2009-05-28 Thu 22:30
きょう(28日)は旧暦の5月5日。端午節の日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
![]() これは、1953年12月30日に中国が発行した「世界4大文化人」の切手のうち、屈原を取り上げた1枚です。 屈原は、紀元前343年頃、楚の王族に生れました。 当時、中国は戦国時代の真只中にあり、楚の国内も、西の強国であった秦との同盟を主張する連衡派と、斉の蘇秦の主張に従い、秦以外の諸国が同盟して秦の脅威に対抗しようとする合縦派に国論が二分されていました。 こうした状況の下、屈原は、楚の懐王の信任を得て合縦派の大物として活躍していましたが、連衡派の策略で失脚。600里の地を割譲するとの秦の甘言に惑わされた楚は斉との連合を破棄します。しかし、連衡を破るという初期の目的を達した秦は、前言を翻して、楚への割譲は6里のみと主張。怒った懐王は、紀元前313年、大軍をもって秦を攻撃しますが、惨敗を喫してしまいました。 敗戦後、屈原は政治家として復権を果しますが、懐王はまたも秦の甘言に惑わされ、秦との同盟関係を復活させようとします。結局、紀元前296年、懐王は、屈原の反対を押し切って同盟を結ぶために訪れていた秦の地で客死してしまいました。 懐王の死後、その子であった頃襄王が楚の王として即位すると、紀元前286年、王は折り合いの悪かった屈原を江南に追放します。そして、失意の日々を送っていた屈原は、紀元前277年、秦の軍勢が南下したとの報に接し、祖国の前途に対する絶望感から汨羅(湖南省北東の川)で投身自殺しました。 ちなみに、毎年5月5日の端午節(日本では新暦ですが、他のアジア地域では旧暦)にちまきを食べる習慣は、入水した屈原を偲んで、この日にちまきを川に投げるという風習に由来しています。 屈原の詩文は、前漢末の劉向がまとめた『楚辞』の中に数多く残されていますが、そのうちの代表作「離騒」は、祖国を思いながら理解されなかった自らの心情を歌い上げたものとして、広く知られています。 このように、悲劇の政治家で、詩人でもあったというところから、屈原や彼の詩文に対しては、その時々の政治的な文脈の中でさまざま意味が付与されることがあり、たとえば、1972年の日中国交正常化交渉の際、毛沢東が田中角栄に対して『楚辞集注』を送ったことに対しても、亡国の悲しみを内容とする書を一国の首相に贈るのは明らかな非礼であり、それによって田中の古典に対する素養を試したとする説から、単純に田中が毛に贈った漢詩が拙劣なものであったため漢詩のテキストとして贈ったという説、さらには、外交交渉において問題となった“迷惑”という語の中国語の用法を示すための例文として贈られたとする説など、さまざまな解釈が試みられています。 まぁ、いずれにせよ、大国の甘言に惑わされるとロクなことにならないというのは洋の東西を問わず普遍の真理なわけですが、アメリカとの同盟に依存せず自力で核保有国の中国や北朝鮮なんかの脅威から祖国を防衛するためには、結局のところ、わが国も核武装するしかありませんからねぇ。そのためには、国内の“敵”と戦わなければならないところもまた、屈原の時代の楚の国と似たようなものなのかもしれませんな。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! ![]() 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! スポンサーサイト
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#1461 泪と汨
もう御記憶に無いかと思いますが、五年前の九月に仙台市でのJPS大会でお目にかかった「しにか」読者です。
楚の屈原が入水したベキラのベキは泪(さんずいに目)ではなく汨(さんずいに日)です。よく似ていますが別の字です。ついでながら、最後の枢密院議長・清水澄は、遺書で「屈原の故事に倣う」として熱海で入水しています。 今後の参考になれば幸甚。 #1465 コメントありがとうございます
悪の漢学者・いわゐ將軍様
ご無沙汰しております。そういえば、5年前はまだ「しにか」があったんですよねぇ。ついつい遠い目になってしまいます。 ご指摘ありがとうございます。さっそく修正しました。 今後ともよろしくお願いいたします。 |
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