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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 赤道ギニア独立50年
2018-10-12 Fri 00:52
 ギニア湾に面したアフリカの国、赤道ギニアが1968年10月12日に独立してから、きょうで50周年です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      赤道ギニア・独立記念

 これは、1968年10月12日、赤道ギニアが独立時に発行した記念切手です。

 現在の赤道ギニア共和国は、ギニア湾に浮かぶビオコ島、アンノボン島、および大陸部のリオ・ムニ(ムビニとも)とエロベイ諸島から構成されており、首都のマラボはビオコ島にあります。このうち、エロベイ諸島は無人島で、アンノボン島の人口はわずか2500人しかおらず、国家の総人口の1/4がビオコ島に、残りがリオ・ムニに居住しています。

 このうち、ビオコ島は、1472年、インド航路を求めて大西洋を南進していたポルトガル人のフェルナン・ド・ポーが発見したため、彼にちなんで、“フェルナンド・ポー島”と命名され、ポルトガル人は同島を領有して城砦を築いていました。

 1778年、ポルトガルはブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スルでスペインと衝突。このため、ブラジルの領有権をスペインに認めさせる代償として、フェルナンド・ポー島とリオ・ムニをスペインに割譲します。

 スペインの統治下で、フェルナンド・ポー島は奴隷貿易の中継地として繁栄しましたが、リオ・ムニでは黄熱病の蔓延もあって、スペイン人の入植は進みませんでした。

 1823年、財政難のスペインが英国にフェルナンド・ポー島を賃貸すると、英国は、1827年、現在のマラボの場所に港町としてポート・クレランスを建設。1834年、英領全域において奴隷制度が廃止されると、ポート・クレランスにはギニア湾東部で解放奴隷となった人々が集まり、都市が形成されました。

 その後、スペインは、1843年にフェルナンド・ポー島の支配を回復し、ポート・クレランスをサンタ・イザベルと改称。現地住民を徴用し、カカオとコーヒーのプランテーションを拡大しましたが、スペインによる植民地支配はきわめて過酷で、1898年と1902年には大規模な反乱も発生しましたが、スペインはこれを武力で鎮圧しています。

 一方、列強によるアフリカ大陸分割の過程で、スペインは大西洋岸からウバンギ川にいたる30万平方キロの領有権を主張していましたが、1900年、フランスとの間で結ばれたパリ条約では、スペインの領土はフェルナンド・ポー島と大陸側のリオ・ムニの2万6000平方キロ、および周辺の小島(アンノボン島、大小エロベイ島、コリスコ島)に限定され、1926年には、これらの地域をあわせて“スペイン領ギアナ植民地”が正式に発足しました。

 その後、1958年にスペイン領ギニアは植民地から海外県に昇格し、住民は本国同様の市民権を獲得。その後、1968年10月12日、住民投票の結果、赤道ギニア共和国として独立しました。

 なお、赤道ギニアは、国名とは裏腹に、赤道上には領土がありませんが、旧仏領のギニアと区別するため、首都のあるビオコ島がギニア湾に浮かぶことから“赤道に近いギニア”という意味で、赤道ギニアを名乗っています。
 

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