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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ボゴタ憲章70年
2018-04-30 Mon 02:13
 米州機構の設立を決めたボゴタ憲章が、1948年4月30日に調印されてから、今日でちょうど70年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      コロンビア・米州会議(1948)

 これは、ボゴタ憲章が調印された第9回米州会議に際して、開催国のコロンビアが発行した切手シートです。
 
 コロンビアでは、1934年、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホが大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われました。コロンビアでは現職の大統領の連続して再選されることを禁じていますので、大統領は1938年にいったんエドゥアルド・サントス・モンテホ交代。しかし、自由党の政権は維持され、1942年の大統領選挙では、プマレホ元大統領が勝利し、政権に復帰しました。第2期プマレホ政権は1945年8月まで続いたものの、政策の行き詰まりから、任期半ばでの退陣を余儀なくされます。

 こうした状況の下で行われた1946年5月の総選挙では、自由党が元駐米大使のガブリエル・トゥルバイの右派と、元ボゴタ市長にして文相、労相も歴任したホルヘ・エリエセル・ガイタンの左派に分裂したことに加え、左派勢力伸長を懸念した保守党右派や地主・軍部が一致して保守党穏健派のマリアーノ・オスピナ・ペレスを支援したことから、16年ぶりに保守党政権が復活しました。

 保守党政権の復活を受けて、自由党政権時代の農地改革で土地を失った保守系大地主は民兵組織の“コントラチェスマ(窮民制圧隊)”を結成し、自由党系農民への迫害と虐殺を開始。1946年夏以降、地主の暴力を逃れた農民たちが土地部に流入し、首都ボゴタには3万もの難民が殺到しました。

 こうした中で、ガイタンは、1948年2月、首都ボゴタで20万人の市民を集めて平和のためのデモを行ない、「我々はただ生命と生活を保証してもらいたいとだけ望んでいるのだ」と演説。さらに、翌三月、十万人の“沈黙の行進”を組織して、警察の暴力に抗議し、「平和を求める演説」を行ないました。

 ボゴタ憲章を採択した第9回米州会議は、こうした中で行われたもので、会期にあわせて、今回ご紹介のような記念切手も発行されました。

 反共を旨とするボゴタ協定の構想に対して、4月7日、政権に批判的な左派リベラル勢力は、民族主義派と反帝派の学生連合組織を結成すべく、ラテンアメリカ学生会議総会をボゴタで開催することを決定。若き日のフィデル・カストロらキューバ代表団もこれに参加することになっていました。

 ボゴタに到着したカストロらキューバ学生団は、さっそく、4月9日にエル・ティエンポ新聞社でガイタンと会見することになっていたのですが、まさにその日、ガイタンは新聞社に向かう途中で暗殺されてしまいます。

 ガイタンの死を契機として、ボゴタでは大暴動(ボゴタソ)が発生。さらに暴動はオンダ、カルタゴ、バランカベルメハ、トゥルボにも波及し、バランキージャでは知事庁舎が暴徒に占拠されました。

 混乱の中で、カストロはボゴタの警察署でライフルとサーベルを奪い、警察官の制服と帽子を身に着けて街に飛び出し、暴動に加わった警察官とともに市民の先頭に立って政府軍と対峙しましたが、4月11日、政府と自由党の間で合意が成立し、自由党が武装解除に応じたことで、事態は一挙に沈静化の方向に向かっていきます。

 一方、保守党政権は暴動を徹底的に弾圧し、その過程で、ボゴタでは136軒の建物が全焼し、市民ら約2000人が死亡。さらに、その後の一週間で叛乱側と見なされた市民約5000人が虐殺されました。

 なお、カストロはアルゼンチン大使館とキューバ大使館の援助で辛くもボゴタを脱出し、ハバナに戻ります。ただし、この時の経験から、カストロは、自然発生的に市民の暴動が発生しても、誰かがそれを統御しない限り、結局、権力を打倒する革命へと昇華することはないことを感得。“革命家”へと飛躍する大きな契機となりました。

 ちなみに、コロンビアではその後も1957年末に自由・保守両党間でサンカルロス協定が締結されるまで、政治的混乱と暴力の連鎖が続く“ヴィオレンシア(暴力の時代)”に突入。およそ十年間の動乱で、10万とも20万ともいわれる犠牲者が生じることになります。

 さて、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、コロンビアを含むラテンアメリカの情勢がカストロやキューバ革命にどのように影響を及ぼしたか、という点についても触れています。今後、同書については、このブログでも随時ご案内していきますので、よろしくお願いいたします。


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 昭和の日
2018-04-29 Sun 11:01
 きょう(29日)は“昭和の日”です。というわけで、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の中から、昭和史ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・マルティ生誕100年(監獄)

 これは、1953年にキューバが発行した“ホセ・マルティ生誕100年”の記念切手のうち、マルティが捕えられていたピノス島(現・青年の島:フベントゥド島 )の“政治犯収容所”が描かれています。この収容所は、第二次大戦中、日系人が抑留されていた施設でもありました。ちなみに、実際の収容所内の風景を取り上げた写真絵葉書が手元にありますので、その画像も下に貼っておきます。

      キューバ・ピノス島監獄

 ピノス島は、キューバ本島西部南岸のバタバノ湾から南西百キロの地点にあり、ハバナやピノール・デル・リオからほぼ真南に位置しています。ピノス島という地名は、島中に松の木が多数あったことに由来するもので、日系移民の間ではスペイン語名を直訳した“松島”と通称されていました。

 キューバといえば、サトウキビの栽培が有名ですが、ピノス島の土壌はサトウキビの生育に全く適していません。このため、スペイン当局はここに政治犯収容所を設置し、同島でも栽培可能な柑橘類の栽培などの労働に従事させていました。キューバ独立運動の指導者として知られるホセ・マルティも、一時、この収容所で拘束されていたことがあり、そのため、生誕100年の記念切手にも収容所の風景が取り上げられたというわけです。

 さて、米西戦争後のパリ条約では、スペインはキューバの領有権を放棄しましたが、ピノス島はキューバの領土を定めた覚書からその名が脱落していたため、米国とキューバの間で領有権をめぐる対立が生じます。その後、1907年、米国最高裁がピノス島は合衆国に属するものではないとの裁定を下したため、米国政府は、それ以上の争いを断念。1925年に米国とキューバの間で取り交わされた覚書により、島の領有権はキューバのものと確定しました。

 ところで、キューバ島を訪れた日本人の記録としては、1614年7月23日、仙台藩主伊達政宗の命を受けてスペインおよびローマに派遣された支倉常長らがハバナに立ち寄ったのが最初です。明治維新後、日本から北米の移民が始まりましたが、米国では黄禍論に基づく日系移民の排斥が始まったため、その代替地の一つとして、1898年、キューバへの日系移民が始まり、1908年以降はピノス島に移住して果物・野菜の栽培に従事する日本人も現れました。

 なお、キューバへの日系移民は1919年から1926年頃が最盛期でしたが、この時点では両国間に正規の国交はなく、1929年の通称暫定取極締結により、ようやく、外交関係が樹立されています。

 1941年12月8日、日本が米英に宣戦を布告すると、翌9日、キューバは日本に宣戦布告し、以後、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効するまで両国の外交関係は途絶します。

 この間、1941年12月12日、キューバ在住の日本人は“敵性外国人”として、その一部が逮捕・国外退去処分となり、約350人の男性が1946年3月までピノス島のプレディシオ・モデーロ収容所に抑留されました。

 1952年、日本とキューバの国交は回復しましたが、1959年の革命で親米バティスタ政権が打倒されると、少なからぬ日本人が混乱を嫌って、キューバを去りました。ちなみに、1950年代後半は、日本からラテンアメリカ諸国への移民がさかんに行われていた時期で(ちなみに、キューバで革命が起きた1959年の日本からブラジルへの移民は年間7000人を超えていた)、そうした中で、キューバは日系移民社会が縮小していた例外的な国でした。

 さて、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、そうしたキューバの日系移民について、チェ・ゲバラがどう考えていたかについても触れています。今後、同書については、このブログでも随時ご案内していきますので、よろしくお願いいたします。


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 世界の切手:エチオピア
2018-04-28 Sat 01:10
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』4月18日号が発行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はエチオピア(と一部ザイール)を取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      エチオピア・メネリク2世100年

 これは、1944年にエチオピアで発行された“メネリク2世100年”の記念切手のうち、メネリク2世の肖像を描く10サンティーム切手です。

 後にエチオピア皇帝メネリク2世となるサーレ・マリアムは、1844年、ショアのネグ(地方君主)、ハイレ・マラコトの子として生まれました。

 エチオピアでは1769年以降、“諸侯(ラス)の時代”と呼ばれる群雄割拠の戦国時代が続いていましたが、1855年、テオドロス2世が統一戦争を敢行し、再統一を達成します。その過程で、ショアも征服され、マリアムは捕虜となりましたが、その英明さゆえにテオドロス2世の寵愛を受け、為政者としての訓練を積みました。

 1865年、マリアムはマグダラ(当時の首都)からショアに戻り、亡くなった父王の跡を継いでショア王を宣言。エチオピア南部、オロモ人の領土を征服したほか、1877年にはエジプト人に占領されていたハラールを奪還。フランス人の設立したバルデー商会との武器取引を通じて力を蓄えていきます。

 1868年にテオドロス2世が崩御した後、エチオピアの帝位はギヨルギス2世(在位1868-71)、ヨハンネス4世(1871-89)が継承しましたが、これに対して、マリアムは1870年代後半以降 “メネリク2世”を自称します。ソロモンとシバの子でエチオピア初代の王と同名の“メネリク”を名乗ることは、ヨハンネス4世に対する公然たる不服従の意思を示すもので、両者の対立は深刻になりましたが、メネリクは徐々に地歩を固め、1889年にヨハンネス4世が崩御すると後継皇帝として即位しました。

 1889年、エチオピアはイタリアとウチャリ条約を結び、イタリアによるエリトリアの保護領化を承認。その後、イタリアはエチオピア本土への侵攻を企図し、1893年以降、エチオピア北部、エリトリアとの国境に位置するティグレ州への攻撃を繰り返しました。

 これが第一次エチオピア戦争です。

 第一次エチオピア戦争は、1896年3月、ティグレ州アドワの戦いでイタリア軍が従軍した1万4527人中1万人以上を失う惨敗を喫したことでアディスアベバでの講和条約が調印され、これにより、エチオピア帝国の独立は欧州列強による植民地化を回避することができたと評価されています。

 イタリアの侵攻を退けたメネリク2世は、教育の近代化、電話の普及、鉄道、道路の建設、アビシニア銀行(後のエチオピア国立銀行)と造幣局の設立、貨幣制度の整備、近代郵便制度の創設、さらには内閣制度の導入など、近代化改革を推進。このうち、アビシニア銀行は英国系のエジプト銀行が株式の3分の1を占めていましたが、アディスアベバ鉄道はフランス系のインドシナ銀行が大株主になり、病院建設と保険・衛星事業についてはロシアの協力を仰ぐなど、メネリクは列強諸国のうち、特定の国の影響力が突出しないよう腐心しました。

 こうして、メネリク2世はエチオピアをアフリカ諸国の中でも最も進んだ国にしましたが、1906年、脳出血で倒れ、翌1907年、後継者として孫のイヤス5世を指名し、1913年に崩御しました。

 さて、『世界の切手コレクション』4月18日号の「世界の国々」では、メネリク2世とその時代についてまとめた長文コラムのほか、シバの女王、エチオピア正教会の聖母子像、エチオピア・コーヒー、朝鮮戦争へのエチオピア軍派兵に関する切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のエチオピア(と一部ザイール)の次は、4月18日に発売された4月25日号でのリビア(と一部コモロ)の特集です。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。


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 きょう南北首脳会談
2018-04-27 Fri 10:31
 11年ぶり3回目となる韓国と北朝鮮の南北首脳会談が、さきほど(27日午前9時半)はじまりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      南北朝上会談(韓国2000)

 これは、2,000年に行われた最初の南北首脳会談(韓国での呼称は南北朝上会談)に際して発行された記念切手です。

 2000年3月9日、韓国の金大中大統領は外遊先のベルリンで講演を行い、対北朝鮮政策に関する「ベルリン宣言」を発表。その主なポイントは以下の通りでした。

 1)韓国は北朝鮮が経済的困難を克服できるよう手助けする準備がある。道路、港湾、鉄道、電力、通信など社会間接資本の拡充や投資保障協定と二重課税防止協定などの投資の環境整備、食糧難の抜本的な解決のための北朝鮮農業の構造改革など、政府当局間の協力が必要な事項については、北朝鮮からの要請があれば、韓国はこれを積極的に検討する準備がある。
 2)韓国の当面の目標は、統一よりも平和定着である。したがってわが政府は、和解と協力の精神で力が及ぶ限り、北を手助けしていく。
 3)北朝鮮は人道的見地から、離散家族問題解決に応じるべきだ。
 4)これらすべての問題を効果的に解決するため、南北当局間の対話が必要だ。

 ベルリン宣言の発表を受けて、3月17日、北京で特使級の非公開接触が行われ、南北頂上会談の実施が合意されます。会談では、1971年の「7.4南北共同声明」の祖国統一3大原則(自主・平和・民族大団結)を出発点とすることも確認されました。

 北朝鮮側が南北頂上会談の受け入れに応じた背景には、なによりもまず、経済的苦境を脱するために韓国からの経済支援が必要であったという事情があります。

 一方、金大中政権下で採用された太陽政策の結果、韓国内で北朝鮮に対する宥和的な世論が形成されていたものの、2000年4月の国会議員選挙で、政権与党の民主党は、太陽政策に批判的な野党ハンナラ党に119対133で敗れていました。このため、世論の支持を得て巻き返しを図るためにも、金大中政権は南北頂上会談という切り札を早急に使う必要に迫られていました。

 こうした両者の思惑が絡み合い、2000年6月13日から15日にかけて、韓国の大統領、金大中が平壌を訪問して北朝鮮の最高実力者、朝鮮労働党総書記の金正日との“南北頂上会談”はこうした経緯を経て行われました。

 会談後の共同宣言では、今回の頂上会談が「祖国の平和的統一を念願する全民族の崇高な意志により」行われたものであることを明らかにした上で、①統一問題を自主的に解決していくこと、② 統一のため、南側の連合制案と北側の緩やかな連邦制案がお互い、共通性があったと認め、今後、この方向から統一を志向していくこと、③離散家族、親戚訪問団を交換し、非転向長期囚問題を解決すること、④経済協力を通じて、社会、文化、体育、保健、環境など、諸分野の交流を活性化させること、などがうたわれていました。また、答礼のため、金正日がソウルを訪問することも盛り込まれていましたが、これは、2011年に金正日が亡くなったため実現しませんでした。

 なお、このあたりの事情については、拙著『韓国現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。また、今回の南北首脳会談を含む最近の朝鮮半島情勢についての、僕自身が考えていることなどにつきましては、チャンネルくららのこちらの動画をご覧ください。
 

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 ヨーガの切手
2018-04-26 Thu 02:48
 きのう(25日)発売の『週刊文春』に、林芳正文部科学相が公用車を使って“セクシー個室ヨガ”ないしは“キャバクラヨガ”に通っていたとの趣旨の記事が掲載されましたが、実際には、件のヨーガ店は性的なサービスとは無縁の健全なヨーガスタジオで、店側は謝罪と訂正を求めています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・ヨーガ(トリコナーサナ)

 これは、1991年12月30日にインドが発行したヨーガの切手のうち、“ウッティタ・トリコナーサナ”のポーズを取り上げた1枚です。

 ヨーガの起源は明らかではありませんが、紀元前800年-紀元前500年に成立した『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』にはヨーガについての最古の記述がみられます。その後、紀元後2-4世紀にヨーガの実践方法として『ヨーガ・スートラ』がまとめられ、同書を根本教典として「ヨーガ学派」が成立。さらに、19世紀後半から20世紀前半に、ティルマライ・クリシュナマチャーリヤが、古典ヨーガをベースに伝統武術や西洋の身体文化を融合させて“ハタ・ヨーガ”の名で体系化。これが、ヨーガ体操として近現代のヨーガのベースとなっています。

 切手に取り上げられた、“ウッティタ・トリコナーサナ”のポーズはヨーガの基本ポーズのひとつで、直訳すると“強く伸ばす三角形のポーズ”という意味のサンスクリットです。足を広く開き、右足先を90度外側に向け、左足先も少し内側に向けたうえで、右手で右足の持てるところを持ち、左手を上に伸ばす姿勢で、体側を伸ばすことで、内臓内の毒素を排出しやすくするほか、ウェストのくびれを作る効果があるとされています。

 さて、『週刊文春』の記事で問題となったヨガ店の経営者、庄司ゆうこ氏は元グラビア・モデルですが、記事で書かれいる“元AV女優”というのは事実と異なります。また、店では女性インストラクターが1対1でヨーガを指導した後、頭や手のマッサージを行っていますが、あくまでも健全なヨーガスタジオであり、いわゆる性風俗店ではありません。このため、庄司氏は「あたかもいかがわしい内容を想像させるもので事実とはまったく違う」とブログで反論し、謝罪と訂正を要求しています。まぁ、政権批判に前のめりとなったメディアの勇み足と言ってしまえばそれまだなのでしょうが、関係者の方々には、本当にお気の毒としか言いようがありませんな。


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 アンザック・デイ
2018-04-25 Wed 01:52
 きょう(25日)は、第一次大戦中の1915年4月25日、オーストラリア・ニュージーランド軍団(アンザック ANZAC:Australia New Zealand Army Corps)がガリポリ半島に上陸したことを記念したアンザック・デイです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ニュージーランド・ANZAC DAY(2009)

 これは、2009年にニュージーランドが発行した“アンザック・デイ”の切手のうち、塹壕のマオリ兵を取り上げた1枚です。

 1914年8月5日、英本国はドイツと戦争状態に突入し、大英帝国にとっての第一次世界大戦が始まります。

 大戦の勃発とともにオーストラリア海軍は英本国の指揮下に置かれ、オーストラリア連邦政府は、連邦領土に隣接するドイツ領ニューギニア占領するための部隊を編成するとともに、海外派兵を目的とするオーストラリア軍団の設立を正式に決定しました。

 1914年11月、オーストラリア兵およびニュージーランド兵は“アンザック”として西オーストラリアのアルバニーを出港。1915年4月25日、ダーダネルス海峡北岸のガリポリ半島に展開するトルコ軍戦線を突破するため、英本国の部隊とともに半島南端に上陸しました。

 ちなみに、当時のオーストラリア海軍は、1911年に発足したばかりで弱小であったため、南洋群島を含む広大な“ニューギニア保護領”を領有するドイツと戦い、オーストラリアの通商航路を確保するためには、西太平洋最大の海軍力を持つ日本の協力が不可欠でした。実際、この時期、オーストラリア海軍が太平洋を自由に航行しえたのは、日英同盟による日本の海軍力が彼らの安全を保証していたからで、アンザック兵や物資・食料を運ぶオーストラリア船の護衛を日本海軍が担当することもありました。

 さて、ガリポリの戦いは、純粋に軍事的な見地からすれば、オスマン帝国の予想外の頑強な抵抗にあって、英側は3万3000人以上の戦死者を出して撤退しており、アンザックにとっても負け戦です。したがって、英本国にとっては、どちらかというと“歴史上の汚点”ともいうべき出来事であって、積極的に評価すべきこととは言えません。

 しかし、オーストラリアとニュージーランドの両国にとっては、初の本格的な海外遠征であったことに加え、5万人のANZACが勇敢に戦って8000人の犠牲を出したこと(ただし、単純な戦死者数でいえば、英本国の方がはるかに多いです)は、両国のアイデンティティと愛国主義形成にとって重要な契機となりました。

 このため、上陸1周年にあたる1916年4月25日には、ガリポリ半島で軍による戦死者追悼の式典が行われたほか、1920年代中頃にアンザック・デイがオーストラリアの祝日として各州に広まりました。現在では、アンザックデイは、ガリポリの戦いの犠牲者のみならず、第二次大戦朝鮮戦争など、両国が関わった全ての戦没者慰霊の日として、両国にとって最も重要な記念日とされています。

 なお、このうちの朝鮮戦争におけるアンザック軍については、拙著『朝鮮戦争』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 スプートニクとガガーリンの闇(7)
2018-04-24 Tue 05:38
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、『本のメルマガ』第676号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、前回に続き、スプートニク1号および2号を題材に、国際地球観測年の期間中に東側諸国で発行された切手を紹介していますが、今回は東ドイツについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      東独・1957年11月7日FDC

 これは、1957年11月7日、同日発行の“国際地球観測年(スプートニク打ち上げ)”とロシア革命40周年の記念切手を混貼した初日カバーです。一般に、同日発行の異なる記念切手が同居している初日カバーは歓迎されないのですが、今回は、スプートニク1号の打ち上げ成功を祝う記念切手が、ロシア革命記念日に発行されたことを示すため、こうしたマテリアルを持ってきました。

 今回ご紹介の切手が発行された1957年当時、東ドイツの実権を握っていたのはドイツ社会主義統一党(共産党)中央委員会書記長、ヴァルター・ウルブリヒトでした。

 ウルブリヒトは、1893年6月30日、ライプチヒの仕立屋の家に生まれました。両親はともにドイツ社会民主党(SPD)の熱心な活動家で、小学校を卒業したヴァルター少年も親の活動を手伝わされています。門前の小僧よろしく左翼少年として成長した彼は、第一次大戦が勃発すると兵士として召集されましたが、戦争反対を唱えて1917年に脱走。あっけなく捕まって投獄されましたが、1918年のドイツ革命の混乱に乗じて出獄しました。

 第一次大戦後のウルブリヒトは、穏健左翼の社会民主党を生ぬるく感じたのか、1920年にドイツ共産党に入党。モスクワにわたって共産主義者としての修業を積み、帰国後は、ザクセンの州議会議員を経て国会議員に当選します。

 当時のドイツでは、ナチスの突撃隊や共産党員の民兵組織が各地で暴力事件を起こしていましたが、共産党は1931年に警察が共産党のデモ隊員を1人殺すごとに報復として警官を2人殺すことを決定。現職の国会議員だったウルブリヒト本人も、共産党幹部の仲間と共謀して警官の殺害計画をたてて、部下の党員に実行させています。

 1933年にナチスが政権を獲得すると、ナチスは共産党員の追放を開始し、当時のドイツ共産党のトップ、エルンスト・テールマンも逮捕されました。また、残りの有力党員たちもソ連に呼び出されて粛清されたため、消去法でウルブリヒトがドイツ共産党の指導者に祭り上げられることになります。とはいえ、ナチスが共産党員を追放しなくても、殺人事件の首謀者であったウルブリヒトがドイツ国内にいづらくなるのは当然で、彼は1945年まで各地を転々として亡命生活を余儀なくされました。

 1941年、独ソ戦が勃発すると、ウルブリヒトはソ連のプロパガンダ文書をドイツ語に訳して宣伝放送を行なったり、ドイツ人捕虜への尋問や洗脳活動を行ったりするなど、積極的に祖国ドイツを裏切ってソ連に忠誠を尽くします。

 第二次大戦出の敗戦後、ドイツは米英仏ソの4国によって分割占領され、東西冷戦の進行に伴い、西側地区と東側地区の分断が進みました。その結果、1949年9月、西側地区でドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発足すると、これに対抗して、東側地区では、同年10月7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立。ソ連の“忠犬”ウルブリヒトは、この間、ソ連軍占領下のドイツに派遣されてかの地のソヴィエト体制化に奔走し、その功績により、東ドイツ国家が正式に発足すると、ドイツ社会主義統一党(共産党)の中央委員会書記長(後に第一書記)に就任しました。

 東ドイツの国家指導者となった彼は、スターリンに倣った秘密警察網を全土にはりめぐらしたうえで、1952年7月の党大会で“階級闘争の強化”を宣言し、農場集団化や工場・建設労働者のノルマを10.3%増やすなど、強引な社会主義化政策に乗り出します。東西ドイツはいずれもドイツ人国家であるから、東ドイツが西ドイツに対してレゾンデートルを主張するためには、社会主義の体制とイデオロギーを堅持し続ける必要があったためです。

 当然のことながら、こうした政策は一般の東ドイツ国民の猛反発にあい、1953年3月4日にスターリンが亡くなると、その権力の空白をついて、同年6月17日、東ベルリンで大規模な暴動が発生。これに対して、ウルブリヒトはソ連に“保護”を求め、ソ連の武力介入によりデモ隊を容赦なく鎮圧しました。

 そうしたウルブリヒト政権にとって、ソ連による宇宙空間の独占は、(彼らのレゾンデートルたる)社会主義の優越を世界に示し、東西冷戦の最前線を担う自国の体制を支えるための心強い援軍として受け止められていたことは間違いありません。

 1957-58年の国際地球観測年に際して、東ドイツは3種の記念切手を発行したが、そのうちの人工衛星を描く10ペニヒ切手は、スプートニク1号の打ち上げ成功を寿ぐものとして(スプートニク1号打ち上げの日付が入っている)、今回ご紹介の初日カバーが示すように、11月7日のロシア10月革命40周年の日にあわせて発行された。

 これに対して、残りの2種は、1958年2月5日に発行されています。おそらく、こちらが国際地球観測年の記念切手として企画していたところ、スプートニク1号の打ち上げ成功を受けて、急遽、10ペニヒ切手を制作・発行したのが実情でしょう。

 スプートニク1号の打ち上げからわずか1ヵ月の間に記念切手を準備し、発行することは、まさに、ウルブリヒト政権によるソ連への忠誠心の発露でした。

 なお、ウルブリヒトは、1961年にはベルリンの壁を作ったり、1968年にチェコスロヴァキアで起こった民主化運動“プラハの春”に際してワルシャワ条約機構軍の軍事介入を強く支持したりするなど、その後も、政治的にはスターリン主義の優等生であり続けようとしました。

 その一方で、経済政策に関しては、資本主義的な要素も一部取り入れようとしたため、1960年代後半からホーネッカーらと対立。この権力闘争は、結局、ブレジネフのソ連が支持したホーネッカーの勝利に終わり、1971年、事実上の引退を迫られています。まさに、“忠犬”の哀れな末路といったところでしょうか。


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 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

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 世界本の日
2018-04-23 Mon 09:45
 きょう(22日)は“世界本の日”です。というわけで、本が描かれた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      グアテマラ・労働改革1周年

 これは、1947年にグアテマラが発行した“労働改革1周年”の記念切手で、労働法令の本を読む労働者が描かれています。

 グアテマラでは、1944年、ホルヘ・ウビコ・イ・カスタニェーダの独裁政権が崩壊。ウビコの亡命直後、ブエネヴェンチュラ・ピニェダ大佐、エドゥアルド・ヴィジャグラン・アリサ大佐、フェデリコ・ポンセ・ヴァイデス将軍の3名は、国民議会を開いて暫定大統領の選出することを約束します。しかし、7月3日、実際に議会が招集されると、全議員は銃口を突き付けられ、ポンセへの投票を強要されました。

 ポンセは、ウビコからの命を受け、ウビコ政権の閣僚の多くを留任させたほか、弾圧政策もそのまま継続させたため、反政府勢力が再び結集。10月20日、前年まで士官学校の校長を務めていたハコボ・アルベンス・グスマンと、軍内改革派のフランシスコ・ハビエル・アラナ将軍を指導者とする兵士・学生グループが国民宮殿を襲撃し、ポンセを追放します。そして、アルベンスやアラナ、そして弁護士のホルヘ・トリエリョが革命政権を樹立し、年末までに民主的選挙を実施することを確約しました。

 これが、1944年のグアテマラ10月革命です。

 年末の選挙の結果、亡命先のアルゼンチンで大学の哲学教授をしていたフアン・ホセ・アレヴァーロ・ベルメホが大統領に選出され、アルベンスは国防相に就任しました。

 アレヴァーロ政権は最低賃金法や教育予算の拡充、今回ご紹介の切手の題材となっている労働改革など一連の社会改革に乗り出しました。その内容は比較的穏健ではあったが、米国やカトリック教会、グアテマラ経済を支配していた米系企業のユナイテッド・フルーツ社はそれすらも“容共的”としてアレヴァーロを攻撃。1951年の任期満了までに25回ものクーデター未遂事件が発生しました。特に、大統領選挙前年の1949年7月18日には、次期大統領への当選が有力視されていたアラナが“改革の行きすぎ”を批判してグアテマラシティでクーデターを計画。これを察知した国防相のアルベンスは、クーデター防止のため、アラナを誘拐しようとしてグアテマラシティ郊外で銃撃戦となり、アラナは死亡します。その後も暴動が発生し、政府軍がこれを鎮圧するという事件も発生しました。

 こうした経緯を経て行われた1950年の大統領選挙では、アルベンスは米国の干渉を跳ね除けて当選。1951年3月15日の大統領就任式では“極端に封建的な経済体制から、現代資本主義国家へと”脱皮を図ると宣言し、国政に対する“外資系企業(名指しこそ避けていましたが、ユナイテッド・フルーツ社のことです)”の影響力を削ぎ、外国資本からの支援を受けずに、国内の社会資本を整備する方針を明らかにしました。

 アレヴァーロ時代の穏健改革でさえ“容共的”と非難していた米国からすれば、さらにリベラル色の強いアルベンス政権は“危険な共産主義政権”にほかなりません。

 はたして、1952年6月、アルベンスは人口の2%と外国企業が国土の70%を独占していた状況を打破すべく、公約通り、“布告900”として、農地改革関連法を制定します。

 この結果、672エーカー(約272ヘクタール)以上の未開墾の土地を収用する農業委員会を設置する法的な権限を得た政府は、18ヶ月間にわたって延べ150万エーカー(約6070平方キロ)の土地を補償金(1952年5月の土地評価額に基づき、年利3%の25年債券の形式を取っていました)を支払って収容し、約10万家庭に分配しました。ちなみに、この農地改革により、アルベンス自身も1700エーカー(約688ヘクタール)の土地を手放しています。

 もちろん、一連の農地改革では、ユナイテッド・フルーツ社が所有していた広大な土地(耕作地・農場以外にも、グアテマラ国内の遊休地および未開墾地の85%は同社の所有でした)も収用の対象となりました。しかも、ユナイテッド・フルーツ社は、土地の評価額を低く見積もることで納税額を極端に抑制していたため、補償金も低額となり、アルベンス政権と激しく対立します。

 このほかにも、アルベンス政権は、グアテマラ労働党(左翼政党ですが、もともとはソ連と無関係にグアテマラ国内で誕生した土着政党)の合法化、大衆に対する識字運動、それまで差別を受けていたマヤ系先住民の権利回復運動などを展開しました。

 一連の政策は、当時のラテンアメリカではきわめて急進的な内容であったため、“グアテマラ革命”とも“グアテマラの春”とも呼ばれました。国内の保守派や米国はこれを苦々しく思っていましたが、ウビコ独裁政権の記憶も生々しかった国民の多くはアルベンスを支持し、1953年の国会選挙では、彼が率いる革命行動党が圧勝します。

 ちなみに、若き日のチェ・ゲバラは、そうした“グアテマラの春”の時代に首都グアテマラシティに滞在し、CIAの工作によりアルベンス政権が崩壊するまでを見届けています。5月に刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、そのあたりの事情については詳しく書きましたので、無事に刊行の暁には、なにとぞよろしくお願いします。


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 アース・デイ
2018-04-22 Sun 00:17
 きょう(22日)は“アース・デイ”です。というわけで、地球を描いた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヨルダン航空切手・1950

 これは、1950年に発行されたヨルダン最初の航空切手で、地球を背景に飛ぶ飛行機が描かれています。

 ヨルダンにおける航空郵便は、トランスヨルダン時代の1947年11月12日、アンマン=ベイルート間で行われたのが最初で、その後、1948年1月15日にカイロまで延伸されました。当時の料金は10グラムまでの基本料金が25ミリームです。

 アラブ世界では、すでに、シリア、レバノン、エジプト、イラクの各国が航空郵便用の切手(航空切手)を発行していたため、トランスヨルダンでもこれに倣い、航空郵便の開始にあわせて最初の航空切手が発行されることになりましたが、1948年5月に第一次中東戦争が勃発したため、実際の切手発行は戦後の1950年9月16日までずれ込んでいます。

 この間、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区を併合してヨルダン・ハシミテ王国となったため、航空切手には新国名が表示されることになり、結果的に、この切手が“ヨルダン・ハシミテ王国”表示の最初の切手となりました。

 また、この航空切手は、額面表示がミリームからフィルスに変更された最初の切手でもあります。

 すなわち、英統治時代を含むトランスヨルダンの時代、この地域で流通していた通貨は英委任統治下のパレスチナと同じくパレスチナ・ポンドでしたが、1946年5月25日、トランスヨルダンが独立すると、独自通貨の発行が計画され、その具体的な手続きとして、1949年第35号臨時法令が制定されました。同法により設置されたヨルダン通貨委員会は、1950年7月1日、新通貨としてパレスチナ・ポンドと等価のヨルダン・ディナールが創設。これに伴い、それまでのパレスチナ・ポンドは同年9月30日をもって廃止されました。なお、ヨルダン・ディナールの補助通貨にはディルハム、ピアストル、フィルスの3種があり、1ディナール=10ディルハム=100ピアストル(カルシュ)=1000フィルスです。

 ちなみに、トランスヨルダンからヨルダンへの移行期とその郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろ例を挙げてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(21日)のスタンプショウでのトークイベントは、無事、盛況のうちに終了いたしました。ご参加いただいた皆様ならびにスタッフ関係者の皆様に、この場をお借りしてお礼申し上げます。


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 本日、トークやります。
2018-04-21 Sat 01:09
 かねてご案内の通り、本日(21日)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。というわけで、その予告編として、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます。なお、イベントの詳細は主催者HPをご覧ください)

      キューバ・サロンデマヨ

 これは、1967年7月にキューバで発行された“サロン・ド・マヨ美術展”の記念シートで、同展の目玉とされた「クーバ・コレクティヴァ」が取り上げられています。この作品の左方にはゲバラの肖像が描かれており(下に拡大画像を貼っておきます)、これが、ゲバラ切手としては最初の1枚となりました。なお、ゲバラは1967年10月にボリヴィア山中で殺害されていますので、この切手は、ゲバラの生前に発行された唯一の肖像切手でもあります。

      キューバ・サロンデマヨ(部分)

 サロン・ド・マヨ美術展は、『レヴォルシオン』紙の元編集長で著述家のカルロス・フランキが中心となって開催したもので、イヴェント名はドイツ占領下のパリで、反ナチス派の芸術家たちが創設した“5月サロン”を意識しています。パブロ・ピカソ、ホアン・ミロ、アレクサンダー・カルダー、ルネ・ポルトカッレロ、ウィルフレド・ラム等、当代一流の芸術家の作品が展示されたほか、キューバを拠点に活動をする若手芸術家を集め、支援することも目的の一つであったため、展覧会に参加した芸術家の中には、主催者側から滞在費その他の支援を受け、会期の数週間前からハバナに滞在して作品を制作するケースもありました。

 切手に取り上げられた「クーバ・コレクティヴァ」は、中央の円をウィルフレド・ラムが描き、その周囲に渦巻き状に他の画家たちの作品を加えていくことで作られた合作壁画で、その全体は横10m、縦5mという巨大なものです。

 ちなみに、ゲバラの肖像として一番有名な「英雄的ゲリラ」は、革命後の1960年3月5日、前日にハバナ港で起きた爆発事件の犠牲者追悼集会で、『レヴォルシオン』誌の写真記者、アルベルト・コルダが撮影した写真をトリミングしたものです。

 当初、コルダの写真は一般に公開されませんでしたが、1967年、イタリアの編集者ジャンジャコモ・フェルトリネッリが焼き増しを譲り受け、同年10月のゲバラ処刑後、ポスターにして販売。さらに、キューバ政府主催の追悼集会で巨大な遺影として掲げられたほか、没後1周年の追悼切手等にも取り上げられて、いちやく有名になり、反体制のシンボルとして世界中で多くの複製が作られました。

 今回のトークでは、波乱に満ちたゲバラの生涯をたどるとともに、彼の死後、彼の肖像がどのような形で全世界に流布し、どのようなイメージで語られてきたのかという点についても、お話ししたいと考えています。ぜひ、1人でも多くの方にご参加いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

      ゲバラ本・仮書影

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 南米行きのUボート
2018-04-20 Fri 01:04
 第二次大戦末期の1945年5月6日、英軍機によってデンマーク沖で撃沈されたドイツ軍の潜水艦(Uボート)“U-3523”の残骸が、デンマーク最北端スカーゲンから北に約18.5kmの沖合、深さ134mの海底で発見されました。この潜水艦は、ながらく残骸の行方が分からなかったため、実は撃沈は嘘で、ヒトラーを含むナチス幹部を乗せて、極秘裏に南米に向かったのでは…との伝説がありましたが、今回の発見で潜水艦は南米には行かなかったことが確認されました。というわけで、南米でのUボートに関するマテリアルとして、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・Uボートラベルカバー

 これは、Uボートによって沈められたブラジル商船を描く戦意高揚ラベルが貼られたブラジル発の郵便物です。

 1939年9月に第二次大戦が勃発した当初、ブラジル国内では、陸軍の上層部はドイツに好意的でしたが、大統領のヴァルガスは中立を維持していました。

 ところが、1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃を受けて大戦に参戦した米国は、ブラジル北東部の戦略的な位置を重視し、ブラジルを自陣営に取り込もうとします。その一環として、米国は、ヴァルガス政権の経済政策の目玉の一つであったヴォルタ・レドンダ国立製鉄所の建設資金として2000億ドルを供与し、その代償として、レシーフェに米軍基地を設置。一方、ヴァルガス政権も、中立を掲げながらも、明らかに米国寄りの外交路線に舵を切るようになっていきました。

 一方、米国と戦闘状態に突入したドイツは大西洋戦線で潜水艦Uボートを用いた連合国の通商破壊作戦を展開していましたが、その結果、1942年1月から7月までの間に13隻のブラジル商船がドイツの潜水艦攻撃によって沈められます。さらに、同年8月には、潜水艦U-507により、2日間で5隻のブラジル船が沈められ、600人以上が犠牲になりました。この8月のUボート攻撃に対して、ブラジル国内の反独世論が沸騰。ヴァルガスは陸軍内の反対論を抑え込んで、8月22日、ドイツに対して宣戦を布告し、1944年にはラテンアメリカ諸国の中では唯一、ヨーロッパ戦線に派兵しています。

 今回ご紹介のカバーは、ブラジルの対独宣戦から間もない1942年10月、リオから米コロラド州デンバー宛に差し出された郵便物で、切手とは別に、Uボートによって沈められたブラジル商船を描く戦意高揚ラベルが貼られています。ラベルには「物価の上昇 ナチスの海賊行為の結果」との文言も入っており、Uボートによるブラジル商船への攻撃が単発的な“事件”ではなく、遠いヨーロッパの戦争がブラジル国民にとっても無関係ではないことを強調する内容となっています。

 なお、第二次大戦中のブラジルについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 イスラエル独立70年
2018-04-19 Thu 01:14
 イスラエルの独立宣言は、西暦では1948年5月14日ですが、ユダヤ暦では5708年イヤル月5日です。ユダヤ暦換算では、きょう(18日の日没から19日の日没まで)がその70年にあたっており、イスラエルでは各種の記念イベントが行われます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・独立宣言

 これは、1973年にイスラエルが発行した独立25周年の記念切手で、イスラエル独立宣言のうち、初代大統領のベングリオン以下、閣僚たちの署名部分が取り上げられています。

 第2次大戦末期の1945年4月、ローズヴェルトの死により、急遽、米国大統領となったトルーマンは、中東地域に関して具体的な戦略的見通しを持っておらず、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしないとアラブ側に約束した前任者の方針を基本的には継承します。しかし、ナチス・ドイツの敗北により悲惨な収容所の実態を知ることになった彼は、ユダヤ人犠牲者の救済という視点から、パレスチナにユダヤ国家の建設を目指すシオニストに同情的な姿勢をとるようになっていきます。

 このため、1945年7月、トルーマンは英国政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住制限を解除するよう要請。さらに、同年8月には、パレスチナが10万人のユダヤ系難民を移民として受け入れるよう、アトリー(英首相)宛の書簡で求めています。

 これを契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立され、委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を撤廃する、との報告書をまとめます。しかし、報告書発表の直前、シオニスト過激派により英軍兵士6人が殺害されるというテロ事件が発生。態度を硬化させた英国は、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示しますが、このことは、英国の対応に不満を持つシオニストたちの反英闘争をより激化させる結果をもたらしました。

 シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国連に問題の解決を一任すると一方的に宣言います。これを受けて、5月に設立された国連パレスチナ問題特別委員会は、パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くというパレスチナ分割案を多数派意見として発表。同案は、同年11月29日、国連決議第181号(パレスチナ分割決議)として採択されました。

 これに対して、アラブ地域では、国連決議が採択された11月29日は“服喪と圧政の日”とされ、第二次大戦中は比較的収まっていたパレスチナ全土で反シオニストの武装闘争が再燃。アラブ住民とシオニストとの間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナ全土は事実上の内戦の突入していきます。

 一方、パレスチナの治安に責任を負うべきはずの英国は、英軍兵士や警官の死傷があいついだことを理由に、1947年12月、先の国連決議で決められた8月1日という日程を2ヵ月半も繰り上げ、1948年5月15日をもってパレスチナから撤退すると発表。委任統治国としての責任を放棄し、みずからの中東政策の失敗が招いた混乱を放置してパレスチナから逃げ出すのです。

 事実上の内戦に突入したパレスチナでは、1948年3月、国連のパレスチナ分割決議を受けて、シオニストたちがテルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立。新国家樹立に向けての具体的なスタートを切り、英国撤退の軍事的空白を利用して、1948年5月のイスラエル建国に向けて、準備を進めていきました。

 こうした中で、4月9日から10日にかけて、シオニストがアラブの村デイル・ヤーシーンを襲撃し、多くの村民を殺害する“デイル・ヤーシーン事件”が発生。事件後、身の危険を感じたアラブ系住民約10万人がパレスチナから脱出し、結果的に、シオニストによる建国準備は大きく前進することになります。

 こうして、騒然とした状況の中、パレスチナにおける英国の委任統治が終了する1948年5月14日午後4時6分(現地時間)、テルアビブの博物館でユダヤ国民評議会が開催され、イスラエル初代首相となったベングリオンが、「ユダヤ民族の天与の歴史的権利に基づき、国際連合の決議による」として、ユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言。ベングリオンの独立宣言を受けて、同日、米国のトルーマン政権は主要国の中で最初にイスラエルを承認。ついで、5月17日にはソ連がイスラエルを承認しました。

 この間の5月16日、イスラエル国家は古代の貨幣を描く建国後最初の切手を発行します。ただし、この切手には「ヘブライ郵便」との表記はあるものの、「イスラエル」との表記はありません。これは、切手の制作時にはまだ新国家の正式な国号が決定されていなかったことによるもので、イスラエルの独立宣言がいかに慌しい状況の下に行われたかということを示しています。

 なお、イスラエル建国にいたる経緯については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 ラウル・カストロ議長退任へ
2018-04-18 Wed 05:15
 キューバで、きょう・あす(18・19日)、人民権力全国会議が開催され、現在のラウル・カストロ国家評議会議長(首相を兼務)が退任し、新議長が選出される見通しです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・議事堂絵葉書(1929)

 これは、キューバの首都、ハバナの旧国会議事堂“カピトリオ”を取り上げた絵葉書です。

 カピトリオは、1929年、米国の連邦議事堂を模して、ハバナ中心部のホセ・マルティ通りに建てられました。幅208m、高さ98mの4階建てで、円形の柱廊の上にドームが乗せられています。

 さて、キューバでは、革命直後の1959年1月17日、政権内の主導権争いから、首相のカルドナが大統領のウルティアに辞表を提出し、後に撤回するという混乱が生じました。

 これに対して、2月7日、混乱収拾のため、革命の指導者、フィデル・カストロの首相就任を求める世論が高まり、大衆デモの圧力に押されたカルドナ政権は国民議会を解散します。以後、キューバでは1976年まで選挙は実施されなかったため、革命キューバは議会制民主主義国家ではなくなり、カピトリオが議事堂として使われることもなくなりました。なお、フィデルは、2月16日、「首相は政府の全般的政策を代表する」との条件つきで首相に就任し、革命政権の実権を掌握します。

 その後、1976年2月、革命後の新憲法がようやく公布されたことに伴い、人民権力全国会議・人民権力州会議・人民権力地区会議で構成される議会制度が復活しました。ただし、1976年のキューバ憲法では、一般国民による直接選挙制度が採用されているのは地区会議の選挙のみで、州会議と全国会議の議員は地区会議が中心になって選出するものとされていました。現在は、1992年の憲法改正を経て、州会議と全国会議の選挙も直接投票となっています。

 ただし、選挙に際しては、地区の候補者委員会が議員定数の4分の1超の“プレ候補者”を選び、州会議と全国会議の候補者委員会が独自の候補者を加味した候補者リストを作成し、地区会議がそれぞれ被選挙権を満たしているかどうか審査したうえで、定数と同数の候補者を決定するという方式がとられているため、誰でも自由に立候補できるわけではわけではありません。したがって、キューバの人民権力全国会議は、たしかに全国レベルの立法機関ではあるものの、多くの日本語メディアで紹介されているように“日本の国会に相当”とは単純に言い切れない面があります。なお、国家元首としての国家評議会議長は、全国会議の議員の中から選出されます。

 さて、ことし(2018年)6月はチェ・ゲヴァラの生誕90年にあたっているため、この機会をとらえ、ゲヴァラとキューバ革命に関する書籍を刊行すべく、現在、鋭意制作中です。また、これに先立ち、21日(土)12:30~、東京・浅草のスタンプショウ会場にて事前プロモーションのトークイベントを行います。入場は無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(詳細は下記のご案内をご覧いただけると幸いです。)


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 ボストン・マラソンで川内が優勝
2018-04-17 Tue 02:43
 16日(現地時間)に行われたボストン・マラソンで、日本の川内優輝(埼玉県庁)が2時間15分54秒(速報値)で初優勝を果たしました。ボストン・マラソンでの日本勢の優勝は、1987年大会での瀬古利彦以来31年ぶりの快挙です。というわ毛で、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・マラソン(1996)

 これは、1996年4月11日に米国で発行された“マラソン”の切手です。切手上には表示はありませんが、1996年4月は、15日にボストン・マラソンの第100回大会が行われており、今回ご紹介の切手も、その記念の意味を込めて発行されたものとみてよいでしょう。

 米国のマサチューセッツ州、メイン州、ウィスコンシン州の3州では、独立戦争の緒戦となるレキシントン・コンコードの戦いが1775年4月19日に行われたことを記念し、毎年、4月の第3月曜日が“愛国者の日”に指定されています。

 ボストン・マラソンは、これにあわせて、1897年以来毎年開催されており、マサチューセッツ州の8つの市や町を通り抜けるかたちでスタート地点とゴール地点を結ぶコースが設定されています。距離は、1897-1923年は39.429km、1924-26年は42.034km、1927-50年は42.195km、1951-56年は41.360km、1957年以降は42.195kmとなっていますが、2004年1月、IAAF(国際陸上競技連盟)がマラソン記録の公認のために設定したコース条件とは異なっているため、同年以降は世界記録を超えても“世界記録”としては認められなくなりました。

 日本人の優勝者は、1951年の田中茂樹が最初で、以後、1953年の山田敬蔵、1955年の浜村秀雄、1965年の重松森雄、1966年の君原健二、1969年の采谷義秋、1981年および1987年の瀬古利彦で、今回の川内で8人目(9度目)となります。なお、1966年以降は序詩のレースも行われていますが、こちらは、日本選手が優勝したことはありません。なお、今回の切手が発行された1996年の第100回大会では、男子はケニアのモーゼス・タヌイが、女子はドイツのウタ・ピッピヒが優勝しました。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

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      ゲバラ本・仮書影

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 ガザで最長・最深の地下トンネルを破壊
2018-04-16 Mon 17:57
 イスラエル国防軍(IDF)は、きのう(15日)、パレスチナ自治区ガザを起点にイスラエル領内数十メートルまで延びている地下トンネルを破壊したと発表しました。今回、破壊された地下トンネルは、これまで破壊した中で最も深く、最も長いトンネルだったそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ自治政府・ジャバリヤ→アナブタ

 これは、2000年9月23日、ガザ地区のジャバリヤからイスラエル経由でヨルダン川西岸のアナブタ宛に差し出されたものの、名宛人不在で差出人戻しとなった書留便です。当時の郵便料金では、パレスチナ自治区相互間の基本料金は150フィルス、書留料金は500フィルスですので、このカバーに貼られている計650フィルスは料金としては合っています。なお、英委任統治時代の切手を描く150フィルス切手は、このカバーが差し出された時点では自治区域外の郵便物には無効とされていましたので、本来であれば、イスラエルを経由する時点でその分が料金不足とされる可能性もあったのですが、宛先が自治区の域内ということで大目に見られたようです。

 パレスチナ自治区内で飛び地の関係にあった西岸地区とガザ地区の間の郵便交換は、イスラエルとガザ地区の境界にあるメヴォ・アッザに設けられたイスラエル側の交換局を通じて行われることになっていました。ちなみに、今回のカバーの裏面には、メヴォ・アッザ局を経由したことを示すの楕円形の印が押されています。その画像を下に貼っておきます。

      パレスチナ自治政府・ジャバリヤ→アナブタ裏

 カバーの両面に押された郵便印をたどってみると、このカバーは、2000年9月13日にジャバリヤから差し出された後、翌14日にガザ中央局、18日に交換局のメヴォ・アッザ局を経て、19日、西岸地区のラーマッラーの集中区分局に持ち込まれました。そこから、21日、配達を担当するアナブタ局に運ばれたものの、名宛人不在だったため、24日にラーマッラーの集中区分局を経由して、27日にガザ中央局に戻されました。もちろん、この逓送路は合法的な正規のルートで、地下トンネルで運ばれたわけではありません。

 さて、1967年の第三次中東戦争以降、ガザ地区を支配下に置いたイスラエルは、治安上の理由から、ガザ地区との境界を管理し、出入りを厳重に制限するようになりました。また、1979年にエジプト・イスラエル和平が成立すると、エジプトはガザ地区との国境沿いにフィラデルフィア・ルートと呼ばれる緩衝地帯を設置。国境を封鎖し、わずかな正規の貿易目的以外の通行を禁止しました。

 こうした背景の下、1997年、フィラデルフィア・ルートの地下に、エジプトとガザ南部を結ぶ秘密の地下トンネルが掘られていることが発覚。その後、複数の地下トンネルが、ガザ地区への武器弾薬や麻薬などの非合法の品々の密輸入のみならず、ガザ内外の人の往来にも使われるようになります。

 さらに、2007年にイスラム原理主義組織のハマスがガザ地区を掌握すると、イスラエルによるガザ地区の封鎖はさらに厳しくなりましたが、これに対応して、地下トンネルは、食料、衣類、タバコ、酒、建築資材、必須医薬品、さらに車までも輸送する物流ルートとして機能するようになります。なお、車に関しては、当初は、トンネル経由で部品を密輸し、運び込んだ先で組み立てられていましたが、最近では、車がそのまま走行できる広さのトンネルもあると言われています。なお、地下トンネルは、あくまでも非合法の存在であるため、その実数を把握することは困難ですが、標準的なトンネルの建設費はおよそ10万ドルで、数百本が運営されていると言われています。

 ちなみに、パレスチナ自治区の切手と郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

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 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 世界の切手:東ドイツ
2018-04-15 Sun 15:06
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』4月4日号が発行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回は東ドイツを取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      ドイツ・ソ連占領地区3ペニヒ加刷

 これは、1948年、ベルリンのソ連占領地区で、米英ソ占領地区共通に3ペニヒの額面を加刷した切手です。

 第二次大戦に敗れたドイツは、オーデル川とその支流のナイセ川を結ぶオーデル=ナイセ線以東の領土を失い、米英仏ソが分割占領します。占領区域は、オーデル=ナイセ線以西を東西に2分したうえで、東半部をソ連が、西半部の北部をフランスが、中部をイギリスが、南部を米国が担当。首都ベルリンに関しては、東ベルリンはソ連、西ベルリンは米英仏の3国の統治下におかれ、西ベルリンはソ連占領地に囲まれた飛び地となります。

 ただし、占領初期の段階では、一般市民による東西ベルリンの往来は自由で、西ベルリンにはソ連占領地区から電気・ガス・水道が供給されていました。

 第二次大戦後、ソ連占領下の中東欧で共産政権が次々と成立すると、米国は対ソ封じ込めに乗り出し、その具体策として1947年6月、全ヨーロッパ諸国への経済援助計画(マーシャル・プラン)を発表します。

 この時点では、占領下のドイツでは、戦前からのライヒスマルクが共通通貨としてそのまま使われていましたが、昂進するインフレ対策として、1948年5月、米英仏の3国占領地区では通貨の切り下げを計画。6月18日、ベルリンを除く西側占領地区で、同20日以降、戦前から使用されていたライヒスマルクとさらにそれ以前のレンテンマルクを新規のドイツマルクへと強制的に切り替えることが発表されると、ソ連占領地区へは使用禁止となった旧マルクが大量に流入。インフレのさらなる悪化は避けられなくなりました。

 そこで、ソ連は東西ベルリンの往来を禁止し、橋の破壊や国境の封鎖などにより、西ベルリンと外部の交通も遮断。今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、西側地区で使用停止となったライヒスマルク額面の切手が流入することを防ぐため、従前からの郵便局の在庫に、局名と額面を加刷して発売されたものです。

 さらに、新マルクが実際に発行されると、23日、ソ連は、対抗措置として、自らの占領地区と全ベルリン地区の通貨改革を発表します。そして、26日以降、ソ連占領地区と全ベルリンで旧マルクと西側の発行したドイツマルクを無効にし、ソ連側が用意した証紙付き紙幣を流通させようとしました。

 これに対して、米英仏は、ソ連の措置はベルリンの共同管理に違反すると抗議しましたが、ソ連はこれを無視し、西ベルリンへの送電を停止し、物資の流通も禁止。西ベルリンの住民数十万を人質として、米英仏に譲歩を迫りました。

 これが、いわゆる(第1次)ベルリン危機です。

 ベルリン危機が発生すると、米英仏は、それまで西ベルリンには適用しないとしていた通貨改革を西ベルリンでも実施。ソ連に対して徹底的に抵抗する姿勢を示すとともに、米国を中心とする西側占領軍当局は、西ベルリン地区住民を救済するため、ただちに食糧・物資の空輸を開始しました。

 こうした西側の強硬姿勢の前に、最終的にソ連も妥協を余儀なくされ、1949年5月、西ベルリンの封鎖は解除されましたが、ソ連と西側諸国との対立は決定的なものとなります。

 その結果、1949年5月8日、西側占領地区の憲法制定会議が「ドイツ連邦共和国基本法」を可決し、同月23日、米英仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府が成立。9月7日の連邦議会開会、9月13日のテオドール・ホイス大統領就任、9月15日のコンラート・アデナウアー首相就任を経て、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が正式に発足します。

 これに対抗して、ソ連占領地域では、同年10月7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立が宣言され、1990年のドイツ統一にいたるまで、ドイツには東西の2政府が併存する状況が続くことになりました。

 さて、『世界の切手コレクション』4月4日号の「世界の国々」では、東西ドイツ成立の経緯をまとめた長文コラムのほか、アイスレーベンのレーニン像、ライプツィヒ・メッセ、ライプツィヒ旧市庁舎、カール・マルクス、レープクーヘン、ベルリン・ベアの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回の東ドイツの次は、4月11日発売の4月18日号でのエチオピア(と一部ザイール)の特集になります。こちらについては、発行日の18日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 米英仏、シリアに軍事攻撃
2018-04-14 Sat 16:41
 トランプ米大統領は、日本時間14日午前10時ごろ、シリアのアサド政権が化学兵器を使用したとして、“精密攻撃”を命令。英仏両軍もこれに参加し、ダマスカスや中部ホムス県の化学兵器関連施設計3ヵ所を攻撃しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      シリア・航空(ホムス・無目打)

 これは、1931年にフランス委任統治領時代のシリアで発行された航空切手(無目打)で、ホムス上空を飛ぶ飛行機が描かれています。

 ホムスはシリア第3の都市で、ダマスカスからは北へ160km、アレッポからは南に190kmの地点に位置しており、地中海沿岸都市とダマスカスやアレッポなど内陸の都市を結ぶ結節点になっています。

 2011年以降のシリア内戦では、政府軍と反体制派による激しい市街戦の舞台となり、2012年6月以降、約3000人の一般市民が取り残されていましたが、2014年2月、3日間の人道的停戦が実現。1年6ヶ月ぶりに旧市街地の住民に対する援助物資の供与と避難が開始され、最終的に高齢者や婦女子を中心に約1400人が旧市街地から脱出しました。その後、政府軍と反政府軍との間で和平交渉が断続的に行われ、同年5月9日までに反政府軍側が旧市街地からの撤退を完了。この間、市街戦で約2200人が亡くなり、町並みも破壊されています。

 今回の攻撃では、ホムスがアサド政権による化学兵器の原料物質の集積場所となっているとの認識の下、ホムス西部の化学兵器保管施設とホムス近くの化学兵器材料保管・主要司令拠点(ホムス市街地から西へ約24km離れた旧ミサイル基地に設置)に巡航ミサイルが撃ち込まれました。その後、マティス米国防長官は攻撃の第一波は終了したと述べ、「今のところ、これは一度限りの攻撃で、非常に強力なメッセージを相手に伝えたと思っている」と述べています。

 これに対して、シリア側は「米英仏の侵略は国際法違反であり、必ず失敗する。対テロと同じ決意で侵攻に立ち向かう」と強調。化学兵器使用が疑われる首都近郊の東グータ地区で、現地時間14日から化学兵器禁止機関(OPCW)の現地調査が始まる前に空爆が行われたため、「うそを隠すことが狙いだ」と批判。アサド政権の後ろ盾となっているロシアも米英仏を非難しており、今回の空爆がアサド政権に対する抑止効果を上げられるか否かは、現時点では不透明です。
 

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 アウシュヴィッツ跡地で“生者の行進”
2018-04-13 Fri 13:42
 ポーランド南部オシフィエンチムにあるナチス・ドイツのアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所跡地で、きのう(12日)、ホロコーストの犠牲者を悼み、毎年恒例の“生者の行進”が行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ葉・タイプ2(地名印)

 これは、1943年2月9日、アウシュヴィッツ収容所の収容者がチェンストホヴァ宛に差し出した葉書で、タイプ2と呼ばれるフォーマットの葉書が使用されています。

 1939年9月、ポーランドに侵攻したナチス・ドイツは、1940年5月、ポーランド南部のオシフイエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)郊外の旧ポーランド軍兵営をアウシュヴィッツ第1強制収容所として、犯罪常習者とポーランド人政治犯の収容を始めました。その後、ブジェジンカ(ドイツ語名ビルケナウ)に第2、モノヴィツェ(ドイツ語名モノヴィッツ)に第3収容所が設置され、1945年1月にソ連軍が解放するまでの間に、100万人のユダヤ人と、25万人以上の非ユダヤ人が計3ヶ所の“アウシュヴィッツ強制収容所”で犠牲になりました。

 収容者には、当初、専用の封筒と便箋が支給され、外部への通信用に用いられていました。しかし、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、アウシュヴィッツに移送されてくる収容者の数は激増。これに伴い、おそらく収容者に対して封筒と便箋を別々に支給する製造および管理コストを効率化するため、1942年に入ると、収容者には封筒と便箋に代えて、厚手の用紙を使った専用葉書が支給され、使用されるようになりました。

 収容者用の葉書には、当初、封筒のフォーマットをそのまま転用した文面を踏襲した“タイプ1”と呼ばれるものが使われていましたが、1943年になると、今回ご紹介のタイプ2の葉書が使用されるようになります。

 タイプ2の葉書は、収容所の銘が“Konz.-Lager Auschwitz”と省略形になっており、文字のフォントも変更されています。また、表面左側に印刷されている注意事項の文面では、封筒とタイプ1の葉書では収容者(複数形)を示す語として“Gefangenen”が用いられていたのに対して、タイプ2の葉書では“Häftlingen”の語が用いられています。ただし、これは文意を大きく変えるものではありません。

 内容的な変更としては、第1項のうち、封筒とタイプ1の葉書では、収容者宛の郵便物に同封できる切手が“12ペニヒのみ”とされているのに対して、タイプ2の葉書では“12ペニヒまたは6ペニヒ”に変更されており、収容者が葉書を差し出すことを想定した改定になっており、実際、この葉書にも6ペニヒ切手が発行されています。

 さて、“生者の行進”は、毎年、イスラエルのホロコース記念日(ヨム・ハショア。ユダヤ暦第1月27日)に、虐殺された人々を追悼するのみならず、“ユダヤの民の不死の魂について証言するため”に行われています。いまから30年前の1988年、ナチスによるユダヤ人虐殺はなかったと主張する人々に反論するために開始されたもので、当初は隔年開催で参加者もユダヤ人に限られていましたが、1995年から毎年開催となり、現在は、非ユダヤ人も参加しています。ちなみに、今年の行進には、ポーランドとイスラエルの派遣団を含む数千人が参加しました。

 なお、アウシュヴィッツ収容所とその郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 英領カメルーン
2018-04-12 Thu 16:48
 オーストラリア東海岸のゴールドコーストで開催中の英連邦競技大会(コモンウェルスゲーム)で、きのう(11日)までに、カメルーン選手団24人のうち、8人(ボクシング選手5、重量挙げ選手3)が行方不明になっていることが明らかになりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      カメルーン・UKTT加刷

 これは、1961年にカメルーンの旧英領地域で発行されたUKTT加刷切手です。

 カメルーンは中部アフリカのギニア湾に面した国で、その名は、1470年にこの地を訪れたポルトガル人がエビの多いことから“カマラウン”と名付けたことに由来しています。

 列強諸国によるアフリカ分割が進められていく過程で、1868年、ハンブルクのカール・ヴェールマン商会がカメルーンに拠点を構えます。その後、ドイツは、カメルーン南西部を拠点とするドゥアラ人と保護条約を結び、ギニア湾東部を勢力圏内に置くことに成功。さらに、1884年7月、カメルーン全土を支配下に置きました。

 これを受けて、1887年2月1日、ドゥアラに最初のドイツ局(当時の局名は“カメルーン”でした)が設けられます。当初、カメルーンのドイツ局では、本国の切手が無加刷のまま使われていましたが、1897年以降、“Kamerun”表示の加刷切手が使用されるようになり、1900年からは皇帝の御用戦艦を描く、植民地共通図案の“カイザーヨット”切手が使用されました。

 第一次大戦で、カメルーンは英仏軍によって占領され、戦後、領域の約8割が仏領に、ナイジェリアとの国境沿いの残り2割が英領に分割されます。

 このうち、仏領地域では独自の切手が発行されましたが、英領地域では、大戦中の1915年、独領時代の切手に“カメルーン派遣軍”を意味する“C.E.F. (=Cameroons Expeditionary Force)” と加刷した切手が発行されたものの、大戦終結後の1920年以降はナイジェリア切手が無加刷で使用されていました。

 第二次大戦後の1960年1月1日、仏領カメルーンは独立を達成しますが、英領地域では旧仏領地域との統合を巡って対立がおこり、最終的に、1961年10月1日、英領カメルーンの南部が旧仏領カメルーンとともにカメルーン連邦共和国を結成。旧英領カメルーンの北部はナイジェリアへ統合されることで決着しました。これが、現在のカメルーン国家の直接のルーツとなります。

 今回ご紹介の切手は、1960年の旧仏領カメルーンの独立以降、英領カメルーンの帰属が決定するまでの間の暫定措置として発行されたもので、ナイジェリア切手に“英委任統治領カメルーン”を意味する“CAMEROONS U.K.T.T.(= United Kingdom Trust Territory)”と加刷されています。この加刷切手は、英領地域全域で使用されましたが、英領地域の南北分割にともない使用停止となりました。

 一般に旧仏領とされるカメルーンですが、このように、一部に旧英領地域を抱えていることから、1995年、英連邦に加盟。それゆえ、今回もコモンウェルスゲームに選手団を派遣していたという事情があります。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 


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 切手歳時記:筍
2018-04-11 Wed 02:35
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年4月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      近代美術・筍

 これは、1981年6月18日に発行された近代美術シリーズ第10集のうち、福田平八郎の「筍」を取り上げた1枚です。

 筍と日本人のかかわりは古く、『古事記』には、イザナギノミコトが亡き妻のイザナミノミコトを追って黄泉の国を訪ねたものの、彼女の腐乱した体を見て現世へと逃げ帰ろうとする場面があります。その際、イザナギが追手の黄泉醜女をかわすため、髪に刺していた櫛を投げつけたところ、櫛は筍に変わり、醜女が筍を食べている間に現世へと逃げおおせたという物語が伝えられています。

 『古事記』が編まれた奈良時代には、まだ孟宗竹は日本に伝えられていないので、おそらく、醜女が生のまま丸かじりにしていたのは、孟宗竹よりも旬の遅い破竹もしくは真竹の筍だったと思われます。

 現在、筍として好まれている孟宗竹は、中国・三国時代の呉の国で孫権に仕えた孟宗(271年没)が、病床にあった母親に好物の筍を食べさせようと、真冬の竹林で雪中の筍を掘り出してきたという故事にちなんで命名されたものです。

 わが国に伝来してきた由来については、①平安時代の819(弘仁10)年、唐への留学から帰朝した道雄僧都が現在の京都府長岡京市に海印寺寂照院を創建した際、大陸から持ち帰った孟宗竹を伝えたことを起源とする説(寂照院の境内には「日本孟宗竹発祥の地」の石碑があります)、②江戸時代の初期、明から渡ってきた隠元禅師が、1661(寛文元)年、宇治山田に黄檗山萬福寺を開いた際、孟宗竹を持込み、やがて西山地域で定着したという説、などが広く知られています。

 いずれにせよ、孟宗竹は江戸時代には日本の春の味覚として定着しましたが、なかでも、京都南部、乙訓の孟宗竹の筍は最高級の白子筍に代表される“京たけのこ”として有名です。

 乙訓では、前年の晩秋から初冬にかけて、老いた竹を間引いたうえで、藁を竹藪一面に敷き詰める“敷わら”を行い、その上から良質の粘土を敷く“置土”をしたうえで、3月中旬から4月下旬にかけて、“ほり”と呼ばれる独特の器具を使って、軟らかい筍を明け方近くに掘ります。明け方に収穫を行うのは、空気に触れ、光にあたると、筍が硬くなるためです。

 見慣れた人だと、朝掘りの筍とそうでないものは見た目でも区別がつくのだとか。すなわち、朝掘りの筍の皮は毛で覆われていて、数時間前まで地面の土の中に埋もれていたのがよく分かるぐらい、土を含んでしっとりと黒く濡れているのだそうです。

 今回ご紹介の「筍」の切手を最初に見たとき、僕は、この絵の筍は皮が茶色ではなく、黒々としていることを不思議に思ったのですが、どうやら早朝、地面から頭を出したばかりの様子を描いたということなのでしょう。

 ちなみに、この絵の作者で日本画家の福田平八郎は、1892年、大分県大分市生まれ。画家を志して京都に出て、1918年、京都市立絵画専門学校を卒業しました。以後、1974年3月22日(ちょうど筍の初物の季節ですね!)に亡くなるまで、京都を拠点に活動していました。だから、この切手の筍も、京たけのこをモデルにしていたと見るのが自然なように思われます。

 なお、この作品は、終戦後まもない1947年の第3回日展に出品されましたが、福田は〆切りの数日前に訪ねてきた友人に完成間近の「筍」を見せながら、「もっと黒く、もっと黒く塗らねば」と語っていたそうです。福田としては、朝掘りの筍の質感を再現したかったということなのかもしれませんね。


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 シベリア抑留、銃殺刑判決を確認
2018-04-10 Tue 11:06
 第二次世界大戦後のシベリア抑留で、旧日本軍将兵ら114人がスパイ罪などで銃殺刑の判決を受けていたことが、富田武・成蹊大名誉教授の調査により、ロシアの公文書で確認されました。日本人抑留者の銃殺刑については、これまで、帰還者らの証言はありましたが、公文書で明らかになったのは初めてだそうです。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留葉書1A3

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者が差し出した葉書で、裏面の書き込みによると、1946年10月26日に差し出され、同年11月10日にウラジオストクを経由し、日本到着後、12月4日にGHQの検閲を受け、埼玉県の宛先まで届けられています。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目冒頭の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介の葉書は“Й”が1行目の“О”の右下にあるタイプⅠA3と呼ばれるものです。

 さて、1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 ソ連当局が“捕虜”に対して各自の家族に通信することを許可すると発表したのは、終戦後1年以上が経過した1946年9月のことで、同年10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。
 
 また、ソ連側の検閲基準では、反ソヴィエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されており、必要に応じて“問題個所”を検閲担当者が抹消した後、日本宛に送られました。今回ご紹介の葉書も、下に示すように、文面の一部が検閲によって塗りつぶされています。

      シベリア抑留葉書1A3裏

 抑留者たちが書いた葉書は、内務省沿海地方本部検閲課を経由してウラジオストクから日本宛に発送されましたが、収容所の所在地などを葉書に記載することは禁じられていたため、1949年まではウラジオストク郵便局の、1950年代以降はバロフスク郵便局の私書箱が、差出人の住所として記載されています。

 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
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 ハンガリー総選挙、与党が圧勝
2018-04-09 Mon 12:21
 ハンガリーで、昨日(8日)、総選挙が行われ、オルバーン・ヴィクトル首相率いる保守系与党“フィデス・ハンガリー市民連盟(以下、フィデス)”が、前回に続いて圧勝しました。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ハンガリー・ナジ・イムレ(1996)

 これは、1996年にハンガリーで発行された“1956年革命(ハンガリー動乱)40周年”の記念切手のうち、ナジ・イムレを取り上げた1枚です。
 
 第一次大戦の敗戦により広大な国土を失ったハンガリーは、第二次大戦では、旧領土の回復を目指して枢軸陣営に加わり、ソ連と戦いました。

 しかし、結局、第二次大戦も敗戦に終わり、ハンガリーはソ連の占領下に置かれて王制が廃止。1949年にはソ連の衛星国として共産化され、スターリンの意向に忠実なラーコシ・マーチャーシュが首相兼ハンガリー勤労者党(共産党)書記長として、スターリン路線を推進することになりました。

 1953年にスターリンが亡くなると、後継のフルシチョフはスターリン批判を行い、スターリン時代の政策を修正し始めます。衛星国のハンガリーでは、ソ連の意向を受けてスターリン路線に批判的な改革派のナジ・イムレが首相となり、経済改革を進めようとしましたが、書記長の座に留まったラーコシは1955年にナジを追放。そのラーコシも1956年7月にソ連の圧力で権力の座を追われてしまいました。そして、後継書記長となったのが、ラーコシ以上に強硬なスターリン主義者のゲレー・エルネーでした。

 敗戦により心ならずもソ連の衛星国にさせられたハンガリーの人々はナジの失脚とスターリン主義者の復活に反発。首都ブダペストでは、1956年10月23日、市民の大規模デモが発生し、反ソ感情が高まるなか、ゲレー退陣を求めるデモ隊と警官隊との衝突を機に、大規模な暴動が発生し、ハンガリー全土に波及します。

 いわゆるハンガリー動乱(ハンガリーでは“1956年革命”と呼ばれています)です。

 動乱当初、ソ連は懐柔策としてナジの復権とゲレーの辞任を決め、ナジによる平和的な事態の収拾を期待していました。しかし、脱ソ連化を求める市民の声に押されたナジは複数政党制の導入と(=共産党一党独裁の否定)ハンガリーの中立国化(=ワルシャワ条約機構からの脱退)を打ち出す。このため、ソ連が軍事介入してハンガリーの“革命”を武力で鎮圧。ナジも逮捕されます。

 その後、ソ連の支援を受けたカーダール・ヤーノシュが実権を掌握しましたが、1957年半ばまでは共産党政権に対する散発的な武力抵抗やストライキが続きました。結局、一連の動乱は、1958年6月、事態の鎮静化を待って、ナジが処刑されたことでようやく終結。以後、1989年の民主化まで、ハンガリー社会主義労働者党(勤労者党から改称)による一党独裁体制が続きました。

 今回、総選挙で勝利を収めたフィデスは、共産政権末期の1988年3月、大学の寄宿自主研究施設であるビボー・イシュトヴァーン・コレギウムで“青年民主同盟”として結成されたのがルーツで、結成直後、官憲により解散を迫られています。強力な反共主義を掲げ、6月16日のナジ・イムレ首相処刑記念日、10月23日のハンガリー動乱記念日での非合法集会、ルーマニアのチャウシェスク政権によるハンガリー少数民族村の破壊抗議デモ、共産党政権によって進められたドナウ川景観地のダム建設反対運動、プラハの春へのソ連軍介入抗議デモなどに参加。1989年6月、名誉回復されたナジ元首相の葬儀が行われた際には、オルバーン(現首相)が、ソ連軍の駐留とハンガリー社会主義労働者党(共産党)による一党独裁を批判する演説を行い、一躍名を挙げました。

 民主化後、フィデスは雌伏10年を経て、1998年の総選挙では社会党有利とする事前予想を覆して勝利を収め、独立小農業者党やハンガリー民主フォーラムとの連立により、第一次オルバーン政権が誕生。2002年の総選挙でフィデスは敗北したため、いったん下野しますが、2010年4月の総選挙でフィデスが3分の2の議席数を確保する地すべり的勝利を収めると、オルバーンも8年ぶりに政権に復帰。現在まで、オルバーン政権が続いています。

 なお、フィデスに関しては、欧米の左派系のメディアで、“極右”、“反EU”などと報じられることも多いのですが、実際のフィデスの政策は、キリスト教民主主義・保守主義の中道保守というべきものがほとんどで、EU脱退を主張したことも一度もありません。

 * 昨日(8日)の拉致被害者全員奪還ツイキャスの内藤の出演回は、無事、終了いたしました。お聴きいただいた皆様ならびにスタッフの皆様、ありがとうございました。

 
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 花まつり
2018-04-08 Sun 15:37
 きょう(8日)は、お釈迦様の誕生を祝う“花まつり”の日です。というわけで、毎年恒例、お釈迦様ネタの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・梁泉寺

 これは、2003年に北朝鮮が発行した梁泉寺の切手で、同寺大雄殿(中国および朝鮮の禅宗系寺院での本堂の呼称)の本尊・釈迦三尊像と釈迦如来の後仏幀画が取り上げられています。

 朝鮮の伝統的な仏教寺院では、日本や中国とは異なり、仏壇荘厳(仏壇の飾り方)として、仏壇の背後に仏画を架けるのが一般的で、本尊仏が二重になるのが特徴です。今回ご紹介の切手では、手前の三尊像の主仏の印相はよくわかりませんが、背後の後仏幀画では、降魔印がしっかり見えますので、本尊が釈迦如来であることがわかります。

 切手に取り上げられた梁泉寺は、北朝鮮北部、咸鏡南道高原郡楽泉里に位置しており、統一新羅時代の753年に建立されました。その後、朝鮮王朝(李氏朝鮮)時代の1636年に大雄殿が改築され、萬歳楼は1729年に補修されました。

 金正日は、「歴史文化遺跡を原状どおり保存、管理し、それを通じての教育を正しくおこなうようにするため」として、2002年6月1日、今回ご紹介の切手の梁泉寺を訪問して大雄殿と萬歳楼を視察し、大雄殿の天井壁画などを絶賛し、朝鮮の重要な伝統文化としてこれを維持・保存し、広く公開すべきであると語りました。これを皮切りに、金正日は、2003年2月と4月には博川郡の深源寺、金野郡の安佛寺を訪ねたのをはじめ、数多くの歴史文化遺跡を訪ねて“現地指導”を行っています。また、これと並行して、2002年9月8日、2003年1月2日、党中央委員会の責任幹部への談話として「朝鮮人民の優れた民族的伝統を大いに生かすために」が発表されるなど、この時期は、朝鮮の伝統文化を強調する政策が取られていました。

 今回ご紹介の切手は、こうしたことを踏まえて、金正日の梁泉寺訪問から1周年にあたる2003年5月30日に。単片4種+小型シートのセットで発行されたものです。

 なお、この時発行された切手の中には、三蔵幀画(三尊仏画とも)を取り上げた1枚も含まれています。

      北朝鮮・梁泉寺(三尊)

 三蔵幀画は朝鮮王朝独特の仏画のスタイルで、中央に天蔵菩薩、向かって右に地持菩薩、左に地蔵菩薩を配したもので、高麗時代以降、中国の地蔵十王信仰が朝鮮にも広まる中で、それと釈尊の三身信仰が結びついて創案されたとされています。天蔵菩薩は地蔵菩薩と対になる存在で、朝鮮以外の地域で信仰される虚空蔵菩薩の原型に近いと思われます。虚空蔵菩薩は知恵の菩薩ともされ、人々に知恵を授ける存在とされていますが、同時に、“明けの明星”は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされています。明けの明星といえば、北朝鮮の政治的な文脈では、金正日を象徴する言葉の“光明星”をイメージさせるものですから、三蔵幀画の切手も、伝統文化に仮託して、金正日を讃える意図が込められていたとみることも可能かもしれません。

 さて、今晩22時から生放送の拉致被害者全員奪還ツイキャスでは、内藤がゲスト出演し、“朝鮮の民族的伝統”をも踏まえたうえで、昨今の朝鮮半島情勢について考えたことをお話しいたします。よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。

 *昨日、東京・駒込の(公財) 愛恵福祉支援財団で開催のヒロシマ トークセッション連続講座第45回「アウシュヴィッツの手紙・戦争と切手」は、無事、盛況のうちに終了しました。お集まりいただいた皆様、スタッフの方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。


 ★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★

 4月8日(日)22:00~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。

 
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 本日、トークやります。
2018-04-07 Sat 02:48
 かねてご案内のとおり、本日(7日)13:00より、東京・駒込の(公財) 愛恵福祉支援財団で、ヒロシマ トークセッション連続講座の第45回として、「アウシュヴィッツの手紙・戦争と切手」と題してトークイベントを行います。というわけで、その予告編として、こんなモノをを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・暫定1行印カバー(1940)

 これは、第二次大戦初期の1940年3月、ドイツ占領下のアウシュヴィッツからクラクフ宛の書留便で、“Auschwitz (Oberschlies)1”の地名のみが入った抹消印が押されています。

 アウシュヴィッツのドイツ語名(ポーランド語名はオシフィエンチム)で知られる小都市は、14-15世紀にはポーランド系君主によるオシフィエンチム公国の拠点でしたが、1772年のポーランド分割によりハプスブルク帝国の支配下に入り、プロイセンとの国境の町になりました。その後、1918年にポーランドが独立を回復すると、第二次大戦の勃発まで、オシフィエンチムはポーランド領になります。

 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、オシフィエンチムは開戦翌々日の9月3日にはドイツ軍の空爆を受けて占領され、ドイツ直轄領のカトヴィッツ県に編入されます。

 占領後のオシフィエンチムでは、ドイツの占領当局はポーランド時代の郵政組織を接収し、ポーランド切手・消印の使用を禁止するとともに、ドイツ本国の切手をそのまま持ち込んで郵便を再開しましたが、消印に関しては、当初、ポーランド語名の“OSWIECIM”の表示の印が使用されていました。

 1940年2月以降、ドイツ占領当局は、ポーランド語の地名“オシフィエンチム”を、ドイツ語の“アウシュヴィッツ”に変更しますが、すぐにはドイツ語地名の正規の消印の配給が間に合わなかったため、当初はアウシュヴィッツ1局として、今回ご紹介のカバーに示すように、“Auschwitz (Oberschlies)1”の地名のみが入った抹消印が暫定的に使用されました。

 ところで、第二次大戦が勃発した時点で、ナチス・ドイツの支配地域には、建設順にダッハウ(1933年)、ザクセンハウゼン(1936年。オラニエンブルクの収容所がいったん閉鎖された後、その跡地に隣接する場所に建設)、ブーヘンヴァルト(1937年)、フロッセンビュルク(1938年)、マウトハウゼン(1938年。旧オーストリア地域)、ラーフェンスブリュック(1939年。女性・子供専用)の6つの“模範収容所”があり、2万1000名の収容者が拘留されていました。

 これに加えて、ポーランドを占領したドイツにとっては、占領地域の捕虜や政治犯の収容施設を確保することが必要となり、緊急に強制収容所を増設することになりました。そこで、アウシュヴィッツの旧ポーランド軍兵営をベースに、防疫通過収容所を建設する計画が立てられます。

 防疫通過収容所というのは、収容者をいったんここに集めたうえで病気などの有無を検査し、そこから各地の収容所に送り出すための施設です。アウシュヴィッツは歴史的にはハプスブルク帝国とプロイセンの事実上の国境の町として、古くから鉄道の駅が置かれるなど、域内における物流の拠点として機能していたため、防疫通貨収容所のロケーションとして適切と判断されました。また、収容所に転用された兵営は、市街地の中心部からは2キロほどの距離があり、必要に応じて周囲に拡張することが容易だったという事情もありました。

 かくして、1940年4月27日、アウシュヴィッツでの収容所建設命令が発せられ、6月14日、最初の収容者として、タルヌフ(クラクフの東75キロの地点にあるビャワ川沿いの都市)の刑務所から728人のポーランド人捕虜・政治犯がアウシュヴィッツに移送されてきます。こうして、1945年1月27日の解放にいたるまでの、アウシュヴィッツ収容所の歴史が幕を開けることになります。

 今回のトークでは、拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を補足しながら、アウシュヴィッツとその歴史を、切手や郵便物、絵葉書などを使って、さまざまな角度からお話しする予定です。ぜひ、1人でも多くの方にご参加いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

<ヒロシマ トークセッション連続講座 アウシュヴィッツの手紙・戦争と切手>

      アウシュヴィッツの手紙・表紙

 4月7日(土)13:00-16:00  
 於・ (公財) 愛恵福祉支援財団(東京都北区中里 2-6-1愛恵ビル3F)
 資料代 1,000 円 (当日会場で集めます)
 会場と資料準備の関係で必ず、下記宛に事前の申し込みをお願いします。
 申込先 竹内 良男(qq2g2vdd★vanilla.ocn.ne.jp スパム防止のため、送信の際は★を@にしてください)


 ★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★

 4月8日(日)22:00~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。

 
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 映画スター、密猟で禁錮5年
2018-04-06 Fri 02:34
 インド・ラジャスタン州の裁判所は、きのう(5日)、絶滅が危惧されている希少動物のブラックバック(インドレイヨウ)を1998年に密猟したとして、インド映画界を代表する俳優のサルマン・カーン被告に対し、禁錮5年および罰金1万ルピーの有罪判決を言い渡しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      バハーワルプル・ブラックバック

 これは、1945年にインド藩王国のバハーワルプルで発行された公用切手で、今回、カーン被告が密猟したとされるブラックバックが描かれています。

 ブラックバックは、インド、ネパール、パキスタンの半砂漠、開けた森林、乾燥した落葉樹林などに自然分布する偶蹄類で、体長100-150センチ、肩高60-85センチ、体重25-50キロ。オスの成獣は、体色が背側の黒褐色と腹側の白色にハッキリと分かれており、螺旋状や栓抜き状に捻れた長い角があります。一方、幼獣やメスの成獣は背面の毛衣が淡褐色や黄褐色で、角はありません。

 かつてはインド亜大陸に広く分布していましたが、開発による生息地の破壊や乱獲により、19世紀には400万頭だった生息数は、1947年には約8万頭、1964年には約8000頭にまで激減。バングラデシュではすでに絶滅しました。このため、国際自然保護連合(IUCN)は、ブラックバックを準絶滅危惧種(NT)としてレッドリストに指定しています。

 切手を発行したバハーワルプルの地は、18世紀後半にはアフガニスタンのドゥッラーニー朝の支配下にありましたが、1802年にバハーワル・ハーン2世が自立し、独自の地方政権を樹立しました。1833年2月22日、バハーワル・ハーン3世は英国東インド会社と軍事保護条約を結び、英配下の藩王国となります。この結果、1845-46年および1848-49年の英国とシク王国(ラホールを拠点にインド北西部を支配していた王朝)のシク戦争でも英国を支持し、シク王国の滅亡後も存続することになります。

 1854年、東インド会社により全インドを対象とした近代郵便制度がスタートすると、バハーワルプルにも東インド会社、後に英領インドの郵便サービスが導入され、英領インド切手が使用されました。

 これに対して、1924年に親政を開始した藩王、サーディク・ムハンマド・ハーン5世は、他の藩王国の中には独自の切手を発行している国もあったことから、バハーワルプルでも独自の切手発行を計画。1933年、英国との軍事保護条約締結100周年の記念切手とあわせて、バハールワルプルの風景・動物などを描く普通切手6種を準備しました。

 しかし、これらの“切手”は事前に英領インド当局の許可を得ていなかったため、1933年の時点では発行が認められませんでした。これに対して、何としても独自の切手を発行したかったバハールワルプル側は英領インド当局と交渉を重ね、すでに準備された6種の普通切手に関しては、ウルドゥー語で“公用”を意味する加刷を施したうえで、公用切手として、藩王国政府の発信にのみ認めるということで妥協が成立。今回ご紹介の切手を含む加刷切手6種が1945年1月1日に発行されました。

 1947年、インドパキスタンが分離独立すると、バハールワルプル藩王国はパキスタンに帰属します。その際、バハールワルプル側は、旧バハールワルプル藩王国の領域では独自の切手を使用することを認めさせ、1952年まで、バハールワルプル切手が使用されていました。


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 4月7日(土)13:00-16:00  
 於・ (公財) 愛恵福祉支援財団(東京都北区中里 2-6-1愛恵ビル3F)
 資料代 1,000 円 (当日会場で集めます)
 会場と資料準備の関係で必ず、下記宛に事前の申し込みをお願いします。
 申込先 竹内 良男(qq2g2vdd★vanilla.ocn.ne.jp スパム防止のため、送信の際は★を@にしてください)


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 小さな世界のお菓子たち:綿あめ・リンゴあめの切手
2018-04-05 Thu 01:18
 大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第39号(2018年春号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス・移動遊園地切手帳

 これは、2017年にフランスが発行した“移動遊園地”の切手帖です。

 中世のヨーロッパで収穫祭などの祝祭にあわせて市が開かれると、その傍らに移動式の遊具施設などを並べた“キルメス”が設けられることがありました。これが、現在の遊園地のルーツとされています。

 1843年にコペンハーゲンで開園したチボリ公園を皮切りに、ある特定の土地に固定した常設の遊園地が各地に作られますが、その後も、期間限定の移動遊園地はなくなりませんでした。

 フランスでは、現在でも“行商のお祭り”を意味する“La fête foraine”の名で、各地を巡回する移動遊園地が残っています。なかでも、毎年、6月から8月にかけて、ルーヴルシャンゼリゼの間に広がるテュイルリー公園の移動遊園地は有名で、広大な敷地に、観覧車をはじめ、約60ものアトラクションがずらりと並ぶさまは、パリの夏の風物詩にもなっています。

 今回ご紹介の切手帖は、そうした移動遊園地のさまざまな光景を取り上げた12種の切手で構成されていますが、その中には、遊園地には欠かせないお菓子の中から、綿菓子とリンゴ飴が取り上げられています。

      フランス・綿あめ

 砂糖を糸状に溶かして作る綿菓子は、1893年、米国シカゴで開催された万国博覧会で、カナダのトートジー・ロール社が“コットン・キャンディ”として売り出したのが最初とされており、その後、全世界に拡大しました。フランスでは“お父さんのヒゲ”を意味する“Barbe à papa(バルブ・ア・パパ)”と呼ばれています。

 ちなみに、1970年代、パリのリュクサンブール公園を散歩していた米国の絵本作家、タラス・テイラーは、通りすがりの子供が両親に“Barbe à papa”をせがんでいるのを耳にしましたが、その意味が分かりませんでした。このため、一緒にいたフランスの絵本作家アネット・チゾンに言葉の意味を教えてもらったところ、そこからインスピレーションを得て、近くのカフェで綿アメのような姿をしたお化けのイラストを作りました。これが、世界的な人気キャラクターのバーバパパ(Barbapapa)です。

      フランス・リンゴあめ

 一方、リンゴ飴は、シロップや飴などでリンゴの実をコーティングし、手で持つための棒を取り付けたフルーツ菓子で、もともと、欧米の収穫祭のお菓子でした。フランス語では“愛のリンゴ”を意味する“pomme d'amour”と呼ばれており、作り物の小さな若葉が付けられていることが多いのですが、切手のリンゴ飴にはついていません。

 ところで、切手帖の切手には、いずれも額面の数字の代わりに“緑の手紙”を意味する“Lettre Verte”の文字が入っています。これは、“環境に配慮して飛行機を極力使わない代わりに、時間がかかってもかまわない(その代り、通常よりも料金が安い)郵便物”用の切手という意味です。もっとも、通常より料金が安いので、リンゴ飴の切手も“緑”の文字だけで、若葉を描くのを省略したというわけではないのでしょうが…。


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 エジプト大統領、シーシー再選
2018-04-04 Wed 11:00
 エジプトの選管当局は、2日(現地時間)、3月下旬に投票が行われた大統領選で、現職のシーシー大統領が約97%を得票して再選を果たしたと発表しました。まぁ、選挙戦では有力候補と目されていた元首相が出馬を“辞退”したほか、元軍参謀総長は軍の許可を得ずに出馬準備を進めたとして身柄を拘束された中での当選ですが…。というわけで、きょうはエジプト大統領にちなんでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ナセル・クリスマスカード(封筒)

 これは、1967年12月31日、エジプト・カイロの大統領府内局から差し立てられたカバーです。中身は、下に示すように、当時の大統領、ナセル名義でのクリスマスと新年の挨拶状です。

       ナセル・クリスマスカード

 さて、エジプトの大統領府は、カイロの新市街東部のアブディーン宮殿に置かれています。
 
 アブディーン宮殿のあった場所は、もともとは、ムハンマド・アリー朝の高官だったアブディーン・ベイの所有地でした。1863年、エジプトの副王(オスマン帝国宗主権下のエジプトの支配者の称号)、イスマーイール・パシャはこの地に宮殿の建設を開始。10年余の歳月と70万エジプトポンドの総工費をかけて、1874年に完成しました。部屋数は500を超え、贅を尽くした調度品の総額は、建築費を上回る200万ポンドにも上ったそうです。

 その後、アブディーン宮殿はムハンマド・アリー朝の君主の住居として用いられてきましたが、1952年の革命後は共和国政府によって接収され、大統領の官邸および公邸として用いられるようになりました。なお、宮殿の一部は博物館として公開されています。

 ちなみに、ナセルは1967年6月の第三次中東戦争後、惨敗の責任を取って辞意を表明しましたが、国民の支持により辞意を撤回。その結果、同年末には、今回ご紹介のクリスマス・カードを差し出すことになりました。結局、ナセルは、1970年、ヨルダン内戦の調停に奔走して過労で亡くなるまで、大統領職にとどまりました。

 なお、第三次中東戦争とナセルの挫折については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 バハレーンで過去最大の油田発見
2018-04-03 Tue 10:45
 バハレーン政府は、今月1日(現地時間)、同国西部沖のハリージュ・バハレーンで、同国として過去最大、現在の(確認)埋蔵量を大きく上回る石油・天然ガス田を発見したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      バハレーン・精油所

 これは、2000年5月にバハレーンが発行した“バハレーン勧業博覧会”の記念切手で、同国の輸出品としての石油の象徴として、製油所が取り上げられています。

 バハレーンという語は、“海”を意味するバハル(bahr)の双数形で、島国バハレーンを取り巻く海と、豊富に湧き出す地下水の二つの海を持つという意味で、この地域の呼称となりました。

 ペルシャ湾の中央に位置するバハレーンの地は、紀元前2500年ごろのメソポタミアの記録にもディルムンとして登場し、聖書に登場する“エデンの園”のモデルとも言われています。ただし、現在の首都であるマナーマが歴史上にはじめて登場するのは1345年のことです。

 ペルシャ湾における交通の要衝ゆえに、バハレーンはさまざまな勢力が侵入し、16世紀から17世紀にかけて、ポルトガルやペルシャなど、外来勢力による支配を受けました。現在のバハレーン王家(2002年に立憲君主国になり、国家元首の称号がそれまでの首長(シャイフ)から国王(マリク)に変更になりました)のハリーファ家も、もともとはアラビア半島の遊牧民で、1783年、この地を征服。いったんは、オマーンによってバハレーンから追われたものの、1820年にこの地の支配権を回復するという歴史を歩んでいます。

 19世紀に入ると、インドへのルートを確保するため、英国が湾岸地域の首長国を次々に保護国化。バハレーンも例外ではなく、英国がペルシャ(イラン)の軍事的な脅威からバハレーンを防衛する代わりに、バーレーンは外交権を英国にゆだねることになりました。

 石油に関しては、1925年、アラブ世界で初めて小規模な油田が発見されたのを機に、1929年、米国のスタンダード石油カリフォルニア(現シェブロン)がカナダにバハレーン石油会社を設立。同社は、翌1930年、バハレーン首長のハマド・ビン・イーサーと石油利権協定を結び、1931年に掘削を開始し、1932年、バハレーン島中央のジャバル・ドゥハーンで油田を発見しました。これを機に、アラビア半島本土でも石油が出るのではないかとの期待が高まり、欧米メジャーのペルシャ湾岸進出が加速していくことになります。

 1930年代初頭のバハレーンは、世界恐慌の影響に加え、日本の養殖真珠の進出により、伝統的な真珠産業が壊滅的な打撃を受けていましたので、大規模な油田の発見は、まさに経済的苦境から脱却するための起死回生の出来事でした。

 もっとも、バハレーン域内ではジャバル・ドゥハーン以外の油田の開発は進まず、1970年代から石油が枯渇し始めます。このため、バハレーン政府はペルシャ湾の入口にあるという地理的特性を活かし、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指してインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開し、多国籍企業を始めとした外国資本を誘致してきました。

 ちなみに、現在のバハレーンの石油の生産量は原油が日量約5万バレル、天然ガスが同2800万立米余で、このほか、サウジアラビアと共同開発しているアブ・サファ油田からも日量15万バレルを受け取っており、歳入の80%を石油収入で賄っています。ただし、サウジアラビアの日量1234万バレル、イランの460万バレル、イラクの446.5万バレル、UAEの407.3万バレル、クウェートの315.1万バレルなど、近隣諸国と比べると、バハレーンの石油の生産はかなり小規模ですが、今回の新油田の生産が本格的に始まると、勢力図が大きく変わってくるかもしれません。 
 
 * 昨晩、アクセスカウンターが190万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。  


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 世界の切手:韓国
2018-04-02 Mon 11:18
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』3月21日号が発行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回は韓国(と一部ルワンダ)を取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      南朝鮮・瞻星台(1946)

 これは、大韓民国成立以前の1946年10月5日、米軍政下の南朝鮮で発行された瞻星台の50チョン切手です。

 米軍政下の南朝鮮では、当初、無加刷の日本切手がそのまま使われていましたが、1946年2月1日にハングル加刷切手が発行され、同年5月1日、最初の正刷切手として解放切手が発行されました。

 解放切手は、事実上の普通切手として発行されましたが、名目上は記念切手でしたので、1946年9月以降、ソウルの京和印刷所が製造した新普通切手の発行が始まります。今回ご紹介の瞻星台の切手はその1枚です。

 切手に取り上げられた瞻星台は慶州にある東洋最古の天文台とされている遺構で、高さは9.17メートル。円筒形で下から4.16メートルの場所に1メートル四方の出入口があります。新羅最初の女王である善徳女王(在位632-47年)の時代に建立されたと考えられており、1962年に国宝に指定されました。ただし、建物の性格については諸説あり、天文台ではなく、仏教の祭壇ないしは巨大な日時計ではないかとの説もあります。

 なお、数多ある朝鮮の文化財のうち、あえて三国時代の新羅の遺構である瞻星台が切手に取り上げられた背景には、西暦4世紀以降、北緯38度線以南の朝鮮半島南東部を拠点に出発した新羅が、676年、朝鮮半島をほぼ統一することに成功した歴史的経緯に倣って、米軍政下の南朝鮮も将来的に南北統一の独立国家へと発展的に解消されるべきであるとの寓意が込められていたと考えることも可能かもしれません。

 さて、『世界の切手コレクション』3月21日号の「世界の国々」では、竹島問題についての長文コラムのほか、金剛山、韓国の農業日本側で発行された日韓国交正常化50周年記念の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。また、同氏の内容を補足するものとして、あわせて、拙著『朝鮮戦争』もご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回の韓国の次は、3月28日発売の4月4日号での東ドイツの特集になります。こちらについては、発行日の4日以降、このブログでもご紹介する予定です。
  
 * 東京・目白の切手の博物館で開催の第9回テーマティク研究会切手展は、昨日、無事に終了いたしました。ご来場の皆様並びにスタッフ関係者の皆様には、この場をお借りして、お礼申し上げます。


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 北海道帝国大学設置100年
2018-04-01 Sun 02:33
 1918年4月1日に北海道帝国大学(現・国立大学法人北海道大学。以下、北大)が設置されてから、今日でちょうど100周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      羊が丘展望台・クラーク像

 これは、2001年9月3日、ふるさと切手(北海道)として発行された“羊ヶ丘展望台”の切手で、北大の前身、札幌農学校の初代教頭、クラーク博士像と放牧された羊が描かれています。

 クラーク博士として知られるウィリアム・スミス・クラークは、1826年7月31日、米マサチューセッツ州アッシュフィールド生まれ。1848年、アマースト大学を卒業し、ドイツのゲッティンゲン大学への留学・博士号取得を経て、1852年、アマースト大学教授に就任し、化学、動物学、植物学を講義しました。1863年、マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)が創立されると、学長に就任しました。

 1876年、アマースト大学時代の教え子、新島襄の紹介により、日本政府の懇請を受け、マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して来日し、札幌農学校教頭を務めました。翌1877年5月、札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)で発した“Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)”はあまりにも有名です。

 なお、札幌農学校は、1907年、東北帝国大学農科大学となります。ただし、仙台市に東北帝国大学の本部と理科大学が設置されたのは1911年のことで、それまでは、札幌市内の農科大学のみが“東北帝国大学”となっていました。その後、1918年4月1日に北海道帝国大学が設置されると、東北帝国大学農科大学は北海道帝国大学に移管され、第二次大戦後の1947年に北海道大学に、2004年に国立大学法人北海道大学となり、現在に至っています。

 切手に取り上げられた羊ヶ丘のクラーク博士像は、正式名称は「丘の上のクラーク」で、クラーク来道100周年、米国独立200周年に合わせて、1976年に坂坦道が制作しました。右手を挙げるポーズは“遙か彼方にある永遠の真理”を指しており、“(そこに向かい)大志を抱け (Boys, Be Ambitious)”の思いが込められているそうです。
 
  
★★★ 展示イベントのご案内 ★★★

 第9回テーマティク研究会切手展 3月30日(金)~4月1日(日) 10:30~17:00
 於・切手の博物館(東京・目白)

      第9回JTPC展ポスター

 テーマティク研究会(旧テーマティク出品者の会)は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年のメルボルン展に出品した昭和の戦争と日本のコレクションを展示します。

 入場は無料で、会期最終日の1日15:00からは、内藤が展示解説を行いますので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)


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