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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 財産及び請求権に関する協定
2018-10-31 Wed 00:41
 日本による朝鮮半島統治時代に「強制労働させられた」として、元徴用工の韓国人4人が新日鉄住金(旧新日本製鉄)に損害賠償を求めた訴訟の差し戻し上告審で、韓国大法院(最高裁に相当)は、きのう(30日)、同社に賠償を命じた2審判決を支持して同社の上告を棄却し、賠償支払いを命じる判決が確定しました。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・ソウル市立大学校100周年

 これは、ことし(2018年)4月2日に発行された“ソウル市立大学校100周年”の記念切手で、同大の京農館が取り上げられています。まぁ、日本統治時代の建造物のうち、現存するモノを描いた切手であれば何でもよかったのですが、せっかくですので、文在寅政権発足後の切手の中から選んでみました。

 現在のソウル市立大学校の前身は、日本統治時代の1918年5月1日に開校した京城公立農業学校です。その後、同校は、1937年4月、現在のキャンパス所在地である典農洞に移転しました。

 1945年の解放後は、組織改革として、1950年6月、ソウル農業初級大学として設立認可されましたが、6月25日の朝鮮戦争勃発により、すぐに休校に追い込まれ、休戦後の1954年4月、あらためて2年制の初級大学として開学しました。

 その後、1956年3月にソウル農業大学 (4年制単科大学)、1974年3月にソウル産業大学、1981年10月にソウル市立大学となり、1987年、旧教育法により総合大化し、現行のソウル市立大学校となりました。なお、1981年10月の時点では、大学の英文名称は“ Seoul City University”でしたが、1997年7月に“The University of Seoul” に変更されており、ソウル大学と間違いやすいので注意が必要です。

 切手に取り上げられた京農館は、1937年のキャンパス移転に伴い、京城農業学校の大学本部と講義室として建てられたレンガ造りの建物です。その後、展示室、収蔵庫、演劇部の学生たちの練習室として使われていましたが、老朽化が激しくなっていたところ、2008年、ソウル市立大学建築学部に赴任したイ・チュンギ教授の尽力で、横浜の赤レンガプロジェクトに倣った復元プロジェクトが進められ、2013年、復元工事が完了しました。

 さて、1965年に日韓基本条約の付随協約として結ばれた「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」では、日本は韓国に対し、朝鮮統治時代に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助すること、韓国は対日請求権を放棄することで合意が成立しています。今回ご紹介の京農館をはじめ、日本統治時代の建造物が韓国側に無償で譲渡されたのも、同協定によるものです。

 一方、韓国側が放棄した“請求権”というのは、日韓間では、戦争による被害の賠償ではなく、植民地時代に累積した債権を韓国側が請求するということで政治決着をはかろうとしたもので、この中には、今回の判決で問題となった徴用工やいわゆる従軍慰安婦を含め民間人への補償も全て含まれています。じっさい、解放後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元慰安婦らを補償対象から除外したのは、ほかならぬ韓国政府です。

 したがって、今回、元徴用工の“請求権”を認めた韓国大法院の判決は、1965年の国交正常化の際の基本的な合意を覆すもので、それが通るなら、日本側としても、国交正常化の際に放棄した資本や財産の賠償を求めざるを得なくなります。たとえば、今回ご紹介の切手に取り上げられた京農館も日本に移築するか、しかるべき対価を払って韓国側に買い取ってもらうのが筋ということになるわけで、それがいかに非現実的なことかは、あらためて言うまでもないでしょう。

 なお、現在の大韓民国が、日本統治時代の延長線上にしか存在しえないことは、先日、3刷出来となった拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 『朝鮮戦争』第3刷出来!
2018-10-30 Tue 00:20
      朝鮮戦争3刷(くらら)

 おかげさまで、2014年8月に刊行の拙著『朝鮮戦争:ポスタルメディアから読み解く現代コリア史の原点』(えにし書房)が、本日(30日)付で第3刷出来となりました。これもひとえに、皆様のご支援の賜物です。この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。なお、冒頭の画像は、今回の重版を受けて、インターネット放送・チャンネルくららでお世話になっているご縁で、倉山工房の方が作ってくださったコラージュです。

 拙著『朝鮮戦争』は、公益財団法人 韓昌祐・哲文化財団の研究助成を受けた「郵便学的視点による韓国戦争史の再構成」による成果発表の一部として刊行したもので、南北朝鮮および関連地域の切手や郵便物を駆使して、1945年の“解放”から1953年の朝鮮戦争休戦までの朝鮮半島現代史を再構成しようとしたものです。具体的には、

 ・北朝鮮によるプロパガンダの嘘は切手や郵便物を見れば見破れる
 ・解放後の朝鮮半島ではしばらくの間日本時代の切手葉書消印がそのまま使われ、“解放記念”の切手も日本で作られた。
 ・朝鮮戦争の“国連軍”に参加した米軍以外の各国の軍隊組織の具体的な活動を切手や郵便物を交えて紹介
 ・竹島問題の発生と切手・郵便の関係
 ・戦争の混乱を逃れて朝鮮半島から日本に大量の難民が流入する一方、志願兵として戦争に参加し、捕虜となった在日コリアンの物語

といった話題も含まれています。

 今回の重版は、これまで少しずつ売れてきた拙著の出版元在庫がなくなったことに伴うものですが、ことし2月の平昌冬季五輪以降の南北首脳会談や米朝首脳会談、観艦式での“旭日旗”騒動など、朝鮮半島情勢がめまぐるしく動いているタイミングと重なったことは、ある意味で、天のお導きがあったということなのかもしれません。朝鮮半島の現状と今後を考えるうえで、この地域の現代史の原点に立ち返って、韓国や北朝鮮がどういう国なのかを知っておくことは意義のあることではないかと思われますが、拙著をその一助としてご活用いただければ幸いです。

 今後とも、よろしくお付き合いください。


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
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 ブラジル大統領にボルソナーロ氏
2018-10-29 Mon 10:44
 ブラジルで、28日(現地時間)、ミシェル・テメル大統領の任期満了に伴う大統領選挙の決選投票が行われ、元軍人で右派のジャジャイール・メシアス・ボルソナーロ(ボウソナロ)下院議員が、元教育相で左派のフェルナンド・アダジ氏を破り、当選しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます。以下、敬称略)

      ブラジル・パラシュート部隊40年

 これは、1985年3月8日にブラジルで発行された“パラシュート部隊40年”の記念切手です。ボルソナーロ新大統領は、パラシュート部隊の出身ということで、持ってきました。

 ボルソナーロは、1955年3月21日、サンパウロ州グリセーリオで、イタリアとドイツに先祖をもつヨーロッパ系移民の家庭に生まれました。
 
 陸軍士官学校を卒業後、1977年にアグーリャス・ネーグラス軍事学校に入学。1979-81年、マット・グロッソ・ド・スル州のニオケの第9野戦砲兵連隊に所属したのち、リオデジャネイロ州のパラシュート歩兵旅団に配属されました。今回ご紹介の切手が発行された1985年の時点でも、彼は現役のパラシュート部隊の隊員でした。

 1986年9月3日、第8砲兵連隊パラシュートキャンペーンで主将を務めていたとき、雑誌『Veja』に「所得が低い」と題する論考を投稿。これが、陸軍倫理規則に違反するとして、15日間の禁固刑の判決を受けましたが、軍事工学研究所の役員らの支援を受け、リオデジャネイロのプライア・ヴェルメーリャの軍事複合施設の前でデモンストレーションを行ない、上級軍事裁判所では無罪宣告を勝ち取っています。

 ところが、翌1987年10月27日、同じく『Veja』が、“袋小路作戦”をスクープ。同作戦は、レゼンデやリオデジャネイロ他の複数の軍兵舎のバスルームで低威力の爆弾を爆発させ、軍人の低賃金に対して抗議をするというもので、ボルソナーロ自身は計画への関与を否定していました。しかし、その後、彼自身がリオデジャネイロの自治体に水を供給するバイショ・グァンドゥのダクトに爆弾をおくことを計画していた資料が出てきたため、ボルソナーロは逮捕され、除隊処分となります。ただし、1988年に開かれた軍事最高裁の判決では、証拠不十分であるとして、ボルソナーロの除隊処分は撤回され、予備役(大尉)に編入。これを機に、同年、ボルソナーロは政治活動を開始し、1989年、キリスト教社会民主党からリオデジャネイロ市議に初当選を果たしました。

 1990年の選挙では、キリスト教社会民主党から連邦議員になり、以後、保守系の政党をいくつか渡り歩いた後、2006年、キリスト教社会党に加入。今回の大統領選挙では、社会自由党の候補者となりました。 この間、1992年には、「問題解決を妨げる法律が多すぎる。例外状態では、上官がペンを取り、足枷となっている法律を取り消す線を引けばよい。国会を信用しているものは誰もいない。国会は一時的に閉鎖されるべきだ」として“例外状態”の復活と国会の一時的閉鎖を求めて、物議を醸しています。

 その後も、1960年代の軍事独裁政権を称揚するなど、民族主義的で保守的な主張と、共産主義と左派に対する容赦のない批判で、一定の国民的な支持を得る一方、リベラル勢力からは蛇蝎のごとく忌避され、毀誉褒貶の激しい政治家として知られていました。彼の政治的な主張として紹介されているものの中には、軍縮規程の廃止、土地のない労働運動の侵入を防止するため地主に“銃を持つ権利”を与えること、強姦罪で有罪を宣告された受刑者たちに対する“自発的な化学去勢”の導入、LGBTの人々の権利を認める法律への反対、計画的犯罪の場合の即決裁判、麻薬密売・誘拐の場合の拷問の使用の擁護、などがあります。

 また、2017年、リオデジャネイロでのイベントで、アフリカ系民族に対して人種差別的な発言をしたことについて、5万レアルの罰金を命じる判決を受けると、 「黒人は繁殖する役割ではない」と述べたほか、左派労働党のマリア・ド・ロザリオから強姦擁護派であると非難されると、ボルソナーロは「あなたはレイプに値しない。なぜなら、あなたは非常に醜い」からだと述べるなど、舌禍事件にも事欠きません。

 ただし、小政党を渡り歩いてきたボルソナーロには、政治資金にまつわる汚職政治家のイメージが無く、このことは、4期続いた労働党政権での汚職・政治腐敗が問題となった今回の選挙では大いにアドバンテージとなりました。そうした背景の下、ボルソナーロは、治安改善策として刑法強化や銃規制緩和、軍の関与強化などを提唱。「汚職をする人々や犯罪者、その他ブラジルを破壊しようとする者は、私の政権下では安眠できない」と強調するとともに、中央省庁の半減や国営企業売却による財政健全化と減税などを公約として、既成の政治経済に閉塞感を覚える中間・富裕層や経済界の支持を集め、当選を果たしました。

 過去の言動から、(良くも悪くも)“秩序の破壊者”というイメージが定着しているボルソナーロについては、“ブラジルのトランプ”と呼ばれることもありますが、今後、彼が本家・トランプ並みの実績を挙げてブラジルを立て直せるかどうか、『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者としても注目していきたいところです。
 

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 チェコスロヴァキア独立100周年
2018-10-28 Sun 12:57
 1918年10月28日にチェコスロヴァキアが独立して、きょうで100周年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      チェコ・スカウト切手(1918)

 これは、1918年11月、独立当初のチェコスロヴァキアで暫定的に行われていたスカウト郵便用の切手で、“ボヘミアのライオン”の紋章が描かれています。

 第一次大戦以前、チェコとスロヴァキアはハプスブルク帝国の支配下にあり、チェコおよびスロヴァキア人将兵はオーストリア軍の一員として大戦に参加し、ロシア軍と戦っていました。しかし、もともとハプスブルクからの独立を強く望んでいたチェコ人たちは、ヨーロッパ諸民族とドイツ人との戦いとしての第一次大戦を民族独立の好機とみなすようになり、“敵の敵”であるロシアに投降する者が後を絶ちませんでした。

 このため、ロシア帝国は、チェコ人とスロヴァキア人捕虜によって第1チェコスロバキア狙撃連隊(チェコスロヴァキア軍団)を結成。彼らは義勇兵として独墺と戦い、1917年7月のガリツィア攻勢において3000人以上の捕虜を獲得するなどの戦果を挙げました。

 一方、トマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュ、ミラン・シュテファーニクら独立運動家たちは、1916年、パリで“チェコスロバキア国民委員会”を設立していましたが、チェコスロヴァキア軍団の活躍もあり、1918年年6月29日、協商国は同委員会を“将来のチェコスロヴァキア政府の基礎”として承認。ハプスブルク帝国の敗戦がほぼ確実になった同年10月18日、同委員会が“ワシントン宣言”を行い独立を宣言し、マサリクを初代大統領とするチェコスロヴァキア暫定政府を設立すると、10月28日、チェコスロヴァキア国内の国民委員会も独立を宣言してプラハの政庁を占拠しました。

 その後、11月3日にハプスブルク帝国が降伏し、11月11日、皇帝カール1世が退位して帝国は崩壊しますが、そうした混乱の中で、チェコスロヴァキア国民委員会支配下のプラハでは、ボーイ・スカウトの組織を利用して郵便物の配達が行われていました。今回ご紹介の切手は、そうしたスカウト郵便の料金を納付するため、11月7日に発行されたもので、11月25日、国民委員会が旧ハプスブルク帝国の郵政機関を接収するまで使用されていました。

 なお、旧ハプスブルク帝国の切手は、チャコスロヴァキア領内では1919年3月15日まで有効とされていましたが、1918年12月18日には、新国家の最初の切手として、アルフォンス・ミュシャのデザインしたプラハ城切手の発行が始まり、チェコスロヴァキア郵政が本格的に動き出すことになります。


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 きょうからムンク展
2018-10-27 Sat 07:14
 きょう(27日)から、東京・上野の東京都美術館で、ノルウェーの巨匠エドヴァルド・ムンクの作品約100点を紹介する「ムンク展――共鳴する魂の叫び」がスタートします。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ノルウェー・ムンクの「叫び」

 これは、2013年、ムンクの生誕150周年に際して発行された切手で、彼の代表作「叫び」の部分が取り上げられています。

 エドヴァルド・ムンクの代表作『叫び(Skrik)』は、「生命のフリーズ(フリーズは、柱列の上方にある横長の帯状装飾部分)」と題する作品群の一つで、最初の1枚は、ベルリン滞在中の1893年に油彩で制作されました。その後、ムンクは、同年と1895年にパステル、1895年にリトグラフ、1910年にテンペラで同じ題名、同じ構図による作品を描いており、全5点の「叫び」が存在しています。

 ムンクによれば、作品はフィヨルドの近くを歩いている時に「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」体験を表現したもので、橋の上の男は叫んでいるのではなく、叫びに耐えかねて耳を押さえているさまが描かれています。

 今回のムンク展で展示されるのは、4バージョンある「叫び」のうち、ムンク美術館が所蔵する1910年のテンペラ画で本邦初公開。2004年8月に油彩画の『マドンナ』とともにノルウェーで盗難被害に遭い、2006年8月31日、2点ともオスロ市内で発見されたという経緯があるため、特に厳重な警備体制が敷かれているそうです。


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 自由インド太平洋連盟、結成
2018-10-26 Fri 18:42
 中国によるウイグル人やチベット人、モンゴル人などへの弾圧に国際的な非難が集まる中、ノーベル平和賞候補になった世界の活動家らと少数民族の尊厳や権利の擁護を訴えてウイグル人女性人権活動家のラビア・カーディル氏が設立した国際連帯組織“自由インド太平洋連盟”の結成大会が、きょう(26日)、国会内で開かれました。というわけで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イリ共和国(1949・自転車)

 これは、1949年にイリ政府が発行した切手です。

 中華人民共和国の“新疆ウイグル自治区”に相当する東トルキスタンの地域は、かつては中華民国の新疆省が置かれていましたが、1944年、その北部、イリ渓谷のグルジャ(伊寧市)で、ソ連軍の支援を受けたウイグル人の武装蜂起が発生。同年11月12日に中華民国からの独立と(第2次)東トルキスタン共和国の建国を宣言しました。

 東トルキスタン共和国は12月までにイリ地区の全域を占拠し、翌1945年にはカザフ系の武装勢力がアルタイ地区、タルバガタイ地区を占領し、東トルキスタン政権に合流。いわゆる三区政権が誕生します。

 1945年9月、東トルキスタン軍がウルムチへの進軍を開始すると、新疆省政府はソ連に和平の仲介を要請。東トルキスタンの頭越しに行われた中ソ交渉を経て、ソ連は東トルキスタン主席のアリハーン・トラを拘束して、東トルキスタンに圧力をかけました。このため、1946年、東トルキスタンはソ連の意を汲んで新疆省政府に合流し、東トルキスタン・イリ専署(イリ専区参議会)と改称。 新疆省政府と東トルキスタン・イリ専署が合同して新疆省連合政府が成立します。

 しかし、連合政府は内部対立から1947年5月頃に崩壊。副主席アフメトジャンをはじめとする旧共和国派はイリ地方に退去し、旧東トルキスタン共和国の領域の支配を再開。さらに、翌6月には、ソ連の支援を受けたモンゴル人民軍と中華民国軍が新疆で武力衝突しています。 今回ご紹介の切手は、講じた状況の下、イリ政府が自らの存在を誇示するために発行したものです。

 一方、1949年、国共内戦の帰趨がほぼ明らかになる中で、中国共産党は東トルキスタンに鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を開始。毛沢東はイリ政府首脳陣を北京の政治協商会議に招きましたが、8月27日、北京行きの飛行機に乗った3地域首脳11人は、そのままソ連領内アルマトイに連行・殺害され、東トルキスタン政府は事実上消滅。残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィは、陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明せざるをえなくなりました。また、9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も共産党政府への服属を表明しています。

 これを受けて、1949年末までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合されてしまいました。

 現在、東トルキスタンはチベットと並んで、中国にとって最も深刻な“民族問題”の一つとなっており、中国共産政府による人権侵害の象徴的な存在となっています。今日の結成大会では、中国当局にウイグルやチベットなどで続ける弾圧行為や環境破壊をやめさせることなどを柱とした活動計画が決定されましたが、終了後の記者会見での「日中両国が経済協力関係を維持するのは当然だが、中国の弾圧は全人類に対する罪だ。安倍晋三首相には中国政府に対し、ぜひ問いただしてもらいたい」とのラビア・カーディル氏の言葉は、もっと多くの人にも知られても良いのではないかと思います。


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 世界の切手:コスタリカ
2018-10-25 Thu 07:23
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年9月26日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はコスタリカ(と一部ニカラグア)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      コスタリカ・内戦(1948)

 これは、1960年に発行された“解放戦争(コスタリカ内戦)2周年”の記念切手で、内戦時の国民解放軍が描かれています。

 20世紀初頭のコスタリカは、ユナイテッド・フルーツの支配するコーヒーとバナナのモノカルチャーでした。このため、1927年、国際市場でコーヒーとバナナが値崩れしたところへ、1929年の世界恐慌が発生すると、コスタリカ経済は深刻な打撃を受け、1929年に1800万ドルあった総輸出額は、1932年には800万ドルと半額以下に落ち込み、財政赤字は拡大。失業者があふれる中、1933年にはサンホセで大規模な暴動が発生しました。

 このため、国家共和党のリカルド・ヒメネス=オレアムノ(任期1932-36)、レオン・コルテス・カストロ(1936-40)の両政権は、コーヒー保護協会の設立、農業労働者の最低賃金制導入、銀行改革等を行ったほか、失業者対策で公共事業費を3倍に増加。これにより、コスタリカ経済にも復調の兆しが見え始めたものの、1939年に第二次大戦が勃発し、欧州市場が閉鎖されると、再び不況に見舞われました。

 このため、1940年の大統領選挙では社会民主主義者のラファエル・アンヘル・カルデロン・グアルディアが当選。コスタリカ大学の創立、社会保障制度の確立、生活保護と労働法の制定等が行われ、福祉国家の基礎が築かれました。

 ところが、カルデロン政権のリベラルな社会改革には富裕層が激しく反発。1944年の大統領選挙(コロンビアでは連続再選は禁止されているため、この時の選挙にはカルデロンは立候補できません)では、カルデロン路線の継承を掲げてテオドロ・ピカードが当選しましたが、反対派は選挙に不正があったと攻撃。以後、反政府勢力による爆弾テロが頻発するようになり、カルデロン以来の社会改革も頓挫してしまいます。

 カルデロン派と反カルデロン派の対立が激化する中で、元大統領のレオン・コルテスは何とか両者の調停を試みたものの、1946年、不調のうちに死去。対立が解消されないまま、1948年の大統領選挙では、カルデロンと、反カルデロン派候補のルイス・ラファエル・オティリオ・ウラテ・ブランコが争い、ウラテが勝利しました。ところが、カルデロン派や共産党支持派はウラテの大統領選に不正があったとして、カルデロン派が多数を占める議会は大統領選挙の結果は無効と宣言します。

 こうした中、両派の泥沼の対立に業を煮やした農業資本家のホセ・フィゲーレス・フェレールが、1948年3月12日、民主主義的な国民選挙を守るという口実で、カリブ外人部隊を含む“国民解放軍”を率いて蜂起。いわゆるコスタリカ内戦(解放戦争)が勃発しました。

 以後、4月19日まで続いた内戦では4000人以上が死亡。国民解放軍は政府軍を打倒してカルデロン派を追放し、共産党を非合法化したうえで、5月1日、フィゲーレスを首班とする暫定政権が組織されました。

 フィゲーレスは、社会的混乱の元凶と判断した既存の支配権力の排除に乗り出し、まず、銀行の国有化と資本利得に対する特別税の徴収を行います。1949年には新憲法を施行し、女性や黒人の政治参加を認めるとともに、過去の歴史から政治的混乱の要因でしかなかった軍隊を廃止し、それまで軍隊の担っていた役割を武装警察に移管しました。

 ただし、制度としての軍隊廃止後もコスタリカの防衛力が弱体化されたわけではなく、ニカラグア政府に支援された傭兵軍とともに旧政府軍が侵攻してきた際にはコスタリカ武装警察がこれを撃退したほか、1949年8月には、元公安大臣のエドゥガル・ガルドナのクーデターも鎮圧されました。

 こうして、体制変革に一応のめどをつけたフィゲーレスは、1949年11月、ウラテの大統領就任を認め、自らはいったん退陣しました。ただし、その後、フィゲーレスは1958年および1970年の大統領選挙で当選しています。

 なお、現在のコスタリカの“警察”力は、人口の0.2%にあたる8000人で、約4400人の治安警備隊は対戦車ロケット砲などの重火器で武装しており、諸組織の予算は隣国ニカラグアの国軍の約3倍で、米軍の駐留兵力もあり、軽武装も可能です。

 さて、『世界の切手コレクション』9月26日号の「世界の国々」では、コスタリカ内戦についての長文コラムのほか、自然エネルギー、マナグア湖、ココ島の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のコスタリカ(と一部ニカラグア)の次は、10月3日発売の同10日号でのテュニジア(と一部ザイール)、10月24日発売の同31日号でのKUTの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 港珠澳大橋開通
2018-10-24 Wed 01:40
 珠江の河口湾(珠江口)を東西に連絡し、中国広東省珠海市と香港新界離島区大嶼島(ランタオ島)およびマカオ花地瑪堂区を結ぶ“港珠澳大橋”がきょう(24日)から開通するのに先立ち、昨日(23日)、珠海で開通式が行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・珠江三角洲(2004)

 これは、2004年10月19日に香港で発行された“珠江三角洲地區的發展”の切手のうち、珠江三角洲(珠江デルタ)の象徴として、香港の凌霄閣(ピークタワー)、珠海の珠海漁女、マカオの大三巴(聖ポール大聖堂跡)が取り上げられています。 港珠澳大橋で結ばれる各都市の象徴が1枚に修められた切手として持ってきました。

 港珠澳大橋の構想は、英領香港時代の1983年、香港の大手ゼネコンである合和實業会長のに胡應湘が提案したのが最初とされています。胡は、大橋の建設により30分で香港と珠江三角洲西部が結ばれ、製造業の移転や観光の促進を促すと主張しましたが、あまりにも巨額の費用が必要となるため、具体的な検討は行われませんでした。その後、1989年には珠海市が中国本土側で珠海と深圳を結ぶ伶仃洋大橋の構想が提唱され、国務院も1997年に承認を与えています。

 その後、香港では2000年以降になって中国本土と連結するインフラの拡充が急務となり、港珠澳大橋構想が再浮上。2002年9月の第3次内地(本土)・香港大型インフラ協力会議において、香港政府と中央政府(国家発展改革委員会)による共同研究の開始が合意され、翌2003年8月4日、中国の国務院が共同研究結果を承認したことで、大橋の建設計画が動き始めました。

 建設工事は2009年12月に着工し、当初は2016年の完成が予定されていましたが、実際には2年遅れでの開通となりました。この間、2017年5月には橋のコンクリート強度の偽装の疑いが発覚し、コンクリートの品質検査に関して強度試験で不正を行ったとして21人の容疑者が香港廉政公署に逮捕されています。その後、香港特別行政区政府の建設監督部門は、橋の香港側部分の構造検査を行ったところ、異常は見られず断裂も発見できなかったとして、予定どおり残りの工事を進めましたが、問題のコンクリートが使われた場所の特定はされていないのだとか。

 なお、完成した大橋は、香港側人工島とマカオ/珠海側人工島までのメイン橋の延長が約29.6km、香港側の接続道路が約12km、マカオ/珠海側の接続道路を合わせた総延長では約55km。今回の橋の開通により、従来、船で1時間弱だった香港=マカオ間は約30分に、陸路で約4時間かかっていた珠海=香港国際空港間は45分に、大幅に短縮される見込です。

 
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 明治150年
2018-10-23 Tue 00:37
 1868年10月23日(慶應4年9月8日)に元号が慶應から明治に改められて、きょうで150年です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      明治100年(昌平丸)

 これは、50年前の1968年10月23日に発行された“明治百年”の記念切手のうち、明治百年のシンボルマークと昌平丸を描く1枚です。

 1968年が明治改元から100周年にあたっていたことから、政府は、この機会をとらえて、「明治元年から百年間にわたり、長い封建制を脱し、泰西の文明を吸収、近代国家完成への道を歩んだ我が国の発展」を祝うとともに、「政治、経済、文化その他すべての面にわたって偉大で強固な基盤を築き上げた先人の勇気と努力に感謝するとともに、このしあわせを、将来への限りない希望をこめて、次の日本の担い手である若い世代に引き継ごうとする覚悟を新たにしなくてはならない」との趣旨で記念行事を大々的に展開することを決定。1966年4月11日、明治百年記念準備会議の初会合を開き、同年9月28日の同会議の事業部会において、①国土の緑化、②青年の船、③歴史の保存と顕彰、④記念切手の発行、の四つを柱とする、記念事業の実施案が定められました。

 これに伴い、同年10月、明治百年記念事業委員会が正式に発足し、1968年10月23日(明治改元の記念日)に日本武道館で開催の明治百年記念式典(中央祝典)をメイン・イベントとして、第23回国民体育大会、第17回全国青年大会、記念植樹と国土緑化運動 、記念講演の整備と建設、青年の船などの各種事業が“明治百年”の冠をつけて行われています。
 
 さて、1966年9月の決定を受けて、1968年10月の明治百年記念式典に先立ち、関連の記念切手として、1月19日には“明治百年記念 青年の船”の切手 が、ついで、5月18日には“明治百年 国土緑化”の紀念葉書が、さらに、10月1日には“明治百年 第二十三回国民体育大会”の記念切手 がそれぞれ発行されたほか、各種イベントにあわせて小型印も用いられています。

 これに対して、“明治百年記念”の直接的な記念切手は、中央祝典当日の10月23日に発行されました。当初、明治百年の記念切手は身体障害者援護事業の寄付金をつけて発売されることも検討されましたが、会計処理の問題から、通常の記念切手を2種類発行するということで決着しています。

 記念切手は、小堀鞆音の絵画「東京御著輦」を取り上げたものと、木村勝のデザインによる、明治百年のシンボルマークと昌平丸を取り上げたもの(今回ご紹介の切手)の2種セットで発行されました。

 明治百年のシンボルマークは、グラフィック・デザイナーの大橋正がデザインしたもので、丸の中に菊花が配されています。マークの使用を管理していた総理府では、①赤味がかった金、②青味がかった金、③さえた赤、④うすい赤味の黄、⑤みどり、⑥明るい青、⑦明るい紫・赤味がかった紫、の7種類をマークの規定色としていましたが、切手には“赤味がかった金”が採用されました。
なお、シンボルマークは切手の発行と同時に用いられた特印(デザインは大塚均が作成)にも取り上げられています。

 一方、昌平丸は、1854年12月、幕府の依頼を受けて、薩摩藩の島津斉彬が建造したわが国最初の洋式軍艦です。翌1855年、鹿児島を出航して品川に入り、島津から幕府に献納され、その後は幕府の練習艦として用いられました。維新後は明治政府に移管され、1869年、北海道開拓使の所管となって北海道沿岸の物資の輸送に用いられましたが、函館から小樽へ向かう途中で難破漂流し、翌1870年3月、北海道桧山郡上ノ国町沖で座礁し、破船しました。切手のデザインは、山高五郎の『日の丸船隊史話』(千歳書房 1942年刊)に収められている挿絵を元に構成されたものと思われます。

 ところで、切手の図案と昌平丸についての説明が郵政省の報道資料によって発表されると、この船を今回の記念切手に取り上げることの必然性に疑問を呈する声が各方面から上がっています。郵政省としては、西欧文明を取り入れた日本の造船技術を象徴するものとして昌平丸を切手に取り上げたということのようですが、そのことを理解できた国民はごく稀だったようです。

 なお、昌平丸を切手に取り上げたことに関しては、調布市在住の学生、宮地竹史の以下のような投書が10月2日付の『朝日新聞』に掲載されています。

 十月二十三日に行われる明治百年記念式典に際して、郵政省は二種の記念郵便切手を発行する予定だそうですが、その中の一つに、明治百年のシンボルマークと太陽に帆船を描いた切手があります。その切手の説明を読んで驚いたことには、この帆船はわが国最初の洋式軍艦「昇平丸(後に昌平丸と改称)」であるということです。
 私は、この昌平丸がどういう軍艦であったかは知りませんが、過去の歴史を振返って、この百年の間、戦争によってわが国がどれだけ他国に迷惑をかけ、またみずからも、どれだけひどい目にあったかを考えると、この戦争で大きな役割を果たした軍艦を、たとえわが国最初のものであろうと描くということは、平和で迎えた明治百年の意義に逆行はしないでしょうか。
 昇平丸の“昇平”を表現する意味は分かりますが、百年もかかって築かれた今日の日本を祝うのにはふさわしくありません。そう思ってみていると、切手に描かれた太陽を背にしたシンボルマークが、まるで原爆のか水爆のせん光に浮かび上がったキノコ雲に思えてくるのです。

 ちなみに、1968年という年は、いわゆる東大紛争をはじめ、全国で大学紛争が繰り広げられており、学生の間ではいわゆる左翼的な価値観が主流を占めていました。上述の宮地の投書も、そうした時代の空気を反映したものとみなすことができるでしょう。

 もっとも、宮地のように、今回の記念切手を思想的な理由から批判的にとらえていたのは少数派で、今回の記念切手は一般には非常に人気を博し、発行初日の東京中央局では雨天にもかかわらず長い行列ができ、1人各5シートずつの販売制限も行われたほどでした。

 
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 ホークスが日本シリーズ進出
2018-10-22 Mon 04:13
 プロ野球のパシフィック・リーグは、昨日(21日)、クライマックスシリーズ(CS)ファイナルステージでリーグ戦2位の福岡ソフトバンクホークスがリーグ優勝の埼玉西武ライオンズを4勝2敗(アドバンテージの西武1勝含む)で下し、2年連続の日本シリーズ進出を決めました。というわけで、“鷹”の切手の中からこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      パレスチナ・ブライジュ初日印

 これは、アラブ諸国で広く用いられている“サラディンの鷹”の国章を描くパレスチナ自治政府最初の切手に、アル・ブライジュ局の初日印を押したオンピースです。

 1993年のオスロ合意を受けて、1994年5月にはカイロでパレスチナ先行自治協定(PLOによる自治を開始するための具体的協定)が調印され、イェリコとガザで暫定自治が開始されました。これに伴い、5月4日にはガザ地区で、5月9日にはイェリコで、イスラエルの郵政機関が閉鎖され、パレスチナ自治政府の郵政機関が発足します。ただし、当初はパレスチナ自治政府独自の切手・消印は間に合わず、ガザ地区とイェリコでもイスラエルの切手がそのまま使用されていました。

 このため、パレスチナ自治政府としての独自の切手を発行すべく、PLO駐独代表のアブドゥッラー・フランギーが、ドイツ社会民主党の国会議員でアラブ諸国との関係が深く、かつ切手収集家でもあったハンス・ユルゲン・ヴィシュネウスキーと接触。その結果、ドイツの老舗切手エージェント、ゲオルグ・ロール・ナシュフ社のコーディネートの下、国有ドイツ連邦印刷会社が切手を製造することで話がまとまり、1994年夏、今回ご紹介のモノを含め、ベルリンで切手の製造が行われました。これとあわせて、自治政府独自の郵便印もドイツ側に発注されています。

 パレスチナ自治政府がドイツから切手を受け取ったのは1994年10月以降のことで、各地の郵便局では、いつからこれらの切手が実際に販売されたのか、現在となっては正確なデータは残されていません。ちなみに、この切手の収集家向けの販売代理店となったゲオルグ・ロール・ナシュフ社は、1994年8月15日付の“初日カバー”を制作・販売していますが、この日付の時点では切手は実際にはパレスチナに到着していませんから、初日カバーに押されている消印の日付が“後押し”となっている点は注意が必要です。

 こうした経緯を経て、1995年1月1日、パレスチナ自治政府が独自の切手を用いて本格的に郵便サービスを開始します。ただし、この時点では、当初使用予定だったドイツ製の郵便印は間に合わなかったため、急遽、自治政府側はエジプトで使用されている消印を模して、丸二型の印を調製して暫定的に使用していました。なお、今回ご紹介のオンピースのアル・ブライジュ局は、ガザ地区デイル・バラフ県の難民キャンプに設けられた郵便局です。

 ちなみに、パレスチナ自治政府の切手と郵便については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたらmぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 アフガニスタンで8年ぶり下院選
2018-10-21 Sun 01:17
 内戦下のアフガニスタンで、きのう(20日)、8年ぶりとなる下院選(定数250、任期5年)が実施されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      アフガニスタン・議事堂(1983)

 これは、1983年、共産政権下のアフガニスタンで発行された観光宣伝の切手で、国会議事堂として使うために建築されたものの、議事堂として使われることのなかったダルラマン宮殿が取り上げられています。

 1920年代初頭、当時のアフガニスタン国王、アマーヌッラー(在位1919-29)は、近代化政策の一環として、カーブル中心部からは南西へ16km、平坦で乾燥した谷を望む丘の上に新首都“ダルラマン”の建設を計画します。ダルラマン宮殿は、その新首都の国会議事堂として使用する目的で建設された新古典主義建築です。

 ところが、1929年、国王は、改革路線を嫌う守旧派が英国と結んで起こしたクーデターによって亡命を余儀なくされ、ダルラマン宮殿も議事堂として使用されることはないまま放置され、1969年にはいったん、火災で全焼しました。

 その後、1970年代のダーウド政権下で 宮殿は修復の後、国防省の庁舎として使用されていましたが、1978年の人民民主党(共産党)によるクーデターの際には放火され、損傷しました。

 1989年のソ連軍撤退を機にアフガニスタン全土でムジャーヒディーン諸派の内戦が発生すると、宮殿は再び大きなダメージを受け、砲撃により全焼、廃墟となっていました。

 2005年には、当時のカルザイ政権が、外国人を含む民間の寄付を募って宮殿を再建・改修し、将来の国会議事堂として使う計画が発表されたものの、実現には至らず、2015年12月、宮殿の向かい側に、インド政府の支援を受けた新議事堂が竣工。宮殿の再建計画は頓挫したままとなっています。

  さて、アフガニスタンの下院選挙は、当初、2015年に実施予定でしたが、治安の悪化から延期が繰り返されてきました。きのうの投票でも、テロ対策で治安部隊約7万人が投票所に配置されたものの、全土でタリバンなど武装勢力と治安部隊が衝突し、首都カブールの投票所では自爆テロで少なくとも15人が死亡、中部ゴール州でも警官11人が死亡するなど、AFP通信によれば約170人が死傷したと報じられています。

 また、18日に地元警察トップらがタリバンに襲撃された南部カンダハル州と、8月にタリバンの猛攻を受けた中部ガズニ州での投票は延期されるなど、せにょは大混乱となっていますが、選管としては、ともかくも、11月10日に暫定結果を、12月20日に最終結果を発表する予定だそうです。
 

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 グアテマラ革命記念日
2018-10-20 Sat 05:42
 きょう(20日)は、中米・グアテマラの革命記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      グアテマラ・10月革命1周年

 これは、1945年にグアテマラで発行された“10月革命1周年”の記念切手です。

 世界恐慌発生直後の1930年、グアテマラでは軍出身のホルヘ・ウビコ・イ・カスタニェーダが米国の支持を背景に政権を掌握します。

 世界的な不況の中で出発したウビコ政権は、経済再建を大義名分に極端な強権政治を展開。公務員給与の4割カットや大量解雇などにとどまらず、債務奴隷や強制労働制度の導入、さらに、地主に労働者への処刑を認める法律さえ制定しました。また、人口の約4割を占めていたマヤ系の先住民族に対しては、彼らを“文明化”するためとして兵役の義務を課しています。

 その一方で、それまでもグアテマラに広大な農地を所有していたユナイテッド・フルーツ社に対して、鉄道建設と引き換えに、さらに数百万ヘクタールの土地と免税特権を与え、事実上の経済的支配権を許し、その見返りに巨額のキックバックを受け取っていました。

 当然のことながら、国民はウビコの政策に不満でしたが、ウビコは大統領直属部隊の“国家警察軍”を創設してスパイ・密告網を張り巡らし、1933年には共産党を壊滅させたのを皮切りに、反対勢力を徹底的に弾圧することで独裁権力を維持し続けます。

 しかし、1944年6月25日、学生の反政府運動に知識人、専門職、若手軍人らが合流して大規模な反政府デモが発生。ゼネストと抗議行動はグアテマラ全土に拡大し、6月30日には米国もウビコの行動を批難したため、7月1日、ウビコは米ニューオリンズに亡命し13年余に及んだ独裁政権は崩壊しました。

 ウビコの亡命直後、ブエネべンチュラ・ピニェダ大佐、エドゥアルド・ビジャグラン・アリサ大佐、フェデリコ・ポンセ・バイデス将軍の3名は、国民議会を開いて暫定大統領の選出することを約束しましたが、7月3日、実際に議会が招集されると、軍は全議員に銃口を突き付け、ポンセへの投票を強要。ポンセは、ウビコからの命を受け、ウビコ政権の閣僚の多くを留任させたほか、弾圧政策もそのまま継続させたため、反政府勢力が再び結集。10月20日、前年まで士官学校の校長を務めていたハコボ・アルベンス・グスマンと、軍内改革派のフランシスコ・ハビエル・アラナ将軍を指導者とする兵士・学生グループが国民宮殿を襲撃し、ポンセを追放。アルベンスやアラナ、そして弁護士のホルヘ・トリエリョが革命政権を樹立し、年末までに民主的選挙を実施することを確約しました。

 これが、グアテマラの“革命記念日”の由来となった1944年のグアテマラ10月革命です。

 10月革命を受けて行われた選挙の結果、亡命先のアルゼンチンで大学の哲学教授をしていたフアン・ホセ・アレバーロ・ベルメホが大統領に選出されました。

 ちなみに、1944年の10月革命から1954年のアルベンス政権崩壊までの10年間、グアテマラは“グアテマラの春”と呼ばれたリベラルな時代がしばらく続きますが、若き日のチェ・ゲバラは、その最末期、首都のグアテマラシティに滞在し、CIAの工作によりアルベンス政権の崩壊を見届けています。

 現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、そのあたりの事情についても詳しく書いたのですが、諸般の事情で刊行が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのです。同書については、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 米、UPU脱退手続き開始
2018-10-19 Fri 01:02
 米国のトランプ政権は、17日(現地時間)、万国郵便連合(UPU)から脱退する手続きを開始したことを明らかにしました。というわけで、UPUを通さない郵便物の一例として、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      梧州→ザルツブルク(コンビネーション)

 これは、1901年2月1日、清朝末期の広西省・梧州からオーストリアのザルツブルク宛に差し出された葉書で、清朝の葉書・切手に、香港切手を貼り足してオーストラリアに届けられています。

 UPU(1874年成立)の加盟国間では、原則として、郵便物の差出国の切手で宛先地までの料金を納付したと認められます。現在、我々が日本から外国宛に郵便を差し出す場合、日本切手だけを貼れば宛先に届くのは、このためです。逆に、非加盟国の政府が発行する“切手”は国際的には郵便料金前納の証紙としての効力はありませんから、外国あての郵便物にそうした切手を貼って差し出すと、相手国で料金不足ないしは未納の扱いを受ける可能性があります。

 現在、通常の独立国であれば、万国郵便連合への加盟はほぼ自動的に認められていますが、このことは逆に、同連合への加盟が認められないということは郵政面では正統な独立国家として国際社会から認知されていないということを意味しているともいえるわけです。

 さて、旧清朝では、当初は海関(税関にほぼ相当する期間)が郵便事業を担当していましたが、1897年2月20日、海関に代わる国家郵政として、大清郵政局が発足しました。しかし、アヘン戦争から日清戦争にいたるまでの間、ありとあらゆる戦争に負け続け、半植民地化が急速に進んでいた清朝の国家郵政は、国際社会からは自立した独立国の行政機関とはみなされず、UPUへの加盟が認められませんでした。

 このため、清朝から外国宛の郵便物に関しては、清朝側は全国の主要な郵便局に外国の切手を備え付け、外国宛の郵便物には、料金分の中国切手とは別に、用意した外国切手を貼り、それを開港地の外国郵便局に持ち込んで郵便物の差立を依頼するという方法が取られました。

 今回ご紹介の葉書はその一例で、1901年2月1日、この葉書を引き受けた梧州の郵便局では、清朝の官製葉書(額面は1分)に外国宛料金の差額分の清朝の切手3分相当を貼り足した後、さらに、4セントの香港切手を貼り、香港切手には清朝国家郵政を意味する“IPO”(Imperial Post Office)割印を押しています。

 自国の切手であれば、貼付されている切手の料金を確認し、それがきちんと貼られていたことを示すためには、切手に消印を押せばことが足りるのですが、清朝の郵便局で香港切手に消印を押してしまうと、香港の郵便局ではその切手は無効となってしまいます。かといって、切手が貼られていたことを証明するための表示がなければ、切手が脱落した場合(中国では郵便物の逓送途中に、消印の押されていない切手が剥ぎ取られることが少なくありませんでした)、受取人は不足料金を徴収されてしまいます。このため、清朝側は、苦肉の策として、消印ではなくIPOの割印を押して、対応していたわけです。

 こうして、この葉書を引き受けた梧州の郵便局では葉書を広東経由で香港に送り、1901年2月3日、葉書は英領香港の郵便局に引き渡され、そこから先は香港切手(英領植民地として万国郵便連合に加盟しています)の効力によって、ザルツブルクまで届けられました。ザルツブルクへの到着は、葉書に押されている到着印によれば3月8日です。

 その後、清朝は、1902年にはフランス、1903年には日本、1904年には香港(英国)、1905年にはドイツと、それぞれ、個別の郵便協定を結びます。その結果、それぞれの列強が中国に設けていた郵便局を経由しなければならないという制約はあったものの、ようやく清朝の切手だけで、そのまま外国宛に郵便物を差し出せるようになり、コンビネーション・カバーもその役割を終えました。

 なお、中国が万国郵便連合への正式加盟を達成するのは、辛亥革命により中華民国が成立した後の1914年3月1日のことで、清朝国家郵政は自立した郵政機関として国際社会から認知されぬまま消滅してしまいました。

 このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 さて、今回、米国がUPUからの脱退手続きを開始した理由としては、中国企業などがアメリカの郵政公社と比べ、極めて安い値段で小包を配送でき、アメリカに「損害を与えている」からと説明されています。UPUは、国際郵便料金を設定する際に、途上国からの荷物には補助金を出する一方、米国を含む富裕国の料金を高く設定していますが、中国が“途上国”に分類されていることから、こうした問題が生じているわけです。

 ただし、全世界の国際郵便のうち、米国発着の郵便物が占める割合は大きいため、米国としても直ちにUPUから脱退するというわけではなく、今後、1年かけて加盟国などと交渉し、“公平なルール”に改められた場合は脱退を取りやめるとの含みを持たせていますので、今後の交渉の推移に注目していきたいと思います。
     

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 切手に見るソウルと韓国:安昌浩
2018-10-18 Thu 00:14
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』9月21日号が発行されました。月一で同紙に僕が連載している「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、9月14日、韓国で初めて建造された3000トン級次期潜水艦“島山 安昌浩”(KSS-III)の進水式が行われたことにちなみ、艦名の由来となった安昌浩の切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます) 

      韓国・興士団100年

 これは、2013年に発行された“興士団100年”の記念切手で、興士団の創設者としての安昌浩の肖像が取り上げられています。
 
 安昌浩は、朝鮮王朝時代の1878年11月9日、平安南道で生まれました。ソウルに出て英国人牧師、ホレイス・グラント・アンダーウッドの救世学堂で学び、日清戦争後、清朝の宗主権下から離れた朝鮮の立憲君主制導入を目指す独立教会運動に参加した後、1902年、渡米してサンフランシスコで共立協会(のちの大韓人国民会)を結成し、在米朝鮮人運動を指導しました。

 しかし、1905年11月、日露戦争に勝利した日本が第2次日韓協約(乙巳保護条約)で大韓帝国を保護国化し、実質的に独立国としての地位を失ったことを知ると、1907年に帰国し、国権回復を第一の目的とする民族団体“新民会”を組織。同志を募り、各地での講演会や『大韓毎日申報』を通した啓蒙活動や、大成学校・五山学校設立等の教育事業、磁器製造株式会社設立等の実業活動、中国での独立軍基地建設事業などの運動を展開しました。

 新民会は秘密結社でしたが、当時の愛国啓蒙団体の主要メンバーが多く参加し、啓蒙運動の中枢的機関として、1910年頃には会員数が約800人に達しました。このため、1910年の韓国併合後、新民会は、日本の朝鮮総督府から危険視され、1911年、朝鮮総督寺内正毅の暗殺計画に関与したとして、独立運動家約700人が検挙(うち105人が一審有罪。ただし、控訴審では99人が無罪)される“105人事件”で壊滅状態に追い込まれました。

 このため、安も中国経由で米国に亡命し、1913年、修養啓蒙団体として“興士団”を組織しました。

 1919年の三一運動後、上海で大韓民国臨時政府(臨政)が設立されると、安はこれに参加して内務総長に就任しましたが、臨政は、地域派閥や党派の争いが絶えず、畿湖(京畿道・忠清道)出身でも両班でもなかった安は政府で軽んじられたため、嫌気がさして内務総長を辞し、満洲に渡って、独立運動の根拠地として“理想村”の建設を目指します。

 朝鮮の独立運動家の中には、大言壮語するばかりで実際には何もしない者や、極端な主張からテロ活動に走る者が少なくありませんでしたが、安はそのいずれも排し、「自我革新・民族革新」のスローガンの下、朝鮮人が自ら近代国家としての力を養った上で、民族の実力により日本からの独立を勝ち取るべきだとの地に足のついたスタンスを取っていました。実力の伴わない独立運動家たちに接するたび、安が「君は国を愛しているというのなら、いつ、健全な人格になるのか。我々に人材がいないのは、しかるべき人物になろうと決心して努力する人がいないからである。人物がいないと慨嘆するその人自身が、何故人物になろうと勉強・修養しないのか」と諭していたというエピソードは有名です。

 しかし、1931年9月に満洲事変が勃発したことで理想村の計画は頓挫。さらに、翌1932年4月29日、上海虹口公園で尹奉吉が爆弾を投げる“上海天長節爆弾事件”を起こすと、臨政の元幹部として事件への関与が疑われて逮捕され、朝鮮に送還の後、懲役4年の実刑判決を受けて下獄しました。

 1935年、安は仮釈放となり、民族運動の第一線からは退き隠退しますが、1937年6月、興士団の国内組織である同友会事件が起きると、興士団の創立者として関与を疑われて再逮捕され、保釈を取り消されます。しかし、収監中に持病の肝臓病が悪化したため、京城帝国大学病院に移送され、1938年3月10日、同病院で肝硬変のため亡くなりました。享年59歳。


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 ウルグアイに22年ぶり勝利
2018-10-17 Wed 01:08
 きのう(16日)行われたサッカーの国際親善試合で、FIFAランク54位の日本代表が国際親善試合で同5位のウルグアイ代表に4―3で勝利しました。日本代表がFIFAランクトップ10のチームに勝利するのは5例目で、ウルグアイ戦での勝利は1996年以来22年ぶりのことです。というわけで、ウルグアイのサッカー切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ウルグアイ・第1回W杯ポスター

 これは、1983年に発行された“第1回サッカーW杯ポスター”の切手です。

 1904年に発足した国際サッカー連盟(FIFA)は、国際交流の場としてのアマチュア精神を重視し「参加することに意義がある」としていた五輪に対して、高いレベルの競技を見せるには選手の生活の安定を図る職業化は不可欠であり、クラブチームから選りすぐったスター選手を国代表として集め、国対抗で戦わせる世界選手権の開催(ワールドカップ:W杯)を目指していました。

 こうした背景の下、1921年、FIFA会長に就任したフランス人のジュール・リメは、4年ごとの五輪の中間年を選んで1930年に第1回W杯を立ち上げます。

 開催地に選ばれたのは、1930年が独立100周年にあたっていたウルグアイでしたが、当時のウルグアイは、1924年・1928年の五輪で連続優勝を果たすなど、世界有数のサッカー強豪国だったという点も第1回の開催地として適切とみなされました。

 第1回W杯は、1930年7月13-30日の日程で開催され、南米7国(ウルグアイ、アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、チリ、パラグアイ、ペルー)、欧州4国(ベルギー、仏、ユーゴスラビア、ルーマニア、北米2国(メキシコ、米国)の13国が参加。地域予選はなく、全て招待参加でした。なお、日本も招待されていましたが、当時の大日本蹴球協会は資金不足を理由に参加を見送っています。

 参加国は4組に分けられ、7月13日、最初の試合としてフランス対メキシコ戦が行われます。その後、各組1位で通過したアルゼンチン、ユーゴスラヴィア、ウルグアイ、米国の4国が準決勝に進出。30日にモンテヴィデオのエスタディオ・センテナリオ(100周年記念スタジアム)で行われた決勝戦で、ウルグアイは4対2でアルゼンチンを下し、第1回大会の開催国にして優勝国という栄誉を獲得しました。

 ウルグアイの優勝は、当時、独立して100年足らずの新興国が多かった南米諸国に対して、自分たちもサッカーでなら“世界一”に慣れるという希望を与えることになります。特に、同年、ブラジルの大統領に就任したジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは、ウルグアイの優勝に大いに刺激を受け、ブラジル国民としてのアイデンティティの涵養と国威発揚のため、国策としてサッカーを重視するようになり、それが、後のサッカー王国の基礎を築くことになりました。

 このあたりの事情については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 世界食糧デー
2018-10-16 Tue 03:13
 きょう(16日)は、1945年10月16日に国連食糧農業機関(FAO)が設立されたことにちなみ、開発途上国等での栄養失調や飢餓について考える“世界食糧デー”です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ベネズエラ・反飢餓運動(漁業)

 これは、1963年にベネズエラが発行した“反飢餓運動(飢餓救済キャンペーン)”の切手のうち、漁業をとりあげた1枚です。“反飢餓運動”はFAOが1960年から1965年にかけて展開したもので、その運動期間の中間にあたる1963年の春分の日を中心に、各国で啓蒙のためのさまざまなイベントが展開されました。その一環として、各国はキャンペーン切手をしています。

 ベネズエラ北岸沖は、ブラジル南東岸沖に次いで、西部大西洋におけるマグロ類の漁場として知られています。漁獲物の典型的な魚種組成は、カツオ63%、キハダ20%、メバチ及びその他のまぐろ類17%で、このうち、カツオの漁法としては、ブラジル沖では竿釣りが中心なのに対して、ヴェネズエラ沖ではまき網(魚群を発見すると魚種にあった漁網で群を巻き、運搬船に積上げて漁獲する漁法)が中心です。このため、今回ご紹介の切手でも、竿釣りではなく、網で魚を引き上げている場面が取り上げられました。

 さて、かつては潤沢な石油資源を背景にラテンアメリカでも有数の豊かな国だったベネズエラですが、2012年まで続いたウゴ・チャベス政権の放漫財政に加え、後継のニコラス・マドゥロ政権が、経済無策なまま、チャベスの反米・社会主義路線を維持したことで経済状況は深刻な状況に陥ります。

 チャベス政権下の2008年1月1日付で導入された通貨、ボリバル・フェルテは下落の一途をたどり、2016年には、当時のベネズエラの最高額紙幣の100ボリバルは、公定レートでも米ドル換算で15セント、市中の実勢交換レートでは2セントにしかならないほどに下落。このため、マドゥロ政権は、同年12月11日、72時間以内に現行の100ボリバル紙幣を撤廃して硬貨に入れ替えるとともに、500、5000、2万ボリバルの新紙幣を発行すると突如発表。このため、100ボリバル紙幣が廃止される前に米ドルなどに交換すべく、ベネズエラ市民が国境を越えてコロンビアに殺到します。

 ところが、新紙幣流通開始予定日の12月15日になっても新紙幣は市中には出回らなかったことにくわえ、同日、マドゥロ政権は「マフィアがベネズエラの通貨をコロンビアに移動させている」としてコロンビアとの国境を封鎖したことから混乱が拡大。結局、旧50および100ボリヴァル紙幣に代わる新硬貨は、当初予定より10日以上遅れた28日から市中での流通が始まったものの、新紙幣が本格的に流通するようになったのは年が明けた2017年1月16日のことでした。

 経済が麻痺状態に陥る中で、食糧と医薬品の不足は危機的な状況となり、絶望した国民の出国が激増します。ちなみに、2015年に海外へ脱出したベネズエラ人が70万人だったのに対して、2017年にはおよそ160万人のベネズエラ人が国外に脱出(その内訳は、南米に88.5万人、北米に30.8万人、中米に7.8万人、カリブ諸国2.1万人など)したと推定されています。その大半は、出国の主な理由として国内の食糧難を挙げており、国連の人道援助担当官によると、逃亡した人々のうち130万人が「栄養不良の状態に苦しんでいる」と報告されています。

 国民の不満が高まる中で、マドゥロ政権は、野党を封じ込めるため、2017年5月1日、従来から存在する国会(国民議会)とは別に“制憲議会”の招集を発表。7月30日、内外の反対を押し切って制憲議会選挙を強行しました。8月4日に発足した制憲議会は、同月18日、国民議会から立法権を剥奪し、行使することを決定し、ベネズエラは事実上の一党独裁体制に移行しました。

 これに対して、米国は、米国民と米国企業に対し、ベネズエラ政府やPDVSAが新たに発行する債券の取引を禁止する経済制裁を発動。このため、マドゥロ政権は、従来にもまして対米批判を強めたほか、「米帝国主義制度を除去する」として、自国産原油の価格表示を米ドルから人民元に変更。その流れで、仮想通貨“ペトロ”の導入に踏み切ったものの、2018年3月20日、米国はペトロの購入を禁止しました。

 さらに、一党独裁体制への国際的な批判が高まる中、4月26日、マドゥロ政権は“内政干渉”を理由に米州機構脱退を宣言。そのうえで、5月20日、マドゥロは反対派を排除したうえで行われた大統領選挙で“再選”を果たしますが、米欧は選挙結果を承認していません。

 こうした中で、経済状況はますます悪化し、7月23日 IMFはベネズエラのインフレ率が年末までに100万%に達するとの予想を発表。この数字は1923年のドイツおよび2000年代終わり頃のジンバブエに匹敵するものですが、マドゥロは、ベネズエラの経済の困窮は米欧が仕掛けた経済戦争に責任があるとしばしば主張しており、自らの責任で問題を解決する意思は全く見られません。

 8月にはボリバル・フエルテから5桁切り下げた新通貨ボリバル・ソベラノが導入されたものの、事態は全く好転せず、今月9日、にはIMFが、ベネズエラのインフレ率が2,019年中に年率1000万%に達するとの予測を発表。最低賃金が月額1800ボリバル・ソベラノ(実勢を反映した非公式レートで約13ドル)のところ、首都カラカスでは卵1ダースの実勢価格が約400ボリバル・ソベラノとなるなど、一般市民の生活は苦境が続いています。


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 ジブチの海外根拠地、恒久化へ
2018-10-15 Mon 01:39
 防衛省は、きのう(14日)までに、自衛隊唯一の海外根拠地としてアフリカ東部のジブチに置いている拠点を恒久化する方針を固めたそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジブチ港標語印カバー

 これは、仏領アファル・イッサ時代の1969年12月15日、ジブチからフランス宛のカバーで、ジブチ港を宣伝する標語印が押されています。

 コーチシナ方面に進出を開始したフランスは、1862年、中継基地として、アデン湾に面したオボックをアファル人(エチオピア系)の首長から租借します。その後、1869年のスエズ運河開通を経て、1880年代にフランスのインドシナ進出が本格化すると、1881年、フランスはオボックにフランス・エチオピア通商会社を設立。さらに、1884-88年、現地司令官のラギャルドはエチオピア帝国の皇太子、サーレ・マリアム(1889年、皇帝メネリク2世として即位)との関係を構築してジブチの土地を獲得し、1888年、ジブチ港の建設を開始しました。

 この頃、1884年には英領ソマリランド現在のソマリランド国家の領域に相当)が成立したほか、1889年にはイタリアがエチオピアとのエリトリア戦争に勝利し、エチオピアはウッチャリ条約でエリトリアを割譲。さらに、1892年、イタリアは現在のソマリアの首都・モガディシュを租借地とし、イタリア語風にモガディシオと改称していました。

 こうしたイタリアの進出に対抗すべく、エチオピア皇帝メネリク二世はフランスに接近し、1894年、ジブチからエチオピアのハラールまでの鉄道敷設権をフランス企業に付与。これを受けて、1896年、フランスは、オボックとジブチを含む紅海の入口・アデン湾奥の西岸を“仏領ソマリ(ソマリコースト)”として植民地化しました。なお、仏領ソマリの民族構成は、ソマリ系のイッサ人が60%、エチオピア系のアファル人が35%です。

 その後、イタリアは1905年にモガディシオを買収し、1908年に現在のソマリアの南東部に相当する地域を植民地化し“イタリア領ソマリア”を確立。さらに、現在のエチオピア東部、ソマリ州に相当する地域はエチオピアが支配し、英領ケニア植民地の一部もソマリ人の居住地域にかかるなど、ソマリ人の居住地域は英仏伊とエチオピアの4国により5分割されました。

 第二次大戦後の1960年6月26日、“アフリカの角”北部の英領地域がソマリランド共和国として独立。7月1日には南部のイタリア領地域も独立し、この両者を統合して、現在、国際社会が認知しているソマリア国家が誕生します。ソマリア独立後の初代大統領、アデン・アブドラ・ウスマンは、国家統合を進めるため、すべてのソマリ人はソマリア国家の下に集結すべきとする“大ソマリア主義”を強調し、仏領ソマリならびにケニアとエチオピアのソマリ人居住地域の併合をはかり、摩擦を引き起こしました。

 一方、1960年代初頭、アフリカの仏領植民地が相次いで独立する中で、仏領ソマリではソマリ系のイッサ人とエチオピア系のアファル人の対立のため、単一国家としての独立は困難な状況でした。このため、1967年、仏領ソマリでは独立の是非を問う住民投票が行われたものの、住民は仏領への残留を選択。これを受けて、住民構成に考慮して、仏領ソマリは仏領アファル・イッサに改称されました。今回ご紹介のカバーは、こうした状況の下で刺す出されたものです。

 ちなみに、仏領アファル・イッサが首都ジブチの名を冠して“ジブチ共和国”として独立するのは、1977年のことでした。

 さて、ソマリア沖・アデン湾での海賊対処は海上自衛隊が2009年から開始し、2011年からは、ジブチ国際空港北西地区の約12ヘクタールの敷地を借り、隊員宿舎や事務所、整備格納庫を設け、自衛隊初の海外拠点として運用しています。

 アデン湾での海賊対処には約30カ国が軍艦などを派遣し、ピーク時の2011年に237件あった海賊事案は2015年には0件となり、昨年も9件にとどまりました。海賊対処が終われば、ジブチ政府から“当面の措置としてのみ認められた”拠点を維持する根拠も失われますが、ジブチはインド洋と地中海を結ぶ海上交通路の要衝として利用価値が高く、2013年のアルジェリア人質事件のようにアフリカで在外邦人保護が必要になれば自衛隊機による救出と輸送の中継地として活用できるほか、国連平和維持活動(PKO)の物資輸送の経由地としても使われてきました。さらに、中国がジブチに初の海外軍事基地を設けたこともあり、これに対抗する必要もあります。

 こうしたことから、海賊対処が終了しても、ジブチの拠点の維持・活用が不可欠と判断されたわけですが、そのためには、ジブチ政府の同意と海賊対処を前提にした地位協定の改定が必要で、日本政府としては、ジブチ政府の同意を得るため、自衛隊装備品の無償譲渡と整備支援に着手することに向け年内に調整に入るそうです。


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 鉄道の日
2018-10-14 Sun 03:35
 きょう(14日)は“鉄道の日”です。というわけで、鉄道関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アルゼンチン・レティーロ駅絵葉書

 これは、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレス北東部にあるターミナル駅である“レティーロ駅”を取り上げた1920年の絵葉書です。

 アルゼンチンの鉄道は、1857年、英国資本によって、ブエノスアイレス市内のコロン劇場裏からフロレスタ地区までの9.8 kmで開業したフェロカリル・オエステが最初で、1864年にはコンスティトゥシオン駅からの南方面鉄道(後のロカ線の一部)が開通。以後、主として英国資本によって鉄道建設が進められ、19世紀末までには総延長1万6500 kmに達しました。

 こうしたこともあって、アルゼンチンの鉄道はながらく英国の強い影響下に置かれており、首都の中央駅にあたるレティーロ駅の建設も英国人が主導して進められました。

 すなわち、フレンチスタイルの駅舎の設計を担当したのは、英国人建築家のユースタス・L・コンダー、ロジャー・コンダー、シドニー・G・フォレット、技術者のレジナルド・レイノルズで、鉄骨構造は英リヴァプールで作られてアルゼンチンで組み立てられ、1915年8月1日に開業するというプロセスをたどっています。

 レティーロ駅は南米を代表する建造物として、1997年、アルゼンチン歴史遺産に指定されており、僕も、昨年(2017年)ブエノスアイレスを訪れた際に見に行ったのですが、残念ながらドーム屋根の外壁の修復工事中でした。(下の画像)

      レティーロ駅(2017年)

 ちなみに、1953年4月、ブエノスアイレス大学医学部を卒業して医師資格を取得したチェ・ゲバラは、軍医として徴用されることを嫌ってアルゼンチン脱出を決意し、同年7月7日、レティーロ駅からボリヴィア・ラパス行きの列車で出国しています。電車に乗り込む直前、コンコースを抜けてホームに向かって歩いていたゲバラは、いきなり、緑色のカンバス地の袋を高く掲げ、「われこそはアメリカ大陸の兵士なり!」と叫んだそうです。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、若き日のゲバラについても1章を設けてまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 グアドループの切手
2018-10-13 Sat 01:54
 2018年のノーベル文学賞発表見送りを受け、今年限りの市民文学賞を創設したスウェーデンの文学関係者らによる“ニュー・アカデミー”は、きのう(12日)、同賞にカリブ海のフランス海外県グアドループ出身の女性作家、マリーズ・コンデ氏を選出したことを発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      グアデループ(1884)

 これは、1884年にフランス植民地共通切手に“G.P.E.”の文字と額面を加刷して発行されたグアドループ最初の切手です。

 グアドループは、西インド諸島のリーワード諸島の一角をなす島嶼群で、バス・テール島とグランド・テール島(この2島で“グアドループ島”を構成)を中心に、マリー・ガラント島、ラ・デジラード島、プティト・テール諸島、レ・サント諸島などの島々から構成されています。かつては、サン・マルタン島とサン・バルテルミー島もグアドループに属していましたが、2003年、両島はそれぞれ分離して独自のフランス海外準県となり、現在に至っています。

 グアドループは、1635年以降、一時的な例外を除いて、フランスが支配しており、第二次大戦以前は、行政上は仏領植民地と位置付けられていました。

 第二次世界大戦中、グアドループは親独ヴィシー政権に属し、島にはヴィシー政権の水兵が上陸していました。しかし、1943年7月14日、フランス革命の記念日にあわせて、反独レジスタンスが蜂起し、自由フランス側に転向。これに伴い、グアドループ出身の黒人兵たちがアルザスの戦いなどに動員され、連合国の兵士として戦います。しかし、フランス軍がライン川を渡ってドイツ領内に入る段になると、自由フランス軍の兵士は全て白人に“漂白”され、非白人兵はトゥーロンに送られるという屈辱を味わいました。

 第二次大戦後、グアドループも仏領植民地から海外県に昇格。これに伴い、1947年以降はフランス本国の切手が使用されています。
 
 なお、仏領植民地の自治拡大が進められていく中でも、ド・ゴールの認識では、グアドループは“海の上の小さな埃”でしかなかったため、住民の自治は拡大されませんでした。かつての奴隷商人の子孫やフランス本土から来た白人植民者の子孫、“ベケ”が政治・経済を牛耳る体制もそのまま維持され、水やコメ、ガソリンなどの生活物資の輸入はベケが独占。このため、物価はフランス本土の1.5-2倍で、一般労働者は貧困状態に置かれ続けていました。こうしたことから、1952年2月14日にはサトウキビ労働者が大規模な待遇改善のデモを起こし、多くの死傷者が発生したほか、1950-60年代には大規模な騒乱が何度か発生。1980年代には独立運動が盛んになり、1984年には急進派のカリブ革命同盟 がフランス本土で爆弾テロの事件を起こしており、フランス政府は戦闘的な自治運動組織であるカリブ革命同盟を非合法化しています。


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 赤道ギニア独立50年
2018-10-12 Fri 00:52
 ギニア湾に面したアフリカの国、赤道ギニアが1968年10月12日に独立してから、きょうで50周年です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      赤道ギニア・独立記念

 これは、1968年10月12日、赤道ギニアが独立時に発行した記念切手です。

 現在の赤道ギニア共和国は、ギニア湾に浮かぶビオコ島、アンノボン島、および大陸部のリオ・ムニ(ムビニとも)とエロベイ諸島から構成されており、首都のマラボはビオコ島にあります。このうち、エロベイ諸島は無人島で、アンノボン島の人口はわずか2500人しかおらず、国家の総人口の1/4がビオコ島に、残りがリオ・ムニに居住しています。

 このうち、ビオコ島は、1472年、インド航路を求めて大西洋を南進していたポルトガル人のフェルナン・ド・ポーが発見したため、彼にちなんで、“フェルナンド・ポー島”と命名され、ポルトガル人は同島を領有して城砦を築いていました。

 1778年、ポルトガルはブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スルでスペインと衝突。このため、ブラジルの領有権をスペインに認めさせる代償として、フェルナンド・ポー島とリオ・ムニをスペインに割譲します。

 スペインの統治下で、フェルナンド・ポー島は奴隷貿易の中継地として繁栄しましたが、リオ・ムニでは黄熱病の蔓延もあって、スペイン人の入植は進みませんでした。

 1823年、財政難のスペインが英国にフェルナンド・ポー島を賃貸すると、英国は、1827年、現在のマラボの場所に港町としてポート・クレランスを建設。1834年、英領全域において奴隷制度が廃止されると、ポート・クレランスにはギニア湾東部で解放奴隷となった人々が集まり、都市が形成されました。

 その後、スペインは、1843年にフェルナンド・ポー島の支配を回復し、ポート・クレランスをサンタ・イザベルと改称。現地住民を徴用し、カカオとコーヒーのプランテーションを拡大しましたが、スペインによる植民地支配はきわめて過酷で、1898年と1902年には大規模な反乱も発生しましたが、スペインはこれを武力で鎮圧しています。

 一方、列強によるアフリカ大陸分割の過程で、スペインは大西洋岸からウバンギ川にいたる30万平方キロの領有権を主張していましたが、1900年、フランスとの間で結ばれたパリ条約では、スペインの領土はフェルナンド・ポー島と大陸側のリオ・ムニの2万6000平方キロ、および周辺の小島(アンノボン島、大小エロベイ島、コリスコ島)に限定され、1926年には、これらの地域をあわせて“スペイン領ギアナ植民地”が正式に発足しました。

 その後、1958年にスペイン領ギニアは植民地から海外県に昇格し、住民は本国同様の市民権を獲得。その後、1968年10月12日、住民投票の結果、赤道ギニア共和国として独立しました。

 なお、赤道ギニアは、国名とは裏腹に、赤道上には領土がありませんが、旧仏領のギニアと区別するため、首都のあるビオコ島がギニア湾に浮かぶことから“赤道に近いギニア”という意味で、赤道ギニアを名乗っています。
 

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 世界の切手:マリ
2018-10-11 Thu 00:32
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年9月19日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はマリ(と一部タンザニア)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      マリ・トゥアレグ(1971)

 これは、1971年にマリが発行した伝統的な民族衣装の切手のうち、トゥアレグ人を取り上げた1枚です。

 トゥアレグ人は、ベルベル系の遊牧民で、アルジェリア、マリ、ニジェールを中心に100万から350万人が生活しているといわれています。

 これらの地域がフランスの支配下にあった時代、遊牧民であるトゥアレグ人は砂漠地帯を比較的自由に往来し、昔ながらのラクダの隊商で生計を立てていました。また、彼らの多くは、フランス植民地当局による西洋式の教育を拒んだため、いわゆる黒人のアフリカ系とは違って、官僚機構を担いうる知的エリート層が形成されませんでした。

 1960年代に入り、仏領西アフリカ連邦が解体され、連邦を構成していた各植民地が個別に独立国となると、トゥアレグ人の居住地域も、ニジェール、マリ、アルジェリア、リビア、ブルキナファソの各国に分割されることになりましたが、このうち、特に多くのトゥアレグ人口を抱えるようになったのが、マリとニジェールです。

 しかし、マリ、ニジェールの両国においてはフランス語のみが公用語とされ、トゥアレグ人の言語であるトゥアレグ語(タマシェク語)は排除されたため、植民地時代にフランス語教育を拒否してきたトゥアレグ人が、独立後の新国家で社会的な地位を得るのは困難でした。一方、トゥアレグ人の側も、新政府による“近代化”政策を重大な文化侵略と受け止めていました。さらに、新たに誕生した“国境”により、かつてのような自由な往来が(少なくとも建前上は)制限されるようになったこととも、トゥアレグ人にとっては不満でした。

 こうしたことから、マリでは独立以来いくどとなくトゥアレグ人の反乱が発生していますが、2009年の停戦合意の後も、一部のトゥアレグ人はこれを潔しとせず、リビアに逃れて傭兵部隊に加わっていました。しかし、2011年10月、カダフィ政権が崩壊すると、トゥアレグ人傭兵の大半は、混乱に乗じて持ち出した高性能の武器とともに、マリ北部、トンブクトゥ、ガオ、キダル3州をあわせたアザワド地域に帰還。2011年11月には“アザワド解放全国運動(MNLA)”を結成し、アザワド地域の独立を目標とした武装闘争を再開したことで、2012年の北部紛争に発展しました。このあたりについては、拙著『マリ近現代史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 さて、『世界の切手コレクション』9月19日号の「世界の国々」では、2012年のマリ北部紛争についての長文コラムのほか、トンブクトゥ遺跡、サッカー選手サリフ・ケイタ、短命に終わったマリ連邦の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のマリ(と一部タンザニア)の次は、9月19日発売の同26日号でのコスタリカ(と一部ニカラグア)の特集、10月3日発売の同10日号でのテュニジア(と一部ザイール)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 “ヤラの叫び”150年
2018-10-10 Wed 00:35
 キューバ第1次独立戦争(十年戦争)の発端となった事件、“ヤラの叫び”が、1868年10月10日に起きてから、150周年となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・セスペデス(1968)

 これは、“ヤラの叫び”から100周年になるのを記念して、キューバ革命政府が設定した“闘争の年(=1968年)”の記念切手のうち、ヤラの叫びと指導者のカルロス・マヌエル・デ・セスペデスを描いた1枚です。

 1820年年代、ラテンアメリカの植民地を失ったスペインは、フィリピン、プエルトリコなどとともに“最後の植民地”としてのキューバを維持しようとしていました。

 しかし、キューバ島内の地主たちの中には、権威主義的で旧態依然たるスペインの植民地政府とその腐敗・無能に不満を持つ者も多く、1867年、彼らはキューバ使節団の本国国会への派遣を求めましたが、スペイン側はこれを拒否。このため、1868年10月10日、急進派の中心人物で、キューバ島南東、オリエンテ州(現グランマ州)のヤラの地主で製糖工場を経営していたセスペデスは、自らの工場の奴隷を解放して147人の叛乱軍を組織し、スペインからの独立と奴隷の解放を宣言しました。これが、“ヤラの叫び”と呼ばれる事件で、1878年まで続く“十年戦争”の開幕を告げる狼煙となります。

 ヤラでの蜂起は数日間でほぼ鎮圧されましたが、叛乱軍は州内のバヤモに移動して要塞を構築。オリエンテ州を拠点にキューバ東部全体に勢力を拡大します。その後、バヤモは1869年1月12日に陥落しましたが、1月に入ると叛乱は中部カマグエイ州にも波及し、カマグエイ州で開催された議会は、4月10日に共和国憲法を発布し、12日にセスペデスをキューバ共和国の初代大統領に選出しました。

 その後、セスペデスは独裁を批判されて1873年10月27日に解任され、1874年2月27日、山中に潜伏していたところをスペイン軍に殺害されます。しかし、独立派の抵抗は続き、1878年2月10日に締結された停戦協定では、キューバ植民地の財務状況を改善するための諸改革が約束されたほか、スペイン国会へのキューバ代表権も認められました。ちなみに、10年にも及ぶ内戦では、双方の死者 20万、物的損失は7億ドルにも上っています。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、キューバ革命の歴史的背景として、19世紀の独立戦争の時代についても簡単にまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

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 ゲバラ忌
2018-10-09 Tue 08:36
 きょう(9日)は、1967年10月9日に亡くなったチェ・ゲバラの命日です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・ゲバラ没後40年(コラージュ)

 これは、2007年にボリビアが発行した“ゲバラ没後40年”の記念切手の1枚で、1957年、ハバナ生まれの画家・グラフィックデザイナーで、キューバとボリビアを拠点に活動しているエルネスト・アスクイが制作した“英雄的ゲリラ”のアンディ・ウォーホル風コラージュが取り上げられています。

 1965年4月、「別れの手紙」を残してキューバを去ったゲバラは、新たな革命の地を求めてコンゴ動乱に馳せ参じ、軍事政権に対抗する左翼反乱軍に参加しました。しかし、反政府勢力首脳部の腐敗と堕落に幻滅した彼は、“世界革命”の理想を抱えてコンゴから撤退し、チェコスロヴァキアを経てラテンアメリカに戻り、1966年11月、バリエントス独裁政権下のボリビアに潜入。革命に向けての“アンデス計画”を展開します。

 アンデス計画は、(実際の地理的条件を無視すれば)ペルー、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルからほぼ等距離にあるボリビア北部の山岳地帯を拠点に、現地の農民を革命兵士に育て上げ、訓練施設を拡充し、ついで近隣諸国から送り込まれる志願者を革命兵士として教育し、その見返りとして資金的・物質的援助を得て、活動の範囲を広げていくという壮大なものでした。

 しかし、現地のボリビア共産党や先住民の農民は“よそ者”のゲバラに対して非協力的で、彼らは勢力を拡大できないまま、1967年10月8日、ゲバラ本人も戦闘でふくらはぎを負傷。ラ・イゲーラ近くのケブラダ・デル・ジューロ(ユーロ)渓谷で捕縛された後、村の小学校に移送され、翌9日、銃殺されました。最期の言葉は、銃殺をためらう政府軍兵士に対して発せられた「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!」でした。

 その後、ゲバラの遺体は、バジェ・グランデ市内に運ばれ、しばらく晒しものにされた後、密かにバジェ・グランデ空港の滑走路に埋められました。

 ゲバラの殺害から28年が経過した1995年、遺体の処理に関わった元軍人のバルガス・サリナス(事件当時の階級は大尉。最終的に将軍まで昇進)は、伝記作家のインタビューに答えて、ゲバラの埋葬場所を公表。当初、ボリビア陸軍はサリナス証言を否定し、サリナスに対して“元将軍”の地位と名誉を剥奪する処分を下しましたが、当時のボリビア大統領、ゴンサロ・サンチェスは、ゲバラの埋葬場所を観光資源化することを考え、遺体の捜索を約束しました。

 こうして、1995年11月、キューバとアルゼンチンから専門家チームが現地に派遣され、発掘作業が開始。1年半後の1997年6月29日、遺骨が発見されました。

 発掘されたゲバラとキューバ人同志たちの遺骨は、それぞれ、木棺に収められた後、キューバ国旗に包まれ、ハバナへと空輸されました。遺骨は、ハヴァナ市内中心部の革命広場で盛大な帰還式典が行われた後、新たに建設されたサンタ・クララ霊廟の地下に収められ、現在に至っています。

 一方、遺骨発見のタイミングがゲバラの没後40周年と重なったこともあり、ラ・イゲーラでは大々的な記念行事が行われ、殺害場所となった小学校がリニューアルされて村営博物館となったほか、村の中央広場には高さ4mの巨大なゲバラ立像のほか、セメント製の胸像も作られています。今回ご紹介の切手も、そうした文脈に沿って、ボリビア郵政が発行したものです。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラの没後、彼のイメージがどのように変遷し、消費されていったかということについても触れていく予定です。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。
 

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 体育の日
2018-10-08 Mon 01:46
 きょう(8日)は体育の日です。というわけで、スポーツ関連の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・汎米競技大会(1955)

 これは、1955年の汎米競技大会に際してメキシコが発行した記念切手のうち、メキシコシティのスタジアムと先住民の扮装をした聖火ランナーを描いた20センタボ切手です。

 汎米競技大会は南北アメリカ大陸の国々が参加して4年に1度開催される総合競技大会で、1920年代に中米で行われた中央アメリカ・カリブ海競技大会に影響され、1942年にブエノスアイレスで第1回大会を開催する準備が進められていました。しかし、第二次大戦の影響で延期となり、実際にブエノスアイレスで第1回大会が開催されたのは大戦後の1951年のことでした。今回ご紹介の切手の題材となった1955年のメキシコシティ大会は、その第2回にあたります。

 1954年6月、グアテマラでは、CIAの支援を受けたカルロス・カスティージョ・アルマスにより、当時、ラテンアメリカで最もリベラルといわれたグアテマラのアルベンス政権が崩壊。当時、グアテマラに滞在していた青年医師のエルネスト・ゲバラ(後のチェ・ゲバラ)は、グアテマラ市民に対して、武器を取ってアルマス軍と戦うことを呼びかけましたが、このため、アルマス政権によって“共産主義者”と認定され、当時の恋人で、純然たる共産主義者のイルダ・ガデアともども粛清の対象となります。

 このため、1954年9月、ゲバラはメキシコへの亡命を決意。ひとまず、メキシコシティ中心部、ナポリ街40番地の安アパートに小さな部屋を借りて友人のエル・パトーホとともに共同生活を始め、カメラを借りて、通りすがりの旅行者などを撮影して金銭を得る街頭カメラマンの仕事で糊口をしのいでいました。

 その後、1954年11月、グアテマラを追放されたイルダがメキシコシティに到着。彼女はレフォルマ通りの別の下宿でベネズエラ出身の女流詩人、ルシーラ・ヴェラスケスとルームシェアし、ゲバラとは週に1-2度会うという関係が続きます。

 そうしているうちに、エルネストはアルゼンチンの政府系通信社“ラティーナ通信”のコーディネーター、アルフォンソ・ペレス・ピスカイーノの紹介で報道カメラマンの仕事を得るとともに、大学の聴講生となり、病院でアレルギーの研究を行うことになりました。

 ラティーナ通信のスタッフとしてのゲバラは、1955年の汎米競技大会を取材し、競技中の選手の写真も何枚か撮影しています。この仕事で彼は総額6000ペソを稼ぎ、経済的にも一息つくことができるがはずでした。ところが、突如、アルゼンチン本国からの指令でラティーナ通信は閉鎖されてしまい、エルネストらスタッフに対する給与も約束の半額しか支払われませんでした。

 ちなみに、大会から約半年後の1955年9月16日、アルゼンチンでは権勢を誇ったフアン・ペロンがクーデターで政権を追われており、通信社が突如閉鎖されたのも、そうした政権の末期症状を示す兆候の一つだったのかもしれません。

 なお、汎米競技大会の仕事をしながらも、ゲバラは病院での研究活動を続け、「半吸収食物抗原の皮膚に関する研究」と題する論文を仕上げています。この論文が1955年5月の『イベロアメリカ・アレルギー学雑誌』に掲載されたことで、彼は、ヘネラル病院で、無給ながら衣食つきの住込みの仕事を得ています。なお、生活費は書籍販売のセールスマンをして稼いでいました。

 また、1955年5月にはイルダもエルネストのプロポーズを受け入れ、2人は正式に結婚しましたが、それとほぼ時を同じくして、キューバでモンカダ兵営襲撃事件に加わったラウル・カストロがメキシコに到着。ラウルは同地で襲撃事件の同志、ニコ・ロペスらと再会し、ロペスから“アルゼンチンのチェ”を紹介されます。ここから、ゲバラはラウルの兄、フィデルと知り合い、キューバ革命に深く関わっていくことになるのです。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラやカストロ兄弟など、キューバ革命の志士たちのメキシコ時代についてもまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

 * 先ほど、アクセスカウンターが197万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 

 
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 切手歳時記:南部鉄器
2018-10-07 Sun 01:23
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年10月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、10月6-7日に岩手県奥州市で開催される“南部鉄器まつり”にあわせて、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      伝統的工芸品・南部鉄器

 これは、1985年8月8日に発行された伝統的工芸品シリーズ第5集のうち、“南部鉄器”の切手です。

 南部鉄器は、鉄に恵まれた北上川沿いの岩手県盛岡市、奥州市水沢区で作られる鉄器の総称で、歴史的には、水沢の方が歴史があります。

 奥州の鋳物は、平安時代後期、江刺の地にいた藤原清衡が近江国より鋳物師を招いて始めたもので、それが南下して羽田(現在の水沢)に伝わりました。当初、鋳物師は“歩き筋”と呼ばれ、必要に応じて各地を転々と移動していたため、清衡に従って平泉に移り、中尊寺の備品なども鋳造していました。

 奥州藤原氏は、三代当主の秀衡が、1185年に源頼朝に追われた源義経を匿っていましたが、四代当主の泰衡は頼朝の圧力に屈して、1189年、義経の起居していた衣川館を襲い、義経と妻子を自害へと追いやりました。

 このとき忠臣の弁慶は降り注ぐ矢を受けて仁王立ちのまま息絶えましたが、この故事にちなんでか、鉄器まつりでは“弁慶鉄下駄飛ばし大会”も行われています。弁慶の鉄下駄といえば、五条大橋で若き牛若丸と戦った時に履いていた話が有名ですが、その下駄は、近江の産だろうと思います。ちなみに、清水寺の“弁慶の鉄下駄”は、明治時代に吉野の修験者が奉納したもので、実は弁慶本人とは無関係。そもそも、弁慶が衣川で鉄下駄を履いていたのかどうか…などとくどくど言い出すと、金剛杖で叩かれそうなので、この辺で止しておきましょうか。

 さて、奥州藤原氏の滅亡後、スポンサーを失った鋳物師たちは日常品を細々と作るだけになっていましましたが、室町時代初期、京都聖護院の鋳物師、長田正頼が黒脇千葉家に養子に入り、羽田に到来しました。千葉家は奥州総奉行の葛西氏に召し抱えられ、正頼の弟子や関西から訪れた鋳物師たちも羽田に住み、地域に鋳物業が定着します。

 江戸時代に入ると、1629年以降、水沢伊達氏の当地の下、鉄器は庇護を受けて発展し、幕末には大砲も鋳造されました。

 一方、盛岡では、慶長年間(1596-1615年)、盛岡藩主・南部氏の築城の頃から鉄器の鋳造が始まり、やはり、歴代藩主の庇護を受けて発展しました。

 1884年の盛岡大火災では鉄器工場も大きな被害を受けましたが、焼け跡から見つかった鉄瓶をとりあえず使ってみたところ、錆がでなかったことから、これにヒントを得て、以後、内部を備長炭で焼き付ける“金気止め”の手法が使われるようになります。

 1890年に東北本線が開通すると、南部鉄器の販路は飛躍的に拡大。さらに、1908年、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東北行啓の際に(八代)小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演したことが話題を呼び、全国的に有名になりました。

 さて、伝統的工芸品シリーズの切手は、オーソドックスな黒色の南部鉄瓶と“波に鯉文富士形鉄瓶”の組み合わせで発行されました。

 このうち、富士形の鉄瓶は、山形・米沢方面から馬を買いにきた馬喰が土産として好んで買い求めたことから “米沢富士”とも呼ばれました。銀色なのは砂鉄を原料としているからで、湯が沸くとちんちんという音がします。

 ちなみに、黒色の鉄瓶は、本来、“金気止め”に加え、表面には漆が塗られていますが、そうした処理を省略した大量生産の“鉄製ケトル”なら、1万円以下の手ごろな値段で購入可能です。一方、砂鉄の鉄瓶を買うつもりなら、十万円単位の出費を覚悟しないとならないでしょう。

 なお、鉄瓶は高級品になればなるほど、良質の鉄を使い、持ち手も中空の“くるみ”になって軽くなるので、鉄瓶は重いなどと不用意にいうと、財布の軽さがばれてしまうことになるのでご用心。


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 8歳少女が1500年前の剣を発見
2018-10-06 Sat 14:27
 スウェーデン・ヨンショーピング市のウィーデステン湖で、8歳の少女、サーガ・バネチェクさんが遊んでいたところ、湖の中から発見し、引き抜いた剣が1500年前のモノだったことが確認され、話題になっているそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      スウェーデン・剣(1997)

 これは、1975年にスウェーデンが発行した“ヴェンデル時代の遺物”の切手のうち、当時の剣の柄と鞘を取り上げた1枚です。

 現在のスウェーデン国家の領域に人々が定住し始めたのは、石室墓などの発掘結果から、氷河の後退後、紀元前1万-前8000年ごろと推定されています。その後、前2000年頃、インド・ヨーロッパ語族が定着。ローマ時代には大陸との交易が盛んに行われるようになり、おもに琥珀や毛皮などが輸出されました。紀元後5-6世紀になると、各地で部族国家が形成されはじめましたが、その中でも、ウプランド地方のスベア人は海上貿易にも進出して繫栄。550年以降、いわゆるヴェンデル時代が始まり、スベア人を中心に多くの部族国家が連合し、スウェーデン国家の原型が形成されました。

 ちなみに、いわゆるヴァイキングの時代は、一般に、793年、北部イングランドのリンデスファーン修道院襲撃事件から始まるとされていますので、ヴェンデル時代の後、ということになります。

 さて、今回話題となった剣が発見された当時、ウィーデステン湖の水位は水不足で著しく低くなっており、湖で遊んでいたサーガさんは、「水中で何かに触れたので、持ち上げてみると剣みたいなものがあった」として、父親に報告。父親は「当初、娘が不思議な形をした棒を拾ったのかと思った」そうですが、その後、父親が友人に詳しく調べてほしいと依頼したところ、約1000年前のヴァイキング時代の遺物ではないかということになり、さらに、地元博物館の専門家が調べたところ、約1500年前のヴェンデル時代に作られた可能性が高いと判断されたそうです。

 その後、今回の剣の発見を受け、博物館や地元の自治体らがウィーデステン湖で発掘作業を行ったところ、3世紀に作られたと思われるブローチが出土。発掘作業は現在も継続されており、今後、他にも湖から古代の遺物が見つかる可能性があるそうです。


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 大統領の車が都内で事故
2018-10-05 Fri 01:00
 きのう(4日)、東京・千代田区の路上で、タジキスタンから来日中のエマムアリ・ラフモン大統領(以下、敬称略)の車に、後ろを走っていた随行者の車が追突する事故がありました。この事故で、随行者の車のフロント部分が壊れたものの、大統領を含め、けが人はなかったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      タジキスタン・ラフモン(2006)

 これは、2006年にタジキスタンが発行したラフモンの肖像切手です。なお、ラフモンは、もともとはロシア語風にラフモノフと名乗っていましたが、2007年4月14日、タジク語風のラフモンに改名し、現在に至っています。今回の記事では、とりあえず、2007年以前についても“ラフモン”で行きたいと思います。

 エマモリ・ラフモンは、ソ連時代の1952年10月5日(今日がお誕生日なんですね!)、タジク・ソビエト社会主義共和国のクリャーブ州ダンガル地区ダンガル市(現ハトロン州クリャーブ市)生まれ。ソ連時代は、クリャーブ州ダンガル地区ソフホーズの議長を務めていました。

 旧ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国では、ホジェンド(北西部ソグド州の州都)地方やクリャーブ(南部ハトロン州の東部)地方の出身者が政府と軍の要職を占めており、ゴルノ・バダフシャン自治州のパミール人やガルム地方の民族集団、イスラム勢力などは不遇をかこっていましたが、共産党一党独裁の下、彼らの不満は抑え込まれていました。

 ところが、1991年9月9日、タジキスタン共和国が独立すると、それまで鬱積していたイスラム勢力の不満が一挙に噴出するかたちで、1992年春、当時のラフモン・ナビエフ政権への抗議行動が発生。5月には、政府側の警備兵と反政府勢力の間で戦闘が発生し、いわゆるタジキスタン内戦に突入します。

 ナビエフ政権は野党勢力を取り込んだ連立政権を作ることで事態の収拾を試みましたが、ナビエフくみしやすしと見た反政府勢力の攻撃は収まらず、1992年9月、ナビエフは退陣。このため、混乱の拡大を憂慮したロシアとウズベキスタンが事態収拾に乗り出し、ホジェンド派とクリャーブ派からなる人民戦線を軍事支援。人民戦線は1992年末に反政府勢力を圧倒し、連立政権をも解体して、クリャーブ出身のエマモリ・ラフモンを指導者とする新政権を樹立しました。

 ラフモン政権は反政府勢力の民族浄化を行うなど強硬姿勢で臨み、1993年3月頃までに、国土の大半を掌握。この実績を基に、同年11月19日、タジキスタン共和国最高会議において、最高会議議長に選出されました。ただし、この時点では内戦が完全に終結したわけではなく、大量の難民がアフガニスタンに流入し、タジク野党連合(UTO)を結成し、タジキスタン南部での抵抗を続けました。

 その後、1994年4月以降、国連・ロシア・イランの3者の仲介により、モスクワでラフモン政権とUTOの仲介に和平交渉がはじまり、交渉の進展を受けて、同年11月6日、憲法改正が行われ、ラフモンは正式にタジキスタン共和国大統領に就任。さらに、同年12月16日、国連タジク監視団が創設され、停戦状況の監視と状況の報告、人道支援協力、CIS平和維持軍の協力による警備などを行った。こうした経緯を経て、1997年6月27日、和平協定が成立し、タジキスタン内戦はとりあえず終結しました。

 大統領就任当初のラフモンは、中央アジアの中ではリベラルな指導者として野党に対しても穏健な態度を取っていましたが、次第に独裁傾向を強め、1999年と2003年の2度の憲法改正を通じて2020年まで大統領職に留まることを可能としたうえで、今回も現職大統領として来日。衝突事故に遭ったというわけです。

 * 昨日(4日)のTBSラジオ「たまむすび」で、内藤の出演した「おもしろい大人」のコーナーは、無事に終了いたしました。お聴きいただいた皆様には、あらためてお礼申し云揚げます。なお、放送内容は、11日(木)まで、こちらでもお聴きいただけますので、ぜひ、ご利用ください。 


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 TBSラジオ「たまむすび」
2018-10-04 Thu 00:43
 本日(4日)15:10~15:25、TBSラジオ「たまむすび」の「おもしろい大人」のコーナーに、内藤がゲスト出演します。(番組の詳細はこちらをご覧ください)番組では、この切手もご紹介しながら、切手の雑学あれこれという感じで進めていく予定です。(画像はクリックで拡大されます)

      モンゴル・世界最大

 これは、2004年にモンゴルが発行した“平和のマンダラ”の切手のうち、作品の全体像を取り上げた5000トゥグルグ切手です。切手はこの切手と、その部分をトリミングした8枚の切手の9枚のシート構成で発行されましたが、そのうちの、上の画像の切手が135×186 ミリで、現時点では、世界最大の切手として話題となりました。ちなみに、シートの全体像は下の画像のようになっており、左右の余白には、日本語とモンゴル語で“世界最大の切手「平和のマンダラ」モンゴル国から”の文字が入っています。

      モンゴル・世界最大の切手

 切手の題材となった“平和のマンダラ”は、モンゴル民主化後の1994年から始まった“MANDALA 21ST CENTURY”のプロジェクトにより、世界16国・1万人の参加を得て制作されました。70×50メートルという大きさのパッチワーク形式で作られており、“マンダラ”としては世界最大のものです。

 大マンダラの制作は、全体を縦横を9等分・81分割したうえで、各パーツごとに作られたものを、2002年4月に横浜で繋ぎ合わせ、同年12月、広島で広げられました。その後、マンダラは2003年12月にはニューデリーで、2004年3月にはホノルルで広げられています。今回ご紹介の切手は、2004年夏、モンゴルの首都、ウランバートル郊外の“緑の丘”でマンダラが展示されるのに合わせて発行されました。

 なお、仏教用語としてのマンダラ(曼荼羅)は、辞書的にいうと、「密教の経典にもとづき、主尊を中心に諸仏諸尊の集会する楼閣を模式的に示した図像」のことですが、“平和のマンダラ”は、釈迦の母、麻耶夫人の懐胎から、釈迦入滅までの一代記を表現したものとなっており、通常の曼荼羅とは意味合いが少し異なっています。

 なお、本日の放送では、このほか、切手の裏糊をめぐる小ネタの話などもご紹介する予定です。ぜひ、お聞きください。


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 ボリビアの悲願、棄却
2018-10-03 Wed 00:50
★★★ 緊急告知!★★★

 あす(4日・木)15:10~15:25 TBSラジオ「たまむすび」に、内藤が出演します。よろしかったら、ぜひお聴きください。
 なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


 南米の内陸国ボリビアが悲願とする太平洋への“出口”をめぐり隣国チリに交渉に応じるよう命令を求めていた裁判で、国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)は、1日(現地時間)、ボリビアの訴えを棄却しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・海に出る権利を要求する

 これは、1964年にボリビアからアルゼンチン宛の書留航空便で、左下に、ボリビア国旗に「ボリビアは海に出る権利を要求する」とのスローガンが入ったラベルが貼られています。

 1826年に独立したボリビアは、1879-84年、南米大陸・太平洋岸の硝石地帯をめぐって、ペルーと同盟を結んでチリと戦いました。いわゆる“(南米の)太平洋戦争”です。この戦争に敗れたボリビアは、講和条約として結ばれたバルパライソ条約により、太平洋岸に面したアントファガスタ州をすべて失い、内陸国となりました。

 以後、ボリビアの海運での輸出入貨物は、いったんチリ領となったアントファガスタ港で陸揚げされ、同港でボリビアが管理する保税上屋からチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここでボリビアの税関が通関を行うという手続きが取られています。

 ボリビア国民の中には、現在なお、バルパライソ条約を不当と考え、海を奪ったチリに敵意を持つものが少なくありません。また、ボリビア政府も毎年3月23日を“海の日”に指定し、メディアを動員して「海を取り戻そう」キャンペーンを展開しています。こうしたこともあって、サッカーの試合などでも、ボリビア・サポーターの一部が「海を返せ」といった政治的な横断幕を掲げることもしばしばです。今回ご紹介のカバーのラベルも、こうした社会的背景の下で、ボリビアの主張を国際的にアピールするため、郵便物に貼られたものです。

 今回の裁判は、2013年にボリビアが提訴していたもので、1904年のバルパライソ条約を根拠に掲げ、チリに対し「完全な主権を伴う太平洋への出口をボリビアに付与するため交渉に応じる義務がある」というのがボリビア側の主張です。これに対しチリは、バルパライソ条約に基づき、既に「ボリビアは港湾を自由に商業利用できている」と反論していました。

 このため、ICJは両国間の戦後の外交文書などを検討したうえで、チリには「交渉に応じる義務があるとは結論付けられない」と判断。今回の判決となり、ボリビアの悲願は棄却されることになりました。
 
 なお、ボリビアといえば、1966年以降、チェ・ゲバラが潜入して山中でゲリラ戦を展開し、1967年に逮捕・処刑された国としても有名です。現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、そうしたボリビアについて、いろいろな角度からまとめてみました。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 ノーベル医学生理学賞に本庶佑氏
2018-10-02 Tue 09:36
 スウェーデンのカロリンスカ医科大は、きのう(1日)、本年度のノーベル医学生理学賞を京都大の本庶佑特別教授と米テキサス大MDアンダーソン癌センターのジェームズ・アリソン教授に贈ると発表しました。本庶氏の功績は、従来、外科手術、放射線、抗癌剤が中心だった癌治療に、「免疫で治す」という第4の道をひらいたというもので、日本のノーベル賞受賞は、2016年の医学生理学賞の大隅良典・東京工業大栄誉教授に続き26人目です。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      スウェーデン・グスタフ5世70歳

 これは、1928年6月16日、スウェーデンが発行した“国王グスタフ5世70歳”の記念切手です。切手上には表示がありませんが、郵便局の窓口では、額面に対して5オーレの寄付金を上乗せして発売され、その全額が癌研究への助成金にあてられました。これが、切手と“癌”が結びついた最初の事例で、このため、今回ご紹介の切手が(デザイン的には癌とは無関係のため、わかりづらいのですが)“癌切手”の第1号とされています。

 ちなみに、今回受賞した本庶氏らの研究グループは、1992年、免疫の司令塔を担うリンパ球“T細胞”で働く“PD-1”遺伝子を発見。PD-1が免疫反応のブレーキ役に相当することが分かり、ブレーキを取り除くことでがん細胞を攻撃する新しいタイプの「癌免疫療法」の開発に結びつけた功績が、今回の受賞につながりました。

 その後、本庶氏の研究を基に癌治療薬の開発が進み、2014年、小野薬品工業が、悪性黒色腫(メラノーマ)の治療薬としてPD-1の抗体医薬“オプジーボ(一般名ニボルマブ)”を発売。この薬は、肺癌や胃癌などでも効果が確認され、現在は60カ国以上で承認されています。


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