国を構成していましたが、1971年12月、東パキスタンはインドの支援を受けて西パキスタンと戦い、バングラデシュとして独立しました。

 1972年1月12日、独立後の初代首相に就任したムジブル・ラーマンは、上記のような経緯から、パキスタンへの対抗上、親インドの立場を取り、民主主義、社会主義、政教分離を柱とする議院内閣制を骨子とする憲法を制定します。

 しかし、独立時の混乱はなかなか収束しなかったため、新政府は戒厳令を施行し、ムジブル・ラーマン自身が大統領に就任。与党アワミ連盟以外の政党を非合法化するなど強権的な統治により事態を乗り切ろうとしたものの、状況は改善されず、飢餓と疫病が蔓延。このため、1975年、陸軍によるクーデターが発生し、ムジブル・ラーマンは殺害され、ジアウル・ラーマン少将が戒厳令総司令官を経て1977年に大統領に就任しました。

 1975年のクーデターに際して、陸軍内では、バングラデシュ独立に伴い、旧西パキスタン(パキスタン)から帰還した将兵たちが重要な役割を果たしましたが、彼らの多くは、長年にわたりインドとの最前線で勤務していたということもあり、ムジブル・ラーマン政権時代の親インド政策には批判的で、ムスリムとしての同胞であるパキスタンに対する親近感が強い傾向がありました。

 また、1976年4月には、リビアから帰国したファルーク大佐によるクーデター未遂事件が発生。その背後には、空軍総参謀長兼戒厳令副司令官のタワブ少将の影響があったと推定されていますが、クーデター未遂事件に先立ち、タワブはリビア、サウジアラビア等を歴訪し、帰国後、イスラムを国教化し、国名を“バングラデシュ・イスラム共和国”してパキスタンとの連邦を構成することなどを主張していました。また、クーデター未遂事件は、4月30日、ファルークがボグラで決起を呼びかけるところから始まったが、同日、タワブはダッカで開催されるムスリムの大規模集会に参加する予定でした。

 実際には、ダッカへ向かう直前、タワブは解任され、ファルークとタワブは国外への亡命を余儀なくされるのですが、陸軍の中には、ムジブル・ラーマン路線からの決別を求める声が強かったことは、誰の目にも明らかでした。

このため、パキスタンからの帰還兵を数多く抱える軍を掌握するためにも、ジアウル・ラーマンは、彼らの支持を得るべく、憲法改正に着手。ムジブル・ラーマン時代の憲法に明記されていた“政教分離”の原則を削除し、憲法の冒頭には「コーラン」の一文が明記するなど、イスラム色を強めた政策を展開します。

 一方、ムジブル・ラーマン政権が打倒されたことで、インドおよびその支援国であるソ連との関係は冷却化し、独立以来、この両国から軍事支援を受けていたバングラデシュ軍にとっては打撃となりました。しかも、パキスタンからの帰還兵を吸収したことに加え、インドとの関係悪化に伴い軍備の拡充は従来以上に必要な状況となります。

 このため、ジアウル・ラーマン政権は、インドやソ連に代わる、新たな武器の供給先として、アラブ諸国、米国、中国などに期待を寄せるようになりました。

 こうした文脈に沿って、彼らは、ムスリム国家としての旗幟を鮮明にすべく、今回ご紹介の切手の発行を計画。切手のデザインは、鉄条網に覆われた岩のドームと、反イスラエル闘争を戦う戦士の姿を描くもので、パレスチナとの連帯を強調すべく、印面にはアラビア語の文言も入れられることになりました。

 ところが、納品された切手の現物を改めてチェックしたところ、印面下部に書かれているアラビア語の表記にスペルミスがあることがわかり、急遽、発行は中止となり、各地の郵便局に配給されていたものは回収が命じられています。なお、バングラデシュ当局は言葉をにごしていますが、スペルミスに加えて、欧米諸国から見るとテロといわれかねない行為を賞賛するようなデザインになっていたことも、彼らが発行を思いとどまる要因だったのかもしれません。

 ところが、回収するはずだった切手の一部は、現場との連絡の不徹底から、一般向けに発売されてしまい、実際には、郵便物に使われてしまったケースも少なからずあります。

 ちなみに、切手の発行が中止された翌年の1981年、バングラデシュでは再び軍事クーデターが発生し、ジアウル・ラーマンは暗殺されてしまいました。さらに、1982年、戒厳司令官のホサイン・ムハマド・エルシャド中将が権力を掌握し、翌1983年、自ら大統領に就任し、1990年まで権力の座に居座り続けることになります。

 なお、パレスチナの象徴としての岩のドームは、さまざまな政治的な意図をもって、イスラム諸国の切手にもさかんに取り上げられてますが、それらについては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

      
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 ゲヴァラ、成人の頃
2018-01-08 Mon 18:20
 きょう(8日)は成人の日です。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ゲヴァラ生誕80年(17歳と自転車)

 これは、2008年にキューバが発行したチェ・ゲヴァラ生誕80年の記念切手のうち、青年時代のゲヴァラを取り上げた85センターヴォ切手で、左側には1945年に撮影された17歳のゲヴァラの写真が、右側には1950年1月に撮影された21歳のゲヴァラの写真が取り上げられています。成人年齢は国によってさまざまで、日本の20歳は世界的に見ると遅い方だとされていますが、アルゼンチンの成人年齢はそれよりも遅い21歳です。したがって、この切手に取り上げられた右側の写真は、成人後間もない頃のゲヴァラの写真といってよいでしょう。

 1928年6月14日、ロサリオ(ブエノスアイレスの北西350キロ、パラナ川右岸の都市)の裕福な家庭に生まれたゲヴァラは、1948年、喘息の持病を抱える身として、アレルギー研究を志し、ブエノスアイレス大学医学部に入学しました。

 在学中の1949年末、自転車にクッチオーラのモーターを取り付け、アルゼンチン各地を放浪しながらその合間に医学生としての試験勉強をすることを思い立ち、1950年の元日、両親の家があったコルドバ(ブエノスアイレスからは西北西700キロに位置する都市)を出発しました。その際、出立の記録として、コルドバ市内の病院の前で、帽子をかぶり、サングラスをかけ、革のコートを着て自転車にまたがる写真を撮影しました。今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、その写真です。
 
 この時の旅行は、大半は自らペダルを漕ぎ、時々モーターを使って移動しながら、途中、木陰で試験勉強をするというスタイルで、アルゼンチン北部の4500キロを走破し、ブエノスアイレスに戻るというものでした。この時の経験から、翌1951年、友人のアルベルト・グラナードとともに、1台のオートバイ、ポデローサ号を使って、後に“モーターサイクル・ダイアリーズ”で知られることになる南米大陸縦断1万2000キロの旅につながり、それが、革命家ゲヴァラの原点となります。

 さて、ことし(2018年)6月は、ゲヴァラの生誕90年にあたっているため、この機会をとらえ、ゲヴァラに関する書籍を今春刊行すべく、現在、作業を進めています。このため、これからしばらくはゲヴァラ関連の記事が多くなるかもしれませんが、どうかお付き合いください。また、書籍の正式なタイトルや刊行日など、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。 

      
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 世界の国々:ヴェトナム
2018-01-07 Sun 15:56
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年1月3日号が刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はヴェトナム(3回目)を取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      南ヴェトナム・チュン姉妹(1959)

 これは、1959年にヴェトナム共和国(南ヴェトナム)で発行されたチュン姉妹(ハイ・バー・チュン/𠄩婆徵)を讃える切手で、ゾウに乗って漢軍と戦う姉妹の軍が描かれています。

 現在の中国南部からヴェトナム北部にいたる地域は、古代においては百越と呼ばれる南方諸民族(越族)の居住地域でした。紀元前203年、秦の南海郡尉(秦の設置した南海郡の軍事長官)の趙佗は、自らの勢力下にあった南海郡に近隣の桂林郡と象郡を併せ、南越国を建国しました。南越国は、紀元前112年、前漢の武帝は10万の大軍を派遣して南越国を滅ぼし、その旧領を含めて“交州(ヴェトナム北部の交趾郡、九真郡、日南郡と、現在の中国に属する6郡で構成)”を設置。交趾刺史部の管轄下に置きました。

 前漢は、当初、貉侯(在地の領主)や貉将(在地の武将)を利用して交州を統治していましたが、次第に中央の統制を強め、中央に任命された刺史、その部下である太守による統治が拡大していきます。

 中原では、紀元後8年、前漢に代わって王莽の新王朝が成立しましたが、その新も23年には滅亡し、25年に光武帝が後漢を建国。この間も、ヴェトナム北部は一貫して中原の王朝の支配下に置かれていましたが、光武帝によって交趾郡太守に任じられた蘇定は勝手に重税を課すなどの悪政を行ったため、南越の人々の不満は高まりました。

 このため、峰州麋泠県の貉将の娘にして、朱䳒県の有力者であった詩索の妻であったチュン・チャク(徴側)は南越の有力者の意向を取りまとめ、蘇定の圧政を廃し、徴税権を南越の貉侯や貉将に戻すよう、後漢政府に要求。40年3月には、南越内の合浦・九真・日南各郡65の県の貉将・貉侯がこれに賛同します。

 さらに、後世の伝承によれば、“蛮族”の抵抗に激昂した蘇定がチュン・チャクの夫、詩索を処刑したこともあり(ただし、そのことを裏付ける文献資料はありません)、彼女の妹、チュン・ニ(徴弐)も加わって、後漢からの自立を目指し、チュン・チャクを王とする宮廷が麋泠県に設けられました。

 これに対して、光武帝はチュン姉妹の行動を“重大な叛乱”として、馬援を“伏波将軍”に任じ、42年4月、叛乱鎮圧のため、2万の兵を南越に派遣。馬援の軍は悪天候と疫病に苦しんだものの、浪泊での決戦でチュン軍数千を殺害し、1万人以上を捕虜とします。チュン姉妹は麋泠県・禁谿へ逃れたものの、ついに馬援軍に捕えられ、殺害されました。なお、姉妹の最期については、川に身を投げた、馬援が自ら首を刎ねた、雲の中に消えた、などのさまざまな伝承が伝えられています。

 翌43年、馬援は姉妹の首級を洛陽に送るとともに、徴軍の残党を追って、ヴェトナム中部のゲアンにまで掃討戦を展開。数千人の貉将・貉侯を殺害するとともに、漢民族や親漢派の住民を交阯に移住させました。

 こうして、中原は南越の抵抗を武力で制圧しましたが、その後も、248年の趙嫗の乱など、中国支配に対する反乱は断続的に続くことになります。

 一方、チュン姉妹は中国の非道な支配に立ちあがった民族の英雄として、ヴェトナム各地の寺院に祀られているほか、その名を冠した地名も数多く残されているなど、現在なお、人々の尊敬を集めています。

 さて、『世界の切手コレクション』1月4日号の「世界の国々」では、古代の中越関係とチュン姉妹についてまとめた長文コラムのほか、明に抵抗した英雄グエン・チャイ、チュオンサ諸島(南沙諸島)、バクダン(白藤江)の戦いバクニンのクアンホジャワサイの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のヴェトナムの次は、4日に発売された1月10日号でのアルゼンチンの特集になります。こちらについては、発行日の10日以降、このブログでもご紹介する予定です。

 * 昨晩、アクセスカウンターが187万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 
      
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 公現祭
2018-01-06 Sat 11:51
 きょう(6日)は、キリスト教最古の三大祝日の一つで、異邦人である東方の三博士によって幼子イエスが見いだされたこと(=公現)を記念し、神の救いがユダヤ人の外に広がったことを祝う“公現祭”の日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ自治政府・当方の三博士(1999)

 これは、1999年12月8日、パレスチナ自治政府が同年のクリスマス切手と“ベツレヘム2000”のキャンペーン切手を兼ねて発行したもので、13-14世紀のイタリア人画家、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂にジョット・ディ・ボンドーネが描いたフレスコ壁画のうち、「東方三博士の礼拝」が取り上げられています。なお、切手は同図案・同額面(380フィルスは、当時のレートで、イスラエル経由の北米、アジア、アフリカ宛の20-50g書状の料金)ですが、額面数字と周囲の枠が異なるもののペアとなっています。

 「東方三博士の礼拝」は、1304年から1306年の作品で、聖母マリアが幼児のイエスを東方三博士に手渡している場面を描いています。切手では、トリミングでカットされていますが、オリジナルの絵画の上部には天空上に渡る彗星が描かれており、これは、ジョットが実際に見た1301年のハレー彗星をもとにしたものと考えられています。また、切手では、“三博士”のうち、イエスの足許に接吻する最長老のカスパールのみが取り上げられており、その背後にいるバルタザールとメルキオールの2博士はトリミングでカットされています。

 切手の発行名目の一つとなった“ベツレヘム2000”とは、1999年12月から2001年のイースターまでの期間、西暦の新千年紀到来にあわせて、キリスト生誕の地とされるベツレヘムで各種の記念イベントを大々的に行おうという国連主導のプロジェクトで、これを契機に、ベツレヘムを中心に、パレスチナ自治政府支配下のヨルダン川西岸地区に全世界から多くの観光客を誘致するとともに、国際社会の支援で同地域の大規模再開発を進め、パレスチナ経済の浮揚を図る意図も込められていました。 

 ところが、期間中の、2000年9月28日、イスラエルの右派政党、リクードの党首アリエル・シャロンが、当時のバラック政権の軟弱姿勢を批判するため、エルサレムの神殿の丘に登り、岩のドームの前で「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言。パレスチナ人を挑発したことから、第二次インティファーダが発生。情勢が一挙に不安定化したことから、“ベツレヘム2000”は、結果的に尻すぼみに終わってしまいました。

 ちなみに、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 
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 1月11日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第14回が放送予定です。今回は、年明け最初ということで、世界で最初に犬の切手を発行したニューファンドランドについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 囲碁の日
2018-01-05 Fri 12:49
 きょう(5日)は、“い(1)ご(5)”の語呂合せで、日本棋院が提唱した“囲碁の日”です。これにあわせて(だと思いますが)、きょう、将棋で史上初の「永世七冠」を達成した羽生善治、囲碁で2度目の七冠独占を果たした井山裕太の両氏に対する国民栄誉賞の授与が正式に決定されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      国際文通週間・竹河

 これは、1989年10月6日に発行された国際文通週間の切手のうち、『源氏物語絵巻』の中から「竹河(二)」段の「玉鬘の娘姉妹の囲碁と垣間見」を取り上げた120円切手です。同年の国際文通週間の切手には、同じく『源氏物語絵巻』の中から』「宿木(一)」段の「今上帝と薫の囲碁」を取り上げた80円切手も発行されており、これら2種が、日本最初の囲碁切手となりました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、玉鬘の大君と中君とが囲碁をしているのを、大君に思いを寄せる蔵人少将がのぞき見する場面で、対応する原文は以下の通りです。

 中将など立ちたまひて後、君たちは打ちさしたまへる碁打ちたまふ。昔より争ひたまふ桜を賭け物にて、「三番に数一つ勝ちたまはむ方に花を寄せてん」と戯れかはし聞こえたまふ。暗うなれば、端近うて打ち果てたまふ。御簾巻き上げて、人々皆いどみ念じきこゆ。折しも例の少将、侍従の君の御曹司に来たりけるを、うち連れて出でたまひにければ、おほかた人少ななるに、廊の戸の開きたるに、やをら寄りてのぞきけり。

 画面の左、碁を打っている2人のうち、小桜文様の装束で御簾に頭部が隠れている奥の女性が大君、手前の後ろ姿の女性が中君です。2人は、画面右手前の桜の木を賭けて3番勝負の碁を打っており、中君が2番勝って勝利。負けた大君は桜を妹に譲り、冷泉院の后となります。

 なお、『源氏物語絵巻』のオリジナルでは、右側に2人を覗き見する蔵人少将が描かれているのですが(これこそが絵巻の主題なわけですが)、切手では、桜の木の右奥に描かれている女房ともども、トリミングでカットされています。

 
★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は11日!★★

 1月11日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第14回が放送予定です。今回は、年明け最初ということで、世界で最初に犬の切手を発行したニューファンドランドについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 年賀状の切手
2018-01-04 Thu 10:36
 毎年のことですが、“郵便学者”という看板を掲げて生活している関係から、僕は毎年、年賀状には干支にちなんだ切手を取り上げることにしています。もっとも、ただ単に干支の切手を持ってくるだけではつまらないので、①できるだけ他の人が使いそうにないモノ、②その年の仕事の予告編になりそうなモノ、③可能な限り、干支を取り上げた年賀切手は除く、という基準で選んでいます。きょう(4日)は仕事始めでオフィスで僕の年賀状をご覧になるという方もあると思いますので、今回の年賀状の切手について簡単にご説明いたします。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・犬の宇宙飛行士

 これは、2006年にキューバが発行した“クーチョ”を取り上げた切手の1枚で、宇宙飛行士になったクーチョと“時代遅れの宇宙船”としてのスペースシャトルが描かれています。宇宙に飛び出したクーチョにちなんで、皆様のいっそうの飛躍をお祈りする氣持も込めました。

 クーチョはキューバを代表する漫画家、ヴィルヒリオ・マルティネスの漫画『クーチョ』の主人公の犬です。

 ヴィルヒリオ・マルティネスは、1931年4月27日、ハヴァナ生まれで、1949年に商業作家としてデビューしました。商業誌での活動のかたわら、反バティスタの地下出版でバティスタ批判の風刺漫画を描いていました。1955-59年、左派系の雑誌『メッラ』誌に、擬人化された犬のプーチョを主人公とする冒険物語『プーチョ』を連載。これが、切手に取り上げられたクーチョのルーツとなりました。

 1959年の革命後、カストロ政権は国民教化の手段として漫画を重視するなかで、マルティネスは左翼系の著名漫画家として革命政府の庇護を受け、キューバ共産党中央委員会の機関紙『グランマ』をはじめ、多くの媒体で作家のみならずアート・ディレクターや編集代表としても活躍しました。その作風は、クーチョのような愛嬌のあるものだけでなく、キューバ革命史に題材を取った写実的なものまで多岐にわたっています。ちなみに、フリオ・アントニオ・メジャ(学生連合と共産党の設立者。1929年に暗殺)、カミーロ・シエンフエゴス、チェ・ゲヴァラの3人を並べた共産主義青年同盟(UJC:Unión de Jóvenes Comunistas)のロゴマーク(下の画像)も、彼がデザインしたものです。2008年5月12日没。享年77歳。

      キューバ・UJCロゴ

 さて、元日のご挨拶でも少し触れましたが、現在、チェ・ゲヴァラの本をに関する書籍を今春刊行すべく作業を進めています。ゲヴァラに関しては、昨年が没後50年ということで、NHKラジオ第1放送の「切手でひも解く世界の歴史」やインターネット配信の「チャンネルくらら」でも特集をやったのですが、これが思いのほか好評で、昨年末、今年6月の生誕90年にあわせての書籍刊行が決まりました。正式なタイトルや刊行日など、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。

 なお、例によって、年賀状の投函は年末ぎりぎりになってしまいましたので、まだお手元に届いていない方もあるかと思います。(ちなみに、拙宅には、明らかに昨年の御用納め以前に投函されたと思しき、オフィスからの年賀状が昨日の夕方にも何通か届きました)

 早々に賀状をお送りいただきながら、僕の賀状がまだ届いていないという方々におかれましては、今しばらくお待ちいただきますよう、伏してお願い申し上げます。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★

  12月28日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第13回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、年明け1月11日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、12月28日放送分につきましては、1月4日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 ドバイのレーザーショー、ギネス認定
2018-01-03 Wed 12:10
 世界で最も高いビルとして知られるドバイのブルジュ・ハリーファで、2017-18年の年越しイベントとして行われたレーザーショーが、「単体の建物で行われた最大のレーザーと音楽のショー」として面積10万9252平米を記録し、2013年に香港の環球貿易広場(ICCビル)で認定された記録を更新し、ギネス記録に認定されました。というわけで、きょうはストレートにブルジュ・ハリーファの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      UAE・ブルジュハリーファ(2016)

 これは、2016年にアラブ首長国連邦((UAE)が発行した“ブルジュ・ハリーファ6周年”の記念切手です。

 1971年12月のUAE発足後、アブダビの首長であったザイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンが国家元首としての連邦大統領に就任し、ドバイ首長のラーシド・ビン・サーイド・アール・マクトゥームは副大統領となります。豊富な石油資源を持ち、人口・面積ともにUAE内で突出していたアブダビに対抗して、連邦内での発言力を維持するため、ドバイは原油依存の経済構造からの脱却を目指して産業の多角化に乗り出しました。

 以後、脱石油依存を進めてきたドバイは、20世紀末になると、より一層の外資を呼び込むため、不動産市場を自由化し、UAE国籍を持たなくとも自由に土地や不動産を所有できるように法改正を行いました。この結果、ドバイでは建設ブームが過熱し、パーム・アイランドなどの人工島をはじめ、数々の大規模土木プロジェクトが次々と進められていくことになります。

 この流れは、2003年以降、いっそうの拍車がかかり、2004年後半に始まる原油高の追い風を受けて、2005年度のドバイ経済は16%もの高い成長率を記録しました。

 こうした状況の中で、当時、皇太子だったムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(現首長)は、“何か凄くセンセーショナルなもの”でドバイに対する世界の注目を集め、投資を呼び込もうと考えました。その一環として浮上してきたのが、シャイフ・ザーイド・ロードの第1インターチェンジの付近の2平方キロの土地に、世界一高い超高層ビル“ブルジュ・ドバイ”を建設し、その周囲に市街地を造成する“ダウンタウン・ブルジュ・ドバイ”開発計画です。

 ダウンタウン・ブルジュ・ドバイの核となるタワーは、世界中の超高層ビルを手がけたエイドリアン・スミスが設計を担当。建設は、韓国のサムスン物産、ベルギーのベシックス アラブテックが、設備はUAEの ETA、インドのVoltas、そして、わが国の日立プラントテクノロジーが担当しました。

 “何か凄くセンセーショナルなもの”という首長のリクエストに応えるかのように、当初、オーストラリア・メルボルンのグロロ・タワー(560メートル)程度で計画されていた塔の高さは、徐々に高くなり、最終的に、828メートルに変更されました。また、実際の建設工事は2004年9月21日に始まりましたが、デザインや設備などの“アップグレード”による変更が相次ぎ、総工費は15億米ドルにまで膨張。その結果として、事務所スペースは1平米あたり4万3000ドル、アルマーニが販売する住居スペースは1平米あたり3万7500ドルという超高額の価格設定となりました。

 ところが、この間の2008年9月、米国の名門投資銀行リーマン・ブラザーズが64兆円の負債を抱えて倒産した“リーマン・ショック”から世界的な金融危機が発生。その影響はドバイを直撃し、外国企業からの投資引き上げや地元企業の資金繰り悪化、それらに伴う多数の建築工事や計画の中止、外国人労働者の失業、さらには外国人観光客の減少なども追い打ちをかけるかたちで、景気は急速に減速しました。

 そして、“ブルジュ・ドバイ”の開業まで1ヵ月半に迫った2009年11月25日、ドバイ政府は、政府系持株会社ドバイ・ワールドと不動産子会社ナヒールの債務590億ドル(当時のレートで約5兆円)について6ヵ月以上の支払い猶予を債権者に求めます。これを機に、欧米系銀行の債務焦げ付きの懸念からユーロが一挙に売られて円高が急激に進行するとともに、株価が大きく下落しました。

 いわゆる“ドバイ・ショック”です。

 結局、ドバイ域内で不動産の空室や差し押さえ物件が溢れかえる中で、ドバイ政府はアブダビから数十億ドルを借り入れて急場をしのがざるを得なくなりました。

 こうした経緯から、2010年1月4日のオープニング・セレモニーでは、突如、それまで“ブルジュ・ドバイ”とされていた建物の名称が、アブダビのハリーファ首長にちなんで、“ブルジュ・ハリーファ”に変更されることが発表され、人々を大いに驚かせました。たしかに、それはそれで“凄くセンセーショナル”な出来事には違いないのでしょうが…。

 かくしてオープンしたブルジュ・ハリーファは世界的な観光名所となり、毎年、近隣のビルやランドマークを巻き込んで、大規模な花火ショーが行われてきました。しかし、人の密集による事故や同時間帯での火災事故などもあり、今回からレーザーショーに変更となり、いきなり、ギネス記録を達成したというわけです。

今回の レーザーショーは、約7分間、建物全体を使ってさまざまな絵柄が映し出すもので、UAEの国旗やアラビア文字、国鳥の鷹が飛ぶ姿などとともに、2018年がアブダビ首長でUAEの初代大統領のザイド生誕100年であることにちなむ“ザイドの年”を祝賀する内容となっています。なお、レーザーショーは、今月6日まで行われ、きょう(3日)までは20時から、4日~6日は22時からスタートだそうです。 
  

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  12月28日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第13回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、年明け1月11日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、12月28日放送分につきましては、1月4日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 スプートニクとガガーリンの闇(4)
2018-01-02 Tue 11:56
 先月25日、『本のメルマガ』第667号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1957年中にソ連で制作・発行されたスプートニク1号関連のマテリアルについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・年賀はがき(1957年・スプートニク)

 これは、1958年用に作られたソ連の年賀絵葉書で、スプートニク1号にまたがって飛ぶ子供が描かれています。

 スプートニク1号の打ち上げ成功(1957年10月4日)から3日後の10月7日、ソ連はコンスタンチン・ツィオルコフスキー生誕100周年の記念切手を発行しました。ツィオルコフスキーの誕生日は1857年9月17日(新暦では9月5日)、命日は1935年9月19日で、切手発行日の10月7日はそのいずれにも該当しません。

 もちろん、ツィオルコフスキーの生誕100年は、人工衛星打ち上げの成否にかかわらず、記念すべき出来事ではあるのですが、当初の打ち上げ予定日が10月6日だったことを考えると、人工衛星の打ち上げ成功を見越して、その翌日に記念切手の発行日が設定されたと考えるのが妥当なように思われます。

 たとえば、打ち上げの成功を受けて、開発責任者のセルゲイ・パヴロヴィチ・コロリョフは次のように演説しており、彼がツィオルコフスキー(の生誕100年)を意識していたことは明らかです。

 同志諸君!本日人類の最高の知性が夢見たことが現実となった。コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーの、人類は永久に地球上にとどまることはないであろうとの預言が実現した。本日、世界初の人工衛星が地球周回軌道上に投入された。その結果として、宇宙の征服が始まった。そして、宇宙空間への道を敷いた最初の国は、我が国ソヴィエト国家である。諸君とともに、この歴史的な日を祝いたい。(訳文は富田信之『ロシア宇宙開発史 気球からヴォストークまで』 東京大学出版会 2012年)

 ただし、コロリョフの興奮とは1957年10月4日の時点では、打ち上げに関わっていた実務担当者の多くは、人工衛星よりも、ロケットR-7が正常に飛ぶか否かに関心があり、スタッフの一人で打ち上げ当日、モスクワにいたボリス・エフセーヴィチ・チェルトクは「我々は、宇宙時代が今始まったなどと思いもよらずに散会し、深夜、黙々と家路に就いた」と証言しています。

 フルシチョフもまた、スプートニク1号の打ち上げ成功は、長距離誘導ロケットがいまだ成功に至らぬ中で、あくまでも科学技術上の過渡的な業績の一つとしてしか考えておらず、当初は、その政治的な重要性をあまり理解していなかったとされています。ただし、モスクワ放送(現ロシアの声)は、国内向けのロシア語放送よりも先に、米国向けの英語放送で打ち上げ成功の第一報を報じており、打ち上げの成功を対米戦略に活用しようという意思はあったようです。

 ところが、スプートニク1号の打ち上げ成功は、ソ連関係者の予想をはるかに上回る国際的な反響を呼び起こしました。このため、政治家・フルシチョフは宇宙活動の成果を最大限に活用することを決断。ソ連のメディアはソヴィエト科学の“勝利”を大々的に報じ、国民は、詳細はわからないものの、“なにかすごいこと”をソ連の科学者が達成したことは理解し、フルシチョフに対する支持も上昇しました。

 これを受けて、打ち上げからほぼ1ヶ月後の11月5日、スプートニク1号の成功を記念する切手が発行されます。

 切手は地球を周回するスプートニク1号を描いたもので、左上には1957年10月4日の日付も入っている。また、スプートニク1号は直径58cmのアルミニウム製の球で、それに長さ2.4mのアンテナ4本が一方向についていましたが、実際に打ち上げが成功するまで、この形状は外部に明らかにされませんでしたので、切手のデザインは打ち上げの成功に制作され、そこから突貫作業で切手の製造が進められたと考えてよいでしょう。

 ちなみに、スプートニク1号を球形にしたのはコロリョフのこだわりで、表面積が最小で内容積が最大となるのが大きな利点でした。また、表面を磨き上げることによって、反射率を高めて熱吸収率を下げれば表面の温度上昇を抑えることも可能で、反射により地上からも衛星が見えるという効果も期待されていました。

 さらに、11月28日には、10月7日に発行されたツィオルコフスキー生誕100周年の記念切手に打ち上げ成功の記念銘を加刷した切手も発行されています。

 新たにオリジナル・デザインの正刷切手を発行するよりも、既に存在する切手に記念文字を加刷する方が製造工程としてははるかに簡単で制作期間も短くて済むはずです。それだけに、加刷切手に先んじて正刷切手が先に発行されたことは、結果的に、正刷記念切手の製造がいかに突貫作業で進められたかを物語るものといえましょう。

 なお、11月5日に発行された切手は青みがかった用紙に紺色で印刷されていますが、12月28日には白紙に明るい青色で印刷された切手が発行されています。両者のデザインと額面は全く同じで刷色も同系統なので、このような変更が行われる必然性はあまりないように思われますが、あるいは、突貫作業で作られたために用紙やインクの調達の関係で、2度に分けて製造・発行せざるを得なかったということなのかもしれません。

 今回ご紹介の葉書は、これらの記念切手に加えて、制作されたものです。

 スプートニク1号の反響に気をよくしたフルシチョフは、10月10日、コロリョフに対して、11月7日の革命記念日までにスプートニク2号を打ち上げるよう命じ、それは、11月3日に実現されました。

 ただし、1958年用の年賀絵葉書の場合は、とりあえず、記念切手ほど突貫作業での制作・発行の必要がなく、とりあえず、年末までに間に合わせればよいということだったのか、スプートニク2号を取り上げたものはなく、1号と2号を並べて描くデザインの絵葉書が出回るようになるのは1958年に入ってからのことでした。

 ちなみに、スプートニク1号の電池寿命は3週間で、打ち上げから22日後には電池が切れましたが、その後も衛星は軌道周回を続け、年が明け、打ち上げから92日後の1958年1月4日に高度がさがり、大気圏に再突入して消滅しました。したがって、今回ご紹介の絵葉書は、スプートニク1号が実際に宇宙空間を飛んでいる間に発行されたモノということになります。


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