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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 マケドニアで国名改称の国民投票
2018-09-30 Sun 01:39
 旧ユーゴスラビア構成国のマケドニアで、きょう(30日)、国名問題で長年対立していた隣国ギリシャと合意した“北マケドニア共和国”への改称について、国民投票が実施されます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      マケドニア加刷(1944)

 これは、1944年、ドイツ占領下で発行された“マケドニア”加刷切手です。国名表示が“マケドニア”となっている切手としては、これが最初の1枚となります。

 現在のマケドニア共和国は、旧ユーゴスラヴィア連邦を構成していたマケドニア(社会主義)共和国が連邦から分離・独立するかたちで誕生しましたが、本来の地域概念でいう“マケドニア”の範囲は、古代のアレクサンダー大王の故地として、同国のみならず、ギリシャ、ブルガリアの3国にまたがり、さらに、アルバニア領マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド、コソヴォ領ゴーラ、セルビア領プロホル・プチニスキをも含むものとされています。

 このため、広義のマケドニアの領域をめぐっては、歴史的にギリシャ、ユーゴスラヴィア、ブルガリアの3国が領有権を主張してきましたが、第二次大戦中の1941年4月19日、枢軸陣営に参加していたブルガリアはマケドニアの大部分とセルビア東部の一部地方を占領。これらの土地はギリシャ領マケドニアおよび西部トラキアとともに5月14日にブルガリアの領土に編入されます。

 1942年以降、独ソ戦の戦局は次第にドイツ不利に傾き、ブルガリア国内でも連合国との講和を求める世論が高まったため、1943年春、ブルガリアは米国との和平交渉を開始。しかし、ブルガリアの無条件降伏を求める米国に対して、ブルガリアはヴァルダル・マケドニアと南ドブルジャを含む領土に固執したため交渉は決裂します。

 こうした中で、1944年1月以降、米英によるブルガリア空爆が開始。ブルガリアはソ連に米英との仲介を依頼したものの、9月5日、ソ連がブルガリアに宣戦布告し、領土内への侵攻します。こうした中で、9月9日には左派のクーデターが発生し、ブルガリアはドイツに宣戦布告しますが、これに対して、ドイツ軍はブルガリア軍の5個師団から成る第1占領軍団と第5軍を武装解除しました。

 今回ご紹介の切手は、その過程で、1944年9月8日から11月13日まで、ドイツ占領下のマケドニア地域でブルガリア切手を接収して、“マケドニア”の地名を加刷して発行されたものです。なお、現代のマケドニア国家に相当する地域は、1945年にはユーゴスラヴィアに統合されています。

 さて、広義のマケドニアのうち、現在の国境でいうと、南部の面積にして約50%がギリシャ領であり(ちなみに、マケドニア共和国の領域は広義のマケドニアの北西部の約40%です)、中心都市がギリシャのテッサロニキであることにくわえ、古代マケドニア王国がギリシャ系の国であったのに対して、現在のマケドニア共和国の多数派民族がスラブ系であることもあり、ギリシャ側は、本来のマケドニアはギリシャであると主張。マケドニア共和国に対して“マケドニア”の国名を変更するように求め続けていました。

 特に、1993年の国連加盟申請の際には、ギリシャの強い反発により、マケドニア共和国は“マケドニア旧ユーゴスラビア共和国”という暫定名で加盟するということで妥協が図られました。しかし、これに納得しないギリシャは、1994年2月にマケドニアに対する経済封鎖を実施。海を持たない内陸のマケドニア共和国は大きな打撃を受け、国旗のデザインを変更(1991年の独立時に定められた国旗は、古代マケドニアのヴェルギナの星を用いていました)するとともに、憲法を改正してギリシャ領のマケドニアに対する領土的野心がないことを明言するなどして、1995年に経済制裁を解除させています。

 しかし、その後も、ギリシャは“マケドニア”の国名変更を求め、マケドニア共和国がこれに抵抗するという構図の下、EUやNATOへの加盟も国名問題の解決までは保留という状態が続いてきました。

 こうした中で、2017年にマケドニアでゾラン・ザエフ政権が発足すると、同政権はNATOやEU加盟を目指すため従来の強硬姿勢を改め、これをギリシャ側も好感。2018年1月には両国の外相会談で国名改称に向けた作業部会の設置が決定され、翌2月、北マケドニア共和国、上マケドニア共和国、ヴァルダル・マケドニア共和国、マケドニア・スコピエ共和国の4案が提案されました。そして、2018年6月12日、マケドニアが国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意が成立。今回の国民投票はこれを受けて実施されるものです。

 ただし、マケドニアの国内法では、国名改称には、国民投票で有効投票の過半数の賛成を得ることが必要とされているものの、最大野党のマケドニア社会民主同盟が合意を非難しているほか、ジョルゲ・イヴァノフ大統領は承認を拒否する方針を表明しており、改称が実現されるかどうかは微妙な情勢と見られています。

 ちなみに、わが国の外務省は、国連加盟の国名に倣い“マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国”を正式名称としており、“マケドニア共和国”との呼称は認めていません。ただし、メディアでは、この正式名称ではなく、“マケドニア(共和国)”ないしは“旧ユーゴ・マケドニア共和国”などと呼ばれることが多いようです。ただし、在京のギリシャ大使館がそのたびに抗議をしているかどうかは定かではありませんが…。


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 ミュンヘン協定80年
2018-09-29 Sat 01:28
 第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型とされるミュンヘン協定が1938年9月29日付で調印されてから、今日(29日)でちょうど80周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ハンガリー・チェコスロヴァキアからの失地回復

 これは、1938年、ミュンヘン協定に伴い、第一次大戦後、チェコスロヴァキアに割譲した失地を回復したことを記念して発行した切手で、ハンガリー王国の象徴としての“イシュトバーンの王冠”の切手に、記念の文字が加刷されています。

 第一次大戦でのオーストリア=ハンガリー二重帝国の敗北が避けられなくなった1918年10月28日、チェコスロヴァキアが分離独立を宣言。これに対して、10月31日にブダペストでも暴動が発生し、11月16日にハンガリー第一共和国が樹立され、ハプスブルク帝国は崩壊します。

 1920年6月、ハンガリーと戦勝国の講和条約としてトリアノン条約が締結され、ハンガリーは主権を回復しましたが、周辺諸国に領土の3分の2を割譲。その過程で、同年3月1日、ハンガリー国民議会(共和国議会から改称)は、二重帝国時代の領土の正統性を主張するため、“聖イシュトヴァーンの王冠の地”を統治する権利を有する国として、“ハンガリー王国”の成立を宣言しました。ただし、同国は国王が空位の“国王なき王国”でした。

 ハンガリー王国は、1930年代以降、世界恐慌の中で、ヴェルサイユ体制の打破を唱えるナチス・ドイツがいち早く経済危機を脱して国力を充実させると、領土回復の好機ととらえてドイツに接近。こうした背景の下、いわゆるズデーテン問題が浮上します。

 現在のチェコ共和国の外縁部にあたるズデーテン地方は、チェコ人の支配するボヘミア王国の時代の東方植民以来、ドイツ系住民の多い地域になっていました。その後、ハプスブルク家の支配を経て、1918年、チェコスロヴァキアが独立を宣言すると、ズデーテン地方の帰属をめぐっては、チェコスロヴァキア政府が同政府による実効支配の追認を求めたのに対して、ドイツ系住民がチェコスロヴァキアへの編入に強く反対。ヴェルサイユ講和会議では、米国が民族自決の観点からドイツへの編入を主張したのに対し、フランスは安全保障の観点からチェコスロヴェキアの強化を主張。最終的に、フランスの主張通り、ハプスブルク帝国解体後の戦後処理を定めたサン・ジェルマン条約によって、ズデーテン地方はチェコスロヴァキア領となり、310万人のドイツ系住民はチェコスロヴァキアにおける“最大の少数民族”となりました。

 これを不満とするズデーテン地方のドイツ系住民の一部は、ズデーテンの自治権を要求。さらに、隣国のドイツがナチス政権下で経済恐慌から脱して経済力を回復すると、コンラート・ヘンラインらのズデーテン・ドイツ人党は、「ズデーテンのみならず全ボヘミア・モラヴィア・シレジア地方のドイツへの編入」を目標に掲げ、ドイツの支援を要請します。

 これを受けて、ヒトラーも“ズデーテン問題の解決”を訴えるようになり、1938年3月の独墺合邦後、「ドイツとチェコの障害になっているのはドイツ人の民族自決権を認めようとしないチェコ側の態度である」、「事態をこのまま放置しておけばヨーロッパ中がチェコの頑迷の巻き添えを喰らうことになる」などとチェコスロヴァキアを恫喝し、欧州内では、ヒトラーが対チェコスロバキア宣戦を行うという観測が強まりました。このため、1938年9月29-30日にいわゆるミュンヘン会談が行われ、対独宥和政策を取る英国のネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認。同年10月1日にはドイツによる軍政が施行されました。

 ミュンヘン会談を失地回復の好機ととらえたハンガリーは、スロヴァキアとカルパティア・ルテニアの“返還”をチェコスロヴァキアに要求します。しかし、ドイツがズデーテン地方を獲得したのに対して、ハンガリーの要求は住民投票によるとされたため、ハンガリーは軍を動員して圧力をかけ、11月2日、カルパティア・ルテニアとスロヴァキア南部の割譲を合意させました。今回ご紹介の切手はこれを記念して発行されたものです。

 なお、ミュンヘン会談の前後、ヒトラーは「ズデーテンラントは我々の最後の領土的要求であり、チェコスロヴァキアの独立を侵害するつもりはない」と繰り返していましたが、実際には、1939年3月、チェコスロヴァキア国家は解体され、ドイツはチェコ地域の主要部を併合して、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領(ボヘミア・モラビアのドイツ語読み)を設置。ハンガリーはカルパト・ウクライナに侵攻し、同全土を占領、併合しました。 


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 世界の切手:コート・ディヴォワール
2018-09-28 Fri 00:31
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年8月29日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はコートディヴォワール(と一部トーゴ)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      コート・デイヴォワール・ボワニ大統領追悼

 これは、1994年に発行された初代大統領、ウーフェ=ボワニの追悼切手シートで、左から、①コート・ディヴォワールの建設者(建国の父)、②農民の大統領、③平和と信仰の人、という3つの点から彼を讃える切手が収められています。

 1960年のコート・ディヴォワール独立とともに、初代大統領に就任したウーフェ=ボワニは、外交的には、親仏・親西側の立場を明確にするとともに、権威主義体制の下で経済成長を目指す開発独裁体制を志向していました。

 たとえば、コート・ディヴォワール民主党(PDCI)による一党独裁体制の下、1963年には共産主義者が粛清され、翌1964年には前最高裁長官のボカが大統領暗殺計画に関与していたとして自殺に追い込まれています。PDCIは、①国家統一・一体化、②社会正義、③寛容・友愛、④安定、⑤対話・平和、⑥イヴォワール人の幸福達成、を基本理想とし、これを“ウーフェ主義”と命名。副大統領の制度はあっても任命されず、国会議長の権限も徐々に縮小されました。

 一方、経済的には、主要産業であるカカオをはじめ、コーヒー、木材、パーム、綿花、ゴムなどの生産と輸出を国家が管理する体制を構築。アパルトヘイトには反対するものの、南アフリカ共和国との対話や経済関係も否定しない独自路線を採ることで、1960年代から1970年代にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を達成。アフリカの新興独立国の多くが経済的に低迷を続ける中で、その国家運営は“イヴォワールの奇跡”と称賛されました。

 しかし、1980年代以降、カカオの国際相場の下落により、経済は徐々に悪化していきます。さらに、生活の向上した国民の間には、PDCIの一党独裁に対する不満も高まりました。

 このため、1990年10月、初めて複数候補による大統領選が実施。このときはウーフェ=ボワニが圧勝して7選したものの、翌11月の総選挙では、イヴォワール人民戦線(FPI)など野党もわずかだが初議席を獲得しています。

 ウーフェ=ボワニは大統領在任中の1993年、現職のまま亡くなったため、憲法の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のコナン・ベディエが第2代大統領に就任しましたが、以後、政局は次第に不安定化。1999年12月には軍によるクーデターが発生し、2002年9月には政府軍と反政府勢力との対立から、反政府勢力が国土の北部・西部を支配下に置き、事実上国を二分する内戦が勃発しました。こうして、“イヴォワールの奇跡”と謳われた往時の繁栄は完全に霧消しました。

 さて、『世界の切手コレクション』8月29日号の「世界の国々」では、コート・ディヴォワール近現代史についての長文コラムのほか、第一次内戦後の国連の平和維持部隊のカバー、同国を象徴する動物としてのゾウ、主要産業のカカオの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のコートディヴォワール(と一部トーゴ)の次は、9月12日発売の同19日号でのマリ(と一部タンザニア)の特集、9月19日発売の同26日号でのコスタリカ(と一部ニカラグア)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 カープが3連覇
2018-09-27 Thu 05:20
 プロ野球のセントラル・リーグは、広島東洋カープが昨年に続き、3年連続で優勝しました。というわけで、カープにちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      魚介シリーズ・こい

 これは、1966年2月28日に発行された魚介シリーズの“こい”の切手です。

 魚介シリーズの企画は、1964年10月頃、郵政省部内では、“お祭シリーズ”に続くシリーズ企画についての打ち合わせが行われた際、芸能、昆虫、果物、魚、(第2次)文化人、日本風俗、童話、国宝、文化財、乗物、美術工芸等の候補の中から採用されました。企画の原案では、コイに関しては、“コイ(またはニシキゴイ)”とされていましたが、1965年1月の郵政審議会専門委員会での討議の結果、“日本国内または近海において人々に親しまれ、かつ漁獲高も多いもの”という基準で絞り込みが行われた結果、“コイ(またはフナ)”に変更され、イセエビ、タイとともに、昭和40年度中に発行することが決められています。

 切手の原画制作を依頼された堅山南風は、当初、多忙と健康状態を理由に原画作成の依頼を断っていましたが、郵政省の重ねての説得にようやく応諾。1965年夏の早朝、井の頭公園で写生した池のコイをもとに2枚の原画を作り、本人の納得した一枚を郵政省に提出しています。

 切手の題材となったコイは、日本全国に分布しており、昔から移植が盛んなため、自然分布の範囲は明らかではありません。名前の由来は、体が肥えている、味が肥えている(旨い)等からきているともいわれています。湖、池、沼、流れの緩やかな川の淵など、砂泥底のところで生活し、冬場は深場に集まります。長短二対のヒゲには触覚と味覚があり、エサを探すのに使われます。日本や中国では、古くから食用魚として利用されてきました。

 今回の“こい”の初日印適応局は、長野県佐久市がコイの養殖で有名なことにちなみ、同地の野沢局が指定されました。これを受けて、長野県佐久市では、収集家で市役所の財政課長であった鈴木正夫を中心に、1966年1月11日、市役所内に“コイ切手発行記念行事推進委員会”を結成。切手発行前日の2月27日から3日間、市が中心になって、県、市、観光協会、市商工会、野沢局、佐久養殖漁業組合等の共催により、記念式典(郵政大臣による切手贈呈式を含む)、コイと切手の展覧会他のイベント開催、花火・提灯・記念アーチなどによる街路装飾など、各種の記念行事が行われました。その経費は総額50万円だったと報告されています。

 また、切手発行日には、野沢局に初日印の郵頼が十数万通殺到しましたが、その押印処理には、9日間にわたり、佐久市役所の職員のべ60名が動員されており、佐久市側が今回の切手発行を観光開発のための重要な契機と位置づけていたようすがうかがえます。

 なお、切手のデザインに関しては、水産学の専門家としての立場から、東京水産大学名誉教授の海老名謙一が「(通常、36枚前後あるはずの)側線鱗が23枚しかないのは問題だ」と指摘して、話題となりました。


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 無事、帰国しました。
2018-09-26 Wed 00:41
      マカオ展・会場にて

 作日20:00頃、無事、マカオから帰国いたしました。アジア国際切手展<MACAO 2018>の会期中、現地では、コミッショナーの山崎文雄さんご夫妻、審査員の井上和幸さんご夫妻ならびに大原敏正さんご一家、同アプレンティスの榎沢祐一さんをはじめ、出品者の池田健三郎さん、石澤司さん、伊藤純英さん、大場光博さん、北村定従さん、吉田敬さん、和田文明さん、ブース出展の冨田信太郎さん、山本誠之さん、JPSの落合宙一さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。

 おかげさまで、いろいろと実りの多い滞在となりました。冒頭の写真は、今回の自分の出品作品 Postal History of Palestine 1995-2001 (パレスチナ郵便史 1995-2001)の前で撮影したものです。

 さて、今回の切手展に関しては、マカオ郵政は、3月1日に第1次、会期初日の9月21日に第2次、会期中の9月24日に第3次の記念切手を発行していますが、このうち、第2次の切手を会場内限定販売の葉書に貼って、初日印を押したのが下の画像です。

      マカオ・アジア展(2018)2次

 第2次の記念切手は印字式で、台切手にはパステル調の筆致で表現した中央郵便局が描かれていますが、このデザインは、出品目録やIDカード、市内の幟旗など、さまざまなものに取り上げられていました。ちなみに、作品の展示・撤去をお手伝いした際のIDカードはこんな感じです。

      マカオ・アジア展(2018)ID

 さて、今年は、この後、11月にタイ・バンコクでの世界切手展<Thailand 2018>が予定されています。バンコク展では審査員兼コミッショナーを仰せつかっており、関係の皆様にはいろいろとお世話になることがあるかと思われますが、引き続き、よろしくお願いいたします。
 

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 <MACAO 2018>終了
2018-09-25 Tue 01:13
 早いもので、9月21日からマカオ・コタイ地区のマカオのザ・ヴェネティアン・マカオ会議展覧会センター(澳門威尼斯人會議展覧中心)で開催されていたアジア国際切手展<MACAO 2018>は、きのう(24日)16:00、無事にすべての日程を終了し、日本からの出品作品の撤去作業も完了しました。きょうは、早朝のフェリーでマカオを出国し、往路とは逆に、香港経由で成田に向かいます。というわけで、無事の帰国を願って、マカオから香港宛の郵便物の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マカオ・バイセクト葉書

 これは、1911年4月20日、マカオから香港宛の葉書で、ポルトガル国王カルロスの肖像切手を描く4アヴォス切手を半裁して2アヴォス切手とした使用例になっています。

 1910年10月1日、ポルトガル本国では、ブラジル大統領の来訪がきっかけとなって、共和主義者による大規模なデモが発生。これに呼応して、テージョ川河口に停泊する軍艦の反乱が起こると、同3日、軍部は反乱の鎮圧を拒否し、リスボン周辺を占拠しました。さらに、4日、軍艦が王宮への砲撃を開始たため、国王マヌエル2世と王族は英国へ亡命し、5日、共和国臨時政府が発足しました。

 いわゆる10月5日革命です。

 革命によって王制が打倒されたことを受けて、10月21日、革命政府は王制時代の切手に“REPUBLICA(共和国)”と加刷したものを発行することを決定。しかし、革命後の混乱もあって加刷切手の製造には時間がかかり、リスボンで製造された加刷切手がマカオに到着したのは翌1911年9月のことでした。

 この間、ポルトガル本国からの切手の供給が途絶え、一部の額面の切手の在庫が底をつき始めたため、4アヴォスおよび10アヴォスの切手を半裁して2アヴォスおよび5アヴォスの切手として流通させることが行われました。今回ご紹介の葉書はその1例です。なお、加刷切手の到着後も、王制時代の切手は有効であったため、王制時代の切手と共和国加刷の切手が同時に貼られた郵便物も存在しています。なお、このあたりの事情につきましては、機会がありましたら、拙著『マカオ紀行』もご覧いただけると幸いです。

 さて、今回の切手展では、コミッショナーの山崎文雄さんご夫妻、審査員の井上和幸さんご夫妻ならびに大原敏正さんご一家、同アプレンティスの榎沢祐一さんをはじめ、出品者の池田健三郎さん、石澤司さん、伊藤純英さん、大場光博さん、北村定従さん、吉田敬さん、和田文明さん、ブース出展の冨田信太郎さん、山本誠之さん、JPSの落合宙一さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 なお、成田到着は日本時間の20時過ぎの予定です。内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。
 

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 中秋節快樂 萬事如意!
2018-09-24 Mon 01:11
 きょう(24日)は中秋節です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マカオ・アジア展(2018)3次

 これは、現在開催中のアジア国際切手展<MACAO 2018>を記念して、昨日(23日)発行された小型シートで、会期最終日のきょうが中秋節にあたっていることから、中秋節をイメージしたデザインとなっています。

 切手に取り上げられているのは、おそらくロウ・リム・イオック庭園(盧簾若公園)ではないかと思います。

 ロウ・リム・イオック庭園の土地は、もとは農地でしたが、1870年、世界遺産にも指定された盧家大屋の主、盧九こと盧華紹が購入。後に長男の盧簾若が建築家の劉吉六を招いて蘇州式の庭園と洋館を建設しました。その後、盧家の没落により、庭園と屋敷をマカオ政庁が一括して購入。1938年に建てられた邸宅部分は培正中学の事務棟(行政楼)になり、庭園部分は1974年からロウ・リム・イオック庭園として一般に公開されています。

 さて、現在、マカオでは中秋シーズンの最中ということで、たとえば、街中では、この時季ならではの風景があちこちでみられます。たとえば、セナド広場にはこんな感じの電飾が施されていました。

      セナド広場・2018中秋

 また、新馬路を挟んで広場に面した民政總署もこんな感じです。

      マカオ・民政総署中秋夜景

 写真では見づらいのですが、入口の上には、“花好月圓”の文字も見えます。(下は、文字がはっきり見える昼間の画像)

       マカオ・民政総署2018中秋

 また、定番の月餅のほか、中秋節に所縁の深いウサギをかたどったパンも、期間限定で売られていました。

       マカオ・ウサギパン

 中国の伝承では、3人の神仙がみすぼらしい憐れな老人に姿を変えて、それぞれキツネ、サル、ウサギに食べ物を乞うたところ、キツネとサルは老人に食べさせる食べ物を持っていたものの、老人に与える食べ物を何も持っていなかったウサギは自ら火中へ飛び込み、自分の身を老人に捧げました。これを見た天帝はウサギを月宮に上げて“玉兔”にし、嫦娥に付き添って薬作りを手伝わせたとされています。ここから、神話や伝説における月とウサギのつながりが生まれました。

 2010年に拙著『マカオ紀行』を上梓してから、はや8年が経ちました。今回マカオに来て、切手展の合間にいろいろと歩き回ってみると、拙著の刊行から変化が生じた部分や、以前には気付かなかった部分もいろいろと見えてきて、遠からずアップデート版を作れれば…との思いを強くしています。
 

★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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 ホセ・マルティ廟
2018-09-23 Sun 04:53
 きょうは秋のお中日。マカオ滞在中の僕は今年も行きそびれてしまいましたが、お墓参りの日です。というわけで、毎年恒例、“お墓”の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ホセマルティ廟

 これは、1953年、キューバが発行した“ホセ・マルティ生誕100周年”の記念切手のうち、サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・イフィエネ墓地内にあるホセ・マルティ廟が描かれた1枚です。

 1892年4月10日、キューバ革命党を創立したホセ・マルティは、メキシコで武器を満載した船3隻を得た後、1895年1月30日、ドミニカ共和国のサント・ドミンゴに寄港し、第一次独立戦争の英雄、マクシモ・ゴメス・イ・バエス将軍と合流します。経済危機に陥ったキューバ各地で独立闘争が激化したのを確認すると、3月25日、マルティとゴメスはジャマイカのモンテクリスティで、事実上の独立宣言ともいうべきモンテクリスティ宣言を発表。4月1日、ジャマイカを出発し、ハイチを経て、4月11日、キューバ島東部のプライータ海岸に上陸し、第二次独立戦争が始まりました。

 マルティらはキューバ各地で闘争を繰り広げましたが、兵力に勝るスペイン軍を相手に苦戦。そして、5月19日、ドス・リオス付近での戦闘に際して、「あなたは独立後に必要な人物なのだから、野営地に留まってほしい」とのゴメスの制止を振り切って進撃したところ、スペイン植民地軍の銃撃に遭い、戦死しました。

 その後、マルティの遺体は、当初、スペイン側によって共同墓地に投げ入れられましたが、革命軍は彼の遺体を回収するために、スペイン軍と熾烈な戦いを繰り返して奪還に成功。後に、オリエンテ州第一管区総司令官の指示により、サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・イフィエネ墓地に埋葬されました。切手に描かれた墓廟は、1951年6月30日に完成し、高さ24メートル。墓廟の前には、常に、護衛の兵士3人が立っています。

 なお、ホセ・マルティについては、主に、フィデル・カストロに与えた影響などを中心に、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 ヴィクトリア湖で大規模転覆事故
2018-09-22 Sat 06:36
 アフリカ最大の湖、ヴィクトリア湖で、20日(現地時間)、数百人の乗客を乗せたフェリー“ニエレレ号”がタンザニア領ウケレウェ島の港近くで転覆し、この記事を書いている時点で少なくとも136人が死亡。今後死者はさらに増える可能性もあるそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      タンザニア・ブコバ号遭難1周年

 これは、1997年にタンザニアが発行した“ブコバ号遭難1周年”の切手で、遺体の身元確認を行う遺族が描かれています。

 アフリカ最大、6万8800平方キロの面積を有するヴィクトリア湖は、タンザニア、ウガンダ、ケニアの3国にまたがり、湖水部分もこの3国によって分割されています。

 湖は古くから沿岸諸民族の交易ルートとなっていましたが、1901年、英国のウガンダ鉄道が西岸のキスムに到達したことで、鉄道と接続した沿岸部の農作物の輸出ルートが開け、湖上交通が盛んになりました。さらに、鉄道はさらに支線を延ばし、1931年には北岸のカンパラにまで到達。また、南岸においてもタンガニーカ鉄道が1928年にムワンザまで到達し、湖から外部への交通網が整備されました。現在、ヴィクトリア湖は国際水域として、沿岸3国の交通の要となっており、キスムやカンパラ、ムワンザ、ブコバなどを基点として、湖畔の各町村や湖に浮かぶセセ諸島、ウケレウェ島への便が発着しています。

 今回ご紹介の切手の題材となっているブコバ号の事故は、1996年5月21日、定員430名のところ(正確な乗客名簿がなかったため、概数で)1000名を超える乗客を乗せ、湖西岸のブコバを出航し、ムワンザに向かっていたところ、ムワンザ沖で沈没したもので、タンザニア政府の公式発表で死者894名という大惨事となりました。事件後、タンザニア政府は国を挙げて3日間の喪に服すことを発表。後に、生き延びた船長のほか、フェリーを運営していたタンザニア鉄道会社の幹部等が逮捕・起訴され、有罪判決を受けました。

 その後も、ヴィクトリア湖では定員オーバー状態でフェリーが運航されることも多く、転覆などの事故が後を絶ちませんでしたが、今回のニエレレ号の事故でも、積み荷の過積載に加え、定員101名のところ、300人以上(4-500人との報道もあります)が乗っており、ウケレウェ島の港への到着を前に、乗客が船の片側に集中したことでバランスを崩したのが原因と見られています。

 あらためて、亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。


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 きょうから<MACAO 2018>
2018-09-21 Fri 00:39
 きょう(21日)から24日まで、マカオのザ・ヴェネティアン・マカオ会議展覧会センター(澳門威尼斯人會議展覧中心)で、アジア国際切手展<MACAO 2018>が開催されます。というわけで、きょうはこの切手です。

      マカオ・アジア展(2018)1次

 これは、ことし(2018年)3月1日、マカオ郵政が発行した<MACAO 2018>の記念切手シートで、セナド広場中央郵便局を背景に、屋台の職人が描かれています。

 もともと、マカオの中央郵便局(郵政總局)はマカオ半島東の旧海岸道路・南灣大馬路沿いにありましたが、1918年に新馬路が開かれ、こちらがメインストリートとなると、1929年、民政総署前に3階建ての新局舎(現在の局舎)が建てられました。局舎は現在なお現役で、1階では過去の記念切手や切手のカタログ、関連書籍なども販売しているほか、記念スタンプも押印可能です。

 ちなみに、切手シートに描かれているマカオ中央郵便局とその周辺については、拙著『マカオ紀行』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 * オマケ
 中央郵便局の新馬路に面した外壁には切手展の幟が立っていました!

      マカオ中郵・切手展の幟


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 マカオに到着しました
2018-09-20 Thu 00:05
 きのう(19日)の午後、無事にマカオに到着しました。というわけで、まずは無事の到着を祝して、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      廣東→マカオ収信所

 これは、1835年、廣州からマカオ宛の郵便物で、マカオ到着時に料金を徴収したことを示す“Boat Office/ 10 cents/ Macao”の印が押されています。

 英国が中国から茶を買い、その代金をインドのアヘンで支払う、英中印の三角貿易は18世紀から行われていましたが、19世紀に入ると大幅に拡大し、1820年代にはアヘン輸出の急増によって中国の銀が英国へ流れ始めます。こうした対清貿易の拡大に伴い、英国は東アジアとの通信を本格的に扱うべく、1834年に広州とマカオに収信所(郵便局)を設置し、本国やインドとの通信の取扱を開始しました。今回ご紹介しているのも、そうした収信所発着の郵便物の一例です。

 さて、アジア国際切手展<MACAO 2018>は明日(21日)からのスタートで、きょうは午前中に作品の搬入作業があります。このブログでも、随時、会場の様子等をご紹介していくことになると思いますが、よろしくお付き合いください。


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 マカオに行ってきます!
2018-09-19 Wed 00:10
 私事で恐縮ですが、マカオで開催されるアジア国際切手展<MACAO 2018>に出品者として参加するため、きょう(19日)午前中の飛行機で羽田を発ち、香港経由でマカオに向かいます。今回は、現代郵趣部門にPostal History of Palestine 1995-2001 (パレスチナ郵便史 1995-2001)を出品していますので、その作品中のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ・カザフスタン宛(2011)

 これは、2001年12月29日、ヨルダン川西岸のアイザリーヤからカザフスタン宛の書留便で、2018年8月18日に発行された『千夜一夜物語』の切手のうち、天駆ける“黒檀の馬”の物語を取り上げた650フィルス切手と、“ベツレヘム2000”の500フィルス切手が貼られています。今回のマカオ行には、黒檀の馬ではなく、キャセイ航空を使うのですが、これから現地へ飛んでいくぞという気分で、取り上げてみました。ちなみに、カバーの郵便料金は、イスラエル経由でのCIS諸国宛のエアメール基本料金400フィルス+外国宛書留料金750フィルスの合計1150フィルスとなっています。

 なお、パレスチナ自治政府と郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 さて、今回の切手展の会期は21日からなのですが、その前に、作品の搬入・設営作業がありますので、本日9時15分に成田を発って香港に入り、フェリーでマカオに向かいます。展覧会の会期は24日までで、作品をピックアップした後、現地時間の25日にマカオを出て香港経由で帰国の予定です。

 今回の旅行期間中も、ノートパソコンを持っていきますので、このブログも可能な限り更新していく予定です。ただ、なにぶんにも海外のことですので、無事、メール・ネット環境に接続できるかどうか、不安がないわけではありません。場合によっては、諸般の事情で、記事の更新が遅れたり、記事が書けなかったりする可能性もありますが、ご容赦ください。 
 

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 海自潜水艦、カムラン湾寄港
2018-09-18 Tue 03:53
 きのう(17日)、海上自衛隊の潜水艦“くろしお”が、1973年9月21日の日越国交樹立から45周年を記念し、南シナ海に面するヴェトナム中部の軍事要衝カムラン湾に寄港しました。南シナ海で中国との領有権問題を抱えるヴェトナムとの連携を示し、中国を強く牽制することが目的です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェトナム・チュンオンサ諸島の植物

 これは、2016年にヴェトナムが発行した“チュンオンサ諸島の植物”の切手です。

 ヴェトナム語でいうチュンオンサ諸島は、南シナ海南部の無数の岩礁・砂州などから構成される“諸島”で、日本では英語のスプラトリー諸島、中国語の南沙諸島などの名称が一般的です。ただし、“諸島”の名とは裏腹に、最大の“太平島”でも陸上面積は約0.5 平方キロで、国連海洋法条約上の “島”とみなせる領域は一つもありません。

 南沙諸島をめぐっては、1907年に日本漁船が長島(現・太平島)付近で操業を開始。その後、1929年に日本の業者が硫黄の採掘を始めたものの、世界恐慌の影響を受けて間もなく採掘は中止されました。そこへ、1933年、当時、インドシナを支配していたフランス軍がここを占拠しましたが、その後、日本が奪還して台湾・高雄市に編入。第二次大戦中の1944年には日本海軍の潜水艦基地がおかれていました。

 こうした経緯から、日本敗戦後の1945年12月、中国国民政府(以下、国府)は広東省に“南沙管理処”を設置したのに対して、1946年10月、フランス軍は西鳥島および長島に上陸。その後、この地域の帰属をめぐり中仏協議が行われる予定でしたが、第一次インドシナ戦争が勃発したこともあり、協議は行われないままに放置されました。

 1951年、サンフランシスコで対日講和条約が調印されると、わが国は台湾および澎湖諸島、新南群島(スプラトリー諸島)および西沙群島(パラセル諸島)の領土権を正式に放棄しましたが、放棄後、それらの領域がどの国に帰属するか未定のままとされました。

 こうした中で、1956年10月22日、南ヴェトナム政府が、南シナ海の諸島とバリア省の一部と併せ“フックトゥイ省”を設置しましたが、中国は突如、パラセル諸島(西沙諸島)に侵攻して東半分を占領。西半分を領有する南ヴェトナムと対峙するようになります。さらに、ヴェトナム戦争末期の1974年1月には、中国はパラセル諸島西半部にも侵攻し、南ヴェトナム軍を排除して同諸島を完全に占領してしまいました。

 ヴェトナム戦争の時代、北ヴェトナムは中国からの援助を受けているという建前もあって、中国による南ヴェトナム領への侵攻に対しては事実上黙認せざるを得ませんでした。

 しかし、ヴェトナム戦争が終結後、1979年の中越紛争を経て、1988年、中国はパラセル諸島に2600メートル級の本格的な滑走路を有する空港を完成させて南シナ海支配の戦略拠点とし、同年3月、ヴェトナム支配下のチュンオンサにも侵攻。両国海軍は、ジョンソン南礁(中国名:赤瓜礁)で衝突し、ここで勝利をおさめた中国が、赤瓜礁(ジョンソン南礁)、永暑礁(ファイアリー・クロス礁)、華陽礁(クアテロン礁)、東門礁(ヒューズ礁)、南薫礁(ガベン礁)、渚碧礁(スビ礁)と名付けられた岩礁または珊瑚礁を支配するようになりました。

 このように、南シナ海の島々の領有権問題はヴェトナムにとって中国による侵略の脅威を象徴するものとなっており、この問題をめぐり、しばしば、ヴェトナム国内反中デモが発生していることは周知の通りです。


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 敬老の日
2018-09-17 Mon 02:31
 きょう(17日)は“敬老の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ヘミングウェイ生誕100年

 これは、1999年にキューバが発行した“アーネスト・ヘミングウェイ生誕100年”の記念切手で、ヘミングウェイの肖像と、彼の代表作『老人と海』を思わせる小舟と巨大なカジキが描かれています。

 『老人と海』は、1951年に執筆、1952年に出版された作品で、ヘミングウェイはこの作品により、1954年のノーベル文学賞を受賞したと評価されています。

 キューバで暮らす老漁師のサンティアゴは、85日にわたる不漁の後、1人で小舟に乗ってメキシコ湾に出かけると、久しぶりに大物のカジキがかかり、4日間の長期戦の末に獲物を仕留めます。ところが、カジキが大きすぎて舟に引き上げられなかったため、舟の横に縛りつけて港へ戻ろうとしたものの、今度は魚を狙う鮫に幾度となく襲われ、ようやく漁港にたどりついたとき、仕留めたカジキは鮫に食い尽くされ、ほとんど骨だけになっていました。

 物語のあらすじをごく簡単に要約するとこんな感じになりましょうか。

 さて、ヘミングウェイは、キューバ・ハバナ郊外のサンティアゴ・デ・パウラの邸宅、“フィンカ・ビヒア”で人生の3分の1にあたる約22年間を過ごしており、『老人と海』を含む主要作品の大半はキューバで執筆されました。

 キューバを愛した彼は、革命戦争の混乱期こそキューバを離れたものの、1959年1月に革命が達せられると、再会第一便の飛行機でキューバの飛行場に降り立ち、キューバ国旗にキスをして「俺はヤンキーじゃないんだ」との第一声を発しています。

 なお、ヘミングウェイがフィンカ・ビヒアで『老人と海』の執筆に勤しんでいた、革命以前のキューバについては、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 マレーシア・デイ
2018-09-16 Sun 01:05
 きょう(16日)は、1963年9月16日にマレーシア連邦が結成されたことにちなむ“マレーシア・デイ”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マレーシア連邦成立FDC

 これは、1963年9月16日に発行された“マレーシア連邦成立”の記念切手の書留初日カバー(シンガポール差出)です。

 第二次大戦以前、英国支配下のマレー半島は、①ペナンマラッカシンガポールを中心とした直轄の海峡植民地、②スルターンを通じて間接統治を行うマレー連邦州(ペラ、スランゴール、ヌグリ・スンビラン、パハン)と、③マレー連邦への加盟を拒否したスルターンの非連邦州(ジョホールプルリスクランタンクダー、トレンガヌ)に分かれていました。

 第二次大戦中、これらの地域は日本軍に占領されましたが、戦後、日本軍が撤退すると、英国は植民地支配の再開にあたって、シンガポールを除くマレー半島をすべてマラヤ連合として統合しようと考えたが、旧蘭印との統合は全く考えていませんでした。また、このときのマラヤ連合の構想では、スルターンの権限を縮小し、各州に配置される英国人知事が行政を担当することとし、中国系やインド系を含むすべての人種に平等な市民権を与えるなどの方針となっていました。

 ところが、人口的には多数派を占めていながら、経済的には少数派の華人の後塵を拝し続けてきたマレー人は、英国の提案した“平等”に猛反発。このため、一応、1946年にマラヤ連合は発足したものの、英国は翌1947年にマラヤ連合との間でマレー人の特権を認める連邦協定を結び、1948年にマラヤ連邦が発足。その後、英国との交渉で独立の確約を得たトゥン・アブドゥル・ラーマン初代首相は、1956年2月20日、マラッカでマラヤ連邦の独立を宣言し、各種の手続きを経て、1957年8月31日、マラヤ連邦の独立が正式に承認されました。

 こうして発足したマラヤ連邦は、旧宗主国である英国の支援の下、シンガポールとボルネオ島北部の英領地域(サラワク、ブルネイ、ノース・ボルネオ)を併合したマレーシア連邦の成立を目指します。

 このうち、シンガポールはマレー半島の重要な商業・貿易拠点であるとともに、当時は華人の間で左派勢力が強く、単独で独立した場合には共産政権が誕生し、マレー半島でゲリラ戦を展開していたマレー共産党を勢いづかせる可能性があったため、シンガポールの共産化を防ぐためにも、マレーシア連邦に取り込んでおく必要がありました。

 その一方で、マラヤ連邦が華人の多いシンガポールのみを併合した場合、新国家の人口は華人が過半数になるため、ボルネオ島北部もあわせて併合することで、マレー人の優位を確保する必要もありました。さらに、ボルネオ島は石油をはじめ天然資源に恵まれていたことも、マラヤ連邦にとっては非常に魅力的でした。

 ところが、こうしたマレーシア連邦構想にはフィリピンが異議を唱えます。

 もともと、現在のマレーシア・サバ州の地域(旧英領ノース・ボルネオ)は、フィリピン諸島とボルネオ島の間に連なるスールー諸島を領土とするスールー王国が支配していたことから、1946年に米国から独立したフィリピンはサバの領有権を主張していたという事情がありました。

 そこで、1961年末にフィリピン大統領に就任したディオスダド・マカパガルは、フィリピンとマラヤ連邦の国家統合によりサバ領有権問題を解消するという“大マラヤ連邦”構想を発表します。

 一方、マラヤ連邦によるマレーシア連邦構想に対しては、1962年12月にブルネイ人民党がスルターン制の廃止と統合反対を唱えて武装蜂起を起こし(アザハリの反乱)、これをブルネイ政府の要請により介入した英軍が鎮圧するという事件が発生。これに対して、ボルネオ島南部を領有していたインドネシアが激しく反発し、マレーシア連邦構想は西欧諸国に代わる新たな植民地主義であると批難し、マラヤ連邦とインドネシアが対立することとなりました。

 そこで、マカパガルは、マレー人種の居住地域である“マフィリンド(マラヤ、フィリピン、インドネシア)”は植民地による人工的な国境で分割されているから、それを再統合すべきだとする“大マラヤ連邦”にインドネシアを加えた“大マレーシア連邦”構想を発表。もともと大インドネシア主義者だったスカルノはこれに賛同し、彼の協力の下、マカパガルはマラヤ連邦に大マレーシア連邦構想を提案しました。

 これをうけて、1963年5月のスカルノ=ラーマン会談で“大マレーシア連邦”構想に基づいた三国による地域協力が合意され、翌6月、経済・社会・文化協力を明記したマフィリンド設立宣言としての“マニラ協定”が採択されました。さらに、7月には、マラヤ連邦、フィリピン、インドネシアの共同声明として、①マフィリンドは精神的な一致を基にした、共通の関心的問題にアプローチする地域連合である、②民族自決の観点からサバとサワラクにおけるマレーシア連邦参加を問う住民の意思確認を国連に要請し実施する、③大マレーシア連邦の枠組み形成に向けての協議を継続する、などとしたマニラ宣言が発表されています。

 しかし、あくまでもマレーシア連邦の成立を目指していたマラヤ連邦は、1963年6月、同年8月31日の新連邦結成をめざして準備を進め、 英国、サラワク、サバ 、シンガポールとの間でマレーシア連邦成立協定を調印。さらに、サラワクは7月22日に自治権を獲得し、サバも8月31日に自治権を獲得しています。

 こうした状況の中で、1963年9月、国連調査団が派遣され、サバとサワラクでマレーシア連邦案に対する住民意思調査が実施されましたが、この調査は、フィリピンとインドネシアのオブザーバー参加を認めていませんでした。そして、マラヤ連邦政府は、その調査結果が発表される以前に、9月15日、マレーシア連邦の成立を発表し、マニラ宣言の合意を反故にし、翌17日には、新生マレーシア政府として、フィリピン・インドネシア両国との断交を発表。マカパガルの唱えた大マレーシア連邦構想は完全に破綻し、インドネシアとマレーシアの関係は極度に緊張しました。

 なお、1963年、マレーシア連邦に参加したシンガポールですが、その後、華人とマレー人の対立から、1965年には追放同然の形でマレーシアからの分離独立を余儀なくされ、現在にいたっています。


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 ビートル、生産終了へ
2018-09-15 Sat 01:26
 ドイツの自動車大手、フォルクスワーゲン(以下、VW)は、13日(現地時間)、小型車“ザ・ビートル”の生産を2019年7月に終了すると発表しました。後継車の予定はなく、“ビートル”の系統は消えることになります。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      スペイン・VW ビートル

 これは、2013年にスペインが発行した“時代を代表する自動車”の切手のうち、VWのビートルが取り上げられています。ちなみに、切手上の車名、“ESCARABAJO”は“カブトムシ”を意味するスペイン語です。

 ビートルは、1934年、ヒトラーがベルリンモーターショウで提唱した“国民車(フォルクスワーゲン)”計画に従い、フェルディナント・ポルシェが開発した小型車で、1936年の試作車を経て、1938年、第1号車として“KdF(カーデーエフ)ワーゲン”が発表されました。今回ご紹介の切手で、車の年号が1938年となっているのは、これを踏まえてのことです。

 なお、自動車メーカーとしての VW は、1937年5月にフォルクスワーゲン準備会社がベルリンに本社を置いて設立されており(1938年9月にフォルクスワーゲン製造会社と改称)、一家に一台、自動車が行きわたるようにすべく、購入希望者が事前に開設された口座に週5マルク振り込む積立金制度により、満額に達した国民がワーゲンを受け取るという仕組みで33万6000人が申し込んでいました。

 さて、KdFは、流線型をした空気抵抗の少ないボディで、最高時速100キロ以上、7リットルのガソリンで100キロを走行できる低燃費など、当時の技術水準をはるかに超える画期的なものでしたが、発表翌年の1939年9月に第二次世界大戦が勃発したため、フォルクスワーゲン製造会社は軍用車の生産を行うこととなり、民間向けの自動車は実際には生産されませんでした。(ただし、軍や政府の幹部向けに、例外的に、ノーマル版の“タイプ60”が870台ほど生産されています)

 ちなみに、戦時中のフォルクスワーゲン製造会社の生産ラインには連合国の捕虜やアウシュヴィッツ強制収容所の収容者など約2万人が動員されました。

 第二次大戦後、ドイツが連合国によって占領されると、フォルクスワーゲンの工場は、当初はソ連軍の、後に英軍の管理下に置かれ、官営のフォルクスワーゲン社として再出発。これを受けて、KdF ワーゲンは“フォルクスワーゲン・タイプ1”と改称され、ようやく一般販売が開始されました。

 タイプ1は、その外観から“ビートル”の愛称で親しまれ、米国をはじめ全世界に大量輸出され、西ドイツの戦後復興を支えました。1974年に西ドイツでのビートルの生産は中止されたものの、その後もメキシコやブラジルで生産が続けられ、2003年、メキシコでの生産が終わるまでの58年間で2100万台が生産されました。これは一車種の生産記録としては、現在も世界記録です。
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 その後、1998年には、2代目となる“ニュー・ビートル”の生産がメキシコ工場で始まりましたが、ニュー・ビートルの生産は2010年で打ち切られ、2011年からは3代目の“ザ・ビートル”に引き継がれていました。なお、米国では最後のラインアップとして、特別モデル“ファイナル・エディションSE”と同SELが販売されるそうです。


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 切手に見るソウルと韓国:済州の海女
2018-09-14 Fri 04:15
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』8月24日号が発行されました。月一で同紙に僕が連載している「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、8月15日の文在寅演説で、日本統治時代の独立運動の事例として、1931年の平壌・平原ゴム工場の女性労働者、姜周龍が高さ12メートルの乙密台の屋根に籠城し「女性解放、労働開放」を叫んだ“高空籠城”闘争と、1932年の済州・舊左邑での“海女抗日運動”が紹介されていたことにちなみ、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます) 

      韓国・オドルトギ

 これは、1993年に発行された音楽シリーズの「オドルトギ」の切手で、済州の海女が描かれています。

 素潜りで海産物を採取する漁は、済州では5世紀には行われていたとの記録があります。

 当初、海に潜るのは男性が中心でしたが、17世紀頃から、素潜りで猟を行う“潜女”が多数派になりました。その理由としては、女性は男性に比べて皮下脂肪が厚く、体型・体質的に長時間の潜水作業向きであり、それゆえ、沖合での漁は男性、沿岸での潜水漁は女性という男女による分業体制が成立したものと考えられています。

 朝鮮王朝の末期には、海女漁は済州の人々の生活に深く根付いており、17-18歳になった女性たちは、家計を助けるため、春になると海に潜るのが習わしでした。今回ご紹介した切手の題材になっている済州の民謡「オドルトギ」は、もともとは翁草の意味ですが、春の訪れを意味する表現として「西帰浦の海女は海に潜ったか まだか」と歌われており、切手はそれを表現したものです。

 さて、1876年、日朝修好条規により朝鮮王朝が開国すると、早くも1879年には日本人海女の朝鮮出漁が始まります。

 一方、1895年には済州の海女も新たな漁場を求めて朝鮮本土に進出。1903年には日本への出稼ぎも始まりました。さらに、日本統治時代の1922年、済州=大阪間の直行便“君が代丸”の運航が始まると、海女の往来も盛んになりました。

 こうした中で、済州海女は日本人海女に比べ、低水温に強く、深海や沖でも器具・船なしで操業が可能で、多くの漁獲高が見込めるほか、賃金も安かったため、水産業者はこぞって済州海女と契約するようになり、1929年には日本人海女は朝鮮沿岸からはほぼ駆逐され、済州の海女は遠く大連やウラジオストクなどへも出漁したそうです。

 なお、日本国内では、1920年代になると、風俗取締りの観点から、海女に対して、上半身裸ではなく、“磯シャツ”の着用を求めるようになりました。特に、朝鮮沿岸では、“大和撫子”が上半身裸でうろつくのは大日本帝国の沽券にかかわるとして、警察の指導もやかましかったようです。しかし、現在のように体に密着するウェットスーツのない時代、磯シャツは泳ぎづらく、漁の作業効率が大きく落ちてしまいます。これに対して、済州海女はそうした規制の対象外だったことも、漁獲効率という点では彼女たちに軍配が上がる一因となったのかもしれません。

 さて、日本人海女を朝鮮半島から駆逐した済州海女でしたが、入漁料などの出漁条件をめぐり、現地の磯売りとのトラブルも絶えませんでした。このため、海女側は海女組合をつくり、行政とも交渉を行って権益を守ろうとします。その一環として、1932年1月14日、舊左邑で300名の海女が大規模なデモを起こしたのですが、その過程で、独立運動家(海女ではない)が警察に検束されると、これに興奮した海女1500名が警察所を襲撃。以後、5月頃まで済州島全体が騒乱状態になりました。大統領の「慶祝辞」で言及されているのは、この事件のことです。

 解放後も済州ではさかんに海女漁が行われ、1970年には海女の数も1万4000人を超えていましたが、漁業の近代化に伴い、次第に新人海女の数も減少。高齢化もあって2012年末の時点では海女の数は4574人まで減少、その8割は60歳以上と高齢化も深刻になりました。

 現在では、済州の海女は産業としてというより、技術のみならず、長い経験や知識、海女の安全を祈願する儀礼などを含む“海女文化”としてその意義が評価されており、2012年には韓国の無形遺産として登録されています。


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 陛下、最後の稲刈り
2018-09-13 Thu 09:21
 今上陛下は、きのう(12日)、皇居の水田で恒例の稲刈りをされました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      稲刈り・1銭

 これは、1937年12月11日に発行された“稲刈り”の1銭切手です。

 1937年、それまで抽象的な文様が主流だった普通切手の図案が大幅に改正され、「世界に冠たる神国・日本」をテーマに、日本を代表する風景や文化遺産、軍人・忠臣などを題材にした絵画図案の切手が発行されるようになりました。いわゆる昭和切手です。

 昭和切手のうち、今回ご紹介の1銭切手は、食糧増産を呼びかける宣伝の意味も込めて、“稲刈り”が図案として採用されましたが、その農夫の手つきについては異論が続出します。

 すなわち、稲を鎌で刈る際には茎は立てたまま稲を下から持って刃を入れて刈り、刈穂は横に置くのが一般的な作業手順であって(たとえば、下の画像の韓国切手がその典型例です)、切手のように、茎を寝かせて上から刃を入れるということはしません。むしろ、1銭切手の手つきは、左手で茎をまとめ、鎌をまわすようにして刈りとる麦刈りのスタイルに似ています。

      韓国・第1次ウォン貨シリーズ(農夫)

 それもそのはずで、1銭切手の原画が制作されたのは1937年6月のことで、この時点では、逓信省の担当デザイナーだった木村勝は実際の稲刈りの風景を見ながら作業を行いことができませんでした。このため、便宜的に、栃木県で麦刈りの風景を取材するとともに、東京の逓信博物館でアルバイトを雇って稲刈りの真似をさせて原画を制作したのですが、農業体験のなかった木村には稲刈りと麦刈りの差が理解できなかったものと思われます。

 さて、皇居での稲作は、農家の苦労を分かち合うために昭和天皇が始め、その後、陛下が引き継がれたもので、収穫後の稲は、皇室の行事伊勢神宮での神事などに使われます。今上陛下が天皇として行う稲刈りは、来年4月の御退位を控え、今回が最後で、来年移行の皇居での稲作は4月30日以前の作業は今上陛下が行い、その後は即位後の皇太子殿下に引き継がれるそうです。


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 世界の切手:ナイジェリア
2018-09-12 Wed 00:16
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年8月22日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はナイジェリア(と一部ギニアビサウ)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      英領ナイジェリア(1914)

 これは、1914年、英領ナイジェリア植民地の発足に伴い発行された“ナイジェリア”名義の6ペンス切手です。

 現在のナイジェリア北部、サハラ南縁の地域は、西暦1000年頃から、ハウサ人によるハウサ諸王国の支配下に置かれていました。この地域は12世紀頃からイスラム化が進み、サハラ縦断貿易の要所として繁栄しましたが、1809年、ハウサ諸王国はフラニ帝国によって征服されました。

 19世紀後半から、ナイジェリアの地域に進出していった英国は、1885年までにオイル・リヴァーズ保護国を設置。さらに、1886年、ジョージ・トーブマン・ゴールディらによる貿易会社“王立ニジェール会社”を通じて本格的なナイジェリア支配を開始しました。なお、1893年には、オイル・リヴァーズ保護国はニジェール海岸保護国に改変されています。

 1901年、王立ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領と南部ナイジェリア保護領の二つの保護領に再編成されますが、その際、北部保護領では、ハウサ諸王朝の流れを汲む支配勢力や制度を温存して間接統治を行ったのに対して、南部では英当局による直接統治が行われ、その結果、宗教的にはキリスト教徒が多数派になりました。

 その後、1914年に南北保護領を統合した英領ナイジェリア植民地が発足しますが、南北間のさまざまな差異は、1960年のナイジェリア独立後も持ち越され、国内対立の火種となっています。

 さて、『世界の切手コレクション』8月22日号の「世界の国々」では、ビアフラについての長文コラムのほか、国名の由来となったニジェール川、主要産業のカカオ、ボルノの騎士の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のナイジェリア(と一部ギニアビサウ)の次は、8月22日に発売された同29日号でのコートディヴォワール(と一部トーゴ)の特集、9月12日発売の同19日号でのマリ(と一部タンザニア)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 アジェンデ忌
2018-09-11 Tue 00:39
 “911”というと、2001年の米国同時多発テロ事件を思い出す人が多いと思いますが、もともとは、1973年9月11日にアウグスト・ピノチェトが起こした反アジェンデ・クーデターの方が有名でした。というわけで、きょうは、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      チリ・アジェンデ生誕100年

 これは、2008年にチリが発行した“アジェンデ生誕100周年”の記念切手です。

 サルバドール・アジェンデは、1908年、チリの港町バルパライソでバスク系移民の家庭に生まれました。チリ国立大学医学部を卒業した後に医師になり、1933年、チリ社会党の結成に参加しています。

 1938年、チリでは左翼諸政党が人民戦線を結成し、急進党のルイス・アギーレ・セルダが大統領に当選。アジェンデも保健大臣として入閣します。その後、人民戦線が崩壊すると、アジェンデは社会党・共産党・左翼小党派を糾合して人民行動戦線(FRAP)を組織して1958年の大統領選挙に出馬しました。

 このときの大統領選では28.8%の票を得たものの、独立系右派候補のホルヘ・アレッサンドリとわずか3万票、得票率で3ポイント足らずの僅差で落選します。選挙期間中、共産党と連携するアジェンデが善戦していることに脅威を感じた米国がCIAを通して対立候補を密かに援助する一方、ソ連はアジェンデを支援するなど、選挙戦は米ソの代理戦争の様相を呈しました。

 その後、アジェンデは1964年の選挙にも出馬して落選しましたが、1970年の大統領選挙で当選。自由選挙による社会党政権の誕生成立は、「共産主義国は暴力革命によってしか生まれない」と主張していた米国に大きな衝撃を与えます。

 アジェンデ新政権は、社会主義国との国交樹立、独占企業の国有化、土地改革、所得再配分などを骨子とする新政府の対外・対内政策を発表。その最大の目玉が、銅山の国有化で、1970年11月14日に銅山国有化特別委員会が設置され、銅山国有化にむけて政府は具体的な活動を開始しました。

 これに対して、米国系の銅生産の多国籍企業は、1971年3月18日、チリ経済を撹乱すべく、銅の国際価格の操作を開始して対抗しましたが、5月21日に世界最大のエルテニエンテ鉱山が政府の統制下に入ったのを皮切りに、7月11日には銅山国有化の憲法改正案が可決され、アナコンダ社(チュキカマタ、エクソティカ、エルサルバドル銅山)、ケネコット社(エルテニエンテ銅山)、セーロ社(アンディーナ銅山)の5大銅山が国有化されます。

 これに対して、米国などの西側諸国は経済封鎖を発動し、会社・店などを経営する富裕層はストライキをおこなうなど、アジェンデ政権に揺さぶりをかけましたが、これはかえって、国内の貧困層を団結させる結果となり、1973年の総選挙では、人民連合は大統領選よりさらに得票率を伸ばしています。

 そこで、反アジェンデ勢力は、米国の支援と黙認の下で、武力による国家転覆を計画。9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍が率いる軍が大統領官邸を襲撃し、アジェンデは自殺に追い込まれました。以後、チリでは、ピノチェトの下で16年の長きにわたる軍事独裁政権時代が開幕することになります。

 ちなみに、チェ・ゲバラは“モーターサイクル・ダイアリーズ”の南米放浪をしていた1952年、大統領選挙期間中のチリでアジェンデの演説を聞いたことがあります。この時は、一介の医学生と大統領候補との接点はありませんでしたが、キューバで革命政権が誕生した直後の1959年1月20日、アジェンデはハバナでチェと会見しています。さらに、1961年8月、ゲバラは、ウルグアイの首都、モンテビデオで開催された集会でアジェンデと会い、ブエノスアイレスから呼び寄せた母親とともに、夕食を囲んだこともあります。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、上述のようなゲバラとアジェンデの交流についても、まとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 大坂なおみ、全米OPで優勝
2018-09-10 Mon 02:37
 テニスの全米オープンは、きのう(現地時間8日・日本時間9日)、女子シングルス決勝で大坂なおみがセリーナ・ウィリアムズに6-2、6-4でストレート勝ちし、日本選手初のグランドスラム制覇の快挙を達成しました。というわけで、日本の女子テニスの切手ということで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      第26回国体

 これは、1971年10月24日に発行された第26回国民体育大会(国体)の記念切手で、潮岬灯台を背景に、軟式テニスの女子選手と開催地和歌山県の県花、梅の花が描かれています。

 1971年の秋季国体は、和歌山県下19市町村の会場で、10月24日から29日までの6日間、1万6689名の参加を得て開催されました。テーマは“黒潮国体”、スローガンは“明るく・豊かに・たくましく”で、開催県の和歌山県は天皇杯を獲得しています。

 切手に取り上げられている軟式テニスは2人1組になって相手チームと対戦しますが、切手に描かれている女子選手はボールを握っていることから、後衛のポジション(当時のルールでは後衛しかサーブ権がなかった)です。また、彼女の用いているラケットは、その形状から、軟式テニスの世界では“幻の名品”と呼ばれているカワサキラケットの“ニューナンバーワン”と思われます。

 背景に描かれている潮岬灯台は、本州最南端に位置する潮岬に設置されているもので、1873年9月に正式点灯されました。1928年に電化され、1957年に90センチの回転式に変更され、現在では光度97万力ンデラ、光達距離十九海里の能力を有しています。

 なお、この切手を含む書状料金15円時代の記念特殊切手については、拙著『一億総切手狂の時代』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 
 

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 朝鮮民主主義人民共和国70年
2018-09-09 Sun 00:18
 1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が成立して、きょう(9日)で70年です。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・北朝鮮65周年

 これは、2013年にキューバが発行した“朝鮮民主主義人民共和国65周年”の記念切手で、北朝鮮国旗と平壌市内の風景を背景に、千里馬銅像が大きく描かれています。

 千里馬銅像は、平壌の中心部、万寿台に1961年4月に建立されました。主題となっている千里馬は1日に千里を走るという伝説の天馬で、北朝鮮では1950年代の“千里馬運動”以来、社会主義建設の象徴とされています。

 すなわち、1956年12月に開催された朝鮮労働党中央委員会総会で、金日成は、「最大限の増産と節約」のスローガンの下、1957年度からはじまる5ヵ年計画の初年度に生産力の大幅な拡充を実現する目標を策定。会議後、金日成は降仙製鉄所を訪れ、労働者に対して「最大限の増産と節約」への協力を求めると、労働者は金の期待に応えて公称能力6万トンの分塊圧延機で9万トンの鋼材を生産する目標を立て、実際には12万トンを生産する成果を挙げたとされています。また、金策製鉄所の労働者は公称19万トンの設備で27万トンの銑鉄を生産するなど、各地“奇跡”的な目標の超過達成が報告されました。

 こうした個別の特殊な成功例は、千里馬を駆る勢いで前進するとの意味をこめて“千里馬運動”の名の下、大衆動員の運動とされ、5ヵ年計画は2年半繰上げ達成するという驚異的な成果を収めたとされています。

 北朝鮮側の発表する数字が正しいかどうかはともかくとして、北朝鮮内部の権力闘争が一段落し、反金日成派の幹部やそれに連なる人脈が排除されて組織が結果的に活性化されたこと、ソ連・中国の影響から脱し、彼らの支援をあてにせず「自力更生」をしなければならなくなったことへの危機感とそれに裏付けられたナショナリズムの意識が発生したこと、などから、千里馬運動が一定の成果を挙げたことは事実です。

 しかし、こうした千里馬運動期の大増産は、労働者の士気こそ高揚させたものの、増産の重点が金属工業と機械工業に極端に集中されていたため、輸出産業が育成されることもなければ、資本の蓄積や技術革新も省みられませんでした。また、精神主義に基づく無理な増産により、設備や労働者が消耗した結果、長期的には生産力の減退をまねき、それを補うため、再度、精神主義的な大衆動員がなされるという悪循環をもたらし、このことが、後に、北朝鮮経済の不振を招く構造的要因を生み出すなど、弊害も少なからずありました。

 また、千里馬運動と並行して、北朝鮮国内では、“農業協同化(集団化)”が強行されています。

 北朝鮮における農業協同化は、もともとは、朝鮮戦争休戦後の労働力不足に対処するものとして始められました。しかし、オーソドックスなマルクス・レーニン主義理論では「農業の社会主義化には、農業への機械・資材・電力などを供給することが必要であり、その前提として工業が一定水準以上に発達していなければならない」とされていたのに対して、北朝鮮は、「工業生産が回復していない状態であっても、経営形態のうえで社会主義化することは可能である」として農業協同化を強行します。はたして、農業協同化についての金日成の本音は、重工業の育成に必要な資金を農民から徴収することにあったため、農民の生活を無視した過酷な収奪や強制的な大規模移住が強行されたことで、1950年代末には、10万人規模の餓死者が発生するなど、農村の荒廃は深刻なものとなりました。

 こうした状況の下で、金日成は在日朝鮮人(の労働力・技術・資金)に目をつけ、それが北朝鮮の現実を“地上の楽園”の美名の下で糊塗し、多くの在日朝鮮人を地獄に突き落とすことになる帰国事業につながっていくことになります。

 ちなみに、社会主義諸国歴訪の一環として、チェ・ゲバラは、1960年12月2日に平壌入りし、翌3日に金日成と会見しています。北朝鮮滞在中の印象として、ゲバラは「(北朝鮮の)都市には何もない」「工業は破壊され、動物は死に、一軒の家も残っていない」「北朝鮮は死でできている国だ」などと、北朝鮮の悲惨な実態についても書き記していました。ただし、彼は、北朝鮮荒廃の主たる原因が、金日成体制の失政でなく、朝鮮戦争にあると理解したため、「(北朝鮮は)灰の中から再生している」として、北朝鮮の現状と将来について楽観的な見通しを示していますが…。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラの北朝鮮観についても、まとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

 * きのうの(公財)日本郵趣協会の全国会員大会では、実行委員長の伊藤純英さんをはじめ、多くの方にお世話になりました。この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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 島原に行ってきます!
2018-09-08 Sat 08:05
 きょう(8日)は(公財)日本郵趣協会の全国会員大会に参加するため、これから朝食を済ませたら、長崎県の島原に向かいます。実は、別件の用事があって、現在、長崎市内おり、島原へは、JRの長崎本線と島原鉄道を乗り継いで移動しますので、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      SLシリーズ第5集・150

 これは、1975年6月10日にSLシリーズの第5集として発行された“150形蒸気機関車(一号機関車)”の切手です。

 150形蒸気機関車は、1872年の鉄道開業に際して英国から輸入された蒸気機関車5形式10両中の1形式で、1871年、バルカン・ファウンドリー社が製造しました。同時に発注された10両のうち、最も早く日本に到着した機関車として“一号機関車”とも呼ばれ、開業時に新橋=横浜間を走ったのもこの機関車です。

 開業後は客貨問わずに京浜間で約8年使用された後、1880年11月に東海道線神戸地区へ転用されました。その後、1884-85年に、運転台直前にあった蒸気ドームをボイラー中央部に移し、元のドーム位置には汽笛を設ける大改造を施し、半田に送られ、中山道幹線の建設資材輸送用に使用されています。

 1911年4月1日付けで島原鉄道の開業用に譲渡され、客貨牽引に用いられていましたが、昭和の初めごろ、元鉄道記者の青木槐三が貴重な1号機関車として当時の鉄道省への返還・保存のための運動を開始。これを受けて、1930年7月3日、諫早駅で盛大な惜別式を行ない、「送国宝一号機関車」と書かれた幟を飾って鉄道省に引き渡されました。また、その際、島原鉄道創業者の植木元太郎の自筆による「惜別感無量」のプレートが側水槽に取り付けられています。

 国鉄返還後、この機関車は大宮工場での整備を経て、1936年からは東京・万世橋の交通博物館で静態保存されていましたが、同館の閉館後は、2007年に開館したさいたま市大宮区の鉄道博物館に展示されています。

 ちなみに、今回ご紹介の切手を含むSLシリーズの切手については、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅴ)沖縄・高松塚の時代』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 *昨日(7日)、アクセスカウンターが196万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 

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 北海道で震度7観測
2018-09-07 Fri 00:26
 きのう(6日)午前3時7分頃、北海道南西部の胆振地方を震源とする地震があり、厚真町で震度7を観測。この記事を書いている時点で、道内で計9人が死亡、計305人が負傷したほか、地震の影響で、道内のほぼ全世帯の約295万戸が一時停電し、完全復旧には1週間ほどかかる見通しだそうです。というわけで、北海道に関連して、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      環境変化と地理情報システム国際会議

 これは、1991年8月23日に発行された“環境変化と地理情報システム国際会議”の記念切手で、会議開催地の旭川にちなみ、デジタル的に処理された北海道の地図が描かれています。

 地理情報システム(GIS:geographic information system)は、地理情報および付加情報をコンピューター上で作成・保存・利用・管理・表示・検索するシステムのこと。人工衛星や現地踏査などから得られたデータを、空間、時間の面から分析・編集することができ、科学的調査、土地、施設や道路などの地理情報の管理、都市計画などに利用されています。

 その研究は、1950年代、米国のワシントン大学で始まり、1967年、ロジャー・トムリンソンにより、カナダのオンタリオ州オタワで世界初の動作可能な地理情報システム“カナディアンGIS (CGIS)”が開発されました。しかし、このシステムは、現在のGISの原型となったが、政府機関向けのものであったことに加え、権利関係のトラブルもあったことから、当初は一般に普及しませんでした。

 その後、コンピューターの発達により、さまざまな形式のGISが開発されましたが、1990年代に入ると、インターネット上に配信するため、それまで多種多様だったシステムやデータ、データ変換方式に標準化が導入されていきます。

 わが国では、1970年代初頭より久保幸夫によりGISの研究が紹介され、国土数値情報や地方自治体の情報化(UISプロジェクト)研究の一環として進められ、その成果は、測量、地図会社、情報関係関連企業等にも波及。1990年からは、西川治を研究代表者とする文部省科学重点領域研究「環境変化の地理情報システム」が始まり、1991年8月25-28日に旭川市で開催された「環境変化と地理情報システム国際会議」(今回ご紹介の切手の主題となった会議です)においては当時の最先端の研究成果が内外に示されました。

 それにしても、今回の北海道の地震の他にも今月4日の台風21号、7月の台風12号、6月の大阪北部地震など、ここのところ、天変地異がつづいています。あらためて、亡くなられた方の御冥福と負傷された方の御快癒、そして、一日も早い被災地の復興を心よりお祈り申し上げます。

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 エスワティニ独立50年
2018-09-06 Thu 01:38
 アフリカで唯一、台湾との国交を維持しているエスワティニ王国が、1968年9月6日にスワジランド王国として独立して、きょうでちょうど50年です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      スワジランド加刷(1889)

 これは、1889年に発行されたスワジランドとして最初の切手で、トランスヴァール切手に“Swazieland”の地名が加刷されています。

 スワジランドは、南アフリカとモザンビークに囲まれた内陸国で、現在のスワジ人の王家であるドラミニ家による支配体制は1745年に確立されました。

 19世紀後半のムスワジ2世の時代、ドラミニ家はズールー人およびトランスヴァールのアフリカーナーに対抗すべく英国に接近。1890年代には、一時、英国とトランスバールによる共同統治を受けたが、その後、スワジ人の反対を押し切ってトランスバールが単独支配下に置きました。スワジラン最初の切手が、トランスヴァール切手への加刷となっているのは、こうした事情を反映したものです。

 1899年に(第二次)ボーア戦争が勃発すると、1902年、英国はトランスヴァールを駆逐してスワジランドを英国高等弁務官領としましたが、ドラミニ家の王制は温存します。

 当時のスワジランドでは、国王ソブーザ2世(1899年生)が幼少であったため、祖母のラボツィベニ・ムドルリが摂政として国務を代行しており、1921年、ソブーザ2世の成人により国王の親政が開始されました。

 親政開始後、ソブーザ2世は英国人による土地収奪問題に取り組み、英国王ジョージ5世と直接会談してスワジ人への土地返還を求め、1929年には枢密院に問題を提起。この請願は、保護領法により拒否されましたが、以後、ソブーザ2世は次第に影響力を拡大していきます。

 第二次大戦後、英国はソブーザ2世に対して、英国式の立憲君主制の導入を提案したが、国王はこれを拒否。1960年に多くのアフリカ諸国が独立すると、その影響で、スワジランドでも独立に向けた具体的な動きが検討されるようになり、1963年には制憲議会が招集。英国王の任命する弁務官の下、行政評議会と立法評議会を設置する態勢が整えられ、高等弁務官領から自治領へとの昇格が決められました。

 さらに、翌1964年には、新憲法の下で総選挙が行われ,国王を党首とする王党派のインボコドボ国民運動(INM)が圧勝。1967年に内政の自治を得て保護領に昇格し、1968年9月6日、ソブーザ2世を頂く立憲君主国としてのスワジランド王国の独立が達成されました。

 独立当初のスワジランドでは、自治領時代の制度を継承して行政評議会と立法評議会が設置されていましたが、1972年5月、独立後初の総選挙で INM が圧勝すると、翌1973年、国王ソブーザ2世は憲法を廃止するとともに、INM 以外の政党を禁止。国王が行政・立法・司法を独占する絶対王政を復活させてしまいます。

 ソブーザ2世は、1982年に崩御しましたが、その後、王位継承をめぐり王族内での対立が発生。1986年4月、現国王のムスワティ3世が即位します。現国王の下でも、絶対王政の基本構造は維持されており、1993年以降、5度の総選挙が実施され、2006年には1973年以来停止されていた憲法に代わる新憲法が制定されたものの、現在なお、 INM 以外の政党活動は認められていません。

 また、国民の1/3が貧困層であるにもかかわらず、国王は、王室費だけではなく国家予算を流用し、自家用のセスナ機、高級車を購入したり、2004年には11人の妻(当時)のため複数の宮殿を建設したりするなどの浪費癖があるほか、国中の処女のみを集めて国王のために行われる“リード・ダンス”を毎年開催。さらに、HIV/AIDSの蔓延を予防するためとして、国民に対して5年間性行為を禁止する一方、当の本人は禁止令から2カ月後に13番目の王妃を選び性行為に及んだことが発覚し、罰金として牛一頭を支払うなど、まさにやりたい放題で、西側諸国からは批難の的になっています。

 ちなみに、エスワティニという現在の国名は、現地語で“スワジ人の土地”を意味する語で、ことし(2018年)4月19日、国王誕生日にあわせて行われた“独立50周年記念式典”を機に改称されたものです。

 
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 台風21号で関空が孤立
2018-09-05 Wed 00:40
 非常に強い台風21号は、きのう(4日)、大雨や暴風、記録的な高潮により各地で被害が相次ぎ、警察庁によると、大阪府と滋賀、三重両県で計7人が亡くなったそうです。特に、関西国際空港(以下、関空)では高潮により冠水したうえ、タンカーが連絡橋に衝突するなどし、空港の利用客ら約3000人が孤立しています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      スカイゲートブリッジ(2017)

 これは、昨年(2017年)6月9日に発行された“日本の夜景シリーズ”第3集のうち、スターゲイトホテル関西エアポートからのスカイゲートブリッジR(関空連絡橋)の夜景を取り上げた1枚です。

 関空連絡橋は、大阪府泉佐野市のりんくうタウン側と関西国際空港島を結ぶ長さ3750mの世界最長のトラス橋です。準大手ゼネコンの戸田建設の施工で1987年に着工し、1991年に竣工。上に道路6車線、下に鉄道が走る2階建て構造で、さらに電気・ガス・水道・電話(固定電話)などのライフライン全てがこの橋を利用しています。なお、日本国内の鉄道橋としては東北新幹線第1北上川橋梁の3868 mに次ぐ長さで、JR在来線・私鉄では最長です。

  ちなみに、愛称のスカイゲートブリッジRの“R”は、Road、Railway、Rinkuの頭文字で、商標を表す“Registered trademark”とは無関係です。

 さて、今回の台風21号で、関空では高潮で海水が流れ込み、4日午後1時半頃には、2本ある滑走路のうち、A滑走路(全長3500メートル)や周囲の駐機場のほぼ全域が冠水し、第1ターミナルビルの地下も浸水。一部で停電が発生していました。

 また、ほぼ同時刻には、関空まで燃料を運んだ後、関空東側に停泊していたタンカー“宝運丸”が強風で流されて、今回ご紹介の切手の連絡橋に衝突。橋上の片側の道路が破断、鉄道路線部も被害を受けたため、橋が通行止めとなりました。この記事を書いている時点で、空港の利用客ら約3000人は現在も孤立したままで、利用再開のめども立っていません。なお、タンカーの乗組員11人は無事救助されました。

 関空以外にも、大阪や岐阜、京都など13府県で計229人が負傷。住宅被害は11府県で全壊1棟、半壊1棟、一部損壊236棟、床上浸水2棟、床下浸水1棟に上っており、石川や大阪など13府県で一時計約203万5000人に避難勧告が出され、兵庫県など5府県で計約4万9000人に避難指示が出されています。

 あらためて、亡くなられた方の御冥福と負傷された方の御快癒、そして、一日も早い被災地の復興を心よりお祈りしております。
 

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 リオの国立博物館で大火災
2018-09-04 Tue 01:58
 ブラジル・リオデジャネイロの国立博物館で、現地時間2日夜(日本時間3日朝)、大規模な火災が発生。現在のところ死傷者の報告はありませんが、建物はほぼ全焼し、2000万点以上と言われた収蔵品もほぼ全て焼失しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・国立博物館150年

 これは、今回火災のあったブラジル国立博物館の150周年を記念して、1968年にブラジルで発行された切手で、ブラジルを含む中南米の熱帯雨林に生息する猛禽類、オウギワシが描かれています。

 現在のブラジル国立博物館のルーツは、ポルトガル領時代の1818年6月6日、ポルトガル王ジョアン6世が、植民地の科学的研究の拠点とする目的で、リオデジャネイロ中心部のカンポ・デ・サンタナに設立した王立博物館です。当初は植物や動物の剥製が中心で、特に、鳥の剥製が有名だったことから“鳥の館”とも呼ばれました。今回ご紹介の切手にオウギワシ(の剥製)が取り上げられているのも、こうした事情を踏まえたものです。

 王立博物館の設立に先立つ1817年、王太子ペドロ(後のブラジル皇帝ペドロ1世)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世の皇女、マリア・レオポルディナ・デ・アウストリアと結婚。これを機に、オーストリアを筆頭に、多くのヨーロッパの博物学者がブラジルを探検に訪れるようになりまた。

 さらに、1831年に即位したペドロ2世は、人類学、古生物学、考古学の各分野の資料を熱心に収集。皇帝みずからも旅先でエジプトの美術品や化石などを入手し、南米の自然史、人類学の資料の一大コレクションが形成されました。

 1889年、軍部のクーデターにより、皇帝は廃位され、ブラジルは共和制に移行しましたが、ペドロ2世個人に対する国民の任期はその後も衰えることはなく、彼の旧皇居は博物館として改装され、1892年までに収蔵物を移して、国立博物館となりました。1946年以降は、ブラジル大学(現在のリオデジャネイロ連邦大学)の管理下になっています。

 近年、国立博物館の建物は老朽化が進み、補修工事の必要性が指摘されてきたものの、2016年のリオデジャネイロ五輪以降は予算が削減され、工事は進んでいませんでした。現時点では、今回の火災と予算の削減との関係は明らかになっていませんが、ルイス・フェルナンド・ディアス・ドゥアルテ副館長は、ブラジル当局が博物館の維持管理に「無頓着」だったと非難し、「深い落胆と計り知れない怒り」を表明しています。

 なお、リオデジャネイロ市内には、今回焼失した博物館以外にも、ポルトガル植民地時代の古い建造物が数多く残されています。それらについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 日本人少女が印・伝統舞踊のプロに
2018-09-03 Mon 11:47
 父親の転勤に伴いインドで育った11歳の日本人少女、富安カナメさんが、きのう(2日)、ニューデリーで行われた公演で、インド四大伝統舞踊の一つ、“バラタナティヤム”のプロとしてデビューを果たしました。バラタナティヤムでは、14歳以下でのプロデビューはきわめて異例のことです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されえます)

      インド・バラタナティヤム

 これは、1975年にインドで発行された古典芸能の切手のうち、バラタナティヤムを取り上げた1枚です。

 バラタナティヤムは、南インド・タミルナドゥ州を発祥とする古典舞踊で、ヒンドゥー寺院に仕える巫女(デーヴァ・ダーシー)の奉納舞がそのルーツです。

 奉納舞が起源であるため、音曲の歌詞は、神への祈りによって新たな生命を得ることが主題となっており、舞踊の神“ナタラージャ(=シヴァ神)”の踊りは、“宇宙のリズム”を足で、“空間”を手で表現していることにちなみ、ダイナミックで力強いリズムと、足で大地を踏み鳴らす、歯切れよい踊りが特徴です。同時に、優美さや細やかな舞踊表現も要求され、身体や腕、指先、顔や目の動きをつかって感情や物語が表現されます。なお、踊り手としては、女性が一人で舞うのが基本です。

 現在のバラタナティヤムの原型となった古典舞踊は、19世紀までに衰退していましたが、20世紀初頭、インド文化再認識の動きに伴って、復興が進みます。バラタナティヤムという名は、その過程で命名されたものです。特に、1918年生まれの舞踏家で、最後の“デーヴァ・ダーシー”と呼ばれた名手、バラサラスワティは、1935年、デーヴァ・ダーシーとして、初めて、ヒンドゥー寺院を出て、一般の観客の前で踊り、バラタナティヤムが舞台芸術として発展するうえで多いに貢献しました。

 さて、今回、プロデビューを果たした富安さんは、4歳だった2011年、母親の勧めでバラタナティヤムを始め、8歳の時、インド政府から文化勲章を受章した斯界の権威、サロジャ・バイディヤナタンの舞踏学校に通い始めました。本来、バイディヤナタン校長によると、本来、舞踏学校への入学は8歳以上で、最低7年間は練習を積まなければデビューはできないそうですが、富安さんはその才能と熱意ゆえに、異例の14歳でのデビューとなりました。

 2日の公演で、クリシュナに恋するラーダーの踊りなどを熱演した富安さんは、演技終了後、「舞台でライトが当たった瞬間、緊張が楽しさに変わった。今後は他人にも踊りの楽しさを教えられるようになりたい」と語ったそうです。今後に期待したいですね。
 

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 雲中供養菩薩像
2018-09-02 Sun 11:14
 平等院鳳凰堂壁面の雲中供養菩薩像の1体(南14号)に、腹の部分を真横に切って薄板を入れ、像の傾きを修正したとみられる跡があることが、奈良国立博物館のX線CTスキャン調査で判明しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      雲中供養菩薩像(2001)

 これは、2001年8月23日に発行の世界遺産シリーズ第4集の1枚で、鳳凰の棟飾りのシルエットを背景に、雲中供養菩薩像の一体(南20号)が取り上げられています。

 雲中供養菩薩像は、平等院鳳凰堂の本尊、阿弥陀如来像を囲む堂内の長押の上の壁に架けられた52体の菩薩像で、当時の貴族が憧れた西方の極楽浄土手の菩薩たちの礼拝や音楽の演奏、舞踏などの姿が表現されています。1053年に定朝の工房で作られたものと考えられており、一個の檜材を掘り出して表面には金箔を押し、彩色や切箔の文様が施されていました。今回ご紹介の切手に取り上げられた南20号は舞姿菩薩像で、背中に“満月”と記されているため“満月菩薩”とも呼ばれています。

 なお、拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』では、今回ご紹介の雲中供養菩薩像をはじめ、極楽浄土で如来の周囲に伺候し、香や華、灯明や飲食、さらには歌舞音曲などの供物を捧げる供養仏についても、いろいろご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 米、UNRWAへの支払を停止か
2018-09-01 Sat 01:30
 米紙ワシントン・ポストによると、米国のトランプ政権は、30日(現地時間)、既に大部分を凍結している国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)への拠出金支払いについて、完全に停止することを決めたそうです。といいうわけで、UNRWA 関連の切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・UNRWA(1971)

 これは、1971年にエジプトが発行したUNRWA支援の宣伝切手で、岩のドームを背景に難民キャンプのテントと難民の女性が描かれています。

 UNRWAは第一次中東戦争後の1949年12月8日に設置された国連の事業機関で、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区、ヨルダン、レバノン、シリアで約500万人のパレスチナ難民に教育、保健、福祉、救急などの援助および人間開発を行っています。その設立に際しては、アラブ諸国はもとより、イスラエルも人道的立場から国連総会で賛成票を投じました。

 UNRWAの定義による“パレスチナ難民”は「1946年6月1日から1948年5月15日(第一次中東戦争勃発の日)までの間にパレスチナに住んでおり、その家と生計を失った者とその子孫」とされています。もちろん、1967年の第三次中東戦争以降、ヨルダン川西岸およびガザ地区から逃れてきた難民であっても、上記の期間に本人もしくは両親・祖父母がパレスチナに住んでいれば、“パレスチナ難民”と認定されることがあります。

 UNRWAの予算のうち、米国からの拠出金は約3億6000万ドルで、全体の約3割を占めています。しかし、昨年、トランプ政権がエルサレムに米大使館を移転したことにパレスチナ側が強く反発。パレスチナ自治政府も中東和平交渉をめぐりトランプ政権との接触を拒否していることから、米国はUNRWAに対して、6000万ドルしか拠出しないと発表していました。

 一方、米国からの拠出金減額を受けて、UNRWAは、国際社会に資金提供を呼び掛けるキャンペーンを展開し、2億3800万ドルを調達したものの全体の経費を賄うには至らず、この資金も9月末で尽きる見込みです。

 また、上述のように難民を定義する以上、“難民数”は人口に比例して増加傾向をたどることになりますので、今回、トランプ大統領が主張するように、難民認定者を第一次中東戦争発生(1948年)当時の難民に絞り、10分の1以下に減らすことも、資金を拠出する側からすれば自然な要求とみることもできましょう。

 ただし、いわゆる“パレスチナ難民”に関しては、パレスチナへの“帰還”を認める帰還権があるとされており、現状で“難民(の子孫)”として認定されている2世以下の世代の認定を一挙に取り消してしまうと、(“難民”でなくなった)彼らの帰還権も否定されることになりかねません。とはいえ、1967年の第三次中東戦争から出さえ50年以上は経過してしまった現在、40代以下のパレスチナ人が“帰還権”にどれほどのリアリティを感じらるかは、また別の次元の話ですが。

 なお、パレスチナ難民に関しては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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