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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日本・ポーランド国交樹立100周年特別講演会・シンポジウム
2019-03-31 Sun 11:12
 きのう(30日)、東京・板橋区の板橋区文化会館で日本・ポーランド国交樹立100周年特別講演会・シンポジウムが開催され、僕も、本年7月13-15日(土-月・祝)に東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催予定の<ポーランド切手展>(全日本切手展と併催)の宣伝を兼ねて登壇いたしました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      日本ポーランド・シンポジウム

 実は、今回のイベントでは、僕はサプライズ・ゲストとして登壇し、(広義の)ポーランドの切手・郵便について簡単にお話ししたうえで、1919年(日本とポーランドの国交が樹立された年)のポーランド切手を参加者の皆さんにプレゼントするという企画になっておりましたので、事前の告知はしませんでした。したがって、事後報告となりましたこと、あしからずご了承ください。

 さて、今回のスピーチでは、日章旗の切手を最初に発行したのは、現在ポーランドの一部となっているマルボルク(ドイツ語名:マリエンブルク)であることなどを、画像をお見せしつつ、お話ししました。

      マリエンヴェルダー・スライド

 ちなみに、プロジェクターでは、単片の印面部分のみをトリミングしてお見せしたのですが、元の切手は、下の画像のように、中間無目打のペアです。

      マリエンヴェルダー・中間無目打

 さて、現在の国境でいうとポーランド北部に位置するマルボルクは、ドイツ騎士団が1274年に建てたノガト川(ヴィスワ川支流)東岸の要塞オルデンシュブルク・マリエンブルクの城下町として発展してきた都市で、地名は騎士団の守護者である聖母マリアにちなむものです。

 要塞は1457年にポーランド王へ売却されてドイツ騎士団はこの地を離れ、1466年に都市はポーランド王領プロシアの県となります。しかし、1772年のポーランド分割によって、プロイセン王国へ併合されて西プロイセンの一部となり、1871年にはドイツ帝国の一部となりました。

 第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によって、マルボルクを中心としたマリエンヴェルダー地区の住民はドイツに残留するか新設のポーランド共和国に加わるかを、1920年7月11日の国民投票で決めることになり、1万7805票のドイツ残留支持、191票のポーランド併合票との圧倒的大差で、この地域はドイツ東プロイセンのマリエンヴェルダー県となりました。

 この間、マリエンヴェルダー地区は国際連盟の管理下に置かれていましたが、今回ご紹介の切手は、そのことを示すため、マルボルクの象徴であるマリアと、その背後に、連盟常任理事国の英仏日伊の国旗を掲げています。ちなみに、日本の切手では、1906年に発行された“明治三十七八年戦役(=日露戦争)陸軍凱旋観兵式”の記念切手に、軍旗(連隊旗)としての旭日旗が描かれていますが、光線のない日章旗を描いた日本切手としては、1921年の“郵便創始50年”が最初です。今回ご紹介のマリエンヴェルダーの切手は1920年の発行ですから、日本よりも先に、日章旗を取り上げた切手ということになります。

 その後、ドイツ領“マリエンブルク”は、第二次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、その戦後処理を定めたポツダム宣言によりポーランド領に編入されてマルボルクと改称され、現在にいたっています。

 なお、冒頭申し上げた通り、本年7月13-15日(土-月・祝)に東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催予定の<ポーランド切手展>(全日本切手展と併催)につきましては、今後、このブログでも随時ご案内していくことになると思いますが、よろしくお願いいたします。


 ★★ 4月5日、文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★

 4月5日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土)14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパスにて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
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 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 世界の切手:ナミビア
2019-03-30 Sat 01:44
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年2月27日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はナミビアの特集(3回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ナミビア・カプリヴィ回廊

 これは、ナミビアの国土東北端に取手のように細長く突き出たカプリヴィ回廊の地図を描いた切手です。

 19世紀後半、列強諸国によるアフリカ分割の過程で、1884年、ドイツ帝国は“ドイツ領南西アフリカ”として現在のナミビアの地の大半の領有を宣言します。

 翌1885年3月、ドイツ政府はアフリカ大陸のインド洋沿岸部に“ドイツ保護領東アフリカ”を設立する意向を明らかにし、アフリカ大陸東岸への進出を開始。当時、この地域はザンジバルのスルターンの実質的な支配下に置かれていたため、ザンジバル側は英国に支援を求めてドイツに対抗しようとしましたが、1886年、英仏独は連携して東アフリカの分割を進め、英国は後のケニアを、ドイツはタンガニーカ(現在のタンザニア国家の大陸部分)を領有。ザンジバルの支配地域はザンジバル島など東アフリカ沖の島嶼部および大陸沿岸から10マイル(16km)内陸までに限定されました。

 こうして、アフリカ大陸の東西に植民地を確保したドイツは、次なる目標として、南西アフリカからザンベジ川を通じて東アフリカへ至り、インド洋へ抜けるルートの開発を構想しましたが、1886年の時点では、南西アフリカとザンベジ川の間の地域は英国の植民地でした。

 一方、英国としては、ヴィクトリア湖とインド洋を結ぶ鉄道を建設するため、ドイツの影響下にあったウィトゥランドの領有を望んでいました。

 このため、1890年、英独両国は“ヘルゴランド=ザンジバル条約”を調印。ドイツは、英国によるウィトゥランドの保護領化を認め、英国のザンジバル進出を黙認するかわりに、北海のヘルゴランド島をドイツ領とし、ザンジバルの支配地域だった沿岸部を買収してドイツ領東アフリカの権限範囲を確定するとともに、ドイツ領南西アフリカから「いかなる地点においても幅20マイルを下らない回廊によって、ザンベジ川への自由な接近の権利を有する」ことが認められます。この結果、従来のドイツ領南西アフリカからザンベジ川に向けて“取手”のように細長い“カプリヴィ回廊”がドイツ領として確保されることになりました。なお、現在のナミビア国家は、こうして成立したドイツ領南西アフリカの領土的な枠組を継承しています。

 さて、『世界の切手コレクション』2月27日号の「世界の国々」では、カプリヴィ回廊の近現代史についてまとめた長文コラムのほか、アイアイ温泉、版画家ムアファンゲヨ、マルーラ・オイルの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のナミビア以降は、3月6日発売の同13日号でのアンゴラ(と一部トーゴ)、同13日発売の同20日号でコロンビア(と一部パラグアイ)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 小便小僧の小便、飲み水だった
2019-03-29 Fri 01:51
 ベルギー・ブリュッセルの観光名所として知られている“小便小僧”の放尿に使われている水が実は飲料水であり、1日で1000リットル以上も無駄になっていることが判明し、ブリュッセル市はエコの観点から循環させる方式に変えることにしたそうです。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

      ベルギー・小便小僧(2015)

 これは、2015年にベルギーが自国を象徴するものを題材として発行した外信用無額面永久保証切手のうち、小便小僧を取り上げた1枚です。

 小便小僧のモチーフの由来については諸説ありますが、1142年、グリムベルゲンの戦いに際して、ゆりかごに入れられて戦場の木に吊らされていたブラバント公ゴドフロワ2世(当時2歳)が敵軍に向かって放尿したエピソードや、ブリュッセルを包囲した敵軍が城壁を爆破しようとした際、ジュリアンという少年が導火線に小便をかけて火を消し、町を救ったという伝説などが知られています。

 切手に取り上げられた像は、ブリュッセル中心部、ブラバント州庁舎近くにあり、もともとは1619年にフラマン人彫刻家ジェローム・デュケノワが制作したものです。ただし、オリジナルの像は1960年代にブリュッセル市立博物館(王の家)に移され、像が元あった場所にはレプリカが設置されています。
 

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 アイゼンハワー没後50年
2019-03-28 Thu 03:46
 米国のドワイト・アイゼンハワー元大統領が、1969年3月28日に亡くなって、ちょうど50年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アイゼンハワー・無料便

 これは、1961年10月19日、大統領退任後のアイゼンハワー名義で差し出された無料郵便のカバーです。

 米国では大統領経験者やその夫人(未亡人を含む)には郵便物を無料で送ることができる特権が与えられているため、彼らの差し出す郵便物には、そのことを示すサイン(の印刷)が封筒に表示されます。今回ご紹介のカバーでは、退任後のアイゼンハワーが隠棲していたペンシルベニア州ゲティスバーグの地元局で、彼のサインをデザインした専用の郵便印を使用することで対応しています。

 さて、アイゼンハワーは、1890年10月14日テキサスの農家に7人兄弟の3男として生まれました。高校卒業後、大学進学を希望していたものの、経済的に困難な状況であったため、ベルスプリングのバター工場で働いていましたが、陸軍士官学校と海軍兵学校は授業料が無料であることを知り、陸軍士官学校に進学。1915年に同校を卒業後は、陸軍大学を経て、おもに陸軍省で補給兵站の立案に従事し、1932年、陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーの主任補佐武官となりました。

 1935年、マッカーサーが参謀総長を退任し、フィリピンの軍事顧問に就任すると、マッカーサーの下で、1939年まで現地軍の育成に従事。1940年に米国に戻り、第3師団参謀長、第9軍団参謀長などを歴任し、1941年9月には准将に昇進しました。ただし、この時季までのアイゼンハワーは陸軍官僚としての管理能力は高く評価されていたものの、実戦での指揮経験が全くなく、大きな作戦の司令官となる可能性は低いとみられていました。

 1941年12月の日米開戦後、フィリピンに関する知識を買われ、参謀本部戦争計画局次長に就任。ここで、陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の信任を得て、1942年3月には参謀本部に新設された作戦部の初代部長に就任し、対独作戦として、英国を拠点とした大規模な上陸作戦を立案。同年6月、ロンドンに司令部を置くヨーロッパ戦域の連合国軍最高司令官に着任します。

 1942年11月8日に開始された“トーチ作戦(モロッコとアルジェリアへの連合軍上陸作戦)”では、最高司令官の座を要求するフランスのアンリ・ジロー大将を説得し、北アフリカにおける民政長官の座を与えることで収めたことで、その高い調整能力が評価され、1944年3月、大将に昇進。以後、イタリア戦線の最高指揮官として、ジョージ・パットンやバーナード・モントゴメリーらを調整し、同年9月8日にはイタリア王国との休戦条約を締結しました。さらに、1944年6月、ノルマンディー上陸作戦を指揮してフランスを解放。1944年12月、元帥に昇進し、1945年5月、ドイツを無条件降伏させ、欧州での戦争を終結させました。

 戦後は、1945年11月に陸軍参謀総長に就任。1948年の退役後は、コロンビア大学学長に就任。1950年、北大西洋軍最高司令官となりましたが、1952年の大統領選挙に共和党から大統領選挙に出馬して当選。以後、1953-61年まで2期8年、大統領を務めました。

 大統領1期目は、朝鮮戦争および第一次インドシナ戦争の休戦協定調印などの実績を挙げましたが、1957年に始まる2期目では、東西冷戦の莫大なコスト負担による経済の停滞、人種問題の爆発、さらにソ連に人工衛星打上げで先を越されたスプートニクショック、1960年の安保闘争による日本訪問中止など、政権運営は順調とは言いがたいものでした。

 なお、1959年に発生したキューバ革命に関しては、当初、アイゼンハワー政権は静観の構えを取っていたものの、同年5月17日、カストロ政権が第1次農地改革法を公布し、米国企業の所有する農地を接収すると、キューバに対する経済制裁を発動。この結果、カストロ政権は“敵の敵”であるソ連との関係を強化していくことになります。このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 メキシコ大統領、謝罪を要求
2019-03-27 Wed 03:09
 メキシコのアンドレス・マヌエル・ロペスオブラドール大統領は、25日(現地時間)に公開された演説の動画で、スペインによるアメリカ大陸支配に言及し、スペイン国王フェリペ6世と教皇フランシスコに対して、アステカ王国(現メキシコ)征服及びその後の先住民に対する人権侵害について謝罪するよう求めました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・17世紀の古地図

 これは、1979年にメキシコで発行された“ヌエバ・エスパーニャにおける郵便勅許400年”の切手シートで、切手部分にはかつての郵便船が、シートの余白には17世紀のヌエバ・エスパーニャ地図が地図が取り上げられています。

 1519年、メキシコに上陸したスペイン人のエルナン・コルテスら征服者たちは、アステカの内紛や、アステカの神話を悪用して大虐殺を繰り返した末、王都テノチティトランを破壊。8月13日に捕えられた皇帝クアウテモックは、コルテスの短刀を指さして自分を殺すよう求めたものの、コルテスは彼を殺さず、黄金の場所をつきとめるため拷問にかけたうえ、1525年2月28日、反乱を企てたとして絞首刑にしました。こうしてアステカ帝国を滅したスペインは、この地にヌエバ・エスパーニャ副王領を創設します。

 ヌエバ・エスパーニャは“新スペイン”を意味するスペイン語で、もともとは、パナマ地峡以北の新大陸のスペイン領全てを指す概念で、最盛期には、今回ご紹介の切手シートの地図に示すように、現在のメキシコの領域に加えて米国南西部(現在のカリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの各州)とフロリダ半島、カリブ海諸島も含んでいました。

 ヌエバ・エスパーニャの郵便制度は、当初、アステカ時代の駅伝制度がそのまま継承されていましたが、1579年以降は、ヌエバ・エスパーニャ副王の直轄下で、メキシコ市=ベラクルーズ間を中心に郵便が行われるようになります。その後、1742年から本国・マドリードの郵便長官によるヌエバ・エスパーニャの郵便改革が行われ、1745年以降、メキシコ市=オアハカ間で週1回の定期便が開始され、1748年にはグアテマラまで月1回の定期便が開始されています。そして、1765年、スペイン王室はヌエバ・エスパーニャの郵政権を接収し、同地の郵便は事実上“国有化”されました。

 その後、多少の領土縮小はあったものの、スペインはヌエバ・エスパーニャを300年にわたり支配していましたが、18世紀後半には米国独立戦争フランス革命ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高揚。1809-10年、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスなど南米各地でスペインからの独立戦争が始まると、1810年9月15日には、メキシコでもミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が勃発。スペイン本国で自由派が政権を握ると、1821年9月15日、保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコシティに入城し、メキシコの独立が宣言されました。

 さて、今回問題となった演説の動画は、古代マヤ文明のコマルカルコ遺跡で撮影されたもので、大統領は「かつて大虐殺と抑圧があった。剣と十字架による侵略が行われ、彼らは先住民たちの神殿の上に教会を築いた」と述べ、「和解の時が訪れた」とした上で、その前にまずスペイン側からの謝罪が必要だと主張しました。

 これに対し、スペイン政府は直ちに声明を発表し、「我が国の国王に送付した書簡の内容を、メキシコ大統領が公にしたことに深い遺憾を覚える」と反発。書簡の内容は断固として受け入れられないと表明し、「500年前のスペイン人による現在のメキシコ領土進出を、現代の尺度で判断することは不可能だ」としたうえで、「これまで我々は常に兄弟国として、共有する過去について怒りを抱かず建設的な視点で向き合ってきた」、「我々は歴史を共に歩み、素晴らしい影響を与え合った自由な民族なのだ」などと反論しているそうです。
 

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 米、ゴラン高原のイスラエル主権を承認
2019-03-26 Tue 02:42
 米国のトランプ大統領は、きのう(25日)、イスラエルとシリアが領有権を主張するゴラン高原(シリア側の呼称はシリア高原)のイスラエル主権を承認する宣言に署名しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・ゴラン高原領有50年

 これは、2017年4月4日にイスラエルが発行した“ゴラン高原入植50年”の記念切手で、ゴラン高原を代表する景勝地のサアル瀧が取り上げられています。

 ゴラン(アラビア語でジャウラン)高原は、シリア南西端の丘陵地帯で、西はヨルダン川とガリラヤ湖、北はヘルモン山、東はヤルムーク川の支流アルルカド・ワディ、南はヤルムーク川に囲まれており、ヨルダン渓谷上流地帯を見通す位置にあります。

 年平均降水量500-800ミリと雨にも恵まれていることもあり、古くから肥沃な土地として知られ、聖書に登場する“ゴラン”の町は、現在のゴラン高原西側のハウラーン地方と考えられています。

 1967年の第三次中東戦争以前、ゴラン高原の大半は、行政上、シリアのクネイトラ県の領域で、一部が同ダルア県に属していました。当時の推定人口は15万人で、住民はスンナ派アラブを中心に、ドルーズ派、アラウィー派、チェルケス人(もとはコーカサス北東部に生活していたムスリムで、19世紀にロシアの圧迫を逃れ、オスマン帝国領に移住した人々の子孫)などでした。

 1967年の第3次中東戦争でイスラエルはゴラン高原を占領し、後にクネセトによってゴラン高原法に基づく民政下に置きましたが、イスラエルを除く国際社会の大半はこれを認めず、国連安全保障理事会決議497では「イスラエルの併合は国際法に対して無効である」とされています。

 その後、1973年の第四次中東戦争では、当初、シリア軍がゴラン高原の一部を奪還したものの、最終的に、イスラエルの反撃でイスラエルが再占領。このことを踏まえて、1974年5月31日 米国の仲介で、シリアとイスラエルの間の兵力引き離し合意が成立(6月6日に実行)し、中心都市だったクネイトラを含む一部の地域がシリアに返還されました。

 ただし、それ以外の地域については、イスラエルは占領を継続。新しい入植地を建設したうえで、1981年、ゴラン高原の併合を宣言するとともに、第三次中東戦争以降も同地に留まるシリア人にイスラエルの市民権を与えています。今回ご紹介の切手も、こうした事情を踏まえて、1967年以来、ゴラン高原が自国領であることを示すため、イスラエルが発行したものです。

 さて、トランプ大統領は、今月21日のツイートで、ゴラン高原について「52年を経て、米国がイスラエルの主権を完全に認める時だ」と表明していましたが、24日、“イスラム国(IS)”を自称するイスラム過激派組織、ダーイシュがシリア領内で維持していた“カリフ制国家”の完全壊滅が宣言されたことを受けて、今回の署名が行われた格好です。

 第3次中東戦争後の“占領地”問題をめぐっては、2017年12月、トランプ政権はエルサレムをイスラエルの首都として認定し、2018年5月には米国大使館をエルサレムに移転しましたが、今回の署名はそれに続いて、中東政策を転換し、第三次中東戦争を精算する意思を示したものといえます。

 なお、第三次中東戦争以降の中東現代史については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(25日)、アクセスカウンターが203万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 

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 奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー
2019-03-25 Mon 03:08
 きょう(25日)は“奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・キューバの人民はくじけない

 これは、1962年にソ連が作った「キューバの人民はくじけない!」と題するプロパガンダ絵葉書で、キューバ国旗を背景に銃を持つ男性2人サトウキビを手にする女性が描かれています。2人の男性のうち、右側に描かれた1人はアフリカ系となっているのがミソです。

 スペイン統治時代のキューバでは、アフリカ出身の奴隷がプランテーションの主な労働力となっていました。当時の奴隷を労働場所によって分類すると、全奴隷の3分の1が砂糖農場で、4分の1が都市部で、4分の1がコーヒー農場で、残りがその他の農場という比率です。

 奴隷労働力を使うことで、キューバの砂糖産業は拡大し、19世紀初頭には、英領ジャマイカと仏領サン・ドマング(現ハイチ)に代わって、キューバがカリブ海で最大の砂糖植民地となります。このため、英国で奴隷解放が進められていくと、スペイン政府は英国の圧力に屈して、1817年と1831年に奴隷貿易の廃止を受け入れたものの、効果はありませんでした。

 その後、1860年代になると、キューバでも契約労働者の移民が増加して奴隷貿易は衰頽。1867年を最後に奴隷の輸入も行われなくなりました。さらに、1870年には奴隷解放のための法律が制定され、60歳以上の奴隷と子供は解放され、1880年の奴隷解放法制定を経て、1886年、キューバでも最終的に奴隷制が廃止されました。

 現在、キューバの人種構成は、カストロ兄弟を含む欧州系白人が64%、ムラート(白人とアフリカ系などの混血)が26%、アフリカ系が9%、アジア系その他が1%以下となっていますが、歴史的にもその比率は大きく変わっておらず、アフリカ系およびその混血が人口の3分の1程度を占めてきました。今回ご紹介のソ連の絵葉書で、3人の人物のうち1人がアフリカ系として描かれているのも、そうした事情を踏まえてのことでしょう。

 また、主に西アフリカのヨルバ人の民俗信仰と、カトリック教会、スピリティズム(心霊主義/別名カルデシズム)などが混交して成立したキューバ人の民間信仰の“サンテリア”が広く信仰されているほか、音楽や料理などでも、アフリカ起源の要素が多くみられます。

 ただし、1959年の革命後、キューバでは制度的な人種差別の撤廃が進められたものの、現実には、人種間の格差が厳然と残っています。

 たとえば、高収入が見込める“新興部門(外国人を対象としたホテルやレストランなど)”の幹部職員の75.4%が白人であるのに対して、アフリカ系は5.1%、ムラートは19.5%にすぎず、技術職・管理職では白人が79.3%なのに対して、アフリカ系は6.1%、ムラートは14.6%にとどまっています。また、白人が国外から受け取る海外送金は、平均して、アフリカ系の2.5倍、ムラートの2.2倍となっており、「犯罪者の多くは黒人」という偏見も根強く残っているため、警察官による職務質問の対象も黒人が中心となっているとも報告されています。

 これに対して、1998年に開催されたキューバ作家・芸術家協会の第6回総会では、フィデル・カストロが「人種主義に関する問題は、十分に深く分析しなくてはならない」と発言し、革命政府として、初めて、キューバ社会に人種差別があることを認め、その解決に取り組む方針を明らかにしたものの、キューバ共産党による一党独裁体制の下、現在なお、国民の政治活動や言論の自由が大きく制約されている現状では、人種間の格差是正も十分には進んでいないというのが実情です。

 なお、ソ連・東欧諸国によるキューバ関連のプロパガンダ・マテリアルについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取って後ンいただけると幸いです。

      
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 スプートニクとガガーリンの闇(16)
2019-03-24 Sun 01:42
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、2月25日、『本のメルマガ』第709号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中に各国が発行した切手のうち、インドネシアの切手について取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・国際地球観測年FDC

 これは、1958年10月15日、インドネシアが発行した国際地球観測年の記念切手のオランダ宛初日カバーです。

 現在のインドネシアに相当する地域は、第二次大戦以前はオランダの植民地支配下にありましたが(オランダ領東インド)、大戦中は日本軍の占領下に置かれました。日本の敗戦を受けて、1945年8月17日、独立運動の指導者だったスカルノとムハンマド・ハッタは、オランダ植民地政府が戻ってくるまでの間隙を縫って、インドネシア共和国の独立を宣言します。

 これに対して、戦後の蘭印支配の復活をもくろむオランダは、周辺に植民地を持つ英国やオーストラリアなどの支援を受けて軍を派遣。この結果、スカルノらインドネシア共和国との間でインドネシア独立戦争が勃発しました。

 4年以上にも及ぶ独立戦争の結果、1949年12月、ハーグ協定の締結によって、16の国・自治政府から構成されるインドネシア連邦共和国の独立が正式に承認されます。

 その後、連邦構成国は順次、最大の構成国であるインドネシア共和国(ジャワの約半分とスマトラの大部分を有し、連邦共和国4600万のうち3100万の人口を占めていた)に合流し、1950年8月15日、単一国家としてのインドネシア共和国に統合されました。

 これに伴い公布されたインドネシア共和国暫定憲法(1950年憲法)では、単一国家制への移行を受けて、全インドネシア国民の宥和を図るため、国民の権利を大幅に拡大し、議院内閣制を規定して大統領の権限を制限していましたが、もともと、“オランダ領インドネシア”という枠組は、英蘭の事情で、現地の民族、言語、宗教などの分布とは全く無関係に設定されたため、独立後の“インドネシア”では国家としての統一的なアイデンティティを形成することが困難でした。

 そこで、スカルノは、インドネシア国家の国際的な地位を向上させることで、統一国家とその大統領である自らへの求心力を高めるべく、積極的な外交攻勢を展開。1954年、ネルーと周恩来が平和五原則を発表すると、これに呼応して同年4月28日から5月2日まで、セイロン(現スリランカ)のコロンボで開催されたコロンボ会議に首相のアリ・サストロアミジョヨを派遣。アジア・アフリカ各国間の協力、相互利益、友好の推進などを目的とするアジア・アフリカ会議の必要性を提案させました。この提案は、翌1955年4月、ジャワ島西部、バンドンに30国を招いてのアジア・アフリカ会議の開催として結実します。

 アジア・アフリカ会議は、反帝国主義、反植民主義、民族自決の精神を称揚し、東西両陣営のいずれにも属さない“第三世界(ただし、英仏等の植民地支配から独立したという経緯もあって、その実態は東寄りの中立でしたが…)”を確立し、会議を主催したスカルノの国際的な権威と発言力はいやがおうにも高まりました。

 ところが、そのことは直ちに彼のインドネシア国内における政治基盤を強化することにはつながりませんでした。

 すなわち、会議から半年弱、1955年9月29日に行われた第1回インドネシア国民議会の総選挙では、定数257のうち、インドネシア国民党(大統領スカルノの与党)57、マシュミ(イスラム政党)57、ナフダトゥル・ウラマー(マシュミから分裂した別のイスラム政党)45、インドネシア共産党(中国からの支援で勢力を拡大していた)39、と4大政党が票を分け合う結果となり、インドネシア国民党は主導権を握ることができなかったのです。

 この結果、各党の対立から議会は空転し、短命内閣が続いて政情は不安定化しただけでなく、これと並行して、政党政治家たちの腐敗も目に余るものがありました。

 中央での政治的混乱が続けば、当然、地方に対する統制も不十分にならざるを得ず、イスラム国家の樹立を主張するアチェをはじめ、西ジャワ、南スラウェシ、西スマトラなどでは反ジャカルタの叛乱が発生したものの、憲法上の制約もあり、スカルノは強権をもってこれを抑え込むことができない状況が続きます。

 こうした状況の中で国際地球観測年を迎えたインドネシアは、1958年10月15日、地球と周回する人工衛星を描く記念切手を発行しました。

 この時期、東欧諸国が発行した国際地球観測年の記念切手には、ソ連が打ち上げた複数の人工衛星を描くものがある一方、西側諸国の切手では人工衛星は無視されていることが多いので、人工衛星を1基のみ描いたインドネシアの切手は“第三世界”として、両者の折衷的な立場を取ったということなのかもしれません。

 さて、混迷する国内情勢に業を煮やしたスカルノは、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法(独立宣言翌日の1945年8月18日に公布)への復帰を宣言。また、国会もほぼ同時期に解散され、以後、議員は任命制となり、政党の活動も大きく制限されました。いわゆる“指導される民主主義”体制の発足です。

 “指導される民主主義”の下で、スカルノが強調したのが、民族主義 (Nasionalisme)、宗教 (Agama)、共産主義 (Komunisme) の各勢力の挙国一致で国難を乗り切ろうという“ナサコム(NASAKOM)”のスローガンで、以後、スカルノは国軍と共産党の対立を利用し、両者の調停役としてふるまうことによって、みずからのリーダーシップを維持しようとします。その過程で、彼は民族主義を鼓舞するとともに、1961年にはインドネシア共産党書記長のディパ・ヌサンタラ・アイディットを閣内に招き入れて中国との関係強化を強化。“反帝国主義”を強調して、米英や台湾など西側諸国との対立姿勢を強めると同時に、西側諸国との関係が深い近隣諸国との対立を深めていくことになるのです。
 
      
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 ボリビアの“海の日”
2019-03-23 Sat 02:06
 きょう(23日)は、南米の内陸国、ボリビアの“海の日”です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・海の日(2016)

 これは、2016年の“海の日”にボリビアが発行した切手で、ボリビアが内陸国になるきっかけになった“(南米の)太平洋戦争”のモニュメントと、「ボリビアに海を」のスローガン、そして、「2015年9月24日 国際司法裁判所(ICJ)はボリビアによる海の領有権について聴聞する権限があることを宣言した」との文言が入っています。

 1826年に独立したボリビアは、1879-84年、太平洋岸の硝石地帯をめぐって、ペルーと同盟を結んでチリと戦いました。いわゆる“(南米の)太平洋戦争”です。この戦争に敗れたボリビアは、講和条約として結ばれたバルパライソ条約により、太平洋岸に面したアントファガスタ州をすべて失い、内陸国となります。

 以後、ボリビアの海運での輸出入貨物は、いったんチリ領となったアントファガスタ港で陸揚げされ、同港でボリビアが管理する保税上屋からチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここでボリビアの税関が通関を行うという手続きが取られるようになりました。

 これに対して、ボリビア国民の中には、現在なお、バルパライソ条約を不当と考え、海を奪ったチリに敵意を持つものが少なくありません。ボリビア政府も毎年3月23日を“海の日”に指定し、今回ご紹介のような切手を発行したり、メディアを動員して「海を取り戻そう」キャンペーンを展開したりしています。こうしたこともあって、サッカーの試合などでも、ボリビア・サポーターの一部が「海を返せ」といった政治的な横断幕を掲げることもしばしばです。

 2006年に発足した反米左派のモラレス政権は、当初、この問題について円満な解決を目指していましたが、2013年、1904年のバルパライソ条約を根拠として、チリに対し「完全な主権を伴う太平洋への出口をボリビアに付与するため交渉に応じる義務がある」と主張して、国際法廷に提訴。これに対して、チリ側は「ボリビアには無制限の港湾使用など十分過ぎる優遇を与えてきた」として、問題そのものが存在しないと反論しました。

 ボリビアの提訴を受けたICJは、2015年9月、確定した国境についてICJは審査権がないとするチリの訴えをいったん退け、双方から主張を聞くことを決定。今回の切手でも、そのことを示す文言が入れられました。

 その後、裁判の過程で、ボリビアは、海への回廊設置や、港湾を主権下に置くことなどを要求していましたが、ICJは両国間の戦後の外交文書などを検討したうえで、2018年、チリには「交渉に応じる義務があるとは結論付けられない」として、ボリビアの訴えを棄却する判決を下しています。

 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラが潜入して山中でゲリラ戦を展開し、1967年に逮捕・処刑された国としてのボリビアについて、その背景となる同国の現代史についてもまとめておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 アギナルド生誕150年
2019-03-22 Fri 02:23
 1869年3月22日に、フィリピンの革命家、エミリオ・アギナルドが生まれてから、きょうでちょうど150周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・アギナルド(1969)

 これは、1969年にフィリピンで発行された“エミリオ・アギナルド将軍生誕100周年”の記念切手で、アギナルドの肖像と彼の邸宅での独立宣言の場面が描かれています。アギナルドの誕生日は3月22日ですが、切手は、これより2ヵ月ほど前倒しの1月23日に発行されました。

 さて、エミリオ・アギナルドは、1869年3月22日、スペイン領東インドのカウイト(現フィリピン共和国カヴィテ州)で、中国系メスティーソの弁護士の家庭に生まれました。

 1529年以来、スペインの植民地となっていたフィリピンでは、1892年にアンドレス・ボニファシオが中心となり、独立を目指す秘密結社“カティプナン”が結成されていましたが、アギナルド1895年3月にこれに入会。1896年8月23日、ボニファシオは武装蜂起を宣言したものの、スペイン現地軍に敗北を重ねたため、同31日、アギナルドは独自に「カヴィテの叫び」を発し、独自の軍を編成して9月3日のイムスの戦いと11月9日のビナヤカンの戦いでスペイン軍に勝利し、カヴィテ州を武力解放しました。ちなみに、この間、アギナルドは収監中のホセ・リサールの奪還を試みていますが、最終的に計画は中止を余儀なくされ、12月にリサールは銃殺刑に処されています。

 1897年に入ると、スペインは本国から4万人の増派を得て反攻を進め、アギナルドは3月には拠点のイムスの町から撤退。戦況が劣勢に陥る中、カティプナンの内部抗争が発生すると、アギナルドはボニファシオを銃殺してカティプナンの指導権を掌握し、同年5月、自らを大統領としてフィリピン共和国(総司令部の置かれていた地名にちなみ、ビアクナバト共和国とも呼ばれます)の成立を宣言しました。しかし、アギナルド側の劣勢はいかんともしがたく、最終的にはスペインと妥協し、12月20日、80万ペソ(40万米ドルに相当。ただし、この段階でスペイン側がアギナルドに支払ったのは半額の40万ペソ)の補償金と引き換えに香港へ亡命。革命はいったん終結します。

 ところが、1898年、米西戦争が勃発し、スペイン領フィリピンに狙いを定めた米国は、アギナルドらに対して独立の口約束を与え、これを信用したアギナルドらは亡命先の香港から帰国。1898年5月24日、「偉大かつ強力なるアメリカ合衆国が、この国の自由の確保のために、利害抜きの保護を提供してくれたので」スペイン軍を殲滅して憲法を制定し、政治の組織を完成するまでの間、みずからを総帥とする独裁政府を樹立すると宣言し、6月12日にはアギナルドの私邸で独立宣言が行われ(今回ご紹介の切手に描かれているのはこの場面です)、米国の独立宣言にならった宣言文が読み上げられたほか、国旗・国歌も正式に披露されました。さらに、アギナルド政府は、8月1日には各地の議員選挙を行い、本部をカビテからマニラ北方のマロロスに移し、フィリピン人のみの第一議会を招集。9月29日には正式にアギナルドが初代大統領に就任しました。

 しかし、米国はアギナルドを裏切り、革命政府抜きでスペインとの講和を進め、同年12月10日、パリで講和条約を調印。この結果、米国はフィリピンを2000万ドルで買収することが決定され、“友愛的同化”をスローガンとする植民地支配がスタートしました。

 マニラ開城以降の米国の対応は、当然のことながら、フィリピン人の憤激を買い、フィリピンでは反米感情が一挙に昂揚します。そもそも、マニラ開城から米西間の講和条約が調印されるまでの間に、革命軍はルソン島からビサヤ諸島にいたるスペインの支配地域を自力で解放していました。また、新国家にとって記念すべき第一議会が、首都のマニラではなく、マロロスでの開催を余儀なくされたのも、スペインとの密約でアメリカが革命軍のマニラ入城を阻止していたのが原因です。このため、革命政府は、1899年1月、マロロスで憲法を発布し、フィリピン共和国(第一共和国。マロロス共和国)を正式に樹立させ、米国の背信を絶対に認めないとの姿勢を内外に明らかにしようとしました。

 こうして、米軍政当局と革命政府との緊張が高まる中、1899年2月4日、米兵によるフィリピン兵2名の射殺事件が発生。これを機に、両者の対立は本格的な米比戦争へと発展します。

 米軍と革命政府との戦闘は、近代的装備に勝る米軍が終始一貫して革命軍を圧倒し、1899年3月末には革命政府の首都マロロスが陥落。同年11月にはアギナルドが山岳地帯に追い込まれて革命軍は組織として壊滅しました。

 しかし、アギナルド政府の残党は、米軍に対して各地で激しいゲリラ戦を展開。米軍を大いに悩ませます。これに対して、米軍はフィリピン・ゲリラを武力で制圧しようとしたものの、実際には、戦闘は次第に泥沼化し、収拾のめどは全く立ちませんでした。このため、1900年3月、マッキンリー大統領の命を受けて現地に派遣されたウィリアム・タフト(後の大統領)は、軍政官アーサー・マッカーサー(日本占領の司令官、ダグラスの父)を抑え、現地住民からなる親米勢力として連邦党を支援し、同党を足がかりとして地方の有力者を取り込むことで、占領行政を安定させようとしました。

 その後、1901年3月23日、アギナルドが米軍に逮捕されると、革命軍の指導者の投降も相次ぎ、タフトの支援する連邦党も革命勢力の武装解除に協力して治安状況は急速に改善。1901年7月4日にはタフトを総督とする植民地統治が開始され、翌1902年7月4日、フィリピン平定作戦の終了が宣言され、米領フィリピンが確定します。

 一方、アギナルドは、1901年4月に釈放された後、郷里に帰還し、元革命軍兵士の生活支援をしつつ、年金を受給しながら農業を行りつつ、1935年9月17日に実施されたフィリピン・コモンウェルスの大統領選挙には立候補したものの、マニュエル・ケソンに大差で敗退。日米開戦後は、バターン半島の戦いに際してはラジオを通してマッカーサーにフィリピンの若者の命を助けるために降伏するように求める演説を行うなど、親日的な姿勢を示したため、戦後は対日協力者として逮捕され、一時、パラワン島のイワヒグ収容所に収容されています。

 1946年、アギナルドはマニュエル・ロハス大統領による恩赦で釈放され、1946年7月4日のフィリピン第三共和国独立記念式典では、フィリピン国旗を掲揚しました。その後、1962年に日本の皇太子ご夫妻(今上陛下ご夫妻)がフィリピンを訪問した際には、93歳の高齢をおして、ご夫妻を自宅に迎えています。1965年、95歳で大往生を遂げると、その遺体は遺言に従い、一兵士の軍装で埋葬されました。


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 HAPPY NAWRYZ!
2019-03-21 Thu 01:39
 今日(21日)は春分の日。日本ではお墓参りの日ですが、イランを中心にその文化的影響が及んでいる国や地域では、新年のお祭り・ノウルーズの日です。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      カザフスタン・ノウルーズ(2012)

 これは、カザフスタンが発行した2012年のノウルーズ切手で、伝統的な弦楽器のドンブラを引く男性と民族衣装で馬に乗る女性が描かれています。

 さて、イスラム世界では預言者ムハンマドと信徒たちがメッカからメディナに移住し、イスラムの共同体を作った“ヒジュラ”のあった年を紀元とするヒジュラ暦が使われていますが、このヒジュラ暦は完全太陰暦で、かつての日本の旧暦のように閏月を入れて調整するということは行われていませんから、毎年、11日ずつ、太陽暦の日付とズレが生じます。

 このため、イスラム世界の各地では、イスラム暦とは別に、太陽暦に連動した農事暦が用いられることも多く、イランの場合は、イスラム以前から使われていたイラン暦として春分を元日とした太陽暦も用いられています。

 この元日が、いわゆる“ノウルーズ”(直訳すると“新しい日”の意味)と呼ばれるもので、イランを中心に、今回ご紹介のカザフスタンを含む旧ソ連の中央アジア5共和国でも祝日になっています。また、クルド人がノウル-ズを祝う習慣があることから、トルコではクルド人に対する宥和政策の一環として国民の休日に指定されているほか、イラク国内のクルド人自治区(クルディスタン)でも、ノウルーズは祝日に指定されています。ただし、ノウルーズはイスラム圏全体に共通の行事ではなく、アラブ世界ではほとんど無視されているのが実情です。

 ところで、ノウルーズのアラビア文字表記はنوروز ですが、これをペルシャ語とみた場合、そのラテン文字への転写は、nowruz (カタカナ表記でノウルーズ)とするのが一般的です。ただしカザフスタンの公用語であるカザフ語では キリル文字ではНаурЫз(ラテン文字ではnawryz)と表記するのがスタンダードですので、今回は記事のタイトルもそちらを使ってみました。

 また、イランをはじめ多くの国ではノウルーズは春分の日とされていますが、カザフスタン国家の公定の休日としてのノウルーズは翌日の3月22日に設定されています。これは、ヒジュラ暦では日没から1日がスタートするということを踏まえてのものと思われますが、実際には、22日を挟む21-23日がノウルーズの休暇期間となっていますので(今年は23日が土曜日のため、25日が振替休日となり5連休です)、周辺諸国同様、21日もお休みです。

 なお、カザフスタンでは、今年のノウルーズを控えた今月19日、 旧ソ連末期の1989年にカザフ共産党中央委員会第一書記に就任して以来、30年に及ぶ長期政権を維持してきたヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が20日付で大統領職から退任すると発表。これを受けて、憲法の規定によりカシムジョマルト・トカエフ上院(元老院)議長が大統領代行(任期は大統領選挙まで)に就任しました。

 ただし、今後もナザルバエフは“国家指導者”という憲法上の地位を維持し、国家安全保障会議の終身議長の地位にとどまるなど、新体制は事実上のナザルバエフ院政となりそうです。ちなみに、大統領代行のトカエフは、さっそく、ナザルバエフへの感謝のしるしとして、首都アスタナの名称をヌルスルタンに変更し、ナザルバエフ氏のモニュメントを建立することを提案しています。
 

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 モザンビーク、洪水で死者1000人超か
2019-03-20 Wed 02:06
 モザンビークのフィリペ・ジャシント・ニュシ大統領は、18日(現地時間)、国民向けの演説で、14日にアフリカ南部を襲った熱帯サイクロン“アイダイ”の死者が、現時点の公式発表では84人となっているのに対して、実際には1000人を超える恐れがあると述べました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モザンビーク会社・ベイラ市内

 これは、1904年、モザンビーク会社領で発行された絵入り葉書で、当時のベイラ市内中心部のようすが取り上げられています。人口約53万人の港湾都市、ベイラは、今回のサイクロンで特に被害が大きかった都市で、国際赤十字・赤新月社連盟によると、周辺地域を含め、都市の約9割が“損壊あるいは全壊”したそうです。

 1822年、ポルトガルにとってドル箱の植民地だったブラジルが独立すると、ポルトガル国内では政治の混乱が続き、経済も低迷。国家財政も急速に悪化し、ポルトガルは鉄道や鉱山の利権を担保に英国から借金を重ねました。

 こうした経緯を経て、19世紀後半、列強諸国によるアフリカ分割の過程で、ポルトガルはモザンビークとアンゴラを横断する“バラ色地図計画”を発表したものの、1890年には英国の圧力で現在のザンビアジンバブエマラウイに相当する地域の領有を断念し、1891年の条約で“ポルトガル領モザンビーク”の領域が確定されます。

 さらに、1891年、ポルトガルは英仏資本の勅許会社、モザンビーク会社とニアサ会社に対して、ポルトガル植民地政庁の裁判所の運営経費を負担し、宗教活動に援助することを条件に、50年間、両者の“会社領”とされた地域において司法権を除く各種の権利(警察権や徴税権、通貨発行権や郵便事業、鉄道建設、鉱山開発、農場経営などの権利)を与えます。

 このうち、モザンビーク会社領とされたのは、現在のモザンビーク中央部、マニッカ州およびソファラ州に相当する地域で、同社の植民地経営の拠点として港湾都市のベイラが建設されます。
 
 これを受けて、1892年、モザンビーク会社はベイラから内陸のイギリス南アフリカ会社領のムタレ(現・ジンバブエ。ベイラから290km、モザンビーク会社領との境界からは8km)までの鉄道建設を開始。この鉄道は1898年に開通し、20世紀初頭には、英領ケープ植民地(現・南アフリカ共和国)のフライバーグやソールズベリー(現・ジンバブエの首都ハラレ)を結ぶ鉄道路線と接続して南東アフリカにおけるイギリスの物流を支える大動脈となり、ベイラは域外に輸出する物心の集散地として経済的に繁栄しました。

 さて、個人的な話になりますが、僕は、2010年のアジア国際切手展<JOBURG 2010>の会期終了後、短期間ですが、モザンビークの首都、マプートに滞在したことがあり、いろいろと思い出深い国です。それだけに、今回の洪水被害についても非常に気がかりで、亡くなられた方の御冥福と、一日も早く被災地の復旧・復興が進むことを切にお祈りしております。


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 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 元大関把瑠都、母国で議員に
2019-03-19 Tue 01:08
 エストニア出身の元大関、把瑠都ことカイド・ホーベルソン氏が、17日(現地時間)、リーギゴグ(エストニア議会)選で繰り上げ当選したことを明らかにしました。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

      エストニア・議会90年

 これは、2009年にエストニアで発行された“リーギゴグ90年”の記念切手で、議長のハンマーが描かれています。

 現在のエストニア国家の領域はロシア革命以前、帝政ロシアの支配下に置かれていましたが、革命後のボリシェヴィキ政権はドイツと単独講和を締結。ロシアはエストニアから撤退し、代わりにドイツ軍が進駐しました。これに対して、エストニアは1918年2月24日、独立を宣言。これを認めないドイツ占領軍と対立します。

 さらに、1918年11月18日、ドイツの敗北で第一次大戦が終結。これに伴い、12月7日、ドイツはエストニア側に主権を移譲しました。これを受けて、1919年4月23日、独立エストニアとしての最初の議会、リーギゴグが開かれます。今回ご紹介の切手は、ここから起算して90周年になるのを記念して発行されたものです。

 その後、1939年に第二次大戦が勃発すると、1940年にソ連はエストニアを再占領。1941年に独ソ戦が始まると、一時的にエストニアはドイツの占領下に置かれたものの、最終的にはソ連が奪還し、戦後はソ連を構成する15の共和国の一つとされていましたが、1991年8月20日、ソ連8月クーデターの混乱の中で、再独立を達成しました。

 現在のリーギゴグはこれに伴い復活したもので、定数は101の一院制。選挙は、全国を12ブロックに区分し、各ブロックから5-14人を選出する比例代表制で、全国で法定得票率5%を獲得した政党のみ議席を獲得できます。なお、議員の任期は解散ありの4年です。

 今月3日に行われたリーギゴグ選挙では、最大野党の中道右派、改革党が34議席で第1党となりましたが、単独では過半数に届かなかったため、与党で中道左派の中央党との連立交渉にあたることになりました。また、欧州連合(EU)に懐疑的な姿勢を示す保守人民党も19議席を獲得しています。

 ホーベルソン氏は中央党の候補として立候補し、当初は落選したものの、同党所属の当選候補が、現在の町長職を続けるために辞退し、繰り上げとなったそうです。2013年の現役引退時、角界には残らず、「今後は日本とエストニアをつなぐ懸け橋を目指す」と語っていたホーベルソン氏ですが、議員として、その目標を達すべく頑張っていただきたいですね。


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 クリミア“併合”5周年
2019-03-18 Mon 01:24
 2014年3月18日、ロシアがクリミアを“併合”してから、5周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。

      ロシア・クリミア併合(2014)

 これは、2014年6月19日、クリミア併合を記念してロシアが発行した“クリミアの風景”の切手です。

 クリミア半島は、もともと、ウクライナ南部の半島に接する地域とともにクリミア・タタール人が支配するクリミア・ハン国の版図でしたが、エカチェリーナ2世治世下の1783年、同国がロシアに併合されたことでロシア領となり、1802年、タヴリダ県となりました。

 ロシア革命後はタヴリダ・ソビエト社会主義共和国を経て、1921年、クリミア半島部はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国支配下のクリミア自治ソビエト社会主義共和国に、半島外はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に分割されましたが、このうちの前者が、1945年にクリミア州となり、1954年、ソ連邦の構成共和国であったウクライナに移管されました。

 1991年のウクライナ独立に際してクリミア州はウクライナが継承しましたが、クリミア州内のロシア人はロシアへの再統合を要求。1992年5月5日、クリミア州議会はウクライナからの独立を決議し、クリミア共和国の独立を宣言しました。

 これに対して、ロシアは独立の動きを支持し、クリミアのウクライナ移管を定めた1954年の決定は違法とする議会決議を採択します。ところが、1994年に第1次チェチェン紛争が勃発すると、チェチェンの独立を禁圧しながら、クリミアのウクライナからの独立を支持するのはダブルスタンダードであるとの国際的批判が高まり、ロシアはクリミア独立運動への支援を中断せざるを得なくなります。

 この結果、後ろ盾を失ったクリミアの独立運動は沈静化し、クリミア議会はウクライナ共和国内の自治共和国であることを認め、1998年にクリミア自治共和国憲法が制定されました。しかし、2013年から2014年にかけてウクライナ経済の低迷をきっかけにウクライナ国内で親露派と親欧米派の対立が再燃し、2014年2月24日、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権が崩壊。これに対して、クリミアでは、ロシアの強い影響の下、暫定政権への移行に反対する親露派のデモが拡大し、同年3月16日の住民投票を経て、クリミア共和国が“独立”を宣言しました。この時点で、すでにクリミア全域はロシアの実効支配下に置かれており、ウクライナがこれを回復するのはほぼ不可能でした。

 クリミアの“独立”を受けて、3月18日、ロシアのプーチン大統領はクレムリンで上下両院議員を前に演説し、「クリミアは強く揺るぎないロシアの主権下になければならない」と述べ、ウクライナ南部クリミア自治共和国とセヴァストポリ特別市をロシアに編入すると発表。続けて、自治共和国、特別市の代表と編入に関する条約に署名し、ウクライナから独立したばかりのクリミア共和国はロシアに“併合”されました。

 なお、国連やウクライナ、そして日本を含む西側諸国などは主権・領土の一体性やウクライナ憲法違反などを理由として、そもそもクリミアのウクライナからの“独立”を認めておらず、それゆえ、ロシアによるクリミア“併合”も国際法上無効なものとして承認していません。


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 セント・パトリックス・デイ
2019-03-17 Sun 02:47
 きょう(17日)は、セント・パトリックス・デーです。というわけで、聖パトリックのシンボル、緑色のシャムロックにちなんで緑色のモノを身につける習慣に倣い、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・英雄的ゲリラの日(「キューバ革命小史」より)

 これは、1968年10月8日にキューバが発行した“英雄的ゲリラの日”の記念切手の1枚です。“英雄的ゲリラの日”は、前年10月9日にボリビアで処刑されたチェ・ゲバラの没後1周年にあわせて設定された祝日で、1968年の記念切手は5種セットで発行され、ゲバラの肖像写真“英雄的ゲリラ”を右側に配し、左側に、ゲバラの言葉とそれにちなんだイラストを配するという統一パターンとなっています。

 今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、『オ・クルゼイロ』1959年6月16日号および『グランマ』1967年10月22日号に掲載された「キューバ革命小史」の中から、「革命の開始」と題された第1章の一節で、日本語版の『ゲバラ選集』では「いま考えると、そのためになんと多くの努力、犠牲、人名を必要としたことか」と訳されています。ただし、原文の文脈では、この1文はバティスタ政権を打倒して革命が達せられた時のことではなく、1956年11月、カストロとゲバラがグランマ号でキューバ島に上陸し、革命戦争を本格的に開始するまでの苦労を回想したものとして記されています。

 ちなみに、ゲバラ家はアルゼンチン出身で19世紀半ばのゴールドラッシュ時代にカリフォルニアに移り、この地で生まれたゲバラの祖父、ロベルトが同地でメキシコ出身のアイルランド系女性、アナ・リンチと結婚し、1900年、ゲバラの父にあたるエルネスト・ゲバラ・リンチが生まれました。したがって、ゲバラ本人はアイルランド系の血を引いていることになります。

 ゲバラ本人は左翼コスモポリタンで、生前、自分がアイルランド系であることを特に意識していた形跡はありませんが、彼の死後、父エルネストは「私の息子にはアイルランドの“反逆者”の血が流れている」と語っており、現在では、全世界に拡散した“アイリッシュ・ディアスポラ”の代表的な人物のひとりとみなされています。

 このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。
 

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 ライチョウの一般公開始まる
2019-03-16 Sat 02:01
 国の特別天然記念物で、絶滅危惧種のニホンライチョウの一般公開が、きのう(15日)から、東京の上野動物園など全国4カ所の施設で始まりました。国内施設でのライチョウの公開は、2004年、長野県大町市の大町山岳博物館の雄1羽が死んでから15年ぶりです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      鳥切手・らいちょう(1963)

 これは、1963年8月10日に鳥切手の第2集として発行された“らいちょう”です。

 ライチョウは日本アルプス連峰中の2400メートル以上の高所にだけ住む鳥で、羽色は褐色、翼長は約190ミリです。冬は雪の中で生活するため、それに応じて、尾羽と雄の目先を残して前身が純白色に変化します。

 今回ご紹介の切手の原画は長谷部日出男が担当し、1963年2月中旬から制作作業が開始されました。その過程で、長谷部は、山階鳥類研究所を訪れて資料を集めたほか、背景に描くハイマツの取材のために栃木県日光の東大植物園に出張してスケッチしています。長谷部の原画は3月19日に完成し、山階鳥類研究所ならびに植物学者の小倉謙の校閲を経て、印刷局へ渡され、作業が進められました。

 切手の発行枚数は、当初、当時の標準的な記念切手と同様の1200万枚の予定でしたが、折からの切手ブームに対応して、7月4日、郵政省は今回の“らいちょう”以降は1500万枚に増加することを発表。さらに、実際には、今回の切手の場合には、通信での申し込み状況などを考慮して、最終的に1690万枚の発行となっています。

 なお、切手ブームの最中での切手発行とあって、初日印適応局として切手の売上を確保したい“地元”の綱引きも活発に行われました。

 すなわち、初日印の適応局としては、当初、長野県松本局が有力と考えられており、発行日を間近に控えた6月10日には、松本市長(降旗徳弥)ならびに松本郵趣会代表(岩附晋一郎)の連名で郵務局管理課長宛に、松本局を初日印適応局として指定してほしいとの申請書が提出されています。

 これに対して、1961年11月3日にライチョウを県の鳥に指定していた富山県側から、富山局こそが初日印適応局としてふさわしいとの異論が出され、6月14日には、富山県郵便切手類売さばき人連合会長(塩井幸次郎)からも郵政大臣(小沢久太郎)宛に、富山局を初日印適応局として指定してほしいとの申請が出されました。

 結局、両者の主張に決定的な優劣をつけることのできなかった郵政サイドは、富山・松本の両極を初日印の適応局として指定し、この両局に対して印顆の増配備を行うなどの妥協的な措置を取っています。

 ちなみに、今回のライチョウの公開は、上野動物園のほか、富山市ファミリーパーク、大町山岳博物館(長野県大町市)、いしかわ動物園(石川県能美市)で15日からそれぞれ1~2羽が公開され、16日からは那須どうぶつ王国(栃木県那須町)でも2羽を公開することになっています。


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 TASA
2019-03-15 Fri 14:55
 所得税の確定申告は今日(15日)までですが、皆さんは無事に済まされましたか?手回し良く2月中に済ませたという方も多いのでしょうが、僕は今年もまた〆切ギリギリ、先ほどようやく書類を提出したところです。というわけで、毎年恒例“TAX”ネタとして、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・不足料(1914)

 これは、1914年にキューバで発行された不足料切手です。
 
 近代郵便が料金の前納を原則としている以上、料金の未納・不足というのは一定の割合で必ず発生します。そうした場合、郵便サービスを提供する側としては、不足分+ペナルティを受取人から徴収しようとするわけですが、そうしたペナルティ込みの料金を徴収するための切手、すなわち不足料切手を発行している国というのは少なからずあります。(日本では発行されたことがありません)

 今回ご紹介のキューバの切手もその一例で、印面の下部に、“受け取るべき料金”を意味する“TASA POR COBRAR”の表示が入っていますが、この“TASA”の語には、英語の“TAX”に相当する意味もあります。ちなみに、郵便料金が不足している場合、国際的には、フランス語で郵便料金(=郵税)を意味する“TAXE”の頭文字、“T”を表示するのが一般的ですが、スペイン語圏の人の感覚では、このTはTASAのTと受け止められるのかもしれません。

 さて、この切手が発行された当時のキューバは、名目上は独立国でしたが、政治的・経済的に、事実上、米国の支配下に置かれており、米国の影響はキューバ社会の様々な面に及んでいました。この切手も米国製で、米国の不足料切手ともよく似た雰囲気です。

 なお、1959年の革命以前のキューバの状況については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。


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 世界の切手:スーダン
2019-03-14 Thu 02:58
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年2月20日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はスーダン(と一部ギニアビサウ)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      スーダン・独立50年

 これは、2006年にスーダンで発行された“独立50年”の記念切手です。

 1881-99年にエジプトの南に存在していたマフディー王国は、現在のスーダンと南スーダン(2011年に旧スーダンから分離独立)をあわせた地域にほぼ相当していた。1899年、マフディー王国が滅亡すると、その領域は“スーダン”としてエジプトと英国の両国による共同統治下に置かれました。

 英埃領スーダン内部では、イスラム・アラブ系・アラビア語を中心とする北部と、アニミズム・キリスト教・アフリカ系・英語を中心とする南部の相違が大きかったこともあり、1924年以降、南北分割統治が行われていました。その際、マラリアなどの予防の名目で北緯8度以北の者が南へ、同10度以南の者が北に行くことはどちらも違法とされたことなどもあり、南北の分裂が加速されていきます。

 第二次大戦後、植民地再編の過程で、スーダン南部を支配していた英国は南部スーダンとウガンダの統合を望みましたが、1947年のジュバ会議で南北スーダンの統合が決められ、1954年の自治政府発足を経て、1956年1月1日、旧スーダン国家が独立しました。

 しかし、その過程で、1955年、南北の内戦が勃発すると、スーダンの主要産業であった綿花の生産は大きな打撃を受け、スーダン経済は苦境に見舞われます。こうしたなかで、1958年11月、今回ご紹介の切手の中央、軍服姿で国旗を持つイブラヒム・アブード将軍がクーデターを起こしました。

 アブードは1900年生まれ。ハルトゥームの陸軍士官学校卒業後、当初はエジプト軍に配属され、後にスーダン防衛軍に転属となり、1949年には副司令官に昇進。1956年のスーダン独立に伴い、国軍司令官に就任しましたが、1958年11月にクーデターを敢行し、軍最高評議会議長として実権を掌握し、独裁体制を構築します。

 1964年、アブードは民政移管を決定しますが、民政移管後も権力を維持すべく、同年10月の大統領選挙に立候補し、当選しています。しかし、その直後の11月にクーデターが発生し、英国への亡命を余儀なくされました。

 ちなみに、アブードが政権発足後の1959年8月、チェ・ゲバラを団長とするキューバ親善使節団は世界各国を歴訪する過程で、スーダンにも立ち寄り、アブードと会談しています。その後、ゲバラは、1965年2月にもアフリカ歴訪の一環としてアブードとの会談を予定していましたが、1964年10月の政変でアブードが失脚し、1965年4月にウンマ党と国民統一党の連立政権が成立するまでの過渡期のタイミングにあたっていたため、スーダン訪問は見送られました。このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも触れておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 さて、『世界の切手コレクション』2月20日号の「世界の国々」では、英埃領時代のスーダンとキャメル・ポストの切手についてまとめた長文コラムのほか、青ナイルやヌビアの遺跡の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のスーダン(と一部ギニアビサウ)の次は、2月20日発売の同27日号でのナミビア、3月6日発売の同13日号でのアンゴラ(と一部トーゴ)、同13日発売の同20日号でコロンビア(と一部パラグアイ)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 コカインの原料
2019-03-13 Wed 14:20
 関東信越厚生局麻薬取締部は、きのう(12日)、俳優でミュージシャンのピエール瀧こと瀧正則容疑者(個人的には、昨年、TBSラジオの番組、たまむすびで僕の話をうまく引き出してくれた記憶が鮮明に残っているので、驚きました)を、コカインを使用した容疑で逮捕しました。というわけで、きょうはコカイン関連で、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・コカ畑

 これは、ボリビアが発行したラパス州ユンガス地方のコカ畑を取り上げた絵葉書です。私製のモノではなく郵政当局が発行した官製のモノで、裏面には下の画像のような印面が印刷されています。

      ボリビア・コカ畑(裏面)

 ちなみに、1966-67年、チェ・ゲバラらはボリビア山中でゲリラ活動を展開していましたが、当初、付近の住民達は、見慣れない外国人を見かけても、それが左翼ゲリラであるとは夢にも思わず、コカインの密造工場があるらしいと考えて地元警察に通報。警察がゲバラらの野営地付近を捜索しにきたというエピソードもあります。このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも触れておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 コカインの原料となるコカの葉は、ボリビアを含む南米の山岳地帯では、そのまま噛んだり、茶として引用するなど、嗜好品や薬用として伝統的に利用されてきた歴史があります。特に、ボリビアでは鉱山労働者などの重労働者がコカの葉を噛みながら仕事をする習慣があるほか、貧しい人々はコカの葉を噛むことで空腹を紛らわすのが常でした。コカの葉そのものはコカイン濃度が薄いため、依存性や精神作用は、抽出されたコカインに比較して弱く、現在でも、ボリビア国内ではコカの葉を茶などとして嗜むことは違法ではありません。

 一方、コカの葉からコカインを抽出する技術は、1855年、フリードリヒ・ゲードケが初めて成功。さらに、1859年、ゲッティンゲン大学のアルベルト・ニーマンがこれを改良し、翌1860年に詳細な性質を報告して「コカイン」と命名しました。

 当初、コカインはモルヒネ中毒の治療薬として発売され、1880年代の英国では一般人でも容易に入手可能でした。シャーロック・ホームズがコカインの依存症という設定になっているのも、そうした時代背景によるものです。

 その後、コカインの過剰摂取は心疾患および脳損傷を引き起こすことがあるほか、幻覚症状を引き起こし、薬物依存症の原因となることが広く知られるようになったため、1922年には“麻薬”として米国で禁止されたのをはじめ、多くの国では、原料となるコカの葉、コカの木を含め、規制の対象となっています。

 しかし、非合法の麻薬としてのコカインの流通はなくならず、ヴェトナムの戦場で日常的にコカインを摂取していた帰還兵が米国内にコカインを持ち込み、コカイン汚染が拡大。さらに、1980年代に入り、パブロ・エスコバルひきいるコロンビアの複合犯罪組織のメデジン・カルテルが台頭すると、コカインの供給量が増えて販売価格が下がり、コカインの摂取は貧しい人々や若者にも広がるようになり、深刻な社会問題となっています。

 2000年代までに、メデジン・カルテルやカリ・カルテルなどの大型麻薬組織は撲滅されましたが、麻薬組織は細分化して存在し続けており、現在でも、年間約1万3000人がコカインで亡くなっています。


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 ブーテフリカ、5選出馬撤回
2019-03-12 Tue 11:09
 アルジェリアのアブデルアズィーズ・ブーテフリカ大統領(以下、敬称略)は、きのう(11日)、アルジェリア各地での反大統領デモ鎮静化のため、5期目を目指した次期大統領選への出馬撤回を表明しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

     アルジェリア・大統領選挙(2014)

 これは、ブーテフリカが4選を果たした前回、2014年の大統領選挙に際してアルジェリアが発行した切手です。

 ブーテフリカは、1937年、仏領時代のモロッコ・ウジダで生まれました。1956年以降、対仏解放闘争に参加し、1962年のアルジェリア独立と同時に、25歳の若さでベン・ベラ政権の青年・スポーツ・観光相に抜擢。翌1963年には外相に就任しました。

 その後、外相を解任されますが、1965年、盟友のフワーリー・ブーメディエンがクーデターで政権を掌握し、革命評議会議長に就任すると、外相に復帰。その後、通算16年間、外相を務め、1974年には国連総会の議長として南アの国連からの追放とPLOの国連オブザーバー参加を実現しました。

 1978年にブーメディエンが亡くなると、後継者と目されてたものの失脚。しかし、1990年代のイスラム原理主義勢力との内戦終結後の1999年の大統領選挙に与党・民族解放戦線(FLN)の候補者として出馬し、73.8%の得票率で大統領に選出されました。

 大統領就任後は、社会の安定(治安と国民和解)と経済改革(市場経済の導入)を掲げるとともに、G8を始めとする先進諸国との関係改善に取り組み、治安の回復と経済成長で相応の成果を挙げました。

 2008年、憲法の規定で2期5年とされる大統領任期が迫った2008年、長期政権を目指すため、大統領の当選回数制限を撤廃する憲法改正を強行。翌2009年4月9日の大統領選挙では、ブーテフリカ陣営による選挙不正が横行する中、90.24%の得票で再選されます。

 こうした中、2011年、いわゆる“アラブの春”の余波で、アルジェリアでも騒乱が発生。このため、ブーテフリカは、同年2月24日には、1992年以来の非常事態宣言を解除し、同年9月、5月の国民議会選挙を受けた新内閣の首相にアブデルマーレク・セラールを任命しました。

 ブーテフリカは、2013年に発作で倒れて以来、車椅子の生活を続けていますが、それでも、2014年の大統領選挙に出馬して当選し、権力を維持し続けてきました。健康問題から、さすがに今季限りで引退と見られていましたが、昨年(2018年)10月、「昔と同じ体力ではない。健康上の問題は誰もがいずれ直面するものだが、私の気力はそれを上回る」と述べて、今年(2019年)4月の大統領選挙への出馬を表明。多くのアルジェリア国民の顰蹙を買う中で、2月24日、「定期検診のため」としてジュネーブに行ったまま帰国しない状況が続いたことから、国民の不満が爆発し、3月1日、反大統領派のデモ隊と警官隊が衝突、多数が負傷する騒擾事件が発生しました。

 そして、同10日、約2週間ぶりにブーテフリカが帰国した後も、アルジェリア全土でデモが全土で続き、首都アルジェ市内ではストで鉄道やバスの運行がストップし、中心部にある商店の大半が休業するなどの混乱が続いたため、11日、ブーテフリカも出馬断念を表明。4月18日に予定されていた大統領選挙は延期されることになりました。


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 パンダ“発見”150年
2019-03-11 Mon 02:05
 1869年3月11日、フランス人宣教師のアルマン・ダヴィドが、欧米人として初めて、ジャイアントパンダ(以下、パンダ)の毛皮を“発見”してから、きょうで150周年になります。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス・パンダ(2009)

 これは、2009年にフランスが発行したパンダの切手です。パンダを描く切手は、わが国を含め、ほぼ全世界から発行されていますが、今回は、“発見者”のダヴィドに敬意を表して、フランスの切手を持ってきました。

 パンダは、古くは北京周辺からヴェトナム北部、ミャンマー北部にかけて分布していたことが化石によって確認されており、北宋の時代にまとめられた『爾雅注疏』にも、「竹を食べる白黒模様をしたクマのような動物」についての記述があります。ただし、この動物は“貘”とされており、おそらく、近代以前の中華世界では、パンダとマレーバクが混同されていたものと考えられています。

 1862年、司祭として北京に派遣されたダヴィドは、フランス政府の依頼を受け、中国の動植物、鉱物、化石の標本を集め、パリに送っていました。その一環として、1869年、現在の行政上は中華人民共和国四川省雅安市宝興県にあたる地で、地元の猟師が持っていた白黒模様のパンダの毛皮を欧米人として初めて発見。後日、パリの国立自然史博物館に毛皮と骨などを送り、ジャイアントパンダの世界的に知られるようになりました。

 ところで、ダヴィドがパンダを“発見”した雅安市は、長江の上流、四川盆地の西縁に位置しており、歴史的には“西蔵門戸”と呼ばれて中華世界とチベットの境界に位置してきました。また、現在、野生のパンダは、中国の甘粛省、四川省、陝西省などに棲息していますが、その中心となる四川省のジャイアントパンダ保護区は、成都市が所轄する都江堰市・崇州市・邛崍市・大邑県、雅安市が所轄する芦山県・天全県・宝興県、アバ・チベット族チャン族自治州が所轄する汶川県・小金県・理県、カンゼ・チベット族自治州が所轄する康定県で設定されています。このうち、チベット族自治州は、1951年の中国によるチベット“解放”を経て、1955年に四川省に組み込まれたのであって、かつては独立チベットの版図の一部でした。また、それ以外の上記の市・県も、歴史的に、少なからずチベット人が居住してきた地域です。

 ちなみに、昨日(10日)は、1959年3月10日のチベット民族蜂起から60周年ということで、チベット亡命政府の所在地であるインド北部ダラムサラでは式典が行われ、ロブサン・センゲ首相は、「1959年の蜂起とその後の活動は、チベット人が一貫して権利、自由、正義のために戦ってきたことを示している」としたうえで、中国政府が60年以上にわたり、チベットの言語や文化を抑圧し、「チベット文明を地上から消し去ろうとしてきた」と強く批難。そのうえで、「世界の自由を愛する人々は、(中国の)圧政を終結させることを約束してほしい」と訴えました。

 そこで、ささやかながら、僕もまた“自由を愛する人”の一人として、パンダが“チベットの動物”だったことを、このブログであらためて強調しておきたいと思います。


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 砂糖の日
2019-03-10 Sun 10:31
 きょう(10日)は、3と10の語呂合わせて“砂糖の日”です。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・1000万トン計画

 これは、1970年にキューバで発行された“(砂糖増産)1000万トン計画”のキャンペーン切手で、地球と“国際旅団”の赤旗を背に、サトウキビの収穫に用いるマチェーテを手にした男たちが描かれています。

 キューバの主要産業である砂糖の生産量は、革命直前の1958年に580万トンだった砂糖の生産量は、革命後の混乱に加え、砂糖モノカルチャーを貧困と従属の元凶として、そこからの脱却を掲げる革命政府の方針もあって、1962年には480万トン、1963年には380万トンにまで落ち込みました。革命後のキューバはソ連とバーター貿易を行っていましたが、砂糖の生産が落ち込んだことで、ソ連への砂糖の輸出は滞り、債務も累積し始めます。

 このため、ソ連は、カストロに対して、砂糖モノカルチャーを敵視するのではなく、経済建設の幻視として砂糖の輸出を最大限に活用すべきではないかと提案し、資金の供与と砂糖の長期引き受けを約束します。ソ連が提示した砂糖の購入価格は(1ポンドあたり)6.11セントの固定相場で、これは、1963年の国際市場価格の8.4セントに比べると安いものの、低落傾向が続く中で(ちなみに、その後の相場の暴落で、1967年には1.99セントにまで市場価格が落ち込んでいます)は決して悪い条件ではありませんでした。

 しかし、砂糖モノカルチャー経済への復帰は、米国に代わってソ連を新たな“宗主国”として選択することに他ならないため、キューバとしては、革命の大義に照らして容認しがたいものでした。

 そこで、両者の折衷案として、砂糖の増産を機械化によって実現し、それを軸に工業化を進めるという方針が採択されました。
これが、“1000万トン計画”の基本的な考え方です。

 “1000万トン計画”は1965年から開始され、国民に対しては“大攻勢”が命じられます。

 “大攻勢”では、国民の“革命意識”に訴えて職場や学校で砂糖キビ収穫隊が組織され、マチェーテ片手に人海戦術での刈取作業に従事させられました。しかし、動員された隊員たちに対する教育は不十分で、彼らがやみくもにマチェーテを当てることでサトウキビの苗を根こそぎ切り取ってダメにする(本来は、植えてから四年間の収穫が可能なため、新しい芽が出るように刈り取らなければなりません)ケースが多発しました。また、杜撰な生産計画のため、隊員たちがサトウキビを刈り取ったものの、運搬用のトラックが来ないためにサトウキビがそのまま放置されて醗酵してしまい、その間、隊員たちは無為に遊んでいるという状況が至る所で見られました。

 さらに、収穫隊に労働力を取られたことで工場に残った労働者は残業に加え、休日出勤もしなければノルマをこなせなくなりましたが、本来、労働者の権利を擁護すべきキューバ労働者連合は時間外手当を返上。これを受けて、ノルマ超過分に対する報奨金も廃止されるとともに、同一労働同一賃金を規定した新賃金体系が導入されています。これは、労働の成果に関わらず職種ごとに同じ賃金を支給するという、社会主義的な悪平等政策の典型でしたから、もともと決して高くはなかった国民の労働意欲がさらに減退するのは避けられず、砂糖以外の生活物資の生産性は大幅に低下し、深刻なモノ不足の下、一般国民は粗悪な工業製品さえなかなか入手できなくなりました。

 結局、1000万トン計画は、飢餓こそ発生しなかったものの、中国で行われた“大躍進”の失敗をそのままなぞったような格好となり、1970年度の砂糖生産は850万トンで、惨憺たる失敗に終わりました。

 なお、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 マラドーナに隠し子3人発覚
2019-03-09 Sat 14:09
 サッカー元アルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナ氏(以下、敬称略)が、キューバで2人の女性の間にもうけた3人の子どもを認知する考えであることが、きのう(8日)、明らかになりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・マラドーナ(2015)

 これは、2015年にキューバで発行されたマラドーナの切手シートです。マラドーナについては、外貨稼ぎを目的に小国が発行する“いかがわしい切手”がいくつか発行されているほか、母国アルゼンチンの切手にも取り上げられています。キューバの場合、どちらかというと“いかがわしい切手”に近いと判断してよいのでしょうが、後述するように、マラドーナはキューバの現政権とも浅からぬ因縁がありますので、単純に“いかがわしい切手”と切り捨てるのわけにもいかなさそうです。

 ディエゴ・アルマンド・マラドーナは、1960年10月30日、アルゼンチンのブエノスアイレス州ラヌースで生まれました。アルゼンチン・リーグ史上最年少でプロデビューし、1977年に歴代最年少でアルゼンチンフル代表にデビュー。1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権で優勝して大会最優秀選手に選ばれました。FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場しましたが、1986年に開催されたメキシコ大会では、彼の活躍により、アルゼンチン代表は2度目の優勝を果たしています。なかでも、フォークランド紛争以来の因縁となった準々決勝のイングランド戦は、相手GKピーター・シルトンと交錯したマラドーナが空中のボールを左手ではたいた“神の手”ゴールと、5人抜きドリブルでのゴールという伝説的なプレーをした試合として有名です。

 選手時代から、コカインなど違法薬物の使用が取り沙汰されていましたが、1994年のW杯では大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会からの即時追放と15ヵ月の出場停止処分を受け、1995年10月、14年ぶりにアルゼンチンのクラブ・チーム、ボカ・ジュニアーズへ復帰しましたが、衰えは隠せず、1997年に現役を引退しました。

 マラドーナとキューバ政府との関係は、W杯優勝後の1987年7月28日、フィデル・カストロと対面したのが最初です。この時、カストロに魅せられたマラドーナは、以来、カストロの“友人”となり、1989年の自身の結婚式にはカストロを招待しただけでなく、左脚にカストロ、右肩にゲバラ(英雄的ゲリラ)の刺青を彫り込み、ゲバラを真似て両腕に時計をはめるなど、キューバへの傾倒ぶりを示しています。

 さて、マラドーナは、2000年にウルグアイ滞在中に心臓発作を起こした際、カストロを頼ってキューバの医療施設に入所。その後、コカイン中毒の治療も兼ねて、数年間、カストロの賓客として2005年ごろまでキューバに長期滞在していました。この間、マラドーナは治療のかたわら、奔放な生活を送っており、その結果として、今回報道された3人の子供が生まれたということになります。

 なお、マラドーナは2008年にアルゼンチン代表監督に就任し、2010年W杯の南米予選を辛くも突破したものの、本大会では準々決勝で敗れました。2010年7月にはコーチ陣の処遇を巡って、アルゼンチンのサッカー協会と対立して解任。その後、UAEのクラブチーム監督を経て、2018年9月、メキシコ2部のドラドス・デ・シナロアの監督に就任しています。


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 国際女性デー
2019-03-08 Fri 01:32
 きょう(8日)は国際女性デーです。というわけで、例年どおり、拙著の中から女性ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・タニア

 これは、1972年にキューバで発行された“ゲリラの日5周年”の記念切手のうち、タニアことタマラ・ブンケと彼女の亡くなった場所の地図を描いた1枚です。

 タニアは、ナチスの迫害を逃れてアルゼンチンに移住した両親の下、1937年、ブエノスアイレスで生まれました。1952年、一家は東ドイツに移住しましたが、彼女は1959年のキューバ革命に感激し、西独バイリンガルという特性を活かして、キューバ支援の運動に加わります。その活動が認められ、1960年、チェ・ゲバラがベルリンを訪問した折には通訳を務め、その後、キューバに渡航。ハバナ大学に通いながら、ゲバラのスタッフとして通訳・翻訳などに従事し、1963年から1年間、キューバで諜報活動の訓練を受けています。

 1964年11月には地下工作の使命を帯びて、“ラウラ・グティエレス・バウエル”の変名でボリビアに入国。現地の大学生と結婚し、考古学およびドイツ語講師としてボリビア社会の中枢に接触し、軍事政権トップのバリエントスや政権中枢の高官の知遇を得て、首都ラパスを中心に情報活動と人脈の構築に尽力しました。

 ボリビアでの彼女は、ゲバラのボリビア入りを前に山中での作戦の後方基地となる農場探しをサポートしつつ、 都市部を中心に工作活動に従事し、ゲバラ率いる山岳ゲリラとボリビア共産党との連携を模索しようとしましたが、1966年末、ゲバラはボリビア共産党と決裂。こうして、彼女がボリビア共産党との協力の下で築いてきた人脈や情報網が機能しなくなったことから、1967年3月、彼女は対応を協議すべく山中のゲバラのもとを訪ねました。

 ところが、彼女が山中に滞在中の4月24日、ラパスに残されていた彼女のジープと車内に置かれていた書類が政府側に押収され、彼女がゲリラ側の工作員としてラパスでボリビア政府関係者と接触していたことが露見。この結果、彼女はラパスに戻れなくなり、ゲリラとしては何の訓練も受けぬままゲバラに同行せざるを得なくなり、同年8月、グランデ川渡河の途中で敵の攻撃を受けて負傷し、流されながら亡くなりました。

 なお、ボリビア山中でのゲバラらのゲリラ活動と、その悲劇的な最期については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも1章を設けてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧ください。


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 飼獅子に咬まれる
2019-03-07 Thu 14:37
 チェコ東部の村ズジェホフで、おととい(5日・現地時間)、無許可で雌雄のライオンを飼っていた男が、ライオンに襲われて亡くなったそうです。というわけで、チェコのライオン切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      チェコ軍団の切手

 これは、1920年、シベリアの第1チェコスロバキア狙撃連隊(以下、チェコ軍団)の将兵用に発行された切手で、チェコスロヴァキアの国章“ボヘミアのライオン”が描かれています。

 第一次大戦以前、チェコとスロヴァキアはハプスブルク帝国の支配下にあり、チェコおよびスロヴァキア人将兵はオーストリア軍の一員として大戦に参加し、ロシア軍と戦っていました。しかし、もともとハプスブルクからの独立を強く望んでいたチェコ人たちは、ヨーロッパ諸民族とドイツ人との戦いとしての第一次大戦を民族独立の好機とみなすようになり、“敵の敵”であるロシアに投降する者が後を絶ちませんでした。

 このため、ロシア帝国は、チェコ人とスロヴァキア人捕虜によってチェコ軍団を結成。彼らは義勇兵として独墺と戦い、1917年7月のガリツィア攻勢において3000人以上の捕虜を獲得するなどの戦果を挙げています。1918年の時点で、チェコ軍団の規模は約15万人で、帝政ロシアを打倒して独墺と単独講和を結んだボリシェヴィキ政権はドイツの手先であると考えていました。

 こうした状況の下、1918年4月、シベリア経由でヨーロッパ戦線に向かおう途中のチェコ軍団のメンバーが、移送中のドイツ・オーストリア軍の捕虜と小競り合いを起こしたのをきっかけに、チェコ軍団による反乱が勃発。チェコ軍団はシベリア鉄道に沿って、当時、無政府状態になっていたサマラ=イルクーツク間の地域を占拠しました。

 これに対して、ボリシェビキ政権は連合国に対してチェコ軍団の武装解除を要求しましたが、連合国側はこれを拒否。逆に、「チェコ軍団がシベリア各地で殲滅されかかっている」として、チェコ軍団救出を大義名分に、ボリシェビキ政権に対する干渉出兵を行うこととします。ボルシェビキ政権を打倒し、連合国に立って戦うロシア政府を樹立することによって、東部戦線にドイツ軍を釘付けにするためでした。これが、列強諸国によるシベリア出兵の基本的な構図です。

 さて、今回ご紹介の切手の台切手は、1919年9月、プラハで製造されたもので、“ボヘミアのライオン”の紋章の周囲に軍隊を示す各種の武器を散りばめたデザインになっています。周囲には“シベリア・チェコスロバキア軍郵便(POSTA CESKOSLIVENSKE ARMADY SIBIRSKE)”の文字と発行年を示す“1919”の表示があり、1920年以降は、今回ご紹介の切手のように、1920の年号や各種の額面を加刷して使用されました。

 なお、この切手が発行されたときには、すでに、大戦は終結してハプスブルク帝国は崩壊しており、チェコはスロヴァキアとともにチェコスロヴァキアとして独立していました。


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 米、キューバ企業への訴訟解禁
2019-03-06 Wed 11:07
 米政府は4日(現地時間)、1959年の革命後にキューバ政府が革命後に接収した家屋や土地などの財産について、亡命キューバ人を含む米国人が損害賠償請求訴訟を提起することを認めると発表しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・製糖工場(1928年)

 これは、1928年3月22日、ハバナから米国宛の絵葉書で、絵面には米国資本の製糖工場が取り上げられています。

 キューバの砂糖産業は、1878年に終結する十年戦争(第一次独立戦争)以前は、サトウキビ畑と製糖工場、奴隷の住居、家畜小屋、倉庫などが1ヵ所に集まった“インヘニオ”の形態が主流を占めていましたが、十年戦争を経て、遠隔地の畑と工場、港湾を鉄道で結ぶ“セントラル”へと産業形態が徐々に変化していきます。

 その背景には、①欧州市場で甜菜糖が増加して砂糖価格の暴落、②奴隷制の廃止(1886年)により従来型のプランテーション経営が困難になったこと、③疲弊したプランターたちが土地や生産施設を米国資本に売却し、土地の集約が進んだこと、④技術革新により、鋼鉄製の線路が安価につくられるようになったこと、などの要因がありました。

 1890年から1894年の5年間でキューバの砂糖生産は50万トンから100万トンに倍増しましたが、キューバ産砂糖の9割以上が米国に輸出されるようになり、キューバ経済は完全に米属に従属することになります。

 さらに、米西戦争を経て、1902年、キューバは“独立”を達成しますが、これに先立つ憲法制定の過程で、米国はキューバ制憲議会に対して、①キューバの独立が脅かされたり、米国人の生命・財産が危険にさらされたりした場合には米国は介入できる、②キューバは(米国以外の)外国から資金を借りてはいけない、③キューバ政府は(米国以外の)外国に軍事基地を提供したりしてはいけない、③キューバ政府は米軍事基地を提供する義務を負う(この結果、設置されたのが、現在も存在するグアンタナモ米軍基地)、など8項目からなる付帯事項(プラット修正条項)を押し付けました。

 こうして、キューバは実質的に米国の支配下に置かれ、砂糖や煙草などの主要産品は米資本が独占するようになったばかりか、製糖所や煙草工場を動かすための電力、輸送のための鉄道、菓子や製薬などの副産物の生産などの関連産業を含め、米国はキューバの経済全体を支配します。

 たとえば、1959年に革命が達せられた時点で、米国系の砂糖会社が支配していた農地は全農地の47.5%、耕作地の70-75%パーセントを占めていました。米資本の土地では砂糖以外の作物の栽培は許されなかったため、キューバでは主食のコメのみならず、砂糖以外のほぼすべての食糧を輸入に頼らざるを得ず、革命前の食糧自給率は2割以下というありさまでした。

 革命当初、フィデル・カストロ(以下、フィデル)は必ずしもソ連型の社会主義国家の建設を志向していたわけではなく、上述のような、あまりにも極端な富の偏在を是正する“改良主義”の立場に立っていた。実際、革命直後の大統領だったウルティアは、当初、フィデルは共産主義者ではないとしてフィデルとは個人的に良好な関係を築こうとする一方で、チェ・ゲバラをはじめM26の共産主義者をフィデルから引き離すべきだとも主張していたほどです。

 こうした“改良主義”の最大の目玉が、5月17日に制定された第一次農業改革法でした。

 革命戦争の最中、叛乱側の支配していたシエラ・マエストラ山中の解放区やオリエンテ州のラウル・カストロ指揮下の第二戦線、カミーロとチェが勢力下においたシエンフエゴスなどでは、2カバジェリーア(約26.8ヘクタール。1カバジェリーアは約13.4ヘクタール)までの土地を農民に対して無償で分与する農地改革が実施されていました。

 革命後の1959年2月10日の閣僚会議では、こうした農地改革をキューバ全土で実施するための農業改革法のための委員会の設置が決定され、ウンベルト・ソリ・マリン農相が委員長に就任します。ただし、グアテマラのアルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社と対立して1954年に崩壊に追い込まれたこともあって、政権内には、米国との対立を招きかねない農業改革には消極的な閣僚も少なくありませんでした。

 法案は4月28日の閣議提出を経て、5月5日、閣議で承認。さらに同17日には、革命戦争中に総司令部の置かれていたシエラ・マエストラ山中のラ・プラタで、大統領のウルティア、農相のソリ・マリンも出席して、フィデルが法案に署名する記念式典も行われ、(第一次)農業改革法は正式に公布されました。

 この時の農地改革では、土地の最高所有限度面積は30カバジェリーア(約403ヘクタール)とされ、それを超える土地は有償で接収されています。その上で、2カバジェリーア以下の土地しか持たない零細農民や小作人、あるいは営農希望者には、2カバジェリーアまでは無償で、2-5カバジェリーアまでは有償で土地が与えられました。ただし、それまで、米系企業による大規模プランテーションが農業の中心を占めていたキューバでやみくもに農地の細分化を行えば生産性が著しく低下することから、政府主導で大規模な国有農場や協同組合農場の形成が促進され、富の偏在の象徴となっていた外国人・外国企業による土地の所有も併せて禁止されています。

 その後、1960年4月4日、キューバ政府は農業改革法に基づいてユナイテッド・フルーツ社の農場を接収したのを皮切りに、6月10日、鉱山法および石油法を公布し、製油所を接収して国有化します。さらに、8月19日、米国がキューバに対する経済封鎖を発動すると、フィデルは米資本の工場や農園を次々に接収するとともに、9月2日には“第一ハバナ宣言”を発し、キューバは米州における“自由の地”であることを表明し、8月から10月にかけて、電力、銀行、鉄道、繊維、食品、煙草など、あらゆる業種の米系企業と大手企業が次々と国有化されていきました。

 このため、10月13日、米国政府はついにキューバに対して全製品の禁輸を宣言し、経済封鎖に乗り出すと、キューバ政府は13・14両日で400の銀行、製糖工場、その他工場を国有化して対抗しました。

 さて、米国は1996年にキューバ制裁強化を目的とした「ヘルムズ・バートン法」を制定し、その第3章で、接収財産に関する損害賠償請求についての規定も設けていましたが、同章については影響が大きいなどとして歴代大統領が凍結を続けてきました。今回、その凍結解除に踏み切ったのは、キューバへの圧力を強めるとともに、ベネズエラのマドゥロ大統領を支持するキューバ政府の方針に抗議する狙いがあるとみられています。

 なお、キューバ革命以降の米系資産の接収・国有化と米国の報復措置については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 サンマリノと騎士
2019-03-05 Tue 02:18
 THE ALFEE の高見沢俊彦さんが、サンマリノ共和国から“聖アガタ騎士団の騎士”の勲章が授与されることになり、おととい(3日)、都内で式典が行われたそうです。というわけで、きょうは騎士を描いたサンマリノ切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      サンマリノ・ナポレオン

 これは、1982年にサンマリノが発行したヨーロッパ切手で、1797年、サンマリノに対して馬上のナポレオン・ボナパルトが友好条約を提案している場面が取り上げられています。

 現在のサンマリノ国家は、西暦301年、石工のマリヌス(聖マリーノ)が、ローマのキリスト教迫害を逃れ、この地に逃れてきたのがルーツとされています。ただし献上の記録としてサンマリノの存在が確認できるのは951年以降です。

 1463年、サンマリノはリミニ(現エミリア=ロマーニャ州リミニ県)を支配するマラテスタ家の攻撃を受けましたが、これを撃退したばかりか、マラテスタ家領に進攻して領土を拡大。1631年には、教皇ウルバヌス8世がサンマリノの“国家”としての独立を公式に認めました。このとき、すでにサンマリノは共和政体を採用しており、これが現在まで続く“世界最古の共和国”の由来となっています。

 フランス革命後の1797年、イタリア遠征を行ったナポレオンは、革命のプロパガンダの一環として、共和政体を取るサンマリノを“自由主義共和国の模範”と称揚し、その領土拡大と武器・食料の提供を申し出ました。今回ご紹介の切手は、その場面を描いたものです。

 しかし、ナポレオンの天下が長続きしないと予測したサンマリノは、食料は受け取ったものの、それ以外の申出を丁重に断ります。それでも、ナポレオンのフランス帝国はサンマリノと対等の国家間条約を締結し、独立国としてのサンマリノの立場を尊重しました。

 はたして、ナポレオン失脚後の1815年に開催されたウィーン会議では、サンマリノはナポレオンの帝国の“友好国”ではあったものの、その独立は各国によって再確認されています。

 その後、イタリア統一戦争の過程で、1849年、イタリア統一を目指すジュゼッペ・ガリバルディの部隊がオーストリア軍に追撃され、サンマリノ領内に逃げ込むと、サンマリノはガリバルディを匿い、彼らを保護しました。このため、1854年、イタリア統一に反対していた教皇ピウス9世はサンマリノを“自由主義者の巣窟”として糾弾し、トスカーナ大公国に命じてサンマリノ共和国の教皇領併合を企てたものの、失敗。こうした経緯を経て、1861年に統一イタリア王国が成立すると、翌1862年、サンマリノはイタリアと友好善隣条約を締結して統一イタリアとは別の独立国家の地位を確保し、現在に至っています。


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 世界の切手:ブルガリア
2019-03-04 Mon 04:40
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年2月13日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集(6回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・トリモンティウム

 これは、ブルガリア第2の都市、プロヴディフが2019年の欧州文化首都に選ばれたことを記念して2015年に発行された切手シートで、プロヴディフ旧市街の“トリモンティウム”のイメージが取り上げられています。

 プロヴディフが、ソフィアの南東約152キロのプロヴディフ平原南部に位置しており、市域の面積は約100平方キロで、人口は約37万6000人です。

 6000年前の新石器時代から人間が居住しており、古くは“エウモルピアス”と呼ばれていましたが、紀元前4世紀にマケドニア王ピリッポス2世が征服し、彼にちなんで“フィリッポポリス”と改称されました。

 現在のプロヴディフ市の領域には、かつて7つの丘がありましたが、マルコヴォ・テペ丘が20世紀初頭に取り崩され、現在では、ジェンデム・テペ、ブナルジク、サハト・テペ、ネベト・テペ、ジャンバス・テペ、タクシム・テペと呼ばれる閃長岩の6つの丘があり、“テペタ”と総称されています。このうち、ネベト・テペ、ジャンバス・テペ、タクシム・テペの3つの丘に囲まれた地域が旧市街の中心で、古代ローマの時代には、3つ丘を意味する“トリモンティウム”と呼ばれていました。

 プロヴディフは、北トラキア(バルカン半島南部)最大の都市として、歴史的にトラキア地方の経済、文化、交通の中心都市となっており、1878年にはオスマン帝国の宗主権下で東ルメリア自治州が新設されるとその州都となり、1885年、ブルガリアによる東ルメリア統合でブルガリア公国の一部となり、現在に至っています。

 さて、『世界の切手コレクション』2月13日号の「世界の国々」では、東ルメリア州についてまとめた長文コラムのほか、ブルガリアの民族衣装、イノシシ、プロヴディフのシンボルとされるアリョーシャ像の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のブルガリアの次は、2月13日発売の同20日号でのスーダン(と一部ギニアビサウ)、2月20日発売の同27日号でのナミビアの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。

 * 東京・目白の切手の博物館で開催の第10回テーマティク研究会切手展は、昨日(3日)、無事盛況のうちに終了いたしました。ご来場いただいた皆様、スタッフ関係者の方々には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

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 リオのカーニヴァル
2019-03-03 Sun 01:33
 ことし(2019年)のリオデジャネイロ(以下、リオ)のカーニヴァルのメインパレードが、現地時間の1日夜(日本時間2日午前)、はじまりました。というわけで、例年同様、カーニヴァル関連の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・カーニヴァル(1983・24)

 これは、1983年2月9日、同年7-8月、リオで開催された国際切手展<BRASILIANA 83>のプロモーションとして、開催国のブラジルが開催地リオの象徴として発行したカーニヴァルの切手です。

 西方キリスト教会では、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭(イースター)前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる祭りが行われます。これが“謝肉祭”で、いわゆるカーニヴァルというカタカナの言葉は“carne vale(肉よさらば)”という表現に由来するものです。

 この断食の前の祝祭に、キリスト教伝来以前からのゲルマン人の春の到来を祝う祭りが融合し、街中を練り歩いたり、どんちゃん騒ぎをしたりする習慣になったと考えられています。

 この種の行事は、ポルトガル人入植者によってリオにももたらされましたが、リオのカーニヴァルの起源をどこに求めるかについては諸説があります。

 たとえば、1565年のリオデジャネイロ市の建設を記念して、1567年に人々が街を練り歩いたという記録が残されており、カーニヴァルの中心をパレードに求めるのなら、これが最古の例ともいえます。また、17世紀以降、遅くとも1723年までに、アゾレス諸島、マデイラ諸島、カーボ・ヴェルデからのポルトガル人移民が春祭りの“エントルード”を持ち込んだことをもって、リオのカーニヴァルの起源とされることも多いようです。

 エントルードというのはポルトガルの春祭りのことで、人々は仮面をつけ、通りで水や泥、柑橘類を投げ合うもので、じっさい、19世紀前半までのブラジルの街頭でのカーニヴァルは、“灰色の水曜日(カーニヴァル後の水曜日、すなわち、この日から四旬節が始まる日)”までの3日間、かつらや仮面をつけて、液体を掛け合ったり、小麦粉やタピオカ粉を投げつけあったりするのが、庶民の間では一般的なスタイルでした。

 一方、春祭りの時期のパレードとしては、1786年、前年(1785年)のポルトガル王ドン・ジョアン6世の結婚を祝って山車が作られたほか、1808年にポルトガル王家がナポレオン戦争の戦禍を逃れてブラジルに遷移してきた際に、ブラジル在住のポルトガル人たちが仮面をかぶり、派手な衣装をつけ音楽を鳴らして町中を練り歩き歓迎したことが、記録に残されています。

 こうした経緯を経て、1840年代になると、地元新聞社が主導して、かつてのローマやヴェネツィアに倣って、街の中で仮装をつけ、コンフェッテ(紙吹雪)をかけあう“カーニバル・パレード”の復活キャンペーンが始まりましたが、この時点では、カーニヴァルの音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流です。ちなみに、音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」(ギタリストのドゥンガとジャーナリストのマウロ・ヂ・アルメイダの作品)が最初の1曲とされています。「電話で」は、翌1917年の大ヒット曲となり、当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなりますが、これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。

 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの音楽はマルシャが中心で、パレードには公式には中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。

 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれていくことになります。

 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。

 さらに、1930年からは、カーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グローボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなったことで、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがり、優れた演出、楽曲が次々に誕生。世界的なビッグ・イヴェントへと成長していく端緒となりました。

 なお、リオとカーニヴァル、サンバの関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

      
★★★ イベントのご案内 ★★★ 

 第10回テーマティク研究会切手展 3月1-3日(金ー日)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回は、僕じしんは作品を出品していませんが、最終日・3日の15:00より、国際切手展審査員の目から見た作品の解説・批評会を行います。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)

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 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 コミンテルン100年
2019-03-02 Sat 04:37
 1919年3月2日にコミンテルン(第3インターナショナル)が設立されてから、きょうで、ちょうど100周年です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・コミンテルン第2回大会の祝日(1968)

 これは、1968年にソ連が発行した“レニングラード・ソ連国立美術館(現エルミタージュ美術館)の絵画”の切手のうち、ボリス・クストーディエフの「コミンテルン第2回大会の祝日」を取り上げた1枚です。

 労働運動の国際的組織化の試みとしては、コミンテルン以前にも、1864-76年の第1インターナショナル、1889-1914年の第2インターナショナルがありましたが、第2インターナショナルは、第一次世界大戦の勃発後、加盟する社会民主主義政党が“城内平和”を掲げ、それぞれ自国の戦争を支持したために瓦解。このため、これに反対する諸派は、1915年9月5-8日、スイスのツィンメルヴァルトで国際会議を開催しました。同会議では、参加者は平和主義的な右派と革命的な左派に分裂。左派の中心となったロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)は“排外主義者”や“日和見主義者”と絶縁した第3インターナショナルの設立を主張しました。これが、コミンテルンの源流になります。

 1917年のロシア10月革命で政権を掌握したボリシェヴィキは、後進国ロシアの革命は先進工業国の革命なしには生き延びることはできないとの認識から、新たな国際革命組織の結成に乗り出します。そして、大戦終結後の1918年12月、英国労働党が第2インターナショナルの再建を呼びかけると、レーニンは、これに対抗すべく、外務人民委員ゲオルギー・チチェーリンに第3インターナショナル設立準備を命じました。

 これを受けて、1919年1月、39の党やグループ宛の招待状が発表され、同年3月、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で開催された革命的プロレタリア政党の国際会議で、第3インターナショナルの創立が決議されました。ちなみに、会議に参加した54名の代議員のうち、ロシア国外から参加したのは5名しかなかったこともあり、ドイツ共産党のフーゴ・エーバーラインらはコミンテルンの創立は時期尚早と異議を唱えましたが、ボリシェヴィキに押し切られています。

 大会は、“主要な諸国の共産党の代表者1名”で構成される執行委員会を指導機関とし、執行委員会は5名からなるビューロー(事務局)を選出することを決定。初代議長にはグリゴリー・ジノヴィエフが選出されました。

 こうして発足したコミンテルンは、当初から、ボリシェヴィキの影響力が圧倒的でしたが、ボリシェヴィキは主導権を維持するため、1920年7月の第二回大会で、内乱へ向けての非合法的機構の設置(第3条)、党内における軍事的規律に近い鉄の規律(第12条)、社会民主主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)、コミンテルンに反対する党員の除名(第21条)などが盛り込んだ“21箇条の加入条件”を採択しました。

 ちなみに、この加入条件をめぐり、ドイツでは1920年10月に独立社会民主党が分裂し、その左派とドイツ共産党が合同して同年12月に統一ドイツ共産党を結成。フランスでは、1920年12月、社会党大会でコミンテルン加盟と共産党への改称が決定され、反対派が新たに社会党を結成しています。また、コミンテルンに加盟済みだったイタリア社会党も1921年1月に分裂し、イタリア共産党が設立されました。以後、コミンテルンは世界革命を目指して、各国共産党を支援していくことになります。

 今回ご紹介の切手は、1920年のコミンテルン第2回大会の開催時に行われた祝賀パレードを題材とした作品をとりあげたものです。

 作者のクストーデイエフは、1878年、アストラハン生まれ。1893-96年、神学校で学ぶかたわら、オストラハンで、パヴェル・ウラソフ門下のワシーリー・ペロフより絵画の個人指導を受け、1896年、ペテルブルク帝国美術アカデミーに入学。イリヤ・レーピンに絵画を学ぶとともに、彫刻をディミトリー・ステレツキーに、エッチングをワシーリー・マテに師事しました。1909年、アカデミーの教員に選任されましたが、その仕事は、いわゆる芸術絵画にとどまらず、文学作品の挿絵や舞台芸術など多岐にわたっています。1917年の革命後も第一線での活動を続け、1923年には革命ロシア芸術家連盟に加入。1927年、レニングラードで亡くなりました。


★★★ イベントのご案内 ★★★ 

 第10回テーマティク研究会切手展 3月1-3日(金ー日)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回は、僕じしんは作品を出品していませんが、最終日・3日の15:00より、国際切手展審査員の目から見た作品の解説・批評会を行います。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)

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