内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(10)
2013-10-23 Wed 10:55
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』514号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、ローマ教皇のエルサレム訪問について取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       教皇と総主教の会談

 これは、1964年9月18日、ヨルダンが発行した「ローマ教皇とコンスタンティノープルのエルサレム会談」の記念切手です。
 
 1956年のナセルによるスエズ運河の国有化宣言とそれに続く第2次中東戦争(スエズ動乱)の結果、英仏軍の攻撃をしのぎ切ったエジプトのナセル政権とそのイデオロギーであるアラブ民族主義はピークに達し、ナセル政権を支援してきたソ連に対するアラブ諸国(特に、民族主義政権の)親近感は急速に増大しました。

 こうした事態を憂慮した米国のアイゼンハワー政権は、1957年1月、議会に対して中東基本政策(アイゼンハワー・ドクトリン)を提出します。

 アイゼンハワー・ドクトリンは、「中東の聖地が無神論的唯物主義を讃える支配のもとに屈するのを座視することはできない」としたうえで、①国家の独立を支える経済力を確立させるため、中東のいかなる国にも援助を与える、②希望する国に対しては軍事援助のための計画を立案する、③国際共産主義に支配されている国々からの武力による侵略に対して、支援を求める国に米軍を派遣する、④経済的・軍事的援助供与のための大統領の権限を強化する、ことを主要なポイントとしていました。

 はたして、アイゼンハワー・ドクトリンの発表から間もない1957年4月、まさに聖地エルサレム(旧市街)を支配下に置くヨルダンで、政府軍の一部による反国王の反乱が発生します。

 この反乱の本質は、1954年に反欧米を掲げてシリアで発足したアラブ民族主義連合政権がヨルダンの王制転覆を狙って企画したものでした。アラブ民族主義の究極の目標は、西洋列強によって分断された現在のアラブ諸国を再統合し、イスラエルを解体してアラブの統一国家を建国することにありましたが、そのためには、既存の(アラブ世界の)国際秩序を受け入れている親西側政権を打倒しなければならないというロジックが導き出されます。この文脈においては、英国による中東分割の過程で誕生したヨルダンの親英王制は、まさしく格好の標的でした。

 これに対して、国王フサインは反王制クーデターを国際共産主義による介入として米国に支援を要請。冷戦思考に凝り固まっていた米国は、ヨルダンからの要請に何ら疑念をさしはさむことなく、アイゼンハワー・ドクトリンを発動し、地中海の第6艦隊を派遣。さらに、サウジアラビア(アイゼンハワー・ドクトリンを支持し、米国の軍事援助を受け入れていた)もヨルダンを支援し、反乱はまもなく鎮圧され、ヨルダンは“中東の聖地”の管理者として、西側社会からのお墨付きを得ることに成功します。

 こうした経緯をふまえて、1964年1月4日、ローマ教皇パウロ6世が、エルサレム、ベツレヘム(ヨルダン領)、ナゼレ(イスラエル領)の3聖地を訪問しました。現地滞在時間はわずか11時間でしたが、教皇自身による聖地訪問は、史上初のことであり、さらにいえば、現職の教皇がイタリアを離れたのも、さらには、飛行機に乗ったのも、このときが初めてのことという、歴史的な出来事でした。

 パウロ6世は1897年、北イタリアのサレッツォ生まれ。1920年に司祭となり、第二次大戦中は、バチカン国務長官ルイジ・マリオーネ枢機卿の下、イタリアのファシスト党やナチス・ドイツとの交渉などを担当する一方で、1944年にマリオーネ枢機卿が亡くなると、国務長官の代行としてレジスタンスの保護にも尽力。1953年にミラノの大司教に、1958年に枢機卿に任じられ、1963年、教皇ヨハネ23世の死去により教皇に選出されました。

 前任のヨハネ23世は、1962年からカトリック教会の近代化と刷新のため、第2バチカン公会議を開催。公会議は、第1会期(1962年10月11日-12月8日)、第2会期(1963年9月29日-12月4日)、第3会期(1964年9月14日-11月21日)、第4会期(1965年9月14日-12月8日)に分けて行われましたが、ヨハネ23世は1963年6月に亡くなったため、第2会期以降は、後を継いだパウロ6世が取り仕切っています。

 教皇の聖地訪問は公会議の第2会期が終わった直後の1963年12月、“純然たる個人の巡礼”として電撃的に発表されましたが、実際には、当時はバチカンとの間に正式の国交がなかったヨルダン、イスラエル両国(ちなみに、バチカンとイスラエルの国交樹立は1993年、ヨルダンとの国交樹立は1994年です)との間で、教皇の即位直後から入念に準備が進められ、その結果として、1964年1月4日の教皇の聖地訪問当日にヨルダンでは記念切手も発行されています。

 ところで、教皇がこのタイミングでエルサレムを訪問したのは、もちろん、“純然たる個人の巡礼”ではなく、東方正教会の最大の権威であるコンスタンティノープル総主教(全地総主教)のアシナゴラスと会談することにありました。

 アシナゴラスは、1886年、ギリシャ北西部のイピロス地方のヴァシリコ生まれ。1910年に輔祭(主教・司祭の助手)になり聖職者としてのキャリアをスタートさせ、コルフ主教、南北アメリカ大主教を歴任し、1948年にコンスタンティノープル総主教となりました。

 総主教就任後のアシナゴラスは、キリスト教の宗派を超えた結束を目指すエキュメニズムに積極的に取り組んだことで知られています。
 
 エキュメニズムは、もともとはプロテスタントにおいて始まった運動ですが、1937年、この運動を促進するための組織として、正教会を含む世界教会協議会設立の合意が成立しました。ただし、カトリックは世界教会協議会には参加せず、第2次世界大戦の勃発もあり、協議会の成立は戦後に持ち越されています。

 ところが、1947年末の国連によるパレスチナ分割決議を機に英領パレスチナが内戦状態に陥り、1948年5月にはイスラエルが建国を宣言して第一次中東戦争が勃発。キリスト教にとっての聖地も紛争の直接的な危機にさらされることになったこともあり、1948年8月23日、協議会は急ぎ設立されることになりました。ちなみに、「1948年のイスラエル建国以来、聖地の平和のために努力してきた」というのが、協議会の自己認識です。

 一方、当初、エキュメニズムとは距離を置いてきたカトリックですが、1958年に教皇に就任したヨハネ23世は、エキュメニズムに熱心に取り組んでいます。

 すなわち、ヨハネ23世は、1500年代以来、初めて英国教会大主教をバチカンに迎え、正教会へも公式メッセージを送ったほか、東西冷戦の解決を模索し、1962年のキューバ危機においても米ソ双方の仲介に尽力しています。カトリック教会の近代化をめざして、第2バチカン公会議を開催したのも、こうした流れに沿ったものでした。

 ヨハネ23世の後継教皇となったパウロ2世は、前教皇の遺志を継いでエキュメニズムにも取り組み、1963年、アシナゴラスに親書を送っています。何でもないことのようですが、ローマ教皇がコンスタンティノープル総主教に親書を送ったのは、実に、1584年、教皇グレゴリオ13世がイェレミアス2世に対して、グレゴリオ暦の採用に関しての書簡を送って以来、約380年ぶりのことでした。

 その後、バチカンとコンスタンティノープル総主教庁との水面下での接触は頻繁に行われるようになり、1963年末、パウロ6世の聖地訪問が発表されると、これに呼応するかたちでアシナゴラスがエルサレムを訪問し、旧市街の東に位置するオリーブ山での歴史的な直接会談が実現。パウロ6世とアシナゴラスとの会談では、1054年の相互破門(総主教ミハイル1世と教皇レオ9世が互いに相手を破門したとされる事件)の解消が宣言されました。

 もちろん、教皇と総主教が相互破門の解消を宣言したところで、長年にわたるカトリックと正教会の溝が直ちに埋まることはなく(実際、正教会内の保守派はこの点に関してアシナゴラスを厳しく批判しています)、あくまでも儀礼的なものではありましたが、キリスト教史に残る事件であることには違いないでしょう。

 教皇と総主教の会談を受け、ヨルダン郵政は、急遽、会談の成功を記念する切手の制作を開始し、9月18日、今回ご紹介の切手を発行しました。切手のデザインは、オリーブ山から眺めたエルサレムの旧市街を背景に、左から、パウロ6世、フセイン、アシナゴラスの3人の肖像を配しています。パウロ6世とフセインの間にはアクサー・モスクが、フセインをアシナゴラスの間には岩のドームが描かれているのがミソです。

 イスラム世界では、二大聖地であるメッカ・メディナの管理者として、毎年イスラム歴12月のメッカ大巡礼を無事に取り仕切ることができる者こそが“イスラムの盟主”であるとする考え方があります。かつてのアッバース朝しかり、オスマン帝国しかり、さらに、現在のサウジアラビアしかり、です。

 こうした思考回路に基づくのなら、“巡礼者”としてエルサレムにやってきた教皇を受け入れ、無事に帰還せしめたヨルダン政府は、そのことによって、自分たちが聖地エルサレムの正統な管理者であることを証明したことになります。

 当然のことながら、ヨルダン政府としては、そのことを広く内外にアピールするための手段として、国家のメディアである切手を最大限に活用したわけですが、その際、イスラム教徒が国民の多数を占めるという環境を考えれば、聖地エルサレムのアイコンとして、“岩のドーム”が優先的に選ばれるのは自然な成り行きといえましょう。


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