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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 マレーシア新国王、きょう戴冠式
2019-01-31 Thu 02:55
 ことし(2019年)1月6日の国王ムハンマド5世の退位に伴い、新たにマレーシア国王(アゴン)として選出されたパハン州のスルターン、アブドゥラ・リアヤテュディン・アルームスタファ・ビラ・シャーの戴冠式が、きょう(31日)、行われます。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      占領マライ・DAI NIPPON 統一加刷カバー

 これは、日本占領下のマライで、1942年6月3日、パハン州に“DAI NIPPON 2602”の統一加刷をした切手を貼り、ペラ州のトゥルッ・アンソン(現トゥルッ・インタン)からタイピン宛に差し出されたカバーです。

 マレー半島最大の州であるパハン州は1888年に英国の保護領となり、1895年、英領マレー連邦に編入され、現地の地方君主であるスルターンによる間接統治の体制となりました。

 この間、1889年には英領海峡植民地の切手に“PAHANG”の文字を加刷した最初の切手が発行され、1891年以降は正刷切手も発行されています。また、正刷切手と並行して、1891年から1897年までは、隣接するペラ州の切手に“Pahang”の文字を加刷した切手も使われました。

 1900年以降は、英領マレー連邦共通の切手が使用されていましたが、1935年、当時のスルターン、アブー・バカル・リアヤテュディン・ムアザッム・シャーの肖像を描く州独自の発行されました。

 大東亜戦争勃発後の1942年2月、マレー半島全域を占領した日本軍は、当初、各地で接収した切手に地域ごとのローカル加刷を行っていましたが、同年4月以降、占領マライ全域で使用するための統一加刷切手の発行が始まります。最初の統一加刷切手には“馬來軍政部郵政局印”が押されていましたが、1942年6月以降、今回ご紹介の切手のように、“DAI NIPPON 2602”のローマ字加刷をした切手が登場しました。

 ちなみに、加刷の台切手に肖像が描かれているスルターン、アブー・バカルは1904年生まれ。1932年にスルターンとして即位し、第二次大戦、マレーシア独立を経て、1974年までスルターンの地位を維持しました。きょう、戴冠式を迎えるアブドゥラ新国王は、彼の孫にあたります。

  
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 世界の国々:コンゴ共和国
2019-01-30 Wed 00:18
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年1月23日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はコンゴ共和国の特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      コンゴ共和国・ゲバラ追悼

 これは、1969年にコンゴ共和国が発行したチェ・ゲバラの追悼切手です。

 1960年8月15日に独立したコンゴ共和国(旧仏領)は、初代大統領に就任したフルベール・ユールーと彼の率いる与党“アフリカ人利益擁護民主連合(UDDIA)”の下、親仏路線を維持し、フランスからの資金援助による国家建設を推進しました。しかし、その配分は、彼の出身部族であるラリ族の多い南部が偏重され、北部は冷遇されただけでなく、露骨な利益誘導が行われたため、政権の腐敗も深刻でした。

 外交面でも、隣接する旧ベルギー領コンゴでの動乱に関しては、民族派のパトリス・ルムンバではなく、旧宗主国ベルギーの支援を受けてカタンガの分離独立を主張するモイーズ・チョンベを支持。このことも国民の不満を醸成し、1963年8月、北部での反政府暴動を機に、ユールー政権は崩壊し、アルフォンセ・マサンバ=デバを首班とする新政権が発足しました。

 マサンバ=デバ政権は、民族主義的な色彩の濃い社会主義路線を掲げ、外国系企業の国有化、フランス軍基地の撤去、計画経済の導入などを推進。1964年1月には“革命国民運動(MNR)”を結成して一党体制を構築したほか、外交面では反仏路線に転換し、東西冷戦下では西側との決別を意味するキューバ・カストロ政権との国交樹立に踏み切ります。

 これを受けて、キューバはチェ・ゲバラをブラザヴィルに派遣することを決定。1965年1月2日、ゲバラは「米国の干渉に対する革命の戦いは、西半球の大陸の多くの人をとらえるだろう」と声明してブラザヴィル入りし、5日、マサンバ=デバと会談しました。ゲバラは、旧ベルギー領でのコンゴ動乱に関して、マサンバ=デバに対して、キューバと連帯して旧ルムンバ派勢力を支援することを提案。マサンバ=デバ政権がこの提案を受け入れると、ホルヘ・リスケート率いるキューバの軍事ミッションがブラザヴィルに派遣されました。

 その後、キューバの支援を受けたMNR若年層の一部は徐々に民兵を組織して過激化。マサンバ=デバは、1966年、民兵組織のアンブローズ・ヌアザレイを首相に任命し、政権に取り込んで去勢しようとしましたが、MNRは穏健化しませでした。そこで、1968年1月、マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任しましたが、軍部の実力者で空挺隊司令官のマリアン・ングアビは民兵組織を統御しきれないマサンバ=デバに対する不満を募らせます。

 このため、1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕しましたが、兵士の反乱で釈放を余儀なくされ、逆に、9月4日、退陣に追い込まれました。

 なお、政権を掌握したングアビは民兵組織を抑え込みましたが、キューバとの友好関係は維持します。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下で、キューバの支援に感謝し、友好関係の維持を訴えるために発行されたものです。

 さて、『世界の切手コレクション』1月23日号の「世界の国々」では、独立後初期のコンゴ共和国についてまとめた長文コラムのほか、パフォーマンス集団のバレー・ディアブア、コンゴ川、ブラザヴィル大聖堂、地酒のカシキシの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のキューバの次は、1月23日発売の同30日号でのウガンダ(と一部ギニア)の特集となっています。こちらについては、近々、このブログでもご紹介する予定です。

  
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 ラッフルズのシンガポール上陸200年
2019-01-29 Tue 00:53
 1819年1月29日、英国東インド会社のトーマス・ラッフルズがシンガポールに上陸してから、ちょうど200年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      シンガポール・ラッフルズ(1955)

 これは、1955年、英領時代のシンガポールで発行されたトーマス・ラッフルズ像の1ドル切手です。

 ラッフルズは、1781年7月6日、父ベンジャミンが船長としてジャマイカ沖を航行中の船上で生まれました。1795年、14歳の時からロンドンの東インド会社で職員として働き始め、1805年当時プリンス・オブ・ウェールズ島と呼ばれていたマレー半島のペナン島に赴任し、マレー語を習得。1811年、ナポレオン戦争当時フランスの勢力下にあったジャワ島へ英領インドから派遣された遠征軍に参加し、ジャワ副知事に任命され、行政実務を担当しました。

 ラッフルズは英国東インド会社による蘭印占領を主張し、税制改革や奴隷制廃止などに辣腕をふるいましたが、在任中の1814年、ボロブドゥール遺跡を再派遣し、調査と発掘作業を行いました。

 ナポレオンが失脚し、1815年、ジャワにおけるオランダの支配が復活すると、ラッフルズはいったんロンドンに戻り、1817年に『ジャワの歴史』を著し、同年ナイトの称号を授与されました。

 1818年、スマトラにあったイギリス東インド会社の植民地ベンクレーンにベンクレーン副知事として赴任。現地で、マレー半島南端の寒村、シンガポール島の地政学上の重要性に着目した彼は、「リオウ(ビンタン島)を凌ぐ便宜性と支配力を有している。南岸の沖にわたる数個の小島は格好の碇泊地と港を形成している」と会社に伝え、すぐにシンガポールへ向かい、1819年1月29日、シンガポール川の河口付近に上陸。彼はここにオランダ人がいないことを確認したうえで、ジョホール王国の内紛に乗じて、親英的なスルターンを新たに擁立し、同年2月6日、シンガポールを開港し、英国商館建設に関する協定を結びました。

 その後、ラッフルズは、1822-23年までシンガポール東部に留まり、自由貿易港を宣して植民地の建設に尽力。彼が帰国した後の1824年には、シンガポールは植民地としてジョホール王国から英国へ正式に割譲され、人口も急増して発展。1826年には、シンガポールは、ペナンマラッカ(1824年獲得)とともに、英領海峡植民地に編入され、1832年にはその首都となりました。

 切手に取り上げられたラッフルズ像は、もともとは、1887年6月27日、ヴィクトリア女王在位50年を記念して、英国人彫刻家のトーマス・ウールナーが制作。当初は、セント・アンドリュース教会に面しているパダン(広場)の中央、花崗岩の台座の上に黒色の像が鎮座していましたが、1919年、ラッフルズ上陸100年を記念して、現在のビヴィクトリア・シアターの場所に移設されました。

 なお、その後、この黒色像から鋳型を取り、全く同じ大きさでラッフルズ卿上陸150年(1969年)の記念碑として白色の像が制作され、上陸地点に設置されました。その台座には「スタンフォード・トーマス・ラッフルズ卿(1781-1826)が1819年1月29日に初めてこの地に上陸」との碑文が取り付けられています。

  
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 アウシュヴィッツ収容所跡で追悼式典
2019-01-28 Mon 00:43
 1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が解放されたことにちなむ“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(国際ホロコースト記念日)”のきのう(27日)、ポーランド・オシフィエンチムのアウシュヴィッツ収容所跡で、毎年恒例の追悼式典が行われました。というわけで、アウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・女性収容所(1942年11月23日)

 これは、1942年11月23日、ビルケナウの女性収容所から差し出された葉書で、タイプ3と呼ばれるフォーマットが使用されています。タイプ3は、収容所の銘が“F.K.L.Auschwitz”となっていますが、この“F.K.L.”は、女性収容所を意味する“Frauen Konzentrationslager”の略号です。なお、葉書の左側に印刷されている注意書等は、文字のフォントも含めてタイプ2の葉書と同じなので、両者はほぼ同時期に作成したのではないかと推測できます。

 第二次大戦が始まった時点で、ドイツの強制収容所のうち、主として女性収容者を拘束していたのは、ベルリンの北方約80キロ、メクレンブルク州のラーフェンスブリュック収容所でした。

 同収容所は、1938年末からザクセンハウゼン収容所の収容者を動員して建設が開始され、1939年5月13日、最初の収容者としてドイツ人女性860人、オーストリア人女性7人が移送されてきました。その後、9月の開戦を経て、同年末の時点で収容者数は1168人となりましたが、さらに戦線が拡大していったことで収容者の数も増加の一途をたどり、最終的には、総計23ヵ国12万3000人の女性がラーフェンスブリュック収容所に登録されました。

 このように、ラーフェンスブリュック収容所のキャパシティが限界に迫っていったことに加え、戦時下での労働力不足が深刻になっていたという状況もあり、当初は、“労働力にならない”として無条件に抹殺の対象となっていたユダヤ人女性に対しても、男性同様の“選別”の結果、強制労働が課されることになります。

 かくして、1942年3月26日、ラーフェンスブリュックから99人の“犯罪者と反社会分子”の女性(非ユダヤ人)がアウシュヴィッツに移送され、ひとまず、第1収容所1号棟から10号棟に入れられました。そして、同年8月初旬、ビルケナウの第2収容所内のBIa区域に30棟の収容棟が完成すると、最初に到着した99人を囚人頭として、1万3000人の女性がそこに移送されます。その後、1943年7月以降、ビルケナウではBIb区域が女性の収容区域となりました。

 ビルケナウの女性収容者は、収容所内の事務作業のほか、麦・野菜の栽培などの農作業や魚の養殖、家畜の飼育などを主として担当しましたが、屋外での作業は過酷で、働けなくなったと見なされた収容者は収容所内25号棟のガス室で殺されました。また、妊娠が判明するとフェノール注射で殺されたほか、人体実験の材料とされることもありました。

 ちなみに、アウシュヴィッツの収容者が差し出した郵便物と、そこからみえてくる収容所内の生活については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
     
 
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 大坂なおみ、全豪OPで優勝
2019-01-27 Sun 00:50
 テニスの全豪オープンは、きのう(26日)、女子シングルス決勝で大坂なおみがペトラ・クビトバ(チェコ)を7-6、5-7、6-4で下し、男女を通じて日本人初の全豪シングルス女王の快挙を達成しました。大坂は昨年の全米OP優勝に引き続き4大大会2大会連続優勝で、1月28日付けの世界ランキングで、日本人で初めてシングルス1位に輝くことも確定しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      オーストラリア・全豪オープン100年

 これは、2005年1月11日にオーストラリアで発行された“全豪オープンテニス100年”の記念切手で、大会会場のメルボルン・パークでのダブルスの試合風景を背景に、女子選手を組み合わせたデザインになっています。

 現在の全豪オープンテニスのルーツは、1905年、オーストラリアとニュージーランドの共同大会として始まった“オーストラレージアン・テニス選手権”です。当初は、男子シングルス・男子ダブルスの2部門のみで、第1回大会の男子シングルス優勝者はロドニー・ヒースでした。

 1916-18年の3大会は第一次世界大戦のため注視となりましたが、大戦後の1922年、女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門が創設されました。ちなみに、女子シングルスの最初の優勝者はマーガレット・モールズワースでした。

 大会名は1927年に“オーストラリア選手権”と改称され、第二次大戦による1941-45年中断を挟んで、以後、1968年までこの名前で行われました。そして、1969年にはオープン化され、現在の“全豪オープン”となります。

 全豪オープンとなった当初、大会はオーストラリア各都市の持ち回りとされましたが、1972年以降はメルボルンのクーヨン・テニスクラブに会場が固定され、1988年にメルボルン・パークが建設されると、会場も同所に移され、現在に至っています。

 
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 “マケドニア”国名論争が決着
2019-01-26 Sat 14:20
 ギリシャ国会は、きのう(25日)、隣国マケドニア(マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国。以下、マケドニア)が“北マケドニア共和国”に国名変更する両国政府間の合意を賛成多数で承認しました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マケドニア・不足料(1991)

 これは、1991年12月30日に発行された“マケドニア”名義の郵便税切手です。1991年9月8日の独立宣言後、“マケドニア”名義で発行された最初の切手で、1991年12月30日から翌1992年9月8日まで、マケドニア国家の支配地域から旧ユーゴスラヴィア切手を貼って差し出す郵便物には貼付が義務付けられていました。

 さて、現在のマケドニア国家は、旧ユーゴスラヴィア連邦を構成していたマケドニア(社会主義)共和国が連邦から分離・独立するかたちで誕生しましたが、本来の地域概念でいう“マケドニア”の範囲は、古代のアレクサンダー大王の故地として、同国のみならず、ギリシャ、ブルガリアの3国にまたがり、さらに、アルバニア領マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド、コソヴォ領ゴーラ、セルビア領プロホル・プチニスキをも含むものとされています。

 このため、広義のマケドニアの領域をめぐっては、歴史的にギリシャ、ユーゴスラヴィア、ブルガリアの3国が領有権を主張してきましたが、現状では、広義のマケドニアのうち、南部の面積にして約50%がギリシャ領で、マケドニアの領域は広義のマケドニアの北西部の約40%です。

 ただし、広義のマケドニアの歴史的な中心都市がギリシャ領のテッサロニキであることにくわえ、古代マケドニア王国がギリシャ系の国であったのに対して、現在のマケドニア共和国の多数派民族がスラブ系であることもあり、ギリシャ側は、本来のマケドニアはギリシャであると主張。1991年の独立宣言以来、マケドニアに対して国名の変更を求め続けていました。

 特に、1993年の国連加盟申請の際には、ギリシャの強い反発により、マケドニア共和国は“マケドニア旧ユーゴスラビア共和国”という暫定名で加盟するということで妥協が図られましたが、これに納得しないギリシャは、1994年2月にマケドニアに対する経済封鎖を実施。海を持たない内陸のマケドニア共和国は大きな打撃を受け、国旗のデザインを変更(1991年の独立時に定められた国旗は、古代マケドニアのヴェルギナの星を用いていました)するとともに、憲法を改正してギリシャ領のマケドニアに対する領土的野心がないことを明言するなどして、1995年に経済制裁を解除させています。

 しかし、その後も、ギリシャは“マケドニア”の国名変更を求め、マケドニア共和国がこれに抵抗するという構図の下、EUやNATOへの加盟も国名問題の解決までは保留という状態が続いてきました。

 こうした中で、2017年にマケドニアでゾラン・ザエフ政権が発足すると、同政権はNATOやEU加盟を目指すため従来の強硬姿勢を改め、これをギリシャ側も好感。2018年1月には両国の外相会談で国名改称に向けた作業部会の設置が決定され、翌2月、北マケドニア共和国、上マケドニア共和国、ヴァルダル・マケドニア共和国、マケドニア・スコピエ共和国の4案が提案されました。そして、2018年6月12日、マケドニアが国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意が成立します。

 これに対して、同年9月30日のマケドニアの国民投票では野党側がボイコットを呼び掛けたこともあり、投票率は約37%にとどまり成立条件の50%を下回ったため無効となりましたが、2019年1月11日、マケドニア議会において国名を「北マケドニア共和国」に変更するとした憲法改正案が賛成多数で承認。これを受けて、今回のギリシャ国会でもマケドニアとの政府間合意が承認され、ようやく、1991年のマケドニア独立以来の国名論争がようやく決着することになりました。

 * 昨晩、アクセスカウンターが201万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 
 
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 中華まんの日
2019-01-25 Fri 21:45
 きょう(25日)は、1902年1月25日に北海道旭川で日本の観測史上最低の気温-41℃が記録されたことにちなみ、寒い日には中華まんを食べて暖まってもらおうということで制定された“中華まんの日”だそうです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      中國香港・叉焼包

 これは、2002年に香港で発行された“中西文化通用票(普通切手)”のうち、叉焼包とバケットを並べた1ドル40セント切手です。

 饅頭の由来については、三国時代の蜀の軍師、諸葛亮が南蛮征伐の帰り、風雨で川が氾濫して渡れなかった際に、人間の首を切り落として捧げて酔人の怒りを鎮めるという現地の風習を目にし、戦いで失われた人命をこれ以上犠牲にはできないとして、小麦粉を水で練った皮に羊や牛の肉を包んで“饅頭”を作り、人頭に代わって供えて川に投じたのが始まりと伝えられています。なお、日本語で“饅頭”と呼ばれる中国の点心としては、中に具を包んでいるものを包子、中に具のないものを饅頭と呼んで区別しており、切手に取り上げられた叉焼包は、広東料理の一種で、叉焼を具にした包子です。

 中西文化通用票は、1999年から発行されていた“香港特色景點與名勝通用票”に続く普通切手のシリーズです。東西文化の結節点という視点から、香港社会の諸相を切手上で表現しようとしたもので、1枚の切手の画面を左右に分割して、一方に西洋起源のもの、他方に中国の伝統的なものを配した統一デザインとなっています。

 なお、中西文化通用票が発行された当時の香港の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろと分析してみましたので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 
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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

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 香港政府が国歌条例案
2019-01-24 Thu 02:52
 香港政府は、きのう(23日)、中国の国歌「義勇軍進行曲」に対する侮辱行為などに禁錮刑を科すことを盛り込んだ国歌条例案を立法會(議会)に提案しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      中国国歌(1983)

 これは、1983年に中国が発行した“第6回全国人民代表大会”の記念切手で、現在の中国国歌「義勇軍進行曲」の歌詞つき楽譜が取り上げられています。

 「義勇軍進行曲(作詞・田漢、作曲・聶耳)」は、もともとは、1935年の映画『風雲児女』の主題歌で、日中戦争の時代に抗日歌曲として民衆の間に浸透しました。中華人民共和国の建国宣言に先立ち、1949年9月に開催された中国人民政治協商会議では、いずれ正式な国歌を新たに制定されるまで、「義勇軍進行曲」を暫定的な国歌とすることが決められましたが、結局、別の国歌が制定されることのないまま、現在に至っています。

 作詞者の田漢は、1932年に中国共産党に入党した古参党員で、中華人民共和国成立後は政府文化部の戯曲、芸術部門の責任者を務めたものの、1966年に始まる文化大革命では、彼の持つ歴史や民族的文化に対する意識の原点が日本文化に依拠しているなどとして逮捕投獄され、1968年12月10日、獄死。1975年には永遠に党籍を剥奪することが決定されました。

 このため、文革中は「義勇進行曲」は歌なしのインストゥルメンタルでしか演奏されなくなり、代わりに、毛沢東礼賛の「東方紅」が事実上の国歌の扱いを受けていました。

 1976年、毛沢東が亡くなり、 4人組が追放されて文革が完全に終結すると、1978年3月の第5期全国人民代表大会第1回会議で、「義勇進行曲」は再び(事実上の)国歌としての地位を回復しましたが、この時点では田漢の名誉回復離されていなかったため、歌詞については、田漢によるオリジナルのものではなく、「前進!各民族英雄的人民!(進め!各民族の英雄的人民!)」で始まる“集団作詞”のものに変更されています。

 その後、1979年に田漢の名誉回復が行われると、1982年12月4日の第5期全国人民代表大会第5回総会での決定を経て、「起来!不願做奴隷的人們!(起て!奴隷となることを望まぬ人々よ!)」で始まるオリジナルの歌詞が復活。2004年の第10期全国人民代表大会第2次会議での憲法改正により、正式に国歌は「義勇軍進行曲」であることが明記されました。

 さて、今回の国歌条例案は、2017年10月1日から中国で施行されている「中華人民共和国国歌法」を踏まえ、中国国歌の替え歌など意図的な侮辱行為を禁じ、違反者には最高で3年の禁錮刑と5万香港ドル(約70万円)の罰金を科すとされているほか、国慶節(建国記念日)や“抗日戦争勝利記念式典”、香港政府主催の重要なスポーツ行事などで国歌の演奏や斉唱を義務づけ、“中国人”としての愛国心を高めるため、小中学校で国歌斉唱の指導や国歌の歴史を教えることも明記されています。現在、立法會は親中派が多数を占めているため、条例案は今夏までに可決、成立する見通しです。

 まぁ、いかなる国の国歌であれ、相応の敬意を持って扱われるべきであり、侮辱するようなことは厳に慎むべきではあるのですが、そうであればこそ、「義勇進行曲」の歌詞にある通り、香港の人たちが(中共の)奴隷になることを望まずに起ちあがるというのなら、それもまた尊重されなければならないでしょうな。


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

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 スプートニクとガガーリンの闇(13)
2019-01-23 Wed 11:15
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、昨年12月25日、『本のメルマガ』第706号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中に東側諸国が発行した切手のうち、ブルガリアの切手について取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・スプートニク3号(1958)

 これは、1958年11月28日、ブルガリアが発行した「国際地球観測年」の記念切手で、ソ連の人工衛星スプートニク3号と宇宙から見たユーラシア大陸北部が描かれています。

 かつての社会主義時代、ブルガリア建国の父として崇め奉られていたゲオルギ・ディミトロフは、1862年6月、ブルガリア西部のコヴァチェフツィで貧しい労働者階級の子として生まれました。10代の頃から労働運動の活動家として頭角を現し、1902年にはブルガリア労働者社会民主党(PBS)に入党。1919年3月、世界各国で左派勢力を既存の社会民主主義政党から切り離して“前衛党(共産党)”を組織し、世界革命を推進するとのコミンテルン(共産主義第3インターナショナル)の呼びかけに呼応して、同年5月、新たにブルガリア共産党(BKP)が結成されると、その中央委員に就任します。

 1921年6-7月、コミンテルン第3回大会がモスクワで開かれると、ディミトロフはBKP代表としてこれに参加し、ロシア共産党とのパイプを構築。1923年、ブルガリア国内での武装蜂起に失敗すると、ウィーン、ベルリン、モスクワで活動していました。

 1933年2月27日、ドイツ・ベルリンの国会議事堂放火事件では冤罪逮捕されたものの、12月23日、裁判で無罪判決を勝ち取ると、この“勲章”を手に、1935年、コミンテルンの書記長に就任。コミンテルンは1943年に解散しましたが、スターリンは各国の共産党組織に対する“指導”を維持するため、ソ連共産党中央委員会内に国際情報部(OMI)を新設。旧コミンテルン執行部はほぼ横滑りし、ディミトロフもモスクワに留まり、その部長に収まります。ただし、あくまでも、OMIはソ連国内の組織であるとの建前から、その名目上の責任者はシチェルバコフで、ディミトロフは副責任者とされていました。

 以後、ディミトロフはOMIの事実上の責任者として、ソ連共産党の決定にもとづいて各国共産党の指導を担当。スターリンの忠臣として、第二次大戦後、ソ連占領下の東欧で各国共産党が権力を掌握していくため、水面下での工作に辣腕をふるった後、1946年、祖国ブルガリアに帰国します。ディミトロフは、さっそく、ソ連の衛星国として誕生したブルガリア人民共和国の首相に就任。反政府運動を抑えるキャンペーンを開始して、スターリンに倣った恐怖政治を行い、多くの国民を強制収容所送りするとともに、ソ連の16番目の共和国とも揶揄された親ソ政権を樹立しました。

 ところが、1948年、モスクワからの自立を志向していた隣国ユーゴスラヴィアのティトーが、スターリンに無断でブルガリアとの関税同盟構想を推進したことが発覚すると、スターリンは激怒。同年のコミンフォルム第2回会議でユーゴスラヴィアの追放決議が採択され、ブルガリア国内でも“ティトー主義者”(と見なした人物)に対する粛清が始まります。こうした状況の下、1949年、ディミトロフは、病気療養中のモスクワ近郊の病院で亡くなったため、ソ連による謀殺が疑われています。(ただし、謀殺説を裏付ける証拠は確認されていません)

 ディミトロフの死後、ブルガリアの後継首相となったのは、彼の下で首相代理や外相を歴任したヴァシル・コラロフでした。

 コラロフは、スターリンの怒りを解くため、“ティトー主義者”の粛清を進めましたが、その最大のターゲットとなったのが、ディミトロフ政権で副首相を務めたトライチョ・コストフです。コストフは、副首相兼経済財政委員会議長として、社会主義建設の2ヵ年計画を立案し、ソ連による経済政策への介入にも批判的でしたが、それゆえ、1949年3月に解任され、同年7月、逮捕・処刑されました。

 コラロフは1950年1月に亡くなりますが、その後継首相となり、ついで党書記長を兼任したヴァルコ・チェルヴェンコフは、よりモスクワに忠実なスターリン主義者として、スターリンの意を汲んだ政策を展開します。

 スターリンへの忠誠心を示すべく、チェルヴェンコ政権は、発足早々、米国との外交関係を断絶。また、ソ連の政策を忠実になぞって、重工業化と農業集団化を推進したほか、“小スターリン”として個人崇拝を強要するとともに、反対派は容赦なく弾圧。1953年までに1万2000人が強制労働収容所で亡くなったとされています。さらに、ブルガリア正教会の総主教は修道院に軟禁され、教会は国家の統制下に置かれました。

 しかし、スターリンの露骨な傀儡であったチェルヴェンコフは、1953年3月、スターリンが亡くなると、その権力基盤が揺るぎ始める。ソ連指導部が“(東欧の)新路線”を掲げると、チェルヴェンコフもそれに従って、消費財生産部門、農業への投資割り当てを拡大するとともに、恐怖政治を緩和して収容所からは数千名が釈放されましたが、こうした路線転換はチェルヴェンコフの権威を損ねました。

 その結果、1954年の党大会で、チェルヴェンコフに代わり、トドル・ジフコフが共産党書記長に就任。その後も、チェルヴェンコフは首相の座には留まったものの、1956年2月、ソ連でフルシチョフによるスターリン批判が行われると、同年4月、ブルガリア共産党大会は脱スターリン路線を採用するとともに、チェルヴェンコフの個人崇拝を批判し、彼を首相から副首相に降格します。

 かくして、1989年まで33年の長きにわたってブルガリアに君臨するジフコフ体制が本格的にスタートします。

 初期のジフコフ政権がフルシチョフの支持を権力の基盤としていたことを考えると、1957年10月4日のスプートニク1号の打ち上げ後早々に人工衛星を取り上げた切手を発行していてもよさそうなものですが、実際には、国際地球観測年の名目で今回ご紹介の切手を発行したのは1958年11月28日になってからのことです。これは、当時、ソ連との関係が必ずしも良好ではなかった中国ポーランドよりも遅いのですが、その背景には、1957年の時点ではスターリン主義の清算の途上にあり、プロパガンダ政策の方向性も必ずしも定まっていなかったため、記念切手の発行も後手に回ったということなのかもしれません。

 ソ連に忠実であるがゆえに、ソ連の政策転換を前に右往左往せざるを得なかった衛星国の悲哀、ということなんでしょうかね。


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 52歳になりました。
2019-01-22 Tue 02:55
 私事ながら、本日(22日)をもって52歳になりました。「だからどうした」といわれればそれまでなのですが、せっかく年に1度のことですから、“52”にちなんだおめでたい切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      慶事切手(52円)

 これは、2014年3月3日に発行された52円(消費税値上げに伴う同年4月1日以降の葉書料金に対応)の慶事用切手で、扇面に梅の文様が描かれています。

 2014年3月3日に発行された3種の慶事用切手は、いずれも、末広がりの吉兆を示す扇面の中に、縁起物とされる松竹梅の一つを配し、右上と左下に市松模様をあしらったフォーマットを採用しています。ただし、市松模様は日本の伝統的な格子模様の一つではあるものの、特に吉祥を意味しているものではありません。

 さて、松竹梅のルーツは、中国で宋代に始まった“歳寒三友”とされています。

 歳寒三友は文人画の画題としての松・竹・梅の総称で、のうちの梅は寒中に開花することから“百花の先駆け”とされるほか、花弁が5枚あることから“五福(長寿・裕福・康寧=無病息災・修好徳=道徳を楽しむ・考終命=天寿を全うする)”に通じると考えられてきました。

 これが、平安時代にわが国に伝わり、時代が下って江戸時代になると民間でも流行するようになります。ただし、日本で普及したときには、本来の意味は失われ、単に吉事・吉兆を表すものとして用いられるようになりました。

 今回ご紹介の慶事用切手では、紅梅と白梅が同じ木に咲いている図案となっており、慶事を象徴する紅白の色合わせとなっています。

 一般に、紅梅と白梅は木の種類が異なっており、花のみならず、木を切ると切り口の色も紅梅は薄紅色、白梅は白色です。しかし、例外的に、1本の枝に、白・淡い紅色・紅色・絞りの4種類の花を咲かせる品種として“思いのまま”があり、これなら、切手に描かれているような状態の梅の花を見ることも可能です。

 思いのまま”は栽培品種の1つで、別名“輪違い”。樹高は3メートルから6メートルくらいで、葉は楕円形で、互い違いに生えます。毎年2月から3月にかけて、花が先に咲き、次いで葉が開き、花の大きさは、八重咲きの中輪(20-25ミリメートル)です。


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 アタリの番号は78、42、02
2019-01-21 Mon 10:26
 “2019(平成31)年用年賀葉書及び寄附金付お年玉付年賀切手の抽せん会”が、きのう(20日)、東京・丸の内のJPタワーで行われ、お年玉切手シートの当選番号は78、42、02に決まりました。というわけで、例年どおり、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      年賀小型シート(2019)

 これは、きょう(21日)から引換が始まった今年(2019年)のお年玉切手シートです。かつて成人の日が1月15日に固定されていた時代には、年賀はがきの抽選が成人式と並ぶ1月15日の風物詩となっていたわけですが、いわゆるハッピーマンデーの導入により、成人の日が1月の第2月曜日となったことで、その前提が大きく変わってしまい、抽選日も近年は1月半ば以降の日曜日ということで毎年変わっています。

 また、かつての切手シートは、(原則として)干支の郷土玩具を描く年賀切手と同じものを収めていましたが、2017年から、通常のシート切手とは別に、“年間を通して利用できる”オリジナルデザインの切手(書状基本料金用と葉書料金用1枚ずつ)を収めた構成となりました。

 今回のシートに収められた切手は、十二支とは無関係に、縁起物の招き猫が取り上げられています。招き猫は、右手を挙げていればお金を招き、左手を挙げていれば人を招くといわれていますが、シートではそれを一対にして組み合わせた格好です。なお、切手のデザインでは“良い知らせ”が届くよう、それぞれの猫に手紙を持たせているのがミソです。干支のイノシシは、シートの余白に描かれた、松竹梅やしめ縄、小判、的に当たった矢、タイ、打出の小槌、稲穂などの縁起物の中に、しめ縄につかまった姿で描かれています。

      年賀小型シート(2019・イノシシ)

 また、今回のシートでは、右側の82円切手の右下の目打が♥型になっているほか、HAPPYおよびLUCKYの文字の切り抜き加工も施されています。(下の画像)

      年賀小型シート(2019・目打) ♥の目打

      年賀小型シート(2019happy) HAPPYの切り抜き加工

      年賀小型シート(2019Lucky) LUCKYの切り抜き加工

 なお、お年玉葉書の末等商品としての切手シートとその歴史については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取っていただけると幸いです。

 * 僕宛の今年の賀状の中では、塚田敬幸さん、二宮清純さん(50音順)から頂戴した2通がアタリでした。この場をお借りして、お礼申し上げます。

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 泰国郵便学(56)
2019-01-20 Sun 10:14
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第52巻第6号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・民族舞踊(ケーンダンス)

 これは、1977年7月14日に発行された“民俗舞踊”の切手のうち、ケーン・ダンスを取り上げた5バーツ切手です。切手上には表示がありませんが、装飾の布を肩にかけた民族衣装のスタイルから、プータイの男女が描かれているのではないかと思われます。

 民族としてのプータイは、もともと、シップソーンヂュタイやシップソーンパンナーと呼ばれる地域(現在のラオス北部やヴェトナム)に住んでいました。伝承によると、ヴィエンチャン王国に叛乱が起こったとき、プータイの長はその鎮圧に貢献し、その功により王の娘を与えられ、彼の息子が民族の長となり、本人は多くの地方都市を統治し、ヴィエンチャン王国の南部からサワンナケートにかけて勢力を拡大したとされています。

 ラーマ3世の時代、ヴィエンチャン王国はタイと戦って敗れましたが、これを機に、プータイやその他の民族は、ヴィエンチャンに加勢させないよう、メコン川の対岸、イーサーン(タイ東北部)に移住させられました。これが、現在、タイ東北部に多くのプータイが住むようになった由来ですが、その後も、ラオス北部のフアパン県サムヌア郡、南部のサワンナケート県などにはプータイの集落が残っています。

 メコン川を挟んでのタイ=ラオス関係ということでいえば、切手の発行された1977年は、ラオスからの逃亡者をめぐるトラブルから両国軍の発砲事件が頻発した年でもありました。

 1975年末のラオス人民共和国成立を契機に、ラオス国内から元閣僚らのエリート層、富豪層やタイ人や華僑などの国外逃亡が相次いだ結果、1974年に5万人ほど居住していたヴィエンチャンのタイ人は、1978年には7000-8000人にまで落ち込みました。このため、混乱の波及をおそれたタイはラオスとの国境を封鎖し、米国をはじめとする西側先進国の援助打ち切りと農業の大凶作も重なって、ラオス国内は深刻な物資不足に陥ります。

 このため、ラオス政府は、1977年、ヴェトナムと友好協力条約を締結し、ヴェトナムから資金援助や専門家派遣などを受け入れたほか、ソ連・中国との関係も強化しましたが、そのことはタイの警戒感を一層強める結果となりました。一方、旧王党派によるラオス共産政権に対する反政府活動はタイ国内に拠点を置いていましたが、ラオス側は、その背景にはタイ王室があり、タイが“反動分子”を煽動しているとの理解から、タイに対しては強い反感を抱いていました。

 さて、現在でもプータイは独自の言語・文化を維持していますが、なかでも、“ラム・プータイ”と呼ばれる独自の様式を備えた音楽と舞踊はタイで広く知られており、プータイ以外のタイ人による演奏も珍しくありません。

 プータイが多く住むナコーンパノム県のレヌーナコンでは、1997年、西洋文化の流入により伝統文化が廃れていくことへの懸念から、毎年2月14日(西洋文化の象徴としのヴァレンタイン・デー)を、あえて“プータイの日”とし、伝統文化を維持・継承するための各種イベントが行われていますが、切手に取り上げられたケーンの演奏とダンスもそのひとつです。

 なお、ケーンは日本の笙の原型にもなったとされる楽器で、吹き込んだ息でリード板(真鍮や銅、銅と銀の合金などでできていることが多い)を振動させ、竹の管で拡声する仕組みです。息を吹いても吸っても音が出ますが、一つの管は一つの音しか出せず、竹の管の指穴を塞いだところだけ音が出ます。また、竹管の数により、ケーンペーット(8対16本)、ケーンガオ(9対18本)、ケーンチェット(7対14本)、ケーンホック(3対6本。ケーンサームとも)などの種類に分けられます。


 昨日(19日)の昭和12年学会・第1回公開研究会は、無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただいた皆様、スタッフ・関係者の方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。


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 コロンビアでELNのテロ
2019-01-19 Sat 01:17
 2017年にコロンビア革命軍(FARC)との内戦が終結したコロンビアの首都、ボゴタの警察学校で17日朝、自動車爆弾テロが発生し、実行犯も含めて21人が死亡、68人が負傷した事件で、きのう(18日)、コロンビア政府は左翼ゲリラの民族解放軍(ELN)による犯行と断定しました。というわけで、というわけで、亡くなられた方の御冥福と負傷者の方の1日も早い御快癒をお祈りしつつ、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・カミーロ・トレス

 これは、1967年にキューバが発行した“第1回ラテンアメリカ連帯機構(OLAS)会議”の記念切手で、ラテンアメリカの革命烈士の例として、コロンビアのELNの活動家として殺害されたカミーロ・トーレス・レストレポが取り上げられています。

 ラテンアメリカ連帯機構会議は、1967年7月31日から8月10日まで、ラテンアメリカおよびカリブ海諸地域の27の共産党、労働党その他の革命組織の代表を集めてハバナで開催されたもので、最終的に、「武力革命をラテンアメリカにおける革命の基本的路線とする」との一般宣言を採択。“キューバ革命路線”をラテンアメリカの左派勢力にとっての正統教義として認知した会議です。

 切手に取り上げられたトーレスは、1929年2月3日、ボゴタ生まれ。当初、ボゴタの“ロサリオの聖母学院”に通っていましたが、教員を批難したことが原因で退学処分となりました。1946年、リセオ・デ・セルバンテスで中等教育課程を修了。コロンビア国立大学法学部にごく短期間在籍した後、ボゴタのコンシリアール神学校に転入し、1954年、司祭として叙階され、ベルギーのルーヴェン・カトリック大学に留学しました。

 帰国後、研究者としてコロンビア国立大学に籍を置きながら、貧困の根本的な解決と労働者階級への積極的な支援を訴え、さらに、絶望的な社会的格差を解消して社会正義を確立するためには、キリスト教徒は武装闘争に加わらなければならないと主張。1960年には、オルランド・ファルス・ボルダたちとともに、同大でラテンアメリカ最初の社会学部の設立者の一人となりましたが、その急進的な主張に対しては毀誉褒貶が激しく、ついには大学を辞して、1965年、コロンビアの左翼ゲリラ組織、民族革命軍(ELN)に参加しました。

 ELNは、マルクス・レーニン主義による反米・親キューバ路線を掲げて、爆弾テロや誘拐を実行していた組織で、トーレスは一ゲリラとして非合法の地下活動に従事し、1966年2月15日、コロンビア政府軍との戦闘で殺害され、ELNの“殉教者”となりました。

 カトリックの司祭からゲリラへの転身という異色の経歴もさることながら、トーレスを広く世に知らしめたのは、「もしイエスが生きていたら、ゲリラになっていただろう」との言葉です。この言葉は、ラテンアメリカでは広く人口に膾炙し、1970年代にペルーのグスタボ・グティエレスが著書『解放の神学:歴史、政治、救い』で体系化した“解放の神学(従来の欧米のキリスト教神学は白人の神学ないしはブルジョアジーの神学の制約を脱することができないとして、これを否定し、被抑圧・被差別人民の解放こそキリスト教の福音の本質であるとする現代キリスト教神学の一潮流)”の源流の一つとされています。

 ちなみに、OLAS会議が開催された1967年7月の時点では、カストロ政権は、キューバでの閣僚の地位を捨て、ボリビアでのゲリラ活動に従事するゲバラを“革命のキリスト”として神格化することで、革命キューバの正統性をアピールするようになっていました。トーレスの肖像切手と、そこから連想される「もしイエスが生きていたら、ゲリラになっていただろう」との言葉は、そうしたを側面からサポートする役割を担うものだったとみることができましょう。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラと同時代のラテンアメリカ諸国の左派勢力とキューバとの関係についても、いろいろとまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。


★★ 昭和12年学会・第1回公開研究会 ★★

 1月19日(土)、14:00-17:30、東京・神保町のハロー貸会議室 神保町で、昭和12年学会の第1回公開研究会が開催されます。内藤は、チャンネルくららでおなじみの柏原竜一先生とともに登壇し、「昭和切手の発行」(仮題)としてお話しする予定です。

 参加費は、会員が1000円、非会員が3000円。皆様、よろしくお願いします。 


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

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 ホンジュラスから移民集団が北上中
2019-01-18 Fri 03:45
 中米ホンジュラス・サンペドロスーラ市で、15日(現地時間。以下同)、貧困を逃れて米国を目指す約500人の移民キャラバン隊が結成され、遺跡で有名なコパン県およびオコテペケ県の国境検問所からグアテマラに入り、16日までにグアテマラ=メキシコ国境に到着。現地では緊張が高まっているそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ホンジュラス・コパン遺跡地図

 これは、1946年、ホンジュラスの首都、テグシガルパで開催された“第1回カリブ国際考古学会議”の記念切手で、ホンジュラス地図を背景に、コパン遺跡のイメージがデザインされています。地図には、会議の開催地であるテグシガルパの位置とコパン遺跡の位置が記されていますが、これを見ると、コパン遺跡がグアテマラとの国境地帯に位置していることがわかります。今回の移民キャラバンは、この国境を越えて北上し、メキシコ方面へ向かったわけです。

 さて、ホンジュラス西部、モタグァ川(ホンジュラスとグアテマラの国境を流れる川)支流であるコパン川によって形成されるコパン谷では、紀元前1400年ごろから人類が集落を形成して居住していました。

 この地で栄えたコパン王朝は、紀元後435 年、キニチ・ヤシュ・クック・モ・チャン・ヨアート王によって建国されましたが、この王は、メキシコ高原、なかでテオティワカン(紀元前2-紀元後6世紀にかけて繁栄した宗教都市)と関係が深かったと考えられています。ただし、彼以降、第7代王までの王朝初期の詳細は分かっていません。

 コパン王朝が中米のマヤ文明を代表する王国へと発展したのは、第10代王の月ジャガーが即位した553年以降のことで、628年に即位した第12代王の煙イミシュの治世下で、王国の支配地域はコパン谷の外側にも拡大。695 年に即位した第13代王ワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの時代は、コパンでは独自の高浮き彫りや丸彫りの技術が生み出され、独特の様式を持つ石像彫刻が多く作られるなど、コパンの古典文化が花開きます。

 ところが、コパンの衛星都市のひとつで、モタグァ川中流域を拠点としていたキリグアの王、カック・ティリウ・チャン・ヨアートがコパンに対して叛乱を起こすと、738年、コパンはキリグアに敗れ、ワシャック・ラフン・ウバク・カウィール王は捕虜として斬首されてしまいます。その後、カック・ティリウはモタグァ川流域の交易を独占することに成功し、宗主国であるコパンの王を僭称するようになりました。

 以後、コパンの勢力は急速に衰退。9世紀前半、第16代王ヤシュ・パッサフ・チャン・ヨアートを事実上の最後の王としてコパン王朝は崩壊します。なお、コパン遺跡の祭壇のレリーフには第17代王のウキト・トークの名がありますが、彼が実際に王として即位したか否かについては史料的な裏付けが取れていません。


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 イエメンに停戦監視団
2019-01-17 Thu 01:50
 国連安保理は、きのう(16日)、昨年12月にスウェーデンで行われたイエメン内戦の和平協議での合意を支援し、停戦監視のための特別政治派遣団を半年間配備する英主導の決議案を全会一致で採択しました。というわけで、イエメンと英国の歴史的な関係を示すものとして、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      南アラビア連邦・カバー

 これは、かつてイエメン南部に存在した英保護領、南アラビア連邦が発行した赤十字100年の記念切手が貼られた国内便のカバーです。

 アラビア半島の南岸、現在のイエメン共和国南部は、かつては群小首長国が割拠する地域でしたが、19世紀、首長国同士の争いに調停者として介入した英国は、インドとのシーレーン上の重要拠点であるアデン港を直轄植民地としたほか、周囲の首長国を保護領としました。ただし、英国はアデン港を確保しさえすればよいとの方針であったため、周辺の首長国に対しては年金を支給して懐柔し、アデンを攻撃しない限りにおいては放任するとの姿勢をとっていました。

 1956年、エジプトのナセル政権がスエズ運河を国有化し、英仏の干渉を退けて第二次中東戦争に勝利すると、ナセルの掲げるアラブ民族主義の権威はアラブ世界で絶大なものとなり、1958年にはイエメン王国(現在のイエメン共和国北部)がアラブ連合に加盟し、“占領されたアデン”の奪還を主張してアデン保護領に駐留の英軍を攻撃し始めます。

 このため、1959年、英国はアデン保護領の首長たちを徐々に組織化し、南アラブ首長国連邦を結成。さらに、1960年の国連総会で「植民地独立付与宣言」が決議されたことを受けて、1962年には南アラブ首長国連邦を南アラビア連邦に発展させました。

 さらに、1962年9月、北イエメンで、イマーム・アフマドの死に伴う政権交代の隙をつくかたちでクーデターが発生し、伝統的なザイド派(シーア派の一派)イスラムに基づく王朝が倒れ、“イエメン・アラブ共和国”の革命政権が樹立されます。

 王党派がサウジアラビアとの国境を越えた山岳地帯に逃れて抵抗を続けると、革命政権はエジプトに支援を要請。これに対して、サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じて王党派を支援し、イエメン内戦は、エジプトとサウジアラビアの代理戦争として展開することになります。

 このため、内戦が南アラビア連邦に波及することを恐れた英国は、1963年、直轄植民地のアデン港も同連邦に加盟させ、外交と防衛を除く自治権を与えたうえで、1968年までの独立を約束しました。

 ところが、ある程度近代化されたアデンとそれ以外の首長国との間の文化的・経済的格差が大きかったことから、アデン住民は南アラビア連邦に組み込まれたことに強く反発。一部は、占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)や、南イエメン民族解放戦線(NLF)などの武装組織を結成し、英国人の立法評議会議長や親英派アラブへのテロを展開します。

 その後、より急進的な社会主義路線を掲げるNLFが勢力を拡大し、1967年10月、アデン港を占領。11月には英国は南イエメンから撤退して南アラビア連邦は解体され、代わってハドラマウト保護領やカラマン島などを加えた英領アデ ン全域は、NLFの下で社会主義政権の“南イエメン人民共和国”として独立。以後、1990年の南北イエメン統一まで存続することになります。


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 ケニアでホテル襲撃のテロ
2019-01-16 Wed 01:44
 ケニアの首都ナイロビで、きのう(15日)、武装集団がリバーサイドの高級ホテル周辺を襲撃するテロ事件が発生。この記事を書いている時点で、少なくとも1人が死亡、負傷者8人が病院に搬送されました。ケニアの隣国ソマリアを拠点とするイスラム過激派アルシャバーブが犯行声明を出していますが、現時点では、真偽は不明です。というわけで、亡くなられた方の御冥福と負傷者の方の1日も早い御快癒をお祈りしつつ、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英保護領東アフリカ
      
 これは、1896年、現在のケニアの地域に相当する英保護領東アフリカで発行された1アンナ切手です。

 近代以前の東アフリカのインド洋沿岸部はザンジバルの支配下に置かれていましたが、1840年代以降、ザンジバルのスルターンの保護の下にヨーロッパ人宣教師がモンバサの海岸周辺から内陸に向かって入植するようになります。こうした状況の下、1872年、スコットランド出身のウィリアム・マッキノン率いる英領インド汽船会社(以下BI)がザンジバルへの航路を開設。これを機に、同社はアフリカ大陸内陸への進出を計画しました。

 1884-85年のベルリン会議では、アフリカ分割の原則として、沿岸部を領有した国には後背地の領有権が認められると、すでに1884年にブルンディを植民地化していたドイツは、1886年、東アフリカ南部の領有を企図して、ザンジバルに艦隊を派遣。これに対して、ザンジバルは英国に支援を要請し、英国も派兵したため、フランスを交えた3国の協議の結果、同年、東アフリカ南部(現在のタンザニアの大陸部分に相当する地域)をドイツ領とし、北部(現在のケニアに相当する地域)を英領とすることで決着が図られました。

 こうして東アフリカに植民地を得た英国でしたが、当時は国策としてアフリカ大陸南部の権益確保に注力していたため、東アフリカに目を向ける余裕は乏しく、マッキノンのBIがアフリカ東部での勢力圏建設を担当することになります。

 そこで、マッキノンは1888年、勅許会社の英国東アフリカ会社(IBEA)を設立し、ヴィクトリア湖北岸のブガンダ王国の領域(現在のウガンダの領域にほぼ相当)にも勢力を拡大しました。IBEAはモンバサからヴィクトリア湖に至るウガンダ鉄道の建設や農地開発などにも着手し、1894年にはブガンダ王国を保護国化し、英領ウガンダ植民地としています。

 この間、IBEAは、1890年5月、モンバサとラムに郵便局を開設。本国切手に“BRITISH EAST AFRICA COMPANY”と加刷した切手を発行しました。これが、現在のケニアの地における近代郵便の始まりとなります。その後、同年8月から9月にかけて、加刷切手の在庫切れにより英領インド切手を暫定的に使用した時期を経て、10月14日には、IBEAとしての正刷切手も発行されました。

 しかし、ブガンダ王国の有力者や各地の宣教師たちとの対立もあって、IBEAは十分な植民地経営ができず、その収支は悪化。このため、1895年7月1日、イギリス政府は東アフリカの保護領化を宣言し、英国外務省の管轄としました。今回ご紹介の切手はこれに伴い発行されたものです。

 その後、第一次大戦を経て、ドイツ領東アフリカの解体に伴う植民地の再編により、1920年、英保護領東アフリカは本国直轄のケニア植民地となります。同植民地では、1952年、英国が白人入植事業で肥沃な土地が集中するケニア山周辺をギクユ人からとりあげたことへの抗議から“マウマウ団の乱”が発生。これを機に、反乱を指導したケニア・アフリカ同盟(KAU)の中心メンバーによってケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、1963年、独立が達せられることになります。


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 苺の日
2019-01-15 Tue 12:54
 きょう(15日)は、“いいいちご(115)”の語呂合わせで“苺の日”です。というわけで、きょうは苺ネタのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・苺とチョコレート

 これは、2009年、革命後の全キューバ映画の制作・上映を管理してきたキューバ芸術・映画産業庁(ICAIC)の創立50年を記念して発行された“キューバ映画”の切手のうち、1994年に公開のキューバ・メキシコ・スペイン合作映画『苺とチョコレート』を取り上げた切手シートです。

 『苺とチョコレート』は、共産主義青年同盟(UJS)のメンバーで、(キューバ式)共産主義を信奉する男子学生ダビドと自由主義者で(自称)芸術家のゲイ男性ディエゴとの友情が主題になっています。

 物語は、ハバナのカフェでダビドがチョコレートアイスを食べている時、苺アイスを持ったディエゴから「君のスキャンダル写真を持っている」と声をかけられるところから始まります。写真を返してもらいたいダビドは、しぶしぶ、ディエゴのアパートに向かうと、彼の部屋には、ダビドが理解できないような奇妙な物が並べられており、ディエゴの自由主義的な思想や態度とあいまって、ダビドはおおいに不審を抱きます。学生寮に戻った彼は、UJSの友人ミゲルに相談し、ディエゴを“同性愛者のスパイ”とみなして監視のためにつき合うようになりました。

 しかし、ダビドは、やがて、インテリであり、純粋で温かい人柄と芸術への熱意の持ち主であるディエゴに理解を示し、真の友情をはぐくみますが、最終的に、ディエゴは“同性愛者”として国を追われることになります。そして、2人は彼らが最初に出会ったカフェでお互いのチョコレートアイスとイチゴアイスを交換して食べる場面で幕となります。

 革命当初、カストロ、ゲバラ以下、同性愛(者)を激しく嫌悪していた政府首脳部は、カトリックの価値観を背景に同性愛に対する差別感情が強かった一般市民の支持も得て、同性愛を刑法の規定する“公的破廉恥行為”として処罰の対象としていました。その結果、同性愛者であることが発覚した者は矯正センターに送られて再教育されたり、亡命を余儀なくされることも少なくありませんでした。

 1981年になって、ようやく、文化省が“性の多様性”の観点から、同性愛の排斥を非とする声明を発し、1993年にはカストロも同性愛を(消極的に)容認する姿勢を示すようになったものの、現在なお、キューバでは同性愛者に対する有形無形の差別・迫害は根強く残っているとされています。

 映画『苺とチョコレート』はそうした社会的な背景の下で制作されたもので、各種の国際映画賞でも高い評価を得て、現代キューバを代表する映画作品と見なされるようになり、その結果として、今回ご紹介の切手シートにも取り上げられたというわけです。

 ところで、切手シートには映画の内容を紹介するため、4つの場面が取り上げられていますが、右下には、ダビド役のウラディミール・クルスが「英雄的ゲリラ」の掲げられた部屋にいる場面が取り上げられている点も見逃せません。(下にその部分をトリミングして貼っておきます)

      キューバ・苺とチョコレート

 ここでの「英雄的ゲリラ」は、ダビドがUJSのメンバーであり、キューバ政府の考える“正しき青年”であり、確固たる共産主義者であることを暗示する小道具として用いられているのは明らかで、ゲバラの死後、“革命のキリスト像”ともいうべき「英雄的ゲリラ」がどのようにキューバ社会で活用されてきたかを考えるうえで、なかなか興味深いものがあります。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラの死後、彼の肖像がどのように使われ、定着していったかということについてもまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 成人の日
2019-01-14 Mon 01:53
 きょう(14日)は成人の日です。というわけで、若者関連の切手の中から、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・UJC45年

 これは、2007年にキューバで発行された“共産主義青年同盟(UJC:Unión de Jóvenes Comunistas)の45周年”の記念切手で、左から、フリオ・アントニオ・メリャ、カミーロ・シエンフエゴス、チェ・ゲバラの横顔の肖像が取り上げられています。なお、UJCの現在のエンブレムは、この3人の横顔をイラスト化したものですが(下の画像)、切手ではその組み合わせを写真で表現しています。

      キューバ・UJCロゴ

 1959年の革命後のキューバにおける青年組織としては、1960年に設立された革命青年協会が最初です。その後、1962年4月、革命青年協会の第1回全国大会が開催され、組織名を共産主義青年同盟に改称することが承認されると、これに伴い、ビルヒリオ・マルティネスにより、新たなエンブレムが制作されることになりました。

 マルティネスは、1931年4月27日、ハバナ生まれ。1949年、商業美術家としてデビューした後は、商業誌での活動のかたわら、反バティスタの地下出版でバティスタ批判の風刺漫画を描いていました。1955-59年、左派系の雑誌『メリャ』誌に、擬人化された犬のプーチョを主人公とする冒険物語『プーチョ』を連載。後に、そこから派生した漫画『クーチョ』は現代キューバを代表するコミック作品となります。

 当初、マルティネスの制作した同盟のエンブレムは、UJCの文字の入った円と星を背景に、1920年代の旧キューバ共産党の共同設立者で、大学学生連合を設立したフリオ・アントニオ・メリャ(1929年没。享年26)と、早逝したキューバ革命の英雄、カミーロ・シエンフエゴス(1959年没。享年27歳)の肖像を並置したもので、背後には、青年同盟のスローガンである学習・労働・銃(=革命軍)の語と、それに対応した白(学習)・青(労働)・濃緑(銃)の旗が配されていました。ただし、この時点ではゲバラはキューバ政府の現職閣僚であったこともあり、彼のチェの肖像は含まれていません。

 1965年、現在のキューバ共産党が創設され、青年同盟はその下部組織になりましたが、エンブレムは従来のものがそのまま使われていました。ところが、1967年にゲバラが亡くなると、急遽、ゲバラの肖像を最前面に加え、ついで、カミーロ、メリャの順で並べた現在のデザインに変更されました。このデザインでは、チェの肖像が最前面に出ていることから、キューバ政府としては、3人の中でチェを最も重要視していることがうかがえます。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラの死後、彼の肖像がどのように使われ、定着していったかということについてもまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
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 切手に見るソウルと韓国:全羅南道の宝城茶畑
2019-01-13 Sun 00:44
 ご報告が遅くなりましたが、、『東洋経済日報』12月21日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、現在、全羅南道の宝城で開催中(本日・1月13日まで)の“宝城茶畑光祭り”にちなんで、こんな切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・宝城茶畑

 これは、2011年に発行された“韓国の美しい観光地”の切手のうち、宝城の茶畑を取り上げた1枚です。

 もともと、宝城の地は馬韓地域に属していましたが、百済の近肖古王(在位346-75)の時代、百済に併合され“伏忽”と呼ばるようになりました。新羅の景徳王16(757年)、郡県の名称が中国式に改められた際、伏忽は“宝城郡”と改称され、高麗時代の成宗14年(995年)、いったん、貝州(別号:山陽)と改称されたものの、顯宗9年(1018年)の行政改革で、宝城郡の旧称に復し、現在に至っています。

 この間、新羅・興徳王(在位826-36年)の治世下で、中国大陸から朝鮮に喫茶の習慣が伝来。この時の茶は唐の影響もあり、煎茶や団茶でしたが、茶は非常に効果で、宮廷や貴族、僧侶は嗜むことができたものの、庶民にとっては縁遠いものでした。

 高麗時代には仏教とともに茶の文化も繁栄し、慶尚南道や全羅北道の寺院では茶の栽培も行われていました。しかし、喫茶の風習はもっぱら上流階級がたしなむものという事情は変わらず、大衆化しなかったため、朝鮮王朝時代に仏教が衰退すると、茶の生産量も激減して喫茶は廃れ、外国の使臣には人参茶などの茶外茶(チャノキ以外の植物などから作られる飲料)が普及します。

 朝鮮で喫茶の風習を再興しようとする動きが出てきたのは19世紀以降のことで、緑茶が登場するのは、開国後、日本人が本格的に朝鮮半島に進出するようになってからのことです。

 日本統治時代の1911年、光州市の證心寺近くの斜面に日本人が茶園を作り、翌1912年には静岡式の製茶施設も導入されました。さらに、1913年には井邑市に2700坪の茶園が作られ、大阪向けの輸出も始まります。

 その後も緑茶の消費量も増加したため、1939年、朝鮮総督府林業試験場の提案を受けて、京城化学工業(関西ペイントが1938年に設立)が宝城郡に27万坪の大規模茶園を造成。これが、茶所・宝城の原点です。

 1945年、日本人が朝鮮半島から撤退し、米軍政が始まると、緑茶に代わり、コーヒー、紅茶の需要が高まり、南部の沿岸地域で僧侶らが釜炒緑茶や発酵茶を細々と生産するだけとなりました。しかし、朝鮮戦争休戦後の復興政策の一環として、輸入商品であるコーヒーの需要を抑えることで外貨の流出を防ぐ代わりに、代替商品として国産茶の飲用を奨励する必要が生じ、1957年、放置されたままになっていた宝城の茶園一帯の払い下げを受けて大韓紅茶が設立されました。

 さらに、1961年に発足した朴正熙政権は外来品特別取締法を制定し、紅茶の輸入を全面禁止したため、国産紅茶の需要が急増。その反面、粗悪な紅茶が流通し、はなはだしくは、柿やサツマイモの葉を混ぜた詐欺まがいの商品さえあったため、政府が紅茶の輸入を制限付きながら認めたましが、紅茶に対する韓国民の信頼は大きく損なわれました。

 こうしたこともあり、朝鮮人参茶などの茶外茶と並行して、1970年代以降、緑茶が見直されていきます。また、1972年、日本が台湾との国交を断絶し、日本市場で台湾産緑茶が流通しなくなった穴を埋めるため、1978年まで丸紅が韓国産の緑茶を輸入するようになり、韓国の緑茶生産は飛躍的に増加しました。

 現在、宝城地区の茶園は約150万坪にまで拡大し、韓国最大の茶所(緑茶の国内生産の35%が宝城産)に成長。なかでも、大韓茶業観光農園は国内唯一の茶観光農園として、2011年には今回ご紹介の観光宣伝の切手にも取り上げられたほか、ドラマ『夏の香り』の舞台となったこともあり、毎年5-6月の茶畑が美しい時期には多くの観光客で賑わっています。また、年末年始の宝城茶畑光祭りは、冬季の観光客減少対策として2003年から始まったイベントで、段々畑を約200万個のLED電球でライトアップするもので、年末年始の風物詩として定着しています。


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 1月19日(土)、14:00-17:30、東京・神保町のハロー貸会議室 神保町で、昭和12年学会の第1回公開研究会が開催されます。内藤は、チャンネルくららでおなじみの柏原竜一先生とともに登壇し、「昭和切手の発行」(仮題)としてお話しする予定です。

 参加費は、会員が1000円、非会員が3000円。皆様、よろしくお願いします。 


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 皇帝マクシミリアン1世没後500年
2019-01-12 Sat 02:02
 1519年1月12日に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が亡くなってから、きょうでちょうど500年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      オーストリア・皇帝マクシミリアン展

 これは、マクシミリアン1世没後450年を記念して、1969年5月30日から10月5日までインスブルックで開催された“皇帝マクシミリアン1世展”を記念して、会期中の6月4日、オーストリアが発行した切手で、マクシミリアン1世の甲冑が取り上げられています。

 マクシミリアン1世は、1459年3月22日、ハプスブルク家の皇帝フリードリヒ3世の子として、ウィーナーノイシュタットで生まれました。

 1477年、ブルゴーニュ公シャルルの戦没後、その嗣子マリアと結婚したことで、東部ブルゴーニュとネーデルラントを獲得しました。1482年3月、マリアが亡くなると、マクシミリアンを排除し、彼女との子、フィリップにブルゴーニュ公を継承させようとするネーデルラントの叛乱が発生しましたが、マクシミリアンは叛乱の中心にあったガン、ブリュージュを攻略して権威を回復し、1882年中にネーデルラントをハプスブルク家の領土として確保します。

 この実績が認められ、1486年、オスマン帝国の北上からキリスト教世界を防衛する責務を与えられ、アーヘンで、神聖ローマ皇帝の後継者としての“ローマ王”となります。そして、オーストリアに戻ってハンガリー・オスマン連合軍と戦い、ウィーンを奪回。さらに、ハンガリー領内に攻め込み、ボヘミア・ハンガリー王位を回復しました。

 ローマ王としてのマクシミリアンは、1489年、イタリアの飛脚業者であったタッシス家(ドイツ語読みはタクシス家)と専属契約を結び、郵便物逓送を請け負わせます。その後、彼らの郵便網はハプスブルク家のみならず、貴族や聖職者の通信なども運ぶようになり、古代ローマ帝国の駅逓制度に倣った郵便ネットワークが神聖ローマ帝国の領内に構築されていきました。

 ちなみに、当初、タクシス家の郵便網は38キロごとに宿駅を設けることになっていましたが、1505年の契約では30キロごとに、1587年の契約では22キロごとに、さらに、17世紀初頭には15キロごとに設けられるようになり、ハプスブルク家はヨーロッパにおける情報通信を把握していきます。

 さて、1493年、父フリードリヒ3世の死去に伴い、マクシミリアンは神聖ローマ皇帝に選出されましたが、1508年、正式に神聖ローマ皇帝としての戴冠式を行うためローマに行こうとしたものの、ヴェネツィアに阻まれたため、やむなく途中のトレントで戴冠式を行いました。以後、ハプルブルクの神聖ローマ皇帝はローマでの戴冠式を行わなくなります、

 さらに、マクシミリアンは、バイエルンに併合されそうになっていたチロル地方を継承し、オーストリアを統一。チロル地方の銀山を支配し、金融をおさえていたフッガー家との関係を築いてハプスブルク家の財政基盤を確立すとともに、王宮をウィーンからチロル地方のインスブルックに移しました。今回ご紹介の切手の主題である“皇帝マクシミリアン1世展”が、ウィーンではなく、インスブルックで開催されたのはこのためです。

 1493年、ミラノ公国のスフォルツァ家公女ビアンカと再婚。翌1494年にフランス王シャルル8世の北イタリア侵入でイタリア戦争が始まると、1495年、戦費を調達し、ドイツ諸侯の援助を受けるため、ヴォルムスの帝国議会でマインツ大司教ベルトルト・フォン・ヘンネベルクらの帝国改革案を一部受入れ、帝国内諸侯間の抗争を不法とする“永久平和令”を発布し、また帝国 (最高) 法院の常設、帝国統治院の設置、全国徴税制などを実施しました。しかし、北イタリア支配をめぐるイタリア戦争では成果をあげられず、1499年にはスイスも失いました。

 ところで、マクシミリアンは、自らがブルゴーニュ公国のマリアと結婚してネーデルラントを領有した経験から、戦いによってではなく、婚姻政策によって領地を拡大することを家訓としました。具体的には、1496年、息子のフィリップをスペイン王女ファナ(フェルナンドとイザベルの娘)と結婚させ、フィリップとファナの間に生まれたカルロスがスペイン王位を継承してカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)になります。また、孫娘マリアをベーメン王にしてハンガリー王子のルドヴィクと結婚させましたが、ベーメン・ハンガリー王となったルドウィクが1526年にオスマン帝国と戦いで子のないまま戦死すると、その所領はハプスブルク家領として、カルロスの弟フェルディナントが相続しています。こうして、ハプスブルク家の支配は、現在の国名でいうと、オーストリア、スペイン、ベルギー、オランダ、イタリア南部、チェコ、ハンガリールーマニアポーランドウクライナ等に及ぶ広大な領域に拡大していきました。


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 コンゴ大統領選、野党候補の勝利発表
2019-01-11 Fri 03:05
 アフリカ中部コンゴ民主共和国(旧ザイール)の選管は、きのう(10日)、昨年12月30日に行われた大統領選の開票結果について、野党“民主社会進歩同盟(UDPS)”のフェリクス・チセケディ党首が38.57%で当選、別の野党候補の実業家マルタン・ファユル氏が34.8%で2位、ジョゼフ・カビラ大統領の後継候補ラマザニ前内相は23.8%で3位だったと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      コンゴ・国家宮殿

 これは、1964年、“コンゴ共和国時代”時代に発行された国家宮殿(現大統領官邸)の切手です。

 キンシャサの国家宮殿は、もともとは、ベルギー植民地時代末期の1956年、ベルギー本国テルヒューレンの王立中央アフリカ博物館をモデルに、植民地総督の公邸として建設されました。

 1960年、ベルギー領コンゴがコンゴ共和国として独立した際には、初代首相のパトリス・ルムンバがここで植民地支配の終焉を宣言。その後、中国の支援で人民宮殿(現在の国会議事堂)が完成するまで、国会議事堂としても利用されていました。

 さて、2001年、ローラン・カビラ大統領が暗殺されると、息子のジョゼフ・カビラが29歳の若さで大統領に就任。ジョゼフは、2003年、2大反政府勢力のコンゴ民主連合ゴマ派(RCDゴマ)とコンゴ解放運動 (MLC) の指導者2人を含む4人を副大統領とする暫定政権を樹立し、政権の安定化を図ります。そして、2006年には新憲法を施行して大統領選挙を実施し、対立候補のジャンピエール・ベンバを下して大統領に当選。2011年の選挙でも再選されました。

 しかし、2016年12月19日に任期満了となったものの、ジョゼフは大統領選の延期を繰り返すことで政権に居座り続けたため、国内では抗議デモが発生し、治安部隊の反撃により死者も発生しました。このため、いったんは与野党間で2017年末までに大統領選を実施することで合意が成立したものの、選管は有権者登録の遅れを理由に選挙実施を2018年4月以降に延期していました。

 その後、2018年8月8日、ジョゼフは後継候補にラマザニ前副首相兼内務・治安相を指名したことを明らかにし、併せて12月に予定される大統領選挙に出馬しないと発表。ジョゼフとしては、ラマザニを大統領に当選させたのちは、みずからは首相に就任し、2023年の大統領選で返り咲くという“プーチン方式”を目論んでいたとされていますが、今回の選挙結果で、それは潰えたことになります。

 なお、今回の大統領選挙の結果に関しては、コンゴ国内で最も信頼できる有力機関とされ、4万人の選挙監視員を展開させたカトリック教会の独自集計では、事前の世論調査でトップだったファユル候補が最も得票が多かったとされているほか、関係各国からも選管の発表した選挙結果を疑問視する声が相次いでいます。また、ファユル氏支持者の多い西部キクウィトでは、きのう(10日)、選管結果を不満とする抗議行動が発生し、警察の介入により死者が出るなど混乱が続いており、今回ご紹介の切手の国家宮殿が新たな主を正式に迎え入れるには、まだ紆余曲折がありそうです。


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 ヴォドンの大祭
2019-01-10 Thu 00:50
 きょう(10日)は年に一度のヴォドゥン(ヴードゥー教)の大祭の日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ベナン・グレレの印章

 これは、ヴォドゥンの信仰に基づくダホメ王グレレの印章を取り上げたダホメ(現ベナン)の切手です。

 西アフリカおよびカリブ海地域のアフリカ系黒人の間で広く信仰されているヴォドゥンは、もともと、ベナンの最大民族であるフォン人の言葉で“精霊”を意味する言葉です。

 もともと、ヴォドゥン信仰は、西アフリカにおける太鼓を使った歌舞音曲や動物の生贄、シャーマンによる降霊などの儀式を伴う精霊信仰がその原型だったと考えられており、ベナンのフォン人のみならず、ナイジェリアのヨルバ人、トーゴのミナ人・カブイェ人、トーゴおよびガーナのエウェ人などの間で広く信仰を集めていました。

 現在のベナン国家のルーツにあたる旧ダホメ王国は奴隷貿易を行っていましたが、その支配下からカリブ海地域へ送られたフォン人伝来の精霊信仰がカトリックと習合する過程で、ヴォドゥンは“ヴードゥー”に転訛し、この名称が世界的に定着することになりました。

 なお、カリブのヴードゥーは、ハイチのマルーン(プランテーションからの逃亡奴隷)の指導者であったフランソワ・マッカンダルが発展させたもので、奴隷の信仰として、白人による弾圧を逃れる必要から、伝統的な精霊信仰に聖母マリアなどのキリスト教の聖人崇敬を組み込んでいるのが一つの特色です。このため、西アフリカの伝統的な精霊信仰とはやや趣を異にしていますが、一般には、両者は一括して “ヴードゥー”と呼ばれることも少なくありません。

 ヴォドゥンの信仰や文化は、西アフリカの自然や生活の中から生まれたもので、統一的な教義や教典はなく、組織化された教団もないため、民族・地域により大きな差があります。また、いわゆる布教活動も行われていません。このため、日本の宗教法人法によればヴォドゥンは“宗教”に該当しないことになります。

 しかし、ヴォドゥンを国教に指定しているベナン以外にも、2003年にはハイチのカトリック大司教もヴードゥーを“宗教”として認知していますし、ヴォドゥンを宗教もしくはそれに準じる民間信仰と認定している国も数多くあります。なお、ヴォドゥンおよび類似の信仰を有している人口は全世界で5000万人以上と推定されており、その規模は約3000万人といわれるチベット仏教をはるかに凌駕していることは見逃してはならないでしょう。

 さて、旧ダホメ王国の王には、それぞれ、ヴォドゥンの信仰を反映した印章が決められており、王の衣服などに使われていました。今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、そのうちのダホメ王グレレ(在位1858-89)のもので、“ライオンと剣”がデザインされています。この印章に取り上げられた剣は、ヴォドゥンで鉄と火の神とされているグーから賜ったものとされており、王権の正統性の根拠とみなされていました。


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 パナマ・殉教者の日
2019-01-09 Wed 09:58
 きょう(9日)は、中米のパナマでは、1964年のパナマ事件の死者を悼む“殉教者の日”として祝日になっています。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      運河地帯のパナマ国旗

 これは、1979年10月1日にパナマ運河と運河地帯米国との共同統治となったことを記念して、1980年、パナマが発行した切手で、運河地帯に翻るパナマ国旗が取り上げられています。

 1914年8月15日にパナマ運河が開通すると、運河収入はパナマに帰属するものの、運河地帯の施政権と運河の管理権は米国に帰属するものとされ、さらに、運河地帯両岸の永久租借地には米軍施設がおかれ、南米における米国の軍事拠点として機能することになりました。

 これに対して、1956年にエジプトがスエズ運河を国有化すると、パナマでも運河の国有化要求が高まります。

 ところで、パナマ運河条約の下では、運河地帯でのパナマ国旗の掲揚は禁止されていましたが、そのことは、パナマ人の反米感情を増幅させる要因の一つとなっていました。

 たとえば、1959年11月、独立記念日にデモを行ったパナマ大学の学生たちは、米国大使館前で抗議行動を行った後、運河地帯に侵入してパナマ国旗を掲げようとして米陸軍部隊と衝突。これにより、80名以上の死傷者が発生し、さらに、マーチャント国務次官の訪問に抗議して6000人がデモを行ったため、アイゼンハワーは境界線地区に限り、両国の国旗を掲げることで妥協をはかっています。

 また、1960年9月、ケネディは軍事施設を除くすべての運河地帯施設へのパナマ国旗の掲揚を許可し、学校・病院などは国旗の掲揚そのものを自粛することを指示すなど、パナマの国民感情に配慮を示しましたが、上院米州委員会委員長のダニエル・フレイドは「たとえパナマ国旗を掲げても、屋根はわれわれのものだ」と発言し、大統領に対する強い不満を表明しています。

 こうした背景の下、1964年1月9日、運河地域内のバルボア高校で、米国人の保守系学生が星条旗を掲揚すると、これに対抗してパナマ人学生200名が、パナマ国旗を星条旗と並べて掲揚するよう要求してデモを敢行。その過程で、パナマ国旗を掲揚しようとしたパナマ人学生代表6人に対して米国人集団が暴行し、パナマ国旗を引き裂いたため、パナマ市民数千人が境界線に殺到。鉄道駅を襲撃し、パンナム・ビルを焼打ちするなどの騒擾状態となり、米軍は狙撃班を配置して無差別射撃を指令しました。これが、いわゆる“パナマ国旗事件”です。

 翌10日には、暴動はコロンにも拡大し、境界地帯のいたるところで放火、発砲事件が発生。2日間で死者27名、負傷者400名以上の惨事となりました。

 さらに、11日には抗議デモが10万人規模に拡大したため、米国は運河地帯への交通を完全に遮断。これに対して、パナマ大統領のロベルト・チアリが米国との国交を断絶し、事件の処理をめぐり国連安保理に提訴したため、米州機構理事会ならびに国連の緊急安保理が開催されました。

 その結果、3月21日、米大統領ジョンソンがパナマ問題で譲歩の姿勢を示すと、4月3日、チアリは米国との国交回復案を受諾し、新運河条約をめざし交渉を開始することで合意。5月のパナマ大統領選挙では、反米色の強いアルヌルフォ・アリアス・マドリードが当選したものの、米国の意を汲んだ国家警備隊は彼の大統領就任を実力で阻止し、チアリの支持を受けた前国家警備隊長官で保守派のマルコ・ロブレスが勝利宣言を行いました。そして、これに抗議するアルヌルフォ派の街頭デモで3人の死者が出るなど、10月のロブレスの大統領就任の前後まで、混乱が続きました。

 こうして発足したロブレス政権は、1967年、米国とのパナマ新運河条約の草案を発表。ところが、1968年の軍事クーデターによってオマル・トリホスが権力を掌握すると、1970年、民族主義を掲げるトリホスは、国民の支持を背景に1967年の新運河条約草案を破棄するとともに、1972年には新憲法を制定して独裁体制を構築しました。

 その後、トリホス政権は運河地帯の主権を回復すべく、キューバにも接近するなどして米国に揺さぶりをかけるとともに、1973年の国連安全保障理事会では、パナマ運河の主権はパナマにあることを確認させ、パナマの主権を尊重した新条約の成立を勧告する決議案を提案させます。この決議案は米国の拒否権により否決されましたが、その後、1977年9月7日にトリホスは米国のカーター政権と、1999年の運河返還を決めた新パナマ運河条約を締結。条約通り、1999年末をもって、運河の主権は正式にパナマへ返還されました。
  

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

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 ガボンでクーデター未遂
2019-01-08 Tue 16:29
 アフリカ有数の石油産出国のガボンで、きのう(7日)、軍将校らが国営放送局を一時占拠し、「病気のボンゴ大統領は職責を続ける力がない」、「民主主義を回復する」などとの声明を出すクーデターが発生しましたが、まもなく鎮圧されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ガボン・歴代大統領

 これは、2009年10月16日に現大統領のアリー・ボンゴ・オンディンバが就任したことを受けて、2010年にガボンで発行された“歴代大統領”の切手で、左から初代大統領のレオン・ムバ(任期1960-67)、第2代大統領のエル・ハジ・オマル・ボンゴ・オンディンバ(出生時の名前はアルベール・ベルナール・ボンゴ、任期1967-2009)、現職の第3代大統領アリー・ボンゴ・オンディンバの写真が並べられています。

 第2代大統領のオマルは、初代大統領ムバの懐刀として外務省官房次長を振り出しに、大統領府官房長官・情報、観光、国防担当の各大臣、国家治安裁判所政府委員などを歴任して、副大統領に就任。1967年12月、ムバ大統領の死去に伴い、大統領に就任し、2009年に亡くなるまで、41年間の超長期政権を維持しました。

 オマル政権下の1970年代以降、ガボンでは、海底油田のほか、ウラン、マンガンなどの鉱産資源が発見され、輸出されるようになったため、ガボンは経済的にも比較的安定。その反面、超長期政権ゆえの腐敗・汚職や人権弾圧、ボンゴ一族による政権の私物化などは深刻な問題となっていました。

 一方、現大統領のアリーは、1959年、アルベール・ベルナールと名乗っていた時代のオマルの息子としてブラザヴィルに生まれ、フランス留学を経て、1981年にガボン民主党に入党。1989年には外務大臣となり、1999-2009年には防衛大臣を務めていました。

 2009年6月8日、父のオマルが現職大統領のまま亡くなると、憲法上の規定により、上院議長のローズ・フランシーヌ・ロゴンベを暫定大統領として大統領選が実施され、アリーは23人の候補者の中で41.7%の票を得て当選しました。ただし、この時の選挙に際しては不正が横行したとの理由で、9月3日、暴動が発生。このため、再開票の結果、あらためてアリーの勝利が発表され、10月16日に大統領に就任しました。

 しかし、父子2代、半世紀にわたるボンゴ一族の政権独占に対してはガボン国民の不満も根強く、2016年の大統領選挙でも、アリーは再選されたものの、アリーの得票率が49.80%だったのに対して、野党候補のジャン・ピンの得票率が48.23%に迫るなど、薄氷の勝利でした。

 そうした状況の下、2018年10月以降、アリーがモロッコで長期間の病気療養のためモロッコに滞在するようになったことで、“ボンゴ王朝”に不満を持つ国軍の一部が、アリーには政権遂行能力がないことを理由に放棄したのが今回のクーデター騒動でした。

 反乱側は、一時、国営放送局を占拠。付近では銃声が聞かれたほか、首都の主要道路へ通じる道は封鎖され、戦車や軍用車両が出動するなど騒然とした状況となりましたが、数時間後には反乱は鎮圧され、放送局に侵入した5人のうち4人は逮捕(1人は逃亡中)され、とりあえず、現在のところは平静を取り戻したようです。


★★ 昭和12年学会・第1回公開研究会 ★★

 1月19日(土)、14:00-17:30、東京・神保町のハロー貸会議室 神保町で、昭和12年学会の第1回公開研究会が開催されます。内藤は、チャンネルくららでおなじみの柏原竜一先生とともに登壇し、「昭和切手の発行」(仮題)としてお話しする予定です。

 参加費は、会員が1000円、非会員が3000円。皆様、よろしくお願いします。 


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

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 昭和天皇30年式年祭
2019-01-07 Mon 18:21
 1989年1月7日に昭和天皇が崩御されてから、きょうでちょうど30年です。これにあわせて、皇居では30年式年祭の「皇霊殿の儀」があり、東京都八王子市の武蔵野陵では30年式年祭の「山陵の儀」が行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パラグアイ大統領訪日(晩餐会)

 これは、1972年にパラグアイが発行したアルフレド・ストロエスネル大統領訪日の記念切手のうち、宮中晩餐会で昭和天皇と大統領を取り上げた切手シートです。

 ストロエスネルは、1912年11月3日、パラグアイ南部のエンカルナシオンの生まれで、17歳で陸軍に入り、1932年にボリビアとの間に闘われたチャコ戦争で軍功を立てて一躍有名になりました。1951年に陸軍総司令官に就任。1954年5月に軍事クーデターを起こして実権を掌握し、1954年から1989年まで、通算8期35年間大統領を務めました。

 さて、ストロエスネルは、生年が明治天皇崩御の1912年、誕生日が旧明治節の11月3日ということから、みずからを“明治大帝の生まれ変わり”と信じていました。このため、個人的には大の親日家で、1959年には日本・パラグアイ移住協定に調印し、30年間に8万5000人の日本人移民の受け入れを約束しています。実際にはそこまで多くの移民は集まらなかったものの、日本はパラグアイに対する援助を拡充し、日系移民の社会的な地位も大いに向上しました。

 こうしたこともあって、1972年4月14-20日、ストロエスネルが国賓として日本を訪問した際には、日本側は彼を歓待。昭和天皇は帰国する大統領を空港までお見送りに来られましたが、そのことはストロエスネルを大いに感激させ、今回ご紹介の切手発行につながったといわれています。      

 ちなみに、東西冷戦という国際環境の下で反共の旗幟を鮮明にしたことで、日米をはじめとする西側諸国の支援を得てパラグアイに経済成長をもたらしたストロエスネルでしたが、昭和から平成への御代代わりにあたる1989年、アンドレス・ロドリゲス将軍(後に大統領)のクーデターによって政権の座から追われ、ブラジルに亡命。2006年にブラジリアで亡くなりました。
 

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 ウクライナ正教会が独立
2019-01-06 Sun 19:12
 キリスト教東方正教会の最高権威とされるコンスタンチノープル総主教庁(トルコ・イスタンブール)の総主教バルソロメオス1世は、きのう(5日)、ロシア正教会の管轄下にあったウクライナ正教会を独立させることを最終的に決定し、トモス(宗教上の決定文書)に署名。日付が変わって、現地時間の今朝、イスタンブールでウクライナ正教会に授与しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ウクライナ・聖ミハイル大聖堂

 これは、今回独立したウクライナ正教会の首座主教座大聖堂である聖ムィハイール大聖堂の建立900年を記念して、2008年、ウクライナが発行した切手シートです。

 ウクライナとロシアの正教会は988年、キエフ・ルーシ公国(東スラブ民族の初の国家としてウクライナの地に成立)のウラジーミル1世がコンスタンディヌーポリから洗礼を受けて国教としたのが起源で、当初、ウクライナの正教会はコンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)総主教庁に属していました。

 今回ご紹介の切手シートの大聖堂は、1108-13年、ビザンツ様式の大聖堂として、キエフ大公ヤロスラフ1世の孫、スヴァトポルク2世大公が、キエフ中心部のドニプロ川右岸に建立し、大公家ならびにキエフ大公国の守護天使ムィハイール(ミカエル)にちなんで聖ムィハイール黄金ドーム大聖堂と命名されました。

 大聖堂は、中世のキエフにおいて最も大きな教会の一つでしたが、1240年のモンゴル、1482年のタタールの侵攻により、大きな損害を受けました。その後、1469年にウクライナ正教会の修道院として復元され、1620年以後キエフ主教庁の本拠となりました。

 その後、ロシアは自らをキエフ・ルーシの継承国と主張し、勢力を拡大。1589年、モスクワ総主教を戴く独立正教会としてのロシア正教会が、コンスタンティノープル総主教、アレクサンドリア総主教、アンティオキア総主教、エルサレム総主教から承認されます。こうした経緯を経て、1686年、ウクライナの正教会組織は、コンスタンティノープル総主教庁からモスクワ総主教庁に移され、18世紀には、そもそも、ウクライナがロシア帝国の支配下に入ってしまいました。

 こうして、ウクライナの聖教会組織は20世紀末までモスクワ総主教庁に属することになり、「モスクワ総主教庁下における“自治正教会の広い権を有する自主管理教会”」という位置づけになりました。

 この間、1800年、聖ムィハィール大聖堂は、チェルニーヒウ主教庁の臨時的座聖堂となりますさらに、1917年のロシア革命後、キエフが共産主義者の支配下に置かれると、1922年、宗教団体としての修道院は廃止され、スターリン政権下の1934-36年には大聖堂や鐘楼などの建物は共産党政府機関を建設するために破壊され、文化財などはモスクワやレニングラードの博物館に没収されました。

 ところで、ロシア帝国崩壊後の1921年、キエフの聖ソフィア大聖堂で、ウクライナ正教会の司祭の一部がモスクワ総主教庁からの独立・ウクライナの自治教会(独立正教会)の創立を宣言したものの、ソ連政府により弾圧され、彼らは活動の拠点を西側に移します。

 これに対して、ウクライナの地に残った正教会勢力は依然としてモスクワ総主教庁の管理下にありましたが、ソ連末期の1990年、ウクライナ独立運動が起きると、これに呼応して、正教会の一部がモスクワ総主教庁から分離独立したキエフ総主教庁を設立。この結果、ウクライナ正教会は、ロシア革命後に分裂した独立正教会、ソ連末期に独立を宣言したキエフ総主教庁系、モスクワ総主教庁のもとに留まったモスクワ総主教庁系に分裂することになりました。ちなみに、信徒の数としては、キエフ総主教庁が50.4%で最大。ついで、モスクワ総主教庁系(26.1%)、独立正教会(7.2%)となっており、この実績を基に、キエフ総主教はコンスタンティノープルにたびたび使者を送り、承認を要請していました。

 聖ムィハィール大聖堂に関しては、1991年のウクライナ独立後の1995-98年に国家プロジェクトとして復元工事が行われ、ウクライナ正教会・キエフ総主教庁に譲渡。さらに、2001-04年、ウクライナはロシアの博物館から修道院にまつわる文化財(モザイクと壁画)を取り戻し、修道院へ返納しました。

 2014年、いわゆるウクライナ紛争が発生すると、同年だけで、ウクライナ国内60~70の小教区がモスクワ総主教庁系からキエフ総主教庁にくら替えし、これを暴力で阻止しようとする親露派との対立も激化。こうした状況の下、ウクライナ国内では、「キエフ総主教庁が承認されれば、多くの教会が合流し、ウクライナ正教会は1つになれる」との世論が主流を占めるようになっていきます。

 こうした状況を踏まえて、2016年3月、ウクライナのポロシェンコ大統領がトルコを訪問し、エルドアン大統領およびバルソロメオス1世総主教とも会談。ボロシェンコはウクライナの正教会の統一に向けた支援を求め、総主教も「我々は教会を通じた精神的な絆を感じている」と応じました。

 当然のことながら、ロシア側はこうした動きに猛反発していましたが、2017年9月、ウクライナ政府や議会、ウクライナ正教会キエフ総主教庁系が、コンスタンティノープル総主教庁に、ロシア正教会からの“完全独立”を求める嘆願書を提出。総主教庁側は、独立を認める前段階となる手続きを開始し、10月、キエフ総主教庁系の正当性を認めること決定します。

 これを受け、2018年12月15日、キエフ総主教庁は、聖ムィハィール大聖堂を首座主教座大聖堂として、新生“ウクライナ正教会”の発足を宣言。今回のトモスの授与となりました。

 
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 世界切手展< CHINA 2019>のご案内
2019-01-05 Sat 18:19
      漢口からの年賀状

 元日の記事でも少し書きましたが、本年(2019年)6月11日から17日まで、中華人民共和国建国70周年を記念して、中国・武漢市の武漢国際会展中心(武漢国際会議展覧センター:WICEC)で、FIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<CHINA 2019>が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不肖・内藤がお引き受けすることになりましたので、本ブログにて、同展の特別規則のうち、出品に関する事項を抜粋し、その概要をお知らせいたします。

 規則の正式な文言などは、必ず、同展ウェブサイトに掲載の特別規則の原文でご確認ください。出品に必要な書類の用紙も同サイトの“DOWNLOAD/資料下载”のページからダウンロード可能です。

 なお、今後の同展に関する連絡は、原則として全て電子メールにて行います。コミッショナーの内藤陽介(ないとう・ようすけ)へのご連絡は、本ブログ右側、プロフィール下のメールフォームをご利用ください。また、電子メールをお使いになれない方で関係書類をご希望の方は、データをプリントアウトしてお送りいたしますので、実費として500円(送料込・切手代用不可)をコミッショナー宛、ご送金ください。

 <国内出品申込締切>
2019年2月15日(金)(必着)までにコミッショナー(内藤陽介)宛に出品申込書とイントロダクトリーページ(タイトルページ)を送付してください。郵送だけではなく、電子メールでのご送付も受け付けます。なお、以前の出品作品のタイトルを変更して出品する場合は、必ず、以前のタイトルを出品申込書に記載してください。 また、申込書のご送付は、なるべく、2月10日以降にしていただけると助かります。

・組織委員会からの出品可否の通知は2019年3月18日頃を予定

<出品料>
・ユース、文献、ワンフレームを除く部門:1フレームにつき60米ドル
・ユースは無料
・文献は1件につき70米ドル
・ワンフレは1作品80米ドル 

<搬入の方法>
・フレーム出品:コミッショナーが全ての作品を手で持ち込むことが要求されておりますので、原則として、コミッショナーによる所定の運搬手数料[1フレーム当たり4000円]を申し受けるほか、航空会社から超過料金等を請求された場合には、別途、応分のご負担をお願いいたします。

 文献作品:2019年5月3日必着で、各2部ずつ、下記宛先にお送りください。
 Mr. Liang Yaohua
 The Philately Association of Hubei Province
 No.22 Jiangwang Road, Hanjiang District, Wuhan City, China
 Postal Code: 430023
 電話 +86 27 83560311(office), +86 15902764733(private)

<出品クラス>
 競争出品
― Class 1:FIPチャンピオン・クラス (2009-2018年の10年間にFIP展において3回以上LG受賞の作品)
― Class 2:伝統郵趣
 A)中国
 B)アジア、オセアニア、アフリカ
 C)欧州
 D)南北アメリカ
― Class 3:郵便史
 A)中国
 B)アジア、オセアニア、アフリカ
 C)欧州
 D)南北アメリカ
― Class 4:ステーショナリー
― Class 5:航空郵趣
― Class 6:宇宙郵趣
― Class 7:テーマティク
 A)自然 B)文化 C)科学技術
 *出品申込書には作品がA-Cのどのサブクラスに該当するかを記入してください。
― Class 8:マキシマフィリー
― Class 9:収入印紙
― Class 10:現代郵趣(1980年以降)
 (A)国別伝統、(B)郵便史、(C)ステーショナリーの各分野。
*国内展での受賞歴に関わらず、コミッショナーの推薦があれば出品可能。他部門への出品と重複しての出品も可能です。
― Class 11:オープン・クラス
― Class 12:絵葉書クラス(実験クラス・5フレーム出品のみ受付)
― Class 13:ユース 
  A)2019年1月1日時点で10歳から15歳 B)同16歳から18歳 C)同19歳から21歳
― Class 14ワン・フレーム(1フレーム出品)
  出品申込書には、以下のA-Hのどのサブクラスに該当するか、ご記入ください。
  A)国別伝統 B)郵便史 C)ポスタル・ステーショナリー D)航空郵趣 E)宇宙郵趣 F)テーマティク G)マキシマフィリー H)印紙
 *ワンフレーム出品には賞状のみでメダルは授与されません。また、マルチ・フレームの作品からの抜粋展示は認められません。
― Class 15:郵趣文献
 A) 2014年1月1日以降に出版された書籍、パンフレット、研究書
 B) 2017年1月1日以降発行の雑誌、定期刊行物
 C) 2017年1月1日以降に出版されたカタログ
*通常の出品申込書に加え、文献用の情報フォームを記入すること。

<フレームおよびリーフの大きさ>
 フレームは97×120cmとなる予定です。したがって、保護ラップ込の1リーフの大きさは、1フレーム16リーフで構成の場合は23×29cm、8リーフで構成の場合はA3判または46×29cm、12リーフで構成の場合は31×29cmを上限としてください。

*中国で開催の切手展に関する注意事項
 近年、中国国内または中国政府の影響下にある地域(マカオなど)で開催される展覧会では、台湾切手や一部のモンゴル切手、「支那」の宛先表示があるカバー類など、主催者側が“展示すべきではない”と判断したマテリアルについて、展示フレームの上から紙を貼るなどして参観者の目に触れないようにする措置が取られています。これまでのところ、そうした措置を受けた出品作品が、審査上、不利な扱いを受けたことはなく、当局によって該当するマテリアルが没収された事例も報告されていませんが、中国での作品展示に際しては、通常の民主主義国家とは異なるリスクがありうることを十分にご理解のうえ、お申し込みください。

 ちなみに、本日の記事の冒頭に掲げたのは、支那事変(日中戦争)当時、日本軍占領下の漢口から滋賀県宛の軍事郵便の年賀状で、現在は武漢市の一部になっている漢口の街並みを描いた“戦捷新年”の記念印(1939年1月1日付)が押されています。まぁ、現在の中国での展覧会の基準では展示が許されないマテリアルかもしれませんが、松の内ですので、開催地の武漢市と新年の組み合わせということでご紹介しました。

 1人でも多くの皆様のお申込み・お問い合わせを心よりお待ちしております。


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 年賀状の切手
2019-01-04 Fri 01:09
 毎年のことですが、“郵便学者”という看板を掲げて生活している関係から、僕は毎年、年賀状には干支にちなんだ切手を取り上げることにしています。もっとも、ただ単に干支の切手を持ってくるだけではつまらないので、①できるだけ他の人が使いそうにないモノ、②その年の仕事の予告編になりそうなモノ、③可能な限り、干支を取り上げた年賀切手は除く、という基準で選んでいます。きょう(4日)は仕事始めでオフィスで僕の年賀状をご覧になるという方もあると思いますので、今回の年賀状の切手について簡単にご説明いたします。(画像はクリックで拡大されます)

      アフガニスタン・イノシシ(1984)

 これは、1984年にアフガニスタンが発行した野生動物の切手のうち、イノシシを取り上げた1枚です。

 アフガニスタンでは、1978年4月、ソ連の支援を受けたアフガニスタン人民民主党(共産党)による反政府クーデター(4月革命)が発生。同年12月、人民民主党の党首で革命評議会議長兼首相のヌール・ムハンマド・タラキーがモスクワを訪問してソ連=アフガニスタン友好善隣協力条約を締結し、アフガニスタンは完全にソ連の勢力圏内に組み込まれることになりました。

 ところで、4月革命の結果、1747年以来のパシュトゥン人支配体制は終結し、パシュトゥン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人のアフガニスタン主要4民族の参加する政治体制が樹立されましたが、人民民主党の指導部のパシュトゥン人は、長年にわたってアフガニスタンの支配層を構成してきたドッラーニー族ではなく、ギルザイ族の出身者が中心となっていました。それゆえ、従来は民族的に傍流であった勢力がヘゲモニーを握り、旧支配層の粛清に躍起になっている状況に対して、保守的な地方の部族社会は強く反発します。もとより、イスラムの信仰に基づく伝統的なアフガニスタン社会では、共産主義(=無神論)が悪魔の思想として嫌悪されていることはいうまでもありません。

 そうした新政権が、“土地改革”と称して、部族の族長を地主ないしは反動派と決め付けて彼らの土地を強制的に接収し、勝手に他の人々に分配していったことで農村の不満が爆発。1978年10月以降、各地でムスリムの抵抗運動が頻発し、翌1979年3月、ヘラートでイスラム原理主義者による大規模な武装デモで5000人もの死者が発生したことで、アフガニスタン全土は実質的な内戦に突入していきます。

 このため、1979年12月、ソ連はソ連=アフガニスタン友好善隣協力条約の内乱条項(アフガニスタンで内乱やクーデターが発生し、政府が危機的な状況になった場合には、政府の要請がなくてもソ連軍がアフガニスタンの秩序回復のため、アフガニスタンに軍事介入できるという条項)に基づき、アフガニスタンに進駐。これが、いわゆる“(ソ連の)アフガニスタン侵攻”です。

 進駐したソ連軍はソ連の意向に忠実なバブラク・カルマルを大統領兼首相とする親ソ体制を樹立します。今回ご紹介の切手は、その親ソ政権下で発行されたものです。イスラム世界ではブタが不浄な生物として忌避されていることは広く知られていますが、イノシシもブタの原型として忌避されています。したがって、こうした切手を発行することじたい、イスラムの信仰やムスリムの伝統を軽視していた親ソ政権ならではの現象とみることもできましょう。

 さて、条約に基づく行動とはいえ、正規軍が隣国に直接侵攻するという異常事態は、全世界から衝撃をもって受け止められ、多くの国がソ連の暴挙を非難し、西側諸国は1980年のモスクワ五輪をボイコットすることでこれに応えました。

 一方、アフガニスタン国内では、ソ連軍の侵攻という新たな事態を受けて、1980年1月、反政府ゲリラの大同団結によるアフガニスタン解放イスラム同盟が結成され、ソ連軍とその支援を受けたカルマル政権に対するムジャーヒディーン(イスラム戦士)の抵抗運動が展開されるようになります。抵抗運動の組織としては、その後も、国民イスラム戦線、イスラム・ムジャーヒディーン同盟、アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟などが成立しましたが、1985年5月、(新)アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟へと統合され、彼らに対しては、イスラム世界全域からさまざまな支援が行われました。

 結局、戦力的に圧倒的な優位を保持していたソ連軍は、国際社会の非難とムジャーヒディーンの頑強な抵抗により、1989年2月15日をもって、なんら得るところなく、アフガニスタンからの完全撤退を余儀なくされます。その後、ソ連軍撤退を受けて、ムジャーヒディーン諸派は暫定政権の樹立に合意。カブールの人民民主党政権打倒に向けて本格的な攻勢を開始しましたが、左翼政権が崩壊するとムジャーヒディーン諸派の内紛が再燃し、アフガニスタンは再び内戦の時代に突入していくことになります。

 さて、ゲバラの本も出ないうちに何を言っているのだとお叱りを受けそうですが、ゲバラの仕事が無事に終わったら、今秋をめどに、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した1989年にフォーカスをあてた本を作ることになりそうです。具体的な話が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

 なお、例によって、年賀状の投函は年末ぎりぎりになってしまいましたので、まだお手元に届いていない方もあるかと思います。早々に賀状をお送りいただきながら、僕の賀状がまだ届いていないという方々におかれましては、今しばらくお待ちいただきますよう、伏してお願い申し上げます。 
      

★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

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 元始祭
2019-01-03 Thu 09:47
 きょう(3日)は、宮中では皇位の元始を寿ぐため、年初の大祭として天皇陛下の御親祭により奉仕される元始祭の日です。といいうわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      高千穂峰(1968)

 これは、1968年11月20日、「霧島屋久国立公園」の1枚として発行された“高千穂の峰”の切手です。

 高千穂峰は鹿児島県と宮崎県の県境に位置し、天皇家の祖先(天照大神の孫)である瓊瓊杵尊が天照大神の命を受けて、高天原(天津神々の住む天上界。天香具山で祭祀が行われ、神々は稲田をつくり、機織女たちは織殿に奉仕しているとされています)から地上に降臨したとされる場所として知られています。山頂に立てられている青銅製の天逆鉾は、瓊瓊杵尊が降臨したときに峰に突き立てたとされるもので、山岳信仰の舞台となりました。きょうの元始祭は、これを由来として、明治3年1月3日 (旧暦)、明治天皇が神祇官八神殿に八神・天神地祇・歴代の皇霊を鎮祭したのが最初です。

 ちなみに、天孫降臨にまつわる観光スポットとしては、現在では、峰そのものよりも、霧島山の中岳と御鉢との間にある谷間の高千穂河原の方がポピュラーかもしれません。高千穂河原にはかつて霧島神宮があり(噴火により焼失したため、のち移転・再建)、その場所は古宮址と呼ばれています。古宮址には、1940年の紀元2600年記念事業の一環として“天孫降臨神籬斎場”がつくられ、1958年には駐車場も整備されました。また、毎年11月10日には、天孫降臨の道標として火を焚いて瓊瓊杵尊を迎えた故事にちなみ、天孫降臨御神火祭も催されています。

 さて、何度でも繰り返して書きますが、天孫降臨神話は、それがそのまま歴史的事実であるとは考えられませんが、そういうレベルでいえば、『聖書』の記述にも歴史的事実としては認めがたいものが多々あるわけで、欧米のキリスト教世界で(信じるか信じないかは別の問題として)『聖書』の物語をたしなみとして国民に教えているのであれば、わが国でも民族の物語としての記紀神話を日本人の大半が常識として共有しているのが本来の姿でしょう。

 したがって、僕に言わせれば、歴史の授業ではなく、国語の授業で、小学生のうちから徹底的に記紀神話を教え込むべきだと思うのですが、そういうことを言うと、左巻きの人たちは「戦前の皇国史観が大日本帝国の侵略戦争を支える役割を果たした」と主張して反対するんでしょうな。


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 キューバ革命60年
2019-01-02 Wed 12:36
 1959年1月1日のキューバ革命60周年を記念して、きょう(2日・現地時間)、キューバの首都ハバナでは記念式典が行われます。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・革命達成FDC

 これは、革命直後の1959年1月28日にキューバで発行された“革命達成”の記念切手の初日カバーで、カシェにはキューバから蹴りだされるフルヘンシオ・バティスタ前大統領が描かれています。

 フルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバルは、1901年、キューバ島北東のバネスで貧農の家に生まれました。1921年、高校を卒業して国軍に入隊。1933年8月、マチャド独裁政権の打倒を叫ぶ民衆蜂起の混乱に乗じて、陸軍軍曹のフルヘンシオ・バティスタが一挙に陸軍の実力者となると、翌1934年、米国はバティスタを支援して、彼の独裁体制を構築。以後、バティスタとその一派は、第二次大戦前後の約20年間にわたって政権をほぼ独占し、キューバの富はバティスタ・米国政府・米国企業・マフィアという4者によって独占され、米国に対する隷属の度合いはますます高まっていきました。

 こうした状況の下、1952年、バティスタ(当時は上院議員)は大統領選挙に立候補したものの、野党オルトドクソ党のロベルト・アグラモンテ候補に対して苦戦していたため、同年3月10日、軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任。親米派の政権復帰を歓迎した米国は、直ちに、バティスタ政権を承認します。

 当然のことながら、クーデターによる政権奪取に対しては国民の批判も強かったのですが、バティスタはマフィアと結託し、キューバ国内における彼らの利権を保護する代償として、米国から巨額の支援を引き出し、それらを私物化。この結果、キューバの農業や工業には、従来以上に米国資本が流れ込み、国民の貧困は放置されたまま、キューバ経済は米国に対する隷属の度合いを一層強めていきました。ちなみに、当時のキューバの電気工業の9割、鉄道の5割、粗糖工業の4割が米国資本の支配下にあり、バンク・オブ・アメリカのキューバ支店は全銀行預金の1/4を占めており、極端な富の偏在は誰の目にも明らかでした。

 一方、武力で政権を掌握したバティスタを相手に、アウランティコをはじめとする既成政党は話し合いでの政権交代を要求するという軟弱振りで、しかも、党内対立から四分五裂というありさまでした。

 こうして、国民の間には政治に対する閉塞感が蔓延していくなかで、1952年の議会選挙にオルトドクソ党から立候補した27歳の青年弁護士、フィデル・カストロは、バティスタのクーデターによる選挙の無効化に憤慨、バティスタを憲法裁判所に告発しましたが、裁判所はこれを握り潰してしまいます。

 そこで、カストロは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、バティスタ打倒のためには、既成政党とのしがらみのない若者を動員することが重要と考え、地下放送を通じて同志を募り、7月26日未明、バティスタ打倒を叫んでキューバ第2の兵営であるモンカダ兵営を襲撃しました。この襲撃は失敗に終わり、カストロも投獄されましたが、彼が獄中で執筆した手記『歴史は私に無罪を宣告するであろう』が出版されると、恩赦を求める声が市民の間に広がり、1955年5月、バティスタも渋々ながらカストロの釈放を認めます。

 釈放されたカストロは、再起を期していったんメキシコに亡命。そこで、たまたま、“アメリカ帝国主義からラテンアメリカを解放する”との理想を抱いてメキシコシティに来ていたアルゼンチン出身の青年医師、エルネスト・ゲバラと知り合い、意気投合。彼らは、反政府組織“7月26運動(M-26-7)”を軸に革命の準備を進め、1956年12月、グランマ号でキューバ島に再上陸します。

 当初、バティスタ政権の攻撃により、一時は壊滅寸前に追い込まれた革命側でしたが、シエラ・マエストラ山中を拠点に反政府ゲリラ闘争を続け、農民たちを取り込んで徐々に勢力を拡大。1958年5月、バティスタ政権がゲリラに対する最終攻勢として“FF作戦”を発動したのに対して、5月29日、革命側はサント・ドミンゴ川の戦いで勝利。これが戦局の転機となり、7月10日の戦いでも革命側は政府軍を破り、8月7日には政府軍がシエラ・マエストラから完全に撤退します。

 その後、ゲバラ率いる第8部隊と、カミーロ・シエンフエゴス率いる第2部隊は、キューバ島中央部、ラス・ビジャス州の攻略作戦を開始。10月15日、ラス・ビジャス州に到着して中央国道を完全に封鎖し、キューバ島の東西分断に成功しました。

 一方、カストロは、弟のラウルとともに、キューバ島東部、オリエンテ地方の中心地であるサンティアゴ・デ・クーバを目指し、11月17日、最終攻勢を指示したあとシエラ・マエストラの本部を閉鎖。300の兵で“ホセ・マルティ部隊”を編成してサンティアゴ作戦を開始し、11月20日に始まるグィサの戦闘で政府軍を撃破しています。

 その後、ゲバラの部隊は、12月29日、ラス・ビジャス州の州都、サンタ・クララへの総攻撃を開始。戦闘は正午には終了し、戦意を喪失した政府軍は大量の武器弾薬とともに降伏しました。

 これが決定打となり、、1958年12月31日の夜、バティスタはハバナ市内のコロンビア兵営で催された新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任演説を始め、日付の変わった1959年の元日未明、クバーナ航空機でキューバを脱出してドミニカ共和国へ亡命。 これを受けて、最後までビダール兵営に籠城して抵抗していた政府軍部隊も、同日、降伏。キューバ革命が達せられました。

 さて、現在制作中の『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、このあたりの事情についても、関連する切手や郵便物などを用いて詳しくご説明しております。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。
 

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