内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(13)
2014-01-19 Sun 11:17
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』523号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、第3次中東戦争後のパレスチナ過激派のテロ戦術について取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       クウェート・パレスチナ支援(1970・45f)

 これは、1970年3月6日、いわゆるパレスチナ・ゲリラの活動を称えるためにクウェートが発行した切手で、いずれも、岩のドームを背景にした女性闘士の姿が描かれています。
 
 第3次中東戦争で完敗を喫したアラブ諸国は、1967年9月、ハルトゥーム(スーダンの首都)でアラブ首脳会議を開催し、「(イスラエルを)承認せず、(イスラエルとは)交渉せず、講和せず」の三不政策を基本方針として確認します。しかし、両者の力の差はいまや歴然としていたため、以後、アラブ諸国はイスラエル占領地の返還を主要な政治課題と考えるようになり、イスラエル国家の解体(すなわち、パレスチナの解放)は彼らにとって二義的な問題となりました。

 一方、パレスチナの活動家にしてみれば、こうした方針転換にはとうてい納得できないものであり、祖国解放のためには対イスラエルのテロ活動を放棄することなど受け入れられなかった。そして、そうした彼らの存在は、パレスチナ解放という建前の大義とは裏腹に、多くのアラブ諸国にとって(本音では)重荷になっていきます。

 さて、パレスチナ解放の大義と、それが絶対に実現不可能であるという現実の前に、最も苦しい立場に追い込まれたのはヨルダンでした。

 第3次中東戦争以前、ヨルダン川西岸地区はヨルダンの支配下にありましたが、戦争によってイスラエルが占領しました。このため、イスラエルによる占領を忌避して逃れてきた難民たちは、面積が大幅に縮小したヨルダン領内に集中することになり、ヨルダンにおける“パレスチナ出身者”の人口密度は急増します。

 もちろん、ヨルダン政府は自分たちこそがエルサレムを含むヨルダン川西岸の正統な支配者であると主張し、イスラエルによる西岸地区の占領は無効であると国際社会に訴え続け、国際社会も少なからずそうした主張に理解を示していた。しかし、彼らにとってどれほど不愉快であろうと、イスラエルが停戦協定を無視してヨルダン川西岸に居座り続けており、ヨルダンが自力でイスラエル軍を排除することなどできはしないこともまた冷徹な現実でした。

 そうした現実を十分に認識していながらも、パレスチナ難民を多数抱えているというもう一つの現実にも向き合わなければならなかったヨルダンとしては、PLOやファタハが続ける闘争(=テロ)の“大義”を非現実的と切って捨てることは国内情勢の不安を招きかねません。

 こうしたこともあって、第3次中東戦争の直後、しばらくの間、ヨルダン政府は(少なくとも表面上は)ファタハに対して好意的であり、1968年のカラメの戦いに際しては、ファタハを積極的に支援します。

 当時、アラファトひきいるファタハは、ヨルダン川東岸の寒村、カラメを拠点に川を渡ってイスラエル占領下の西岸地区に出撃し、テロ活動を展開していました。このため、イスラエルはヨルダン領内に侵攻してカラメに対する掃討作戦を展開しましたが、ファタハの逆襲に遭い、撤退を余儀なくされました。

 純粋に軍事的な見地から見れば、カラメの戦いはパレスチナ・ゲリラが一局地戦で小さな勝利を収めただけに過ぎなかったのですが、前年の第3次中東戦争での惨敗の衝撃が大きかっただけに、パレスチナ側がイスラエルに対して一矢を報いたことには政治的に大きな意味がありました。はたして、この戦いの功績により、1969年2月、アラファトはPLO執行部の議長に選出され、アラファトのPLOに対するアラブ諸国の声望は高まった。

 しかし、当時のPLOが掲げていたアラブ民族主義路線には、その本質において、いずれは既存のアラブ諸国と対立せざるを得ません。

 すなわち、アラブ民族主義の信奉者たちの理解によれば、“アラブの大義”としてのイスラエル国家の解体=パレスチナの解放を実現するには、全アラブが大同団結して統一アラブ政府を樹立することが不可欠ですが、現状がそうなっていないのは、第一次大戦後、オスマン帝国が解体される過程で、英仏がアラブの意向を無視して勝手に“国境”を引き、アラブを分断したためです。したがって、アラブの(再)統合を実現するためには、列強の押し付けた“国際秩序”を唯々諾々として受け入れている既存の政府(特に王朝)を打倒し、民族主義の革命政権を樹立すべきというロジックが導き出されます。

 PLOがこうした世界観に立つ限り、親西側のハーシム家が支配するヨルダンの王制は、大義の実現のためには、真っ先に打倒すべき対象ということになります。

 一方、ヨルダンにしてみれば、イスラエルに占領されている西岸地区は、あくまでも、1948年の第一次中東戦争でイスラエルと戦った血の代償として獲得したものであり、イスラエルが解体された暁には、自分たちが西岸地区の支配権を回復するのが当然という理解です。

 それでも、直接、パレスチナの地と接していない(=イスラエルとの直接戦闘の可能性がほとんどない)アラブ諸国の中にも、パレスチナ・ゲリラの活動を好意的に見ている国も少なくありませんでした。今回ご紹介の切手を発行したクウェートもその一つで、パレスチナから遠く離れたペルシャ湾岸という地理的環境にあるクウェートにとっては、“パレスチナ解放”の問題も対岸の火事ですから、(あくまでも他人事として)それが実現できるのなら大変に結構なことだという程度の認識しかなかったのかもしれません。

 しかし、この切手が発行されてから半年後の1970年9月、当時ファタハに次ぐ勢力を誇っていたゲリラ組織、パレスチナ解放戦線(PFLP)がアラブ諸国とイスラエルとの和平交渉を妨害するために欧米系航空会社の旅客機をハイジャックさせ、ヨルダンの空港で炎上させる事件が発生。ここにいたり、ヨルダン政府は国内のパレスチナ・ゲリラ組織の一斉摘発に乗り出していきます。

 こうして、“黒い9月”とも呼ばれたヨルダン内戦が勃発。おびただしい犠牲を払った後、パレスチナ人勢力は敗退し、彼らはパレスチナの北隣のレバノンに脱出ます。この間の9月27日、ヨルダン内戦の調停に奔走していたナセルは、過労により急死してしまいました。かつて、アラブ民族主義の輝ける星であった男は、その理念が現実と完全に乖離したことを見届けたうえで、この世から姿を消したのでした。

 一方、パレスチナ・ゲリラたちは、シリアの支援を受けつつ、より過激なテロ戦術を展開していきます。そして、その矛先は、次第に、イスラエルのみならず、欧米諸国全体へと向けられていきました。

 すなわち、欧米諸国の民間人をテロの標的にすれば国際社会の関心はおのずとパレスチナに向くから、国際社会もパレスチナ問題の解決に本格的に取り組まざるをえなくなるだろうとの見通しの下、彼らは爆弾テロやハイジャック事件を繰り返しました。「これまで何十年にもわたって国際社会は我々を無視するだけだったが、少なくとも現在では彼らは我々について議論している」とのジョージ・ハバッシュ(PFLPの代表者)の発言は、その心性を端的に表現しています。

 こうしたパレスチナ・ゲリラの無差別テロは、次第に、世界各地の反米テロ組織と連携していきました。すなわち、イタリアの「赤い旅団」や西ドイツの「バーデル・マインホフ」、日本赤軍などの極左組織が、共通の敵であるアメリカとイスラエルを攻撃するという一点において利害を共有し、レバノンに集結して破壊工作を展開することになったのです。

 こうした極左組織のメンバーの大半は、ムスリムでもなければ、歴史的な背景についての知識を踏まえ、パレスチナの領土奪還に強い意欲を持っていたわけでもありません。たとえば、1972年5月、テルアビブのロッド空港(現ベングリオン空港)で日本赤軍のメンバー3人が自動小銃を乱射し、24人の死者が出るという事件が発生しましたが、実行犯として逮捕された岡本公三は、イスラエル当局の尋問に対して「映画『栄光への脱出』(イスラエル建国を扱った親イスラエル的な内容の歴史映画)を観て感動したことがあり、イスラエルの民族主義には好意を抱いている」と応え、全世界を唖然とさせています。それでも、日本赤軍にすれば、テルアビブ空港でのテロ事件は、自らの存在を全世界にアピールし、パレスチナ・ゲリラとの連帯を深めるという点において、所期の目的を達するものと自己評価されました。

 また、この事件の記憶が生々しい1972年9月には、ドイツのミュンヘンで開催中のオリンピック選手村でパレスチナ・ゲリラがイスラエル選手団を人質にとって、イスラエル国内に収監されているパレスチナ人200人の解放を要求する事件が発生。銃撃戦の結果、人質全員が死亡しています。

 こうして、あいつぐ無差別テロにより、国際社会はパレスチナ問題へ関心を寄せるようになりました。しかし、当然のことながら、その反応は、パレスチナ難民への同情とはならずに、パレスチナ・ゲリラに対する憎悪にしかならなりませんでした。

 それでも、強硬な反米の姿勢を掲げる彼らに対しては、東側陣営の盟主であるソ連をはじめ、アメリカ帝国主義を不倶戴天の敵とみなす中国や北朝鮮が、貴重な「敵の敵」として、支援を行いました。この結果、さまざまなタイプの共産諸国の兵器が、レバノンの反米・反イスラエルの武装組織に流入し、彼らの軍事力を強化していくことになるのです。


 ★★★ 本日17:00まで! 展示イベントのご案内 ★★★

 第5回テーマティク出品者の会 1月17-19日(金ー日)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク出品者の会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年のバンコク展に出品した朝鮮戦争のコレクションを展示します。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 2014年1月2日より、東京・両国の江戸東京博物館で大浮世絵展がスタートしますが、会期中の1月24日13:30より、博物館内にて「切手と浮世絵」と題するトーク・イベントをやります。

 参加費用は展覧会の入場料込で2100円で、お申し込みは、よみうりカルチャー荻窪(電話03-3392-8891)までお願いいたします。展覧会では、切手になった浮世絵の実物も多数展示されていますので、ぜひ遊びに来てください。

 なお、下の画像は、展覧会と僕のトーク・イベントについての2013年12月24日付『讀賣新聞』の記事です。

大浮世絵展・紹介記事


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は2月4日(原則第1火曜日)で、ついで、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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