内藤陽介 Yosuke NAITO
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 元チャド大統領に賠償命令
2016-07-30 Sat 10:20
 チャドのイッサン・ハブレ独裁政権(1982-90年)下での人道被害を裁くため、アフリカ連合(AU)がダカールに設置した特別法廷は、きのう(29日)、元大統領に対して、被害者1人当たり最高2000万CFAフラン(約340万円)の支払いを命じる判決を下しました。元大統領に対しては、すでに今年(2016年)5月30日、戦争犯罪や人道に対する罪で終身刑判決が下されています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      チャド・ハブレ元大統領

 これは、1984年にチャドで発行されたハブレの肖像切手です。
 
 1960年の独立後、チャドでは、南部出身のキリスト教徒、フランソワ・トンバルバイが初代大統領に就任しましたが、少数派の出身ゆえ国内の政権基盤は脆弱でした。このため、トンバルバイは与党チャド進歩党(PPT)以外の政党を禁止し、一党独裁制を施行するなど、強権的な支配で反対派を抑え込もうとしましたが、これに対して、1965年、南部ゲラ州で大規模な反乱が発生。さらに、1969年にはグクーニ・ウェディひきいる北部のイスラム教徒がチャド民族解放戦線(FROLINAT)を組織して武装蜂起し、チャド国内は内戦に突入します。

 FROLINATが拠点としていたチャド北部のうち、リビアとの国境地帯のアオゾウには豊富なウラン鉱脈があるため、1971年以降、リビアのカダフィ政権はFROLINATを支援して内戦に干渉。1973年にはリビア軍を動員してアオゾウを占拠します。

 一方、1942年生まれのハブレは、幼少の頃から学業優秀であったため、宗主国のフランス植民地省に就職し、軍司令官の推薦を受けてパリの大学に留学していましたが、政治学の学位を取得した後、1971年に帰国し、FROLINATに参加。次第に、FROLINAT内で頭角を現していきました。

 さて、リビアの圧力に屈したトンバルバイは、領土奪還を事実上断念。そして、これに対する国内の不満を抑え込むため、反対派の粛清やヴードゥーへの改宗強制など、従来以上に強圧的な独裁政治を行いましたが、1975年4月13日、軍事クーデターにより失脚。殺害されました。

 クーデター後、フェリックス・マルーム元参謀総長を議長とする最高軍事評議会が政権を掌握。一方、FROLINAT内部はグクーニ派とハブレ派に分裂し、内戦は3派の争いとなります。

 1978年1月、リビアの支援を受けたハブレ派がチャド北部を制圧すると、同年8月、マルーム政権は、ハブレを首相として政権内に取り込みましたが、翌1979年、マルーム派とハブレ派が衝突。このため、周辺諸国の調停により、マルームは辞任。シャワ暫定政権を経て、グクーニが大統領に就任し、ハブレは陸軍相として政権に加わるという妥協が成立しました。

 一般には、これをもって(第1次)チャド内戦はいったん終結したとされています。

 しかし、1980年3月、新政権内の主導権争いからハブレ派とグクーニ派の内戦が再燃。ここに、リビアが介入し、同年12月、リビアの支援を受けたグクーニ派が首都ンジャメナを制圧しました。ところが、ウラン鉱脈を持つチャドにリビアが勢力を拡大することを懸念した米国のレーガン政権は、親リビア派のグクーニ政権を転覆させるべく、ハブレ派を水面下で支援。この結果、事態収拾のため、1981年11月、アフリカ統一機構の平和維持軍がチャドに派遣され、リビア軍が撤退すると、1982年6月にはハブレが大統領に就任します。

 これに対して、リビアはハブレ政権を承認せず、1983年6月、グクーニ派を支援してチャド領内に再侵入したため、米仏とザイールは政府軍を支援して応戦。1984年9月にはフランスとリビアの間で休戦合意が成立し、北緯16度線以北はリビア軍の占領下に置かれました。

 ところが、この結果に不満のグクーニ派が、1986年、リビア軍を攻撃すると、同年12月、政府軍は16度線を越えて進軍し北部チャドを奪回。1987年9月に休戦が成立し、1994年、紛争地アオゾウの帰属は国際司法裁判所の裁定で最終的にチャド領とされました。

 この間、ハブレ政権は反政府勢力に対して、民族浄化など、広範な残虐行為を行い、ヒューマン・ライツ・ウォッチが2001年に発見した政治警察“文書管理・保安局”の文書によれば、1208人が殺されたり拘禁中に死亡したほか、1万1208人が人権侵害の被害を受けたとの記録が残されています。

 1987年の停戦後、ハブレ政権の圧政に対するチャド国民の不満は次第に鬱積していきましたが、1989年4月、ついに、大統領側近によるクーデター未遂事件。この事件で、いったんスーダンに亡命を強いられた政権軍事顧問のイドリス・デビは、リビアの支援を受けて、反ハブレ派を糾合して愛国救済運動(MPS)を結成。1990年12月、首都ンジャメナに侵攻し、ハブレを追放し、デビみずから大統領に就任します。

 その後、デビは現在まで大統領の地位にとどまっていますが、政権が長期化し、その腐敗や圧政が目立つようになると、2004年以降、クーデター未遂や軍幹部・国軍兵士の離反等が相次ぎ、2005年頃より反政府武装勢力の活動も活発化。内政の混乱は解消されていません。

 一方、1990年にセネガルに亡命したハブレに対しては、EUやヒューマン・ライツ・ウォッチにより国際法廷への引渡しが要請され、2006年に引渡しが決まります。これに対して、ハブレの亡命先であるセネガル政府は引渡しを拒否していましたが(このため、2008年にはチャド国内での欠席裁判で、ハブレに対して「国民に対する犯罪」の容疑で死刑判決が下されています)、、2011年、突然、チャドへの身柄送還を発表。これに対して、ハブレの帰国がチャド情勢を不安定化させることを恐れた国連は、ハブレのチャド移送の中止を要請したため、2012年、セネガル政府とAUにより、ダカールに特別法廷が設置されました。

 その後、2016年5月30日に、特別法廷はハブレに有罪を宣告し、人道に対する罪(レイプ、性的奴隷、1982-90年のハブレ政権下での4万人の反体制派への虐殺指示、20万人の反体制派への残虐な弾圧)により無期懲役の判決が下され、これを受けての今回の賠償命令の判決となったというわけです。

 なお、AUは、今回のハブレ裁判に関して、アフリカ大陸で他国の元指導者が有罪を宣告された初のケースとしてその意義を強調していますが、現在のAU議長はハブレの宿敵で現チャド大統領のデビですからねぇ。ハブレ時代の人権抑圧を擁護するつもりは全くありませんが、さりとて、その“意義”を額面通りに受け取るというのも、少なからず抵抗感を覚えますな。


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