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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 安保改定50年
2010-01-19 Tue 11:40
 1960年1月19日にワシントンで新「日米安全保障条約」(60年安保)が調印されてから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      日米修好通商100年(大統領の会見)

 これは、1960年5月17日、日米修好100年の名目で発行された記念切手の1枚で、“遣米使節がアメリカ大統領ブキャナンと会見する場面”が取り上げられています。切手の元ネタは、1860年5月26日付の米紙HARPER’S WEEKLYのイラストで 、中央左側の人物が大統領のブキャナンです。描かれている日本人は、(画面中央から右へ順に)名村五八郎(通訳)、新見豊前守正興(正使)、村垣淡路守範正(副使)、小栗豊後守忠順(一般には上野介の名で知られる。使節団監察)、成瀬善四郎(外国奉行組頭)です。

 1951年、サンフランシスコ講和条約と同時に調印された日米安保条約(旧安保条約)は、日本側から見ると、基地を貸して安全保障を得るという「モノと人との協力」を前提にしたものでしたが、その内容は、アメリカの日本防衛義務が明文化されていなかったばかりでなく、日本はアメリカの同意なしに第三国に基地を提供できず(第三国の駐留権禁止条項)、日本国内の内乱に際しては米軍が出動できる(内乱条項)など、あまりにも片務性と不平等性が強いものでした。

 このため、日本側には、アメリカによる日本防衛の義務を明文化し、その義務と日本がアメリカに基地を提供することの義務との間の双務性を明確にすると同時に、内乱条項をはじめとする旧安保条約の不平等な部分を改定したいという希望がありました。

 しかし、鳩山一郎内閣による日ソ国交回復や、病気により2ヶ月で退陣したとはいえ、鳩山の後を継いだ石橋湛山内閣の対中国宥和方針などの自主外交路線に対して、アメリカは東西冷戦という国際秩序に照らして強い警戒感を抱き、日本側の安保改定の要求を時期尚早として斥けていました。

 これに対して、1957年2月、強硬な反共主義者で、保守合同に手腕を発揮した岸信介が安定政権を成立されると、アメリカもようやく安堵します。そして、同年6月、訪米した岸が旧安保条約の再検討をアメリカ側に申し入れると、アメリカ側もこれに同意します。

 さらに、1958年、アメリカ統治下の沖縄で“反米的”な民主主義擁護連絡協議会の兼次佐一が那覇市長に当選したことも、世界各地で反植民地闘争が展開されているなかで、対日関係を改善する必要をアメリカに痛感させることになりました。

 この結果、1959年10月から、安保改定のための具体的な交渉が開始され、1960年1月19日、それまでの行政協定に代わる地位協定や事前協議に関する交換公文とともに、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約(新安保条約)」がワシントンで調印されました。もちろん、新安保条約も、本質的には、日本がアメリカに基地を貸して安全保障を得るという旧安保条約の構造を継承したものであり、その意味では対等の相互防衛条約ではありませんでしたが、それでも、形式的には、新条約は旧条約に比して、はるかに、日米の関係は“平等”なものでした。

 新条約の調印を受け、アメリカ大統領アイゼンハワーの訪日が正式に決定され、アメリカ側は返礼として皇太子ご夫妻の訪米を要請します。

 もっとも、新安保条約の成立を記念して皇太子ご夫妻が訪米するというのは、条約そのものへの賛否とは別に、皇室の政治利用であるとして国内世論の強い反発を招くことが予想されました。そこで、名目として考え出されたのが“日米修好100年”でした。

 日米修好通商条約の調印は1858年ですから、一般には、その100周年は1958年とするのが自然でしょう。実際、1958年には、同条約によってもたらされた開港100年の各種記念行事が行われ、記念切手も発行されています。

 これに対して、日本政府は、条約の批准書をアメリカに届けたのは1860年であり、批准書の交換なくして条約が発効しない以上、1960年こそが条約の100周年としてふさわしいとして、各種記念行事を1960年に実施したわけですが、そこには、同年の安保改定を祝う意味が込められていたとみるのが自然でしょう。

 なお、1960年の安保改定と、それに伴う日米修好通商100年の記念イベント、さらにはその一環として行われた皇太子ご夫妻の訪米については、拙著『皇室切手』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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この記事のコメント
この“日米修好100年”の記念切手は日本中に安保反対闘争の嵐が吹き荒れていた最中に発行されましたが、やはり安保反対を唱えていた当時の郵趣協会はこの切手の初日カバーの封筒をを黒枠で印刷して抗議の意を示したと聞いた事があります。そう言えば、60年代の古い郵趣を見ると当時の郵趣協会は著しく左傾していて辟易させられます。郵趣にも切手以外の政治記事が多く、当時の郵趣は切手雑誌と言うより社会党や共産党の機関誌のようでした。今思えば噴飯物ですが、当時の郵趣はソ連や中国、東欧諸国といった共産圏の切手を異常な熱意で紹介していました。こうした傾向は70年代の始めぐらいまで残っていて、私が切手収集を始めた頃でも郵趣は未だ韓国を“南朝鮮”と表記していました。今では韓国を南朝鮮と言う者は皆無に近いですが、当時はサヨクの連中はよく韓国を南朝鮮と呼んでいました。今の郵趣には政治臭さは感じられませんが、郵趣が著しく左傾していた“政治の時代”も遠くなりました。
2010-01-20 Wed 10:20 | URL | アルファ #-[ 内容変更] | ∧top | under∨
#1617 アルファ様へ
 郵趣協会が左傾化していた一番の理由は、郵趣協会の創設者氏が「共産党員ではない共産主義のシンパ」でしたからねぇ.なにしろかつての日本共産党の大物であった野坂参三氏が郵趣協会の会員だったことがありましたから。(「郵趣」1965年4月号17ページ)
2010-01-20 Wed 23:54 | URL | 駒長 #-[ 内容変更] | ∧top | under∨
 皆様、コメントありがとうございます。

・アルファ様
 件の黒枠カバーについては、安保騒動50年ということで、6月頃に記事にする予定です。お楽しみに。

・駒長様
 いつもながら補足のコメント、ありがとうございます。
2010-01-23 Sat 20:35 | URL | 内藤陽介 #-[ 内容変更] | ∧top | under∨
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