内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(36)
2015-12-16 Wed 09:04
 ご報告が大変遅くなりましたが、『本のメルマガ』592号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1980年代初頭までのギニアについて取りあげました。その中から、この1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニア・パレスチナ人民との連帯

 これは、1981年にギニアが発行した“パレスチナ人民との連帯”の切手です。

 第二次大戦後、アフリカのフランス植民地では民族運動が活発になり、ギニアでも、郵政職員出身のセク・トゥーレが、1947年にアフリカ民主連合(仏領西アフリカおよび赤道アフリカにまたがる植民地横断の連合政党)の支部としてギニア民主党(PDG)を結成し、激しい独立運動を展開していました。

 一方、フランス本国は、1958年に第五共和政憲法を公布し、本国と植民地の関係を、共和国(本国・海外県・海外領土)と共同体構成国からなるフランス共同体に改編し、共同体構成国には、外交・国防・通貨・経済などの権限を除き、大幅な自治を認めることとします。

 同憲法の可否をめぐり、1958年9月25日、仏領西アフリカ全域で国民投票が実施され、ほとんどの仏領諸国はこれを受け入れ、この時点ではフランス共同体内の自治共和国となりましたが、唯一ギニアのみは、賛成5万6981、反対13万6324で新憲法にノンを突き付け、10月2日に完全独立しました。

 この結果に激怒したフランスは、ギニアの独立は認める一方、ギニアとの国交を断絶して一切の援助を停止。そればかりか、植民地時代に建設した道路などの公共インフラを破壊し、官公庁の書類はもちろん、机や椅子、さらには便器にいたるまですべて破壊ないしは持ち去っていきます。

 独立に際して、初代大統領となったトゥーレは「隷属の下での豊かさよりも自由のもとでの貧困を選ぶ」と高らかに宣言しましたが、新生ギニアの国家機能は麻痺状態から出発。豊富な水と地下資源に恵まれていたはずのギニアはあっという間に世界最貧国に転落しました。

 このため、トゥーレはソ連・中国の支援を受けて難局を乗り切ろうと考え、社会主義路線を採択しましたが、非効率的な社会主義路線は、腐敗・汚職の蔓延とも相まって、ギニアの経済状況をいっそう悪化させるだけでした。

 国民の不満に対して、トゥーレはPDG一党独裁下で反対派を徹底的に弾圧するなどの恐怖政治を展開。500万人と言われた人口のうち、200万人がセネガルなど隣国に難民として脱出します。

 しかし、さすがに独立後10年以上も上述のような惨状が続くと、トゥーレも背に腹は代えられなくなったため、一党独裁体制を維持したまま次第に西側諸国にも接近するようになります。そして、1975年にはフランスとの国交を回復し、1979年には当時のフランス大統領ジスカールデスタンの訪問を受け入れました。

 しかし、フランスとの国交回復とジスカールデスタンのギニア訪問は、建国以来の路線を大幅に修正するものとして、独裁者トゥーレの権威を大きく傷つけました。そこで、1978年、トゥーレは国名を“ギニア共和国(République de Guinée)”から“ギニア人民革命共和国(République populaire révolutionnaire de Guinée)”に変更。国名にあえて“人民革命”の語を加えることで、自らの革命路線に誤りはなく、以後もPDGによる一党独裁体制は維持されることをアピールしています。

 今回ご紹介の切手は、こうした背景の下で発行されました。

 さて、ギニアは、フラニ族、マリンケ族、スースー族、クペレ族、キッシ族、ジュラ族など約20の民族で構成されていますが、アラブではなく、アラビア語が日常的に使用されることもありません。

 しかし、ギニアは東側諸国の一員として、1967年の第3次中東戦争後、イスラエルとの国交を断絶していたことに加え、宗教的には人口の85%がムスリムであり、それゆえ、パレスチナの人民と団結して、イスラムの聖地としての“岩のドーム”をイスラエルから奪還せよという主張には、当事者として賛同しやすい背景がありました。

 さらに、この時期、アフガニスタンでのムジャーヒディーンによる反ソ闘争もあって、パレスチナの解放が、ムスリムの宗教的な義務としてのジハードと結び付けられつつあったことも、この切手の背景にあったと見ることも可能かもしれません。ギニアの独裁者として君臨したセク・トゥーレの権威の背景には、サモリ・トゥーレの曾孫という血統上の要因もあったからです。

 サモリは、西アフリカが小国乱立の群雄割拠の状況にあった1830年頃、マンデ人隊商の家に生まれました。23歳の時、コニアの王セレ・ブレマに仕えて頭角を現し、彼を慕う兵士たちを集めて自立。1867年頃から近辺の征服を開始し、“アルマーミ(信仰の擁護者)”を自称して、1881年までには現在のギニア・マリ・コートジボアールにまたがるイスラム国家として、サモリ第一帝国を樹立しました。

 1891年、フランスは西アフリカ植民地化の過程で、サモリ第一帝国西方のトゥクロール帝国を滅ぼし、サモリ第一帝国に対しても大規模な攻撃を開始。これに対して、サモリはジハードを呼号して果敢に抵抗しましたが、最終的に領土を捨てて領民とともに東方へ撤退し、サモリ第二帝国を樹立します。

 サモリの撤退後、フランスはギニア湾沿岸部を中心にした植民地を建設。これが、いわゆる“仏領ギアナ”の原型で、1898年には、サモリ第二帝国に隣接するシカソ(現在はマリ領)を陥落させ、同年9月にはテントの外で礼拝中だったサモリ本人をとらえてサモリ第二帝国を滅ぼし、ギニア支配を完成させました。なお、捕えられたサモリはフランス支配下のガボンに流刑となり、1900年、気管支炎で獄死しています。

 セク・トゥーレは、こうした曾祖父の権威を最大限に活用することで、ギニアでの独裁権力を維持し続けたわけですが、当初、サモリの歴史的な位置づけは“西アフリカ民族独立運動の先駆者”という点が強調されていました。

 しかし、社会主義と結びついた民族独立運動が、結果的に惨憺たる失敗に終わったことで、従来と同じロジックでは、トゥーレ政権の権威を維持し続けることが困難になってしまったため、サモリがアルマーミであり、ジハードを呼号して戦ったイスラム改革運動の指導者であったという面にスポットを当てることで、トゥーレ政権は、サモリと彼に結びつく自らの権威の源泉を読み替えようとしたものと考えられます。イスラムの聖地としての“岩のドーム”の切手も、そうしたプロパガンダの一環として発行されたとみるのが妥当でしょう。

 なお、この切手が発行されてから3年後の1984年、トゥーレは現職大統領のまま亡くなり、その混乱に乗じて、ランサナ・コンテ大佐が無血クーデターにより政権を掌握します。コンテは社会主義路線を放棄し、自由主義経済への転換を目指しましたが、政治の腐敗や経済難は解消されず、現在なおギニア国家の苦境は続いています。


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