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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 アルゼンチン、政策金利60%に
2018-08-31 Fri 15:17
 アルゼンチンの中央銀行は、30日(現地時間)、通貨ペソ(以下、単に“ペソ”という場合は、現行のアルゼンチン・ペソ)の急落を食い止めるため、政策金利を45%から世界最高水準の60%に引き上げる緊急利上げを実施しました。しかし、年初に1ドル=約18ペソだった対ドル相場は、今年に入って53%下落しており、30日の終値は前日比135%安の1ドル=39.87ペソにまで大幅に下落しています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      アルゼンチン・造幣局75周年

 これは、1956年にアルゼンチンが発行した“国立造幣局75周年”の記念切手で、コインの打刻場面が描かれています。

 アルゼンチン独自の通貨は、独立戦争中の1813年に発行され“レアル・アルヘンティーノ(R$A)”が最初です。その後、1826年には、金(エスクード金貨)と銀(レアル銀貨・ソル銀貨)に裏打ちされた本位貨幣の“ペソ・フエルテ($F)”、非本位貨幣の“ペソ・モネダ・コリエンテ($m/c)”が併存する体制になり、さらに、外国通貨も自由に流通していました。

 こうした混乱は、1888年11月5日の通貨改革で“ペソ・モネダ・ナショナル(m$n)” が導入されることで、ようやく平定化されます。

 その後、m$n は安定した状態が続いていましたが、1929年の世界恐慌を機にアルゼンチンが金本位制から完全に離脱。さらに、第二次世界大戦中の食糧輸出の激増による特需景気を機に国内のインフレが昂進したことから、1970年、m$n が100分の1のデノミにより“ペソ・レイ($)”へと変更されます。

 さらに、フォークランド紛争後のインフレに対応して、1983年6月1日、1万分の1の デノミとして“ペソ・アルヘンティーノ($a)”が導入されたものの、インフレは終息せず、 1985年6月15日、1000分の1のデノミとしてアウストラル (₳)が導入されました。さらに、1992年1月1日、1万分の1のデノミとして導入されたのが、現行のペソ(アルゼンチン・ペソ)です。なお、1992年1月の導入時、ペソは1米ドル=1ペソのドルペッグ制を採用していましたが、2001年12月の債務不履行に伴う金融バブルの崩壊を機に、ペッグ制は終了。これを受けて、移行措置として、1ドル=1.4ペソの“公定レート”と“実勢レート”の“二重相場制”を経て、2002年2月11日、変動相場制に完全移行しています。


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 リマの聖ロサの祝日
2018-08-30 Thu 10:42
 きょう(30日)は、ペルー出身で、アメリカ大陸初のカトリックの聖人(ペルーとその首都リマ、ペルー国家警察、ペルー看護師会、新大陸、インド、フィリピン、刺繍、庭師の守護聖人)となった“リマの聖ロサの祝日”として、ペルーでは祝日です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ペルー・リマの聖ロサ(2017)

 これは、昨年(2017年)、ペルーで発行された“リマの聖ロサ帰天400年”の記念切手です。

 聖ロサは、1586年4月20日、スペイン支配下のペルー・リマで生まれました。インカ帝国の滅亡から約半世紀後のことで、父のガスパルはスペインの軍人でした。本名はイサベル・フローレス・デ・オリバです。

 幼少期から信仰心が篤く、4歳のときに読み書きを覚えると、シエナの聖カタリナ(幼い頃に夢で、キリストから「自らの包皮で出来た婚約指輪」を授かる夢を見て、一生を神に捧げる決意をしたとされる聖女。1380年没)の生涯を知り、彼女に倣って生涯、貞潔を守る誓いを立て、週に3度の断食を行ったほか、髪を短く切り、厳しい禁欲生活を送りました。また、周囲の病人や貧者を自宅に招いて世話をし、みずから作ったレースや刺繍、育てた花を売り、生活を支えました。この故事にちなみ、彼女は刺繍と庭師の守護聖人とされています。

 12才になると、イサベルは自宅から離れた洞穴に居を構え、自然の中で神をたたえる生活を送るだけでなく、大きな重い十字架をかついで庭を歩き回り道行きの信心をするようになりました。

 1606年、20歳の時にリマのサン・ドミンゴ教会で、「修道院の中ではなく、むしろ世間にとどまって、人びとの間で神に仕えなさい。」との声を聴き、ドミニコ会第三会員(在俗の修道女)となります。その際、彼女はその美貌ゆえに、当時の大司教から、薔薇を意味する“ロサ”の名を堅信(カトリック教会で、洗礼を受けた者が、さらに信仰を強め、霊の恵みを得るために、按手と聖香油を受ける儀式)名として授けられました。

 その後も、ロサは、日常の仕事や祖母の看病をする一方で、捨てられた子どもや老人(特に先住民)の世話をしつつも、より一層の禁欲生活を送ります。たとえば、定期的に鉄製の鋲が打たれた冠を被り、バラで身を隠し、ウエストに鉄製の鎖を巻いていたほか、断食を続け、苦い薬草の混じったひどく苦いものを飲んでいました。また、あまりにも激しい禁欲生活で衰弱し、立っていられななった時には、横たわることは恐怖でおののくこととの考えから、自分で砕いたガラス、石、陶器の破片や針等をベッドに置き、その上に座り直したり、身体中に重い鎖を巻き付けたりしたそうです。こうした苦行の生活の中で、ロサは幾度となく神秘体験をし、キリストを直接見たとされています。

 1617年8月24日、ロサは、在俗の修道女となってから14年間、休むことなく自己犠牲の修行生活を続けた末、バルトロメオの祝日に、31才の若さで亡くなりました。 その直後から、彼女の列福・列聖運動が始まり、1668年には列福され、さらに1671年にはアメリカ大陸出身者として初めて列聖されます。その際、彼女の命日の8月24日がバルトロメオの祝日にあたっていたことから、彼女の聖名祝日は、当初、8月30日とされました。後に、多くの国では、彼女の聖名祝日は8月23日に変更されますが、彼女の母国、ペルーでは現在でも8月30日が彼女の記念日となっています。

 リマでの聖ロサの祝日を祝う聖行列は、前日の29日、彼女の聖体を安置している聖ドミンゴ教会・修道院を出発し、リマ大聖堂へと向かい、30日午前中に盛大なミサを行った後、リマの歴史地区を練り歩いて聖ドミンゴ教会へと戻るというルートをたどります。

 また、聖ドミンゴ教会・修道院の近くには、“リマの聖ロサ教会”として、彼女が祈りを捧げた小さな礼拝堂や“サンタ・ロサの井戸”があります。これは、ロサが、修行の一環として、身体にきつく鎖を巻きつけて鍵をかけ、その鍵を井戸に投げ捨てたものの、痛みと苦しみに耐えかね聖母マリアに祈りを捧げたところ、錠が壊れたという奇跡の現場とされている場所で、この奇跡にあやかろうという人々が、毎年8月29・30日に手紙に願い事を書き井戸へと投げ入れるという風習があります。ちなみに、現地に来られない善男善女のため、電子メールでの願い事を受け付ける“バーチャル・ポスト”が設けられ、届けられたメールを教会側がプリントアウトし、井戸に投げ入れてくれるサービスも行われているのだそうです。

 さて、国連は、今週、ベネズエラ人の中南米諸国への脱出は地中海地域の難民問題に匹敵する“危機的状況”となりつつあると指摘しましたが、それを受けて、コロンビア、ブラジルと対応を協議していたペルーは、28日(現地時間)、経済危機と飢餓から逃れてくるベネズエラ人の流入が止まらないことから、移民により保健と公衆衛生に“差し迫った危険”が生じているとして、マルティン・ビスカラ大統領が北部2県について60日間の非常事態を宣言しました。いくら、病人と貧者のために自宅を解放した聖ロサの祝日だからといって、やはり、受け入れには物理的に限度がありますからね。


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 プエルトリコ、死者数46倍の大幅修正
2018-08-29 Wed 12:26
 プエルト・リコ米自治連邦区政府(以下、プエルト・リコ政府)は、28日(現地時間)、昨年9月に襲った大型ハリケーン“マリア”による死者数について、昨年12月の公式発表で64人とされていた数字を、約46倍の2975人に大幅修正。リカルド・ロセージョ知事はマリアへの自身の対応に「間違いがあったことを認める」と謝罪しました。というわけで、プエルト・リコに関連して、この1枚です。(画像はクリックd拡大されます)

      米国・ムニョス・プエルトリコ知事

 これは、1990年に米国が発行した額面5セントの普通切手で、プエルト・リコ最初の民選知事、ルイス・ムニョス・マリンの肖像が取り上げられています。

 1898年4月、米西戦争が勃発すると、同年8月、プエルト・リコは米軍に占領され、戦後は米国に割譲されます。以後、プエルト・リコは米国大統領が知事を任命する米直轄領となりましたが、これを受けて、プエルト・リコ政界は、完全独立派、米国の州への昇格を求める州昇格派、現状のまま自治権の拡大を求める自治権拡大派の三潮流が生まれます。

 世界恐慌下の1930年代、プエルト・リコでは自治権拡大派が勢力を拡大し、1938年には自治権拡大派のルイス・ムニョス・マリン(今回ご紹介の切手の人物です)がプエルト・リコ人民民主党を結成。ところが、ムニョスは、1946年、人民民主党の綱領から完全独立の目標を削除したため、これを不満とする独立派がプエルト・リコ独立党を結成します。

 1948年に初めて実施されたプエルト・リコ知事の直接選挙では、ムニョスが当選したものの、これを機に、独立運動が激化。1950年10月30日には、急進独立派のペドロ・アルビス・カンポス率いるプエルト・リコ国民党の叛乱が発生し、ハユヤでは“プエルト・リコ自由共和国”の独立が宣言されました。自由共和国は米軍の派兵により鎮圧されたが、首府サンフアンではムニョスの暗殺未遂事件も発生。一連の反乱によって、28名が死亡し、49名が負傷したほか、1950年11月1日には、ワシントンD.C.で国民党員2名によるトルーマン暗殺未遂事件が発生しています。

 一方、この時期は朝鮮戦争の時期にあたっていましたが、朝鮮戦争に動員された米軍の兵力48万のうち、プエルトリコ出身者(その多くは志願兵)は6万1000名を占めていました。この数字には、プエルトリコから米本土に渡った移民の2世・3世は含まれていませんから、“プエルトリコ人”とのアイデンティティを有する者を含めると、その数はさらに増えるはずです。

 プエルトリコ出身の志願兵の多くは第65歩兵連隊に所属。1950年8月27日、プエルトリコを出発しました。9月23日に釜山に到着後、兵士の全員がヒスパニックであるにもかかわらず、指揮官は白人であったため、上下の意思疎通が必ずしもスムースではないという困難を抱えながらも、共産側と勇敢に戦い、中国人民志願軍の参戦によって韓国・国連軍が北緯38度線以南に撤退を余儀なくされた後、1951年1月のキラー作戦で、最初に漢江渡河に成功した部隊となりました。

 こうしたこともあって、1952年、、米国はプエルト・リコを“コモンウェルス”として内政自治権を付与。ムニョスも米国資本を誘致し、工業化を進めたほか、1953年には、トルーマン暗殺事件に関与したとして懲役80年の有罪判決を受け、収監されていたアルビスを恩赦で釈放するなど、宥和政策を展開します。

 しかし、国民党強硬派はあくまでも完全独立を主張し、1954年3月1日、ロリータ・レブロン以下4名がワシントンの米下院を襲撃し、プエルトリコの旗を掲げる事件が発生しました。

 事件後、米国とプエルトリコ政府は国民党の活動家が根こそぎ逮捕したため、治安状況は落ち着きを取り戻します。ただし、1965年にムニョスが知事を退任するまでに、プエルト・リコ内では十分な雇用が創出されなかったため、多くの農村人口がニューヨークなどの、アメリカ合衆国の大都市に移住していくことになります。

 なお、プエルトリコの独立派としては、国民党以外にも、1946年にヒルベルト・コンセプシオン・デ・ガルシアが結成したプエルトリコ独立党があります。同党は暴力を否定し、選挙で多数を獲得することで独立を目指す姿勢を取っていますが、ビエケス島からの米軍の撤退と米軍施設の返還、キューバにある米軍のグアンタナモ基地の返還要求、米軍の施設の撤退運動を行い投獄されたプエルトリコ人や、“米国に対する反逆の罪”により投獄された政治犯の釈放運動への支援も行っており、キューバ政府とは協調関係にあります。

 ちなみに、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、キューバの革命政権ならびにチェ・ゲバラとプエルト・リコとの関係についても、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 米墨、NAFTA再交渉で合意
2018-08-28 Tue 11:12
 米国とメキシコが、27日(現地時間)、北米自由貿易協定(NAFTA)再交渉の2国間協議で合意しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・輸出品シリーズ(自動車)

 これは、1975年からメキシコで発行が開始された普通切手“輸出品シリーズ”のうち、1983年に発行された“自動車(産業)”の300ペソ切手です。

 メキシコにおける自動車産業は、1925年に米フォード社が完成車の組立工場を建設したことから始まり、しばらくはノックダウン生産が行われていました。

 1962年、メキシコ政府は政令として“自動車令”を発し、完成車の国産化率60%以上を義務付け、国内の移動車部品メーカーの育成を本格的に開始します。これを機に、メキシコでは完成車や主要部品の輸入が困難になったため、米国のビッグ3や日産自動車がメキシコに進出することになりました。ちなみに、日産自動車が日系完成車メーカーとして、メキシコ最初のクエルナバカ工場を稼働させたのは、1966年のことです。

 その後も、メキシコ政府は、エンジンなど国産化義務部品の指定、部品メーカーに対する外資出資比率の制限(40%以下)、“外貨予算”制による収支均衡の義務化など、部品メーカー育成のための保護主義政策を展開していました。今回ご紹介の切手を含む“輸出品シリーズ”も、そうした背景の下、発行されたものです。

 しかし、1982年に発生した通貨危機により、状況は一変。以後、外貨獲得の必要から自動車産業でも市場開放が進んだことから、部品メーカー等の地場産業が十分に育たぬまま外国資本が流入し、外資依存型での自動車産業が発展することになりました。こうした傾向は、1994年にNAFTAが発行するとさらに加速され、2004年にはNAFTA域内での自動車貿易が完全自由化されたことで、NAFTA域内での自動車貿易であれば部品の原産地は問われなくなり、メキシコの自動車産業は、外国資本の下、ほぼ、部品を輸入し手の組立工場に特化されていくことになります。

 さて、今回のNAFTA再交渉では、米墨間で、自動車の現地調達比率引き上げが最大の争点の一つになっており、最終的に、現地調達率を現行の62.5%から75%に引き上げることで合意。また、 両国はまた40-45%を、時間当たり賃金が最低16ドルの工場で生産することで合意し、メキシコ側には、米国製の鉄鋼、アルミニウム、ガラス、プラスチックの利用を増やすことも義務付けられました。

 また、長期的投資を阻害するとして企業からの反対が強かった“サンセット条項(協定が5年ごとに再交渉され、合意に至らなければ自動的に廃止になる)の導入は撤回され、代わりに、6年ごとの協定の見直しとなりました。また、NAFTAには16年の期限が設けられ、見直しを経てさらに16年の延長が可能ともされています。

 また、自動車関連以外の合意では、米墨間で取引される農産物は関税をゼロに据え置くほか、農業技術の発展を支援するためバイオテクノロジーの導入に取り組むこと、メキシコ人労働者の賃金を引き上げる取り組みとして、国際労働機関(ILO)の労働基準の遵守をメキシコに義務付ける条項も盛り込まれました。

 
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 世界の切手:アルゼンチン
2018-08-27 Mon 11:07
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年8月15日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はアルゼンチンの特集(4回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      アルゼンチン・フロンディシ

 これは、2008年に発行されたアルトゥーロ・フロンディシ元大統領(任期1958-62)の切手です。

 1959年のキューバ革命の後、キューバと米国が対立を深めるなか、1961年に発足したケネディ政権は、プラヤ・ヒロン事件の失敗を受け、武力を使わずにキューバを追い詰めるため、“進歩のための同盟”構想を打ち出します。

 進歩のための同盟は、米州機構(OAS)加盟国に対して、米国が10年間で総額200億ドルの資金を投入し、2.5%以上の経済成長を達成することで、中南米諸国の経済を安定させ、社会主義化を防止することをめざしたもので、1961年8月、ウルグアイのプンタ・デル・エステ(ウルグアイ南東部にある南米有数のビチ・リゾート)で開催された米州機構経済社会理事会で、キューバを除くOAS加盟国によって締結されました。

 このプンタ・デル・エステ会議当時、アルゼンチンの大統領だったのが、今回ご紹介の切手に取り上げられたアルトゥーロ・フロンディシです。
 
 1955年9月の軍事クーデターでフアン・ペロン政権が退陣した後、軍事政権はペロン政権時代の与党、正義党(ペロニスタ)の活動を禁止します。

 もっとも、ペロン政権の政策には、労働者の権利拡大や外資による資源開発の規制など、積極的に評価すべきものも少なからずあったため、フロンディシら急進市民同盟(UCR)の一部は是々非々で評価すべきと主張していました。そこで、1958年、民政復帰の大統領選挙では、フロンディシは、UCRから分裂した右派グループのUCRIの候補として立候補し、パラグアイに亡命中のペロンの支持も得て、当選します。

 政権発足時のアルゼンチン経済は長期低落傾向にあったため、フロンディシは経済再建のため、大企業の投資を呼び込むため外国投資法を制定。労働組合の反発に対しては強硬な姿勢で臨みました。また、“進歩のための同盟”とケネディ政権には同調するものの、革命キューバへの制裁には同調せず、米国とキューバの仲介役を担うことで、ラテンアメリカにおける独自の立場を確保しようとしていました。

 独自の外交路線を模索していたフロンディスは、プンタ・デル・エステ会議の機会をとらえ、米国の了解の下、キューバ代表として出席していたチェ・ゲバラを極秘裏にブエノスアイレスに招待します。

 大統領官邸でのゲバラとの会見で、フロンディシは、「キューバがワルシャワ条約機構に加入すれば、米国との和解は絶望的になるが、その可能性はあるか」と質問。これに対して、ゲバラの回答は「我々にその気はない。キューバの側からそのようなことは求めていない」と応じたが、ソ連の側から手を差し伸べてくれば…という含みのあるものでした。

 また、フロンディシは、「革命後のキューバは憲法と議会を停止したが、選挙を通じた議会制民主主義が復活するか」と訊きましたが、ゲバラは、当面、その可能性はないと即答。いわば、キューバ革命が社会主義化の道から引き返すことはないとの宣言しました。

 会談後、ゲバラは大統領一家とステーキの昼食をとった後、伯母のマーリア・ルイサを訪ね、モンテビデオに戻ります。こうして、ゲバラにとって生涯最後となった故郷、アルゼンチン訪問はわずか4時間で終わりました。

 さて、ゲバラのブエノスアイレス訪問は、アルゼンチン国内の右派の反発を考え、極秘裏に進められました。このため、当日、誰が来るのかを知らされていなかった出迎えの大統領親衛隊士官は、飛行機から戦闘服姿の人物が降りてきて「ゲバラ少佐です」と握手の手を差し伸べてきたとき、呆然としていたそうです。

 また、ゲバラの訪問を事前に知らされていなかった外務大臣のアドルフォ・ムヒカは記者団の質問に「そんなことはありえない」と即答しましたが、実際に会見したことが確認されると、面目丸つぶれとなり、翌日、辞職しています。

 ゲバラ=フロンディシ会談は、アルゼンチン国内で賛否両論を巻き起こし、フロンディシの志向する中立外交に対しては、反共の色彩が強かった軍部や党内保守派が激しく反発する一方、地方選挙では左派とも親和性の高いペロニスタが勢力を伸長します。こうして政権が不安定化する中で、1962年3月18日の国会議員選挙では、与党UCRIが第一党になりましたが、選挙後の3月29日、“中立外交”に不満を持つ軍部によるクーデターが発生し、フロンディシは政権の座を追われることになります。
 
 さて、『世界の切手コレクション』8月15日号の「世界の国々」では、1961年のゲバラ=フロンディシ会談にフォーカスをあてた長文コラムのほか、国有石油会社TPF、ゲバラの母セリアマテ茶、カピバラの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のアルゼンチンの後は、8月15日に発売された同22日号でのナイジェリア(と一部ギニアビサウ)の特集、同22日に発売された同29日号でのコートディヴォワール(と一部トーゴ)となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 ナミビアの日
2018-08-26 Sun 06:23
 きょう(26日)は、1966年8月26日、南西アフリカ人民機構 (SWAPO) によるナミビア解放闘争が始まったことにちなんで、国連が制定した“ナミビアの日(ナミビア国内では“英雄の日”)です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ナミビアの日(1982)

 これは、1982年のにキューバが発行した“ナミビアの日”の切手で、切手上部には“SWAPO”の文字も入っています。

 現在のナミビア国家の領域は、第一次大戦以前はドイツ領南西アフリカとしてドイツの統治下に置かれていましたが、第一次大戦中の1915年3月、英連邦の一員として参戦した6万7000の南アフリカ連邦軍が進攻し、7月9日にはその全域を占領。これにより、ドイツ領南西アフリカは崩壊し、戦後、この地域は国際連盟によって南アフリカ連邦(以下、1961年以降の南アフリカ共和国も含めて南アと略)の委任統治領となります。

 1946年に国際連盟が解散すると、南アは国際連合への引き継ぎ期間の隙をついて南西アフリカの併合を宣言。しかし、国際社会はこれを認めず、南アによる南西アフリカの併合は不法占領であると非難します。

 1960年の国連総会では、南西アフリカを、南アを施政権者とする信託統治領(委任統治領と異なり、国連信託統治理事会が、3年に1度、現地を視察して住民に対する人権侵害や搾取がないか、自治・独立に向けた施政が行われているかを調査するほか、地域住民から国際連合への請願が認められます)とする決議が採択されましたが、南アはこれを無視して、国連の“干渉”を排した実効支配を継続しました。

 これに対して、南西アフリカでは民族解放組織としてSWAPO が形成され、独立運動が展開されましたが、1966年、南アは本国に倣って南西アフリカでも“自治国”としてバントゥースタンを設置し、アパルトヘイト政策を強行。独立運動を徹底的に弾圧しました。

 このため、同年8月26日、SWAPOは武装闘争を開始し、いわゆるナミビア独立戦争が勃発します。

 国際社会はSWAPOを支持し、1968年には国連総会で南西アフリカをナミブ砂漠に由来する“ナミビア”と改称した上で、国連ナミビア委員会の統治下におく決議が採択されたほか、1973年の国連総会ではSWAPOがナミビアの正統政府として承認されましたが、南ア政府はその後も“南西アフリカ”の支配を継続しました。

 ところで、ナミビアに隣接するアンゴラは、長年、ポルトガルの植民地支配に対する独立運動が展開されていましたが、1975年3月、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)、アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)、アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) の独立運動の主要3組織がポルトガルと休戦協定を調印し、独立が達せられました。当初、MPLAはソ連とキューバの、FNLAはザイールの支援を受けており、独立後の新政権は、最大勢力で首都ルアンダを掌握していたMPLA主体のものとなるとみられていました。

 ところが、親ソ政権の発足を嫌った米国がFNLAを支援したことで内戦が勃発。さらに、米国は、ともかくもMPLAを打倒するため、UNITAも支援します。その際、米国とUNITAの窓口になったのが、南アでした。

 南アの国民党政権は反アパルトヘイトの国民運動を弾圧し、その結果、アフリカ民族会議(ANC)の一部は周辺の黒人国家に逃れ、東側諸国の支援も受けながら、反政府闘争を展開していました。なかでも、MPLAとANCは密接な関係にあり、南アのアパルトヘイト体制にとって直接の脅威になると国民党政権は考えていたのです。

 さらに、中国も反ソという観点から、ソ連が支援するMPLAに対抗してUNITAを支援するという混沌とした状況ができあがりました。

 南アは実行支配下に置いていたナミビアを拠点にアンゴラ内戦に介入。ナミビアとアンゴラの国境地帯では、南ア国防軍とキューバ軍およびMPLAが対峙することになります。

 その後、FNLAは首都進攻を試みたものの、キューバ軍事顧問団が指揮するMPLAに大敗。戦闘の続く中で、1975年11月11日、MPLAが“アンゴラ人民共和国”の、UNITAとFNLAが“アンゴラ人民民主共和国”の独立を宣言したものの、国際的には、MPLA政権がアンゴラの正統政府とみなされていました。

 こうした状況の下、“第三世界の連帯”を掲げるキューバは、1975年11月から1976年4月までの間に3万6000の兵力を派遣し、南ア軍をナミビアに押し戻します。このことは、ANCを含むアフリカの反アパルトヘイト勢力を大いに鼓舞。さらに、その後もキューバの軍事顧問団はアンゴラにとどまり、ANCに対して軍事訓練を施していました。

 こうして、ナミビア問題がアンゴラ内戦とリンクする状況が続く中で、1988年、クイト・クアナヴァレの戦いを機に、南アはアンゴラからの撤退を表明。同年12月のニューヨーク協定で、南アは、キューバ軍のアンゴラからの撤退を条件にナミビアの独立を承認し、翌1989年、国連監視下で行われたナミビアの選挙ではSWAPOが過半数を制し、1990年3月、ようやく、ナミビアは完全独立を達成しました。


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 フランコの墓、移設へ
2018-08-25 Sat 02:21
 スペインのサンチェス政権(中道左派)は、きのう(24日・現地時間)、マドリード州サン・ロレンソ・デル・エスコリアルの“戦没者の谷”にある独裁者フランコの墓を移設することを決定しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      スペイン・戦没者の谷(1959)

 これは、1959年4月1日、戦没者の谷の開設にあたり発行された記念切手です。

 1936-39年のスペイン内戦が終結から1周年にあたる1940年4月1日、フランコ派の勝利1周年の戦勝パレードの席上、フランコは戦没者追悼のための壮大な施設を建設することを発表。これを受けて、1940年から1958年にかけて、グアダラマ山脈の谷に建設されたのが、戦没者の谷です。

 敷地内には、花崗岩の稜線をくりぬいた世界最大級のバジェ・デ・ロス・カイードスのサンタ・クルス聖堂と高さ152.4メートルの十字架が設けられています。 聖堂地下の納骨堂は、共和国派の囚人数千人が堅い花崗岩をトンネル状に掘り抜いて建設したもので、山を貫く巨大な翼廊は、十字架の真下で交差する設計になっています。また、掘り抜いた空間はローマのサン・ピエトロ大聖堂の地下納骨堂より広いのですが、サン・ピエトロ大聖堂と争うことをはばかり、入り口近くの内部には間仕切り壁がつくられています。

 納骨堂には、ナショナリストと共和国派、両派の兵士4万人がともに埋葬していますが、建設の経緯から、モニュメント等はナショナリストの歴史観を反映したものとなっており、フランコ政権とカトリック教会の結びつきの強さを反映して「神とスペインに殉じた者たちよ!」との銘が刻まれています。

 このため、スペイン国内でも、左派政党は戦没者の谷を“民主主義の記念碑”または“民主主義のための戦いで命を落とした全スペイン人のための施設”として再編することを主張していますが、これに対しては、中道カトリック政党を中心に、戦没者の谷はすでにナショナリスト・共和国双方の軍人・民間人すべての犠牲者のために捧げられており、左派の歴史観による施設の改変には反対する声も少なくありません。

 1975年に亡くなったフランコは、生前、マドリード市内での埋葬を望んでいましたが、独裁者亡き後の暫定政府はフランコの埋葬場所として戦没者の谷を指定。このため、フランコの遺体は、聖堂外の谷の下に横たわる一般戦没者とは別に、教会内部に埋葬されました。なお、聖堂内に埋葬されているのは、フランコと、ファランヘ党創設者アントニオ・プリモ・デ・リベラの2人しかいません。

 今回の移設決定は、ことし6月に発足した新政権のサンチェス首相が、「国民分断の象徴を放置できない」としてフランコの遺体を掘り起こす方針を明らかにしたことが出発点となっていますが、その背景には、昨年(2017年)10月のカタルーニャ自治州の独立を問う住民投票で、独立賛成が90%に達したという状況を踏まえ、カタルーニャを弾圧した独裁者の墓を移し、彼らの反発を和らげようとの政治的意図があるとみられています。ちなみに、昨年の住民投票に際して、独立派は、カタルーニャの自治権を停止した当時のラホイ首相を、フランコになぞらえて非難するという一幕もありました。

 なお、ことし7月の調査では、移設についての世論は、賛成41%、反対39%で拮抗しています。


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 スプートニクとガガーリンの闇(10)
2018-08-24 Fri 00:27
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、7月25日、『本のメルマガ』第688号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中に東側諸国が発行した切手のうち、北朝鮮について取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・国際地球観測年(地球)

 これは、1958年3月、北朝鮮が発行した国際地球観測年の切手のうち、地球の周りを周回するスプートニク1号を取り上げた1枚です。

 北朝鮮は、もともと、ソ連が極東の防波堤として樹立した衛星国でした。ソ連の支援と承認を得た北朝鮮は、1950年6月25日、38度線を越えて韓国領内に侵攻し、朝鮮戦争を起こしましたが、10月20日に国連軍の反攻によっては国家壊滅の危機に追い込まれます。これに対して、米国との直接対決を回避したかったソ連は北朝鮮を積極的には支援せず、金日成政権の崩壊を前提に極東政策を再検討し始めました。結局、1950年10月末、中国が人民志願軍を派遣して戦争に介入したことで、北朝鮮はなんとか国家として存続することになりましたが、このことは、後年、ソ連に対する北朝鮮の不信感を醸成する要因となります。

 1953年7月の朝鮮戦争休戦後、北朝鮮の戦後復興に際しては、ソ連48.8%、中国30.9%、東欧20.3%の割合で、総額5億5000万ドルの直接無償援助(ただし、西側諸国の推計では、7億1900万ドルのローンを含む10億4000万ドル)が行われたとされています。また、これとは別に、中国人民志願軍の無償労働による鉄道復旧事業も行われました。

 復興援助の開始にあたって、1953年9月、金日成はソ連を訪問し、ソ連から受けることになっていた10億ルーブルの経済援助の使途と、過去にソ連から受けていた借款の償還問題について協議。その結果、ソ連からの経済援助のうち、かなりの部分が、戦争によって被害を受けた旧設備の復旧・拡張に加え、“以前はわが国になかった新工場”として消費財生産のための工場建設に充てられることになりました。これは、国際分業路線を採用していた当時のソ連の意向に沿ったものでしたが、重化学工業建設を優先したい金日成の意向とは必ずしも一致するものではありませんでした。

 とはいえ、戦後復興のために、ソ連などからの援助が不可欠であった北朝鮮は、当面、自立的民族経済論と社会主義的国際分業とは必ずしも矛盾せず、むしろ、自立的民族経済を建設することが国際分業に参加できる道であることを強調して、ソ連との対立を回避しようとします。

 こうした事情を踏まえて、北朝鮮が策定した“戦後復興三ヵ年計画”は、重工業を優先したうえで、同時に軽工業と農業を発展させるとの方針の下、造船、製鉄、鉱業、電力、化学、建設などの分野に重点的な投資が行われ、(公式の統計数字によれば)石炭の生産は1953年の70万トンから1956年には390万8000トンに、鋼鉄の生産は同じく12万2000トンから36万5000トンに、発電能力も同じく101万7000キロワットから512万キロワットへと、飛躍的に向上しました。これにより、北朝鮮は戦後復興を達成したとされていますが、一般国民の生活水準は“復興”の名とはほど遠い低いままに留め置かれています。

 ところが、計画最終年の1956年、フルシチョフによるスターリン批判を契機として、北朝鮮においても金日成個人崇拝に対する批判が起こると、事態は一変。同年8月には、ソ連国籍をもつなどソ連と関係の深いソ連派の朴昌玉が、中国共産党と関係の深い中国派の崔昌益らとともに、党全員会議で公然と金日成批判を行う“八月宗派事件”が発生します。

 事件の背景には、自立的民族経済建設のために重化学工業路線を優先する金日成ら抗日パルチザン出身グループと、軽工業・消費財生産を優先し、ソ連を中心とする国際分業体制への積極的参加を主張するソ連派・中国派との路線対立がありました。

 結局、八月宗派事件は金日成らの勝利に終わり、朴・崔の二人は逮捕され、党から除名されます。その後、ソ連第一副首相のミコヤンと中国国防部長の彭徳懐が訪朝し、朴・崔に対する除名処分は撤回されたものの、金日成は、1956年末からソ連派・延安派に対する本格的な粛清を開始。1958年までに両国と関係のある“反党分派”勢力は根こそぎ弾圧され、北朝鮮と中ソの関係は冷却化しました。

 八月宗派事件を機に、北朝鮮はソ連・中国の援助を当てにせず、自力で社会主義建設を行う必要に迫られたことから、金日成は、1957年に始まる5ヵ年計画の発動を前に、1956年12月の党中央委員会総会で、「最大限の増産と節約」とのスローガンを掲げ、重工業(中でも製鉄と機械)優先路線の大衆動員運動として“千里馬運動”を展開します。さらに、5ヵ年計画実施の過程で強調されたのが“農業協同化(集団化)”でした。

 ただし、この段階では、軍事境界線をはさんで米韓と直接対峙している状況の下、ソ連を盟主とする東側諸国の団結を後ろ楯とせざるをえないという基本構造に変化はなく、経済的にもソ連からの支援が大きな比重を占めていたため、北朝鮮はソ連に対して(少なくとも表面的には)臣従の姿勢を示す必要がありました。今回ご紹介の切手も、そうした文脈に沿って発行されたものです。

 さて、北朝鮮当局にとって、農業協同化運動の真の目的は、資本不足に悩んだ北朝鮮当局が、重工業の育成に必要な資金を農民から徴収することにありました。このことを裏付けるかのように、農業協同化は、北朝鮮がソ連・中国と距離を置き「自力更生」を強調するようになった1956年以降、急ピッチで進められましたが、農民の生活を無視した過酷な収奪や強制的な大規模移住が強行されたことで、1950年代末には10万人規模の餓死者が発生するなど、農村の荒廃は深刻なものでした。

 こうした状況の下で、金日成は在日朝鮮人(の労働力・技術・資金)に目をつけ、それが北朝鮮の現実を“地上の楽園”の美名の下で糊塗し、多くの在日朝鮮人を地獄に突き落とすことになる帰国事業につながっていくことになります。


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 マレーシア、“一路一帯”事業を中止
2018-08-23 Thu 03:57
 中国を訪れていたマレーシアのマハティール首相は、きのう(22日)の記者会見で、中国の“一帯一路”構想に関連した大型インフラプロジェクトを延期または中止すると述べました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マレーシア・マラッカ歴史博物館(2018)

 これは、ことし(2018年)7月23日、マレーシアが発行した“マレーシアの歴史博物館”の切手のうち、マラッカの歴史博物館を取り上げた切手シートです。

 マラッカの歴史博物館は、オランダ時代に建てられた旧総督邸“スタダイス”の建物を利用したもので、マラッカ王国時代に始まり、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地時代、日本軍の占領時代、そしてマレー連邦として独立するまでのマラッカの歴史を紹介しています。

 切手では、画面の左側に鄭和の像が描かれていますが、この像は博物館の展示品で、実際には博物館の前に置かれているわけではありません。

 明代、永楽帝時代の宦官だった鄭和は、1405年、諸国への航海を命じられ、同年末、全長42丈余の大船62隻、乗組員総数2万7800名余りからなる大艦隊を率いて蘇州を出発。以後、泉州→クイニョン→スラバヤパレンバン→マラッカ→アル→サムドラ・パサイ王国(アチェ)→セイロンという航路をたどり、1407年初めにカリカット(コーリコード)へと到達しました。

 鄭和の航海を機に、それまで明と交流がなかった東南アジアの諸国が明への朝貢を行うようになりましたが、なかでも、1402年頃に建国したばかりのマラッカ王国は熱心で、以後、北方のアユッタヤー王朝に対抗するため、、鄭和の艦隊が入港するたびに朝貢を行い、鄭和の保護下で力を蓄えて東西貿易の中継港としての地位を確立しました。

 したがって、マラッカの歴史という点で鄭和が重要人物であることは間違いないのですが、数多ある歴史博物館の所蔵品のうち、あえて鄭和の像のみが取り上げられたのは、やはり、中国から多額の融資を受けて“一路一帯”構想にも積極的に関わっていたナジブ・ラザク前政権の意向が反映されたものと見るのが妥当と思われます。

 ところが、マレーシアでは、政府系ファンド「1MDB」を巡る汚職疑惑がもとで、ナジブ前首相はは5月の総選挙で敗北し、93歳のマハティール元首相が政権の座に返り咲きました。当然のことながら、こうした事情での政権交代ですから、ナジブ政権時代の政策についてはゼロ・ベースで見直しが進められており、今回のプロジェクト中止の発表もその一環で行われたものです。ただし、今回ご紹介の切手は、すでに7月23日(余談ですが、この日はナジブの65歳の誕生日です)の発行に向けて準備が進んでおり、図案の変更などは間に合わなかったということなのでしょう。

 さて、今回、マハティール首相が凍結を発表したプロジェクトは、予算200億ドルの鉄道建設と、予算20億ドルの2本のパイプライン計画で、どちらもナジブ前政権時代に計画されたものです。

 今回の訪中で、マハティール首相はプロジェクトの中止について、国家財政に2500億ドルに上る負債がある以上、まず債務削減が優先だとの考えを中国側に示し、中国側の理解を得る戦術を取りました。その際、プロジェクト凍結の理由は、あくまでもマレーシアの財政問題にあるとして、中国批判は避け、責任はナジブ前首相にあると強調。プロジェクト凍結による賠償などについての交渉で、現政権の責任を最小限に食止めようとするとともに、国内の有権者に対して、前任者が作った債務を削減し国を建てなおすというメッセージを発信しています。

 今回のマレーシアの決定は、“一路一帯”路線を掲げる中国に対して痛手となることは確実で、今後、関係各国に対して、中国式援助外交受け入れの再考を促すきっかけになりそうです。

 * 昨日、アクセスカウンターが195万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。  


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 エルサルバドル、台湾と断交
2018-08-22 Wed 02:28
 中米のエルサルバドルは、昨日(21日)、北京で中国との国交樹立の文書に署名し、台湾と断交しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      エルサルバドル ラ・ウニオン港150年

 これは、2005年にエルサルバドルが発行した“プエルト・サン・カルロス・デ・ラ・ウニオン市150年”の記念切手のうち、“ラ・ウニオン港”を取り上げた1枚です。

 エルサルバドル東部、ホンジュラスとの国境地帯に位置するラ・ウニオン県は、1522年、アンドレス・ニーニョが西洋人として初めて上陸して都市を建設。この都市は、18世紀には、スペイン国王カルロス3世にちなみ、“サン・カルロス・デ・ラ・ウニオン港町”と呼ばれていましたが、スペインから独立後の1824年、“ラ・ウニオン”と改称されました。

 切手に取り上げられたラ・ウニオン港は、かつてはクトゥコ港と呼ばれていましたが、老朽化のため、1996年、いったん閉鎖されていました。この結果、エルサルバドルの貿易港は、同国西部のアカフトラ港のみとなりましたが、同港は自然条件の制約から取扱貨物量に限界がありました。

 そこで、1992年に終結した内戦後の東部地域の復興政策の目玉として、ホンジュラスとニカラグアに面するフォンセカ湾の入り江にある旧クツコ港を埋め立てて、エルサルバドル初の本格的なコンテナ港として“ラ・ウニオン港”を建設し、中米全域の物流ハブとして、ヒト・モノ・カネが集まる“中米のシンガポール”を目指して、“ラ・ウニオン港”の建設プロジェクトがスタート。2005年から日本からの円借款112億円などを資金として、港湾工事が開始されます。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で発行されたもので、取り上げられている風景は旧クツコ港時代のものですが、港の名前は既に“ラ・ウニオン港”と表示されています。

 さて、当初、接岸部の水深は14メートルで設計されていましたが、工事開始後の2007年、パナマ運河の拡張を見越して、“ポスト・パナマックス(喫水15・2メートル)”と呼ばれる大型船の時代に対応するとして、エルサルバドル側は、急遽、水深15メートルに仕様を変更。工事変更に伴う追加費用を捻出するため、荷下ろしに使う大型クレーンが事業範囲から外した状態で、2008年12月末、水深15mのコンテナバース、同14mの多目的バース等から成るラ・ウニオン港が完成しました。

 しかし、港の運営は民間委託するものとされていたものの、そのためのエルサルバドル国内の法整備は完成時には間に合いませんでした。さらに、2009年3月の大統領選挙で、ファラブンド・マルティ民族解放戦線のマウリシオ・フネス政権が誕生し、20年ぶりの政権交代が起きたため、民族主義共和同盟の前政権時代の目玉事業だった新港は宙に浮いた格好となってしまいます。

 その後、2010年に開港を迎えたものの、航路に泥土が流れ込んで埋め戻されてしまうトラブルが発生。エルサルバドル側には定期的に浚渫工事を行うだけの予算はなく、また、大型クレーンがないことによる使い勝手の悪さもあって、2012年末、コンテナを扱う海運会社は撤退。“エルサルバドル初の本格的なコンテナ港”として国際的にアピールするはずだったラ・ウニオン港にはコンテナ船が全く寄りつかなくなりました。

 その後も港の利用はほとんどないまま、2014年、国内法の整備もようやく終わったことを受けて、港の運営業者の入札画行われたものの、応札企業はなく、入札は不調に終わったため、空港・港湾自治委員会が“直営”を続けていました。

 今回、中国はエルサルバドルに対して、ラ・ウニオン港の開発支援とともに、武器供与を提案。これを受けて、エルサルバドル側は、台湾に対してラ・ウニオン港への巨額の支援を求めたものの、断られたため、中国と国交を樹立し、台湾とは断交することを選択したようです。

 おそらく、今後、中国はラ・ウニオン港の開発に積極的にかかわっていくことになるのでしょうが、同港はホンジュラス、ニカラグアにもつながる戦略上の要衝ですからねぇ。5月には、プエルトリコとも至近の距離にあるドミニカ共和国が台湾と断交して中国と国交を樹立したばかりですし、次はどの国が“陥落”するか、大いに気になるところです。


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 金足農業、よくやった
2018-08-21 Tue 16:22
 甲子園の高校野球は、きょう(21日)、決勝戦が行われ、大阪桐蔭が、秋田県勢として103年ぶりに決勝に進出した金足農業を13-2で下して史上初2度目の春夏連覇を達成しました。本来であれば、史上初の欠き巨を達成した大阪桐蔭に関連したネタを持ってくるべきなのでしょうが、個人的な心情として、優勝を逃した金足農業の健闘をたたえて、“秋田の農業”に関連する1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      八郎潟干陸式

 これは、1964年9月15日に発行された“八郎潟干陸式”の記念切手です。

 八郎潟は日本海に接する半鹹湖で、かつては、東西12キロ、南北27キロ、総面積は2万2173ヘクタールの琵琶湖に次ぐ日本第1の湖でした。潟内は水深が浅く(最深部でも4.5メートル)、湖底は平坦なため、古くから各所で小規模な干拓や埋め立てが行なわれ、安政年間にも疎水計画が立てられています。明治以降もなんどか八郎潟の土地利用計画が立てられたものの、戦争や財政事情の問題もあってなかなか実施にはいたりませんでした。

 干拓のための本格的な調査が始まったのは1952年のことで、1954年にはオランダのデルフト工科大学教授で干拓の専門家、P・Ph・ヤンセンらが調査の来日。つづいて、世界銀行の調査団や国連食糧農業機構(FAO)の調査団があいついで調査のために来日し、干拓の有用性が認められました。

 これを受けて、1961年、農林省はオランダの対外技術援助機関(NEDECO)と技術援助契約を結び、翌1962年から、国の直轄事業として「国営八郎潟干拓事業」の着工となりました。

 干拓の対象となったのは、潟全体のうち、中央の1万5879ヘクタールと周辺の1560ヘクタールで、その他の部分は調整池と水路です。

 着工翌年の1958年には、試験堤防を施工するほか西部干拓地が干陸され、1959年以降、堤防をはじめとする各種工事は最盛期を迎えます。そして、1961年に防潮水門が、1962年に新生大橋が、1963年に南部および北部排水機場が完成。また、ほぼ同時に中央干拓堤防もほぼ完成し、正面堤防では最終締切を行って中央干拓地のポンプ排水が始まりました。これを受けて、干陸式が行われたのが、1964年9月のことでした。

 ただし、その後も工事は続けられ、1966年の全面干陸に伴い、道路・用水路・排水路などの中央干拓地内の工事は最盛期を迎えます。そして、1968年の導流堤が完成し、干拓の基幹建設工事はほとんど完了しました。

 一方、1964年十10月、干陸に伴い、新村“大潟村”が誕生。翌1965年には、八郎潟新農村建設事業団が設立され、中央干拓地の農地整備・農家住宅・役場・学校・上下水道の諸施設および農業用施設の建設なども本格的に始まりました。ただし、しかし1970年、政府がコメの生産調整(減反政策)を開始したため、大潟村への入植者公募は同年を最後に打ち切られています。最終的に、20年の歳月と852億円の巨費を投じた世紀の大事業が完了したのは、1977年3月のことでした。

 なお、1983年5月26日に発生した日本海中部地震で、八郎潟の干拓堤防や防潮水門も破損し、防潮水門の機能が低下したため、2001年、旧水門を破棄して新造する工事が開始され、2007年、旧水門より20m上流に新水門が完成しています。

 八郎潟の干拓事業は、当時の日本としては国家駅な大規模プロジェクトでしたから、その干陸式にあわせて記念切手を発行するというプランは、昭和39年度の切手発行計画には当初から含まれていました。

 ただし、当時の大規模な土木プロジェクトの常として、工事が予定通り完了するか否かは不確実な要素が多かったため、1964年2月6日に昭和39年度の切手発行計画が好評された際には、「なお、9月に予定されている八郎潟干陸式が延期されるような場合は、この記念切手の発行を取り止めることもある」との注記もつけられていました。

 はたして、1964年は、5月7日に東北地震が発生し、八郎潟の干拓工事にも少なからぬ被害が発生しました 。さらに6月16日の新潟地震でも工事に影響が出たため、干陸式は中止になり、記念切手の発行も取り止めになるのではないかとの観測も流れました。

 しかし、最終的に工事は無事に期日までに完了し、9月15日に干陸式は行われ、“稲、りんご、乳牛を描き、モデル農場を象徴した”とするデザイン(長谷部日出男が作成)の切手が、式典当日の9月15日に発行されています。

 また、切手の発行にあわせて、男鹿半島と八郎潟を描き、稲穂を配した特印(こちらもデザインは長谷部日出男)も使用されました。この特印は、全国の主要局に加え、八竜、鹿渡、一日市、八郎潟、秋田県庁構内、大久保、天王、船越、琴浜の地元各局でも使用されています。このうち、船越局では、切手発行にあわせて風景印の図案改正が行われ、男鹿連山を背景に、船越水道にかかる防潮水門と農婦を描いた、新たな風景印の使用が開始されました。


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 切手に見るソウルと韓国:世界文化遺産の山寺
2018-08-20 Mon 01:38
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』7月20日号が発行されました。月一で同紙に僕が連載している「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、6月30 日、バーレーンの首都マナーマで開かれた世界遺産委員会の第42 回会議で“韓国の山寺”が世界文化遺産に登録されたことにちなみ、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます) 

      韓国・法往寺

 これは、1973年の普通切手に取り上げられた法往寺五重塔の切手です。

 今回、世界文化遺産に登録された韓国の山寺は、①通度寺(慶尚南道梁山)、②浮石寺(慶尚北道栄州)、③法住寺(忠清北道報恩)、④大興寺(全羅南道海南)、⑤鳳停寺(慶尚北道安東)、⑥麻谷寺(忠清南道公州)、⑦仙巌寺(全羅南道順天)の7寺ですが、今年5月の時点では、ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)は、①~④の4寺のみを登録するよう勧告していました。これに対して、世界遺産委員国である中国が7寺を合わせて登録することを提案し、最終的に7寺の登録となりました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた五重塔がある法住寺は、韓国仏教の最大勢力である曹渓宗の第5教区本寺で、553年、天竺に渡った義信祖師が、ラクダに仏典を積んで帰国し、俗離山麓に道場を開いたのが寺の元になったと伝えられています。寺名は、「仏法がこの地に留まるように」との意を込めて命名され、何度かの補修・改修を経て、720年、大刹としての規模が整えられました。現存する双獅子石灯と石蓮地、四天王石灯、喜見菩薩像、石灯籠などは、当時の遺物です。

 朝鮮王朝初期の1407年、大規模な仏教弾圧があり、多くの寺院が破却されましたが、法住寺は、例外的に許された寺院のうちの“軍威法住寺”に該当するとみられています。さらに、1424年の仏教弾圧でも破却を免れた寺の中に“忠淸道報恩俗離寺”の記録があり、これも法住寺と推定されています。

 現在の伽藍は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)で焼失したものを、1626年、碧巌禅師が改修・復元したもので、大雄宝殿を中心とした華厳信仰と、竜華宝殿を中心とした弥勒信仰が、捌相殿から直角に交差する配置となっています。

 切手に取り上げられた捌相殿(八相殿とも)は、釈迦の生涯を8つに分けて描いた八相図と仏像を祀った五重塔で、境内の中央に位置しています。現存する韓国唯一の木塔として、国宝第55号に指定されています。切手は、1968年の解体復元工事後の姿で、このとき、仏舎利容器が発見されたことから、仏塔としての機能があることが確認されました。

 一方、法住寺のもう一つのシンボルともいうべき弥勒仏は、もともとは、青銅の像でしたが、1872年、ソウルの景福宮の再建工事に際して徴発されます。その後、ながらく境内には弥勒仏のない状況が続いていましたが、1964年、コンクリート製の弥勒仏立像が建立されました。ただし、現在の法住寺では、コンクリート像は撤去され、1990年に建立された金銅像(高さ33メートル)が鎮座しています。


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 アナン元事務総長、亡くなる
2018-08-19 Sun 01:29
 1997-2006年に第7代国連事務総長を務め、2001年にノーベル平和賞を受賞したコフィ・アナン氏(以下、敬称略)が、きのう(18日)、スイス・ベルンで亡くなりました。享年80歳。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで確認されます)

      国連・ノーベル平和賞(2001)

 これは、アナン事務総長のノーベル平和賞受賞を記念して、2001年に国連(ニューヨーク)が発行した記念切手です。

 アナンは、1938年、英領ゴールド・コースト時代のクマシで、地元の部族長の家系に生まれました。

 1958年、クワメ・ンクルマ科学技術大学(経済学専攻)を卒業後に渡米し、1961年、マカレスター大学経済学部を卒業後、1962年、世界保健機関(WHO)の行政・予算担当官として国連入りしました。その後、国連アフリカ経済委員会、国連緊急軍(UNEF)国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)勤務を経て、ガーナに一時帰国し、1974-77年にはガーナ観光振興会社常務取締役を務めました。

 その後、国連に復帰し、1980年にUNHCR人事部長となり、1984年に国連本部の財務部予算部長、1987年に人事管理担当事務次長補兼国連システム安全保障調整官、1990年に財務官兼計画立案・予算・財政担当事務次長補を歴任。1990年にはイラク軍のクウェート侵攻の際には、事務総長の命を受け、国連職員の帰還とイラクで人質となった西側諸国の人々の釈放を促進するとともに、戦後は、人道援助物資購入のための原油販売について、イラク側との交渉を指揮しました。

 1992年にPKO担当国連事務次長補、1993-96年にPKO担当国連事務次長を経て、1995年11月から1996年3月にかけては、旧ユーゴスラビア担当国連事務総長特別代表として、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける国連保護軍(UNPROFOR)から北大西洋条約機構(NATO)主導の和平履行部隊(IFOR)への部隊引継ぎを監督しました。

 こうしたキャリアを経て、 1997年1月1日、アフリカ出身者として、また、国連職員の出身として、初の事務総長に就任。弱者や人権に重きを置く国連の基礎的な価値観を重視し、テロ防止やエイズ対策、PKOの機能強化などを推進したことが評価され、2001年には国連とともにノーベル平和賞を受賞しました。

 2004年には、国連の事務総長として初めて来日し、今上陛下と会談したほか、国会演説を行い、日本の対イラク支援政策や自衛隊のイラク派遣を高く評価するとともに、北朝鮮による日本人拉致問題にも言及したほか、国連憲章の敵国条項についても「時代遅れ」との認識を示しました。また、2006年12月、任期満了で国連事務総長を退任する際のスピーチでは、“最悪な経験”として「イラク戦争を止められなかったこと」を挙げ、国連を無視する米国の覇権主義的行動を批判し、米国が国連を重視した多国間主義に回帰することを望む声明を発表しています。
 
 謹んでご冥福をお祈りいたします。
 
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 新首相にクリケット元代表選手
2018-08-18 Sat 01:40
 パキスタン下院は、きのう(17日)、7月の総選挙で勝利したパキスタン正義運動(PTI)のイムラン・カーン議長(以下、敬称略)を新首相に選出。これをうけて、きょう(18日)の宣誓を経て、カーン新政権が正式に発足します。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      パキスタン・クリケットW杯優勝

 これは、1992年にパキスタンが発行した“クリケット・ワールドカップ優勝”の記念切手のうち、優勝カップとパキスタン代表キャプテンとしてのカーンを取り上げた1枚です。

 インドやパキスタン、スリランカなど南アジアの旧英領地域ではクリケットが盛んですが、この地域にクリケット競技が持ち込まれたのは、1721年、英国の船員が上陸した海岸で行ったのが最初といわれています。その後、英国のインド支配が拡大していくにつれ、クリケットを楽しむインド駐在の英国人も増え、クリケットにはインド亜大陸に広まっていくことになりました。1845年3月には、1857年の大反乱の主役として知られる東インド会社のインド人傭兵、シパーヒー(セポイ)のチームと白人のチームが試合を行ったとの記録もあります。

 クリケット競技がインド亜大陸でも組織的に行われるようになったのは、1848年にムンバイのパルーシー(ペルシャ起源のゾロアスター教徒)によるパルーシー・オリエンタル・クリケット・クラブを組織してからのことで、1866年にはこれに刺激を受けたムンバイのヒンドゥー教徒がボンベイ・ユニオンを組織しました。

 こうしてインド亜大陸に定着したクリケットは、1947年のインドパキスタンの分離独立後も、クリケットは印パ両国の国民的なスポーツとして現在に至るまで人気を保っています。

 今回、パキスタンの新首相となるイムラーン・カーンは、パキスタン独立後の1952年、ラホール生まれ。1971年から1992年にかけに20年以上にわたってパキスタン代表としてプレーし、1982年から1992年までは代表のキャプテンも務めました。この間、1987年にはいったん引退したものの、1988年には代表に復帰。1992年のW杯オーストラリア・ニュージーランド大会では、3月25日、メルボルン・クリケット・グラウンドで行われた決勝戦でイングランド代表を下し、パキスタンに初優勝をもたらしました。

 代表引退後の1996年4月25日、反汚職、現状打破、共同体主義、イスラム的かつ現代的な福祉国家の建設などを掲げ、ラホールでPTIを結成。その後、同党はながらく、議員はカーンのみという個人商店的な色彩の強い小政党にとどまっていましたが、2013年のパキスタン下院総選挙では30議席以上を獲得して野党第2党に躍進し、カーンも首相候補の一人に挙げられるほどになりました。

 ただし、PTIは、封建主義の根絶、完全な司法権の独立、脱中央集権、パキスタン軍への文民統制などの“正論”をストレートに訴え、他の政党が“特定の一族”に牛耳られていることを批判するため、敵も多く、2013年の下院総選挙の直後には、副党首のザラ・シャヒド・フセインが何者かに暗殺される事件も起きています。なお、PTIは、核兵器の維持と対テロ戦争での米軍への協力拒否を主張し、カシミール問題についても強硬な姿勢をとっており、それゆえ軍部とも良好な関係を保っています。

 ことし7月25日投開票の総選挙では、PITは116議席を獲得し第1党となり、同30日には少数政党や無所属議員との協力により、下院定数342のうち、過半数の176票を固め、首相就任を確実にしていました。

 首相選出後の演説で、カーンは「過去の不正を追及し、改革をもたらすことを約束する」と述べていますが、パキスタンの現在の喫緊の課題は経済問題で、まずは貿易赤字や国営企業の累積債務問題などへの対応が急務となります。
  

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 インドネシア独立記念日
2018-08-17 Fri 01:14
 きょう(17日)は、インドネシアの独立記念日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャワ占領切手・戦後使用

 これは、インドネシア独立戦争中の1946年1月12日、ジャワ島中部のテガルから、同島西部北岸のチルボン宛に差し出された葉書で、日本占領時代の切手が無加刷で使われています。1945年8月17日のインドネシア共和国の独立宣言後、共和国側の支配地域では、日本占領時代の切手に“インドネシア共和国”を意味する加刷を施した暫定切手を使用しましたが、一部、無加刷の切手・葉書が使用された例もあります。今回ご紹介の葉書は、年が明けて1946年になってからの使用例ですから、占領時代の切手の戦後使用としては、かなり遅い時期のものと言ってよいかと思います。

 第二次大戦中、オランダ領東インド(蘭印)を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放。日本側は、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本の降伏が発表されたことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はスカルノの私邸、約1000名が立会ったそうです。

 ちなみに、1945年8月17日に発せられたインドネシア共和国独立宣言の書面上の日付が皇紀を採用した“05年8月17日”となっているのは有名な話です。この点については、「ムスリムであるスカルノが日本への感謝の意を示すとともに、(オランダの宗教である)キリスト教に由来する西暦を嫌ったため」という類の説明が散見されますが、これは正しくありません。

 日本占領時代のジャワ島では公文書に皇紀が採用されていました。このため、日本の占領が続いている限り、公文書の日付も皇紀で記すのが正式なスタイルとなります。

 ところで、上述のように、スカルノらは、1945年8月17日に独立宣言を行いましたが、この時点では、対日降伏文書は調印されておらず、したがって、連合国による日本軍の武装解除と占領行政の接収も行われていませんから、スカルノらが“インドネシア共和国”の領土とした地域では、日本の占領状態が続いているというのが建前です。このため、公文書としての書式を整えようとすれば、日本占領時代の書式に従い、皇紀を使うというのが自然なスタイルです。これは、彼らの対日感情とは全く別の次元の話で、純粋に事務的な形式上の問題です。

 じっさい、日本軍の占領が正式に終了すると、スカルノのインドネシア共和国はすぐに西暦の使用を再開しており、今回ご紹介の葉書に押されている消印も西暦(19)46年と表示されています。

 さて、独立宣言を受けて、9月4日にはスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。この間、8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧PETA(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため英連邦軍オランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織し、インドネシア独立戦争に投入していきました。

 一方、戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念を奉じて独立派に身を投じた人が約1000人いたそうです。そのうち、半数が戦死・行方不明となり、生き残った後も、日本に帰らず、インドネシアで生涯を終えた人も少なくありません。

 現在、インドネシア政府は、独立戦争を生き抜いた旧日本軍の将兵にはゲリラ勲章を授与しているほか、独立戦争中の戦死者・陣没者や独立戦争に参加した戦績のある元将兵については、没後、本人や遺族が希望しない場合を除き、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ国内各地の英雄墓地に埋葬されることになっています。独立の英雄として英雄墓地に埋葬されることはインドネシアでは最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われます。

 なお、これまでも散々書いてきたことの繰り返しになりますが、1949年末にインドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、当然のことながら、第一義的には、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な対蘭独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。

 その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ちなみに、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍の将兵は、制度上は“脱走兵”の扱いとされており、インドネシア独立戦争中の戦死者に対しては遺族年金が支給されていないばかりでなく、彼らが“英霊”として靖国に祀られることもありません。これに対して、“脱走兵”以外の旧日本軍は、正規の手続きに則って、オランダ軍とともに独立派と戦い、多くの戦死者を出しましたが、彼らは靖国に祀られています。この厳然たる事実をしっかりと受け止めていれば、それだけで、「日本がインドネシアを独立させてやった」などという発言が、いかに、インドネシア国民のみならず、彼らの独立のために戦った旧日本軍将兵を愚弄するものであるのか、お分かりいただけるでしょう。

 ただ、その一方で、日本による占領の体験が糧となって、あるいは、独立戦争での旧日本軍将兵の活動が、結果的にインドネシアの独立を導くことになったということを、インドネシアの人たちが自らポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだと思います。

 そうした彼らの友情を無視して、自分は「一般の日本人とは違う」という醜悪な思い込みから、ひたすら日本と日本人を貶めるために“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人が少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑するという以外の感情しか沸いてきません。

 いまから5年前の2013年に刊行の拙著『蘭印戦跡紀行』は、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

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 米国の犬
2018-08-16 Thu 02:42
 トランプ米大統領は、14日(現地時間)、政権の内幕本を出版した黒人女性のオマロサ・マニゴールト元補佐官をツイッターで“あの犬”と呼んで非難。黒人議員などからの人種差別的だとの反発に対して、ホワイトハウスの報道官は、人種差別的な意図はなかったとの趣旨で、「大統領は黒人以外の人々にも似たような発言をしている」と釈明する一幕がありました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ロシア内戦期・資本主義国の犬たち

 これは、ロシア革命後の内戦期に、赤軍側が作ったプロパガンダ絵葉書で、敵対する白軍(反革命軍)の指導者を狂犬に見立てて、その背後に米英仏の“協商諸国(=第一次大戦中の連合国)”がいることを風刺した漫画が描かれています。ちなみに、米国の飼犬はデニーキン、フランスの飼犬はコルチャーク、英国の飼犬はユデーニチとなっていますが、その対応関係はあくまでもイメージで、実際の(最大)援助国とは必ずしも一致していません。

 そもそも、私有財産制度と階級秩序を否定し、無神論を掲げる社会主義・共産主義とその信奉者は、19世紀から、多くの国々で既存の体制と衝突していました。こうした背景に加え、1917年11月、ロシア10月革命の結果誕生したソヴィエト労農臨時政府(ボリシェヴィキ政権)は、翌12月、帝政時代の債務を一方的に破棄し、外交上の密約を曝露。さらに、1918年3月、無併合・無賠償の原則を掲げてドイツと単独講和を結んでしまいました。

 このため、列強諸国はボルシェビキ政権に対する敵意をあらわにし、干渉出兵を企図。その嚆矢として、英国はウラジオストックに巡洋艦サフォークを派遣しました。

 こうした状況の下で、1918年5月、チェコ軍団シベリア鉄道沿線のチェリヤビンスクで反乱を起こします。

 第一次大戦以前、チェコはオーストリアの支配下にあり、チェコ人将兵はオーストリア軍の一員として帝政ロシアと戦っていました。しかし、独立を強く望んでいたチェコ人にとってはオーストリアこそが“敵”であり、“敵の敵”であるロシアに投降する者も少なくありませんでした。

 帝政ロシアは、こうしたチェコ人を集めて約15万のチェコ軍団を組織。彼らは反ドイツ・オーストリア感情がきわめて強く、帝政ロシアを打倒して単独講和を結んだボリシェヴィキ政権はドイツの手先と考えていました。

 チェコ軍団の反乱はこうした背景の下に起こったもので、ボリシェヴィキ政権は連合国にチェコ軍団の武装解除を要求しましたが、連合国はこれを拒否。逆に、チェコ軍団救出を大義名分として、日・米・英・仏・伊・加・中の各国がロシアに出兵します。

 これがいわゆるシベリア出兵で、当初の目的は、“過激派”のボリシェヴィキ政権を打倒してドイツと戦うロシア政府を樹立し、東部戦線にドイツ軍を釘付けにすることにありました。わが国の第12師団も、1918年8月11日、ウラジオストクに上陸。9月6日までにハバロフスクを占領して、沿海州と黒龍州東部を制圧し、18日にはブラゴヴェシチェンスクに到達しています。

 もっとも、同年11月には、ドイツが降伏して第一次大戦が終結。シベリア出兵はその本来の目的を失ってしまいました。

 一方、英仏は、シベリア各地でボリシェヴィキ政権の赤軍と戦っていた白軍を支援し、1918年9月、オムスクでアレクサンドル・コルチャーク(帝政ロシア時代の黒海艦隊司令長官)を擁立して、“全ロシア臨時政府”の成立を宣言していました。

 しかし、しだいに白軍は赤軍に圧倒され、1919年8月、英仏もコルチャーク政権を見捨ててしまいます。米国も日本のシベリア東部三州への野心に懸念を強め、日本にシベリアからの撤兵を求めましたが、1919年6月、わが国はコルチャック政権を仮承認し、ハバロフスクに日本総領事館(初代総領事は杉野鋒太郎)を設置します。

 結局、コルチャーク政権は翌1920年1月に崩壊。これと前後して、1月8日には、米国が、2月には英仏が撤兵しましたが、その後も日本軍はシベリアへの駐留を継続。しかし、1922年6月24日、ついに日本軍も全シベリアからの撤兵を宣言し、10月25日、撤兵を完了しました。これを受けて、同年末、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立し、ロシアの内戦は終結します。

 なお、ロシア革命後の内戦の時代と列強諸国によるシベリア出兵に塁手は、拙著『ハバロフスク』でも、簡単にではありますが、まとめています。機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 大韓民国70年
2018-08-15 Wed 01:49
 1948年8月15日に大韓民国政府が正式に発足して、きょうで70年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米・太極旗(1944年・ブロック)

 これは、1944年11月、米国が発行した“枢軸国に抑圧されている国々”の切手のうち、“KOREA”を題材とした切手で、中央には太極旗が大きく描かれています。なお、田型ブロックのうち、左上の1枚は、“KOREA”とすべき国名表示の部分が、“E”の字がつぶれて“KORPA”になっているように見えるバラエティになっているのがミソです。

 韓国の現行憲法は、その前文で、現在の大韓民国が「三・一運動により建てられた大韓民国臨時政府の法統」を継承すると規定しています。そして、この“臨時政府”が大韓民国23年(西暦の1941年に相当)12月10日付で大韓民国臨時政府主席の金九ならびに同外交部長の趙素昴の名義で「大韓民国臨時政府対日宣戦声明書」を発したことを根拠に、韓国は連合国の一員であり、対日戦勝国であるということになっています。

 “大韓民国”の建国を、上記の“臨時政府”ができた1919年4月13日とみるか、米ソによる朝鮮半島の南北分割を経た1948年8月15日とみるかについては、韓国内でも長年、論争となってきました。大雑把にいうと、いわゆる左派は、1987年の民主化以前の韓国を否定的に評価する立場から、前者の立場をとり、いわゆる保守派(ただし、朝鮮半島の歴史的な文脈では、彼らは保守ではなく、革新派ですが…)は後者の立場をとっています。前大統領の朴槿恵が、2016年8月15日の演説で「光復70年、建国67年」としているのに対して、現大統領の文在寅が昨年(2017年)8月15日の演説で「2年後の2019年は韓国の建国と臨時政府樹立100年になる特別な年」と語っているのは、その典型的な事例です。 また、文在寅のこうした立場を反映して、過去10年ごとに発行された“大韓民国政府成立”の周年記念切手も、今回は発行が見送られています。

 歴史的事実という点から言えば、第二次大戦以前の世界では、アジア・アフリカ地域の大半は植民地支配下にありましたから、大韓民国臨時政府も、名称はどうあれ、その他地域の独立運動組織と同様の存在とみなされていました。ただし、“臨時政府”が連合国・枢軸国の双方から、国際的に正規の“亡命政府”として承認されることはありませんでした。したがって、彼らが1941年に発したとされる“宣戦布告”も国際法上は何らの効力もありません。ちなみに、実質的に日本の属国ないしは傀儡政権とみなされていた満洲国でさえ、ドイツ、イタリア、スペイン、バチカンなど23ヵ国から国家承認を受けていましたが、“臨時政府”のプレゼンスはそれとは比べぶべくもなく、ロンドンに拠点を構えていたポーランドやフランス、オランダノルウェーの亡命政権にくらべるとはるかに格下の存在というのが国際的な理解でした。

 このため、日本の敗戦後、朝鮮半島の38度線以南に進駐した米軍は(そもそも、国際社会が朝鮮を戦勝国と認知しているなら、朝鮮半島を米ソ両軍が分割占領することはもないはずです)、ただちに臨時政府の正統性を否定。1948年の大韓民国成立後、大統領の李承晩が「対日講和条約に戦勝国として参加したい」という要求しても、(真の対日戦勝国である)米英両国はこれを一蹴しています。

 ところで、第二次大戦に参戦した米国は、自らの戦争目的を「ファシズムに対して自由と民主主義を守ること」であると主張。このため、大戦中の1943年11月、ローズヴェルト、チャーチル、蒋介石の三国首脳は「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、しかるべき順序を経て朝鮮を自由かつ独立のものとする」ことをうたったカイロ宣言を発表します。この一項は、中国の強い要望を容れるかたちで盛り込まれたものですが、のちに、ソ連もこれを承認。その結果、ともかくも日本降伏後の朝鮮の独立ということが連合諸国の基本方針として確定しました。今回ご紹介の切手も、そうした文脈に沿って発行されたものです。

 ちなみに、米国は1943年以降、“枢軸国に抑圧されている国々”をテーマとした17種類のシリーズ切手を発行しています。切手はいずれも、中央に抑圧された国の国旗を描き、左側にはアメリカを象徴するワシを、右側には解放を象徴する女神を描くという統一の形式にとっており、韓国を取り上げた切手はその最後の1枚として登場しました。

 たしかに韓国も、枢軸国の日本によって“抑圧されている国”といえなくもないのでしょうが、韓国併合は1910年のことで、これを第二次世界大戦と結びつけるのはかなり無理があります。そもそも米国は、1905年、日本の首相・桂太郎と、特使のタフト(当時、陸軍長官。後に大統領)との秘密協定により、自らのフィリピン支配を日本に認めさせる代償として、韓国における日本の優越権を認めており、日本が朝鮮半島を植民地化することに“お墨付き”を与えていたという経緯もありました。

 それにもかかわらず、米国があえて韓国を切手に取り上げたのは、日本によって“抑圧されている国”の実例として挙げられるのが、他になかったためと考えてよいでしょう。

 第二次大戦中の日本軍占領地域の大半は、開戦以前、連合諸国が植民地支配を行っていましたから、ビルマやフィリピンなどを“日本によって抑圧されている国”と非難するなら、戦前、これらの地域を支配していた英国や米国も“抑圧者”ではないのか、という当然の疑問が投げかけられることになる。これは、ファシズムに対して自由と民主主義を守るためという“正義の戦争”を標榜する連合国にとって天に唾する結果になりかねません。そこで、米国としては「日本はアジアの解放を唱えながら朝鮮や台湾を植民地化し抑圧しているではないか」と言い出したと見るのが妥当と思われます。

 ただし、米国が朝鮮半島の状況を正確に理解したうえで、その解放を真剣に考えていたかというと、たとえば、この切手に描かれている太極旗のデザインを見ると、どうやらそういうわけではなさそうです。

 旧大韓帝国の国旗でもあった太極旗は、朝鮮王朝時代の1882年8月、朝鮮の特命全権大使にして修信使の朴泳孝が日本に向かう船中でその原型を考案したとされています。船上で朴が考案したという太極旗のプロトタイプは、中央に青と赤で陰陽を表現した太極文様(ただし、太極文様の陰陽は単色で表現されるが一般的で、韓国の国旗に見られるような二色使いのものは中華文化圏の伝統からすると例外的です)を描き、その周囲に八卦を配するデザインでした。

 しかし、英国人船長ジェームスから、八卦が複雑で区別しにくく、朝鮮国旗として他国が制作する場合に誤りが生じやすいとの指摘があったため、八卦のうち半分の4つを削って、残りを45度かたむけて四隅に配するというパターンに改められました。ちなみに、現行の太極旗に取り上げられている卦は、左上が天を示す“乾”、右下が地を示す“坤”、右上が月を示す“坎”、左下が日を示す“離”となっています。

 太極旗のデザインは、卦の大きさや位置、太極の構図などが細かく変化しており、朴泳孝の時代から1945年までの約60年の間にもさまざまなヴァリエーションがつくられましたが、今回ご紹介の切手の太極旗は、中央の太極文様が19世紀のスタイルのままとなっており、第二次大戦中に使われたもの(現行の太極旗と同じ)とは異なっています。米国が“臨時政府”を正規の“亡命政権”として認知していたのであれば、当然、国旗のデザインも臨時政府側に照会の上、当時の正式な太極旗を正確に切手上に再現したはずですが、現実にはそうなっていません。

 いずれにせよ、米国が“抑圧されている国々”の一つとして韓国を取り上げたのは、あくまでも目の前の敵である日本を非難するための手段でしかなく、太極旗の文様が多少間違っていようと、そんなことは些事でしかないと考えられていたように見えるということは留意しておいても良さそうです。

 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

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 世界の切手:リベリア
2018-08-14 Tue 02:21
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年8月8日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はリベリアの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      リベリア・地球と女神(1894)

 これは、1894年にリベリアで発行された三角切手で、リベリアを象徴する“自由の女神”と地球、その背後に船で働くクルメン人の若者が描かれています。

 クルメン人は、リベリア国内では、もともと首都のモンロヴィア付近からパルマス岬付近までの沿岸部を中心に居住していた先住民族集団、グレボ人の一派で、クルメン語を話します。かつてのクルメン人社会では、14-15歳くらいの若者は12-18ヶ月ほど船に乗る仕事をして、結婚資金を蓄えると故郷に帰って定住する習慣がありました。このため、ギニア沿岸周辺では、ほぼすべての商船にクルメン人の少年が乗っていたそうです。

 さて、『世界の切手コレクション』8月8日号の「世界の国々」では、1980年代のサミュエル・ドゥ独裁政権と内戦の時代についてまとめた長文コラムのほか、便宜置籍船、マノ川、ノーベル平和賞を受賞したエレン・ジョンソン・サーリーフの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のリベリアの次は8月8日に発売されたの8月15日号でのアルゼンチンの特集です。こちらについては、発行日の15日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 本田圭佑、実質的なカンボジア代表監督に
2018-08-13 Mon 00:31
 サッカーW杯ロシア大会の日本代表MFで、オーストラリアの強豪メルボルン・ビクトリー入りする本田圭佑は、きのう(12日)、プノンペンで記者会見を行い、サッカー・カンボジア代表の実質的な監督に就任(登録上の監督にはフェリックス・アウグスティン・ゴンザレス・ダルマスが就任)することを発表しました。ちなみに、本田は2016年以降、カンボジアのクラブの経営に参画し、1部チームの“ソルティーロ アンコールFC”を実質的に保有しています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      仏印・アンコールワット(1927)

 これは、1927年にフランス領インドシナ(仏印)で発行されたアンコール・ワットの切手です。

 カンボジアの北西部、トンレサップ湖北岸のシェムリアップの北側にあるアンコール遺跡群は、かつてのアンコール王朝の王都跡で、9世紀頃から建設が開始され、12-13世紀に絶頂期を迎えました。

 このうち、アンコール・ワットは、12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世(在位1113-45)によって、ヒンドゥー寺院として建立されました。ちなみに、アンコールは、サンスクリットの“ナガラ(都市)”に相当するクメール語で、ワットは“寺院”を意味しています。

 アンコール・ワットの境内は東西1500m、南北1300m、幅190mの濠で囲まれており、正門は西側に位置しています。伽藍は、主として砂岩とラテライトで築かれており、前庭の南北には経蔵と聖池があり、前庭の奥には三重の回廊に囲まれ5つの祠堂がそびえています。

 第1回廊の壁面には精緻な彫刻が施されていますが、その題材は、西面南がインド古典文学の『マハーバーラタ』および『ラーマーヤナ』の場面、南面西が施主のスーリヤヴァルマン2世の行幸風景、南面東が天国・地獄図、東面南が乳海攪拌(ヒンドゥーにおける天地創造神話)です。なお、東面北と北面には、16世紀頃のアンチェン1世の時代に彫られた、クリシュナ(ヒンドゥーの最高神の1人、ヴィシュヌの化身)が怪物バーナの討伐する場面の像があります。

 第1回廊と第2回廊の間には、かつては、信者から寄進された無数の仏像が置かれており、それゆえ“千体仏の回廊”を意味する“プリヤ・ポアン”と呼ばれていたが、ポルポト政権時代に破壊され、芝が生い茂っています。なお、第2回廊には彫刻などはなく、ここを抜けて急勾配の石段を登って第3回廊に入る構造になっています。

 第3回廊は中央と四隅に須弥山(古代インドの神話で世界の中心とされた山)を模したトウモロコシ型の祠堂がそびえ、本堂となる中央の祠堂の高さは65m。かつて本堂にはヴィシュヌが祀られていたとされていますが、現在は壁で埋められ4体の仏像が祀られています。また、第3回廊の壁面には数多くの天女アプサラスの像が数多く施されており、華を添えています。

 さて、アンコール王朝は、13世紀半ばからアユッタヤー朝の信仰を受けて次第に衰退。1431年頃には、ポニャー・ヤット王はこの地を放棄し、プノンペンに遷都しました。その後、1546-64年にアンチェン1世がアンコール・ワットの改修を行い、1586年にはポルトガル人のアントニオ・ダ・マダレーナが西欧人として初めて参拝。1632年には日本人の森本右近太夫一房も参拝しましたが、その後はシャムの勢力圏に置かれ、半ば忘れられた存在になっていました。

 その後、19世紀に入り、フランスがインドシナに進出すると、アンコール遺跡の“再発見”も進み、1860年、フランス人アンリ・ムーオはアンコール・ワットを広く西欧社会に紹介します。

 1907年、アンコール一帯も仏印の支配下に組み込まれると。フランス極東学院によって遺跡の調査と保存修復作業が進められるとともに西洋人観光客の誘致も進み、1953年のカンボジア王国の完全独立後も観光地として繁栄しましたが、1972年に内戦が勃発すると極東学院はカンボジアから撤退。さらに、1975年にポルポト派がカンボジア全土を支配すると、遺跡は“迷信”を助長するものとして破壊の対象となり、仏像の多くは頭部を破壊されて敷石に転用されました。

 1979年、ポルポト派は政権を追われたものの、彼らはアンコール遺跡を拠点に抵抗を続けたため、遺跡はさらに荒廃しますが、
内戦末期の1992年、アンコールの遺跡群はユネスコの世界遺産に登録され、翌1993年の内戦集結後、本格的な修復作業が始まり、周辺の地雷の撤去も進められて、現在は世界各国から参拝客・観光客が戻っています。


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 米西戦争終結120年
2018-08-12 Sun 00:54
 1898年8月12日に米西戦争が終結して、きょう(12日)でちょうど120年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・米西戦争関連書籍宣伝カバー

 これは、1898年10月、米フィラデルフィアからニューヨーク宛の郵便物で、米西戦争を題材にした『自由を求めるキューバの戦い』ならびに『対スペイン戦争』の2点を1冊にバインドした書籍の広告を印刷した封筒が使われています。

 1895年4月、スペインの植民地支配下にあったキューバで、ホセ・マルティを指導者とする独立戦争(1868~78年の独立戦争と区別して第2次独立戦争ということもあります)が勃発します。マルティは開戦早々に戦死しますが、その後もキューバ人による独立運動は粘り強く続けられ、マクシモ・ゴメス将軍ひきいる独立軍はスペイン軍をあと一歩のところまで追い詰めるところまでこぎつけました。

 一方、米国内では、キューバの独立戦争がはじまると、ハースト系およびピュリッツァー系の新聞社は、スペインの暴政をセンセーショナルに取り上げ、自由を求めて戦うキューバ人を救い、米国の権益(米国はキューバの砂糖農場に莫大な投資をしていた)を擁護するためにも、スペインを討つべしとの世論を形成していきました。

 こうした状況の中で、1898年2月15日、ハバナ港に停泊中の米戦艦メイン号が爆発し、将兵ら266名が亡くなります。ハースト系の新聞社は、事件をきっかけに、より強烈な反スペイン・キャンペーンを展開し、加熱するキャンペーン報道に煽られた米国の国内世論は「メーン号を忘れるな」のスローガンとともに沸騰。4月25日、米国は、キューバの独立闘争を支援し、戦後は独立派の革命政府を承認し、キューバを植民地化しないことが条件として(テラー付帯決議)、スペインに対して宣戦を布告し、米西戦争が勃発しました。

 戦争の帰趨は、7月1日、義勇騎兵隊の“ラフ・ライダーズ”連隊を含む約1万7000の米陸上兵力が、エルカネーの戦いとサンフアン高地の戦いでスペイン軍を一蹴。さらに、7月3日、スペイン艦隊がサンティアゴ湾外に脱出したところ、米海軍に捕捉・攻撃されて全滅したサンチャゴ・デ・キューバ海戦により、米軍の勝利がほぼ確定し、8月12日に交戦は停止されました。

 停戦後の12月10日には米西間の和平条約としてパリ条約が結ばれますが、同条約では、キューバは保護国化されて米軍政が始まり、参戦の大義名分であったキューバの独立は反故にされてしまいます。

 その後、1902年にキューバは“独立”を達成しますが、これに先立つ憲法制定の過程で、米国はキューバ制憲議会に対して、①キューバの独立が脅かされたり、米国人の生命・財産が危険にさらされたりした場合には米国は介入できる、②キューバは(米国以外の)外国から資金を借りてはいけない、③キューバ政府は(米国以外の)外国に軍事基地を提供したりしてはいけない、③キューバ政府は米軍事基地を提供する義務を負う(この結果、設置されたのが、現在も存在するグアンタナモ米軍基地です)、など8項目からなる付帯事項(提案した米議員の名前から、“プラット修正条項”と呼ばれている)を押し付けました。

 当然のことながら、キューバ側はこれに抵抗したものの、米国の強硬な姿勢の前に、最終的に、プラット修正条項を無条件で受けいれます。こうして、1902年5月、キューバ共和国が発足し、米国の市民権を持つエストラーダ・パルマが初代大統領に就任。キューバは実質的に米国の支配下に置かれることになりました。

 なお、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、フィデル・カストロと1959年の革命の背景として、米国の実質支配下に置かれていた時代のキューバについても、1章を設けてまとめています。諸般の事情により、作業が大幅に遅れており、心苦しい限りですが、刊行日や値段などの詳細につきましては、近々、このブログでもご案内できるようになると思いますので、今しばらくのご猶予のほど、よろしくお願いします。 


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 山の日
2018-08-11 Sat 00:32
 きょう(11日)は“山の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ゲバラ没後40年・ボリビア山中

 これは、2007年にキューバで発行された“チェ・ゲバラ没後40年”の記念切手のうち、ボリビア山中での野営地でのゲリラたちの集合写真を取り上げた1枚(右から3人目がゲバラです)です。

 1965年2月、「別れの手紙」を残してキューバを去ったゲバラは、新たな革命の地を求めてコンゴ動乱に馳せ参じ、約1年間、軍事政権に対抗する左翼反乱軍に参加しました。しかし、反政府勢力首脳部の腐敗と堕落に幻滅した彼は、“世界革命”の理想を抱えてコンゴから撤退し、チェコスロヴァキアを経てラテンアメリカに戻り、1966年11月、独裁政権下のボリビアに潜入。革命に向けての“アンデス計画”を展開します。

 アンデス計画は、(実際の地理的条件を無視すれば)ペルー、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルからほぼ等距離にあるボリビア北部の山岳地帯を拠点に、現地の農民を革命兵士に育て上げ、訓練施設を拡充し、ついで近隣諸国から送り込まれる志願者を革命兵士として教育し、その見返りとして資金的・物質的援助を得て、活動の範囲を広げていくという壮大なものでした。

 しかし、現地のボリビア共産党や先住民の農民は“よそ者”のゲバラに対して非協力的で、ゲバラらは山岳地帯でゲリラ戦を展開したものの勢力を拡大できないまま、1967年10月8日、ゲバラは戦闘でふくらはぎを負傷。ケブラダ・デル・ジューロ(ユーロ)渓谷で捕縛された後、ラ・イゲーラ村の小学校に移送され、翌9日、銃殺されました。最期の言葉は、銃殺をためらう政府軍兵士に対して発せられた「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!」でした。

 その後、ゲバラの遺体は、ヴァジェ・グランデ市内に運ばれ、しばらく晒しものにされた後、密かにヴァジェ・グランデの滑走路に埋められました。

 ゲヴァラの殺害から28年が経過した1995年、遺体の処理に関わった元軍人のバルガス・サリナス(事件当時の階級は大尉。最終的に将軍まで昇進)は、伝記作家のインタビューに答えて、ゲバラの埋葬場所を公表。当初、ボリビア陸軍はサリナス証言を否定し、サリナスに対して“元将軍”の地位と名誉を剥奪する処分を下しましたが、当時のボリビア大統領、ゴンサロ・サンチェスは、ゲヴァラの埋葬場所を観光資源化することを考え、遺体の捜索を約束します。

 こうして、1995年11月、キューバとアルゼンチンから専門家チームが現地に派遣され、発掘作業が開始。1年半後の1997年6月29日、遺骨が発見されました。

 発掘されたゲバラとキューバ人同志たちの遺骨は、それぞれ、木棺に収められた後、キューバ国旗に包まれ、ハヴァナへと空輸されました。遺骨は、ハヴァナ市内中心部の革命広場で盛大な帰還式典が行われた後、新たに建設されたサンタ・クララ霊廟の地下に収められ、現在に至っています。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』ですが、諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、大変申し訳ございません。刊行日や値段などの詳細につきましては、近々、このブログでもご案内できる要因あると思いますので、よろしくお願いします。


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 エクアドル独立記念日
2018-08-10 Fri 00:46
 きょう(10日)は、1809年8月10日、キトの革命評議会により、スペインからの自立を求める自治運動が始まったことにちなみ、エクアドルの独立記念日です。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エクアドル・アマゾン国家スローガン印

 これは、1941年6月14日、エクアドルの首都キトからブエノスアイレス宛に差し出された葉書で、隣国ペルーとの係争地としてのアマゾン地方の領有権を主張するスローガン“エクアドルはアマゾン国家だ”の紫印が押されているのがミソです。

 1822年、スペインの支配から解放されたエクアドルは“南部地区”として大コロンビア(現在のべネズエラコロンビア、エクアドル、パナマの全域と、ガイアナ、ブラジル、ペルーの一部に相当)に組み込まれました。しかし、大コロンビアは分裂し、1830年にエクアドルも独立を宣言。これに伴い、ペルーとの間でペデモンテ=モスケラ議定書が締結され、マラニョン=アマゾン水系が両国の国境と定められました。

 しかし、この国境線には両国ともに不満を持っていたため国境での小競り合いが続き、1936年になってようやく、当時の実効支配ラインを元にした国境が確定されます。

 ところが、その後も国境地帯では小規模な武力衝突が続いたため、1941年7月5日、マラニョン川以北のアマゾン地方の領有権を主張するペルーは、エクアドルが1936年の協定に違反して国境を侵犯したとしてエクアドルに宣戦布告します。今回ご紹介の葉書の紫印は、ペルーによる宣戦布告直前の1941年6月、情勢が緊迫する中で、アマゾン地域の領有権を主張するため、主として外国あての郵便物に押されたものです。

 さて、両国の国境紛争は、ペルー軍が大挙してサルミーヤ川を渡河し、エクアドルのオロ県に進むと、係争地域の全てにおいてエクアドル軍を破り、エクアドルのオロ県とロハ県の一部分(国土全体のおよそ6%)を占領。さらに、ペルー海軍はグアヤキル港を封鎖してエクアドル軍の補給を絶つなどして、戦局の帰趨はて数週間で決し、戦闘も事実上終了しました。

 その後、1941年1月、日米開戦を受けてリオデジャネイロで米州外相会議が開催されると、これに合わせて、米国、ブラジル、アルゼンチン、チリの四ヵ国の調停により、エクアドルとペルーの和平協定として「リオ議定書」が調印されます。

 同議定書により、エクアドルはアマゾン地域の20-25万平方キロの領土を喪失。このため、当時のカルロス・アロヨ・デル・リオ政権は窮地に追い込まれ、1944年5月、軍、共産党、社会党を巻き込んだ民衆蜂起により崩壊し、1939年の大統領選挙でアロヨに敗れた後、クーデターを企てて失敗し、コロンビアに亡命を余儀なくされていた元大統領のホセ・マリア・ヴェラスコ・イバーラが大統領に就任しました。

 その後、ペルー=エクアドル間の国境はしばらく落ち着いていましたが、第二次大戦後にアマゾン地域には金や原油が埋蔵されている可能性が高いことが判明すると、エクアドルはリオ議定書の無効を宣言し、1978年と1981年、議定書に定められた国境を侵犯。さらに、1995年1月26日、エクアドル軍がペルー軍駐屯地を襲撃したことでセネパ戦争が勃発します。

 これに対して、ペルー軍は侵攻してきたエクアドル軍を撃退し、同年2月28日、休戦協定として「モンテビデオ宣言」が結ばれました。さらに、1998年10月、ブラジリア議定書が調印されて、エクアドルはアマゾン地域を放棄することを承諾し、独立以来の国境紛争はようやく終結しました。


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 ボリビア大統領のメダル盗難
2018-08-09 Thu 14:36
 ボリビアの大統領が式典での正装時に着用するメダルが、7日(現地時間)、盗難に遭ったものの、翌8日、ラパス中心部の教会玄関先に捨られているのが発見され、無事に回収されたそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

     ボリビア・バリエントス大統領

 これは、1975年にボリビアで発行された独立150年の記念切手(歴代大統領の正装姿の肖像を取り上げたセットになっています)のうち、1964-69年に大統領を務めたレネ・バリエントス・オルトゥーニョを取り上げた1枚です。ボリビア国旗の3色のサッシュとともに、今回、盗難事件に遭ったメダルもしっかりと切手に描かれています。

 ボリビアでは、1941年に結成された民族革命運動(MNR)が、主要輸出品目である錫の利権を、一般国民が財閥や外国資本から奪還することを訴えて支持を拡大していました。そ翌1942年12月、カタビ鉱山で軍により労働者700人が虐殺される“カタビの虐殺”が起きると、MNRは鉱山労働者組合連合を背景に勢力を拡大し、1951年5月の選挙で勝利を収めました。

 ところが、この選挙結果を認めない軍部はクーデターを起こしてMHRを帆非合法化したため、1952年4月、MNRは鉱山労働者や国家警察部隊とともに、事実上の首都であるラパス(憲法上の首都はスクレ)で武装蜂起し、ヴィクトル・パス・エステンソーロが大統領に就任しました。

 これが、いわゆるボリヴィア革命です。

 エステンソーロ政権下では、インディオに選挙権や公民権が付与された新憲法が採択されたほか、国策として、サンタクルスを中心とする東部の低地地帯の開発が進められました。また、1953年8月2日には、農地改革が実施され、貧農に対する農地の分配も行われています。しかし、その一方で、MNRの内部は、革命後、右派のエルナン・シーレス・スアーソ(副大統領)、中間派のエステンソーロ、左派のフアン・レチン(鉱山労働者組合連合の創立者)の三巴に事実上分裂。革命後の混乱で治安は悪化し、連日、銃撃による死傷者が発生しました。

 第1次エステンソーロ政権は1956年までで任期が満了し、大統領の連続再選を禁止した憲法の規定に従い、1956-60年にはスアーソが大統領に就任。1960年、ふたたび、エステンソーロが政権に復帰しました。

 エステンソーロは、政権基盤を安定させるため、空軍の実力者であったバリエントスを副大統領に抜擢しましたが、1964年5月、バリエントスはアルフレード・オバンド・カンディーアとともに軍事クーデターを起こしてエステンソーロを追放。バリエントスは自ら“軍事評議会”議長となり、軍事政権を樹立し、ボリビア革命後のMNR体制を崩壊させます。

 バリエントスは、先住民のケチュア語を理解したため、農民層を支持基盤に取り込んで権力基盤を固めたうえで、1966年7月、大統領選挙を実施。自らが大統領となり、鉱山労組を中心とする反対勢力や左派勢力に対する取締りを弾圧しました。

 また、1966年11月、革命家のチェ・ゲバラが、ボリビア北部の山岳地帯を拠点に“アンデス計画(現地の農民を革命兵士に育て上げて訓練施設を拡充→近隣諸国から送り込まれる志願者を革命兵士として教育→その見返りとして資金的・物質的援助を得て、活動の範囲を拡大、というプロセスを循環させていくプロセス)”を展開すると、元ナチス親衛隊中尉で、CIAの庇護下でボリビアの軍事顧問をしていたクラウス・バルビーの支援も受けて掃討作戦を行い、1967年10月、ケブラダ・デル・ジューロ(ユーロ)の山中でゲヴァラを逮捕し、そこから7kmのラ・イゲーラで殺害しました。

 ゲバラの処刑により南米における武装ゲリラ闘争は沈静化したものの、その後もボリビアの政情不安は収まらず、バリエントスは、1969年4月、農民を懐柔するために金を配りに行く途中、搭乗していたヘリがカニャ・ドン・アルケ峡谷で墜落し、亡くなりました。

 さて、今回盗難に遭ったメダルは、平素はラパスの中央銀行に保管されており、式典があるたびに大統領の元に届けられることになっています。

 現職のエボ・モラレス大統領は6日に行われた独立記念日の式典でメダルを着用。その後、大統領は8日に中部コチャバンバで行われる軍事パレードを閲兵する予定になっていたため、メダルは中央銀行には戻されず、保管担当の軍将校が7日夜、現地に運部という段取りになっていました。ところが、将校の搭乗予定だった飛行機が遅れたため、将校は 「何軒か売春宿に入ってから自分の車を止めた場所に戻ると、国章が付いたかばんが持ち去られていた」(本人談)そうです。

 その後、窃盗犯はメダルを、ラパス中心部の教会の玄関先に捨てて逃走。大手テレビ局ユニテルに匿名の通報があり、メダルは発見され、回収されました。なお、8日の軍事パレードには、大統領はメダルを着用せずに望んだそうです。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、バリエントス政権下のボリビアでゲバラが展開していた“アンデス計画”と彼の最期について、1章を設けてまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 “ナチスばあちゃん”に禁錮2年6月
2018-08-08 Wed 01:17
 ナチス・ドイツによるホロコーストを何度も否定しては有罪判決を受け続け、“言論の自由”を理由に控訴していた“ナチスばあちゃん(Nazi Oma)”ことウルスラ・ハーバーベック被告(ドイツ人・89歳)の裁判で、ドイツ最高裁判所は、ホロコーストを否定する行為は言論の自由には該当せず、“治安を脅かしている”との裁定を下し、禁錮2年6月を言い渡しました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツRSHA工作(赤印)

 これは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の存在を外部に秘匿するための、いわゆる“RSHA郵便工作”によって差し出された葉書です。RSHA郵便工作で差し出された葉書に関しては、葉書のフォーマットや押されている印にバラエティがありますが、今回は、差出人の住所氏名記入欄が左上にあり、赤印が押されたモノをご紹介してみました。

 1942年1月に「ユダヤ人問題の最終解決」を策定して以降、ナチス・ドイツは本格的にユダヤ人絶滅政策に着手していくことになりますが、彼らは、自ら行っているユダヤ人の大量虐殺の事実が明るみに出て、国際社会の指弾を受けることについてはできる限り避けたいと考えており、そのためのさまざまな偽装工作が行われました。

 その代表例が、ベーメン・メーレン保護領のボヘミア地方に置かれていたテレージエンシュタット(チェコ語名テレジーン)収容所でした。

 テレージエンシュタット収容所は、国際赤十字の視察調査を受け入れるための施設という色彩が強かったため、他の収容所より外観が丁寧に整えるなど、収容者を優遇していることを装う風が整えられていましたが、それでも、1941年11月24日から1945年4月20日までの間、総計14万人以上のユダヤ人が収容され、そのうち3万3000人以上が亡くなっています。この数字は、他の収容所よりは多少はましだったのかもしれませんが、それでも、過酷な状況であったことには変わりありません。

 このように、外部世界に対するショウ・ウィンドウとしてテレージエンシュタット収容所を作ってまで、自分たちの残虐行為を秘匿しようとしていたナチス・ドイツにとっては、最大規模の絶滅収容所である、ビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所は、その存在さえ、外部には知られたくないものでした。

 このため、アウシュヴィッツ・ビルケナウの存在そのものの秘匿工作の一環として、1942年8月以降、“RSHA郵便工作”と呼ばれる偽装工作が開始されます。ちなみに、RSHAとは、ナチス親衛隊の12本部のうち、ドイツ本国およびドイツ占領地の敵性分子を諜報・摘発・排除する政治警察機構の司令塔であった“国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt der SS)の略称です。

 RSHA郵便工作では、新たにアウシュヴィッツに到着した収容者に手紙を書かせる際、通常の収容者の葉書のように注意事項が印刷されてない用紙を支給し、差出人の住所としては強制収容所の施設名として一般に使われる“Konzentlationslager”ではなく、労働者が集団生活を行っているという意味で“Arbeitslager”が用いられています。

 なお、今回、有罪判決が確定した“ナチスばあちゃん”は、「アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は絶滅収容所ではなく、強制労働所だった」と長年にわたって主張しており、そのことが今回の判決につながったわけですが、仮に、同収容所が純然たる“労働キャンプ(Arbeitslager)”であったとするなら、今回ご紹介しているようなRSHA郵便工作が行われる必要はないわけで、やはり、ホロコーストそのものを全否定しようとするその主張には無理があるでしょう。

 さて、RSHA郵便工作の一環として書かされた葉書は、収容者の健康状態が良好である、食事や居住環境などに不満はない、労働面でも厚遇されているといった類のもので、収容所におけるユダヤ人迫害を否定し、ナチスの“人道的措置”をアピールするものとなっています。この種の葉書を受け取ったユダヤ人の中には、同胞からの手紙の内容を信じて、アウシュヴィッツに行けばゲットーの中にいるよりも生活状況が改善されると思わされて、自らアウシュヴィッツ行を希望してしまった者さえ少なからずあったと報告されています。

 RSHA郵便工作では、主として、テレージエンシュタット収容所からビルケナウ収容所に移送されてきたばかりの収容者にこうした手紙を書かせていました。上述のように、テレージエンシュタットの収容者の待遇は、他の収容所に比べれば比較的良好でしたから、その経験の上に、ビルケナウでも屋内の軽作業に従事させてから手紙を書かせれば、「(他の人々の劣悪きわまる悲惨な状況に比べれば)自分たちは良い条件の下で働いている」との手紙の文面は、あながちウソではないとの収容所側の強弁も成立しないわけではないかもしれません。しかしながら、そうした手紙を書き終えた後、収容者たちの生活環境は一挙に暗転するのが常でした。

 さて、RSHA郵便工作の葉書はビルケナウからいったんベルリンに送られた後、そこで検閲を受けるとともに、いまだ収容所に移送されていない受取人の住所氏名をチェックしたうえで、返信時の注意を記した印を押され、国家保安本部によって6ペニヒ切手を貼られた後、ベルリン市内のシャルロッテンブルク2郵便局から発送されています。

 葉書に押されている印の文面は「葉書についての返信はドイツ語で、ベルリン市N65、イラニッシェ通り2番地のドイツ帝国ユダヤ人協会を通じてのみ受け付ける(Rückantwort nur auf/ Postkarten in deutscher Sprache/ über die/ Reichsvereinigung der Juden in Deutschland./ Berlin N65, Iranische Straße 2)」となっていますが、実際に、このルートで収容所の収容者に届けられた郵便物は確認されていません。なお、ドイツ帝国ユダヤ人協会は、オーストリアとベーメン・メーレン保護領を除くドイツ本国の“全ユダヤ人”が強制的に加入させられた組織で、1939年7月4日に創設され、国家保安本部が管轄していました。

 今回ご紹介の葉書は、そうした郵便工作によってビルケナウの収容者がプラハ宛に差し出した葉書で、葉書が書かれたのは1944年3月25日、シャルロッテンブルク郵便局の消印は同年5月10日です。

 なお、アウシュヴィッツと郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 バナナの日
2018-08-07 Tue 01:25
 きょう(7日)は、8(バ)・7(ナナ)の語呂合わせで“バナナの日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      コスタリカ・労働社会保険省100年(部分)

 これは、2008年にコスタリカが発行した“労働・社会保険庁100年”の記念切手で、同省庁舎に掲げられている壁画のうち、コスタリカの主要輸出品、バナナとコーヒーを運ぶ労働者を取り上げた部分の切手です。ちなみに、切手は4種連刷のシート形式となっており、その全体像はこんな感じです。

      コスタリカ・労働社会保険省100年(全体)

 パナマ地峡からコスタリカにバナナが導入されたのは1871年のことでした。同年、コスタリカ政府は、首都サンホセの北西19キロの地点にあるアラフエラから、サンホセを経由し、カリブ海岸のプエルト・リモンまでを結ぶ鉄道建設の契約をヘンリー・メイグスと結びます。メイグスは甥のマイナー・キースに事業を手伝わせ、建設工事中の1873年、労働者向けの安い食料として鉄道沿線でバナナの栽培を本格的に開始。1877年にメイグスが亡くなるとキースが跡を継ぎます。鉄道は1890年に全区間が開通したが、これを機にキースのバナナ取引会社はコスタリカ経済に対する影響力を強め、その支配下でのコーヒーとバナナのモノカルチャーがコスタリカの経済基盤となりました。

 一方、1898年の米西戦争でキューバの富豪デュモア家のバナナ・プランテーションが壊滅的な打撃を蒙ると、1899年、キースのバナナ取引会社とアンドリュー・プレストンのボストン・フルーツ・カンパニーが合併して“ユナイテッド・フルーツ・カンパニー”が設立され、デュモア家の農場を引き継ぎます。これとあわせて、ユナイテッドフルーツ社はキューバの砂糖産業に参入し、数年以内に砂糖モノカルチャーだったキューバ経済を掌握しました。

 以後、ユナイテッド・フルーツ社は、中央アメリカ・コロンビア・エクアドル・西インド諸島の広大な土地をおさえ、プランテーションで栽培させた砂糖やバナナ、パイナップルなどを独占的に生産・販売しただけでなく、関連産業や通信・電力・輸送なども掌握し、これらの地域を経済的に支配します。このため、たとえば、1954年には、グアテマラでアルベンス政権が大規模な農地改革を行い、ユナイテッド・フルーツ社の土地所有を制限した際には、同社は米国政府と結託してアルベンスを攻撃し、失脚に追い込んだほどでした。

 その後、ユナイテッド・フルーツは1970年にユダヤ系ポーランド人のイーライ・M・ブラックに買収され、“ユナイテッドブランド”に改名。 さらに、1990年には社名をチキータ・ブランドに改称し、現在に至っています。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、革命の背景となったユナイテッド・フルーツ社の中南米支配についても、キューバのみならず各国の事情についてまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

 
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 ロンボクで大規模地震
2018-08-06 Mon 10:13
 きのう(5日)、インドネシアのロンボク島でマグニチュード6.9の大規模な地震が発生。国家災害対策庁の報道官は、けさの時点で、82人が死亡、数百人が負傷したと発表しました。また、この地震により、隣接するバリ島でも被害が発生しています。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タマン・マユラ絵葉書・絵面

      タマン・マユラ実物

 これは、1904年8月、オランダ領東インドからオランダ宛に送られた絵葉書、ロンボク島マタラムの中心部にある旧王宮、タマン・マユラの入口が取り上げられています。ついでなので、2012年にロンボクを訪れた際、ほぼ同じ構図で撮影した写真も貼っておきました。ちなみに、絵葉書の裏面はこんな感じです。

      タマン・マユラ絵葉書・裏面

 もともと、ロンボク島にはササク人が住んでいましたが、17世紀に入ると、島の西部はバリ人の、東部はスラウェシ(セレベス)のマカッサル人の支配下に入り、18世紀中ごろまでにはバリ人がマカッサル人を駆逐して全島を支配するようになりました。

 マタラムの中心部に残るタマン・マユラは、こうした状況の下で、1744年、バリに割拠していた8王朝のひとつ、カラガスン王朝のチャクラヌガラ王が建造したもので、“マユラ”は孔雀の意味です。これは、かつての宮殿の敷地内に、スマトラの王から贈られた孔雀が闊歩していたことに由来します。また、人口の湖に浮かぶ正殿は王側の会議場や裁判所として用いられており、その構造から“水の宮殿”とも呼ばれています。

 ロンボク西部はバリに隣接していることもあって、バリとの交流も盛んだったことから、バリ人の支配者とササク人は比較的良好な関係にありましたが、東部ではバリ人に対する反感が根強く、しばしば反バリ人の反乱も起きていました。

 こうした背景の下、1891年、バリ島内での抗争の余波で、ロンボクのバリ人支配者であったアナック・アグン・グデ・ヌグラ・カランガスンがササク人に対して数千人の兵士を提供するよう求めたところ、ロンボク東部で反バリの反乱が発生。このため、バリのカランガスン王朝はロンボクに1万を超える大軍を送り込み、バリ人とササク人の間で激しい戦闘が行われました。

 ロンボクでの反乱が起きる以前から、オランダはバリ島への進出を加速させており、すでに、1846年には、前年(1845年)に島内のブレレン王とカランガスン王が同盟を結んでオランダに対決する姿勢を見せたため、難破船の引き上げを口実に、バリ北部に軍隊を上陸させ、ブレレンとジュンブラナを制圧。その後もバリを攻撃し、1849年、バリ北部を制圧しシンガラジャに植民地政庁を設置するなど、バリの植民地化を進めていました。ちなみに、オランダがバリ島を完全に制圧したのは、1908年のことで、それまで、バリ側はオランダに対して抵抗を続けています。

 こうした背景を踏まえて、1894年2月、ロンボクのササク人はバリ人と戦うため、“敵の敵”であるオランダに支援を要請。これを受けて、バリ以東への進出を進めていたオランダはササク人を支援してバリ人を制圧することを決定し、シンガポールからバリへの武器の輸入をストップさせました。

 しかし、武器の禁輸措置は徹底されず、マタラムのバリ人はオランダの降伏勧告を受け入れなかったため、1894年7月、オランダはマタラムに出兵。オランダ=ササク連合軍に対して、マタラムのバリ人は激しく抵抗し、8月25日に行われたタマン・マユラの攻防戦では、連合軍側に500名を超える戦死者が生じ、P.P.H.ファン・ハム将軍も捕えられて処刑されました。

 その後、オランダ軍はいったん撤退し、兵員・装備を増強したうえで11月にマタラムを再攻撃。同月末までにバリ人勢力を殲滅し、ロンボク全島を制圧して、オランダ領東インドに編入しました。

 ちなみに、タマン・マユラ正殿の入口には、もともと、獅子とヒンドゥーの神像、大砲が左右に配置されていましたが、オランダによる占領後、バリ人の再度の抵抗を恐れたオランダ側によって撤去されてしまいました。このため、今回ご紹介の絵葉書の写真では大砲は見えません。しかし、独立後に本来の姿に復元されたため、2012年の写真では奥の方に大砲が見えます。次いでですので、下に大砲と神像の部分を撮影した写真を貼っておきます。

      タマン・マユラ大砲

 ロンボク島といえば、僕にとっては、日本占領時代に太陽加刷切手が発行された場所として現地を訪ね、そのいきさつを拙著『蘭印戦跡紀行』の一章としてまとめたことがあり、思い出深い場所です。それだけに、先月29日に続いて、1週間で2度の大規模地震が発生しているのは非常に気がかりです。亡くなられた方の御冥福と、負傷された方の一日も早い御快癒、そして、一日も早い被災地の復興を心よりお祈りしております。

 
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 切手歳時記:甲子園
2018-08-05 Sun 00:32
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      第50回全国高等学校野球選手権大会(連刷)

 これは、1968年8月9日に発行された“第50回全国高等学校野球選手権大会”の記念切手です。

 “夏の甲子園”こと全国高等学校野球選手権大会のルーツは、1915年8月、大阪朝日新聞社主催、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の豊中グラウンドで行われた“第1回中等学校優勝野球大会”です。

 明治の末以降、郊外から都市部への通勤・通学が増えると、彼らを対象に民間の郊外鉄道が生まれました。鉄道会社は、通勤・通学客が激減する休日対策として、沿線に娯楽施設を設け、需要の掘り起こしに努めます。かつて、プロ野球チームのオーナーに、近鉄、国鉄、南海、阪急など鉄道会社が多かったのは、野球がそのための重要なコンテンツだったからです。

 豊中での野球大会も、そうした発想の下、箕面有馬電気軌道が大阪朝日新聞に持ちかけて実現に至ったものですが、肝心のグラウンドが手狭だったため、1917年、会場は阪神電鉄が所有する鳴尾運動場に移されます。

 さらに、武庫川の改良工事で、支流の枝川・申川が埋め立てられると、その河川敷跡を購入した阪神電鉄は、旧枝川・旧申川の分流点があった付近に大野球場を建設。野球場は、1924年、すなわち、十干十二支の始まりにあたる甲子の年に完成したことから、甲子園球場と命名され、同年開催の大会から使用されました。

 以後、“夏の甲子園”は風物詩として定着し、1941-45年の戦争による中断を挟んで、2018年8月5日、第100回大会が開幕します。なお、学制改革に伴い、現在の“全国高等学校野球選手権大会”となったのは1948年のことで、それから20年後の1968年の第50回大会に際しては、優勝旗を背景にした投手と、記念の人文字を描く記念切手も発行されました。(今回ご紹介の切手です)

 ところで、切手に描かれた球児たちは“甲子園の土”を記念に持ち帰ったはずですが、そもそも、“甲子園の土”を持ち帰る習慣がいつ始まったのかは、定かではありません。

 打撃の神様・川上哲治は、熊本工業の投手として出場し、準優勝した1937年、他の選手の真似をして“甲子園の土”をポケットに入れ、母校の練習場にまいたというから、戦前から、すでに、一部で“甲子園の土”を持ち帰ることがあったようです。

 終戦直後の1946年には、準決勝で敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中高)の選手達が、次回また返しに来るという意味で足下の土を持ち帰ったとの記録があります。ただし、当時の甲子園球場は米軍が接収しており、大会は阪急西宮球場で行われたから、これは“甲子園の土”ではありません。

 ちなみに、文献上の記録では、1949年、準々決勝で敗れた小倉北の投手、福嶋一雄がホームベース後方で無意識に足元の土を摘んでポケットに入れたのを、帰郷後、大会役員からの速達で気付き(本人よりも先に自宅に届いたらしい)、ユニフォームから取り出して自宅の植木鉢に入れたのが“甲子園の土”を持ち帰った最初の例とされています。

 しかし、“甲子園の土”を一躍有名にしたのは、1958年、復帰前の沖縄から初出場した首里の選手たちが、1回戦で敦賀(福井)に敗れ、甲子園の土を持ち帰ろうとしたものの、検疫の関係で沖縄に持ち帰れなかったというエピソードでしょう。

 “外国”の土を持ち込もうとすれば、検疫で没収・処分されるのは万国共通で、当時の沖縄の係官は申し訳なさそうに「規則なので…」といって没収したそうです。しかし、この一件は、沖縄の悲劇を象徴するものとして大々的に報じられ、“甲子園の土”が広く知られるようになるとともに、沖縄の祖国復帰運動を加速させる契機になったともいわれています。

 
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 ジンバブエ大統領選、現職当選
2018-08-04 Sat 10:24
  ジンバブエの選挙管理委員会は、きのう(3日)、7月30日投票の大統領選挙で、現職のムナンガグワ大統領が勝利したと発表しました。ただし、焦点だった自由・公正な選挙の実施には疑問が残り、野党勢力は選挙の不正を主張。首都ハラレでは治安部隊と野党支持者らが衝突し、軍の発砲で死者も出ています。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)

      ローデシア・グレートジンバブエ遺跡

 これは、ローデシア時代の1970年に発行された“グレート・ジンバブエ遺跡”の切手です。

 グレート・ジンバブエ遺跡はジンバブエ高原の南端に位置しており、周囲の集落を含めると東西1.5km、南北1.5kmの推定面積約2平方キロという南部アフリカ最大の石造建築物群で、世界遺産にも登録されています。なお、“ジンバブエ”は、現在のジンバブエ国家で多数派を占めるショナ人の言語、ショナ語で“(王宮を含意する)石の家”の意味で、現在の国名は、グレート・ジンバブエ遺跡に由来するものです。

 遺跡は、アクロポリス(丘上廃墟)、谷の遺跡、240mの花崗岩の壁で囲まれた王宮跡(グレート・エンクロージャー)から構成されており、切手に取り上げられている塔は高さ9mで王宮跡にそびえていますが、その目的は定かではありません。

 現在のザンビア、ジンバブエ、マラウイに相当する地域は、英国支配下の1953年、ローデシア・ニヤサランド連邦として統合されました。しかし、連邦の経済政策が白人入植者の集中する南ローデシア偏重であったため、黒人民族主義者の不満は根強く、内部の対立も激しくなって1963年に連邦の維持は不可能となり、翌1964年7月にニヤサランドがマラウイとして、同年10月には北ローデシアもザンビアとして独立しました。

 一方、連邦の解体以前から、南ローデシアでは、ソ連の支援を受けたジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)や中国の支援を受けたジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)が独立闘争を展開していましたが、1964年、植民地政府首相に就任したイアン・スミスは白人による支配体制の維持を主張して黒人の抵抗運動を徹底的に弾圧します。

 これに対して、英国は周辺国との足並みをそろえて、黒人を含めた参政権を保障したうえでの独立を南ローデシアにも求めましたが、白人政権はこれを拒否。1965年、英本国から派遣されていた総督を追放し、白人中心のローデシアの独立を宣言しました。

 当然のことながら、スミス政権に対しては黒人の抵抗運動が組織されたましたが、ローデシア政府は国民民主党(NDP)の活動を禁止したのをはじめ、黒人による独立運動を徹底的に弾圧。これに対して、国際社会はローデシア政府を非難し、1966年以降、国連は経済制裁を科しましたが、南アフリカ共和国やポルトガル領モザンビークはローデシア政府を支援します。これに対して、中ソの支援を受けた黒人が武装闘争を展開し、ローデシアは内戦状態に突入しました。

 当初、ローデシア紛争は白人政府軍が圧倒的に優位でしたが、1975年にモザンビークが独立して反政府側を支援するようになったころから形勢は次第に逆転。その後、米国の圧力を受けた南アフリカ大統領、バルタザール・フォルスターが内戦の調停に乗り出し、1978年3月3日、スミス政権と、アベル・ムゾレワ司教ら黒人穏健派指導者の間で停戦協定が調印されました。

 協定の結果、暫定政権樹立を準備するための議会選挙が実施されることになり、暴力を放棄した唯一の黒人政党・統一アフリカ民族会議(UANC)が勝利しました。しかし、スミス政権はこの結果を認めず、居座りを図ったため、1979年9月、英国政府の呼びかけで、ジンバブエ・ローデシアの全政党の参加によるランカスター・ハウス協定が調印され、100議席中、20議席を白人の固定枠とすることで合意が成立、1980年2月の総選挙を経て、1980年3月4日、ムガベが初代首相に就任。4月18日、黒人国家・ジンバブエが正式に独立を達成しました。

 
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 韓国カルト、フィジーで400人監禁暴行
2018-08-03 Fri 04:26
 韓国の警察当局は、1日、南太平洋のフィジーで信者約400人を監禁し、儀式と称して暴行していたとして、カルト教団“グレースロード教会”の創始者、シン・オクジュほか3人の教団指導者が仁川国際空港に到着したところを逮捕しました。というわけで、フィジーに関連して、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      フィジー・エクスプレス(1ペニー)

 これは、1870年にフィジー・エクスプレス社が発行した1ペニー切手です。

 1860年代までのフィジー諸島では、1858年に英領事館がきわめて限定的な郵便サーヴィスを抵抗したものの、長らく英植民地当局による郵便制度は実施されておらず、主としてシドニーを往来する商船などに託して、不定期に手紙が送られているだけでした。

 こうした状況の下、1869年9月、オヴァラウ島のレヴカで新聞『フィジー・タイムス』を創刊したG.L.グリフィスは、かつての領事館郵便の制度では、新聞の配達には、あまりにも信頼性に乏しいと考え、1870年11月、『フィジー・タイムス』の配達を行うとともに、一般の郵便需要を満たすことを目的として“フィジー・タイムス・エクスプレス”を創業しました。

 フィジー・タイムス・エクスプレスの郵便取扱所は、1870年11月1日の創業時で9ヵ所でしたが、同年11月5日と1871年2月8日にはそれぞれ2ヵ所、6月14日には1ヵ所が新たに設置され、最終的に14ヵ所が設けられました。その内訳は、レヴカの本局のほか、ヴィティ・レヴ島に6ヵ所、ヴァヌア・レヴ島に4ヵ所、タヴェウニ島に2ヵ所、カンダヴ島とヴァヌア・バラヴュー島に各1ヵ所でした。

 フィジー・タイムス・エクスプレスの切手は、グリフィスの新聞印刷所で印刷され、シートは6×4の24面です。ただし、シートの中には異なった額面が混在しています。すなわち、最初のシート構成は、横1段の6枚ごとに額面が異なっており、上から6ペンス、1シリング、1ペニー、3ペンスとなっていました。その後、2回目のシート構成は、上の3段は最初と同じですが、最下段の左3枚が3ペンス、右3枚が9ペンスという構成に変更されています。

 フィジー・タイムス・エクスプレスの経営は順調で、利用者も次第に増加していきましたが、そのことを不快に思った英植民地当局はこれを廃止させるべく、郵便局長を任命し、官営郵便に乗り出します。これを受けて、フィジー・タイムス・エクスプレスの郵便事業も1872年には終焉を迎えました。


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 マチュ・ピチュ行き鉄道で追突事故
2018-08-02 Thu 01:28
 おととい(7月31日・現地時間)、ペルーのクスコ近郊から世界遺産のマチュ・ピチュ遺跡に向かっていた列車が別の列車に追突し、外国人観光客ら30人以上がケガをしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ペルー・マチュピチュ発見75年

 これは、1986年にペルーが発行した“マチュ・ピチュ発見75周年”の記念切手で、遺跡の全景が取り上げられています。

 マチュ・ピチュは、ケチュア語で“年老いた”の意味で、もともと、“年若い峰”を意味するワイナ・ピチュへと連なる標高2795メートルの尾根のことです。遺跡は、山裾からはその存在を確認できないことから“空中都市”とも呼ばれており、建設された年代は石段の組み方などから1450年頃、皇帝パチャクテクの時代に離宮や宗教施設として建設されたと考えられています。また、人が住んでいたのはそれからおよそ一世紀の間だったと推定されています。インカ帝国の滅亡後は、ながらく忘れられた存在となっていましたが、1911年7月24日、米国の探検家ハイラム・ビンガムによって発見され、その存在が世界的に知られるようになりました。

 革命家チェ・ゲバラは、ブエノスアイレス大学医学部在学中の1952年3月、友人のアルベルト・グラナードとともに南米大陸を縦断している過程で、クスコとマチュ・ピチュに立ち寄り、大いに感動したことを日記に書き記しています。アルゼンチンの白人上流社会出身のゲバラにとって、ペルーは「スペイン人による征服以前の時代の思い出が滲み出ている」場所として、“ラテンアメリカ”を意識する契機となり、翌1953年9月にマチュ・ピチュを再訪した際には、「南アメリカの人民よ、過去を再征服せよ」とその感動を記しています。

 また、ゲバラは、青年期の2度の南米大陸縦断の旅からキューバでのゲリラ戦争を経てボリビアで非業の死を遂げるまで、その日記が世界記憶遺産に登録されるほどの名文家として知られていますが、その文筆家としての社会的デビューは、1953年11月、雑誌『シエテ』に寄稿したマチュ・ピチュについての文章でした。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、このあたりの事情についても詳しくまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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