内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(34)
2015-10-22 Thu 22:04
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』586号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1980年のサウジアラビアについて取りあげました。その中から、この1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      サウジ・岩のドーム(1981・エンブレム)

 これは、1981年1月25日からメッカで皆済された第3回イスラム諸国サミットの記念切手の1枚で、切手に取り上げられたサミットのエンブレムには、両聖都と並んで、第3の聖都としてのエルサレムを象徴するものとして岩のドームもデザインされています。

 いわゆるイスラム暦(ヒジュラ暦)は、預言者ムハンマドがメッカからメディナへ聖遷(ヒジュラ)した年の第1月ムハッラム月1日(西暦では622年7月16日)を紀元とする完全太陰暦ですが、そのイスラム暦15世紀の幕開けとなる1401年は、西暦では1980年11月9日にスタートしました。今回ご紹介の切手の題材となったサミットは、この機会をとらえて、メッカ・メディナのふたつの聖地を管轄するサウジアラビアが主催したものです。

 エルサレムがイスラムにとっても聖地である以上、イスラム暦15世紀の幕開けを祝う切手にメッカやメディナと並んで岩のドームが取り上げられてもおかしくはないのですが、この時期、他のイスラム諸国で発行されたイスラム暦15世紀の記念切手の多くは、メッカのカアバ神殿は取り上げているものの、岩のドームを取り上げてはおらず、その意味では、サウジの切手は他と比べて異質な存在ともいえましょう。

 その背景には、1979年11月に発生したハラーム・モスク襲撃事件の影響で、“イスラムの(聖地の)守護者”としてのサウジの威信が大きく揺らいでいたという事情があったと考えられます。

 ハラーム・モスクはカアバの周りを保護し、カアバに礼拝するためのモスクで、日本語ではしばしば“聖モスク”とも呼ばれています。

 1979年11月20日、聖モスクに巡礼者に交じって輿を担いだ若者の集団が現れました。ムスリムの中には、遺体を埋葬する前に聖地を巡礼させてほしいと願う人も珍しくはなく(メッカ巡礼はムスリムにとって、一生に一度は果たしたい宗教的な義務ですが、実際には、巡礼できないまま生涯を終える人も多いのです)、この若者たちもそのためにやってきたと多くの人々は考えていました。

 ところが、遺体を載せていると思われた輿には、人型に包まれた武器が乗せられており、若者たちはその武器を手に聖モスクを襲撃。礼拝のために集まっていた信徒約1000人を人質に立てこもり、その過程で、抵抗した法学者が殺害されます。

 サウジ政府は、犯人グループの鎮圧を直ちに決意したものの、神聖なモスクの中での武力行使、ましてや、そこに流血が伴うことは、イスラム法に照らして許されるものではありません。したがって、まずは、高位の法学者から、イスラム法に照らしても「聖モスクへの突入やむなし」との見解(ファトワー)を得る必要があり、このため、サウジが犯人グループの鎮圧に乗り出すまでに半日が空費されました。

 翌21日、モスクへの被害を最小限にするとともに、人質の生命を守り、犯人も生け捕りにするようにとの国王の命令の下、サウジの陸軍、国家警備隊、治安警察を計5万人動員しての鎮圧作戦が開始されましたが、武装集団は激しく抵抗し、作戦は遅々として進みませんでした。24日になると、鎮圧側は地上部分を制圧することには成功したものの、武装集団は200以上もの部屋があるモスクの広大な地下に逃げ込み、事態は長期化する様相を見せはじめます。

 ここにいたり、サウジ政府はパキスタン陸軍の特殊部隊に応援を要請。さらに、フランス国家憲兵隊治安介入部隊の隊員から作戦計画の指導を受け、12月4日、ようやく、鎮圧に成功しました。

 武装集団を率いたジュハイマーン・ウタイビーは、1936年、サウジアラビアのカスィーム州の出身。彼の祖父は、もともと、サウジ王制の祖であるアブドルアズズィーズ(イブン・サウード)の組織した屯田兵でしたが、国家建設の過程で国王が異教徒の外国と和平を結んだばかりか、屯田兵たちからも徴税を始めたことに反発。1929年に武装蜂起した結果、シビラの戦いで殲滅されていたという経緯があります。

 そうした父祖の恨みがどの程度あったかは定かではありませんが、ジュハイマーンも当時のサウジ王制に対して、口ではイスラムの盟主を自称し、パレスチナ解放のためのアラブの連帯を唱えながら、実際には、イスラエルの庇護者(とムスリムたちが考える)米国と緊密な関係を保ち、石油収入の莫大な富を独占しているとして、大いに不満を持っていたことは間違いありません。

 また、1979年という年は、対岸のイランでイスラム革命が起きた年でもありました。

 襲撃事件に関与した犯人グループは基本的にはスンナ派で、イランの国境であるシーア派との直接の関連はありませんでしたが、“西でも東でもないイスラム共和国”を標榜して国際秩序に対して根本的な異議申し立てを行い、イスラムに基づく公正な社会の実現を主張する革命イランに感化されている者も少なくありませんでした。そうした犯行グループからすれば、サウジの現王制は、イスラム国家とは名ばかりの腐敗・堕落した存在にしか見えなかったということになるのでしょう。

 結局、ジュハイマーンを首謀者とする犯人グループのうち捕えられた67人は、翌1980年1月9日、公開処刑され、その模様はテレビ中継されています。

 一連の事件に衝撃を受けたサウジ政府は、特殊部隊の育成をはじめとする国家安全保障体制の整備を急ぐ一方で、“反イスラム的”との批判をかわすべく、たとえば、アフガニスタンでの反ソ闘争に対して積極的な支援を行うようになります。特に、サウジ王制に対して潜在的な不満を持っている“原理主義者”たちに、ある程度の資金を与えてアフガニスタンに義勇兵として送り出すことは、サウジ政府にとっては、彼らの批判を封じた上に、自国の領内から彼らを“厄介払い”できるという一挙両得の面がありました。

 いずれにせよ、事件で傷ついた“イスラムの(聖地の)守護者”というイメージを回復するためには、あらゆる手段を使いたかったサウジ政府にとって、イスラム暦15世紀の開幕というタイミングで開催されるイベントやその記念切手に関しては、あらためて、広範なアラブ・イスラム世界との絆を強調するデザインを考案する必要がありました。その際、単にメッカのカアバを取り上げるだけでなく、メディナの預言者のモスクに加え、イスラムにとっての第3の聖都であると同時に、パレスチナとの連帯やアラブの大義の象徴でもある岩のドームを並置させることが、政治宣伝としてはより大きな効果を上げるものと判断されたのも、当然の成り行きだったといえましょう


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