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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 “象牙の女王”に禁錮15年
2019-02-22 Fri 02:04
 タンザニアの裁判所は、19日、400頭分以上の象牙をアジア向けに不正取引したとして、“象牙の女王”と呼ばれていた中国人実業家、ヤン・フェン・グラン被告ら3人にそれぞれ禁錮15年の実刑判決を言い渡しました。というわけで、きょうは、象牙が描かれたタンザニア切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      タンザニア・国章

 これは、1965年にタンザニアが発行した国章を描く20シリング切手です。

 タンザニアの国章はキリマンジャロ山の上に楯と象牙を置き、それを男女が支える構図です。男性の足元にはクローブを、女性の足元にはワタが描かれ、山麓には“自由と統一”を意味する“Uhuru na Umoja”が掲げられています。楯の最上段は鉱物を表す金色の中に自由、啓発、知識を意味する松明、2段目には国旗を配し、3段目の赤は豊かな土壌を、最下段の波型は陸・海・湖・海岸線を示しているとされています。

 さて、現在のタンザニア国家は、1961年に独立したタンガニーカが、1964年、対岸のザンジバルと連合してタンガニーカ・ザンジバル連合共和国を構成した後、タンガニーカとザンジバル、それにアフリカ南部で栄えたアザニア文化の名前をあわせて“タンザニア連合共和国”と改称して現在の体制となりました。

 連合共和国の大統領には、タンガニーカの初代首相(後大統領)だったジュリウス・ニエレレが就任しましたが、ニエレレは、東アフリカにおける汎アフリカ主義の旗手であると同時に、(アフリカ式)社会主義路線を志向していました。ここから、彼は汎アフリカ主義にも親和的と見られた中国に傾斜していくことになります。

 たとえば、1965年11月、アパルトヘイト政策を掲げて独立したローデシアに対して国連が経済制裁を発動し、その副作用として、内陸国のザンビアから銅鉱石の輸出ができなくなると、その打開策として、ニエレレはローデシアを経由せず、ザンビアとタンザニアのダルエスサラームを結ぶタンザン鉄道の建設を構想し、中国の支援を仰ぎました。

 ニエレレの要請を受けた中国は、文化大革命さなかの1967年、タンザニアとザンビア両政府首脳を中国に迎えて協議し、1970年7月、3国間でタンザン鉄道建設協定を最終調印。協定は、中国がタンザニア、ザンビア両国に無利子で計4億320万ドルの借款を与え、約2万人の中国人労働者を派遣するというものでした。ちなみに、タンザン鉄道は1976年7月14日に完成し、中国からタンザニア、ザンビア両政府に引き渡されています。

 また、この間、ニエレレは1967年にアルーシャ宣言を発し、中国の人民公社に倣った“ウジャマー村構想”を実施したほか、中国から軍事顧問を受け入れ、さらに、中国の人民服風の“タンザニア・スーツ”も導入しています。

 このように、中国との関係が緊密化する中で、1970年代以降、多くの中国人がタンザニアに渡りましたが、今回有罪判決を受けたヤン被告もまた、そうした流れに乗って1970年代からタンザニアに住み、現地にある中国アフリカビジネス会議の事務局長を務める一方、東アフリカと中国との間で巨大な密輸ネットワークを構築。タンザニア当局が確認できただけで、2000-14年に象牙約860本を密売したとして、2015年10月に訴追されていました。

 なお、ニエレレ政権下のタンザニアは、ゲバラによるコンゴ工作の拠点としても重要な意味を持っていましたが、このあたりの以上については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 2月22日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がゲスト・コメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 世界の切手:メキシコ
2019-02-21 Thu 01:24
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年2月6日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はメキシコ(5回目)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・フリーダカーロ(1991)

 これは、1991年に発行されたフリーダ・カーロの自画像の切手です。

 フリーダ・カーロは、1907年7月6日、メキシコ市近郊のコヨアカンの“青い家”でハンガリー系ユダヤ人の写真家、ギリェルモ・カーロの三女として生まれました。

 フリーダは6歳の頃、急性灰白髄炎で約9ヵ月間、寝たきりの生活を送り、その影響で右腿から踝にかけて成長が止まり、生涯、痩せ細った脚のままでした。後年、彼女が、脚を露出しないズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用したのは、このためです。写真家だった父は、リハビリを兼ねて彼女を頻繁にハイキングに連れ出し、そこで水彩画やカメラの手ほどきを受けたことが、彼女の画家としての素地をはぐくんだといわれています。

 1922年、ドイツ人上級実業学校を卒業後、ソカロの国立予科高等学校へ進学すると、カチュチャスと呼ばれるサークルに参加。文学に熱中し、作家オクタヴィオ・ブスタマンテ、ミゲル・N・リラ、作曲家アンヘル・サラス、ジャーナリスト、アレハンドロ・ゴメス=アリアス等と親交を結びました。

 1925年9月17日、通学途中だったフリーダは、多数の死傷者が出る事故に巻き込まれて重傷を負い、3ヵ月間に渡る療養生活を余儀なくされましたが、これを機に、入院中の無聊を慰めるため、本格的に絵を描くようになります。

 1928年、体調が回復した彼女は、知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党に入党。そこで、女性写真家の紹介で、メキシコ壁画運動の中心的な画家で共産党員のディエゴ・リベラと出会いました。

 リベラの作品に感銘を受けた彼女は、闘病時代に描いた自分の作品をリベラに見せて意見を求めます。リベラはすぐに彼女の才能を認め、2人の仲は急接近し、1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚。当初、2人はメキシコ市中心部に住んでいましたが、リベラの壁画制作の仕事にあわせて、クエルナバカ、サンフランシスコ、ニューヨーク、デトロイトなどを転々とします。しかし、リベラが米国で仕事をすることを快く思わなかったメキシコ共産党は、1929年、彼の党員資格を剥奪。これにあわせて、彼女も共産党を離党しました。

 1930年、フリーダは妊娠しましたが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産。その後も、1932年と1934年に流産を経験し、その後の作風に大きな影響を与えています。

 1933年12月、メキシコに戻った2人は、メキシコ市南郊のサン・アンヘルを活動の拠点としましたが、1935年、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったため一時的に別居。同年末、フリーダはサン・アンヘルに戻ったが、リベラへのあてつけで彫刻家のイサム・ノグチと関係を持ちます。また、1937年には、メキシコに亡命してきたロシアの革命家、レオ・トロツキーと妻ナタリア・セドヴァに夫妻に住居を提供する一方、トロツキーとも関係を持ち、『レオ・トロツキーに捧げた自画像、あるいは、カーテンのあいだ』を制作しました。

 1938年、フリーダは海外での大規模な個展を初めて開催。これがきっかけで、世界的な評価を得るようになりましたが、彼女自身は周囲の高評価に戸惑いを隠せなかったようです。以後、彼女はニューヨーク、パリ、ロンドンなどで精力的に活動するようになりましたが、そのことは夫婦間の擦れ違いを生み、1939年11月6日にリベラと正式に離婚。彼女は生家である“青い家”に戻ります。

 離婚後の彼女は以前にもまして作品制作に没頭しましたが、1940年9月、脊椎の痛みが悪化したことに加え、右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、サンフランシスコで療養生活に入ります。その後、健康状態が安定すると、1940年12月8日、フリーダはサンフランシスコでリベラと再婚しました。

 1940年代に入ると、彼女の画業はさらに高い評価を得て、1942年にはメキシコ文化センター会員、文部省管轄下の絵画・造形専門学校“ラ・エスメラルダ”の教員にも選ばれました。しかし、健康状態の悪化により、彼女は入退院を繰り返し、1950年には右足の指先が壊死したため切断。以後、ベッドの上に特製の画架を取り付け、寝たままで制作を行いましたが、1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった稠密な作品の制作も困難になりました。

 1953年8月、右足の痛みはさらに悪化し、膝までを切断。以後、義足の生活となり、1954年7月13日、肺炎の併発で亡くなりました。彼女の遺体は荼毘に付され、その遺灰は先征服期の壺に入れられて“青い家”に安置されています。

 さて、『世界の切手コレクション』2月6日号の「世界の国々」では、フリーダ・カーロについてまとめた長文コラムのほか、ディエゴ・リベラの絵画の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のメキシコの次は、2月6日発売の同13日号でのブルガリア、2月13日発売の同20日号でのスーダン(と一部ギニアビサウ)、2月20日発売の同27日号でのナミビアの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。
 

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 数十年間の腐敗した取引
2019-02-20 Wed 11:00
 米国のトランプ大統領は、18日(現地時間)、フロリダ州で演説し、反米左派のマドゥロ大統領から、暫定大統領就任を宣言したグアイド国会議長への「平和的な権力移行」を目指す方針を示すとともに、「ベネズエラとキューバの社会主義独裁政権は数十年間にわたり、腐敗した取引で互いに支え合ってきた」と批判し、両国の連携を断ち切ることが必要だと訴えました。というわけで、キューバとベネズエラの左翼勢力との長年にわたる関係を示すものとして、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・オヘダ

 これは、1967年にキューバが発行した“第1回ラテンアメリカ連帯機構(OLAS)会議”の記念切手で、ラテンアメリカの革命烈士の例として、ベネズエラのファブリシオ・オヘダが取り上げられています。

 1960年7月1日、ベネズエラのベタンクール政権は「右翼であれ左翼であれ、軍事力によって権力を獲得した政権は一切承認しない」とするベタンクール・ドクトリンを発表。ドミニカ共和国とキューバを敵視する姿勢を明らかにした。

 これに対して、キューバの支援で結成された“左翼革命運動(MIR)”は、ベネズエラ共産党とともに武装闘争を展開したため、ベタンクールは軍を総動員して弾圧に乗り出し、1961年10月までに数百人規模の死者が発生しました。このため、11月12日、ベタンクールはキューバを左派暴動の黒幕と断罪して断交すると、キューバは「ベタンクールは米国に追随し、反政府運動を弾圧する独裁政権と化した」と応酬します。

 こうした状況の下で、民主行動党内の左派がキューバとの断交に反対して離党し、下院では野党が過半数となったため、政権は不安定化。MRIと共産党の主導による大規模なストライキや反政府暴動、武装反乱などが相次いだため、1962年4月、ベタンクールは混乱を理由に共産党とMIRを非合法化し議員資格を剥奪。5月には両者の政治活動を全面的に禁止しました。

 一方、左派勢力は、1962年12月、農民連盟、労働者連合、大学センター連合など全勢力が結集して、民族解放戦線(FLN)を結成し、その軍事組織として民族解放軍全国司令部(FALN)を設置。FALNは3000の兵力を動員して、全国20州のうち7州で作戦を展開。貨物船アンゾアテギ号のシージャック、アルゼンチンのサッカー選手デ・ステファーノ誘拐、カラカスのフランス印象派展覧会の絵画の窃取と自発的返却、米大使館つき武官の誘拐、米国系企業への攻撃などのテロ活動を行いました。

 これに対して、ベネズエラ政府軍は、米軍の指揮・支援の下、FALNのゲリラ軍に対してナパーム弾爆撃を含む大規模な掃討作戦を行い、ファルコン州以外のゲリラ支配地区をほぼ壊滅させています。

 こうした状況の下、1963年11月1日、ベタンクールの任期満了に伴う大統領選挙(と議会選挙をあわせた総選挙)が告示されましたが、FLNとFALNは選挙のボイコットを呼びかけ、20日には、政府軍が介入してカラカス市内では大規模な戦闘が発生。政府はパラグアナ半島の無人の海岸でFALNの武器貯蔵庫を摘発し、キューバから持ち込まれた携帯兵器3トンを捕獲し、FALNの背後でキューバが暗躍していると名指しで非難しています。

 こうして、12月1日、政府が5万の軍隊を動員し、8000名の逮捕者を出すという騒然とした空気の中で大統領選挙が行われ、与党・民主行動党のラウル・レオーニ・オテロが当選しました。

 3月11日に発足したレオーニ新政権は、和解政策を提唱し、共産党とMIRを合法化すると発表。これを受けて、8月までに共産党とMIRの主流派は武装闘争路線を放棄し、10月にはFLNが和平アピールを発表しましたが、FALNは武装闘争を放棄せず、その後も、キューバの支援を受けながら、ベネズエラ政府軍の戦闘を続けていました。

 そうした中で、1966年6月、カラカス市内に潜伏していたFALN議長のファブリシオ・オヘダが密告により捕えられ、拷問のすえに殺害されると、キューバ首相のフィデル・カストロは、オヘダの逮捕は、平和路線に転じたベネズエラ共産党の裏切りによるものと考えました。

 そこで、7月24日、ルベン・ペトコフひきいるFALN部隊がキューバからファルコン州に上陸作戦を行い、イラカラ山系のゲリラ部隊との合流に成功。じつは、このタイミングで、キューバ政府は、キューバに極秘裏に帰国していたチェ・ゲバラのベネズエラ派遣をベネズエラ共産党に内々に提案していたが、ベネズエラ共産党はこれを拒否しています。

 その後も、FALNはカラカス市内でのゲリラ活動を展開し、1967年3月1日にはフリオ・イリバーレン・ボルヘス元社会保障庁長官を誘拐・殺害。FALN司令官のエリアス・マヌイト・カメロは、キューバ紙『グランマ』で“犯罪者”イリバーレンを処刑したことを明らかにしました。

 事件を受けて、共産党中央委員でカラカス中央大学教授のエクトル・ムヒカをはじめ、共産党の有力者たちが、イリバーレンの殺害は革命とは無関係の単なる犯罪と断じ、ベネズエラ政府も、事件に関与していたとしてキューバを批難。さらに、ムヒカはベネズエラ共産党を代表して「FALNの名においてイリバーレン殺害を命じたエリアス・マヌイトとの関係を断絶する」と発表します。前海軍大尉で一時FALNの司令官を務めたペドロ・メディナ・シルバも「我々の戦闘組織の名を悪用する人々は、敵の共犯者である。イリバーレン殺害者には人民の正義が適用されるだろう」との声明を、主なゲリラ指導者との連名で発表しました。

 これに対して、3月13日、カストロはベネズエラ共産党の武装闘争中止の方針は“革命に対する裏切り”と公に批難しましたが、4月22日、ムヒカらベネズエラ共産党中央委員会は武装闘争の停止を正式に決定しました。

 そこで、5月8日、キューバを出発したモイセス・モレイロら12人のゲリラ部隊が、レオポルド・シンケ・フリーアスらキューバ軍将校4人の作戦参謀とともに、ミランダ州に上陸し戦闘を開始。結果的に、この作戦は失敗に終わり、参加者の多くは逮捕・投獄され、ベネズエラの提訴を受けて、7月26日に開催された米州機構(OAS)査問委員会ではキューバがベネズエラの反乱軍を支援し訓練したと報告。OAS理事会はキューバ非難決議を採択しました。

 今回ご紹介の切手の発行の名目となったOLASの第1回会議は、このようにキューバとベネズエラの関係が緊張状態にある中で行われたもので、キューバとしては、ベネズエラの位置を示したラテンアメリカ地図とオヘダの肖像が取り上げることで、ベネズエラ共産党の“裏切り”に対する憎悪が表現したわけです。

 ちなみに、同会議の議長として閉会宣言を行った「ゲリラを都市から指導しようとすることは愚かであるばかりでなく犯罪でさえある」と発言し、ベネズエラ共産党指導部を“えせ革命家のマフィア”と酷評。ベネズエラ共産党を“日和見主義”として名指しで批難しています。

 さて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、今回ご説明したベネズエラを初め、ラテンアメリカ諸国の左翼勢力とキューバのカストロ政権との歴史的関係についてもいろいろまとめています。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 “勝利のキス”の水兵、亡くなる
2019-02-19 Tue 11:37
 米国の対日勝利を祝うニューヨークのタイムズスクエアで、女性にキスをする姿が写真に収められ有名になった元水兵のジョージ・メンドンサさんが、17日(現地時間)、ロードアイランド州ミドルタウンの養護施設で亡くなりました。95歳。というわけで、謹んで御冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・勝利のキス

 これは、1995年に米国が発行した“第二次大戦50周年シリーズ”のうち、“勝利のキス”を取り上げた1枚です。

 米国の第二次大戦50周年シリーズは、1941年から毎年、50年前の重要な出来事10件を表現する切手を組み合わせたシートの形式で発行されました。その1945年の分の1枚として、原爆のきのこ雲を描き“原爆が戦争の終結を早めた”との説明文をつけた切手の発行が計画されていることが1994年末に明らかになったことで、この問題が日米間で政治問題化。結局、米国側は、“原爆が戦争の終結を早めた”との政府見解は撤回しないものの、対日関係を配慮して“原爆切手”の発行は撤回し、代わりに、日本降伏を発表するトルーマンを描く1枚をセットに組み込んで、切手を発行したことでも話題となりました。

 さて、切手に取り上げられた“勝利のキス”のもとになった写真は、『ライフ』のカメラマンだったアルフレッド・アイゼンスタットが1945年8月14日に撮影したもので、原題は“V-J Day in Times Square (タイムズスクエアの対日戦勝記念日)”、 『ライフ』1945年8月27日号で発表されました。なお、対日戦の勝利を記念する“V-J Day”は、現在では、降伏文書の調印が行われた(1945年)9月2日とされていますが、この写真が発表された時点(=降伏文書の調印前)では、玉音放送で日本の降伏が発表された8月14日(米国時間)を“V-J Day”と呼んでいたようです。

 もともとの写真は縦型で、水平と女性の全身像が撮影されていますが、切手では、シリーズのフォーアットの横型にあわせて2人の上半身の身にトリミングされています。また、背後の人物の位置関係なども修正されています。

 なお、アイゼンスタットの写真とは別に、米海軍の報道班員だったヴィクター・ヨルゲンセンも全く同じ場面をとらえた写真“Kissing the War Goodbye”を発表しています。この写真は米国政府の著作物であるためパブリックドメインとなっており、8月15日付の『ニューヨーク・タイムズ』では、こちらを掲載しています。

 写真の水兵、メンドンサさんは、戦時中、太平洋地域での任務に就いていましたが、非番で一時帰国中、タイムズスクエアで対日戦勝利の報に接し、おもわず、近くにいた見ず知らずの女性にキスをしてしまったそうです。一方、キスされている女性のグレタ・ジマー・フリードマンさんは、当時、看護婦で、終戦の知らせを聞いて友人らとともにタイムズスクエアへ行き、地下鉄から通りへ出たところで、いきなり水兵にキスされたところを写真に撮られましたが、「水兵は自分たちのために戦ってくれたのだからキスさせてあげようと思った」と思って、されるがままになっていたそうです。また、メンドンサさんは、自分たちが写真に取られていることを自覚しており、写真を撮りやすいようにキスの時間を長くしていたのだとか。ちなみに、フリードマンさんは、2016年、92歳で亡くなっています。

 なお、米国の第二次大戦50周年シリーズについては、拙著『外国切手に描かれた日本』でも1章を設けてご説明しておりますので、 機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 サウスシェトランド諸島発見200年
2019-02-18 Mon 16:38
 1819年2月19日、英国の探検家ウィリアム・スミスが南極海のサウスシェトランド諸島を発見してから、200周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      サウスシェトランド諸島加刷

 これは、1945年、英領フォークランド切手に加刷して発行されたサウスシェトランド諸島の切手です。

 19世紀初頭、西洋人による南氷洋でのクジラ、アザラシ、ペンギンの狩猟が盛んになる中、1819年2月19日、英国の探検家ウィリアム・スミスが、南極地域の最も北方に位置するサウス・シェトランド諸島(南緯61度00分-63度37分、西経53度83分―62度83分)を発見し、英領と宣言。同年10月16日、同諸島最大のキング・ジョージ島に上陸しました。

 さらに、1820年1月下旬、ロシア海軍のベリングスハウゼン、英海軍のエドワード・ブランスフィールド、アメリカ人アザラシ漁師のナサニエル・パーマーが数日間のうちに相次いで南極大陸を“発見”します。一方、1818年にスペインから独立したチリ政府は、当初から南氷洋に関心を持っており、英領サウス・シェトランド島へのチリ国民の狩猟航海を支援していました。

 1898-99年、ベルギー人のアドリアン・ド・ジェルラシ率いる南極探検船ベルジカ が南極圏での越冬に成功すると、各国は相次いで南極探検に乗り出し、1901-04年にはロバート・スコット率いる英国探検隊はマクマード湾に基地を設営し、南極内陸部を探査。さらに、1911年12月14日にはロアール・アムンセン率いるノルウェー探検隊が南極点に到達しました。

 こうした中で、チリ政府は1906年頃から南極大陸での領有権確立に向けて隣国アルゼンチンと交渉を開始しましたが、領土を画定する条約の成立には至りませんでした。これに対して、1908年、英国は南緯50度以南、西経20-80度の南極半島を含む地域の領有を宣言。行政上は英領フォークランドの管轄下としました。

 南極での領有宣言を行った英国は、1913年3月、キングジョージ島に“サウスシェトランド諸島郵便局”を開局し、英領フォークランド切手を持ち込んで郵便サービスを開始しました。同局は、利用者が捕鯨関係者にほぼ限定されていたため、南氷洋での捕鯨が行われる時季(中心は12-2月)のみ開局される季節局でした。

 その後、1939年1月14日、ノルウェーが0度から西経20度までの地域の領有を宣言すると、同19日にはドイツも東経20度から西経10度の領有を宣言。これに刺激を受けたチリ大統領のペドロ・アギーレは、第二次欧州大戦勃発直後の同年9月7日、南極権益特別委員会を設立して調査を開始し、各国が大戦の混乱で南極に目を向ける余裕を失っていたタイミングを見計らい、1940年11月6日、布告1747号を発してチリ領南極の領有を宣言しました。

 これに対して、英国は南極での領有権を確保すべく、第二次大戦中の1943年、軍事基地を建設。これを受けて、南極の軍事基地と外部との通信に使う必要から、翌1944年以降、英領フォークランドに地名を加刷した切手を発行しました。なお、この時、加刷切手を発行した地域には、今回ご紹介のサウスシェトランド諸島のほか、グレアムランド、サウス・ジョージア、サウス・オークニー諸島があります。

 その後、1962年3月3日、南緯60度以南の地域については、新たに“英領南極”としてフォークランド諸島から分割して、英本国の外務・英連邦省の海外領土局に移管。1963年からは、英領南極としての独自の切手発行も始まりました。
 
 ちなみに、1982年のフォークランド紛争に関して、日本では、しばしば「英国は、自国の領土であれば、遠く離れた南半球のちっぽけな島であっても、決して侵略を許さなかった」という説明がなされることがあります。こうした物言いは、領土防衛の重要性を強調するという点では正論なのですが、上述のように、英国の南極政策にとってフォークランド諸島が重要な戦略拠点となってきたという歴史的経緯を考えると、フォークランド諸島は決して“遠く離れた南半球のちっぽけな島”ではなかったことがわかります。ましてや、英領南極の地域は、チリとアルゼンチンも領有権を主張しているとなれば、なおさら、アルゼンチンの“侵略”を看過するわけにはいかなかったという事情は記憶にとどめておいてもよいでしょう。
 

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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 チェ・ゲバラとキューバ革命
2019-02-17 Sun 01:20
 かねてご案内のとおり、えにし書房から発売予定(奥付上の刊行日は2月25日)の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の現物ができあがりましたので、ご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)

      チェ・ゲバラとキューバ革命(表紙)

 2005年に『人は見た目が9割』(竹内一郎 新潮新書)という本がベストセラーになりましたが、このタイトルの文言が人間関係の全てに有効かどうかはともかく、一定の成功を収めた政治家や革命家は、多くの場合、その民族にとって“良い顔”をしているケースが多いように思われます。

 歴史的な事実を冷静に観察すれば、革命家としては失敗続きで、人格的にも多くの問題を抱えており、ほとんど“詐欺師”に等しい人物でしかない孫文が、中国・台湾で“国父”の地位を獲得しえたのは、数多いる革命家の中で、彼が眉目秀麗だったことが大きいと思われます。わが国でも、2001-06年の小泉純一郎内閣が、政策の是非よりも、小泉の外見と“小泉劇場”とも呼ばれた派手なパフォーマンスによって、任期満了による退陣まで高い支持を維持し続けたことは記憶に新しいところです。

 そうした“見た目”を武器として一時代を築いた政治指導者という点でいえば、やはり、かつてジョン・レノンが“世界で最もカッコいい男”と評されたエルネスト・チェ・ゲバラを外すわけにはいきますまい。

 郵便学者としての僕の関心からすると、ゲバラと彼の肖像切手は非常に魅力的な対象で、いずれはじっくりと取り組んでみたいと前々から考えていました。

 しかし、2005年に上梓した『反米の世界史』で、キューバ革命とミサイル危機について1章を設けて扱ったものの、その後は、2010年の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』で、ごく簡単に、2005年以降のキューバ切手(特に、フィデル・カストロの肖像切手)について考察したものの、なかなかゲバラやキューバについて発表する機会がなく、細々と資料収集を続けるだけに留まっていました。

 そうした中で、NHKラジオ第1放送「切手でひも解く世界の歴史」の2017年10月5日放送回で、10月9日のゲバラ没後50周年に合わせて、ゲバラについてお話をする機会がありました。

 その記憶も鮮明なうちに、10月下旬、ブエノスアイレスでゲバラの横断幕などを掲げたデモ行進に遭遇し、そのことが強く印象に残ったので、帰国後の11月、あらためてレギュラー出演しているインターネット放送の“チャンネルくらら”で、ゲバラについてある程度まとまった話をさせてもらいました。

 NHKラジオ、チャンネルくららともに、予想以上に反応がよく、一定の手ごたえを感じたので、えにし書房の塚田敬幸社長に相談したところ、塚田社長も大いに興味を示していただき、2017年末、本書の企画が具体的に動き出しました。

 当初、本書は、2018年6月のゲバラ生誕90周年のタイミングにあわせての刊行を計画しており、それにあわせていろいろとイベントのスケジュールも組んでいたのですが、実際に作業を始めてみると、ゲバラの足跡や“ゆかりの地”は世界中のあらゆる国・地域に及んでいること、また、キューバの革命政権がラテンアメリカやアフリカの革命や紛争にも深くかかわっていることを、あらためて思い知らされ、ゲバラという対象の奥の深さに驚かされるばかりでした。

 もちろん、そうであればこそ、ゲバラが見ていた世界と同時にゲバラを見ていた世界を双方向から俯瞰して眺めることで、短いタイムスパンとはいえ“世界史”の一端を横断的に理解できるともいえるわけですが、それこそ、「言うは易し 行うは難し」の典型で、どれほど格闘しても、暗闇の中でマッチを一本だけ擦り、その炎で巨大な空間のごく一部のみを一瞬だけ垣間見るようなもどかしさを感じる日々が続きました。

 結局、原稿の分量は当初の予定をはるかに超過し(最終的に、2段組で696頁という分量になってしまいました)、2018年が過ぎて2019年1月末まで、一年間以上、海外出張中の期間も含めて、ほぼ毎日、なんらかのかたちで本書の作業をする“ゲバラ三昧”の生活を送り続けて、ようやく、本書の刊行にこぎつけた次第です。

 この間、刊行の遅れにより、多くの方々にご迷惑をおかけしてしまったことを深くお詫び申し上げます。

 ただ、時間がかかった分、今までの拙著の2-3冊分に相当する内容を1冊に詰め込んだ仕上がりになったのではないかとも自負しております。

 とまれ、今後、書店などで拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の現物をお見かけになりましたら、ぜひ一度、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 “カストロ首相”60年
2019-02-16 Sat 11:10
 1959年2月16日に、フィデル・カストロ(以下、フィデル)がキューバの首相に就任してから、きょうで60年です。というわけで、きょうはこの切手を持てきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・革命50年(フィデル首相就任)

 これは、2009年にキューバが発行した“革命50周年”の記念切手のうち、フィデルの首相就任を取り上げた1枚で、群衆を前に首相就任の演説を行うフィデルの後姿が取り上げられています。

 親米バティスタ政権打倒後の新政権についての具体的な構想が示されたのは、革命戦争前半の1957年7月、フィデルとオルトドクソ党首のラウル・チバスとキューバ国立銀行元総裁のフェリーペ・パソスの3人が、フィデルら叛乱軍M26の拠点であったシエラ・マエストラ山中で署名した「シエラ・マエストラ宣言」が最初です。

 同宣言の主な内容は、①革命市民戦線を結成し、闘争を統一、②臨時政府首班の指名、③外国の干渉排除、④軍事評議会の拒否、⑤一九四〇年憲法の復活、⑥腐敗根絶、⑦遊休地の優勝接収、などで、②の首班指名はパソスの要求によって盛り込まれたもので、パソスは自らが“大統領”になる野心を持っていました。

 その後、革命派が攻勢を強める中で、1958年8月、フィデルら反バティスタ勢力各派の代表者はマイアミでバティスタ打倒後の臨時政府首班指名についての議論を行い、マヌエル・ウルティアが大統領として推薦されました。ウルティアは元最高裁判事で、1953年のモンカダ兵営襲撃事件後のフィデルに対する裁判で、非常事態下にあっては武装抵抗も憲法上容認されうるとの判断を示したことがあり、フィデルら叛乱軍のみならず、既成政党の支持者にも受け入れやすい人物でした。

 こうした経緯を経て、1959年1月1日、バティスタ政権が崩壊すると、マイアミでの協議に基づき、ウルティアが大統領就任を宣誓。4日にはハバナで臨時革命政府が樹立され、翌5日には全国弁護士会会長のミロ・カルドを首相とする新内閣が発足し、M26からはアルマンド・ハーツ(教育相)とファウスティーノ・ペレス(不正取得資産回復担当相)が入閣しました。

 バティスタ政権打倒の最大の功労者は、いうまでもなく、フィデルらM26でしたが、革命当初の臨時革命政府では、バティスタ政権時代の教訓から、「軍人は政治には介入してはならない」としてシビリアン・コントロールの原則を守るため、フィデルらゲリラの主要メンバーはあえて政府に参加しませんでした。ちなみに、この時点でのフィデルの立場はキューバ人民軍総司令官です。

 これに対して、一方、首相のカルドナは、もともと、最後までバティスタとの話し合いによる政権交代を目指していた“穏健派”であり、対米協調路線の維持を主張するなど、フィデルらM26とはかなりの温度差がありました。

 このため、新政権内部での主導権を確保しようとしたカルドナは、1月17日、大統領のウルティアが慰留することを想定して辞表を提出し、大統領とM26に揺さぶりをかけます。ところが、政治的な駆け引きの機微に疎いウルティアは辞表を受理してしまい、あわてた大統領秘書官がカルドナに辞表を返却し、辞任劇はひとまず収まるという一幕がありました。

 こうした政治的混乱もあって、M26を中心にフィデルの首相就任を求める声が上がり、2月7日、フィデルと大衆デモの圧力に押されたカルドナ政権は国民議会を解散せざるを得なくなります。なお、これを機に、1976年までキューバでは選挙が実施されなくなりましたので、事情はどうあれ、革命キューバは議会制民主主義国家ではなくなりました。
 
 そのうえで、2月16日、フィデルは「首相は政府の全般的政策を代表する」との条件つきで首相に就任。以後、2008年まで続くフィデルの超長期政権がスタートするのです。

 なお、2月25日付で刊行の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、その後のフィデルと革命キューバについて詳しくご説明しております。機会がありましたら、ぜひ、実物を手にとってご覧いただけると幸いです。


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 ソ連軍のアフガニスタン撤退30年
2019-02-15 Fri 12:17
 1989年2月15日にソ連軍がアフガニスタンから完全撤退して、きょうで30年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アフガニスタン・レーニン

 これは、1980年、親ソ政権時代のアフガニスタンで発行された“レーニン生誕90年”の記念切手です。当時のアフガニスタンがソ連の影響下にあったことを如実に示す1枚として持ってきました。

 1953年から55年にかけて、アフガニスタン政府は再三に渡って米国に軍事援助を要請したものの、米国はこれを拒否します。1953年のモサデク政権打倒によりイランを“湾岸の憲兵”として取り込んだ米国にとって、アフガニスタンに重要な意味は見出せなかったからです。

 また、1955年、バグダード条約機構が成立し、パキスタンがその加盟国として西側陣営の反ソ包囲網の一翼を担うようになると、アフガニスタンは、パキスタンへの対抗上、ソ連との関係を強化していくことになります。

 一方、ソ連にとっては、アフガニスタンを勢力圏内に収めれば、そこから係争地カシミールを経てインド(冷戦下では親ソ派の大国と位置づけられていました)につながることができるようになれば、西側の反ソ包囲網を分断し、インド洋にも到達できます。このため、1956年以降、ソ連は、アフガニスタン空軍の創設をはじめ、アフガニスタンに対する軍事援助を進めたほか、1956年から始まった5ヵ年計画にも多額の長期融資を行いました。

 これに対してアフガニスタンからは、援助への見返りとして、綿花や羊毛、天然ガスなどがソ連領に送られ、アフガニスタン経済はソ連への従属を強めていきます。

 ところが、1971年、英国がスエズ以東から撤退したのを機に、アフガニスタンは外交方針を転換。英国とイランに接近し、パキスタンとも関係改善を志向するようになりました。しかし、こうした政策転換は、ソ連ならびにその強い影響下にあった左翼将校の反発を招き、1973年7月、国王ザーヒル・シャーが眼の治療のためにイタリア滞在中、ダーウド元首相を中心に軍の左翼将校と親ソ勢力のパルチャム党が無血クーデタを敢行しました。

 さて、共和革命に際して、いわゆるイスラム原理主義勢力は革命勢力を支援しましたが、政権獲得後、アフガニスタン共和国の大統領兼首相に就任したダーウドは彼らを弾圧。1974年6月には、カブールで原理主義者200人の一斉逮捕が行われました。その際、青年ムスリム機構の指導者でパシュトゥン人のグルブッディーン・ヘクマチヤルらはペシャワル(パキスタン)に亡命。翌1975年7月、ヘクマチヤルは、反ダーウド政権の名の下に、パキスタン政府の支援を得てパンジシールで武装蜂起しましたが、アフガニスタン政府軍に鎮圧されて失敗し、以後、ペシャワルを拠点に活動を続けていくことになります。

 ところで、共和革命当時、アフガニスタンは国家収入の40%を外国(その筆頭はソ連)に依存する状況となっていました。このため、ダーウド政権にとっては、国家建設に必要な援助を求めてソ連との関係を維持せざるをえなかったとはいえ、経済的な自立の達成(少なくとも、ソ連への過度の依存状況からの脱却)が緊急の課題であることは明白でした。

 このため、ダーウド政権は、石油収入を増大させた王制イランに着目。経済援助を得るために、イランとの外交関係を強化し、ソ連とは距離を置き、1975年以降、革命の際の同志であった親ソ勢力を政権中枢から排除することに力を注ぐようになります。

 当然のことながら、こうしたダーウドの姿勢は、ソ連との関係を背景に勢力を拡大しつつあった国内共産主義者たちとの間で摩擦を引き起こし、アフガニスタンの政局は急速に不安定化。ダーウド政権と共産主義者の対立が深まる中、1978年4月、アフガニスタン人民民主党(共産党)による反ダーウドのクーデタが発生しました。いわゆる四月革命です。

 クーデタの結果、ダーウドをはじめ政府首脳は暗殺され、同年6月には人民民主党のヌール・ムハンマド・タラキーを革命評議会議長兼首相とする左翼政権、アフガニスタン民主共和国が成立しました。この結果、1747年以来のパシュトゥン人支配体制は終結し、パシュトゥン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人のアフガニスタン主要4民族の参加する政治体制が樹立されました。

 さらに、人民民主党の指導部は、長年にわたってアフガニスタンの支配層を構成してきたパシュトゥン人のドッラーニー族ではなく、ギルザイ族の出身者で構成されていました。それゆえ、共産主義者として、旧王族のダーウド政権を打倒することで革命を達成したということともあわせ、革命政権は、旧王族の痕跡を完全に拭い去ろうとします。

 さて、四月革命にはソ連が関与していたため、1978年12月、タラキーはモスクワを訪問して、内乱条項を含むソ連=アフガニスタン友好善隣協力条約を締結。こうして、アフガニスタンは完全にソ連の勢力圏内に組み込まれることになりました。

 当時のソ連は、親米国家のイランがオイル・マネーを武器に周辺諸国への影響力を強めつつある現状に対して、アフガニスタンに安定的な親ソ政権を樹立することで対抗しようと考えていました。しかし、四月革命によって成立した共産主義政権は、「宗主国」ソ連の期待に沿うようなものではありませんでした。

 まず、人民民主党内部には、タラキー率いるハルク(人民)派とバブラク・カルマルの主導するパルチャム(旗)派の間に深刻な対立がありました。また、従来は民族的な傍流であった勢力がヘゲモニーを握り、旧王族の痕跡を拭い去ることに躍起になっているという構図は、複雑で保守的な部族社会から構成される地方において、新政権への嫌悪感は抜きがたいものとすることになりました。さらに、イスラムの信仰に基づく伝統的な共同体にとって、共産主義(=無神論)が不倶戴天の敵であることは言うまでもありません。しかも、そうした新政権が土地改革をはじめ急進的な社会主義政策を強行していったことで、国民各層の反感は急激に沸点に達します。

 このため、はやくも1978年10月、クナールでムスリムの反乱が発生したのを皮切りに、各地でムスリムの抵抗運動が頻発。翌1979年3月、ヘラートでイスラム原理主義者による大規模な武装デモが展開され、5000人もの死者が発生したことで、反政府闘争は公然化し、アフガニスタン全土は実質的な内戦に突入します。

 こうしてアフガニスタン情勢は日増しに緊張していきましたが、イラン情勢に気を取られていた米国はほとんど反応を示しませんでした。特に、1979年2月、アフガニスタン駐在の米国大使アドルフ・ダブスを、アフガニスタン人民民主党パルチャム派がイスラム原理主義者の犯行に見せかけて誘拐・殺害した際、カーター政権が適切な制裁措置を取らなかったことで、ソ連は米国がアフガニスタン問題に関与する意志がないものと理解し、アフガニスタンへの武力侵攻を決意します。

 一方、アフガニスタン国内では、全土が内戦に突入するという騒然とした空気の中で、1979年9月、人民民主党内の権力闘争から、大統領のタラキーが殺害され、政権ナンバー2のハフィーズッラー・アミーンが全権を掌握します。

 アミーン政権は、ソ連のさらなる支援を得てアフガニスタンの社会主義化を強行しようとしていましたが、ソ連としては、急進的な社会主義化政策を強行することによって、アフガニスタン国内のイスラム抵抗運動を激化させていアミーン政権に対しては大いに懸念を持っていました。

 また、1979年2月のイスラム革命により、イスラム共和国体制を樹立していたイランは、親米国家から反米国家へと変質したとはいえ、東西冷戦の二極構造を前提とする既存の国際秩序に異議を唱え、周辺にイスラム的な世界秩序を拡大する姿勢(「革命の輸出」路線)を示していました。イラン発のイスラム原理主義運動がアフガニスタンに波及し、さらには、連邦を構成する中央アジア諸国へと波及することになれば、それはただちに「社会主義共和国連邦」というソ連の体制の根幹を揺るがしかねません。それゆえ、「米国の憲兵」から革命の輸出を標榜するイスラム共和国に代わったところで、イランの脅威がソ連にとって深刻なものであることになんら変わりはありませんでした。

 したがって、ソ連としては、性急な社会主義化を強行して国内のイスラム抵抗運動を激化させているアミーン政権を排除し、イスラム抵抗運動を緩和しうる穏健な共産主義政権の樹立をはかることが、国益という観点からは、当然の選択となります。

 かくして、イランでの米国大使館占拠事件による反米感情とイスラム運動の昂揚を確認した上で、1979年12月27日、ソ連は前年に締結した善隣協力条約に基づいてアフガニスタンに進駐。アミーンを暗殺し、ソ連の意向に忠実なバブラク・カルマル(四月革命時には革命評議会副議長。この時点ではチェコスロバキア大使に転出)を大統領兼首相とする親ソ体制を樹立します。

 友好善隣協力条約が締結されていたとはいえ、ソ連正規軍がアフガニスタンに直接侵攻するという異常事態は、全世界から衝撃をもって受け止められ、多くの国がソ連を非難し、西側諸国は1980年のモスクワ五輪をボイコットすることでこれに応えました。

 一方、アフガニスタン国内では、ソ連軍の侵攻という新たな事態を受けて、1980年1月、反政府ゲリラの大同団結によるアフガニスタン解放イスラム同盟が結成され、ソ連軍とその支援を受けたカルマル政権に対するムジャーヒディーン(イスラム戦士)の抵抗運動が展開されました。抵抗運動の組織としては、その後も、国民イスラム戦線、イスラム・ムジャーヒディーン同盟、アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟などが成立しましたが、1985年5月、(新)アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟へと統合されます。こうした、ムジャーヒディーンの闘争に対しては、イスラム世界全域から義勇兵がペシャワルに集結。イスラム諸国の政府も彼らを積極的に支援しました。

 一方、ムジャーヒディーンたちに極めて大きな思想的影響を与えたとされるのが、パレスチナ出身のイデオローグ、アブドゥッラー・アッザームです。アッザームは、彼らに「奪われたムスリムの土地を奪回することは全信徒の宗教的義務である」と訴えつづけたが、こうした失地回復の主張は、次第に、パレスチナとアフガニスタンを結び付けるのみならず、ボスニアやチェチェンでのイスラム抵抗運動や、湾岸戦争以来サウジアラビアに駐留しつづける米軍への反感にもつながっていきました。

 しかし、東西冷戦下の西側世界では、映画『ランボー3 怒りのアフガン』を持ち出すまでもなく、イスラムの旗を掲げて戦うムジャーヒディーンの姿は単なる“反ソ闘争”としか理解されず、ムジャーヒディーンたちが、既存の国際秩序を否定するという点において、その反ソ感情を反米ないしは反西側感情へと転化させる可能性があるということは見落とされてきました。

 結局、戦力的に圧倒的な優位を保持していたソ連軍は、国際社会の非難とムジャーヒディーンの頑強な抵抗により、1989年2月15日をもって、なんら得るところなく、アフガニスタンからの完全撤退を余儀なくされます。

 アフガニスタン侵攻の失敗が、ソ連崩壊の直接的な一因となったことはいうまでもありません。

 ただし、我々は、ソ連を含む共産圏の崩壊を、東西冷戦における西側の勝利と単純に考えがちですが、その一方で、中東・イスラム世界では、ソ連崩壊の要因をアフガニスタン侵攻の失敗に求め、その崩壊は共産主義(=無神論)に対するイスラムの勝利であるという認識が厳然と存在しています。

 かくして、ソ連軍がアフガニスタンから撤退し、さらには、ソ連そのものが崩壊したことによって、西側社会とイスラム世界は、反ソというお互いの共通項が同床異夢にすぎなかったことを思い知らされるようになるのです。


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 ふんどしの日
2019-02-14 Thu 00:36
 きょう(14日)は、2と14で“ふんどし”と読む語呂合わせから、日本ふんどし協会(2011年12月14日設立)が制定した“ふんどしの日”です。というわけで、毎年恒例、“ふんどしの日”を祝して、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      箱根大名行列

 これは、2009年10月1日、「ふるさと切手:ふるさとの祭り」第3集として発行された“箱根大名行列”の連刷切手で、左側の切手の後列右側の人物に、見せることを目的につくられた褌の“下がり”(切手では赤色)がしっかり描かれています。

 切手に取り上げられた箱根大名行列は、毎年11月3日に行われる仮装行列で、1935年、箱根湯本で温泉博覧会が開催された際に初めて行われました。総勢およそ450人の行列には吹奏楽団も加わり、「下に~、下に~」のかけ声とともに旧街道や湯本の温泉街を湯本小学校から湯本富士屋ホテルまで、約4時間半かけて練り歩きます。切手の原画は、版画家の原田維夫が制作しました。

 さて、今回ご紹介の切手で、“下がり”が見えているのは、“挟み箱”を運ぶ従者(ただし、切手に描かれた場面では、交代要員として箱を持っていませんが)役の男性です。

 挟み箱というのは、江戸時代の携行用の担い箱で、主として武家が大名行列、登城など道中や外出をするとき、着替え用の衣類や具足を中に入れて、従者に担がせた黒塗り定紋付きの木箱のことです。古い時代には、外出時に運搬する衣類などは、箱を用いず、二つに割った竹の間に畳んで挟み、肩に担いで持ち歩いていました。その名残で、安土桃山時代になって、箱に担い棒を通すスタイルが定着した後も、“挟み箱”の名前で呼ばれました。ちなみに、江戸時代の町飛脚の飛脚箱や明治初年の郵便集配に用いられた箱も挟み箱の一種です。

 切手に描かれたふんどしの“下がり”は、股を割った時に綺麗に見えるよう、歌舞伎や時代劇の衣装として作られたもので、前垂れと股間の布(晒し)が別々になっています。芝居では役柄によって前垂れの色が異なっており、原則として、武士役は白の方形の羽二重や縮緬、助六に代表される“粋な江戸の色男”役では赤の方形の羽二重や縮緬、町人役は白の三角形の晒しとなっています。

 さて、相撲のまわしまで含めると、ふんどし関連の切手はいろいろとあります。やはり日本男児たるもの、毎年2月14日には、そうした切手を毎年1枚ずつご紹介していこうかと思いますので、西洋由来のチョコレートではなく、箱根蕎麦でも食べながら、お付き合いください。 


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 世界の切手:ウガンダ
2019-02-13 Wed 07:30
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年1月30日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はウガンダ(と一部ギニア)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ウガンダ・英女王即位25年

 これは、1979年にウガンダで発行された英女王即位25周年の記念小型シートで、余白に当時の大統領、イディ・アミンの肖像が入っているのがミソです。

 アミンの正確な出生地・生年月日は不明ですが、一般に、英保護領時代の1925年頃、コボコもしくはカンパラで生まれたとされています。

 幼い頃、父に捨てられ、母方の家庭で育てられたこともあり、ボンボのイスラム学校で初等教育を受けたのみでしたが、1946年、英植民地軍の王立アフリカ小銃隊に炊事係として雇われると、その巨躯を生かし部隊内の体育大会で活躍して注目を集め、植民地軍の中尉にまで昇進しました。

 1962年に独立したウガンダは、旧保護領時代にも存続していたブガンダ王国に対しては、大幅な自治権を認め、連邦の地位を与えていました。これに対して、独立時の首相、ミルトン・オボテは、中央集権志向の強いウガンダ人民会議を基盤としていたため、次第に、中央政府とブガンダ王国の対立が深まります。そうした中で、1963年、ウガンダは共和制に移行し、ブガンダ王ムテサ2世が形式的な君主としての大統領に就任しました。

 独立以前、中尉の階級だったアミンは、独立後、オボテにより国軍副司令官に抜擢されます。このため、彼はオボテに忠誠を誓い、政治資金工作の一環として、金と象牙の密輸を行っていました。1966年、オボテが自らも密輸に関与していたことが発覚し、議会で追及されると、逆上したオボテは反対派閣僚を逮捕した打だけでなく、憲法を停止して連邦制を廃止。大統領にしてブガンダ国王のムテサ2世はこれに強く反発し、連邦政府に対して首都からの退去を求めましたが、オボテはアミンに王宮を襲撃させ、ムテサ2世を追放しました。

 これを機に、オボテは大統領に就任してウガンダ人民会議による一党独裁体制を敷き、アミンは国軍参謀総長に昇進します。

 オボテは、アミンが掌握する国軍を背景に強権的な政策を進め、1967年には憲法を改正して大統領権限を強化するとともに、連邦制を廃止。1969年には政党を禁止して、本格的に野党支持者の弾圧を開始し、社会主義路線を採択して、身分や土地を基盤とする特権の一掃を呼びかける“庶民憲章”を発表しました。そして、1970年には国内の主な企業と銀行の株の60%を国有化しました。

 ウガンダ人民会議の一党独裁を容認した西側諸国でしたが、1970年の主要企業の国有化と東側諸国への接近には危機感を抱き、1971年1月、オボテが英連邦首脳会議のためシンガポール訪問中だった機会をとらえ、アミンを支援して軍事クーデターを起こさせ、オボテを追放します。

 西側諸国の支持を得たアミンは、1971年、大統領に就任。当初、アミンはブガンダと和解するため、1969年にロンドンで客死したムテサ2世の遺体をウガンダに運んで国葬を行ったほか、主要企業の株式の政府保有分を49%に引き下げるなど、穏健な国家運営を行っていました。

 しかし、1972年2月、アミンは突如、ユダヤ系の国外退去を命じ、イスラエルと国交を断絶。さらに、同年8月には、英保護領時代に入植したインド系住民を国外に追放します。当時、ウガンダの卸小売業や医療関係はインド系が中軸を担っていたため、国内の流通は麻痺状態に陥り、医療関係も大きな打撃を受けました。この他にも、オボテ支持を疑われた国民に対する弾圧も苛烈をきわめ、1979年までに約30万人(40万人説もあり)が虐殺され、農業生産も激減し、国民生活は困窮しました。

 こうした所業のゆえに、アミンは“黒いヒトラー”、“アフリカで最も血にまみれた独裁者”怖れられ、西側諸国はアミンを激しく非難します。このため、アミンは反イスラエル・反西欧の急先鋒であるリビアのカダフィやコンゴの独裁者、モブツと接近。東ドイツの諜報機関に協力し、ソ連からは巨額の武器支援を受けていました。

 1978年、アミンは、オボテの亡命先であり、長年にわたり国境問題を抱えるタンザニアに侵攻しましたが、タンザニア軍はウガンダ軍を撃退しただけでなく、首都カンパラまで攻めこみます。

 この敗戦を機に、アミンに対する国民の不満が爆発。1979年、反体制派のウガンダ民族解放戦線が武装蜂起すると、国軍もこれに呼応したため、4月13日、アミンは失脚し、リビア経由でサウジアラビアへ亡命。 民族解放戦線のユスフ・ルレが後継大統領に就任しました。その後のアミンはサウジアラビアで余生を過ごし、2003年、ジッダの病院で亡くなっています。

 さて、『世界の切手コレクション』1月30日号の「世界の国々」では、独裁者アミンについてまとめた長文コラムのほか、エンデベ空港、コーヒーの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のウガンダ(と一部ギニア)の次は、1月30日発売の2月6日号でのメキシコ、2月6日発売の同13日号でのブルガリア、本日(13日)発売の同20日号でのスーダン(と一部ギニアビサウ)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 ダーウィンの日
2019-02-12 Tue 04:32
 きょう(12日)は、進化論で知られるチャールズ・ダーウィンが1890年2月12日に生まれたことにちなむ“ダーウィンの日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エクアドル・ダーウィンとビーグル号

 これは、1936年、ダーウィンのガラパゴス諸島訪問100周年を記念して、同諸島を領有するエクアドルが発行した切手で、ダーウィンとビーグル号が描かれています。

 1831年にケンブリッジ大学を卒業したチャールズ・ダーウィンは、恩師ヘンズローの紹介で、同年末、英海軍の測量帆船、ビーグル号に乗船しました。

 ビーグル号は、1820年5月11日にテムズ川のウーリッジ造船所で進水し、1826-30年にはパタゴニア(アルゼンチン・チリ)とティエラ・デル・フエゴ諸島(チリ)で最初の水路調査を行いました。

 1831年に始まる航海では、ダーウィンは、当初、博物学者としてではなく、ロバート・フィッツロイ艦長の話相手のための客人の扱いでした。ビーグル号は1831年12月27日にプリマスを出航し、南米に向かう途中、西アフリカ沖のカーボヴェルデに寄港し、ダーウィンはここで火山などを観察して、航海記録の執筆を始めます。その後、南米東岸を南下し、ブラジルのバイーアを経てリオデジャネイロに到着したところで、艦の専任博物学者だったマコーミックが下船したため、ダーウィンがその後任となりました。

 その後、ビーグル号はモンテビデオ(ウルグアイ)、南米大陸南端のティエラ・デル・フエゴ島を経て、1834年6月、マゼラン海峡を通過。同年7月、ダーウィンは寄港地のバルパライソ(チリ)での1ヵ月間の病気療養を経て、各地で測量・調査を行い、1835年9月15日、ガラパゴス諸島のサン・クリストバル島(英語名:チャタム島)に到着しました。

 当時のガラパゴス諸島は流刑地として利用されていたため、当初、ダーウィンはこの地のゾウガメは島外から食料として持ち込まれたものと考えていましたが、ガラパゴス総督からゾウガメは諸島のあちこちに様々な変種がおり、詳しい者なら違いがすぐに分かるほどだと教えられ、初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づきます。

 こうして、1835年9月15日から10月20日までのガラパゴス諸島滞在中、ダーウィンは、ゾウガメ、イグアナ、マネシツグミ等に強い興味を示したものの、現地滞在中は、種の進化や分化に気がついていなかったようです。

 ガラパゴス諸島を後にしたビーグル号は、ニュージーランド、オーストラリアを経てインド洋を横断し、モーリシャス島、ケープタウン、セントヘレナ島を経て、ふたたび南米に向かい、バイーア、カーボヴェルデ、アゾレス諸島を経て1836年10月2日に英国のファルマス港に帰着。この間、ダーウィンは寄港した船に託して恩師のヘンズロー宛に報告書と標本を頻繁に送り、それらをヘンズローが博物学者たちに回覧していたことから、帰国したときには、すでに有名人になっていました。

 5年に及ぶ航海を通じて、ダーウィンは、①南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていくこと、②南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石があること、③ガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることを感得。これに、航海中に読んだライエルの『地質学原理』の「地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化する」という内容から着想を得て、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって新しい生息地ができ、生物がその変化に適応しうるのではないかと考えるようになります。

 このアイディアはその後、時間をかけて慎重に練り上げられていきました。

 たとえば、ダーウィンがガラパゴス諸島で収集した鳥類の標本は不十分で、採集場所の記録もないなどの不備も多かったため、彼は、鳥類標本については同船仲間のコレクションを参考にしています。また、進化論の重要な根拠となった鳥類のフィンチ類やマネシツグミ類については、ロンドンで標本の整理を担当した鳥類学者のジョン・グールドによって、それぞれ近縁な種であることが発見されました。

 こうして、さまざまな検証と論考の末、1859年に刊行されたのが『種の起源』です。同書で提起された進化論は、それまでの生命観を一変させる画期的なものとなり、それとともに、ガラパゴス諸島の名も広く世界に知れ渡ることになりました。


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 建国記念の日
2019-02-11 Mon 03:37
 きょう(11日)は建国記念の日です。というわけで、毎年恒例、記紀神話にちなんで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      鳥切手・15銭

 これは、1875年1月1日、外国郵便用として発行された“鳥切手”のうち、セキレイを描く15銭切手です。

 明治4年3月1日(1871年4月20日)に創業された日本の近代郵便制度は、明治5年7月(1872年8月)までにほぼ全土をカバーするようになりました。その反面、外国郵便に関しては、ながらく、日本人は全く手つかずの状況が続き、米仏の各国は開港地に“郵便局”を開設し、英国は香港切手を、米はそれぞれ本国の切手を持ち込んで、海外宛の郵便を行っていました。

 このため、明治5年3月1日(1872年4月8日)、明治政府は、まず、英仏米の在日郵便局を利用して外国との郵便交換を行うための「海外郵便手続」を公布。ついで、独自の外国郵便制度を創設するため、駐日米公使デロングの支援の下、米国人のサミュエル・ブライアンを交渉担当者として雇用し、米国との協議を開始します。

 その結果、明治6(1873)年2月、日米間で「皇米郵便交換条約」が結ばれ、明治8(1875)年1月1日、日本の外国郵便が正式にスタートしました。ちなみに、創業後の第一便は、西回り航路が1月7日発のネヴァダ号、東回り航路が翌8日発のアルトナ号で、いずれも、米パシフィック・メイル汽船会社の船でした。

 今回ご紹介の切手は、外国郵便の開始にあわせて発行されたもので、15銭という額面は、米国宛の書状基本料金(15グラムまで)に相当しています。ただし、15銭の料金は、1年後の明治9(1876)年1月1日に12銭に値下げすることが当初から決められていました。

 記紀神話によれば、国産みの際、性交の方法がわからなかったイザナギとイザナミが、セキレイが尾を上下に振る動作を見て、性交の仕方を悟ったとされています。このことから、セキレイは男女和合の象徴とされるようになり、婚礼の際の床飾りの一つに鶺鴒台が置かれるようになりました。

 切手はこのことを踏まえて、郵便を通じての日米間の友好親善を夫婦の和合に見立てて表現するため、セキレイを図案として取り上げたものと考えられます。

 さて、常々書いていることですが、記紀神話の記述は、それがそのまま歴史的事実であるとは考えられません。しかし、そういうレベルでいえば、『聖書』の記述にも歴史的事実としては認めがたいものが多々あるわけで、欧米のキリスト教世界で(信じるか信じないかは別の問題として)『聖書』の物語をたしなみとして国民に教えているのであれば、わが国でも民族の物語としての記紀神話を日本人の大半が常識として共有しているのが本来の姿でしょう。

 したがって、僕に言わせれば、歴史の授業ではなく、国語の授業で、小学生のうちから徹底的に記紀神話を教え込むべきだと思うのですが、そういうことを言うと、左巻きの人たちは「戦前の皇国史観が大日本帝国の侵略戦争を支える役割を果たした」などと主張して反対するんでしょうな。困ったものです。


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 ウイグル問題は人類の恥
2019-02-10 Sun 11:20
 トルコ外務省の報道官は、きのう(9日)、声明を発表し、トルコ系少数民族でムスリムが大半を占めるウイグル族に対する中国の人権侵害について、「100万人以上のウイグル族住民が収容所や刑務所で拷問や洗脳にさらされていることはもはや秘密ではない」と指摘、国際社会や国連に対し「人道的悲劇を終わらせるための効果的措置」を取るよう呼び掛けるとともに、この問題は、“人類にとって大きな恥だ”と批難しました。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

      限新章加刷(孫文)

 これは、1933年、新疆省内(当時)に限って有効であることを示すため、中国切手に“限新省貼用“と加刷して発行された1円切手です。

 現在の新疆ウイグル自治区に相当する東トルキスタンの地域が中国中央の支配下に入ったのは18世紀のことです。19世紀には各地で反清反乱が相継ぎ、ヤクブ・ベクの乱によって清朝の支配は一時的に崩壊しましたが、その後、清朝はこの地を再征服し、1884年に新疆省が設置されました。

 1912年の中華民国発足後は、漢民族の省主席によって半独立的な領域支配が行われており、通貨も中国中央とは別個のモノが使われていました。

 そもそも、辛亥革命後の中国は、各地に軍閥が割拠し四分五裂状態になっており、通貨も各地の軍閥が独自に発行していたため、各地の通貨間には為替差が存在しましたが、なかでも、新疆(東トルキスタン)や東北、雲南、四川などでは北京や上海、南京など都市部との為替差が大きかったため、為替差損・差益を防ぐため、使用地域を限定した加刷切手が発行されています。今回ご紹介の切手は新疆省でのみ有効という意味で“限新省貼用”との加刷がなされたものですが、1919年の時点での交換レートは北京や南京で流通していた中国元100元に対して、新疆元は260元と2.5倍もの開きがありました。

 このように、中国中央の統制が、かならずしも十分に新疆(東トルキスタン)の地に及んでいなかったなかで、1944年、東トルキスタンの北部、イリ渓谷のグルジャ(伊寧市)で、ソ連軍の支援を受けたウイグル人の武装蜂起が発生。同年11月12日に中華民国からの独立と(第2次)東トルキスタン共和国の建国が宣言されます。

 東トルキスタン共和国は12月までにイリ地区の全域を占拠し、翌1945年にはカザフ系の武装勢力がアルタイ地区、タルバガタイ地区を占領し、東トルキスタン政権に合流。いわゆる三区政権が誕生します。

 1945年9月、東トルキスタン軍がウルムチへの進軍を開始すると、新疆省政府はソ連に和平の仲介を要請。東トルキスタンの頭越しに行われた中ソ交渉を経て、ソ連は東トルキスタン主席のアリハーン・トラを拘束して、東トルキスタンに圧力をかけました。このため、1946年、東トルキスタンはソ連の意を汲んで新疆省政府に合流し、東トルキスタン・イリ専署(イリ専区参議会)と改称。 新疆省政府と東トルキスタン・イリ専署が合同して新疆省連合政府が成立しました。

 しかし、連合政府は内部対立から1947年5月頃に崩壊。副主席アフメトジャンをはじめとする旧共和国派はイリ地方に退去し、旧東トルキスタン共和国の領域の支配を再開。さらに、翌6月には、ソ連の支援を受けたモンゴル人民軍と中華民国軍が新疆で武力衝突しています。

 一方、1949年、国共内戦の帰趨がほぼ明らかになる中で、中国共産党は東トルキスタンに鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を開始。毛沢東はイリ政府首脳陣を北京の政治協商会議に招きましたが、8月27日、北京行きの飛行機に乗った3地域首脳11人は、そのままソ連領内アルマトイに連行・殺害され、東トルキスタン政府は事実上消滅。残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィは、陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明せざるをえなくなりました。また、9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も共産党政府への服属を表明しています。

 これを受けて、1949年末までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合され、1955年には現在の新疆ウイグル自治区が設置されました。

 現在、東トルキスタンはチベットと並んで、中国にとって最も深刻な“民族問題”の一つとなっており、中国共産政府による人権侵害の象徴的な存在となっています。


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 CRフラメンゴのトレセンで火災
2019-02-09 Sat 02:33
 ブラジルの有名サッカークラブ、CRフラメンゴのリオデジャネイロ(以下、リオ)にあるトレーニングセンターで、きのう(8日)未明、火災が発生し、消防当局によると、少なくとも10人が死亡、3人がけがをしたそうです。というわけで、亡くなられた方々の御冥福と負傷された方々の一日も早い御快癒をお祈りしつつ、この切手を持ってきました。(画像は クリックで拡大されます)

      ブラジル・CRフラメンゴ100年

 これは、1995年にブラジルで発行された“CRフラメンゴ100周年”の記念切手です。

 ブラジルにサッカーをもたらした人物については、諸説ありますが、一般には、1893年、繊維工場で働くためにリオに移住したスコットランド出身のトーマス・ドノホーが挙げられています。

 移住前、母国の複数のクラブチームでプレイしていたドノホーは、移住の際にスコットランドからサッカーボールとシューズを持ちこみます。翌1894年4月、彼の提案で5対5のミニサッカーが開催されたのが、ブラジルで行われた最初のサッカーの試合で、このときサッカーの楽しさや魅力に惚れ込んだカリオカ(リオ市民)の間に、急速にサッカーが普及していったといわれています。

 以後、ブラジル人によってフットボール・クラブ(FC)が創設されるようになり、現在、リオの4大クラブとされているCRフラメンゴが1895年、ヴァスコ・ダ・ガマが1898年、フルミネンセが1902年、ボタフォゴが1904年に相次いで結成されました。

 このうち、最初に創設されたCRフラメンゴは、正式名称をクルーベ・ジ・ヘガータス・ド・フラメンゴ(Clube de Regatas do Flamengo)といいますが、その名が示す通り、もともとはボートのレガッタ・チームでした。今回ご紹介のクラブ創設100周年の記念切手の左上に描かれた創設当時のエンブレムに、錨とオールが描かれているのもそのためです。

 フラメンゴというクラブ名は、リオ市内、グアナバラ湾に面したカテテ地区とボタフォゴ地区の間にあるフラメンゴ地区に由来します。同地区は、1599年、オランダ人のオリヴィエ・ファン・ノールトが上陸を試みてポルトガル人と戦闘になったことから、ポルトガル語でファンノールトの出身地“フランドル(現在の国名でいうと、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)”を意味するフラメンゴの名で呼ばれるようになりました。

 なお、CRフラメンゴと言えば、赤と黒の横縞のユニフォームが有名ですが、サッカーのクラブとして活動を始めた当初は、赤と黒の間に白線が入っていました。ところが、第一次大戦でブラジルが協商国側で参戦すると、赤・白・黒の色遣いは敵国ドイツの国旗(当時)と同じであるということから、白線を除いて赤と黒の組み合わせに変更され、現在に至っています。

 ちなみに、CRフラメンゴを含むフラメンゴ地区とその歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも、関連の切手や絵葉書をご紹介しつつ、詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 日本画家の堀文子さん死去
2019-02-08 Fri 02:24
 日本画家の堀文子さんが、5日、心不全のため亡くなっていたことが、昨日(7日)、発表されました。享年100歳。謹んでご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      つる女房:鶴

 これは、1974年2月に発行された“昔ばなしシリーズ”の第2集「つる女房」のうち、主人公の若者が、機を織っている場面を見てはいけないという約束を破り、妻の正体を見てしまったため、鶴は元の姿に戻り仲間とともに飛び去っていく場面を取り上げた“鶴”の切手です。

 昔ばなしシリーズは、ストーリーが発端・経過・結末のわかりやすい三部構成になっていることを条件に、井沢純 、臼田甚五郎 、関敬吾 、深川恒喜の4人の専門家の意見もふまえて題材を選び、それぞれ、日本画家が3枚の原画を制作しました。このうち、第2集の「つる女房」の3点の原画を制作したのが堀さんでした。

 堀さんは、1918年、東京市麹町区平河町(現:東京都千代田区麹町)生まれ。女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)在学中の1938年に第2回新美術人協会展に入選し、1940年に同校を卒業後、新美術人協会会員となりました。

 昭和20年代には『キンダーブック』、『ふたば』など児童向け出版物に多くの作品を描き、1952年には、優れた女流日本画家に与えられる上村松園賞を受賞。1961-63年、世界放浪の旅を経験したことで日本画の持つ色彩や顔料の美しさに回帰し、自然をモチーフとして取り上げ、移りゆく自然の情景を繊細な描写と優美な色彩で描き出す画風を確立しました。

 今回ご紹介の切手が発行された1974年には、創画会の結成に参画したほか、多摩美術大学日本画科教授に就任。定年後も1999年まで同大客員教授として後進に日本画の指導を行いました。

 その画業と併せて、恒例になってからも精力的な活動を展開したことでも知られ、2000年、82歳の時には幻の高山植物ブルーポピーを求め、ヒマラヤ山脈の高地を踏破し、「幻の花 ブルーポピー」を制作。その後も、解離性動脈瘤を経て、ミジンコなどに生命の美しさを見いだした作品を発表し続け、2004年の画文集『生きて死ぬ智慧』が約55万部のベストセラーとなったほか、2017年には語録集『ひまわりは枯れてこそ実を結ぶ』が刊行されています。

 なお、切手に関しては、今回ご紹介の切手を含む「つる女房」のほか、日本の歌シリーズの「もみじ」や「おぼろ月夜」などの原画も手掛けており、切手収集家にとってもなじみのある画家でした。
 

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 おかげさまで5000回
2019-02-07 Thu 02:34
 2005年6月1日にスタートしたこのブログですが、毎日1回ずつ更新していたら、今日の記事でちょうど5000回目になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。というわけで、きょうは額面“5000”のこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・イグアスの滝(1938)

 これは、1938年にブラジルが発行した“イグアスの瀧”を描く5000レイス切手です。

 世界最大の瀧として知られるイグアスの瀧は、ブラジルとアルゼンチンの両国にまたがっていますが、約80%はアルゼンチン側にあります。地名は先住民族のグアラニ族の言葉で「大いなる水」の意味で、季節により150-300に変化する大小無数の瀧で構成されており、それを縫うように遊歩道が配されています。瀧の最大の見どころとされる“悪魔の喉笛”はアルゼンチン側に位置しており、高さ82m、幅150mのU字型で長さ700mという壮大な景観です。

 さて、この切手が発行された当時のブラジルは、“1930年10月3日革命”の軍事クーデターで政権を掌握したジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスの支配下にありました。

 ヴァルガスは、1882年、ブラジル南部のリオグランデ・ド・スル州サン・ボルジャ生まれ。ポルト・アレグレ法科大学卒業後、政界入りし、州議会議員、連邦議会議員、大蔵大臣、リオグランデ・ド・スル州知事等を歴任しています。

 1930年の大統領選挙では、コーヒーの産地として知られるサンパウロ州と畜産・酪農で知られるミナスジェライス州の有力者で政権をたらいまわしにするカフェ・コン・レイテ体制の慣例に従い、ミナスジェライス州出身のアントニオ・カルロスが出馬の準備を進めていましたが、現職のワシントン・ルイス大統領は慣例を破ってサンパウロ州知事のジュリオ・プレステスを与党の大統領候補に指名。このため、後継指名を逃したカルロスを中心に反サンパウロ勢力を糾合した“自由同盟”が結成され、ヴァルガスが大統領候補として擁立されることになりました。

 はたして、3月1日に行われた大統領選挙では、プレステスが109万7000票を獲得して当選し、ヴァルガスは74万4400票で敗れましたが、選挙後の1930年7月、自由同盟の副大統領候補だったジョアン・ペソアが暗殺されると、カフェ・コン・レイテ体制に対する国民の批判が殺到。それを背景に、同年10月3日、リオグランデ・ド・スルとミナスジェライスで青年将校らによる叛乱が発生します。

 以後、叛乱はブラジル南部を中心に拡大し、10月24日、ワシントン・ルイスは辞任。ヴァルガスはリオグランデ・ド・スルから鉄道でリオデジャネイロ入りし、11月3日、臨時大統領に就任しました。

 ヴァルガスは行政権のみならず立法権も掌握し、1891年に公布された共和国憲法を停止。連邦議会と州議会は解散を命じられ、全国の州知事は罷免され、各州には臨時政府の任命する執政官が派遣されることになりました。特に、ヴァルガス体制に不満なサンパウロ州に、同州出身者ではなく、ペルナンブーコ州出身のジョアン・アルベルトが執政官として派遣されると、州内の反ヴァルガス勢力は“護憲革命”を主張して、1932年7月9日、武力衝突に発展します。

 結局、護憲革命は1932年10月、圧倒的な兵力を有する政府軍の前に敗退しましたが、ヴァルガス政権も一定の譲歩を余儀なくされ、サンパウロ州の執政官には同州出身のアルマンド・デ・サレス・オリヴィエが任じられ、1933年5月には制憲議会選挙が実施されることになりました。

 こうして、制憲議会の開院を経て、1934年7月、非識字者を除く18歳以上の男女に選挙権を与えたほか、労働者保護や初等教育の義務無償化などを盛り込んだ新憲法が制定された。そして、新体制下での初代大統領は議会の間接選挙で選出するとの規定に則り、ヴァルガスは議会によって選出され、正式に大統領に就任します。

 ところで、1934年憲法では、大統領の任期は1期4年で再選は不可とされていたため、1937年末には大統領選挙が実施される予定でしたが、1937年9月、共産党によるクーデター計画(コーエン計画)が“発覚”したため、ヴァルガスは「戦時令」を布告し、11月10日には連邦議会を停止。続いて、ヴァルガスは新憲法を発表し、イタリア・ファシズムに倣った“エスタード・ノーヴォ(新国家)”体制を成立させ、自らを“貧者の父”との家父長イメージで演出するとともに、ナショナリズムを前面に押し出し、多種多様な出自の国民を“ブラジル人”として統合すべく、権威主義体制を構築していきました。

 その一環として、エスタード・ノーヴォ体制下では、サンバサッカーがブラジル文化を代表するものとして奨励されましたが、今回ご紹介の切手も、また、ブラジルを代表する風景としてイグアスの瀧を取り上げることで、ブラジル人のナショナリズムを涵養する手段の一つとして発行されたものと考えることができます。

 なお、ヴァルガス政権下のブラジルについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 切手に見るソウルと韓国:1969年第2次経済開発5カ年計画
2019-02-06 Wed 10:46
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』1月18日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、ともかくも、2019年最初の掲載でしたので、干支にちなんで、こんなモノをご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・第2次経済開発特印

 これは、1969年5月20日に発行された“第2次経済開発”のキャンペーン切手とその初日印ですが、今回は、切手ではなく、豚の貯金箱が描かれたスタンプが主役です。

 日本では亥年の動物はイノシシですが、朝鮮半島では、中国同様、ブタです。

 朝鮮の伝統祭祀では神への供物としてはブタが用いられますが、あわせて、ブタには、神意を人々に伝え、物事を決定させる神通力があるとも考えられてきました。

 たとえば、高麗王朝を開いた太祖(在位918-43)の祖父、作帝健は西海龍王を悩ませていた老狐を退治し、その褒美として龍王の娘とブタを得ましたが、故郷に連れて帰ったブタは小屋に入ろうとしませんでした。そこで、ブタを放ち、ブタが落ち着いた松岳の南麓に落ち着いたのですが、ここが、孫の代になって高麗王朝の都、開城の元になったといわれています。

 また、漢字の“豚”の朝鮮語音、“トン”が金銭を意味する“トン”と同音であること、ブタは多産であることから、家に財産や福をもたらす守護神もしくは商売繁盛の財神ともみなされ、夢にブタが出てくるのは「服が来る」、「食べ物を得る」などの吉祥の暗示とされています。こうしたこともあって、新たな事業を起こすのは、陰暦正月の最初の亥の日が良いとの俗信もあります。ちなみに、ことしは、昨日の5日が陰暦元日なので、あす・7日の乙亥の日が最初の亥の日です。

 今回ご紹介の記念印に、ブタの貯金箱が描かれているのも、そうした事情を踏まえてのことでしょう。

 1965年、日本との国交正常化により、日本から総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の援助資金を得た韓国政府は、1967年、第2次経済開発5カ年計画を発動します。

 同計画の目玉のひとつは高速道路建設で、1968年には、ソウル=仁川間を結ぶ24キロの京仁高速道路が開通。以後、“全国の1日生活圏化(全国を1日で往復できるようにする)”を目標として、1970年6月にはソウルと釜山を結ぶ京釜高速道路も開通しました。切手の右上にも、歯車の中に高速道路のイメージが描かれています。

 切手の下部は貯金の窓口が描かれており、経済成長によって豊かになった国民に対して“勤勉貯蓄”に励むよう呼びかけるデザインです。ブタの貯金箱と工場を組み合わせた記念印のデザインも、国民の貯蓄が韓国の金融を強くし、産業建設につながるというイメージを表現したのでしょう。

 ところで、陰陽五行説では十干ごとに色がありますが、ことしの干支、己亥の己は黄色で、黄色が黄金を象徴することから、ことしは“黄金のブタ年”と考える韓国人も少なくないそうです。

 もっとも、前回、2007年の干支は丁亥で、丁はオレンジ色を意味するので、このときも“黄金のブタ年”という人がありました。

 “黄金のブタ年”に生まれた子は、うまれつき、財運と福に恵まれているとの俗信がありますがが、それが、丁亥なのか、己亥なのかは(俗信であるがゆえに)定かではありません。ただし、わが国で丙午の年に出生数が激減したことに見られるように、子供を作る夫婦の気分の問題というのは重要で、韓国では、丁亥の2007年の新生児は49万人で、前年の44万人を1割以上上回っています。このため、記録的な低出生率に悩む韓国では、今回もまた、子供の出産が例年より増えるのではないかと期待されています。

 ちなみに、古い伝承によれば、地下世界に住み、妖術を使うという“黄金のブタ”が、ある男の妻を拉致して自らの妻にしたことがありました。男は妻を探して地下世界を訪れ、豚を退治して妻を取り戻したが、妻は妊娠しており、黄金のブタの子を産みましたが、その子こそ、新羅末期の文人で朝鮮漢文学の祖ともされる崔致遠(858年生)だったといわれています。もっとも、崔致遠は朝鮮史に残る知の巨人ですが、新羅末期の乱世にあって志を進めることができずに官を辞し、晩年は海印寺に隠棲したと伝えられているので、“黄金のブタ”の子であっても、必ずしも財運に恵まれるとは限らないようですが…。


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 新年快樂 吉祥如意
2019-02-05 Tue 01:35
 きょう(5日)は旧正月・春節です。というわけで、亥年の正式なスタートですから、干支にちなんでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・年賀(2019)

 これは、2019年1月12日に香港で発行された2019年用の年賀切手のうち、豚の貯金箱を取り上げた1枚です。

 干支の“亥”は、もともとは“閉ざす”を意味する“閡”で、草木の生命力が種の中に閉じ込められた状態を表しています。後に、庶民にも覚え易いように動物と結び付けられ、亥には“猪”が割り当てられましたが、この字は、日本語では“イノシシ”ですが、中国語では、今回ご紹介の切手が示すように、“ブタ”です。

 豚は1度のお産で10匹前後の子を産むことから、洋の東西を問わず、“数が増える”縁起物とされています。また、西洋では、古来、粘土の陶器、“Pygg”の壺にコインをためる習慣がありましたが、これが、“Pig”に転じて、14世紀以降、豚の貯金箱が作られるようになり、世界的に拡散したそうです。
 
 まぁ、そうした理屈はともかく、この切手は単純にかわいらしくて、個人的にはお気に入りの1枚なので、その発行目的どおり、春節にあわせてご紹介してみました。


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 ビートルズの日
2019-02-04 Mon 01:18
 きょう(4日)は、ザ・ビートルズの愛称“Fab4 (fabulous four:伝説的な 4人)”と2月4日の“Feb4”をかけて、“ビートルズの日”だそうです。というわけで、ビートルズ関連の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ ジョン・レノン

 これは、2016年3月、ハバナで開催された切手展<Copa Cuba de Filatelia >に際して発行された、キューバ国内の著名人の銅像を題材とした記念切手のうち、ビートルズのメンバーの写真を背景に、ハバナ市内のジョン・レノン像を取り上げた1枚です。

 キューアとジョン・レノンとの関係といえば、しばしば、ジョン・レノンが“ハイスクール時代”を回想して「あのころ世界で一番カッコいいのがエルネスト・チェ・ゲバラだった」と語ったとのエピソードが紹介されていますが、これは歴史的な事実関係とは若干の齟齬があります。

 すなわち、ジョンは、1958年9月に日本の中学・高校に相当するグラマー・スクールのクオリー・バンク校を卒業し、リバプール・カレッジ・オブ・アートに入学していますが、この時点では、キューバは依然としてバティスタ政権の支配下にありました。そして、1959年1月にキューバ革命が達せられたときには、ジョンは同カレッジに在学中でした。ちなみに、ジョンが同カレッジを卒業するのは、1960年7月のことです。

 一方、ゲバラは、革命戦争の時代からキューバ国内では知られた存在でしたが、1959年1月の革命達成の時点では世界的にはほぼ無名の存在でした。たとえば、米国のグラフ誌『ライフ』にゲバラが初めて登場するのは、ソ連副首相のミコヤンがキューバを訪問し、キューバ政府の要人が出迎える場面を撮影した写真が掲載された1960年2月22日号でしたが、この時の写真には、閣僚の一人としてゲバラの姿も写っているものの、キャプションにも本文記事にも彼の名前はありません。

 欧州において、ゲバラの名前を特定したうえで、彼の肖像が流布するようになったのは、英誌『タイム』の1960年8月号の表紙が最初で、それまでの英国社会では、よほど強い関心を持ってキューバ情勢をフォローしていない限り、ゲバラの名前を知っている人はごくわずかでした。大半の英国人は件の『タイム』の表紙でゲバラのことを知ったというのが実情で、おそらく、ジョンもゲバラのことを知ったのは、カレッジの卒業前後に発行された『タイム』の表紙だったと考えるのが自然でしょう。まぁ、人間の記憶なんて曖昧なものだと言ってしまえばそれまでですが…。

 なお、ゲバラのことを“世界で一番カッコいい”と評したジョンの発言が広く巷間に流布していたこともあってか、2000年12月、ジョンの没後20周年を記念してハバナ市内にジョン・レノン公園が開設され、現代キューバを代表する彫刻家のホセ・ビージャ・ソベロンによる銅像(今回ご紹介の切手の銅像です)が設置されました。

 かつて、共産主義諸国ではビートルズは“頽廃的な西側の商業音楽の典型”として、公の場での演奏などは忌避されていましたが、ジョンの場合は、ベトナム反戦運動へのシンパシーや、代表作の一つとされる『イマジン』が左派リベラル色の強い“反戦歌”となっていることも考慮されて、キューバ政府の評価は悪くありません。ちなみに、ジョンの像が腰かけているベンチには、「人は僕を夢見る人というかもしれない。けれどそれは僕だけじゃない」という「イマジン」のフレーズが刻まれています。

 また、フィデル・カストロの側近で、革命後のキューバ外交の第一線でキャリアを積み、国連大使、外相などを歴任し、銅像が設置された2000年当時は人民権力全国会議(国会)議長の地位にあったリカルド・アラルコンは、個人的にジョンのファンだったそうです。

 今回ご紹介の切手の銅像は、こうした事情に加え、“(ゲバラは)世界で一番カッコいい”との発言が“革命のキリスト”としてのゲバラの神格化を補強する役割を果たしていることも加味して設置されたものと考えられます。

 さて、2月25日に刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、そうしたジョン・レノンとキューバの関係についてもご説明しております。すでにアマゾンなど一部のネット書店では予約販売も始まっておりますが、実物が出来上がってきましたら、あらためて、このブログでもご報告いたしますので、よろしくお願いいたします。 


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 ボリビアの悪鬼
2019-02-03 Sun 01:47
 きょう(3日)は節分です。というわけで、例年どおり、“鬼”の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      日本人ボリビア移住100年

 これは、1999年6月3日に発行された“日本人ボリビア移住100周年”の記念切手で、チチカカ湖を背景に、ディアブラータ(悪鬼、ディアブロの踊り)が取り上げられています。ディアブラータは、ボリビアを征服したスペイン人が、先住民に対してキリスト教の“七つの大罪”を教えるため、アンデスの山の神を悪鬼に見立てて、キリスト教の大天使サン・ミゲル(聖ミカエル)と対峙させる芝居仕立ての踊りを見せたのが始まりとされています。

 その後、ディアブラータはさまざまな土着の要素なども取り込み、現在は、リオのカーニバル、ペルーのインティライミとならぶ南米産大祭の一つとされる“オルーロのカーニバル”を代表するパレードの踊りとなっています。カーニバルのディアブラータは、ルシファーやサタン、女鬼を先頭に、七つの大罪である傲慢、色欲、憤怒、暴食、嫉妬、強欲、怠惰の悪魔を模した行列が続き、大天使サン・ミゲルひきいる天使の集団とともに、踊りながらクロスや円に並ぶなどのマーチングを行い、最終的に、天使の一団が悪魔の一団を打ち破るというストーリーで進む構成となっています。

 さて、切手の題材となった“日本人のボリビア移住”ですが、日本からボリビアへの移住は、ブラジルなどへの移民と異なり、計画的に始まったものではありませんでした。

 すなわち、1899年2月、日本郵船会社の佐倉丸で横浜からペルーに向けて出航した日本人移民は、「ペルーの甘蔗耕地あるいは精糖工場で4年間働き、その報酬として1ヵ月2ポンド10シリン グ(約25円)に相当するペルー貨を支給される」との契約を移民斡旋会社と結んでいましたが、現地ではトラブルが絶えず、少なからぬ移民が逃亡しました。

 一方、当時のアマゾン地方は世界的なゴム需要もあって空前の好景気だったため、ペルーに嫌気がさした日系移民91人が、同年9月、アンデス山脈を越えて、ボリビア国内有数のゴム産地だったベニ県に再入植します。これがボリビアへの最初の日本人移民となりました。

 その後も、ゴム景気につられたペルーからの転入者は後を絶たず、ベニ県のゴムの集積地、リベラルタとその周辺には、ピーク時の1918年には約700人の日本人移民が居住するようになります。しかし、第一次大戦の終戦とともに、ゴム景気は終焉を迎え、リベラルタの日本人の多くは、ボリビア国外に出るか、国内に留まる場合にはラパス、トリニダなどに転住し、商業活動等に従事するようになっていきました。

 なお、2月25日に刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、そうしたボリビアの日系社会と、そこからゲバラのゲリラ闘争について加わった日系2世のエルネストことフレディ・マエムラについてもご紹介しております。すでにアマゾンなど一部のネット書店では予約販売も始まっておりますが、実物の見本が出来上がってきましたら、あらためて、このブログでもご報告いたしますので、よろしくお願いいたします。 


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 アジア杯はカタールが優勝
2019-02-02 Sat 12:08
 アラブ首長国連邦(UAE)で開催されていたサッカーの第17回アジアカップは、きのう(1日)、決勝が行われ、カタールが日本を3-1で下して初優勝を果たしました。というわけで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・カタールとの修好

 これは、2011年にブラジルが発行した“カタールとの修好”の記念切手で、両国の国旗を背景に、両国代表のユニフォームを着たサッカー選手が描かれています。

 ブラジルとカタールとの外交関係は、1971年のカタール独立を経て、1974年11月5日に樹立されました。当初は、大使館は開設されず、ニューヨークの駐米カタール事務局と、アブダビのブラジル大使館が、両国の大使館業務を代行していました、その後、1997年にカタールはブラジリアに大使館を開設しましたが、ブラジル側が財政上の理由でドーハに大使館を開設しなかったため、1999年にはブラジリアのカタール大使館も閉鎖されました。

 その後長らく、両国には大使館のない状態が続いていましたが、2005年、ブラジルのセルソ・アモリム外相(当時)がドーハを訪問し、大使館の解説を約束。同年中にドーハにブラジル大使館が開設されたことを受けて、2007年、ブラジリアのカタール大使館が再開されています。ちなみに、今回ご紹介の切手は、2011年、ブラジルのアントニオ・パトリオッタ外相がカタールを訪問し、ハマド首長と会談した際に、両国の友好関係をアピールするために発行されました。

 ちなみに、サッカーのカタール代表は、1980年代以降、1981年のFIFAワールドユース選手権準優勝、1984年のロサンゼルス五輪出場するなど、着実に力をつけ、1992年にはブラジル人のエヴァリスト・デ・マセドを代表監督に招聘しています。マセド監督の下、カタール代表は湾岸諸国を対象としたガルフカップで優勝し、同年の1992年のバルセロナ五輪でも8強入りするなどの実績を残し、同年10月に開幕のアジアカップでは優勝候補の一角にも挙げられていました。

 ところが、カタール代表はグループリーグでまさかの敗退。一方、開催国の日本はブラジルから日本に帰化したラモス瑠偉等の活躍で初優勝を遂げたため、以後、カタールは帰化選手による強化戦略を推進するようになったと言われています。


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 創業92年のバナナ専門店が閉店
2019-02-01 Fri 10:54
 1927年創業の全国でも珍しいバナナ専門店、梅田才治商店(前橋市元総社町)が、きのう(31日)、店主・梅田厚子さん(78)の高齢による体力の低下などを理由に閉店しました。というわけで、数多あるバナナ切手の中から、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      セントルシア・バナナの精霊

 これは、1985年、カリブ海のセントルシアが発行したクリスマス切手で、仮装行列に登場する“バナナの精霊”が描かれています。物言えぬバナナに代わり、閉店した老舗専門店の老店主に「お疲れさま」と言ってくれそうな存在として、ご紹介しました。

 セントルシアを含むカリブ諸国では、クリスマスから新年にかけて仮装行列がさかんに行われています。クリスマスの仮装行列は、17世紀以降、西アフリカ出身の奴隷たちが持ち込んだエグングンの儀式や祖霊崇拝とヨーロッパやインドの祝祭の要素が混淆したものですが、近年は、外国人観光客を意識して7月に行われるカーニヴァルの後塵を拝し、縮小傾向にあるそうです。

 さて、セントルシアにおけるバナナの栽培は、1930年代以降、植民地当局によって始められました。その背景には、第一次大戦以降、砂糖の国際価格が暴落し、、それまでセントルシアの稼ぎ頭である砂糖産業に代わる新たな産業を育成する必要に迫られたためです。

 その後、1953年にはセントルシア・バナナ協会が設立されて輸出が本格化し、バナナは同国最大の輸出品に成長。今回ご紹介の切手に取り上げられた“バナナの精霊”も、こうした状況を反映して登場したもので、かならずしも、伝統的なキャラクターとは言いがたい面があります。

 なお、セントルシアのバナナ産業ですが、近年はEUによるバナナの関税優遇措置廃止に加え、ハリケーンの被害もありバナナ産業は停滞。このため、バナナの葉、茎などの廃棄物をバイオ燃料に利用する試みも進められているそうです。
 

★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

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