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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日豪戦争⑭
2011-09-05 Mon 21:03
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第439号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は日本降伏の話を書きましたが、そのなかから、まずは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        シュロップシャー・カバー

 これは、1945年9月2日、降伏文書調印の日に東京湾に停泊していたオーストラリア海軍のシュロップシャー艦内の郵便局から差し出されたカバーです。

 連合国側が対日戦争の戦後処理に関する基本方針を決めたのは、1943年11月、ローズヴェルト、チャーチル、蒋介石の3者によるカイロ会談だったことは良く知られています。

 カイロ会談の内容は、同年12月1日、日本の無条件降伏要求と降伏後の日本領土の縮小などをうたった「カイロ宣言」として発表され、米英ソのテヘラン会談、ヤルタ会談を経て、ポツダム宣言の基礎となりましたが、この重要な会談に際して、オーストラリア代表は参加していません。

 1941年12月に日本と米英蘭との戦争が勃発したことを受けて、1942年1月1日付で発せられた「連合国宣言」には、最終的に26ヵ国が署名しましたが、その序列は米英中ソの4ヵ国を主要国とし、それ以外の国は同格としてアルファベット順になっていました。オーストラリアは、アルファベット順では最初の国となったものの、あくまでも“その他大勢”の一員でしかなく、連合国全体の意思決定に関与できるメンバーとはみなされていません。

 しかし、ダーウィン空襲など国土が直接の攻撃を受け、日本軍との戦闘で多大な犠牲を払ってきたオーストラリアは、対日戦争に関しては、米英中ソの後、オーストラリアまでが主要国であり、アルファベット順のベルギー以下が同格であるとひそかに自負していました。

 したがって、カイロ宣言の決定(その内容に対する賛否は別として)に自分たちが関与できなかったことについて、大いに不満です。

 そこで、オーストラリアは、1944年、ニュージーランドとともにキャンベラ協定(第一次世界大戦時に編成されたオーストラリア・ニュージーランド軍団 :Australian and New Zealand Army Corpsにちなみ、オーストラリア・ニュージーランド合同の軍事組織を意味する“アンザック協定”とよばれることもある)を締結。独自に、対日戦の戦後処理や南ならびに南西太平洋での安全保障、南太平洋政策での両国の協同をニュージーランドと約しています。主要国の決定に無条件で唯々諾々と従うわけではないとのアピールでした。

 その後も、ヤルタ会談やポツダム会談などにオーストラリアが直接関与することはありませんでしたが、そうしている間にも連合国による日本包囲網は次第に狭められていき、日本の敗戦を既定方針として日本占領の具体的な計画が策定されるようになります。

 その過程において、1945年7月、オーストラリア海軍のコルヴェット艦ゴーラーならびに駆逐艦のネイピア、ネパール、ニザーム、ノーマン、キベロン、クイックマーチが日本近海に派遣されました。

 8月15日正午、昭和天皇が玉音放送で国民に対して「終戦」を告げ、降伏の意思を明らかにした日本に対しては連合国の軍隊が進駐することになりますが、英国およびオーストラリア海軍の人員は米国第3艦隊上陸部隊の一員という形式を取って、日本海軍の横須賀鎮守府を接収するとともに、連合軍の東京上陸を補佐する任務を与えられ、8月30日、横須賀に上陸します。マッカーサーがコーンパイプを咥えて篤次の飛行場に降り立った、まさにその日でした。

 9月2日、日本と連合国との降伏文書が米戦艦ミズーリ上で調印され、オーストラリアからは豪州軍総司令のトマス・ブレイミーが署名しました。

 ちなみに、ブレイミーは、戦時中、部下に対して「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない。」と訓示していた人物です。オーストラリア国家を代表して“ジャップ”の降伏を受理したことは、さぞや痛快な出来事だったんでしょうな。

 降伏文書調印の当日、湾内に停泊していた連合国の艦船は258隻にも上ったそうですが、オーストラリア海軍からは、上述の艦船に加え、重巡洋艦のシュロップシャーとホバート、駆逐艦のバターン、セスノック、イプスウィッチなどが湾内に停泊していました。今回ご紹介のカバーは、そのうちのシュロップシャーから差し出されたものです。

 シュロップシャーはもともとは英国海軍の重巡洋艦として1926年2月に起工し、1928年7月に進水、1929年9月に就役し、地中海艦隊に所属していました。第2次大戦が勃発すると、大西洋やインド洋で活動していましたが、1942年8月、第一次ソロモン海戦でオーストラリア海軍の重巡洋艦キャンベラが撃沈されたため、その不足を補うため、同年12月、英国海軍を退役し、翌1943年4月、オーストラリア海軍に移管されています。

 オーストラリア海軍への移管後は、1943年12月のダイレクター作戦(ニューブリテン島・アラウェ上陸作戦)ならびにグロスター岬上陸作戦、1944年3月のアドミラルティ諸島の戦い、同4月のニューギニア・ホーランディアならびにアイタペ上陸作戦、同5月のビアク島上陸作戦、同7月のアイタペの戦いおよびサンサポール上陸作戦、同9月のモロタイ島上陸作戦、同年10月のレイテ沖海戦以降のフィリピンの戦いなど、日豪戦争の主要な戦いに参加しました。

 降伏文書調印の当日、シュロップシャーの艦内郵便局では、“TOKYO BAY/JAPAN”の文字が入った日付印と、降伏文書調印を祝う“Official Signing Of Japanese Surrender(日本降伏の公式調印)”の文字の入った記念スタンプが使われています。

 こうした記念印の類は、降伏文書調印の場となった米戦艦ミズーリ号をはじめさまざまな艦船でさまざまなタイプのものが使われていますが、オーストラリア海軍に関しては、シュロップシャーのほかホバート、ワラムンガでも使われました。

 なお、シュロップシャーは降伏文書の調印後もしばらく日本にとどまっていましたが、1945年11月18日、シドニーに向けて日本を出港しています。


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