内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ワイワイタイランド3月号
2008-02-21 Thu 12:01
 ご報告が遅くなりましたが、現在発売中のワイワイタイランド3月号では、僕の『タイ三都周郵記』をもとに「バンコク切手紀行」という特集を組んでいます。というわけで、今日は特集に取り上げられた切手の中から、こんな1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 ラーマ1世

 これは、1932年のラタナコーシン王朝(タイの現王朝)150年の記念切手の最高額1バーツ切手で、ラーマ1世像が取り上げられています。

 現在のラーマ9世(プミポン国王)に繋がるラタナコーシン王朝の始祖、ラーマ1世は、1735年、アユタヤの名門貴族の家に生れました。もともとの名はトーンドワン。ちなみに、ラーマX世という称号は、20世紀初頭のラーマ6世が始めたものです。

 1767年のアユタヤ陥落の際、トーンドワンはバンコクの西100キロのラーチャブリーで知事助役(ルワン・ヨククラバット)の地位にありましたが、身重の妻とともにビルマ軍の攻撃を逃れて森に逃げ込みます。その後、ビルマ軍を撃退したタークシンに先に仕えていた弟のブンマーのすすめにより、アユタヤの旧貴族とともにタークシンの集団に加わり、後に首都大臣(プラヤー・ヨマラート)の称号を受けています。

 1775年以降、タークシンは自ら出征しなくなりますが、トードワンはタークシンに代わって遠征の総司令官として活躍し、その勲功によりチャオプラヤー・チャクリーの爵位を得ます。そして、1781年、カンボジア遠征中にトンブリー(暁寺院ことワット・アルンのある地域です)で宮廷クーデターが発生すると帰還し、官僚たちから推戴されて国王として即位しました。

 国王となったチャオプラヤー・チャクリーは、アユタヤ王朝の理想に沿った国家建設に着手し、タークシン時代の都があったトンブリーの対岸に、アユタヤの理想に沿った新たな王都を建設します。王宮の建設に際して、国王はこの土地を“クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォーン・ラタナコーシン・マヒンタラーユタヤー・マハーディロクポップ・ノッパラッタナ・ラーチャターニー・ブリーロム・ウドム・ラーチャニウェート・マハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカティッティヤ・ウィサヌカムプラシット”と名づけました。その冒頭の“クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォーン・ラタナコーシン”は“インドラ神の造りたもうた崇高なる宝玉の(エメラルド仏が奉安されている)大いなる都市・神の都”の意味で、王宮のある地域をラタナコーシン地区といい、現王朝をラタナコーシン王朝と呼ぶのはここに由来するものです。

 ちなみに、現王朝のことをチャクリー王朝ということもありますが、こちらは、始祖であるチャオプラヤ・チャクリーの名前がその由来となっています。また、現在でも僕たち外国人はタイの首都を“オリーブの村”に由来するバンコクで呼ぶのが一般的ですが、タイでのバンコク都の行政上の公称は“クルンテープ・マハナーコーン”(大いなる都市・神の都)です。

 さて、タークシン時代の都であった対岸のトンブリーは、ラタナコーシン王朝の時代になると、廃都として忘れられた土地となり、ラタナコーシンが王都の心臓部として急成長を遂げていくことになります。しかし、20世紀に入るとバンコクの経済発展に伴い、トンブリー地区の再開発が課題として持ち上がってきました。このため、1932年、ラタナコーシン王朝150周年の記念事業の一環として、ラタナコーシンとトンブリーを結ぶラーマ一世橋が架けられることになり、その東詰に作られたのが、今回ご紹介している切手のラーマ1世像(高さ4.5メートル)というわけです。

 今回の雑誌『ワイワイタイランド』の特集では、拙著『タイ三都周郵記』に所収の「曼谷三十六景」のなかから、36ヶ所のスポットにまつわる切手をひとつずつピックアップして、カラーでご紹介しています。モノクロ図版の『タイ三都周郵記』の内容をフォローするものとして、ご覧いただけると幸いです。
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