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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日豪戦争⑨
2011-04-05 Tue 13:57
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第424号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、1942年2月のダーウィン空襲について取り上げましたが、そのなかから、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        ダーウィン野戦局

 これは、第二次大戦中にポートダーウィンの空軍野戦局から差し立てられた書留便です。

 1941年12月8日、日本に対して宣戦を布告したオーストラリアは、マレー半島で日本軍と戦うとともに、日本軍のオランダ領東インド(蘭印。現インドネシア)進攻に備えて、12月中旬までにオランダ領ティモール(ティモール島西部)に、下旬にはアンボンに陸軍部隊と空軍の爆撃機部隊を派遣。さらに、12月17日にはオランダ軍とともに、ポルトガル領ティモール(東ティモール)に駐屯します。

 年明けの1942年1月10日に発足した米英蘭豪連合部隊のABDAコマンドはインドおよび中東方面から到着する増援兵力をシンガポールに集中させ、シンガポール、ジャワ、ポートダーウィンの線に集中させる方針を決定しました。しかし、マレー・シンガポール方面での敗色が濃厚となると、シンガポールへの増援を断念し、2月中旬に中東から到着予定だった第6オーストラリア師団をジャワに、2月末に到着予定だった第7オーストラリア師団をスマトラに転用することとします。

 1月11日、タラカン(ボルネオ島)とメナド(セレベス島)への進攻により蘭印作戦を開始した日本軍は、1月31日、オーストラリア軍が待ち構える蘭豪連合軍が待ちかまえるアンボンに上陸。アンボン市内の防衛を担当していた蘭印軍司令官カーピス中佐以下800名の蘭印軍守備隊は、早くも2月1日未明には降伏し、郊外を守っていたオーストラリア軍部隊も3日には投降しました。

 アンボンが陥落すると、いよいよ、オーストラリア本土のポートダーウィンは日本軍の制空圏内に入ります。はたして、2月19日、日本軍は連合国側の蘭印防衛の拠点となっていたポートダーウィンに対する大規模空襲を行いました。

 すなわち、オーストラリア北西のティモール海に停泊していた赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻の空母から発進した188機の日本海軍艦載機は、午前10時、ポートダーウィンを空襲し、9隻の船舶を撃沈したほか、市街地に大きな被害を与えました。さらに、同日11時55分から行われた2度目の空襲では、54機の陸上爆撃機は市街地を空軍基地にさらなる打撃を与え、20機の軍用機を破壊。また、一連の空襲で連合国側の251人が亡くなり、3-400人が負傷しましたが、日本側の損害はわずか4機が撃破されただけでした。

 空襲により、ポートダーウィンの郵便局も罹災したため、2月20日、空軍の野戦局が開設され、民間人の郵便物を取り扱うことになりいます。野戦局は、当初、被災したダーウィン局の跡地で業務を行っていましたが、ほどなくして、ダーウィン駅に近いベリマ病院内に移転して業務を行うようになりました。今回ご紹介のカバーは、そのベリマ病院内に設けられたダーウィンの空軍野戦局から1944年に差し出されたものです。

 その後も、ポートダーウィンへは日本軍機による空襲が何回か行われていますが、一般に“ダーウィン空襲”というと、1942年2月19日の空襲をさすことが多いようです。

 日本軍による空襲の目的は、あくまでも、蘭印作戦を遂行する上で障害となる連合国側の基地をたたくことにあり、オーストラリア本土に進攻しようという意図はありませんでした。しかし、1901年の連邦発足以来、ひたすら“日本の脅威”に怯え続けてきたオーストラリアにしてみれば、ダーウィン空襲は、ついに日本軍によるオーストラリア侵略の幕が切って落とされたものと受け止められたのです。

 さらに、ダーウィン空襲翌日の2月20日未明、日本軍がティモール島に上陸。1940名の連合軍守備隊(そのうちの1500名がオーストラリア軍)は必死に抵抗し、西部のクーパンを放棄して退却する際には日本軍に100名近い損害を与えたが、23日には降伏を余儀なくされました。

 こうした状況の下で、第6ならびに第7オーストラリア師団の蘭印増派は中止され、代わりに米英両政府は第7オーストラリア師団のビルマへの転用を要請するのでが、ここにいたり、オーストラリアの英本国に対する不信感が爆発します。

 すなわち、英本国のアジア・太平洋防衛は、難攻不落のシンガポール要塞を拠点とすることが前提となっていましたが、肝心のシンガポールは無気力な英将パーシヴァルの無為無策により、第8オーストラリア師団の多くの犠牲とともに、すでに、2月15日に陥落していました。

 さらに、2月19日のダーウィン空襲を皮切りに、オーストラリア本土が日本軍の直接攻撃にさらされているにもかかわらず、英本国はオーストラリアに救いの手を差し伸べるどころか、貴重な第6ならびに第7師団の兵力をオーストラリア防衛のためにではなく、ビルマ防衛のために転用したいといいだしたのです。米英の要請に従えば、マレー・シンガポールの時と同様、オーストラリア兵は祖国の防衛とは全く無縁の戦いで犬死させられることは明らかでした。

 このため、日豪開戦直前の1941年10月に首相となったジョン・カーティンは、第6ならびに第7師団のビルマへの移動を拒否して、本国に帰還させてしまいます。さらに、カーティンは、外相のハーバート・エバットを、チャーチル戦時内閣のオーストラリア代表として英本国に派遣。エバットはオーストラリアに犠牲を強いるばかりの英本国への不満をチャーチルにぶつけ、英本国の防衛よりもオーストラリアの防衛を優先する立場を公言しました。

 当然のことながら、チャーチルはカーティンとエバットの姿勢を苦々しく思っていたが、オーストラリア国民は、威張ってばかりで自分たちを駒として利用することしか考えていない(ように見える)英本国に対して一歩も引かず、“国益”を主張するカーティンとエバットを愛国主義者として大いに称揚されることになります。

 かくして、オーストラリアにとっての第二次大戦には、英本国からの“独立戦争”という側面も生じることになりました。


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