内藤陽介 Yosuke NAITO
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 マラカナンの歓喜
2016-08-21 Sun 15:33
 リオデジャネイロ五輪16日目(現地時間20日)は、日本選手のメダル獲得はありませんでしたが、マラカナン競技場でサッカー男子の決勝が行われ、PK戦の末、ブラジルがドイツを下し、悲願の金メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・ペレ1000ゴール  マラカナン・ロッカールーム

 これは、1969年11月28日にブラジルが発行した“ペレ1000ゴール”の記念切手で、マラカナン競技場でゴールを決めるペレの後ろ姿が描かれています。ちなみに、実際にペレが前人未到の通算1000得点を達成したのは、1969年11月19日のマラカナン競技場での対CRヴァスコ・ダ・ガマ戦でした。

 なお、今回、決勝のPKを決めたネイマールも、切手に描かれたペレ同様、背番号10ですが(ついでですので、切手の隣に、マラカナン競技場のロッカールームでネイマールのユニフォームと一緒に撮った写真を並べておきます)、優勝ゴールを決めた瞬間は、切手のペレのように飛び上がって喜ぶのではなく、ひざまずいて涙を流し、その後はピッチに顔を伏せたまま動かなかったのが印象的でした。いずれ、その場面がブラジルの切手に取り上げられる日がくるかもしれません。

 さて、マラカナン競技場は、1950年に行われたサッカーW杯のために建設されたスタジアムで、開設当初の正式名称は“リオデジャネイロ市営スタジアム”でした。1966年、ブラジルのサッカー振興に貢献したジャーナリスト、マリオ・フィーリョの功績をたたえて正式名称は“エスタジオ・マリオ・フィーリョ”と改称されましたが、一般には、マラカナン地区にあることから“エスタジオ・ド・マラカナン(マラカナン競技場)”と呼ばれています。

 地名の“マラカナン”とは、もともとは、先住民トゥピー族の言葉で“鈴のような”を意味する単語で、そこから、鈴のような声で鳴く小鳥の名前となり、その鳥が数多く棲息するリオ郊外の沼地も“マラカナン”と呼ばれるようになったといわれています。

 1855年、競馬の運営会社だった“デルビー・クルービ(英語風の発音ではダービー・クラブ)”は、マラカナンの沼地を買い取って競馬場を建設しましたが、この競馬場はほどなくして経営難から閉鎖されてしまいます。

 その跡地に巨大サッカー・スタジアムを建設しようというプランが持ち上がったのは、ブラジルにサッカーが伝来してから半世紀以上が過ぎた1940年代後半のことでした。

 現在でこそ、ブラジルは質量ともに世界一のサッカー大国ですが、20世紀前半までは、必ずしもそうではありませんでした。

 すなわち、1916年にアルゼンチンの独立100周年を記念して開催された第1回南米選手権では、ブラジルは参加4ヵ国(アルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイ)中の3位。翌1917年の第2回南米選手権でも同じく3位という成績です。その後も、南米選手権に関しては、1919年の第3回大会と1922年の第6回大会では優勝したものの、この間の1920年の第4回大会では、ウルグアイに0-6(現在にいたるまで、南米選手権での最多得失点差での敗戦)を記録しています。

 さらに、1930年7月13-30日、独立100周年を迎えたウルグアイで開催された第1回FIFAワールドカップでは、グループ2初戦のユーゴスラヴィア戦に1-2で敗れ、続くボリヴィア戦には4-0で勝利したもののグループリーグ敗退しています。

 しかし、1930年の第1回W杯で開催国のウルグアイが優勝したことは、1932年の“護憲革命”以降、州を越えた“ブラジル国民”としてのアイデンティティを養い、国民の団結を訴える必要に迫られていたヴァルガス政権を大いに刺激しました。

 すなわち、ヴァルガス以前のブラジルでは、広大な連邦国土を構成する各州の自立傾向が強かっただけでなく、先住民のインディオ、欧州系の白人、黒人(アフリカ系、カリブ系)、日本人・中国人などアジア系、さらにはそれらの混血など、多種多様な民族が集っており、ブラジル国民としての共通項は、ポルトガル語とカトリックくらいしかありませんでした。

 このため、政権はナショナリズムを高揚させる手段としてスポーツを重視しましたが、特に、サッカーが重視されたのは

 ①南米の国でも世界一になれるW杯という具体的な目標がある
 ②サンバ、カポエイラなどの黒人のリズム感覚や身体能力を取り入れた独特の動きがサッカーにとって有効であり、それゆえ、サッカーに勝つという目標の下に人種間の宥和を促進できる
 ③かつてのポルトガル植民地時代以来、多くの国民の間には“マランドラージェン(主人や相手の目をごまかして上手に怠けることが生き残る術であり、上手な生き方であるという価値観)”の気風が染みついていたが、サッカーを通して、彼らが規律や努力を学ぶ教育効果が期待できる

 などの理由をあげることができます。

 かくして、ヴァルガス政権がサッカー振興に熱心に取り組んだ結果、人種や経済階層を問わずにボールさえあればどこでも誰でもできるスポーツとして、サッカーはブラジル国民の間でサッカーが急速に普及し、直線的で素早いパス回しをする欧州勢に対して、“ジンガ”(もともとは“ふらふら歩く、揺れる”という意味のポルトガル語ですが、サッカーでは“しなやかでリズミカルな動き・ステップ”を意味しています)を含む黒人のリズムや身体能力を取り入れた“ブラジル式”サッカーのスタイルが徐々に確立されていくことになりました。

 その結果、1934年のW杯イタリア大会で1回戦敗退だったブラジル代表は、1938年のフランス大会では堂々の3位となります。

 その次の大会は、本来であれば、1942年に開催の予定でしたが、1939年9月に第2次大戦が勃発したことで欧州での開催は不可能となります。さらに終戦直後の1946年の大会も戦争の傷跡が癒えずに見送られてしまいました。

 この間、ヴァルガスは1945年10月の軍事クーデターで大統領の座を追われましたが、彼がレールを引いたサッカーとナショナリズムを結びつける路線はその後も継承され、ブラジル政府は、1950年の大会開催国として立候補し、無競争で1950年6月24日から7月16日にかけてのW杯開催権を獲得しました。

 W杯の開催が決まると、大型スタジアムの建設が必要となります。

 当初の案では、名門クラブ“ヴァスコ・ダ・ガマ”の本拠地だったサン・ジャヌアリオ・スタジアム(1927年建設。収容人員4万)の増築も検討されましたが、1947年11月、作曲家でリオデジャネイロ市議のアリ・バホーゾらがダウンタウンにも近いマラカナン地区の競馬場跡地(デルビー)を市が買い取って新スタジアムを建設する法案を市議会に提出。これが可決され、マラカナン競技場が建設されました。

 完成当初のスタジアムは、ピッチを円形のスタンドが取り囲むという当時では斬新なデザインで、1階席3万、2階席2万5000、3階席10万という巨大なものだったこともあり、“デルビーの巨人”と称されました。また、3階席スタンドの3/4を幅30mの屋根で覆う設計だったが、観客の視界を遮らないよう柱を外側に立てることにしたため、100トンもの重みを支える強度を確保するため、工事も大幅に遅れ、6月24日の開幕に何とか間に合っています。

 開催国として悲願の初優勝を目指していたブラジルは、1次リーグを2勝1分で突破。決勝リーグにはブラジルの他、ウルグアイ、スウェーデン、スペインが進出しましたが、ブラジルは同リーグでスウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で破ってウルグアイとの試合に望みます。

 一方、ウルグアイは、スウェーデンに勝ち、スペインには引き分けて1勝1分の成績でブラジルとの対戦を迎えました。

 運命の1950年7月16日、19万9854人の観客が見守る中、マラカナン競技場で行われたブラジル対ウルグアイの試合では、後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制。この時点で、多くのブラジル国民はブラジルの優勝を確信していましたが、ウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決め、そのまま試合終了。この結果、ウルグアイが3大会ぶり2回目の優勝を達成しました。

 これが、いわゆる“マラカナンの悲劇”です。

 あと一歩で悲願の初優勝を逃したブラジル国民の落胆は大きく、2人がその場で自殺したほか、2人がショック死、20人以上が失神したといわれています。また、当時9歳だったペレは、落ち込む父親に「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と励ましていましたが、はたして、8年後、1958年のスウェーデン大会では、ペレは17歳で代表メンバーに抜擢され、6得点を挙げてブラジルのワールドカップ初優勝に大きく貢献しています。

 その後、ブラジルはサッカー王国として世界に君臨し、W杯5回、南米選手権8回もの優勝を果たしていますが、なぜか、五輪の金メダルだけはこれまで獲得できませんでした。

 また、1950年の“マラカナンの悲劇”の雪辱を期して臨んだ2014年のW杯では、ブラジルははただ準決勝でドイツに1―7で惨敗しており、開催国としてマラカナン競技場で、宿敵ドイツを破ってサッカーの金メダルを獲得することは、今大会での絶対的な使命とされていました。それだけに、今回の優勝は、今後、“マラカナンの歓喜”としてブラジルの歴史に名を残すことになるのではないかと思われます。

 なお、マラカナン競技場とブラジルのサッカーの歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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