内藤陽介 Yosuke NAITO
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 オスマン艦隊の山越え
2009-09-10 Thu 21:52
 トルコのイスタンブール(イスタンブル)周辺で8、9の両日に集中豪雨があり、洪水などできょうまでに31人が死亡、9人が行方不明となったそうです。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々にお見舞い申し上げます。というわけで、今日はこの1枚をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

イスタンブル500年

 これは、1953年にトルコが発行した“コンスタンティノープル陥落500年”の記念切手のうち、スルタン・メフメト2世の肖像を描く2.5リラ切手を収めた小型シートです。

 オスマン帝国による東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルの攻略戦は、1452年、メフメト2世がコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、都市を陥落させるための拠点としたところから始まります。

 東ローマ側は、ヴェネツィアとジェノヴァからの援軍を得て、2000人の外国人傭兵を含む7000人体制と総延長約26kmという堅固な城壁で防衛体制を固めており、1453年4月2日以降、オスマン帝国は7週間にわたって大砲で城壁を攻撃しましたが、都市を陥落させることはできませんでした。また、金角湾の入り口は東ローマ側により鎖で閉鎖されていたため、オスマン帝国側は湾内に侵入することができませんでした。

 このため、オスマン帝国側は金角湾の北側の陸地に油を塗った木の道を造り、70隻の船を金閣湾に移しました。いわゆるオスマン艦隊の山越えです。まぁ、こんかいのような大洪水のときらともかく、フツーは陸地を船が走るとはだれも思いませんからねぇ。さぞや、当時の人は驚いたことでしょう、

 結局、この奇策が成功し、1453年5月29日、オスマン帝国側の総攻撃によりコンスタンティノープルは陥落。 東ローマ帝国は滅亡しました。

 ちなみに、コンスタンティノープルという地名の、オスマン語での正式名称は“コンスタンティニエ”でした。イスタンブールという呼び名は、東ローマ帝国時代から使われていましたが、あくまでも俗称で、これが公式の名称となるのはムスタファ・ケマルによる革命を経た後の1930年のことです。

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