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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 泰国郵便学(14)
2011-06-29 Wed 15:30
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第45巻第3号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は、1943年の大東亜会議前後の状況についてまとめてみました。その中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        第一次大戦勝利記念碑

 これは、大東亜会議終了直後の1943年11月25日に発行された第一次大戦勝利25周年の記念切手で、王宮前広場の西北に建てられた記念碑を描く記念切手が描かれています。

 連合国の反攻に追い詰められつつあった日本は、占領地域の対日協力を確保するためにも、日本はビルマ、フィリピンを独立させ、戦争の大義であった“大東亜共栄圏の確立”をアピールするための政治イベントとして、1943年11月に東京で大東亜会議を開催しました。

 大東亜会議は、日本とその勢力圏内にあった6つの政府(満洲国、中国汪兆銘政権、タイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府)の代表を集めて行われたものですが、タイとしては、同会議への参加が、戦後、みずからの立場を悪化させることのないように細心の注意を払わねばなりませんでした。タイにしてみれば、連合国側から、日本の“傀儡政権”とみなされている満洲国などと同列に扱われ、戦後、“傀儡政権”と同様の処分を受けることだけは、なんとしても避けなければならなかったからです。

 このため、会議1ヶ月前の10月6日、タイ駐在の日本大使・坪上貞二が首相のピブーンに対して会議への出席を要請すると、ピブーンは即座に健康上の問題を理由にみずからの参加を拒否。そのうえで、ピブーンが「他の列席国と異なり、タイは古くからの独立国であって日本の同盟国である。他国と異なるタイの立場に対して、日本はどのような待遇をするのか」と質問します。日本側からすれば単なる難癖ですが、タイとしては、自国の領内に日本軍が駐留している中で、戦後の生き残りをかけてのギリギリの抵抗でした。

 結局、この問題は坪上が「(同年7月の)登場総理のタイ国訪問に対する答礼者として接遇する。答礼者としての地位に対しては、あらゆる経緯を尽くすが、会議そのものはイロハ順によらざるを得ない」と回答。これを踏まえ、ピブーンの代理には、名実ともにタイを代表する人物として、王族のワンワイタヤコーン(ナラーティップポンプラパン)親王をタイ代表として会議に派遣することで決着しました。

 さて、ワンワイタヤコーン親王一行は、大東亜会議初日の1943年11月3日に羽田に到着。そのまま、最初の公式日程として、午後4時から首相官邸で開催された東條首相招待のお茶の会に直行しました。

 タイ側は、親王は急病のため、丸2日間、まったく食事を摂らず、40度近い発熱をおしてバンコクを飛び立ってきたと説明。このため、翌4日に予定されていた東條との懇談はキャンセルされ、親王は宿泊先の目黒区駒場の前田利建侯爵邸で“静養”しています。

 5日の会議は、親王を先頭に各代表が議場に入場して始まりました。親王の席はホストで議長の東條英機の右側。日本側は、ピブーンの“難癖”を忠実に受け止めたようです。

 会議では、当初、親王の演説は午後からの予定でしたが、午前中の東條英機、汪兆銘の演説が早めに終わったため、午前中に繰り上げられました。演説において、親王は「タイ国が日本に援助を求めるとすれば、それは戦争完遂のため其の経済力を維持する上に於て必要とするものに限られて居るのであります」と述べ、あくまでも今回の対米英戦争でタイの果たしている役割は限定的なものにすぎないとの姿勢を強調しています。

 ちなみに、当時の駐日タイ大使ディレーク・チャイヤナームは、ピブーンの政敵で開戦当初から連合国との連絡を模索し、抗日の自由タイ運動を組織していた摂政プリーディー・パノムヨンの影響下にあった人物。さらに、ディレークの部下で、親王の演説草稿に手を入れて、戦後、連合国から追及される可能性のある文言を入れ替えた二等書記官のタナート・コーマンも、自由タイに深くかかわっていました。

 演説を終えた親王は、「タイ国は国土の外に置いても戦う用意があるか」との日本人記者の質問に対して、「そんな質問に答えたら、敵に情報を教えるようなものだ」と受け流して日本側に言質を与えず、会議が終了すると、病気を理由に他の代表に先駆けて真っ先に帰国し、日本との関係が深化するのを極力避けることに成功しました。

 今回ご紹介の切手は、こうした経緯の後に発行されたものでした。

 第一次大戦に参戦したタイは、最小限の犠牲で戦勝国としての立場を確保したことによって、その後の不平等条約改正の足がかりをつかんでいます。したがって、四半世紀という節目にあたり、あらためて第一次大戦の勝利を祝うことは、タイにとって、それ自体、なんら不思議なことではありません。また、戦時かという状況を考えれば、そこに、現在の戦争でも勝利を目指して国民の戦意を鼓舞するという建前のプロパガンダを読み取ることも可能でしょう。

 しかし、第一次大戦では、タイは日本とも盟友関係にありましたが、同時に、英国とも盟友関係にあったことも見逃せません。特に、タイが参戦する以前の1915年、イギリス国王ジョージ5世がワチラーウットに英陸軍の名誉大将の位を授与した際には、局外中立というタイの公式な立場とは別に、これをタイが国際社会から一人前とみなされたことの証として、喜んで受け入れたこと、タイから派遣された“義勇軍”がフランスで訓練を受けていたことなどを想起すれば、タイ人にとっての第一次大戦は、まさに、英仏と共同歩調をとった戦争であり、そこに“日本”のイメージが入る余地はきわめて小さいといえます。

 日泰攻守同盟条約を結び、米英との戦争が継続していたはずの時期でさえ、こうした切手が発行されているところに、タイのしたたかさを感じるのは僕だけではないでしょう。

 なお、ピブーン政権は1944年に入ると、最小限の対日協力は続けながら連合国と内通して、時機を見て抗日に転じる機会をうかがうようになります。その後、ピブーンは1944年7月に政権の座を追われ、タイの権力を握った摂政のプリーディーによって樹立されたクワン・アパイウォン政権には自由タイの重鎮も入閣し、日本との関係は一層冷却しました。ただし、自由タイが連合国の支援を受けて計画していた反日武装蜂起は、それが実際に起きる前に終戦が訪れたため、幻に終わっています。


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