内藤陽介 Yosuke NAITO
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 タイ=カンボジア国境
2008-07-09 Wed 12:56
 タイとカンボジアの国境未画定地域にあるヒンドゥー教寺院・プレアビヒアが、カンボジア単独の申請により世界遺産に登録されたことで、両国間の国境をめぐる対立が再燃する気配となっています。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 バッタンバン

 これは、現在、カンボジア領となっているバッタンバンでのタイ切手の使用例です。

 学校の教科書では「第二次大戦以前、東南アジアの国々が次々と植民地化されていく中で、タイは独立を保った」という記述が出てきますが、そのためにタイが払った代償は決して小さくはありませんでした。その最たるものが領土の縮小です。

 1868年にラーマ5世が即位した頃のタイは、現在の領土のみならず、現在の国名でいうラオスのほぼ全域やベトナムの北部、カンボジア西部、さらには、マレーシアの北部までをも勢力化に収めた域内の大国でした。もっとも、タイのラタナコーシン王朝(チャクリー王朝)の直接支配はその全域に及んでいたわけではなく、地方の小領主がバンコクの王室に服属し、結果として緩やかな連合国家を形成されていたというのが実態でしたが…。

 イギリスとフランスは、こうしたタイ国家の構造を利用して、周辺の属国をラタナコーシン王朝の支配下から切り離すことで領土を拡大していったわけですが、なかでもフランスは、インドシナ全土の植民地化を企ててタイ領への領土拡張を狙い、1893年7月13日、砲艦二隻にチャオプラヤー川をさかのぼらせ、「ラオスの宗主権は(すでにフランスが植民地化していた)ベトナムが持っていた」と主張してラオスの割譲を要求する砲艦外交を展開します。これがいわゆる“シャム危機”と呼ばれる事件です。

 フランスの軍事的圧力に屈したタイは、メコン川東岸のラオス全域をフランスに割譲することになるのですが、その後も、フランス軍はシャム危機での賠償金支払い完了までの保障占領としてチャンタブリーとトラートに駐留し続けます。このため、1904年、タイはフランス軍の撤退を求めて、メコン川右岸のマノープライ、チャンパーサック、ルアンプラバーン州をフランスに割譲。さらに、1907年には、フランスのアジア系保護民の治外法権撤廃軍の代償として、カンボジアのバッタンバン、シムエレアプ、シーソーポンをフランスに割譲させられています。

 今回ご紹介のマテリアルは、バッタンバンがまだタイ領であった時代のものですが、フランスへの割譲後は、この地域でもフランス領インドシナの切手が使われることになりました。

 こうした経緯から、タイ国民の間には、ラオスやカンボジアの西部は本来はタイの領土であるとの意識が強く、そのことがタイ=カンボジア間の領土紛争の背景となっています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『タイ三都周郵記』でもご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひご一読いただけると幸いです。

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