内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(6)
2013-06-09 Sun 09:33
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』502号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は第2次大戦前後のシオニスト過激派の反英テロの話を取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      イルグン・カバー    イルグン・カバー(裏面)

 これは、1945年10月、テルアビブからイルグンの活動家であったダヴィド・シュプリッツァー宛に差し出されたカバーとその裏面(部分)で、宛先の住所はエルサレムのパレスチナ警察本部気付になっていますが、実際には、エリトリアのセンベル収容所に転送されたモノです。

 1945年5月、欧州大戦はナチス・ドイツの敗戦によって終結しました。そのひと月前の4月、米国では大統領ローズヴェルトが亡くなり、副大統領のトルーマンが大統領に昇格します。

 前任者のローズヴェルトは、アラブ諸国の指導者に対して、米国としては、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしないと約束し、トルーマンも基本的にはこの方針を継承しました。しかし、ナチス・ドイツの敗北により悲惨な収容所の実態を知ることになったトルーマンは、ユダヤ人犠牲者の救済という視点から、シオニストに対して同情的な姿勢をとることになります。

 すなわち、1945年7月、トルーマンは英国政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住を制限する政策(1939年5月のマクドナルド白書で決定)を解除するよう要請。さらに、同年8月には、10万人のユダヤ系難民をパレスチナに移民として受け入れるよう、アトリー(英首相)宛の書簡で求めました。

 このトルーマン書簡を契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立。委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を事実上撤廃する、という報告書をまとめます。

 しかし、報告書発表の直前、シュテルンによりイギリス人兵士6人が殺害されるというテロ事件が発生。態度を硬化させた英国は、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示すようになりました。

 今回ご紹介のカバーは、まさにこうした時期に収監中のイルグンの活動家宛に差し出されたものです。

 イルグンとは、もともとは“組織”を意味するヘブライ語で、シオニストの武装組織としては、“ユダヤ民族軍事機構”を意味するヘブライ語の“ハ=イルグン・ハ=ツヴァイ・ハ=レウミー・べ=エレツ・イスラエル”が正式名称ですが、ヘブライ語では、略称の“エツェル”、英語では、正式名称の最初の単語である“イルグン”の名で呼ばれるのが一般的です。

 第一次大戦以前から、パレスチナに移住したユダヤ系移民は自分たちの定住地で自警団を組織していました。英国によるパレスチナの委任統治が始まると、ユダヤ系移民の急増に反発するアラブの暴動が発生したため、1920年6月、各地の自警団を統括する軍事組織として、ハガナーが組織されます。

 英国のパレスチナ当局は治安維持のためハガナーの野戦部隊に訓練を施しましたが、その中には、英国のパレスチナ政策に反発して過激化する勢力が現れるようになりました。イルグンもその一つで、ハガナーの穏健路線に飽き足らなくなったシオニスト強硬派が、1931年にハガナーを脱退して組織した武装集団です。特に、マクドナルド白書に対しては激しい敵意をむき出しにし、ウォルター・モイン植民地相を暗殺したシュテルンともども、反英のためには“敵の敵”であるナチス・ドイツとの連携さえ厭わないという姿勢を鮮明にしていました。

 その活動家であったシュプリッツァーは、1944年2月、ジャッファの警察署本部に対する爆弾テロを行って逮捕・収監されています。

 シュプリッツァーの事件の後も、シオニスト過激派による反英テロは止むことがなく、逮捕・収監される活動家も増加していったが、それに伴い、彼らの脱獄や収監されたテロリストを奪還するための新たなテロが生じる危険性も憂慮されるようになりました。

 そこで、英当局は、1944年10月19日、“スノー・ボール作戦”を発動。まずは251人のテロリストを飛行機で極秘裏にアフリカ各地の収容所に移送し、彼らをパレスチナの地から切り離すことにします。

 テロリストたちの移送先は、センベル(エリトリア)、カルタゴ(この場合は、テュニジアの首都・テュニス近郊の都市ではなく、英領スーダン紅海州の町)、ギルギル(ケニアの首都ナイロビ北方の町)の3ヵ所でした。最終的にこの3ヵ所に分散して移送されたテロリストの数は439人で、そのうちの約6割がイルグンの活動家で、3割がシュテルンの活動家、残りの1割がどちらの組織にも属さないテロリストだったといわれています。

 さて、シュプリッツァーが収監されていたセンベルの収容所は、エリトリアの首都、アスマラの近郊に位置しています。

 エリトリアは、アフリカ北東部、エチオピアの北側に位置する紅海沿岸の地域で、第二次大戦以前はイタリア領でしたが、1941年に英軍がイタリア軍を駆逐し、以後、1952年まで保護領としていました。

 今回ご紹介のカバーに関しては、宛先表示の“エルサレム”の脇に、赤鉛筆でEの文字が書き加えられており、これにより、名宛人の移送先がエリトリア、すなわち、センベル収容所であることが関係者にはわかります。

 切手が脱落しているのは、アフリカ各地に移送されたテロリスト宛の郵便物に関しては、表には見えない切手の裏や下のスペースを使って不正な連絡がなされていないかどうかをチェックするための措置で、英当局が、いかに彼らの動向に神経質になっていたかがうかがえます。

 こうした状況でしたから、英当局からすれば、“難民”というだけの理由で、身元の定かではないユダヤ人を大量に流入させれば、難民に偽装したテロリストも紛れ込み、パレスチナの治安を悪化させるリスクが高まるのは当然で、パレスチナ問題調査委員会の報告書の内容は受け入れがたいものでした。

 しかし、第二次大戦以前、ほとんど中東と接点のなかった米国をはじめ、戦勝諸国の大半は、そうしたパレスチナの事情を全く理解しようとはしませんでした。それどころか、侵略者の独裁国家を打倒して自由と民主主義を守ったことが自分たちの戦争の大義であると主張する必要から、彼らは、ナチス・ドイツの蛮行、特に、ユダヤ人迫害とその犠牲を強調し、彼らが救い出した“かわいそうなユダヤ人”に救いの手を差し伸べなければならないと信じていました。こうした視点からすれば、パレスチナの土地を“かわいそうなユダヤ人”に与えることは無条件に善行であるという短絡的な結論しか生じません。

 かくして、ユダヤ系難民の受け入れに慎重な英当局の姿勢は、パレスチナの現実を知らない戦勝国の善男善女から批判を浴びただけではなく、“大英帝国”の一員として英国の戦争を戦ったパレスチナのユダヤ系住民のさらなる不満を醸成。シオニスト過激派による反英闘争も激化の一途をたどることになります。

 その結果、シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国際連合(以下、国連)に問題の解決を一任すると一方的に宣言。まさに、これが“英領パレスチナ”終わりの始まりとなりました。


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