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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 1年間ありがとうございました
2018-12-31 Mon 01:57
 2018年もいよいよ大晦日です。今年も皆様には本当にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、主なものだけでも、下記のような仕事を残すことができました。

 <重版出来>

      朝鮮戦争3刷(くらら)
 ・『朝鮮戦争:ポスタルメディアから読み解く現代コリア史の原点』(えにし書房・3刷)

  <連載>
 ・「泰国郵便学」 『タイ国情報』(1月号~2019年も継続)
 ・「切手に見るソウルと韓国」 『東洋経済日報』(1月~2019年も継続)
 ・「小さな世界のお菓子たち」 『Shall we Lotte』(1月~2019年も継続)
 ・「切手歳時記」 『通信文化』 (1月~2019年も継続)
 ・「世界の国々」ほか 『世界の切手コレクション』 (1月~2019年も継続)
 *「世界の国々」は複数の執筆者で分担しましたが、内藤の担当は以下の号です。
  ヴェトナム (172号・1月3日号)
  アルゼンチン (173号・1月10日号)
  インドネシア (175号・1月24日号)
  ペルー (177号・2月7日号)
  南アフリカ (179号・2月21日号)
  ベルギー (181号・3月7日号)
  韓国 (183号・3月21日号)
  東ドイツ (185号・4月4日号)
  エチオピア (187号・4月18日号)
  リビア (188号・4月25日号)
  ミャンマー (194号・6月6日号)
  イスラエル (195号・6月13日号)
  セネガル (198号・7月4日号)
  ブルガリア (201号・7月25日号)
  リベリア (203号・8月8日号)
  アルゼンチン (204号・8月15日号)
  ナイジェリア (205号・8月22日号)
  コート・デイヴォワール (206号・8月29日号)
  マリ (209号・9月9日号)
  コスタリカ (210号・9月26日号)
  テュニジア (212号・10月10日号)
  東アフリカ郵便連合 (215号・10月24日号)
  メキシコ (217号・11月14日号)
  ブルガリア (218号・11月21日号)
  スリランカ (219号・11月28日号)
  フィリピン (221号・12月12日号)
  ハンガリー (22号・12月19日号)
  キューバ (223号・12月26日号)
 ・「切手で訪ねるふるさとの旅」 『散歩人』第36号(不定期、2019年も継続)
 ・「日本切手誕生のエピソード」 『キュリオマガジン』(1月~2019年も継続)
 ・「スプートニクとガガーリンの闇」 『本のメルマガ』(1月~2019年も継続)
 ・「日本切手150年の歩み~郵便創業150年に寄せて」 『郵趣』(4月~2019年も継続)

<単発モノの論文・エッセイなど>
 ・「ブラジリア展報告」 『全日本郵趣』
 ・「香港からアウシュヴィッツへ」 Stampedia Philatelic Journal 2018

<切手展出品>
 ・Postal History of Auschwitz (世界切手展<WSC Israel 2018>、<JAPEX 2018>)
 ・Postal History of Palestine 1995-2001 (アジア国際切手展<MACAO 2018>

 このほかにも、NHKラジオ第1放送での“切手でひも解く世界の歴史”(3月まで)、インターネット放送チャンネルくららでの「楽しく学ぼう! シリア現代史」ならびに「内藤陽介の世界を読む」、実行委員長を務めた7月の全日本切手展、コミッショナーを務めた世界切手展<WSC Israel 2018>ならびに<Thailand 2018>など、公私にわたり、実に多くの方々より、ご支援・ご協力を賜りました。関係者の皆様にはあらためてこの場を借りて、皆様に厚くお礼申し上げます。明年も引き続き、ご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 最後に、来る年の皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げ、年末のご挨拶といたします。どうぞ、良いお年をお迎えください。

 内藤陽介拝
 
★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 世界の国々:キューバ
2018-12-30 Sun 00:42
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年12月26日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はキューバの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ最初の切手

 これは、1855年に発行された“スペイン領アンティル諸島”の切手で、キューバの地で使用するために発行されたものとしては最初の切手となります。

 カリブ海のキューバ島は、1511年以来、スペインの支配下に置かれていましたが、1776年に独立宣言を発した米国は、はやくも、1800年代初頭にはスペイン領キューバの併合をめざすようになっていたといわれています。

 ただし、当時の米国政府は、1803年にフランスからルイジアナ(現在のアイオワ、アーカンソー、オクラホマ、カンザス、コロラド、サウスダコタ、テキサス、ニューメキシコ、ネブラスカ、ノースダコタ、ミズーリ、ミネソタ、モンタナ、ルイジアナ、ワイオミングの15州にまたがる210万平方キロを超える土地)を買収したという経験もあり、キューバ島の獲得には、武力ではなく、買収という手段が有効だと考えていました。じっさい、1823年には、ジョン・クインシー・アダムズ国務長官が、ラテンアメリカ諸国の独立により衰退したスペインは、いずれ、米国にキューバを売却せざるを得なくなるとの見通しの下、“熟柿政策”を打ち出しています。

 実際、スペイン領時代のキューバの経済を支えていた砂糖産業は、奴隷によるプランテーション経営に基づいていたために、国内市場がほとんどなく、海外市場に依存せざるを得ず、その中でも、近隣の巨大市場としての米国のプレゼンスは年を追うごとに増加。その結果、キューバの砂糖輸出先における米国の占める割合は、1840年代には4割に達し、1860年代には6割を超え、キューバと米国を結ぶ定期船がさかんに往来するようになりました。

 これに対して、ラテンアメリカの植民地を失ったスペインは、フィリピン、プエルトリコなどとともに“最後の植民地”としてのキューバをなんとしても維持しようとしていました。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下、1855年、“スペイン領アンティル諸島”用に発行され、キューバとプエルトリコで使用されましたが、切手上の文字としては、郵便を意味するスペイン語の“CORREOS”と、当時のキューバで流通していた通貨、スペイン植民地レアルでの額面表示のみで、“キューバ”はおろか“スペイン領アンティル諸島”の表示さえありませんでした。これは、キューバであれプエルトリコであれ、あくまでもスペイン領土であり、地域としての独自性はいっさい認めないというスペイン当局の意思を示していました。

 しかし、キューバ島内の地主たちの中には、権威主義的で旧態依然たるスペインの植民地政府とその腐敗・無能に不満を持つ者も少なくありませんでした。1867年、彼らはキューバ使節団の本国国会への派遣を求めたが、スペイン側はこれを拒否。このため、1868年10月10日、急進派の中心人物で、キューバ島南東、オリエンテ州(現グランマ州)のヤラの地主で製糖工場を経営していたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスが、自らの工場の奴隷を解放して叛乱軍を組織し、スペインからの独立と奴隷の解放を宣言する“ヤラの叫び”が発生し、キューバはスペインに対する独立戦争の時代に突入していきます。

 さて、『世界の切手コレクション』12月26日号の「世界の国々」では、スペイン統治時代のキューバ独立運動ホセ・マルティについての長文コラムのほか、青年の島(旧ピノス島)ホセ・マルティ廟、モンテ・クリスティ宣言、ダイオウヤシの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のキューバの次は、少し間が開いて、2019年1月16日発売の同23日号でのコンゴ共和国(元仏領)の特集となっています。こちらについては、発行日以降、このブログでもご紹介する予定です。
 
★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
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 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 サンタ・クララ解放60周年
2018-12-29 Sat 02:26
 キューバ革命戦争末期の1958年12月29日、チェ・ゲバラ率いるシロ・レドンド第8部隊がキューバ島中部の要衝、サンタ・クララを解放し、革命側の勝利を決定的にしてから、ちょうど60周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・サンタクララ解放25周年

 これは、1983年にキューバが発行した“サンタク・ララの戦い25周年”の記念切手で、キューバ国旗と7月26日運動(M26)の旗で作った勝利のVサインと、戦闘の象徴としての破壊される装甲列車が描かれています。

 1958年8月7日、フィデル・カストロ率いる革命側は、彼らの拠点であったシエラ・マエストラに対する政府軍の攻撃を撃退すると、部隊を再編成し、ゲバラがシロ・レドンド第8部隊の指揮官に、カミーロ・シエンフエゴスがアントニオ・マセオ第2部隊の指揮官に、それぞれ任命され、キューバ島中央部、ラス・ビジャス州(現ビジャ・クララ州)の攻略作戦が開始されます。

 8月22日、まず、カミーロの部隊がラス・メルセデスから北側のルートで出発。ゲバラの部隊は武器弾薬の到着を待って8月31日に南側のルートを出発しました。

 ゲバラの部隊は、出発早々の9月1日、ハリケーンの直撃に見舞われただけでなく、政府軍の包囲と激しい攻撃を受けましたが、これをかいくぐり、10月7日、エスカンブライのゲリラと接触。10月15日、ついにラス・ビジャス州に到着し、カミーロの部隊とも連携して中央国道を完全に封鎖し、キューバ島の東西分断に成功しました。

 その後、革命側は州内の各都市を次々に解放。12月下旬には、ゲバラの部隊は州都サンタ・クララ東南のカバイグアンを攻略。同25日にはラス・ビジャス中央大学に司令部を設置し、サンタ・クララ攻略戦を開始しました。

 これに対して、バティスタ政権は、サンタ・クララ市街を一望できるカピーロの丘の上に堡塁を建設し、2000の兵を動員して町全体を要塞化し、無差別爆撃を加えました。しかし、無差別爆撃に反発した市民は、革命側に協力して政府軍の戦車を阻むバリケードを築いたり、火炎瓶を作ったりしました。さらに、市民からの情報を得たゲバラの部隊は、12月29日、レールに罠を仕掛け、400の兵と武器弾薬を積んだ装甲列車を脱線させ、総攻撃を開始します。

 戦闘は正午には終了し、戦意を喪失した政府軍は大量の武器弾薬とともに降伏。その後も、市内で散発的な戦闘が続きましたが、もはや政府軍に味方する市民はありませんでした。

 ゲバラによるサンタ・クララの解放後、もはや戦況は圧倒的に革命側に有利となり、長年の独裁体制のツケですっかり国民の支持を失っていたバティスタは、1959年1月1日、ついにドミニカ共和国に亡命。キューバ革命が達成されました。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』ですが、諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りです。正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

 
★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

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 おかげさまで200万PV
2018-12-28 Fri 16:28
 おかげさまで、本日(28日)午後、カウンターが200万PVを超えました。いつも、閲覧していただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。というわけで、“200”に絡んで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      龍200文

 これは、明治4年3月1日(西暦1871年4月20日)に発行された日本最初の切手、龍文切手のうちの200文切手です。

 日本最初の切手のデザインとして、向かい合う二匹の龍が採用されたことの理由については、しばしば「裏糊を舐めたり、消印で汚したりする切手のようなものに天皇の肖像を印刷するのは畏れ多いので、天子の象徴である龍を取り上げた」と説明されていますが、これは、全く根拠のない俗説です。

 そもそも、日本最初の切手には裏糊はついていません。したがって、天皇の肖像が印刷された紙の裏糊を舐めるから不敬であるというロジックは、当時の日本人の間では発想としてありえません。

 次に、消印で汚されるから天皇の肖像を取り上げなかったという説明ですが、こちらについても、(その後の切手についてはともかく)明治4年の切手に関しては、妥当なものとは言えません。

 実は、近代郵便の創業と切手の発行を企画した際、駅逓権正(政府の通信等を担当していた駅逓司の責任者)の前島密は切手の再使用を防ぐ手立てとして、切手に消印を押すという方法があることを知りませんでした。このため、彼は、切手の用紙を破れやすい薄手の和唐紙とすることで、切手を封筒から剥がそうとすれば破れてしまうようにして再使用を防げばよいと考えていました。

 もともと、大蔵官僚として租税権正(現代風に言えば主税局長といったところか。駅逓権正は兼任)であった前島は、政府が飛脚業者に支払っている通信費が莫大なものであることを知り、コスト削減の方策として、欧米諸国に倣って、政府が通信事業を行い、民間の利用者からも料金を徴収するのがよいと考え、明治3年6月2日、郵便創業に関する建議を民部・大蔵両省の会議に諮りました。

 ところが、郵便創業の建議を提出して間もない6月24日、前島は上司にあたる大蔵大丞・上野影範の特別弁務官として、英国へ派遣されることになります。その際、横浜を出航した米国船ジャパン号の船中で、前島は初めて、西洋では切手には消印を押しているということを知ったため、急遽、自分の留守を預かって駅逓権正となった杉浦譲に手紙を出し、明治3年11月、ようやく、郵便創業の暁には、切手の再使用を防ぐため、消印(抹消印)を押すということが規則として定められました。この時、すでに日本最初の切手の制作作業は具体的に動き出しています。

 それでも、明治4年3月1日に郵便サービスが実際に始められた際、現場の郵便局(当時の名称は“郵便役所”)では、切手に消印を押すということが実感として理解できなかったようで、消印を押さない事例が少なからずありました。

 じっさい、開業から6日目の3月6日に、東京郵便役所は「駅々より差立候書状之内賃銭切手に検査済之印押無分も有之、不都合ニ付、自今手落無之様可被取扱(各地で差し出された書状に貼られた切手には“検査済”の印を押していないものが見受けられる。これは不都合なので、今後はミスのないよう、取り扱うように)」との通達を出して、消印の押印漏れのないよう戒めています。

 このことは、切手に天皇の肖像が印刷されていようがいまいが、そもそも、郵便創業時には、切手に消印を押すということが一般に徹底されていなかったことを意味しています。

 したがって、当時の大多数の国民の間には、消印で汚されるから不敬という発想が生じる余地はなく、日本最初の切手に龍が採用されたことの理由を、そうした観点から説明するのは無理があります。

 さて、明治3年6月2日、郵便創業の建議を民部・大蔵両省の会議に諮るにあたって、前島は100文・200文・500文の3種の切手を発行することもあわせて提案しました。このとき、彼が提案した切手のデザインは龍ではなく、梅花模様で、これは、慶應3年、徳川昭武(慶喜の弟)の随員としてパリの万国博覧会に参加した渋沢栄一がフランスから持ち帰った不足料切手を元にしたものといわれています。

 実際に切手を発行するための技術者としては、明治2年7月に、民部省札や太政官札の製造を命じられて京都から上京していた、2代目玄々堂・松田敦朝(玄々堂)に白羽の矢が立てられました。

 松田敦朝は、京都の銅板業者、初代玄々堂・松本保居の長男で、細密な刻線を特徴とした微塵銅版に関しては、当代一流の名手と言われていましたが、彼の得意としていた銅板印刷は、版面をすべて手で彫刻するもので、フランス切手の背景に用いられていた連続的な模様を機械で彫刻することは想定外でした。また、欧米では当たり前のものであった凸版や石版の技術も、当時は日本にもたらされていませんでした。

 このため、、前島からフランスの切手を見せられた松田は「精巧なのに驚いて、迚も出来ません」と切手の製造を辞退したものの、前島はなんとか松田を説得し、切手の製造を請け負わせています。

 一方、英国出張中の前島に代わって、留守を預かった杉浦は、明治3年9月24日、前島のプランに50文切手を追加して切手発行の計画をまとめました。この計画案は、11月28日の大蔵省議を経て正式に決定となり、大蔵省出納寮から松田宛に切手の製造が発注されました。このとき、発注された切手の枚数は、50文切手8万枚、100文切手14万枚、200文切手14万枚、500文切手7万枚の、計43万枚です。さらに、年が明けて明治4年1月25日には、各額面同数ずつの追加発注が行われました。

 こうして、松田の玄々堂は、明治4年3月1日の郵便創業に間に合わせるべく、86万枚もの切手の原版彫刻とその印刷作業を完了。明治3年2月中には開業予定の東海道筋65ヶ所の郵便役所・取扱所に配給され、開業1週間前の2月24日から発売が開始されました。

 当時の技術水準で、このような突貫作業をこなすためには、新たにオリジナルのデザインを作り、原版の彫刻を行うのは物理的に考えて非現実的です。

 そこで、微妙な表情の人物の肖像や、前島の提案していた梅花模様を切手のデザインとして採用するというプランは放棄され、太政官札や民部省札で松田が彫りなれていた龍のデザインが採用されることになったと考えるのが妥当でしょう。実際、太政官札や民部省札に描かれている龍の姿は、明治4年に発行された切手の龍と酷似していることが一目瞭然です。(下は太政官札)

      太政官札

 また、前島の提案した梅花模様の案は偽造防止の観点から不採用になったとの記録もありますが、松田の作った太政官札も多数の偽札が作られ、政府当局を悩ませていたことを忘れてはなりません。偽造が横行していたにもかかわらず、あえて、それと同様の龍のデザインが切手にも採用されたということは、やはり、郵便創業を明治4年3月1日に間に合わせることを最優先したからで、デザイン上の諸問題は副次的な事柄とみなされていたことがうかがえます。

 最後に、切手であれ、紙幣であれ、“龍”が採用されたのは、龍が天子の象徴であったためとする説明についても考察しておきましょう。

 中国大陸の伝統では龍の姿は帝王を象徴するものとされ、その姿は、宮殿、玉座、皇帝の衣服、器物などに描かれていました。これに対して、古代の日本では、中国から伝えられた“龍”は、四神の白虎、朱雀、玄武とともに、まず青龍が重要視され、都城の守護神として位置づけられていました。平安時代以降、仏教が全国民的な規模で広まると、仏法の龍神が尊重されるようになり、龍は武具や寺院建築、仏具の装飾を飾るキャラクターとして定着していきますが、中国のように“聖獣”視されることはほとんどありませんでした。

 ちなみに、龍神のルーツとなったのは、インド神話における蛇神ないしは水神のナーガです。ナーガは、天気を制御する力を持ち、怒ると旱魃に、なだめられると雨を降らすとされており、釈迦が生誕した際には清浄な水を潅いだほか、成道後、嵐に遭った釈迦の身を覆って守護したとのエピソードがあります。こうしたこともあって、ナーガは“龍王”ないしは“龍神”として仏教に取り入れられ、仏法の守護者にして水の神として各地で民間信仰の対象となり、日本では法華信仰と結びつき、農業にとって重要な雨を司る存在として位置づけられるようになりました。太政官札のデザインに龍が取り上げられたのも、創始や文脈から、豊作ないしは経済発展を含意してのことと見るのが自然です。

 ちなみに、江戸時代の日本人にとっての龍は、ヤモリやトカゲ、ヘビなどと同レベルの動物とみなされており、刺青の題材としても好んで用いられていましたが、天皇や皇室とはほとんど無関係の存在でした。むしろ、錦絵などで天皇や皇室を示す記号としては、ほぼ全ての場合において菊花紋章が用いられており、龍が天子の象徴という中国式の発想は決して一般的なものではありません。

 いずれにせよ、明治4年に発行された日本最初の切手に関しては、前島密をはじめ駅逓司のスタッフと切手制作に携わった松田敦朝の玄々堂は、天皇なり皇室なりを全く意識することなく(というよりも、意識する余裕さえなく)、純粋に、日程的・技術的な理由から、二匹の竜が向かい合うデザインを採用せざるを得なかったと考えるのが説得力のある説明ではないかと僕は考えています。

 
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 切手で訪ねるふるさとの旅:岩手県
2018-12-27 Thu 01:14
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『(郵便局を旅する地域活性マガジン)散歩人』第36号(不定期刊)ができあがりました。同誌に掲載の僕の連載「切手で訪ねるふるさとの旅」では、今回は岩手県を取り上げました。そのなかから、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      国土緑化・1974年

 これは、1974年5月18日、全国植樹祭にあわせて発行された国土緑化運動の切手で、岩手山を背景にナンブアカマツが描かれています。

  1974年の全国植樹祭は、5月19日、岩手山のふもとにある岩手県岩手郡松尾村の「県民の森」で昭和天皇・香淳皇后ご臨席の下、開催されました。会場となった県民の森は、1969年に施設の整備が始められ、1973年に開園した森林公園で、岩手山の北側の比較的なだらかな斜面一帯約360haが公園の区域となっています。

 なお、植樹祭当日は、「このたびの行事が“自然と産業が調和する豊かな緑の創造”を強調して、盛大に行われることを満足します。今後とも関係者が協力して植樹を推進するよう希望します」との昭和天皇のお言葉と緑化功労者の表彰に続き、森林愛護少年団代表の伊藤智らの介添えでナンブアカマツ3本とオオヤマザクラ1本をお手植え。その後、全国から参加した1万6000名がナナカマドとシラカバの苗木2万4000本を植樹しています。

 さて、 今回の『散歩人』では、今回ご紹介の切手のほか、水沢の緯度観測所中尊寺金色堂、チャグチャグ馬コ、浄土ヶ浜、北山崎、南部鉄器の切手を取り上げました。掲載誌の『散歩人』は各地の郵便局などで入手が可能ですので、御近所でお見かけになりましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 世界の国々:ハンガリー
2018-12-26 Wed 00:49
  ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年12月19日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はハンガリーの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ハンガリー・国民軍ブダベスト進駐

 これは、1919年に発行されたハンガリー国民軍ブダペスト進駐の記念切手です。

 第一次大戦でのオーストリア=ハンガリー二重帝国の敗北が避けられなくなった1918年10月28日、チェコスロヴァキアが分離独立を宣言。これに対して、10月31日にブダペストでも暴動が発生し、11月16日にハンガリー第一共和国が樹立され、カーロイ・ミハーイが大統領兼首相に就任しました。しかし、カーロイ政権は講和と土地問題ですぐに行き詰まります。

 こうした中で、11月4日にモスクワでハンガリー共産党を創立したクン・ベーラが帰国し、カーロイ政権への批判を展開して勢力を拡大。共産主義者のデモが過激化するなかで、1919年3月20日、共産党は社会民主党左派と合同して社会党を結成。ロシア革命に倣い、“革命統治評議会”と称する政府を組織し、ハンガリー・ソヴィエト共和国の成立を宣言し、翌21日、カーロイ大統領を辞職させました。

 しかし、ソヴィエト共和国は一般国民には不人気で、フランスの支援を受けたルーマニア軍の干渉や、ホルティ・ミクローシュひきいる国民軍の蜂起によって8月6日には崩壊。国民軍は、旧帝国の皇族、オーストリア大公ヨーゼフ・アウグストがハンガリー国王として擁立されます。

 しかし、ハプスブルク帝国の復活を怖れる戦勝国側は、1919年のサンジェルマン条約でハンガリーのオーストリアからの分離独立を承認する一方、大公を国王として擁立することに強硬に反対。10月23日、大公は暫定的な王位から退位し、共和国議会より、フリードリッヒ・イシュトヴァーン、次いでフサール・カーロイが大統領に選出されました。

 1920年6月、ハンガリーと戦勝国の講和条約としてトリアノン条約が締結され、ハンガリーは主権を回復しましたが、周辺諸国に領土の3分の2を割譲。その過程で、同年3月1日、ハンガリー国民議会(共和国議会から改称)は、二重帝国時代の領土の正統性を主張するため、“聖イシュトヴァーンの王冠の地”を統治する権利を有する国として、“ハンガリー王国”の成立を宣言しました。ただし、同国は国王が空位の“国王なき王国”です。

 “国王なき王国”として出発したハンガリー王国は、ホルティが“摂政”として事実上の国家元首となりました。

 摂政としてのホルティは、国軍の最高司令官であるとともに、議会の解散権を持ち、首相の任命権と罷免権、さらには議会の決議を経た法案への拒否権も与えられていました。ただし、共産党以外の政党の存続は認められており、議会政治も機能していたため、ハンガリー王国の体制は、独伊のような独裁政治というよりも、権威主義体制ともいうべきものでした。

 これに対して、1921年3月26日、旧二重帝国の廃帝、カールがフランスの支援を受けて亡命先のスイスからハンガリー入りし、帝国復活のため、ホルティに対してオーストリアへの侵攻とハンガリー国王カーロイ4世としての即位を要求しましたが、協商国との係争化を懸念した国民議会はこれを拒絶。ホルティ自身もオーストリアへの侵攻には反対し、4月6日、カールはスイスに戻ります。

 その後もカールは復辟をあきらめず、 10月21日、ハンガリーへ再入国。国軍の一部がこれに合流しましたが、チェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアは実力をカールの即位を阻止すべく、国境地帯へ軍を集結させるなどの圧力をかけたため、10月24日、ホルティはカール夫妻を逮捕。11月には、国民議会がカールの王位継承権を明白に否定し、復辟問題は決着しました。

 復辟騒動を乗り切ったホルティ政権は安定しましたが、1930年代、世界恐慌の中で、ヴェルサイユ体制の打破を唱えるナチス・ドイツがいち早く経済危機を脱して国力を充実させると、領土回復の好機ととらえてドイツに接近。1940年11月、日独伊三国同盟に加盟して枢軸国の一員となり、第二次世界大戦に参戦しました。

 ドイツとの提携は、国内のファシズム政党である矢十字党によって進められ、ハンガリー軍はドイツ軍とともにスターリングラード攻撃などに加わりましたが、次第に劣勢となったため、1944年、ホルティの意向を受けた内閣が連合国と単独講和を探るようになります。しかし、ドイツはハンガリーの離脱を阻止すべく、ハンガリーを軍事占領し、ホルティを軟禁しました。

 これに対して、1944年末、ソ連軍はハンガリー東部に侵攻し、占領下に小地主党・社会民主党・民族農民党・共産党から構成された臨時政府を樹立。ホルティは亡命し、ハンガリー王国は崩壊しました。

 さて、『世界の切手コレクション』12月12日号の「世界の国々」では、第一次大戦後のハンガリー王国時代についてまとめた長文コラムのほか、ヴィジョイ聖書、ドナウ川、メーゼシュカラーチミュンヘン協定の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のハンガリーの次は12月19日発売の26日号でのキューバの特集となっています。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。
 

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      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 Merry Christmas!
2018-12-25 Tue 00:51
 きょう(25日)はクリスマスです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヨルダン・聖誕教会(1970)

 これは、1970年にヨルダンが発行した“聖地のクリスマス”の切手のうち、ベツレヘムの聖誕教会の14芒星を取り上げた1枚です。

 聖誕教会は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位306-37)の時代、イエス・キリストが生まれたとされる洞穴の上に建設が開始され、息子のコンスタンティヌス2世治下の339年に完成しました。ただし、当初の聖堂は6世紀に焼失し、西暦6世紀、ユスティニアヌス1世の時代に再建されました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた14芒星は、教会の地下、イエスがまさに生まれたとされる場所に設置されている銀の星で、ことし5月、現地を訪問した際にはこんな感じになっていました。(切手と同じ構図で写真を撮ろうとしたのですが、多くの観光客が群がっていたので、星そのものを撮影しようとすると、接近するしかありませんでした)

      聖誕教会・14芒星

 聖誕教会のあるベツレヘムはいわゆるヨルダン川西岸地区にあり、オスマン帝国の崩壊後、英委任統治領パレスチナに編入され、1948年以降はヨルダンの支配下に置かれていましたが、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領されました。これに対して、ヨルダンはイスラエルによる東エルサレムとヨルダン川西岸地区の占領・併合は国際的に無効であると主張し、その一環として、今回ご紹介の切手を発行し、ベツレヘム(を含むヨルダン川西岸地区)が自国領である(べき)とアピールしようとしたわけです。

 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 クリスマス・イヴ
2018-12-24 Mon 05:38
 今夜はクリスマス・イヴです。というわけで、クリスマス関連の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アルゼンチン・クリスマス(2016)

 これは、2016年12月13日にアルゼンチンが発行したクリスマス切手で、ノラ・ボルヘスの「天使」が取り上げられています。

 女流画家で批評家のノラ・ボルヘスは、1901年、ブエノスアイレスで、イタリア系ユダヤ人の血を引く父親と、ウルグアイの旧家出身で敬虔なカトリック信徒の母親の間に生まれました。兄は、現代ラテンアメリカ文学を代表する作家の1人、ホルヘ・ルイス・ボルヘスです。

 1914年、一家は、父親の眼病治療とノラの進学のためスイスにわたります。彼女は現地の美術学校で学び、前衛芸術活動のウルトライスモにも参加しました。

 1921年に家族とともに帰国し、画家としての活動を本格的に開始。第二次大戦中は、女性芸術家の反ファシスト団体“勝利の会”に参加します。

 ところで、第二次欧州大戦勃発後、1941年までイタリア駐在武官を務め、1943年5月に陸軍次官に昇進したフアン・ドミンゴ・ペロンは、同年10月、国家労働局次長に就任。さらに、労働局が労働福祉庁に改組されるとペロンは同庁初代長官に任命され、労働法の制定や国家主導の労使協調政策を進める一方、共産党系の労働運動は厳しく弾圧するなど、労働政策に辣腕をふるいます。さらに、1944年、軍事クーデターでエデルミロ・ファーレルが大統領に就任すると、ペロンは陸軍大臣と副大統領に任じられました。

 第二次大戦中のアルゼンチンは枢軸国寄りの中立の立場を取っており、ペロンはその中軸を担っていました。このため、米国は大使召還や経済制裁の発動などで揺さぶりをかけたものの、ペロンは屈しませんでした。ドイツの敗戦が確実になった1945年3月27日、ようやく、アルゼンチンは枢軸国に宣戦を布告しましたが、これは、戦後、“連合国”としての立場を確保し、新たに発足する国際連合に原加盟国として参加するための方便です。この結果、ペロンは外圧に抵抗する国家主義者として国民の人気を集め、彼の主義主張は“ペロン主義”と呼ばれ、“ペロニスタ(ペロン主義者)”と呼ばれる熱心な支持者を集めるようになります。

 大戦の終結後まもない1945年10月、米国の支援を受けたエドゥアルド・アバロスによる軍事クーデターが発生。ペロンはラ・プラタ島の監獄に拘束されましたが、ペロン支持の労働組合はこれに抗議してゼネストを決行。さらに、大統領府前の五月広場にはペロンの釈放を求めて労働者が大挙押し寄せ、エヴィータはペロンの釈放のために奔走し、ラジオで国民に向かってペロンの釈放を呼びかけました。

 国民世論の前に、クーデターは失敗。10月17日、ペロンは釈放され、同月21日、アバロス政権は退陣に追い込まれます。そして、同月26日、ペロンはエヴィータと正式に結婚。1946年3月の選挙でペロンはアルゼンチン大統領に就任しました。

 こうして1946年に発足したペロン政権は、大戦中に蓄積された膨大な外貨を原資として、労働組合の保護や労働者の待遇改善(週48時間制と年間13ヵ月分の給与支給など)、女性参政権の実現、外資系企業(英国資本の鉄道会社や米国資本の電話事業など)の国営化、貿易の国家統制などの政策を推進する一方、批判勢力に対しては厳しい言論統制を行いました。また、ペロン本人はナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を強く非難する一方、旧ドイツ軍やナチス親衛隊の戦犯を多数匿い、アルゼンチンの軍や治安機関の育成に当たらせています。

 こうしたことから、ペロン政権は“左翼ファシスト”として、インテリ層からは、その社会改革も、自分の権力を守るための“ムッソリーニ的ナショナリズム”にすぎないと批判されました。ノラを含むホルヘ一家も反ペロン派の文化人として活動していたため、ノラ本人が1948年に1ヵ月間投獄されたほか、母親は自宅軟禁となり、兄のホルヘは図書館員から公共食肉市場の検査官に転属させられたうえ(ホルヘはこれに抗議して職を辞しています)、刑事に尾行されるなど、1955年のペロン失脚まで苦難の日々を過ごしました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた「天使」は、ペロン政権時代の1950年に制作された作品で、“愛”と“平和”のモチーフでペロン政権への不服従を表現したとされています。
 

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 切手歳時記:天皇誕生日
2018-12-23 Sun 01:30
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年12月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、平成最後の天皇誕生日にあわせて、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      立太子礼(明仁)小型シート

 これは、1952年12月23日に発行された“立太子礼記念”の小型シートです。

 天皇誕生日は、古くは“天長節”と言っていましたが、これは皇后誕生日の“地久節”とともに、『老子』第七章の「天長地久」に由来し、両陛下のご長寿をお祈りするという意味が込められていました。『老子』では「天長地久」に続けて「天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生」とあり、天地が永久なのは、天地に自ら永久であろうとする意志がないからだと説明したうえで、“道”を知った聖人は無視無欲であると説いています。

 ところで、現実の君主が聖人であることは稀ですが、五経の『礼記』によれば、聖人が王となり、仁のある政治を行うときに現れるのが、霊獣の麒麟です。

 麒麟は、鳳凰、霊亀、應龍とともに中国の古代思想における“四霊”のひとつで、鹿の身体に、角の生えた狼の頭、牛の尾、馬の足と角を持つとされています。日本では、キリンビールのラベルのイメージが強いのではないでしょうか。なお、麒麟という語は、本来は、この霊獣の総称で、麒がオス、麟がメスです。

 今回ご紹介の小型シートには、麒麟を描いた5円および10円切手が収められています。

 立太子礼は、勅旨によって皇太子が天皇の後継者であることを内外に示すために行われる儀式で、皇位継承についての明確な規定のなかった明治以前には、皇位継承者の正式な発表の場として重要な意味を持っていました。明治以降は、天皇の長男が皇太子となることが制度として定められたため、儀礼的なお祝いとしての面が強調されています。

 1933年12月23日、昭和天皇の第一皇男子としてお生まれになった明仁親王(今上陛下)の立太子礼は、1947年に改正された「皇室典範」に基づき、当初、親王殿下が満18歳に達した1951年12月に行われる予定でしたが、当時のわが国は連合国の占領下で、立太子礼は予算規模71円の質素なものとして計画されていました。

 ところが、1951年5月、皇太后(貞明皇后=大正天皇の皇后)が崩御され、その諒闇中ということで立太子礼の儀式は一年延期。その間、1952年4月に講和条約が発効してわが国が独立を回復したことから、立太子礼は、同年11月10日、独立回復初の皇室の慶事として盛大に行われ、記念切手も発行されることになりました。

 立太子礼の記念切手については、当初、郵政省は肖像切手の発行を希望していましたが、宮内庁が首を縦に振らず、立太子礼の儀式の際、皇太子の証として天皇から授けられる秘法“壺切剣”が題材として選ばれます。しかし、剣は宮中の秘宝で、切手制作のために借り出して模写することが許されなかったため、郵政省は、1916年の裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼を撮影した膨大な新聞写真の中から剣の写っているものを探し出し、宮内庁に確認のために照会しましたが、宮内庁側の説明によると、件の写真は合成したもので実物とは異なるとのこと。そこで、郵政省は文献資料を調査し、剣には海浦模様の蒔絵と麒麟の螺鈿が施されていること、正倉院御物、高御座、そして壺切剣の麒麟は基本的にはほぼ同じ形状であることを確認したうえで、正倉院御物を資料として切手のデザインを制作しました。

 このように、宮内庁との調整などに手間取ったこともあって、単片の記念切手は立太子礼当日の11月10日に発行されたものの、3種の切手を収めた小型シートは間に合わず、殿下18歳のお誕生日にあたる12月23日の発行となりました。


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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 世界の切手:フィリピン
2018-12-22 Sat 08:14
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年12月12日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はフィリピン(と一部カンボジア)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン第一共和国・軍事公用便

 これは、フィリピン第1共和国時代の軍事公用便です。

 1529年以来、スペインの植民地となっていたフィリピンでは、1896年8月、独立を求める革命が勃発しましたが、革命側は内紛が続き、戦況は一貫してスペイン有利に展開されていました。こうした状況の下で、1897年5月、革命派内の主導権を掌握したエミリオ・アギナルドは、ともかくも、自らを大統領としてフィリピン共和国(総司令部の置かれていた地名にちなみ、ビアクナバト共和国とも呼ばれます)の成立を宣言しましたが、最終的にスペインと妥協し、半年後の12月20日、80万ペソ(40万米ドルに相当。ただし、この段階でスペイン側がアギナルドに支払ったのは半額の40万ペソ)の補償金と引き換えに香港へ亡命。革命はいったん終結します。

 ところが、1898年、米西戦争が勃発し、スペイン領フィリピンに狙いを定めた米国は、アギナルドらに対して独立の口約束を与え、これを信用したアギナルドらは亡命先の香港から帰国。1898年5月24日、「偉大かつ強力なるアメリカ合衆国が、この国の自由の確保のために、利害抜きの保護を提供してくれたので」スペイン軍を殲滅して憲法を制定し、政治の組織を完成するまでの間、みずからを総帥とする独裁政府を樹立すると宣言し、6月12日にはアギナルドの私邸で独立宣言が行われ、米国の独立宣言にならった宣言文が読み上げられたほか、国旗・国歌も正式に披露されました。さらに、アギナルド政府は、8月1日には各地の議員選挙を行い、本部をカビテからマニラ北方のマロロスに移し、フィリピン人のみの第一議会を招集。9月29日には正式にアギナルドが初代大統領に就任しました。

 しかし、米国はアギナルドを裏切り、革命政府抜きでスペインとの講和を進め、同年12月10日、パリで講和条約を調印。この結果、米国はフィリピンを2000万ドルで買収することが決定され、“友愛的同化”をスローガンとする植民地支配がスタートしました。

 マニラ開城以降の米国の対応は、当然のことながら、フィリピン人の憤激を買い、フィリピンでは反米感情が一挙に昂揚します。そもそも、マニラ開城から米西間の講和条約が調印されるまでの間に、革命軍はルソン島からビサヤ諸島にいたるスペインの支配地域を自力で解放していました。また、新国家にとって記念すべき第一議会が、首都のマニラではなく、マロロスでの開催を余儀なくされたのも、スペインとの密約でアメリカが革命軍のマニラ入城を阻止していたのが原因です。このため、革命政府は、1899年1月、マロロスで憲法を発布し、フィリピン共和国(第一共和国。マロロス共和国)を正式に樹立させ、米国の背信を絶対に認めないとの姿勢を内外に明らかにしようとしました。

 こうして、米軍政当局と革命政府との緊張が高まる中、1899年2月4日、米兵によるフィリピン兵2名の射殺事件が発生。これを機に、両者の対立は本格的な米比戦争へと発展します。

 米軍と革命政府との戦闘は、近代的装備に勝る米軍が終始一貫して革命軍を圧倒し、1899年3月末には革命政府の首都マロロスが陥落。同年11月にはアギナルドが山岳地帯に追い込まれて革命軍は組織として壊滅しました。

 しかし、アギナルド政府の残党は、米軍に対して各地で激しいゲリラ戦を展開。米軍を大いに悩ませます。これに対して、米軍はフィリピン・ゲリラを武力で制圧しようとしたものの、実際には、戦闘は次第に泥沼化し、収拾のめどは全く立ちませんでした。このため、1900年3月、マッキンリー大統領の命を受けて現地に派遣されたウィリアム・タフト(後の大統領)は、軍政官アーサー・マッカーサー(日本占領の司令官、ダグラスの父)を抑え、現地住民からなる親米勢力として連邦党を支援し、同党を足がかりとして地方の有力者を取り込むことで、占領行政を安定させようとしました。

 その後、1901年3月23日、アギナルドが米軍に逮捕されると、革命軍の指導者の投降も相次ぎ、タフトの支援する連邦党も革命勢力の武装解除に協力して治安状況は急速に改善。1901年7月4日にはタフトを総督とする植民地統治が開始され、翌1902年7月4日、フィリピン平定作戦の終了が宣言され、米領フィリピンが確定します。

 さて、『世界の切手コレクション』12月12日号の「世界の国々」では、米西戦争から米比戦争までの流れをまとめた長文コラムのほか、マニラ大聖堂マヨン山ホセ・リサールの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のフィリピン(と一部カンボジア)、12月12日発売の同19日号でのハンガリー、19日発売の26日号でのキューバの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 日本の商業捕鯨再開へ
2018-12-21 Fri 01:01
 日本政府は、きのう(20日)、クジラの資源管理について話し合う国際捕鯨委員会(IWC)を脱退し、IWCが禁じる商業捕鯨を約30年ぶりに再開する方針を固めました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      産業図案・捕鯨

 これは、1949年5月20日に普通切手として発行された“産業図案切手”のうち、捕鯨を取り上げた3円切手です。

 終戦直後の食糧難のなかで、蛋白源として最も期待されていたのが鯨でした。

 しかし、戦時中、わが国の捕鯨船やトロール船のほとんどが特設艦艇として徴用されて壊滅的な打撃を受けていたことに加え、1945年9月にGHQが発した「日本の漁業、捕鯨業の認可された区域に関する覚書」では、いわゆる“マッカーサー・ライン”が設定され、日本漁船には日本近海の一定水域内における操業のみしか許可されず、遠洋漁業は事実上不可能となっていました。

 こうした状況の中で、大洋漁業は戦前の実績と経験をもとに、小笠原捕鯨の基地捕鯨の許可をGHQに申請します。これに対して、GHQは1945年11月3付で日本本土の捕鯨基地を利用した近海捕鯨を許可。さらに、同月30日には、小笠原諸島を含む3万平方海里において操業する特別許可を与えました。ただし、このときは捕鯨海域のみならず、そこにいたるまでの航行区域もGHQに指定されており、日本の領土から切り離された小笠原諸島の領海3海里以内には日本漁船は入ってはならない等の制約もありました。

 このため、大洋漁業は、戦前に使用していた母島の漁業基地は利用できず、また、捕獲したクジラを処理するための捕鯨母船が戦争によって失われていたこともあって、捕獲したクジラの処理方法に頭を悩ませていましたが、最終的に、GHQに接収されていた軍艦を母船として借り受けることになります。ちなみに、GHQが貸出対象の軍艦として示したリストの筆頭には戦艦・長門が挙げられていたそうですが、実際に彼らが借り受けたのは、特別輸送艦第19号(元一等輸送艦第19号)でした。

 第19号は、1945年5月16日に竣工。戦争中は瀬戸内海で回天の輸送、戦後は武装を撤去して復員輸送に従事していましたが、大洋漁業からの申し出を受けて捕鯨母船として改修され、元海軍軍人の艦長以下全乗組員80名が、艦もろとも大洋漁業に貸与されるかたちで、1946年2月24日、マストに大洋の社旗と軍艦旗を掲げて下関を出航し、さまざまなトラブルを乗り越え、4月18日、捕獲頭数113頭、油肉その他の生産量1005トンをもって操業を切り揚げ、4月23日に東京に寄港しました。第19号によってもたらされた塩蔵鯨肉は、臨時配給され、食糧不足の中では貴重な蛋白源となっています。

 この実績を踏まえて、大洋漁業と日本水産による南氷洋での捕鯨許可がGHQに申請されます。GHQが早くも5月に内諾を出したことを受けて、出漁に必要な資金は大蔵省が斡旋し、農林省は鯨肉の公定価格を引き上げて漁業会社に“損はさせない”ことを約束するなど、文字通り国家的プロジェクトとして準備が進められ、8月8日に正式な出漁許可を受け取ります。

 こうして、1946年11月に出航した戦後最初の南氷洋捕鯨船団は、1947年3月中旬までに、日本水産の橋立丸船団が捕獲頭数シロナガス換算(BWU)6391.5頭、生産量は鯨油3700t、鯨肉10557t。大洋漁業の第一日新丸船団が捕獲頭数540.5頭、生産量は鯨油8560t、鯨肉11609.8tを得て、日本人にとって貴重なタンパク源となりました。

 このように、当時の日本にとって捕鯨の持っていた意味はきわめて重要であり、そのことが、今回ご紹介した切手の発行につながったといってよいでしょう。

 ところで、日本以外の捕鯨国は、基本的に、鯨肉を食用としていませんでしたから、彼らにとっては、捕鯨とはあくまでも鯨油を採取するための手段でしかなく、鯨油価格の動向こそが最大の関心事でした。それゆえ、ある年代までの“鯨の保護”には、捕鯨産業を維持するために鯨の乱獲を制限すると同時に、鯨油の生産過剰による値崩れを防ぐという意味あいが強く、じっさい、1948年に発足した国際捕鯨委員会(IWC)も、当初は、鯨油価格維持のための国際カルテルという性格が濃厚な組織でした。ちなみに、19世紀には主として照明用に用いられていた鯨油は、第二次大戦後は、低温でも凍らず、高温でも粘性を失わない特性を活かして、自動車や飛行機の潤滑油あるいは潜水艦用の不凍液が主たる用途になりました。米国がながらく世界一の捕鯨国であったのも、このためです。

 しかし、1960年前後から、潤滑油や不凍液は化学合成によって安価で高性能の商品がつくられるようになり、西側世界での鯨油価格は暴落。鯨油採取のみを目的とした捕鯨業者は相次いで廃業に追い込まれることになりました。

 一方、1970年代に入ると、いわゆる環境保護運動が社会的な影響力を持つようになってきます。彼らは、鯨類資源の枯渇した状況を“人類による環境破壊のシンボル”として、「鯨を救え」とする運動を展開。このため、彼らの活動が盛んな米国やオーストラリア、ニュージーランドなどでは、国内法で鯨類製品の輸入を禁止する規制が導入されました。ただし、これらの国では鯨肉は食用とされていなかったため、この規制は国内産業になんら影響を及ばすものではなく、あくまでも象徴的なものでした。

 ところが、1972年にストックホルムで開催された国連人間環境会議で、商業捕鯨の10年モラトリアムが提案されたことで、日本の食糧市場がにわかに注目を集めるようになります。それまでのように、日本が鯨肉で国民の蛋白源をまかなえなくなれば、その代わりの蛋白源の市場が経済大国・日本に生まれるからで、この市場は、オーストラリアやニュージーランドの牛肉や羊肉の生産者にとって非常に魅力的なものと映りました。

 かくして、鯨が以前とは全く異なる政治的・経済的な意味を持つようになると、1976年、非捕鯨国はIWCに再加盟します。ただし、この時点では、オーストラリアなど世界有数の畜産国が、捕鯨は残酷だが、牛や羊の屠殺は認められるという荒唐無稽な主張を政府として支持していたわけではありません。

 さらに、こうした状況の下で台頭してきたのが、現在、環境保護を騙り、世界各地で卑劣なテロ行為や詐欺まがいの集金活動を繰り返している環境テロリスト集団として、全世界に悪名をとどろかせているグリーンピースです。

 すなわち、1970年代前半まで、反戦運動を活動の中心に据えていたグリーンピースは“広くさまざまな自然保護問題について行動する組織”へと脱皮すべく、反捕鯨運動に接近。1975年以降、捕鯨船の前にゴムボートを繰り出して捕鯨を妨害するという環境テロを開始します。グリーンピースや彼らに影響を受けた環境NGOの活動はエスカレートし、農水産省や政府関係者に対して、左派系の教員や活動家が児童生徒を動員して「鯨を救え」と題する抗議文書を大量に送り付け、業務を妨害するという戦術が展開されていきます。そして、こうした恫喝に屈したり、あるいは、そのプロパガンダに洗脳される国民の多かった国々は、急速に反捕鯨国として過激化していったわけです。

 なお、反捕鯨国の急先鋒として知られるオーストラリアが執拗なまでに日本による南氷洋の捕鯨に反対する背景には、かの国にとっては、オーストラリア連邦の結成以来、オーストラリアは常に日本を恐れ日本の脅威を取り除くことに最大の関心を払ってきたという事情があった(ある)ことも見逃してはなりません。

 実際に日本が戦争によって壊滅的な打撃を受け、去勢されたといっても過言ではないほどまでに徹底して武装解除された後でさえ、いずれ「優秀な日本人」は復興を果たし、再び自分たちにとって深刻な脅威となるはずだというのが、日本との苛烈な戦争を戦った経験を持つオーストラリア人たちの共通認識でした。わずか数年前のダーウィン空襲はオーストラリア北西のティモール海を飛び立った日本軍機によるものでしたが、南氷洋捕鯨に出漁する日本船(しかも、旧海軍の元軍艦が使われていました)の航路は、オーストラリア大陸により接近したものとなることは確実です。

 このため、日本の船が自国の近海を通過することに強い恐怖感を覚えたオーストラリアは、1946年の時点で、戦時賠償として日本の捕鯨母船を没収しようという、どう見ても無理な主張を持ち出して、なんとしても日本の捕鯨再開を妨害しようとしています。

 結局、この件に関しては、西側世界の盟主にして、日本占領を実質的に仕切っていた米国が「(日本の捕鯨再開に)反対する国は日本向けに1000万ドルの食糧援助をしてもらいたい」と一喝したことで決着。オーストラリアも矛を収めざるを得ませんでした。  
 ちなみに、日本の南氷洋出漁にあたっては、「敗戦国が負けて1年も経たないのに1万トン以上の大型船を建造するのは早すぎる」との反対意見がオーストラリアやノルウェー、英国、ニュージーランドなどから出されました。なかでも、英国とノルウェーは1951年の平和条約締結まで毎年抗議を行い、オーストラリアは第一次南氷洋捕鯨に出漁した2隻の捕鯨母船を戦時賠償として要求して物理的に日本の捕鯨を妨害しようとさえしています。

 いずれにせよ、反捕鯨国が、環境テロリスト団体とも良好な関係を保ちつつ、頑なに日本の商業捕鯨に反対してきた背景には、上記のような歴史的背景があったことは十分に留意しておく必要があるでしょう。 


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      表紙帯つき 本体2000円+税

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 小さな世界のお菓子たち:クッキーの切手
2018-12-20 Thu 00:54
 大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第42号(2018年冬号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      オーランド・クリスマス(2017・タブつき)

 これは、2017年にオーランド諸島で発行されたクリスマス切手の1枚で、ジンジャー・クッキーで作られた“ヘクセンハウス(お菓子の家)”が取り上げられています。緑色に星の入ったタブが上についているので、星の瞬く下、雪深い森の中の一軒家のような雰囲気ですね。

 バルト海、ボスニア湾の入り口に位置するオーランド諸島は、もともと、フィンランド本国ともども、スウェーデンの支配下にありました。このため、現在でも住民の多くはスウェーデン系でスウェーデン語を母語としています。

 ところが、1809年、スウェーデンがロシアとの戦争に敗れ、フィンランドがロシアに割譲されると、オーランド諸島もフィンランド大公国(大公はロシア皇帝)の一部としてロシア領に。そして、第一次大戦を経てフィンランドがロシアから独立すると、オーランド諸島ではスウェーデンへの復帰を求める住民運動が起こります。新生フィランド政府は、1920年、オーランド自治法を制定してオーランドに広範な自治権を与え、フィンランドへの残留を求めましたが、それでも、スウェーデンへの帰属を望む多数派の住民は納得しなかったため、オーランド問題は国際連盟に委ねられます。

 そこで、連盟は事務次長の新渡戸稲造を中心に詳細な調査を行ったうえで、オーランドにさらなる自治権を与えることを条件に、「オーランドはフィンランドの自治領とする」とした“新渡戸裁定”を提示。両国はこれを受け入れ、1922年、オーランド自治政府が成立しました。その後、オーランド諸島ではフィンランド切手が使われていましたが、1984年以降、オーランド諸島として独自の切手が発行されています。

 さて、今回ご紹介の切手に取り上げられたジンジャー・クッキーは、オーランドの公用語であるスウェーデン語では“ペッパルカーコル”。英語では “ペッパー・クッキー”の意味です。この地域では、ジンジャーのほかにクローブやシナモンなどのスパイスが効いており、黒蜜のようなダークシロップで甘みをつけるので、焼き上がりは少ししっとりしていて、濃い目の色味に仕上がります。

 切手は無額面の永久保証切手で、“Julpost”の表示は国内宛のクリスマス・メールの意味。切手が発行された時点では55セントで、一般的な書状料金の60セントよりも割引になっています。


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 ジャージー沖でカヤック救助
2018-12-19 Wed 02:24
 英王立救命艇協会(RNLI)の救命艇が、16日、チャンネル諸島ジャージー沖で、大荒れの海の中、遭難したカヤックを救助したことが話題となっているそうです。というわけで、なかなか日本ではニュースになることの少ない地域ですので、きょうはジャージーの切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャージー(1941)

 これは、第二次大戦中、ドイツ占領下のジャージーで1941年に発行された切手で、“ジャージー”名義の切手としては最初の1枚になります。

 牛のジャージー種の原産地であり、また衣類のジャージの語源とされるジャージーは、イギリス海峡のチャンネル諸島のうち、ジャージー島のほかマンキエ諸島やエクレウ諸島などから構成される英王室属領です。

 ジャージーを含むチャンネル諸島は933年にノルマンディー公国の領地に編入され、1066年のノルマン・コンクエストにより、ノルマンディー公ウィリアムがイングランド王になるとイングランド王の所領となりました。1204年、イングランド王兼ノルマンディー公ジョンはフランス王フィリップ2世にノルマンディー地方を奪われましたが、チャンネル諸島に関してはイングランド王の所領にとどまり、1254年にはイングランド王室の個人領地とされました。

 現在でも、チャンネル諸島は英国王の私領地との扱いで、英国王をその君主とし、英国がその外交及び国防に関して責任を負うものの、内政に関して英議会の支配を受けず(=英国の法律や税制は適用されない)、独自の議会と政府を持ち、海外領土や植民地と異なり高度の自治権を有しています。また、欧州連合にも加盟していません。

 さて、第二次大戦中の1940年6月28日、ナチス・ドイツはチャンネル諸島のガーンジー島とジャージー島の港湾への爆撃を開始し、7月1日にはチャンネル諸島を占領しました。

 第二次大戦以前のジャージーでは英国の切手が無加刷でそのまま使われていましたが、ドイツ軍の占領により英国との交通が途絶すると、切手の配給もストップし、1940年末には深刻な切手不足となりました。このため、占領当局は住民に対して、郵便物はポストに投函させず、直接郵便局の窓口に持ち込ませることで切手の消費を抑えようとしましたが、この方法はあまりにも不便だったため、ジャージー専用の1ペニー切手が現地で手配されることになりました。

 占領下での切手のデザイン制作を命じられたノーマン・ライボットは、占領当局への抵抗の意思を密かに示すため、単に“ジャージーの紋章”とだけ説明して、“イングランドとチャンネル諸島の獅子”を大きく描いた原画を制作。また、切手の4隅には小さく“A”の文字を入れました。これは、「地獄に落ちろ、凶悪なアドルフよ」を意味するノルマン語“Ad Avernum, Adolphe Atrox”の頭文字を意味しています。ただし、占領当局はそうしたライボットの意図を見抜くことができず、ライボットの原画にOKを出し、ジャージー島内で新聞を発行していたイブニング・ポスト社での切手製造を経て、1941年4月1日頃から郵便局の窓口での販売が開始されました。その後、1942年1月20日には半ペニーの切手が発行されたほか、1943年には風景図案の切手も6種類発行されています。

 1945年5月9日、ドイツの敗戦により、ジャージーを含むチャンネル諸島は解放され、ふたたび英置く切手が持ち込まれて使用されるようになりました。しかし、占領による経済的な打撃が大きかったことから、戦後復興の一環として、チャンネル諸島では観光宣伝と外貨獲得源のひとつとして、1940年代後半、独自の切手発行を計画します。この時点では、この計画がは実現しませんでしたが、1958年になって、同諸島の他、マン島スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの各地で、エリザベス女王の肖像に各地の紋章やシンボルマークなどを入れた“地方切手”として実現しました。

 なお、これらの地方切手は販売地域は限定されていたものの、英国の全域で使用することが可能でしたが、1969年10月1日以降、ジャージーではジャージー専用の切手が発行されるようになり、現在に至っています。 


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 スプレー缶の切手
2018-12-18 Tue 11:04
 札幌市豊平区の飲食店などが入る建物で16日夜に発生し42人が重軽傷を負った爆発事故で、飲食店の隣にある不動産店舗の従業員が「大量の除菌消臭スプレー缶に穴を空けてガス抜きをした後に爆発した」と話しており、このガスに何らかの原因で引火した可能性が高いとみられています。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ノルウェー・スプレー缶

 これは、2000年6月2日にノルウェーで発行された“ノルウェーの発明”の切手で、エリック・ロートハイムによるスプレー缶(エアゾール)の発明が題材になっています。

 エリック・ロートハイムは、1898年9月19日、スウェーデンとの同君連合時代のクリスチャニア(現オスロ)で生まれました。1921年、スイスのチューリヒ工科大学を卒業。1925年にオスロで起業し、液化ガスあるいは圧縮ガスと使用目的の液体を弁を持つ容器に封入し、ガスの力によって使用目的の液体を弁から放出させる“エアゾール”を考案。1926年10月に特許申請を行い、1929年6月、ノルウェー国内の特許を獲得しました。今回ご紹介の切手の背景は、この時の特許状の文言(の一部)となっています。ちなみに、この間の1927年9月30日には、ロートハイムは米国でも特許申請を行っており、1931年4月7日付で特許を取得しました。

 特許申請中の1927年、ロートハイムはノルウェーの塗料メーカー“アルフ・ビャルケ”に対してエアーゾルの技術を提供し、塗料、ニスなどのスプレー缶を商品化しましたが、期待されたほどの売上がなかったため、1931年、ロートハイム・スプレー・システム社を創立し、国際市場での販売を開始しています。

 ロートハイムは1938年9月18日に亡くなりましたが、1940年代以降、米国で殺虫剤のスプレー缶が発売されると、その用途が急速に拡大。現在では、スプレー缶は人々の日常生活に欠かせないモノとして定着しました。
 
 さて、かつては、使用済みのスプレー缶は穴を空けて捨てるというのが一般的でしたが、現在では、「中身を使い切って、穴を空けずに透明または半透明の袋に入れてごみステーションへ」と捨て方が変更になっている自治体も多くなっています。いずれにせよ、スプレー缶を処分する際には、不用意に穴を空けず、専用のガス抜きキャップを使ってガスを抜く、火気のない風通しの良い屋外で作業するなどの基本的な注意事項をきちんと守らないといけませんね。


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 世界の切手:スリランカ
2018-12-17 Mon 05:06
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年11月28日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はスリランカの特集(3回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      セイロン・アダムス・ピーク(1947)

 これは、英領セイロン時代の1947年に発行された“新憲法制定”の記念切手で、アダムス・ピークが取り上げられています。

 アダムス・ピーク(標高2238m)はセイロン島中央部の山で、シンハラ語では“聖なる山”を意味する“スリー・パーダ”、または“蝶の山”を意味する“サマナラ・カンダ”と呼ばれています。頂上付近の岩にある穴が足跡に似ており、仏教徒は仏足跡、ヒンドゥーはシヴァ神の足跡、ムスリムは人類始祖のアダムの足跡(これがアダムス・ピークの名前の由来)、キリスト教徒は聖トーマスの足跡に見立てます。

 また、白い象に乗り弓矢を持つ狩猟神“サマン”の在所として、スマナ・クータとも呼ばれ、山麓のラトゥナプラでは毎年10月頃に大祭が行われるほか、諸宗教を越えた山岳信仰の山として、3月の満月の日は山麓から山頂まで数珠つなぎになるほどの巡礼が参拝に訪れます。

 さて、『世界の切手コレクション』11月28日号の「世界の国々」では、ラージャパクサ政権の時代を中心にしたスリランカ現代史についての長文コラムのほか、セッサールワの大仏シーギリヤ・ロック仏暦2500年祭初代首相ドン・セナナヤカの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のスリランカの次は、12月5日発売の同12日号でのフィリピン(と一部カンボジア)、12月12日発行の同19日号でのハンガリーの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。

 * 昨日(16日)、武蔵野大学武蔵野キャンパスにて開催の日曜講演会「切手と仏教」は、無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただいた皆様、スタッフの方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。 


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 本日、「切手と仏像」やります
2018-12-16 Sun 03:10
 かねてご案内のとおり、本日(16日)10:00より、武蔵野大学武蔵野キャンパスにて開催の第606回日曜講演会(詳細はこちらをご覧ください)で、「切手と仏教」と題してお話しします。というわけで、その予告編として、こんなモノをを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モンゴル最初の切手

 これは、1924年にモンゴルで発行された最初の切手で、活仏の象徴として、金剛杵の羯麿が描かれています。

 金剛杵(ヴァジュラ)は、もともとは、インド神話のインドラ(帝釈天)に由来するとされる武器の一種で、仏教に取り入れられた際、仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心(悟りを求める心)を表す様を象徴する法具となりました。羯麿はその金剛杵を二つ、十字に組み合わせた形のものです。

 モンゴル族の居住地域は、かつては帝政ロシアと清朝に分割されて支配され、清朝支配下の地域は、ゴビ砂漠をはさんで、それぞれ、南側が“内蒙古”(“蒙疆”とよばれることもある)、北側が“外蒙古”と呼ばれていました。

 もともと、清朝の体制は、満洲族の皇帝が漢族を含む他の諸民族を中央集権的に支配するというのではなく、どちらかというと、域内諸民族の緩やかな連合国家という性質の強いものでした。ところが、1911年10月、辛亥革命が起こり、1912年に中華民国が発足して清朝が滅亡します。中華民国政府は、建前として“五民族(漢族、チベット族、満洲族、モンゴル族、ウイグル族)の“平等”を掲げていたものの、もともと、孫文らの革命活動は、“駆除韃虜 恢復中華”のスローガンの下、満州族の支配を打倒して漢民族の政治的・文化的支配を復活させることを建前としており、革命政権の政治の中枢は漢族がほぼ独占。清朝の時代と比べて、満州族やモンゴル族の地位は大幅に後退しました。

 したがって、“韃虜”に分類される満洲・チベット・モンゴル・ウィグルの各民族は、そもそも自分たちを駆除するということを公言してきた革命政権に服属しなければならない理由がなくなり、モンゴル族はロシアの援助を受け、活仏のジェプツンダンバ・ホトクト8世を“ボグド・ハーン”として君主(ハーン)に推戴し、独立を宣言します。

 これに対して、あくまでもモンゴルの独立を認めない中華民国は、1919年、モンゴルに侵攻。ハーンとして即位したボグド・ハーンを退位させ、私邸に軟禁しました。これに対して、1921年、ソ連赤軍の支援を受けたモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党)のダムディン・スフバートルによる独立闘争の結果、モンゴルは再独立し、ボグド・ハーンは推戴されて君主として復位したものの、以前と比べて、ボグド・ハーンの権限は大幅に制限されました。今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で発行されたもので、羯麿を描くことで、モンゴル国が活仏を頂く仏教国家であるとの建前が表現されています。

 しかし、1924年4月、ボグド・ハーンが亡くなると、コミンテルンの指導を受けたモンゴル人民革命党は、同党による一党独裁の社会主義国を宣言。同年11月26日、ソ連の衛星国としてのモンゴル人民共和国が誕生。以後、1990年の民主化にいたるまで、モンゴル国内では大規模な仏教弾圧が続けられました。

 さて、今回の講演では、日本の龍文切手1905年にタイが発行した世界最初の仏教切手1931年に仏印で発行された世界最初の仏像切手などもご紹介しながら、切手と仏教の関係について、いろいろ読みと行こうと思っています。

 講演会は、予約不要・聴講無料ですので、ぜひお気軽に遊びに来てください。
 

★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください) 

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


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 ラージャパクサ錫首相、辞任へ
2018-12-15 Sat 01:42
 スリランカで最高裁から首相権限の差し止め命令を受けたマヒンダ・ラージャパクサ氏が、きょう(15日)、首相職を辞任する見通しです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ラージャパクサ訪中・カバー

 これは、2013年のラージャパクサ訪中時(当時の彼の身分は大統領)に作れられた記念カバーで、ラージャパクサの肖像写真とサインが印刷された封筒に切手を貼って記念印が押されています。

 マヒンダ・ラージャパクサは、英領セイロン時代の1945年11月18日、ハンバントータ郊外でシンハラ人仏教徒の家庭に生まれました。独立運動家で、1948年の独立後は国会議員も務めた父のドン・アルウィンが1967年に亡くなると、1970年、父の威光を背景に、スリランカ史上最年少の25歳で国会議員に初当選して政界入りし、以後、スリランカ自由党(SFLP)政権下で、労働・職業訓練大臣や漁業・水産資源開発大臣を歴任。2004年、SLFPのオーナー一族ともいうべきバンダラナイケ家のチャンドリカ・クマーラトゥンガ大統領の下、首相に就任しました。

 2005年の大統領選挙では、憲法の3選禁止条項により出馬できないクマーラトゥンガの後継者として出馬し、野党・統一国民党(UNP)の候補、ラニル・ウィクラマシンハを僅差で破り、第6代大統領に就任します。

 ラージャパクサの大統領就任当時、スリランカ国内は、1983年から断続的に続く政府軍と“タミル・イーラム解放のトラ (LTTE)”の内戦の最中にありました。

 スリランカの内戦には、1980年代、LTTEと同じタミル人を国内に抱えるインドが介入し、一時的に休戦が成立したこともありましたが、1990年にインド軍が撤退すると戦闘が再開。200年代以降は、ノルウェーの調停により何度か断続的に停戦が成立したものの、LTTEのテロ攻勢は止まず、情勢は安定しませんでした。

 このため、大統領に就任したラージャパクサは、インドの影響力拡大を防ぐため、インドの敵国である中国とパキスタンの支援を積極的に仰ぐことを決断。この戦略は、2004年以降、南アジアへの本格的な投資を開始した中国の政策とも合致することになります。

 一方、国内政治においては、ラージャパクサは、議会の多数派工作として、2007年1月に内閣改造を実施し、54人もの大臣を任命。その中には、教育相や農相がいるにもかかわらず、“高等教育相”や“家畜相”など屋上屋を架すポストも新設され、副大臣も含めると、与党の国会議員114人のうち、9人を除き、何らかのポストが就任。こうした露骨な利益誘導により議員を懐柔し、権力基盤を固めていきました。

 2009年、スリランカ政府軍はLTTEを滅ぼして全土の実効支配を回復。その実績をもって、ラージャパクサは、2010年の大統領選挙で再選されると、同年10月、ラージャパクサは憲法を修整して大統領の三選禁止などを撤廃して独裁的な傾向を強め、親族の不正な登用や大統領への権力集中をはかるとともに、不正蓄財に精を出すようになります。

 ところで、中国の胡錦濤政権は、2008年以降、“真珠の首飾り戦略”としてインド洋侵出を加速しましたが、ラージャパクサは積極的にそれに加担することで、港湾整備や道路建設事業への“支援”名目で巨額の借款を獲得しました。

 その典型とされる、セイロン島南部のハンバントータ港の建設は2008年から始まり、2010年までの第一期工事は中国が費用の85%を借款で支援し、中国の国有企業、中国港湾工程公司が担当して行われました。西部のコロンボ、東部のトリンコマリーなど、他の主要港と比べると、都市部からのアクセス整備は遅れており、港湾の稼働率は低迷していますが、“真珠の首飾り戦略”においては重要な拠点であるため、2014年には中国海軍の宋級潜水艦など複数の中国艦船が寄港しています。

 こうした状況の下で、2015年1月に行われた大統領選挙では、マイトリパラ・シリセーナ前保健相がいったんSLFPを離党したうえで野党統一候補となり、ラージャパクサを下して当選しました。

 シリセーナは、ラージャパクサ政権による文字通り“売国”的な対中依存とそれに付随する不正蓄財を批難。「スリランカは浅はかな外交政策、戦略によってイメージが破壊され、急速に国際社会からの孤立を深めていた」との認識の下、今後は「アジアの主要国であるインド、中国、パキスタン、日本との友好関係を強化し、新興国との関係も区別せず促進する」と宣言します。

 シリセーナ政権は、UNPのウィクラマシンハ元首相を首班とする挙国一致内閣を組織し、大統領の権限を縮小して民主化を進めるとともに、対中依存路線の修正を試みましたが、政府の絶対的な資金難はいかんともしがたく、ハンバントータ港建設の借款免除と引換に、2017年8月、向こう99年間の港湾運営権を11億ドルで中国企業に貸し出す契約が締結されました。

 中国企業との屈辱的な契約を結局は阻止できなかったことで、スリランカの政局は、国内産業の保護を重視する大統領と、インドとの経済関係強化を目指す首相が対立。議会は首相派が多数を占めているため、政府提出の法案はことごとく否決され、政治は機能不全に陥りました。

 これにいらだったシリセーナ大統領は、2018年10月 ウィクラマシンハを首相から解任。内戦を終結させた剛腕に期待し、政権の安定化を目指すとして、ラージャパクサを後継首相に指名したことから、ウィクラマシンハは自らの解任の無効を訴えてポストに居座り、大統領派と(前)首相派がそれぞれ議会の多数派工作を展開する事態となります。

 このため、11月9日、シリセーナは議会を解散し、来年1月5日に総選挙を行うとしましたが、反大統領派は解散を憲法違反だとして提訴。これに対して、11月13日、最高裁は大統領が宣言した議会解散の効力を差し止めたことから議会が招集され、翌14日、ラージャパクサ首相に対する不信任決議が賛成多数で可決されました。これを受けて、12月3日、裁判所はラージャパクサ首相の権限を差し止める命令を出したことに加え、13日には最高裁が大統領による議会の解散を違法と判断。追い詰められたラージャパクサは辞任を決断したというわけですが、これにより、スリランカの政治的混乱が収束していくかどうか、現時点では情勢は不透明です。

 
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 フダイダ停戦で合意
2018-12-14 Fri 01:21
 スウェーデンで開かれていたイエメン内戦の和平協議で、対立するハーディー暫定政権とシーア派系武装組織のフーシは、きのう(13日)、西部の要衝フダイダ(ホデイダとも)での停戦と同地からの全部隊撤退で合意しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イエメン・フダイダ港

 これは、王制時代のイエメンが1961年に発行した“(近代港湾としての)フダイダ港開港”の記念切手です。

 2011年、チュニジアでのジャスミン革命を発端として、“アラブの春”と称される民主化運動がアラブ世界に拡大すると、イエメンでも1990年のイエメン統一以来(南北分裂時代の北イエメン時代を含めると1978年以来)、大統領の地位を維持していたアリー・アブドゥッラー・サーリフの退陣を求める反政府デモが頻発。当初、サーリフは反政府デモの鎮圧を試みたものの失敗し、2月2日には次期大統領選挙への不出馬を表明しました。

 しかし、サーリフ退陣を求める国内世論は収まらず、5月18日、サーリフは、いったん、1ヶ月以内に退陣すると表明。ところが、同月23日には一転して反対派との全ての和平交渉を破棄すると宣言し、反対派への弾圧を再開しました。このため、6月3日、反政府軍が大統領宮殿を砲撃し、重傷を負ったサーリフは治療のためサウジアラビアの陸軍病院へ移送され、結果的に国外へ一時亡命するかたちとなりました。

 2011年9月23日、サーリフはイエメンに帰国し、大統領に復帰したうえで、11月23日、副大統領のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに30日以内の権限移譲などが盛り込まれた調停案に署名。2012年1月21日にサーリフの訴追免除を可能にする法律が成立すると、治療目的で渡米します。そして、2月21日に行われた大統領選挙でハーディーが当選したことで、サーリフ政権は正式に終焉を迎えました。

 ただし、ハーディーがサーリフの腹心として政権運営に深く関わり続けたことに加え、サーリフは議会内の最大勢力である国民全体会議の党首の座にとどまり続けたため、大統領退陣後も隠然たる勢力を維持。さらに、サーリフが大統領在任中には弾圧していた反政府勢力のフーシと連携したことで、サウジアラビアが支援する暫定政権とイランの支援を受けるフーシの間で事実上の内戦に突入しました。

 内戦の勃発後間もなく、西部の港湾都市として物流の拠点でもあったフダイダはフーシの支配下に置かれていましたが、2018年以降、暫定政府軍の攻撃が激化。4月には、港に空爆が行われたほか、6月の地上部隊の交戦では39人が死亡しました。戦闘の激化に伴い、フダイダを脱出する市民も急増。9月14日には、世界食糧計画がフダイダに対して砲撃や空爆が行われて350万人に対する食糧支援が脅かされているとして警告を行っていました。

 今回の合意では、ホデイダからの部隊撤退は“数日以内”に開始され、国連を中心とした停戦監視の下、民間人を避難させるための“人道回廊”も設置されるほか、人道援助のルートとなる港湾施設の管理は国連が主導することになっています。次回の和平協議は来年1月に開き、内戦終結に向けた政治プロセスが話し合われるそうです。
 

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 世界の切手:ブルガリア
2018-12-13 Thu 00:40
 ご紹介がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年11月21日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集(5回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      ブルガリア・ディミトロフ没後1周年(コミンテルン)

 これは、1950年にブルガリアで発行されたゲオルギ・ディミトロフ没後1周年の記念切手のうち、コミンテルン書記長としての彼の活動を顕彰した1枚です。

 かつての社会主義時代、ブルガリア建国の父として崇め奉られていたゲオルギ・ディミトロフは、1862年6月、ブルガリア西部のコヴァチェフツィで貧しい労働者階級の子として生まれました。少年時代に植字工となった彼は、10代だった1901年に印刷工全国労組の書記に選任されたのを皮切りに労働運動の活動家として頭角を現し、1902年にはブルガリア労働者社会民主党(PBS)に入党。第一次大戦末期の1918年には政府の戦争政策に対する反対運動を行い、投獄されました。なお、PBSは、1903年、ヤンカ・サカゾフのシロキ派(右派。統一派)とディミタリ・ブラゴエフのテスニャキ派(左派)に分裂しましたが、ディミトロフが属していたのは左派です。

 1917年のロシア10月革命で成立した世界初の社会主義政権(ボリシェヴィキ政権)は、「世界革命なくして人類解放なし」として、1919年3月、世界各国で左派勢力を既存の社会民主主義政党から切り離して“前衛党(共産党)”を組織し、世界革命を推進するため、 “コミンテルン(共産主義第3インターナショナル)”を創設。これに呼応して、ブラゴエフらPBS左派は、1919年5月、新たにブルガリア共産党(BKP)を結成し、コミンテルンに参加し、ディミトロフも中央委員に就任しました。

 コミンテルンは「1920年には、世界的規模の大国際ソヴィエト共和国が誕生するだろう」と豪語していましたが、1921年3月、コミンテルン指導の下、ドイツ・マンスフェルトを中心に行われた“3月闘争”は失敗し、世界革命は実現不可能であることが明らかになります。

 これを受けて同年6-7月、コミンテルン第3回大会がモスクワで開かれると、ディミトロフはBKP代表としてこれに参加し、ロシア共産党とのパイプを構築することに成功します。

 1923年6月、ブルガリアでは軍事クーデターが発生し、アレクサンダル・スタンボリースキの農民同盟政権が崩壊。当初、BKPはブルジョアの内部抗争としてこれを静観していましたが、農民同盟を友党と見なしていたコミンテルンはBKPの姿勢を批判。同年9月、ディミトロフらに命じて農民同盟とともに反軍事政権の武装蜂起を起こさせました。しかし、蜂起は失敗に終わり、BKPは非合法化され、ブルガリア国内の基盤を失います。ディミトロフは国外に逃亡し、欠席裁判で死刑判決を受けましたが、コミンテルンによってBKP中央委員会在外局の指導者に任じられ、ウィーン、ベルリン、モスクワで活動しました。

 1933年2月27日、ドイツ・ベルリンの国会議事堂が放火により焼失。事件はオランダ共産党員のルッベの単独犯行でしたが、同年1月末に発足したヒトラー政権はこの機会をとらえ、ドイツ共産党議員団長のトルクラーとディミトロフを含む3人の在独ブルガリア人共産主義者を容疑者として逮捕したほか、左翼勢力の弾圧に乗り出します。事件の裁判は9月21日にライプツィヒで始まり、ゲーリングが検察官として出廷しましたが、国際世論の批判もあり、12月23日、ルッベ以外の4被告は無罪となります。

 裁判で無罪判決を勝ち取ったディミトロフは、この“勲章”を手に、1935年、コミンテルンの書記長に就任。コミンテルンは1943年に解散しますが、その後も彼はモスクワにとどまり、スターリンの側近として活躍しました。

 1935年7-8月のコミンテルン第7回大会では、ディミトロフは、スターリンの代弁者として、反共を国是とする独伊の台頭を前に多様な左派勢力の結集を呼びかける“人民戦線”戦術を提起したほか、日本、ドイツ、ポーランド三国の打倒のためには米英仏の資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いるべきと訴えました。大会はディミトロフ(=スターリン)路線を採択しましたが、人民戦線=単一労働政党への統合の考え方は、第二次大戦後、の東欧での社共合同(共産党による社会民主主義政党の併合)の先駆となります。

 しかし、1939年、スペイン内戦で人民戦線を採用した共和国政府がフランコ側に降伏。さらに、独ソ不可侵条約を経て、9月に第二次世界大戦が勃発し、独ソ両国によってポーランドが分割占領されると、人民戦線戦術は放棄されました。

 1941年6月、独ソ戦が勃発。ドイツとの戦争のために米英との協調関係を進める必要に迫られたスターリンは、戦争により各国共産党(=コミンテルン支部)が弱体していたこともあり、1943年5月、“モスクワの手先”をして悪名高いコミンテルンの解散を決断。これを受けて、6月9日、コミンテルンの解散が執行委員会幹部会の名で発表されました。

 こうして、対外工作機関としてのコミンテルンは消滅しましたが、スターリンは各国の共産党組織に対する“指導”を維持するため、ソ連共産党中央委員会内に“国際情報部(OMI)”を新設。旧コミンテルン執行部はほぼ横滑りし、ディミトロフはその部長におさまります。ただし、あくまでも、OMIはソ連国内の組織であるとの建前から、その名目上の責任者はシチェルバコフで、ディミトロフは副責任者とされました。

 以後、ディミトロフはOMIの事実上の責任者として、ソ連共産党の決定にもとづいて各国共産党の指導を担当。スターリンの忠臣として、第二次大戦後、ソ連占領下の東欧で各国共産党が権力を掌握していくため、水面下での工作を行い、旧東側世界を築いた陰の立役者となります。

 1946年、ディミトロフは祖国ブルガリアに帰国。ナチスと組んで枢軸側に立った旧政権が打倒されたのを受けて、1946年、ソ連の衛星国として誕生したブルガリア人民共和国の首相に就任すると、反政府運動を抑えるキャンペーンを開始して、スターリンに倣った恐怖政治を行い、多くの国民を強制収容所送りにしました。

 こうして、“ソ連16番目の共和国”とも揶揄されたブルガリアの社会主義体制を確立したディミトロフでしたが、1949年、病を得て倒れ、療養先のモスクワ近郊の病院で亡くなりました。その遺体は、葬儀の後、保存処理が施され、ソフィア中心部、バッテンベルク広場に建立されたゲオルギ・ディミトロフ霊廟の地下に安置され、一般に公開されていましたが、民主化後の1990年、遺体の保存・公開は廃止されて、火葬の後、中央墓地に埋葬されています。

 さて、『世界の切手コレクション』11月21日号の「世界の国々」では、ディミトロフとその時代を中心にしたブルガリア現代史についての長文コラムのほか、ドイツのダダイスト、ジョン・ハートフィールドの「裁く者 裁かれる者」、バルカン最高峰のムサラ山、グリフォンの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のブルガリアの次は、11月21日発売の同28日号でのスリランカ、12月5日発売の同12日号でのフィリピン(と一部カンボジア)、12月12日発行の同19日号でのハンガリーの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 10年たって銀メダルに繰り上げ
2018-12-12 Wed 00:48
 日本オリンピック委員会は、きのう(11日)、2008年北京五輪の陸上男子400mリレーで銅メダルを獲得した日本代表(塚原直貴、末続慎吾、高平慎士、朝原宣治)のメダルが、当初金メダルだったジャマイカ代表の失格に伴い、銅から銀メダルに繰り上がったことを発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャマイカ・アサファ・パウエル(2008)

 これは、北京五輪開催に先立つ2008年4月25日、ジャマイカが発行した北京五輪の記念切手で、失格となった400mリレーでアンカーを務めたアサファ・パウエル選手(以下、敬称略)が取り上げられています。

 パウエルは、1982年11月23日、ジャマイカのセント・キャサリン教区出身。2001年まではサッカー選手でしたが、2002年に陸上競技を本格的に始め、 マンチェスターで行われたコモンウェルスゲームズでは400mリレーのアンカーを務め、銀メダルを獲得しています。
 
 2004年6月12日、100mで初めて10秒の壁を破る9.99秒を記録し、世界記録保持者として、同年のアテネ五輪での金メダルが期待されていましたが、100mでは5位に終わり、 200mでは決勝でフライングにより失格となりました。

 アテネ五輪後も、2005年6月14日、陸上のスーパーグランプリ第3戦アテネ大会では、男子100m決勝で、当時の世界記録を100分の1秒更新する9.77秒を樹立するなどトップ選手としての地位を維持し、北京五輪でも男子100mの金メダル候補とされていましたが、力みが出て本来の走りができず、アテネ五輪同様、5位に終わりました。

 しかし、8月22日に行われた男子400mリレー決勝ではアンカーを務め、37.10秒の世界新記録で優勝。このときのラップタイムは8.73秒であり、アンカーとしての最速記録を更新しています。

 ところが、このレースで、ジャマイカ代表のメンバーだったネスタ・カーターが、2016年、ドーピングの検体の再検査で禁止薬物の陽性反応を示したため、2017年、チームの金メダル剥奪となりました。 これに対して、カーターは処分を不服として、スポーツ仲裁裁判所に提訴していたものの、今年(2018年)6月に棄却され、ジャマイカ代表の金メダル剥奪が決定。これに伴い、今回、日本代表が銅メダルから銀メダルに繰り上げになったというわけです。

 なお、ジャマイカ代表は、2016年のリオデジャネイロ五輪でも男子400mリレーで金メダルを獲得していますが(日本代表は銀メダルを獲得)、パウエルはその第一走者として出場しています。


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 ベルギーのアフリカ博物館が再開
2018-12-11 Tue 01:11
 ベルギーのブリュッセル郊外、テルフューレンにある王立中央アフリカ博物館(RMCA)が、おととい(9日)、5年間の改修工事を終えてリニューアル・オープンしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックでっ拡大されます)

      ベルギー領コンゴ加刷(1908)

 これは、1908年、“ベルギー領コンゴ”の成立に伴い、コンゴ独立国の切手に“CONGO BELGE”の文字を加刷した切手です。

 1865年に即位したベルギー国王レオポルド2世は、即位当初から植民地獲得の必要性を訴えていましたが、1876年9月、コンゴ探検を支援する“国際アフリカ協会”(のちにコンゴ国際協会に改組)を創設し、1879-83年、英国の探検家ヘンリー・スタンリーにコンゴ川流域を探検させ、先住民部族の部族長たちと独占的な貿易協定を締結しました。

 これに対して15世紀以来、在地のコンゴ王国と関係のあったポルトガルが反発し、コンゴ川河口周辺の主権を主張。これを英国が支持すると、独仏はベルギーを支持し、列強の対立が深まります。

 このため、1884-85年、欧米14カ国によるベルリン会議が開催され、コンゴを中立化し、門戸を開放して自由貿易の地にすることを条件として、コンゴはレオポルド2世の“私有地”とされ、1885年、レオポルド2世の私領“コンゴ独立国”が創設されました。なお、同国は自由貿易の国という意味で“コンゴ自由国”と呼ばれることもあります。

 コンゴ独立国はあくまでもレオポルド2世の私領という扱いで、ベルギーの国家とは無関係という位置づけであったため、国王は専制君主として君臨するとともに、巨額の私費を投じ、さらには、個人の信用で国内外の投資家の投資を募り、マタディ=レオポルドヴィル鉄道の建設など、近代化政策を推進。その一方、莫大な開発コスト回収のため、1891年以降、象牙と天然ゴムが国王の独占事業とされ、先住民には過酷なノルマが課せられただけでなく、未達の場合は手足切断などの刑罰が科されました。

 この結果、1885年に3000万人と言われたコンゴ独立国の人口は、1901年までに900万人にまで減少しましたが、250トン以下だった天然ゴムの生産量は6000トンに増大しています。

 こうした圧政に対しては国際世論の批判も強かったため、1906年、ベルギー議会はコンゴを国王の私領からベルギー国家の植民地へ転換させる決議を採択。国王はこれに抵抗したものの、1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放し、同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになりました。

 さて、今回、再開された王立中央アフリカ博物館は、1897年のブリュッセル世界万博に際して、コンゴ自由国の展示に使用された“植民地宮殿”がルーツで、翌1898年、“コンゴ博物館”として常設博物館となりました。現在の名称となったのは、1960年のことで、世界でも有数のアフリカ文明コレクションを誇り、長年にわたり、世界におけるアフリカ文明研究の中心となってきました。

 なお、同館の展示内容については、以前は、レオポルド2世の残虐行為を無視しているとしてしばしば批判の対象となっていたことから、今回の再開にあたり、アフリカの人々によるビデオ証言やコンゴ人芸術家の作品展示を充実させるなど、アフリカそのものに焦点をあてる一方、植民地支配の歴史は1カ所のギャラリーに集められるなどの修正が行われたそうです。


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 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください) 

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 米国、75年ぶりに石油に純輸出国に
2018-12-10 Mon 13:41
 米国の石油輸出量が、11月末、75年ぶりに輸入量を上回り、週間ベースながら石油の純輸出国となったそうです。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・石油産業100年

 これは、1959年に米国で発行された“石油産業100年”の記念切手です。

 北米ペンシルベニア(ペンシルヴァニア)の地では、古くから先住民が地面に染み出た油を軟膏、虫除け、化粧、宗教儀式などで用いていました。その後、原油はランプの光源として鯨油の代替品として使われ始めます。

 1849年、サミュエル・キアーは自己所有の塩水井から油を抽出し、医療用として販売を開始し、商業的に成功。さらに、1850年代に入ると、キアーは井戸の塩水から油を分離することを止め直接、原油の掘削を開始し、ジョン・カークパトリックとともに照明に使える油を蒸留しました。油の品質改良に努めるとともに、その油を用いた悪臭や煙を出さないオイルランプも発明しています。

 キアーの成功を受けて、ニューヨークの法律家だったジョージ・ビッセルは、1854年、銀行家ジェームス・タウンゼントらの出資を募ってペンシルベニア石油会社を設立。同社は、採掘予定地のタイタスヴィルへ行くための鉄道のフリーパスを持っているという理由で、元車掌のエドウィン・ドレークを雇い入れ、調査とともに用地の確保を行わせます。タイタスビルには地表上に石油が滲みでる場所があり、そこから採取された石油がランプ油として使用できると判断されたためです。

 ドレークの報告を基に、石油産業が莫大な利益を上げる見通しが立ったところで、1858年、ペンシルベニア石油会社はドレークを社長としてセネカ石油会社に改組され、本格的な採掘作業が開始されました。

 採掘作業には、当初、岩塩採掘機などを改造して作ったドリルが使われていましたが、固い岩盤にぶつかってから掘削速度が落ち、時間の経過とともに資金も枯渇して、セネカ・オイルの出資者たちは事業から撤退してしまいます。そこで、ドレークは知人などから資金をかき集め自力で採掘を続け、1859年、地下石油の採掘に成功しました。

 ドレークの成功を機に、米国では空前の石油投資ブームが到来し、産油量は急増。しかし、当時の石油需要はランプ灯に限定されていたため、あっという間に供給過剰となり、1バレル当たり20ドルだった原油価格は、1861年には10セントにまで暴落してしまいます。

 ちなみに、ドイツのニコラウス・オットーが原油から灯油を採った後の“産業廃棄物”だったガソリンを燃料とするエンジンを発明したのは1876年、それを改良してゴットリープ・ダイムラーが特許を出願したのは1885年のことでした。

 昨日(9日)、 名古屋市市政資料館で開催された東海郵趣連盟切手展での内藤の講演「韓国現代史と切手」は、無事、盛況のうちに終了しました。お集まりいただいた皆様、スタッフの方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。


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 切手に見るソウルと韓国:済州島のミカン
2018-12-09 Sun 01:25
 ご報告が遅くなりましたが、、『東洋経済日報』11月16日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が韓国の文在寅大統領にマツタケ2トンを贈ったことに対するお礼として、11月11-12日の両日、済州島のミカン200トンが平壌に空輸されたというニュースにちなんで、こんな切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・済州の柑橘畑

 これは、1973年に発行された観光宣伝の切手のうち、済州島の“柑橘畑”を取り上げら1枚です。

 朝鮮半島では、済州島の一部で古くから柑橘類が自生していましたが、人為的なミカン栽培の記録としては、高麗王朝時代、海に面した西帰浦市安徳面柑山里の一帯で始められたのが最初とされています。

 現在でも、韓国産ミカンのほとんどは済州島で生産されており、なかでも、西帰浦周辺がみかんの名産地として有名です。韓国内で生産されているミカンの種類は細かく分類すると500種類にも及んでいますが、最も一般的なミカンは、収穫時期によって、極早生(10月)、早生(11月中旬-12月)、中晩生(12月)と呼び分けられています。このうち、中心になるのは早生で、毎年11月になると、ミカン狩りを楽しむために多くの観光客が西帰浦のミカン農園を訪れます。

 朝鮮王朝時代、済州島は流刑地だったこともあり、韓国社会では、ながらく、済州出身者に対する差別や偏見が根強く、島内のインフラ整備も本土に比べて大きく遅れていました。1948年のいわゆる済州4・3暴動も、左派の騒乱というだけでなく、長年にわたる島民の不満が爆発したという面がありました。

 このため、1961年に発足した朴正熙政権は、国内の宥和と経済開発を兼ねて、済州の観光振興に力を入れましたが、その一環として、夏が終わり、ビーチ・リゾート客の足が遠のく秋冬の済州の観光の目玉として取り上げられたのが、西帰浦でのミカン狩りでした。今回ご紹介の切手もそうした意図に沿って発行されたものです。

 切手に描かれているミカンは、おそらく、早生でしょうが、近年、済州を代表するミカンといえば、“ハルラボン”が有名です。

 ハルラボンは、1990年代に日本のミカン品種である“不知火(日本で清見とポンカンを掛け合わせて作られた品種。登録商標はデコポン)”を導入したもので、頭部が凸状に盛り上がっているのが特徴。その形状から、済州島の主峰である漢拏山になぞらえて、韓国ではハルラボンと命名されました。

 ハルラボンは木に花を咲かせてから実を収穫するまで約300日かかることから、“300日フルーツ”とも呼ばれ、韓国産ミカンの中では最も糖度が高く食感が良いため、人気があります。当然のことながら、手間がかかる分、値段も高く、贈答品として使われることも多いようです。

 したがって、通常であれば、ハルラボンが北朝鮮に贈られたとしても、そのこと自体は不思議ではないのですが、残念ながら、この原稿を書いている時点では、送られたミカンの種類を特定できるだけの情報は得られませんでした。

 ただし、中朝国境の白頭山と済州島の漢拏山を並べて朝鮮全土ないしは統一をイメージさせる表現がしばしば使われることを考えると、実際にハルラボンが送られていた場合、その行き先が白頭ではなく、平壌までしか届かなかったというのは、いろいろと憶測を呼んだかもしれません。


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 午前中 「韓国現代史と切手」

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 日英開戦で届かなかった郵便
2018-12-08 Sat 01:18

 きょう(8日)は“真珠湾”の日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英国→香港宛返戻(メーター)

 これは、1941年10月31日、英国・ハダースフィールドから香港宛の郵便物で、同年12月8日の日英開戦により、逓送途中で配達不能となり、差出人戻しになっています。

 1939年の欧州大戦勃発を受けて、1940年6月、英国の香港政庁は香港在住のヨーロッパ人の女性と子供をオーストラリアへ避難させるよう、住民に命じます。“敵国”(名指しこそないものの、それが日本を意味することは明白でした)から攻撃を受け、香港が戦場となる可能性が高まっていると判断したためです。

 特に、1940年9月、日本軍が北部仏印に進駐し、米国を仮想敵国とする日独伊三国軍事同盟を結ぶと、日本と連合諸国の関係は一挙に悪化し、香港社会の緊張も一挙に高まります。

 すなわち、市街地の重要なビルには土嚢が積み上げられ、天星小輪(スターフェリー)の船着場にはおびただしい数の砲台が並べられました。また、灯火管制の演習は頻度を増し、街頭の新聞スタンドの売り子は「我々は最後の血の一滴まで香港を守ってみせる」と豪語していました。根も葉もない噂に注意しようとの香港政庁のキャンペーンが展開され、それをもじって「不確かな情報は国家を危機に追いやる。代わりに、タイガー・ビールについて話をしよう」という広告がいたるところで見られるようになり、各種の戦時公債・基金の募集もさかんに行われています。

 もっとも、大英帝国の宰相チャーチルは、日本との戦争が始まった場合には香港の防衛は絶望的で、日本の敗戦以外に香港を奪還することは不可能だとの見通しに立っていました。このため、1941年初頭の段階では、英国の香港駐留軍の内訳は、本国から派遣された歩兵二個大隊とインド軍二個大隊を中心にごくわずかな砲兵隊、自動車部隊、義勇軍、わずかな小型戦闘艦艇、飛行艇二機、三隻の水雷艇(ただし、いずれも肝心の水雷は装備していません)のみという脆弱なものでした。また、香港の守備隊を増強することはかえって日本軍を刺激して危険であるという判断さえなされていました。

 さらに、1940年から1941年にかけての香港社会には、日本軍がまさか香港を攻撃するはずがないという根拠のない楽観論が満ち溢れていました。じっさい、香港政庁が欧米系の全婦女子に香港島からの避難を命じた後も、彼女たちのうちの900人は何かと口実をつけて、日英開戦まで香港に居残り続けています。

 こうした楽観的な世論の背景には、支那事変(日中戦争)の長期化に伴う余得で、香港が空前の経済的活況を呈していたという事情がありました。

 すなわち、1931年には85万弱といわれていた香港の人口は、支那事変の勃発した1937年には100万を越え、その後、上海廣州からの難民が大量に流入したこともあって、1941年の時点では175万人にまで膨れ上がっていました。その中には富裕な実業家も少なからず含まれており、香港には、日本軍の占領下で陸の孤島と化した上海に代わる中国経済の拠点という地位が突如として転がり込んできたわけです。

 こうした楽観的な空気を反映して、香港駐留のインド軍司令官、クリストファー・マルトビーは、中国=香港間の国境から英国の防御線である醉酒灣防線までは12マイルもあり、国境の守備隊が九龍に撤退する時間は十分に稼げるし、シンガポールから援軍が到着するまで守備隊は持ちこたえることが可能であるとの見通しを持っていました。

 強気のマルトビーに引きずられるかたちで、本国のチャーチルも、それなりに香港の軍備を増強すれば、香港が日本軍の進撃を食い止める防波堤として機能し、日本軍に大きな打撃を与えることも可能なのではないかと考えるようになります。

 こうして、カナダから旅団司令部、通信中隊、歩兵2個大隊が派遣され、1941年11月16日、香港に到着。英領バルバドスから赴任してきたばかりの新総督マーク・ヤングの下に合計1万2000名からなる香港防衛軍が編成されました。しかし、カナダからの増援部隊の兵士は、ほとんどがフランス語圏の出身であったため、既存の香港駐留軍との連携が上手く取れず、そのうえ、彼らには実戦経験もほとんどなく、とうてい、実戦経験の豊かな日本軍に太刀打ちできるようなレベルではありませんでした。

 これに対して、米英との開戦を決意した日本軍は着々と香港攻略の準備を進め、カナダ軍が香港に到着する10日前の11月6日には大本営陸軍部が「香港攻略作戦要領」を完成させ、3970人の兵員の配置を完了しています。

 日英開戦2週間前の11月25日、香港政庁は市民に対して、香港島と九龍市街地に数箇所の避難場所を設け、そこに食糧を備蓄していることを公表。あわせて、住民の居住地ごとに、日本軍の攻撃が始まった場合の避難先も指定されています。在留日本人の帰国も相次ぎ、開戦3日前の12月5日には日本語新聞も休刊になりました。

 こうして、日英開戦に向けての緊張が一挙に高まっていく一方で、香港の市街地では、依然、戦争は他人事といった空気も濃厚で、開戦前日、12月7日の新聞にはクリスマス・ギフトの広告があふれ、半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)はクリスマスや新年のためのディナーやコンサート、宿泊の予約を募っています。

 一方、国境を越えた深圳河一帯には日本陸軍の第38師団が集結していた。彼らが暗号電「ハナサク ハナサク」を受信し、深圳河をこえて進軍を開始するのは、香港の人々がまだ深い眠りの中にあった12月8日午前3時51分のことでした。その後、同月25日、香港の英軍は降伏し、香港における日本占領時代がスタートします。これに伴い、1945年の終戦まで香港と海外との通信も遮断され、香港は国際社会から物理的に孤立することになります。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 世界の切手:メキシコ
2018-12-07 Fri 00:16
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年11月14日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はメキシコの特集(4回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・アボカド(2017)

 これは、2017年に発行されたアボカドの切手です。

 日本でも食用として好まれるアボカドはメキシコおよび中米の原産で、先住民のナワトル語で“アーワカトル”と呼ばれていたものがスペイン語に入って転訛し、スペインと中米のスペイン語圏では“アグアカテ”または“アワカテ”と呼ばれるようになりました。

 英語ではavocadoと呼ばれていますが、これは、スペイン語でこの果実を指すaguacate と“弁護士”を意味する avocado(現代の綴りは abogado)との混同で生じたものです。日本語では、表皮が鰐皮に似ていることからワニナシの和名もありますが、英語の音訳でアボカドと表記されるのが一般的です。

 ただし、多くの日本人にとっては“アボド”は発音しづらいため“アボド”と称されることも少なくありません。この点をとらえて、時々、「“アボド”は誤り」などと賢しらにいう人がいますが、そういう人には、「そもそも、英名ではなくナワトル語の“アーワカトル”、百歩譲って原産国メキシコの公用語であるスペイン語の“アグアカテ”と呼ばなければおかしいではないか」と応じてやりたいですな。

 さて、『世界の切手コレクション』11月14日号の「世界の国々」では、カルデナス政権時代を中心にしたメキシコ現代史についての長文コラムのほか、死者の日第2回パンアメリカン競技大会パレンケ遺跡の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のメキシコの次は、11月14日発売の同21日号でのブルガリア、11月21日発売の同28日号でのスリランカ、12月5日発売の同12日号でのフィリピン(と一部カンボジア)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 無事帰国しました。
2018-12-06 Thu 01:25
      Thailand 2018 バンコク展・テーマ審査員

 作日19:00頃、無事、バンコクから帰国いたしました。今回の世界切手展<Thailand 2018>では、セカンド・コミッショナーの大沼幸雄さんご夫妻、審査員の井上和幸さん、JPの信田篤室長、足立修一課長、ご出品者の安藤源成さん、伊藤純英さん、伊藤文久さん、岩崎善太さんご夫妻、江村清さん、川辺勝さん、菊地恵美さん、斎藤環さん、立川賢一さん、吉田敬さん、ブースの落合宙一さん、原口三四郎さん、山本誠之さん、参観者の山本勉さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 冒頭の写真は、今回の切手展の審査中、テーマ部門の同僚審査員と記念撮影したものです。国際切手展に審査員として参加するのは、2016年に南寧で開催されたアジア切手展<CHINA 2016>以来、2年ぶりのことでしたが、メンバーのサポートのおかげで、無事にお勤めを果たすことができたのではなかったかと思います。なお、審査最終日の30日には、下の画像のような参加メダルを頂戴しました。

      Thailand 2018 メダル

 メダルの左側には、夜叉王としてのトッサカンが刻まれていますが、トッサカンは、今回の切手展に際して作られた記念タトウにも取り上げられています。

      Thailand 2018 タトウ

 ちなみに、タトウの中身は、新規に発行された記念切手ではなく、2014年に発行された“タイの伝統文化”の切手のうち、トッサカンを取り上げた切手シートでした。

      タイ・トッサカン(2014)

 トッサカンは、インドの『ラーマーヤナ』のタイ版ともいうべき『ラーマキエン物語』に登場する悪魔の国ランカー国の王で、物語では、アユタヤ王国のラーマ、ラックの両王子の敵役です。戦いの発端は、トッサカンがラーマ王子の婚約者であったシーダー姫をさらい、自らの妻としてランカー国内の庭園に閉じ込めたこと。ラーマ王子とラック王子は、シーダー姫を取り戻すべくトッサカンと戦うというのが、『ラーマキエン物語の』骨子です。

 戦いは延々と続き、心臓を身体から取り外すことができるトッサカンを相手にラーマ王子は大いに苦戦しますが、最後には、トッサカンが仙人に預けていた心臓をハヌマーンが盗み出し、ラーマ王子が放った矢でトッサカンが滅び、王子たちが勝利を収めます。

 この間、トッサカンはさまざまな術を繰り出すことから、その霊力にあやかって、日本の仁王像に近い意味合いの守護神として王宮にも像が置かれています。美術表現としては、全身緑色、10面6臂の姿で表現されるのが一般的です。

 さて、今回の切手展の期間中には、FIPの総会が開催され、JPの信田室長から2021年に日本で国際切手展を開催する予定であることが正式に宣言され、FIPの後援を獲得しました。バンコクでの総会でスタートを切った日本の国際展にも、成功に向けて、トッサカンの霊験あらたかたらんことを期待したいものです。


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 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 これから帰国します
2018-12-05 Wed 01:34
 早いもので、今回のバンコク滞在も今日で最後となりました。きょうは早朝の飛行機でバンコクを発ち、成田に向かいます。というわけで、無事の帰国を祈願して、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タイFFC(バンコク→東京1960)

 これは、1960年5月2日、バンコクから東京(羽田)宛のタイ国際航空の初飛行カバー(FFC)で、同年4月に発行された世界難民年のキャンペーン切手が貼られています。

 タイ国際航空のルーツは、1947年3月1日に発足した国内航空会社のシャム航空で、同年12月に開設されたバンコク=ソンクラー=ペナン路線が最初の国際路線となります。その後、1951年11月1日、 タイ政府は、シャム航空をパシフィック海外航空 と合併させて、タイ航空株式会社と改称。1959年、その国際線部門を担う別会社として、スカンジナビア航空から資本金の3割、200万バーツの出資を受けた合弁事業として、タイ国際航空が設立されました。タイ国際航空は、1960年に国際線の運航を開始。これに伴い、バンコク=羽田路線が就航し、その第1便で運ばれたのが、今回ご紹介のFFCです。

 さて、今回の世界切手展<Thailand 2018>では、セカンド・コミッショナーの大沼幸雄さんご夫妻、審査員の井上和幸さん、JPの信田篤室長、足立修一課長、ご出品者の安藤源成さん、伊藤純英さん、伊藤文久さん、岩崎善太さんご夫妻、江村清さん、川辺勝さん、菊地恵美さん、斎藤環さん、立川賢一さん、吉田敬さん、ブースの落合宙一さん、原口三四郎さん、山本誠之さん、参観者の山本勉さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 なお、成田到着は本日午後の予定です。内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。
 

★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

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 <Thailand 2018>終了
2018-12-04 Tue 09:28
      バンコク展・王女の椅子

 早いもので、28日から、タイ・バンコクのサイアムパラゴンで開催されていた世界切手展<Thailand 2018>は、昨日(3日)、無事にすべての日程を終了し、日本からの出品作品の撤去作業も完了しました。きのうは、事実上の閉会式として、15:00から、マハー・チャクリー・シリントーン王女殿下が会場にて切手展主催者ならびにグランプリ受賞者を謁見し、会場内をご覧になるセレモニーが行われました。殿下が会場におられる間は、携帯電話およびカメラの撮影は一切厳禁されていましたので、殿下御来臨の前に、殿下のお座りになる椅子と切手展のロゴを移したスクリーンの写真を撮り、冒頭に掲げてみました。

 というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      シリントーン還暦

 これは、2015年にタイで発行された殿下の還暦記念の切手です。

 シリントーン殿下は、1955年4月2日、先代の国王ラーマ9世とシリキット王妃の間の次女(第3子)で、兄上で現国王のラーマ10世陛下の王位継承者の1人です。

 1973年、王室として初めて、国内の大学であるチュラーロンコーン大学文学部に進学。1977年のご卒業後、王位継承権を与えられました。

 東南アジア地域の古典語としてサンスクリット語、パーリ語、古代クメール語、欧米の言語としては英語、フランス語に通じておられるほか、中国文化には特に関心を抱いており、中国語もおできになるそうで、学問・文化への御造詣の深さから、タイの学術施設には殿下のお名前を冠したものが多くなっています。

 じつは、殿下は切手収集家としても知られ、これまでタイで開催された国際切手展の際には多大なご支援をなさっておられるほか、かならず、会場にお見えになっています。今回の御来臨もその先例に倣ったものです。

 さて、セレモニーとご視察は16:00過ぎに終了し、その後、17:30から会場の撤去作業が始まりました。作品の搬出は、当日帰国予定のコミッショナーが優先で、日本は19:30から作業開始。ご出品者の伊藤純英さん、伊藤文久さん、岩崎善太さんご夫妻、斎藤環さん、立川賢一さんのご協力もあり、2時間ほどですべて完了しました。(下の画像は、撤去作業完了後、作品並びにメダル類の入ったスーツケースを前に、日本出品者の皆さんとセカンド・コミッショナーの大沼幸雄さんご夫妻で撮った記念写真です)

      バンコク展・撤去後

 なお、帰国はあす(5日)午後の予定です。内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。


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 安倍首相、パラグアイを訪問
2018-12-03 Mon 06:50
 ブエノスアイレスで開かれていた20カ国・地域(G20)首脳会議の出席を終えた安倍首相は、ウルグアイを経て、きょう(日本時間3日午前・現地時間2日午後)、パラグアイを訪問します。日本の首相がパラグアイを公式訪問するのは初めてということなので、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      パラグアイ・日系人のブドウ栽培

 これは、1986年にパラグアイが発行した“日本人移住50周年”の記念切手で、ラ・コルメナ地区での日系人によるブドウ栽培の風景が取り上げられています。

 パラグアイへの日本人の制度的な移民は、1930年、わが国の在アルゼンチン特命全権公使がパラグアイのホセ・パトリシオ・グヒアリ政権から日本人のパラグアイ移住を歓迎するとの感触を得て、「パラグアイ拓殖計画」を日本政府に提出したのが出発点となります。しかし、当時の南米での日本人の移民先は、ペルーとブラジルが主流だったこともあり、1930年の時点では、パラグアイへの移民が真剣に検討されることはありませんでした。

 ところが、1934年、ブラジルのヴァルガス政権が「移民二分制限法」(新規の移民は、すでに定住している当該国人の2%を超えることが出来ないとする制度)を発令。このため、それまで年間2万人だった日本からブラジルへの移民枠は年間2500人にまで制限されます。

 このため、ブラジルに代わる日本人の移民先としてパラグアイが注目されることになり、1935年、パラグアイのアヤラ政権も、日本人100家族に対して入国許可を出しました。

 しかし、1936年2月17日、ラファエル・フランコ大佐のクーデターが発生してアヤラは失脚。権力を掌握したフランコは、「日本人移民の入国許可は前政権が出したものであって、現政権はこれを認めない」として、日本からの移住計画を白紙に戻してしまいます。

 その結果、日本政府としては表だって移民の準備が進められなくなったため、実際には拓務省がパラグアイへの移民準備を進めるものの、名目上は、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の専務理事であった宮坂国人が個人の名義で日本からの移民の入国許可申請の手続きを行い、入植地の購入を行うことになりました。

 宮坂は、1936年3月、首都アスンシオンから東南約130kmの地点にあるラ・コルメナ地区の1万1000ヘクタールの土地を入植地として選定するとともに、ブラ拓内にパラグアイ拓殖部(パラ拓)を設けて、体制を整えて時機をうかがっていましたが、1936年4月30日、パラグアイ政府が大統領令第1026号をもって日本人移民100家族を受け入れる許可を出したことを受けて、同年5月15日にはパラ拓スタッフが、6月にはブラジルからの指導移民が、それぞれ先遣隊としてラ・コルメナに入ります。そして、8月、日本から到着した最初のパラグアイ移民を迎えました。

 ラ・コルメナでのブドウの栽培が始まったのは、日本人の入植から間もない1939年のことで、ニアガラ種の栽培から始めて、スモモ、ミカンなど他の果樹栽培に先立って作付面積が増大。現在はマスカット、巨峰、紅富士、ルビー、加工用のカンピーナスも栽培されているほか、La Colmenita(ラ・コルメニータ)などのワインも醸造されています。

 その後、1941年の日米開戦に伴い、パラグアイは日独伊三国と国交を断絶。これにより、ラ・コルメナ地区への日本人の入植も途絶し、1945年にパラグアイが日本に宣戦布告をすると、ラ・コルメナ移住地は全パラグアイの日本人収容地となり、日本人の移住地以外への外出も制限されるようになりました。

 大戦後も、ラ・コルメナ移住地では1946-47年に大規模な蝗害が発生するなど入植者の苦難は続いたが、移住者は徐々に増加し、移住地も他の地域に拡大。さらに、1954年にクーデターで政権を掌握したアルフレド・ストロエスネルは、1959年に日本・パラグアイ移住協定に調印し、30年間に8万5000人の日本人移民の受け入れを約束。実際にはそこまで多くの移民は集まらなかったものの、日本はパラグアイに対する援助を拡充し、日系移民の社会的な地位も大いに向上しました。


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 グランマ号上陸の日
2018-12-02 Sun 06:40
 きょう(2日)は、1956年12月2日にフィデル・カストロらがグランマ号でキューバ島に上陸し、キューバ革命戦争の火ぶたを切った記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・グランマ号航路

 これは、2016年に発行された“グランマ号上陸60周年”の記念切手で、グランマ号とその航路の地図が描かれています。

 1955年夏、メキシコでエルネスト・チェ・ゲバラを加えたフィデル・カストロら7月26日運動(M26)の同志たちは、1956年3月のキューバ島再上陸をめざして本格的な準備を開始しました。

 リーダーのフィデルは、ホセ・マルティの先例に倣い、1955年10月、ニューヨーク、テキサス、マイアミ、コスタリカなどを回り、アウテンティコ党やオルトドクソ党とも協力関係を築き、反バティスタの在外キューバ人の組織化と資金の調達に努めるとともに、モンカダ兵営の襲撃事件を“冒険主義”と批判していた人民社会党の一部とも連携を始めます。

 これとほぼ時を同じくして、ゲバラは他のキューバ人メンバーとともに、スペイン内戦・共和派の勇士、アルベルト・バーヨ将軍の指導の下、ゲリラ戦の訓練に参加していました。1955年の時点で、バーヨはすでに63歳でしたが、フィデルの理想に共鳴してM26の教官を引き受け、サンタ・ロサの農場で銃器の扱い方をはじめ、ゲリラ戦の基礎から教育します。

 バーヨの訓練は厳しく、サンタ・ロサでは落伍者が続出。また、参加者の中には、敵と内通し、通信設備や武器を横流しし、その金を持って消えてしまう者さえいました。

 さらに、フィデルによる資金の調達も困難を極めており、1956年3月の上陸作戦計画は予定通りには進まず、大幅に遅れます。

 一方、キューバのバティスタ政権は、フィデルがメキシコに到着した時点からフィデルを殺害するため、現地のキューバ大使館付き武官が一万ドルを支払って殺し屋を雇っていましたが、この計画は失敗。このため、キューバ大使館はメキシコ当局に接近して関係者を買収し、フィデルらM26メンバーの居場所を突き止めたり、彼を告発したりするよう依頼します。

 この結果、1956年6月20日、交通違反を理由にフィデルの車が捜索を受け、武器が積まれていたことを理由にフィデルらは部金不法所持で逮捕され、同25日にはゲバラも逮捕されてしまいました。

 その後、フィデルらはメキシコ元大統領のカルデナスの仲介により1ヶ月ほどで釈放されたものの、ゲバラは密入国のアルゼンチン人で、しかも、共産主義者と見なされたため拘留が長期化します。

 官憲による逮捕の可能性を予期していたゲバラは、自分が逮捕された場合には、M26の同志は自分を置き去りにしてキューバへ向けて出発してほしいとフィデルに語っていましたが、7月25日に釈放されたフィデルはゲバラを決して見捨てず、あらゆる手段を惜しまずにチェの釈放に奔走。その甲斐あって、ゲバラは57日間の拘留の後、8月半ばに釈放されました。ゲバラの釈放には10日以内に出国することとの条件が付けられていたため、以後、彼は地下活動に入ります。

 一方、フィデルは、この頃、知人のエル・クアーテ・コンデかた“グランマ”という名の古いヨットを購入します。ヨットは1943年製で、定員は12人、無理をすれば何とか20人は乗れるという規模でしたが、竜骨は前年のハリケーンで壊れていました。

 そうしている間にも、M26に対するバティスタ政権の包囲網は日を追って狭められ、彼らがそのままメキシコで訓練を続けることは次第に困難になっていました。さらに、11月半ばにはメキシコ警察がM26の隠れ家二ヵ所を発見して武器を押収し、主要メンバーの1人であったペドロ・ミレーが逮捕されます。また、21日にはM26が訓練拠点としていたアバソーロの牧場からメンバー2人が脱走し、遠征計画が外部に漏れる危険が生じました。

 このため、翌22日、フィデルは急遽、各地の同志に動員令を発し、ゲバラも寝ていたベッドや飲みかけのマテ茶もそのままに、また、喘息の持病を抱える身として必携の吸入器さえ持たずに出発しました。

 こうして、11月24日、グランマ号が係留されていたトゥスパンに遠征隊員が終結。翌25日午前2時頃、フィデルが「1956年、我々は自由を勝ち取るか、さもなくば殉教者となるであろう」と力強く宣言し、55丁の銃と82人の隊員がグランマ号に乗り込み、大雨と大風の荒天の中、キューバ島東部の二ケーロへ向けて出発しました。

 当初、M26の立てた計画では、11月30日にフィデルがニケーロに上陸し、反バティスタの農民兵百人と合流したうえで、マンサニージョからシエラ・マエストラの山中を拠点にゲリラ戦を展開。これに呼応して、フランク・パイスがサンティアゴ・デ・クーバで蜂起するという段取りになっていました。

 このため、グランマ号は夜陰に乗じてユカタン半島沿いを進み、沿岸警備隊に発見されないよう、なるべく早くメキシコの領海外へ出て、ジャマイカに沿って迂回し、ニケーロ周辺の海岸に到着するコースを予定していましたが、もともと老朽化していた船はエンジントラブルに加え、重量の大幅な超過と悪天候、さらに、ほとんどの遠征隊員が当初は船酔いでまったく活動できなかったことなどが重なり、予定の30日になっても海上を漂うばかりでキューバ島は全く見えませんでした。

 本来であれば、ここでフィデルらはフランクに上陸が遅れることを知らせ、作戦を中止すべきでしたが、グランマ号には発信機はなく、フランクにはメキシコ出航時に無時出発した旨の電報が送られたきりだったため、11月30日、サンティアゴ・デ・クーバでは事前の打ち合わせ通りに武装蜂起が発生し、これに呼応して、キューバ内の他の都市でも発砲事件などが散発的に発生。しかし、ニケーロにいるべきフィデルらは依然としてメキシコ湾上におり、同時蜂起とはならなかったため、政府軍は兵力をサンティアゴ・デ・クーバに集中し、叛乱はほどなく鎮圧されてしまいました。

 また、ただでさえ、理想主義者のフィデルは、革命の政治的効果を狙って、メキシコ出発前にグランマ号でのキューバ遠征に向かうとの声明を発表しており、バティスタ政権側に迎撃の準備を整える余裕を与えていましたが、到着がさらに遅れたことで、グランマ号が予定通りニケーロに向かうことは完全な自殺行為となってしまいました。このため、彼らは行き先をニケーロ南西部のラス・コロラダスの海岸に変更し、そこから、トラックを奪ってシエラ・マエストラに向かうことになります。

 結局、彼らがキューバ島に到着したのは、12月2日の明け方のことで、到着場所はラス・コロラダス海岸の予定地点から二キロ離れた地点でした。

 ラス・コロラダス海岸に到着した一行はグランマ号から降りて、胸まで水に浸かりながらマングローブの海を進み、ようやくキューバ島への上陸を果たします。しかし、飛行機を通じて“不審船”の動きを探知していたバティスタ政府は、砂糖キビの食べかすなどから叛乱軍の足跡をたどり、12月5日の昼頃、アレグリーア・デル・ピノで反乱軍を迎撃。こうして、キューバの革命戦争が始まりました。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、キューバ革命に関する切手も多数ご紹介しております。フィデルのM26のキューバ島上陸計画に倣ったわけではないのですが、諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りです。正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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