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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 バンコクの戦勝記念塔
2009-11-06 Fri 08:53
 おととい(4日)、カンボジア政府がフン・セン首相の経済顧問に、汚職で実刑判決を受け国外で逃亡生活を送るタイのタクシン元首相を任命したことに抗議し、きのう(5日)、タイ政府は駐カンボジア大使の召還を決定。カンボジアも駐タイ大使の召還を決めるなど、タイ=カンボジア関係が急速に悪化しています。というわけで、きょうはこんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 戦勝記念塔   戦勝記念塔(実物)

 左の画像は1943年にタイで発行された戦勝記念塔の切手です。右側に、塔の建っているロータリーの写真(画面の右側が記念塔。2007年撮影)も貼っておきましょう。

 1868年にラーマ5世が即位した頃のタイは、現在の領土のみならず、現在の国名でいうラオスのほぼ全域やベトナムの北部、カンボジア西部、さらには、マレーシアの北部までをも勢力化に収めた域内の大国でした。もっとも、タイのラタナコーシン王朝(チャクリー王朝)の直接支配はその全域に及んでいたわけではなく、地方の小領主がバンコクの王室に服属し、結果として緩やかな連合国家を形成されていたというのが実態でしたが…。

 イギリスとフランスは、こうしたタイ国家の構造を利用して、周辺の属国をラタナコーシン王朝の支配下から切り離すことで領土を拡大していきました。このため、タイ側から見れば、そうした失地の回復は国民国家としての悲願となっていました。

 こうした歴史的な背景の下で、1939年9月、ヨーロッパで第二次大戦が勃発し、翌1940年6月、フランスがドイツに降伏します。さらに、アジアでは日中戦争を戦っていた日本が、同年9月、中国との国境封鎖を求めて仏印の北部に軍事進駐しました。民族主義を前面に掲げて1938年に発足したピブーン政権の目には、こうした国際環境の変化は、失地回復のための絶好のチャンスと映ります。

 かくして、1940年11月、タイと仏印との間で国境紛争が勃発。翌1941年1月5日、タイ陸軍はフランス領カンボジアに侵攻しました。海軍と創立から日の浅かった空軍もフランス側と交戦し、大きな犠牲を出しながらも、1月28日、日本の調停により、タイがラオスの一部とカンボジアの北西部を領土として回復することで紛争は決着しています。

 ピブーン政権は、この結果を、日本以外のアジアの国が欧米と戦って得た初めての勝利と大々的に宣伝し、一連の紛争で亡くなった陸海空軍将兵と警察官583名を慰霊する記念塔を建立。立憲革命の記念日である1941年6月24日に除幕式を行いました。この塔が、まさに今回ご紹介の記念塔です。

 さて、1941年に太平洋戦争が始まると、タイはそれまでの経緯もあって日本と同盟関係を結び、米英に宣戦布告しましたが、この切手が発行された1943年頃には、すでに日本には緒戦の勢いはなく、戦況は日本に不利になっていました。それでも、日本の後ろ盾を得て仏印から奪還した領土を維持するためには、ピブーン政権が表立って日本と敵対することは不可能でした。その一方でタイは戦後の生き残りをかけて日本と距離を置き始め、1943年11月に日本が“大東亜共栄圏”の各国代表を招集した大東亜会議にはピブーンは欠席し、ワンワイタヤコーン親王が代理として出席。親王は会議後の大東亜宣言に、全権大使としてではなくあくまでも一個人として署名し、その内容にタイ政府は拘束されないとの姿勢を暗に主張しています。また、親日派のピブーン政権とは別に、プリディー摂政が指揮する抗日地下組織がアメリカと秘密裏に協議して亡命政権を作るというチャンネルも確保されていました。

 結局、タイは第二次大戦を通じて、ラーマ五世の時代に失った領土の一部を回復したものの、日本の敗戦によってそれらはすべて、英仏両国に返還されることになります。また、親日政策を推進したピブーンは1944年7月に政権を追われて下野し、戦後は戦犯容疑者として拘置されました。ただし、戦後に制定された戦犯を裁く法によって、戦前・戦中の行為を裁くのは憲法違反であるということになって1946年には釈放され、1948年には再び首相の座に就いています。

 戦後のタイは、日本軍が駐留している中での米英への宣戦布告は対国民の自由意志ではなかったと主張して、アメリカによる敗戦国の指定を免れました(イギリスはタイの親日行為を許さず敗戦国として扱いましたが、東西冷戦下で反共を優先したいアメリカの圧力で、1946年1月にはタイとの講和条約を結んでいます)が、日本の支援を受けて仏印と戦い、勝利を収めたことまでが否定されたわけではありません。

 その証拠に、戦勝記念塔は現在なお撤去されずにバンコクから北部のチェンライへ伸びる国道一号線、パホンヨーティン道路の起点とされており、タイ国民にとっては国軍の栄光を物語る重要なシンボルとしての意味を維持し続けています。

 なお、バンコクの戦勝記念塔とその周辺については、<切手紀行シリーズ>の第1巻として2007年に刊行の拙著『タイ三都周郵記』でも、いろいろと書いておりますので、機会がありましいたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(5日)の午後、無事に青島から帰国いたしました。凱特設計会社の金忠杰社長ご夫妻をはじめ、現地でお世話になった皆様には、あらためて、お礼申し上げます。


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