内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日豪戦争⑦
2011-02-02 Wed 23:43
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第418号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、1941年の日豪開戦前夜の状況を取り上げましたが、そのなかから、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        在マラヤ豪軍

 これは、日豪開戦直前の1941年10月、マラヤに駐屯していたオーストラリアの野戦郵便局からさし建てられた郵便物で、消印には“AIF(Australian Imperial Forces:AIF、志願兵から構成されるオーストラリア帝国軍)”の文字があり、封筒の右下には帝国軍によって検閲を受けたことを示す角型の印が押されています。

 1941年2月22日、英極東軍総司令官が司令部のあるシンガポールで極東防衛に関する会議を招集し、英蘭豪共同防衛作戦計画が策定されました。

 英本国は、大戦の主敵がドイツであるにしても、英連邦全体の防衛のためには何としてもシンガポールを死守しなければならないと考えていましたが、当時は中立国だった米国は、仮に自分たちが大戦に参戦した場合は、一時的にフィリピンなどの戦略拠点を失うことになっても、まずは対独戦に全力を傾注すべきと考えており、英国によるシンガポール偏重の姿勢には疑問をもっていました。このため、米英間の妥協の産物として、対日戦争の開戦後。米国は中部太平洋(マーシャル諸島など)に艦隊を派遣して日本軍を逸らすことで英国のシンガポール防衛に協力するという米英参謀協定(ABC-1)がまとめられています。

 これに基づき、4月21日、米英蘭の現地部隊がシンガポールで会談し、より具体的な作戦計画の概要としてADB協定(案)を策定。ただし、このABD協定に基づき、英蘭豪の三国は4月27日に兵力展開計画を定めたものの、米国政府はABD協定がシンガポール防衛偏重の内容になっていることを不満として、同協定を承認していません。

 一方、シンガポールならびにマレー半島の防衛に関しては、日英開戦の時点で駐留していた英側の兵力は、英本国兵1万9600、インド兵1万9600、オーストラリア兵1万5200、その他1万6800の合計8万8600でした。

 このうち、オーストラリア兵から構成される第8オーストラリア師団は、もともとは中東・北アフリカ戦線でナチス・ドイツと戦うことを想定して編成され、訓練を受けていましたが、太平洋地域での緊張が高まり、日本との戦争が想定されるようになると、1941年2月2日、同師団所属の第22旅団が英領マラヤに送られ、第23旅団がダーウィンへと送られました。さらに、4月には第2/22大隊がラバウルとニューブリテン島に送られ、8月には第27旅団が第22旅団とともに英領マラヤ南部の防衛を担当することになりました。ちなみに、北部の担当は第9ならびに第11インド師団です。

 ところで、マレー進攻作戦を担当した日本の陸軍第25軍の兵力(1941年11月末)は17万2000名で、英連邦側の兵力はその半分しかありませんでした。しかも、日本側には日中戦争以来の歴戦の勇士が少なからずいたのに対して、英連邦側は兵の練度が低く、実際の差はもっと大きかったといえましょう。

 また、航空兵力に関していえば、開戦時の英連邦軍機が158機(予備機88機)しかなかったのに対して、日本軍の航空兵力は陸軍459、海軍158の計617機(予備機が陸軍153、海軍29)と4倍近い規模を誇っていました。しかも、英連邦軍機の多くは、英本土での対独戦争を優先させるため、性能の劣る旧式機ばかりでした。

 このように、マレー・シンガポール方面に関する限り、日本と英連邦軍の戦力差は歴然としていたのですが、英本国は人種的偏見もあって、対日戦争は「ロールスロイスとダットサンの戦い」として日本側を完全になめきっていました。

 そのことを象徴するように、開戦2日前の1941年12月6日、ひとつの“事件”が起きています。

 この日、オーストラリア空軍第1飛行隊のハドソン偵察機が、カモー岬南東のシャム湾を日本海軍が護衛する大船団が航行しているのを発見しました。当然のことながら、オーストラリア側の哨戒活動を察知した日本のゼロ戦が偵察機の攻撃に向かったが、偵察機はからくも逃れ、コタバル飛行場に帰着しています。

 さっそく、パイロットは英極東総軍総司令官の空軍大将ロバート・ブルック・ポッファムに状況を報告。ところが、対独戦争で余裕のなかった英国政府が、対日戦争を極力回避して時間を稼ぐことを基本方針としていたこともあって、ポッファムは、とりあえず偵察を強化して日本船団の行き先を確認するにとどめ、事態を静観すべきとの判断を下してしまいます。ポッファムは「日本側はイギリス軍の攻撃を誘って開戦の口実にしようとしているのではないか」とさえ考えたそうです。

 その後、あらためてシャム飛行場からオーストラリア空軍の偵察機3機が発進しましたが、悪天候のため、日本船を発見できずにむなしく帰還。同日夜にはシンガポール島のセレター飛行場から英空軍の偵察機2機が飛び立ち、1機がパンジャン島西方40キロのシャム湾上で日本側に撃墜され、帰還しませんでしたが、それでもポッファムは動きません。

 翌7日朝、あらためてコタバル飛行場からオーストラリア空軍のハドソン偵察機3機が発進しましたが、2機は悪天候で引き返し、残る1機も何も発見できずに帰還しています。

 この結果を踏まえて、英海軍東方艦隊(1941年10月24日に編成。12月2日に旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」がシンガポールに到着)司令長官の海軍大将トム・フィリップスと協議したポッファムは、「なにもしない」との結論に到達します。

 実は、英極東総軍としては、日本軍に先んじてタイ南部に侵入し、国境付近のシンクラー周辺の要地と付近の飛行場を確保する「マタドール」作戦を立案していました。

 しかし、マタドール作戦は日本軍上陸の24時間前に発動して日本側を迎撃することを前提としたプランであり、問題の日本船団が既にシンクラーに向かっているのであれば迎撃のための出動は間に合いません。また、船団の行き先がシンクラーでないのなら、イギリス側が先にタイの領土を侵犯することは日本に開戦の口実を与えることになってしまいます。

 こうしたことから、ポッファムは7日夜の時点では「マタドール」作戦を発動しないとの判断を下したのです。

 しかし、日付が変わって翌8日の0時40分、日本陸軍第5師団の主力を乗せた舟艇は、まさに、そのシンクラーの海岸に向けて前進を開始。これに先立ち、0時35分、第18師団の佗美支隊が英領マレーの北端、コタバルへの上陸作戦を開始しています。真珠湾攻撃の1時間20分前のことでした。

 かくして、現在の日本人が一般に太平洋戦争と呼んでいる戦争、すなわち、僕の連載の主題である日豪戦争が勃発したのです。

 次回以降の連載では、いよいよ、日豪両国の戦闘についてみていくことにします。ご期待ください。


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