内藤陽介 Yosuke NAITO
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 泰国郵便学(3)
2009-08-22 Sat 14:09
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第43巻第4号が出来上がりました。僕の担当している連載「泰国郵便学」では、今回は1893年のパークナーム事件(シャム危機)を中心に取り上げました。その中から、今日はこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 ルアン・パバーン(仏印)

 これは、現在ラオス領となっているルアン・プラバーン(ルアン・パバーン)で使われた仏印切手のオンピースです。

 現在のラオスの領域には、ヴィエンチャン、ルアン・プラバーン、チャンパーサックのラーオ族3王国が併存していたが、これらはいずれもかつてのタイの属国でした。

 この地域の北部に対しては、1872年から漢族ホー(太平天国の残党といわれている武装集団)の襲撃が繰り返し行われてきましたが、1885年の襲撃でヴィエンチャンが襲撃されると、タイとフランスがそれぞれ討伐隊を派遣。これを機に、1886年5月7日、フランスはルアン・プラバーンに領事館を設置します。さらに、1887年にルアン・プラバーンの王都が襲撃された際、フランス領事館のオーギュスト・パヴィがルアン・プラバーン王とその家族を救出したことで、ルアン・プラバーンはフランスに対する親近感を持つようになりました。

 こうした状況の中で、1888年、タイとフランスはラオス地域での国境線画定交渉を行い、現地軍が駐屯する範囲をそれぞれの領土とすることとして、ルアン・プラバーンの属国(タイから見ると属国の属国)であったシップソーンチュタイ(十二主タイ)がフランス領に編入されます。これ以後、フランスは「ルアン・プラバーン地域の宗主権はヴェトナムにあり、ヴェトナム領を有する仏領インドシナがルアン・プラバーンの宗主権を持っている」とのロジックで、バンコク駐在のフランス領事がメコン川左岸(東岸)はヴェトナムの保護領であると主張するようになりました。

 1892年、ルアン・プラバーン王救出劇の英雄だったパヴィはルアン・プラバーン領事となり、タイ側が提案していた交渉による国境画定を拒否して、メコン川左岸からのタイ軍の撤兵を要求。両国の緊張が高まる中、カムムアン県の知事であったプラ・ヨートムアンクワーンが現地に駐留していたフランス軍と衝突し、フランス人将校が死亡する事件が発生。これを機に、フランスではタイ討つべしとの世論が高揚します。

 そして、1893年7月13日夕方、フランス海軍の戦艦2隻が、タイ側官憲の制止を無視してチャオプラヤー川の河口を強行突破したため、パークナーム(“河口”の意。現・サムットプラーカーン)に置かれていたタイ側の要塞では備え付けの大砲と軍艦で攻撃しました。しかし、フランス側はこれを一蹴。チャオプラヤー川を遡って、午後10時頃までにバンコクのフランス領事館(チャオプラヤー川に面している)へ到着し、港を封鎖してタイ政府に対して、メコン川左岸の割譲を求める最後通牒を突きつけました。これがいわゆるパークナーム事件ないしはシャム危機です。

 国家存亡の危機というべき事態に直面したタイ政府は、当初、賠償金の支払いによって領土の割譲を免れようと考えました。その間に、タイに莫大な経済的権益を有するイギリスが介入してフランスの横暴を食い止めてくれるかもしれないとの淡い期待もあったようです。しかし、最終的にイギリスはこの問題に関しては“中立”を守り、タイを支援することはなく、賠償金支払いのための借款も供与しませんでした。

 結局、1893年10月にタイとフランスの間で結ばれた“講和条約”の内容は、①メコン川左岸の割譲、②メコン川の中州すべての割譲、③ メコン川西岸25キロ地域の武装解除、④カンボジアのバッタンバン州、シェムリアップ州での武装解除ならびに徴税権の喪失、⑤フランス領からタイへの輸入時における関税自主権の放棄、⑥保護民を含むフランス人の自由貿易を容認し、タイの司法権の管轄外とすること、⑦300万フランの賠償金支払い、というタイにとって苛酷な内容のものとなりました。さらに、フランス側は、賠償金支払い完了までの保障占領としてチャンタブリーならびにトラートの両県に駐留し、港湾施設を占領し続けたほか、講和条約の規定を悪用し、仏印のヴェトナム人、ラオス人、カンボジア人のみならず、タイ国民(特に華僑)にまでワイロで保護民の地位を与えています。この結果、治外法権を悪用してタイ国内で不法行為を働く者が急増。タイの治安は急速に悪化していきました。

 このため、タイ側はさらなる譲歩として、1904年にはチャンタブリーならびにトラートの両県からのフランス軍の撤退と保護民の登録制限を求めて、1904年、メコン川右岸のマノープライ、チャンパーサック、ルアン・プラバーンの各州をフランスに割譲せざるを得なくなった。こうして1905年1月22日、フランス海軍はようやくチャンタブリー県から撤退。ルアン・プラバーンのフランスへの割譲に伴い、今回ご紹介するようなマテリアルが生まれることになったわけです。

 なお、一連の事件の後、タイは英仏両国に対する不信感を募らせ、ロシア、ドイツ、日本などとの関係を重視する外交の多角化を志向するようになっていくのですが、その点については、連載の次回で書いてみたいと思います。


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 9月4日(金)午後2時より、東京・丸の内の三井住友銀行丸ノ内クラブにて、タイ王国大使館、財団法人日本タイ協会、日本タイクラブの主催、日本経済新聞社 日メコン交流年2009事業の後援により、「タイ」フォーラム<タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>が開催されます。『タイ三都周郵記』の著者・内藤陽介も、学習院大学の川嶋辰彦先生(紀子妃殿下のお父上です)やタレントのいとうまい子さんとともに、パネラーとして登場する予定です。

 入場は無料ですが、会場スペースの都合から、ご参加いただけるのは先着100名様(要・事前申込)となっております。イベントの詳細や、お申し込み方法などは、主催者特設HPをご覧ください。

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