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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 開城からの葉書
2008-03-28 Fri 21:45
 朝鮮半島の南北経済協力の象徴とされる開城工業団地内の南北経済協力協議事務所(経協事務所)に常駐していた韓国側当局者が、李明博政権の対北朝鮮政策に不満を持つ北朝鮮側によって、事実上の追放処分(表向きは北側の撤収要請で撤収)となったそうです。というわけで、開城がらみのブツはないかと探してみたら、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

 開城の葉書

 これは、朝鮮戦争の休戦(1953年7月)から1年余りしかたっていない1954年10月、開城からチェコスロバキア宛に差し出された葉書です。

 開城は北朝鮮南西部、38度線のすぐ南にある都市で、919年、当時、松嶽と呼ばれていたこの地に高麗王朝が遷都したことから歴史の表舞台に登場します。その後、元の支配下で、これに抵抗した高麗王が江華島に移った時期(1232-1270)もありましたが、1392年に李氏朝鮮が成立し、都がソウルに移るまで、開城は高麗の都でした。このため、市外北西の万寿山一帯には、高麗時代の王陵が数多く残されています。

 高麗の滅亡後、旧高麗の遺臣たちは、開城簿記と呼ばれる独自の簿記方式を考案して商業活動に専念し、開城は商業都市として発展。開城商人は朝鮮人参・陶器・衣類などの行商で活躍し、李氏朝鮮における物流の重要な担い手となりました。特に、朝鮮人参に関しては、14世紀に開城で人工栽培が初めて本格的に行われるようになったこともあり、開城はその集散地として名をはせ、朝鮮人参を用いた伝統料理・参鶏湯(サムゲタン、内臓を取り出した雛鳥にもち米と朝鮮人参、各種の木の実類などを詰めてスープで煮込んだもの)は開城の郷土料理の枠を超えて、朝鮮を代表する伝統料理となっています。

 1945年の解放当初、北緯38度線の南側にある開城はアメリカ軍政下に置かれていましたが、ソウルに近い要地として1950年に始まる朝鮮戦争では激戦地となり、最終的には北朝鮮に占領されました。そして、1951年7月、当時の両軍の前線の中間に位置していたという事情で休戦会談場に指定されたものの、翌8月の国連軍機による開城誤爆事件の影響で、会談場は板門店に移されてしまいます。この結果、開城は交渉期間中は中立地帯とされ、休戦後、正式に北朝鮮領内に編入されることになりました。開城市民の7割が離散家族とその関係者といわれているのはこのためです。

 さて、今回ご紹介の葉書は、北朝鮮領内に正式に編入されて間もない時期の開城から差し出されたもので、差出人は、北朝鮮支援のために派遣されていたチェコ人と思われます。

 ここでご注目いただきたいのは、葉書の用紙そのもので、画像の下部に”PRINTED IN U.S.A.”の文字が印刷されている点です。また、裏側の絵面にはソウルの“Ancient North Gate”の写真が印刷されているのですが、画像の左上に印刷されている説明文には、(一部、切手が上から貼られているためにやや読みにくいのですが)「2年間の戦争でソウルは4度はげしい戦闘に見舞われたが、この建物は破壊を免れた」との内容が記されています。この文面からすると、この葉書は朝鮮戦争中の1952年後半に作成されたものとみてよさそうです。

 おそらく、この葉書は、朝鮮戦争中、国連軍が開城を制圧していた時期に持ち込まれ、その後、共産側の開城占領により、撤退した国連軍将兵の遺留品として押収され、休戦後、使用されたのでしょう。アメリカ製の葉書に北朝鮮切手が貼られ開城から差し出されているということは、朝鮮戦争の結果、開城の主権が韓国から北朝鮮へと移ったことを象徴的に示しているといえます。
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