内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日豪戦争⑬
2011-08-05 Fri 20:47
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第436号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、前回に続き、オーストラリアの捕虜の話を書きましたが、そのなかから、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モールメンから豪宛捕虜郵便     モールメンから豪宛捕虜郵便(裏面)

 これは、1943年5月31日、いわゆる泰緬鉄道とも深くかかわっているモールメン(モーラミャイン)収容所のオーストラリア人捕虜が本国の妻に宛てて差し出したものです。裏面に印刷された文章については、以前の記事でも取り上げたことがありますので、そちらをご覧いただけると幸いです。

 日本軍との戦闘で捕虜となったオーストラリア人は約2万2000人ですが、そのうちの約1万3000人が泰緬鉄道の建設工事に動員されています。

 泰緬鉄道の建設に際して、日本軍は、鉄道隊と旧国鉄職員の軍属およそ1万2500名を派遣し、6万人を越える連合軍捕虜(英国3万、オランダ1万8000、オーストラリア1万3000、米国700)を労働者として投入。さらに、少なくとも20万人を越えるアジア各国の労働者を動員して、突貫作業の末に、同年10月25日、工事を完成させました。

 このうち、最も早い時期から鉄道建設に動員されたのが、1942年5月、マレー半島で捕虜となり、シンガポールのチャンギ収容所からビルマのモールメン(モーラミャイン)移送された3000名のオーストラリア人たちです。

 彼らは当初、ビルマ域内での空港建設を行っていましたが、後にタイ側に移送され、バーンポーンとカーンチャナブリーでの捕虜収容所の建設に従事しました。その後、1942年秋から多数の連合軍捕虜がスマトラ、ジャワ、シンガポールから動員されると、彼らもビルマ側のタンビュザヤとタイ側のバーンポーンの二手に分かれて工事を開始しています。

 ちなみに、鉄道建設のために動員された捕虜たちは、まず、各地の収容所からチャンギ収容所を経てモールメンに集められ、それぞれの建設現場に移送されるというのが、一般的な移送のルートだったようです。

 さて、日本の収容所における捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金などは捕虜給与規則によって決められており、1945年の大阪俘虜収容所における糧食配給の比較表を見ると、捕虜と日本兵はともに、1日3000キロカロリー相当の食糧を支給されることになっていました。その内訳は、主食705グラム、魚30 グラム、野菜400 グラム、味噌50 グラムは捕虜・日本兵ともに共通で、肉は捕虜5グラムに対して日本兵10グラムですが、油は日本兵10グラムに対して捕虜が15グラム、砂糖は日本兵5グラムに対して捕虜7グラムとなっており、さらに、捕虜に対しては日本兵には支給されない牛骨100グラムが支給されたことになっています。

 これを見ると、日本側は捕虜を客人扱いしていたわけではないにせよ、日本兵と同程度の待遇で扱おうとしていたことがわかります。したがって、葉書の文面にある“捕虜たちを丁重に扱うべく誠実に努力”という文言も、まったくの虚言とはいえないでしょう。

 しかし、当時の日本と欧米諸国では国民の生活水準に大きな開きがあり、欧米人にとってのごく普通の生活は、日本人にとってはとてつもない贅沢でしかなく、そもそも、現地の日本兵と同じ処遇にすることじたい“虐待”と感じる捕虜たちも少なくありませんでした。もちろん、戦況が悪化し、日本人でさえ日々の食事に事欠くようになってくると、それと連動して捕虜の待遇もさらに悪化するのも避けられません。

 また、生活習慣の違いも深刻な問題でした。たとえば、ベッドで寝ることを当然と考えていた捕虜たちが、日本兵と同じように床の上に寝かされることを“虐待”と感じていたという事例は数多く報告されていますし、日本の軍隊では“教育”のためと称して日常的に行われていたビンタは、捕虜にとっては単なる暴行でしかありませんでした。食料の不足を補うため、牛蒡を提供した収容所では、終戦後、「木の根を食わせた」として捕虜虐待に問われたというのも同種の事例といえましょう。

 さらに、泰緬鉄道に関していえば、工事の期間中、コレラやマラリアが蔓延して多数の捕虜や労働者が命を落としていることからも明らかなように、日本側は予想を超える大量の捕虜に対して必要量の医薬品を調達できていませんでしたし、無理な作業日程に起因する重労働や過酷な気象条件もあって、結果的に、枕木1本に人1人といわれた膨大な数の犠牲者が生じたことは紛れもない事実です。

 こうした悲惨な実情は、1944年9月12日、英・豪の捕虜を乗せてシンガポールから日本へ向かっていた勝鬨丸と楽洋丸が南シナ海・海南島沖で米潜水艦の攻撃を受けて撃沈された際、からくも救助されたオーストラリア人捕虜の証言により連合国側に広く知られるようになりました。

 当然のことながら、連合国側は泰緬鉄道を“死の鉄道”と呼び、日本軍による“捕虜虐待”を非難します。敵国に対する敵愾心を煽り、極悪非道な敵国を征伐することこそが正義の戦争であるとのロジックが戦時下のプロパガンダ政策の基本中の基本であることは、あらためていうまでもありません。

 日本軍の支配地域で多くのオーストラリア人捕虜が命を落としたのは、日本側が明らかにみずからの管理能力を越える捕虜を抱え込み、その結果としてさまざまな過失を重ねた結果であって、日本軍が組織として意図的に捕虜を虐待・虐殺したからではないと考えるのが妥当です。しかし、それをあえて“虐待”と断じることによって、戦勝国は敗戦国に全ての責任を押し付け、みずからの歴史観を正当化しようとするものです。

 こうした現象は、古今東西、広く観察されるものですから、僕は彼らがそうした歴史観に基づく主義主張を展開したとしても、決して賛同はしませんが、それはそれとして否定もしません。むしろ、そうした勝者の尻馬に乗って、日本軍による“捕虜虐待”をことさらに非難する日本人が少なからずいることの方に、なんとも暗澹たる思いにさせられてしまうのです。


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