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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 泰国郵便学(10)
2010-10-31 Sun 13:25
 まずは速報から。

 ヨハネスブルグで開催中のアジア国際切手展<JOBURG 2010>ですが、きのう(30日)行われたパルマレス(受賞パーティー)の席上、28日の審査委員会で行われた投票の結果が開票され、3賞は以下のように決まりました。

・グランプリ・ドヌール
 Que, Mr. Mario(フィリピン) Philippines- King Alfonso VIII ‘Baby’Issues
・グランプリ・インターナショナル
 Euarchukiati, Mr. Nuntawat(タイ) Thailand: King Rama VIII and the World War II
・グランプリ・ナショナル
 Klugman, Mr. Keith(米国) Classic Vistorian Natal (1836-1879)

 今回の切手展はアジア展ですが、ドイツ、イタリア、英国、米国など、一部欧米諸国も招待されており、その中から米国の作品がグランプリ・ナショナルとなりました。

 なお、日本からは文献2点のエントリーがありましたが、1点は未着で、正田幸弘さん御出品の KEIO Philatelist 35 が銀銅賞(66点)という結果になりました。

 受賞者の皆様、おめでとうございます。

 さて、日本を出発する直前に財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第44巻第5号ができあがってきたのですが、僕が担当している連載「泰国郵便学」では、今回は1939年の第2次大戦勃発から1941年の“大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争に相当するタイ語の直訳は大東亜戦争です)”開戦までを取り上げました。偶然ですが、今回のグランプリ・インターナショナルの題材と重なっておりますので、きょうは、その中からこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         1941年シリーズ・農構図

 これは、1941年シリーズの通常切手のうち、水牛による農耕の場面を取り上げた50サタン切手です。

 1939年9月、第2次欧州大戦が勃発すると、タイはただちに中立を宣言します。第一次大戦の際と同様、とりあえずは中立を維持しておき、戦局の帰趨をしっかりと見極めたうえで勝ち馬に乗ろうという戦略です。このため、1940年6月12日、タイは英仏日の主要3ヵ国と不可侵条約(ないしはそれに相当する条約)を締結しました。

 ところが、3日後の6月15日にパリが陥落。同月22日、フランスはドイツに降伏し、パリを含むフランス北部はドイツの占領下に置かれ、南部はイタリアの占領地域を除く部分は実質的なドイツの傀儡政権の支配下に置かれることになりました。

 これに伴い、日中戦争を戦っていた日本は、同年9月、中国との国境封鎖を求めてフランス領インドシナ(仏印)の北部に軍事進駐するとともに、日独伊三国軍事同盟を締結。19世紀以来、英仏の圧迫によって広大な領土を失ってきたタイは、これを失地回復の好機が到来したものと受け止めます。

 ナショナリズムを前面に掲げ、ラッタニヨム政策を発動したピブーン政権としては、フランスが弱体化したのを好機ととらえ、メコン川右岸をはじめ、失地の返還を要求。当然のことながら、フランス側はタイの要求を一蹴しましたが、ピブーンは大タイ主義を唱えて国民の領土返還要求を喚起していきます。

 こうして両者の緊張が高まる中、1940年11月、フランスがタイを空爆することで国境紛争が勃発。翌1941年1月5日、タイ陸軍はフランス領カンボジアに進攻しました。海軍と創立から日の浅かった空軍もフランスと交戦し、大きな犠牲を出しながらも、「タイの失地回復に協力することにより日泰緊密関係を確立するとともに、仏印を利導して仏印に対する帝国勢力の進出拡充を図り、以って帝国の大東亜における指導的地位の確立に資せんとす」とする日本の調停により、5月には東京で両国の条約が調印され、タイがラオスの一部とカンボジアの北西部を領土として回復することで紛争は決着しました。

 ピブーン政権は、この結果を、日本以外のアジアの国が欧米と戦って得た初めての勝利と大々的に宣伝し、一連の紛争で亡くなった陸海空軍将兵と警察官583名を慰霊する記念塔をバンコク市内に建立。これが、現在、バンコクから北部のチェンライへ伸びる国道一号線、パホンヨーティン道路の起点とされている“戦勝記念塔”です。

 日本の調停によってタイが失地を回復したことで、日本はタイが親日国となり、来るべき米英との戦争に際して日本に協力的な態度を取るものと期待しましたが、失地の回復という果実を得たタイは再び中立政策に回帰し、米英と日本のパワーバランスを均衡させ、勝ち馬に乗る道を模索するようになります。

 すでに、仏印との国境紛争の最中からタイは、日本のほか、イギリスに対しても支援を求めており、イギリスもこれに応える用意があったとされる。ただし、このときはアメリカがタイと日本の関係を疑ったため、イギリスはタイに対する積極的な支援は控えざるを得ませんでした。

 それでも、1941年4月17日から、ロンドンのウォータールー・アンド・サン社で製造された新たな通常切手がタイで発行されるようになったのは、タイとイギリスの良好な関係が維持されていたことの証拠といってよいでしょう。

 新たな通常切手は、1935年に新国王としてアーナンタマヒドン(ラーマ8世)が即位したことを受けて、従来のプラチャーティポック王の切手に代わるものとして発行されたものですが、国王の肖像が取り上げられているのは、全12種のうち、低額面の4種類(2サタン、3サタン、5サタン、10サタン)のみで、中額面の15サタン、25サタン、50サタンには水牛を使った農構図が、高額面の1バーツ、2バーツ、3バーツ、5バーツ、10バーツにはアユッタヤー郊外にあるバーンパイン離宮のアイサワン亭が取り上げられています。

 1883年に発行された最初の切手以来、タイの通常切手は国王の肖像を描くものだけでしたから、国王の肖像以外のデザインの通常切手が発行されたのは、タイの切手史においては画期的なことであったといえます。

 1932年の立憲革命の後、革命を主導した人民党政権はプラチャーティポック王と対立を深め、1934年、国王は眼病治療の名目でイギリスに渡ったまま、1935年3月2日に退位してしまいました。その後、幼少の甥、アーナンタマヒドンが即位するものの、新国王は第二次大戦の終結までスイスにとどまり、タイは実質的に国王不在の状態となっています。

 こうした状況の下で、ラッタニヨム政策を発動してタイのナショナリズムを宣揚しようとしたピブーン政権にとっては、国号をタイと改めた新たな体制が国王の占有物ではなく、近代的な国民国家であることを内外に示す必要がありました。国王の肖像以外にも“タイ”を象徴するデザインの切手が発行されたこと、特に、外国郵便にも使用される可能性の高い中・高額面の切手に国王の肖像が登場していないのは、そうした政権の意思の表れとみなすことができます。

 特に、中額面のデザインとなった農耕作業は、タイが東南アジア有数のコメの生産国であるということもさることながら、中国人による経済活動の独占状況を打破するため、政権が積極的に経済活動に介入し、国営企業としてのタイ米穀社を設立し、コメの流通や精米などの業務に乗り出したこととも無縁ではないでしょう。

 今回の連載記事では、こうした“大東亜戦争”直前のタイが置かれていた微妙な状況を切手や郵便物を使ってご説明しております。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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