内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ニューギニアの戦没者を悼む
2014-07-11 Fri 20:51
 オセアニア歴訪中の安倍首相は、きょう(11日)午前、パプアニューギニア北部のウェワクで、旧日本軍を含む第二次大戦中の戦没者の慰霊碑に献花しました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ミルン湾MC

 これは、1992年、1992年にオーストラリアが発行した第二次大戦50年の記念切手のうち、ニューギニアでの激戦地であるミルン湾上陸作戦の切手を、その戦死者を悼むオーストラリア兵を取り上げた官製絵葉書に貼って記念押印したものです。

 いわゆる太平洋戦争の開戦後、日本側が制海権を掌握し、南方とのシーレーンを確保するためには、委任統治領のトラック(チューク)諸島にあった海軍基地が有効に機能していることが大前提となっていました。そこで、開戦早々の1942年1月22日、トラック防衛のため、日本軍はニューブリテン島のラバウルに上陸し、ここを攻略して前進拠点とするとともに、ニューブリテン、ニューアイルランド、ブーゲンビルなどの島嶼部やニューギニア本島の北岸を占領しました。

 ところが、ラバウルをはじめ、これらの地域は蘭印と隣接するオーストラリア領ニューギニアの中心都市、ポートモレスビーの基地から爆撃圏内にありますので、その安全を確保するためには、ポートモレスビーも押さえておくことが必要となります。

 そこで、1942年5月、日本軍は珊瑚海海戦で海からのポートモレスビー攻略を目指しましたが、これは連合国側によって阻止されました。なお、珊瑚海海戦に参加した連合国の主力は米海軍でしたが、J.C.クレース少将を司令官とする第3群にはオーストラリア海軍の重巡洋艦オーストラリアと軽巡洋艦ホバートも参加していたことは記憶にとどめておいてよいでしょう。

 さらに、1ヶ月後の同年6月、ミッドウェイ海戦で日本海軍は虎の子の大型空母4隻を失い、海からポートモレスビーを攻略することは不可能となりました。

 そこで、日本軍は、ニューギニア島南東端まで600キロの全長があり、標高4072メートルのヴィクトリア山を擁するオーエンスタンレー山脈のジャングルを越えてポートモレスビーを目指すことになります。

 一方、オーストラリアにとっては、ポートモレスビーは本土防衛のための防衛線として、絶対に譲ることのできない拠点でした。また、フィリピンから撤退してオーストラリアを反攻の拠点としていたマッカーサーは、オーストラリアからニューギニアの島伝いに北上して前進基地を確保し、最終的にフィリピンに到達するという基本方針を立てていました。いわゆる「蛙飛び作戦」です。

 このため、珊瑚海海戦と前後して、ポートモレスビーのオーストラリア行政府は多数の現地住民を徴用し、対日戦に備えての軍事関連施設の建設を急ぎます。これに加えて、約3000名といわれる米軍工兵隊も飛行場建設のためにニューギニアに上陸。1942年6月には、マッカーサーがトマス・ブレイミー(オーストラリア軍最高司令官)指揮下のニューギニア部隊司令官であったバジル・モリス少将にブナの確保を命じ、オーストラリア軍第39大隊が派遣されました。

 ブナはニューギニア島の東部北側にある海辺の町で、ポートモレスビーからはオーエンスタンレー山脈(以下、スタンレー山脈)を越えて155キロの地点にあります。さらに、ブナとポートモレスビーの間にあるのが、オーストラリア領ニューギニア唯一の飛行場があったココダです。

 第39大隊の派遣に伴い、オーストラリア行政府は、約800人の現地男性を徴用し、ココダ街道の出発点から中継地点まで食料を運ばせました。また、ブナの近郊では、小型艦艇によって運び込まれた物資を運ぶため、さらに1500人の労働者が徴用され、さらに多くの者がココダ街道沿いで徴用されています。

 高低の差が激しく、人跡未踏のジャングルが広がる中での荷役作業はきわめて過酷でしたが、オーストラリア支配下のニューギニアでは、現地住民がオーストラリア行政府の命に背いて徴用を拒否すれば、厳しい処罰が待ち受けていたため、彼らはしぶしぶ作業を引き受けていたといわれています。仮に、日本の統治下で行われた朝鮮人の徴用を仮に“強制連行”というのなら、オーストラリア行政府がニューギニアでやったことこそ、まさしく“強制連行”にほかならなかったわけです

 こうした状況の下で、1942年7月21日、ついに、日本陸軍第17軍の南海支隊(高知の歩兵第144聯隊と福山の歩兵第41聯隊を主力とし、独立工兵15聯隊などの配属部隊から編成)の先遣隊が、ニューギニア島北岸のバサブアに上陸。スタンレー山脈をめざして進撃を開始し、29日にはココダのオーストラリア軍陣地を占領しました。

 日本軍の上陸とともに、現地住民からなるニューギニア兵の多くが逃亡。彼らの間では、東南アジアを席巻していた日本軍に対してオーストラリア軍には勝ち目がないとの判断が一般的でしたし、さらに、オーストラリア行政府による白人支配に反感を持つ者も少なくなかったからです。実際、ブナ近郊では、それまでのオーストラリア行政府に対する“復讐”として、撃墜された米軍航空兵5名が殺害され、オーストラリアの軍人5名、宣教師6名、民間人4名が捕らえられる事件も起こりました。

 一方、オーストラリア側は、現地住民の徴用をさらに強化することで、補給の拡充をはかろうとします。また、米陸軍航空隊から複数のダグラスDC-3輸送機を確保し、DC-3輸送機は戦線に近いミョーラ地区(元は湖でしたが干上がって陸地になったという地区)に補給物資の空中投下を行いましたが、投下された軍事物資の多くが将兵の手に渡らずにジャングルの中に紛れ込んだか、投下の際に破損してしまったとのことです。

 続いて8月18日には、南海支隊主力がブナに上陸し、ポートモレスビーへむけての進撃を開始。日豪両軍は、8月26日、スタンレー山中のイスラバでついに激突します。迎え撃つオーストラリア軍は、現地住民を動員して堅牢な陣地を築いていましたが、第144連隊は苦戦の後、第41連隊の増援を得て同月31日、ついに、イスラバが陥落しました。

 その後、日本軍は9月2日にギャップ、4日にスタンレー山脈の峠と駒を進め、8日にはエフォギを占領し、13日には、イオリバイワのオーストラリア軍第25旅団への攻撃を開始。イオリバイワからポートモレスビーまではわずか50キロです。

 さて、オーストラリア軍の司令官だったモリスは、イオリバイワへの増援として、2個大隊をもつ第21旅団(旅団長はアーノルド・ポッツ准将)と第53大隊を送るとともに、焦土戦略により、日本軍が期待していた現地での物資補給の芽を摘む戦略を採用しました。過酷な自然条件のスタンレー山中では、時間を稼げば稼ぐほど、日本軍は消耗し、みずから撤退せざるを得なくなるだろうとの判断によるものです。

 実際、日本軍の食糧と武器弾薬はこの頃には枯渇しており、第144連隊は病人が続出する中で、地元の農民の畑から芋をあさり、1人1日1合の粥をすすりながら、敵陣への攻撃を続けていたといわれています。

 この結果、9月16日、イオリバイワがついに陥落。この戦闘での日本側が死者72、負傷者81だったのに対して、オーストラリア軍の遺棄死体は120にものぼりました。

 ここにいたり、マッカーサー司令部は、ポートモレスビー陥落の危険性を本気で危惧するようになります。

 そこへ、新たにニューギニア部隊司令官として着任したシドニー・ラウェル中将が、日本軍は長期にわたる進出とオーストラリア軍の抵抗によってかなり消耗しており、増援部隊が到着しない以上、オーストラリア軍第21ならびに第25旅団で日本軍を撃破することは十分に可能だと主張しました。

 じっさい、この頃にはガダルカナルでの戦闘が始まっており、日本軍がガダルカナルとニューギニアの無謀な“二正面作戦”に突入していたこともあって、ラウェルの状況分析は結果的に正しかったといえます。1942年8月下旬から9月初旬にかけて、ニューギニア島東端のミルン湾において、連合軍が建設した飛行場に対して、日本軍が海軍陸戦隊を上陸させて占領を試みたものの敗退した「ミルン灣の戦い」は、まさに、その予兆ともいうべきものでした。

 しかし、それまで、日本軍の前に敗走を重ねていた(少なくとも、マッカーサーの眼にはそう映っていた)オーストラリア軍に対する司令部の不信感は払拭されず、第21旅団を率いたポッツはもちろん、ラウェル中将も、指揮権を剥奪されてしまいます。

 結局、1942年12月1日、マッカーサーは米陸軍第1軍団の軍団長ロバート・アイケルバーガー少将に、「ブナを奪還せよ、さもなくば生還を許さず」と厳命し、部隊をブナへ派遣。みずからもオーストラリアからポートモレスビーに移って態勢を整え、12月末には、米軍がブナの飛行場は奪取しました。

 そして、翌1943年1月2日、ブナの日本軍守備隊が壊滅。日本軍のラバウル攻略からほぼ1年後の同月21日、米豪連合軍がギルワ陣地を占領し、ポートモレスビーの攻防戦は完全に終結することになります。

 一連の戦闘で、日本側は将兵1万1000名のうち7600名が戦死あるいは戦病死という甚大な損害を受けましたが、オーストラリア軍もマラリアで亡くなる者が続出したほか、第16旅団と第25旅団は激しく消耗し、第30旅団が半減するなどの多くの犠牲を払っています。

 また、日豪両軍は、物資の運搬や死傷者の搬送のために多くの現地住民を動員しましたが、いずれの陣営でも、彼らに対して十分な休養や食事、避難所や医療の給与が与えられることはありませんでした。現地住民の住居は撤退する兵士によって焼かれたり、航空機の機銃掃射を受けたりするなどして破壊されたほか、日豪両軍はともに彼らの畑を襲い、部隊が駐留した地域ではマラリアなどが蔓延しています。

 現在のオーストラリアでは、大戦中のニューギニアの現地住民がオーストラリアに対して献身的に協力したとして、彼らを“黒い天使”と称賛しています。ただし、白人の絶対的優位を信じて疑わない“白豪主義”が社会のパラダイムとなっていた当時のオーストラリアで、一般のオーストラリア国民が“黒い天使”に心から敬意を払っていたのかどうか、僕などはいささか疑問を感じずにはいられません。


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