内藤陽介 Yosuke NAITO
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 台湾総統選挙は現職が勝利
2012-01-15 Sun 19:27
 きのう(14日)、投開票が行われた台湾の総統選挙は、(多くの日本国民の期待むなしく)現職の馬英九が再選を果たしました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        台湾単位票カバー

 これは、中国国民政府(国府)が台湾に撤退(彼らの用語でいう“遷移”)した直後の1949年12月に台湾の麻豆から差し出されたカバーで、“限臺灣省貼用”加刷の単位票が貼られています。

 1945年10月、国府は台湾を接収しましたが、この時点では、日本統治時代の旧台湾銀行券(日本円と等価)が通貨として流通していました。このため国府は、1946年に旧台湾銀行と台湾貯蓄銀行、三和銀行を接収・合併し、新たに台湾省営の“台湾銀行”を設立し、同年5月22日から、旧台湾銀行券と等価の“台幣”(1949年6月以降の“新台幣”と区別して“旧台幣”と呼ばれます)を発行・流通させます。ただし、住民の間では台幣よりも旧台銀券に対する信用が厚く、旧台銀券から台幣への交換はスムースには進みませんでした。

 そもそも、国府が大陸で使用していた法幣(国府の法定通貨)を台湾で流通させず、旧台幣を発行した背景には、日中戦争が終結するや国共内戦が再燃するという混乱の中で、大陸経済が極端に疲弊し、法幣の信用が失墜していたという事情があります。国府にしてみれば、自らの戦後復興ならびに共産党との内戦の資金源として、新たに獲得した台湾の価値を維持しておくためには、台湾を大陸の経済的混乱から隔離しなければならず、台湾内で法幣を流通させるわけにはいかなかったのです。

 1947年末まで、法幣と旧台幣の交換は年に数回の調整を行う固定相場制でしたが、1948年1月以降、両者は変動相場制に移行します。この間、法幣と旧台幣の交換相場は、台湾からの“輸入”を有利に進めたい国府の政策的措置により、一貫して、実際の経済力に比べて旧台幣の価値を過小評価したものとなっていました。この結果、国共内戦による大陸のハイパーインフレは台湾経済を直撃することになります。

 さらに、1948年8月、大陸ではついに法幣制度が破綻し、国府は新通貨として金円を発行。混乱の中で、大陸からの逃避資金が台湾に流入し、台湾のインフレはますます加速していきます。

 そして、共産党との戦いに敗走を続ける国府の台湾移転が現実のものとなりつつあった1949年6月15日、台湾省政府は「台湾省幣制改革法案」、「新台幣発行弁法」を布告し、旧台幣4万円を新台幣1円とするデノミネーションを実施。当初の建前では、新台幣はあくまでも、国家の正式通貨ではなく、台湾に限定した地域通貨という位置づけでしたから、国府としても大陸とは別に新台幣に対応する額面の切手を発行する必要がありました。

 しかし、新切手を企画し、準備している間にもインフレは昂進を重ね、新額面の切手を用意することもままならないというのが実情であったため、1949年10月16日に発行された新台幣対応の新切手には、額面の表示はなされず、国内普通郵便用、速達用など用途のみが記され、その都度、利用者には窓口で対応する料金で販売されています。今回ご紹介のカバーの切手は、こうした状況に対応して発行された“単位票”の1種で、“国内信函費 毎重二十公分”(20グラムごとの国内書状料金)と表示されています。

 ところで、1949年4月23日の首都・南京の陥落以来、国府は広州、重慶、成都を転々としていましたが、11月4日、台北を臨時首都とすることを決議。7日に中央政府の台北移転を正式に決定し、11日までに政府ならびに国民党中央の移転が完了しました。今回ご紹介のカバーは、こうした国府の遷移直後に上述の単位票の使用例です。

 この間、10月17日には人民解放軍が厦門島を占領し、対岸の金門島にも攻撃を仕掛けましたが、国府側はこれを撃退。福建省沿岸の金門島・馬祖島ならびに浙江省沿岸の大陳列島を確保することによって、かろうじて台湾省に限定されない“中国政府”としての体面を保ち、台湾を拠点に“大陸反攻”を呼号していくことになります。

 とはいえ、大局的に見れば、中共が台湾を“解放”することは時間の問題と考えられており、米国も台湾の共産化やむなしと覚悟していました。

 ところが、1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると事態は一変。トルーマン政権は共産軍による台湾解放を阻止するため第七艦隊を台湾に派遣するとともに、国府に対しても“大陸反攻”の停止を要求しました。いわゆる台湾海峡中立化宣言です。

 米国が台湾海峡の中立化を志向したのは、国際法上の台湾の地位が未確定であり、それゆえ、台湾の帰属に関しては「太平洋における安全保障の回復、対日講和条約の締結、ないしは国連による検討を待つべき」であるとの判断によるものです。

 あらためていうまでもないことですが、領土の割譲・移転は当事国間による正式の条約締結がなければ、国際法上は無効です。この点において、第二次大戦中、連合国によって発せられたカイロ宣言やポツダム宣言は、敗戦後の日本に台湾を中国に返還させるという戦後処理の方針を示したものでしかなく、道義的・政治的な責任はともかくとして、国際法上の拘束力は一ありません。よって、日本の敗戦後、国府が台湾に進駐し、日本軍を武装解除したのも、あくまでも便宜的ないしは暫定的な措置でしかないのです。

 さらに、1951年9月に調印され、翌1952年4月に発効した講和条約では「日本は台湾、澎湖諸島に対するすべての権利、権限および請求権を放棄すべし」との規定(第二条B項)はありましたが、その後の台湾の帰属については何ら規定がなく、未確定のまま放置されています。また、講和条約の発効を待って日本と国府の間で結ばれた日華平和条約でも、すでに台湾の領有権を放棄した日本は台湾の帰属について言及しないとの立場をとっており、以後現在にいたるまで、これが日本政府の公式見解となっています。

 これに対して、大陸の中国共産党政権は倦むことなく“一つの中国論”を持ち出していますが、大半の国では台湾の帰属については法的に未定という姿勢をとっており、現在にいたるまで「台湾は中国の領土の不可分の一部である」との主張をそのまま承認しているのは全体としてごく少数でしかありません。

 さて、今回、総統選挙で再選された馬英九は、選挙期間中、「“一つの中国”を“中台双方が独自解釈する”という条件付きで認める」との姿勢を示していましたが、今まで縷々述べてきたように、そもそも“一つの中国”論は、勝手な思い込みでしかありません。

 もちろん、台湾の将来については台湾の人々の意思によって決められるべきで、彼らがそうした“一つの中国”論を信奉しているというのであれば、もはや僕がとやかく言うべき筋合いはないのですが、彼らの意に沿わない形での“中国”への併呑という事態が生じることになれば、話は全く別です。そうしたことも踏まえ、われわれ日本はもっとも身近な友好国を今後ともサポートしていくべきではないかと思います。


 * 第3回テーマティク出品者の会ミニペックスは、本日夕方、無事終了いたしました。ご参観いただきました皆様並びに関係者の方々には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

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