内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 きょうから浅草サンバ・カーニヴァル
2016-08-27 Sat 11:28
 きょう・あす(27・28日)、毎年恒例の浅草サンバカーニバルが開催されます。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・カーニヴァル(1991)

 これは、1991年にブラジルで発行された“ブラジル各地のカーニヴァル”の切手のうち、リオのカーニヴァルに繰り出したサンバチーム、“エスコーラ・ヂ・サンバ”が取り上げられています。

 もともと、カーニヴァルは、西方キリスト教会で、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる“謝肉祭”のことで、本来は、パレードもその一環として行われるものです。それゆえ、リオのカーニヴァルは、本来の趣旨に沿って、現在でも毎年2-3月に行われています。

 ところが、1970年代以降、カーニヴァルのパレードが多くの観光客を集めることが注目され、本来の宗教的な意味とは無関係に、参加者が仮装して踊りながら行う大規模なパレードのことを“カーニヴァル”として、観光客の集まりやすい時期を選んでカーニヴァルを行う国や地域が現れるようになります。1981年から始まった浅草サンバカーニバルも、世界的にみれば、そうした潮流の中に位置づけることも可能かもしれません。

 さて、“サンバカーニバル”という名称にみられるように、現在の日本ではサンバとカーニヴァルは一体のものとみられることが多いのですが、リオデジャネイロでサンバとカーニヴァルが結びつくのは1930年代以降のことで、それ以前は、カーニヴァルのパレードで用いられる音楽は、音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流でした。

 音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」が最初の1曲とされていますが、サンバの原型となった舞踏と音楽は、すでに19世紀初めにアフリカのアンゴラ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーア州に持ち込まれていたと考えられています。ちなみに、サンバという語の由来についても諸説あり、アンゴラで用いられていたバントゥ系諸語で“ダンスに誘う”を意味する“Zamba”、“Zambo”、“Zambra”、“Semba”などではないかと推測されています。

 その後、1871年の新生児解放令(同法の施行以降に生まれた者は、両親が奴隷であっても自由人となる)、1888年の奴隷制を完全に廃止する黄金法の施行を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めてリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれました。

 リオに流入した黒人たちが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみの構成による2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興演奏を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパの舞曲であるポルカやマズルカ要素が入り込み、舞踏音楽としてのサンバが生まれました。

 前述の「電話で」はその1曲で、1917年、バイアーノとバンダ・ヂ・オデオンの2ヴァージョンのレコードが発売されてヒットしました。この結果、「電話で」は当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなり、さらなる大ヒットを記録。これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。

 なお、1920年代以降、レコード産業が発展すると、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置く歌謡サンバの“サンバ・カンサォン”等も誕生します。また、サンバが広く浸透することで、カーニヴァルとは無関係に、サロンやダンスホールで行われるペアダンスとしての“サンバ・ヂ・ガフィエイラ”が白人たちの間で流行し、定着していきました。

 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの公式なパレードには中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。

 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれます。

 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。

 1930年、リオではカーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グロボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなり、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがったことで、優れた演出、楽曲が次々に誕生するという結果をもたらしました。

 この結果、ブラジルの他の地域に比べて“リオのカーニヴァル”は次第に突出した存在になり、ブラジル・ナショナリズムの高揚を目指していたヴァルガス政権の下、政治が介入し始めます。

 すなわち、1935年にはリオ市長のペドロ・エルネストが、コンテスト上位4位のエスコーラへの賞金の支給を開始。あわせて、出し物にテーマやナショナルイベントを選択させるようにしたことで、民族的なテーマを持った出し物が登場しました。さらに、1937年以降、カーニヴァルのテーマにも“ブラジルらしさ”が強く求められるようになりましたが、その際、サンバとカーニヴァルの組み合わせは、(当時の)ヨーロッパにはなかった“黒人”という要素を全面的に取り込んでいるものとして、ヨーロッパに対するブラジルの独自性や国家アイデンティティを強調するうえで格好の素材として認識されるようになりました。1939年のカーニヴァルで、白雪姫をテーマに参加しようとしたエスコーラが、“国際的にすぎる(=ブラジルらしくない)”との理由から、参加を拒否されたのはその象徴的な出来事といえましょう。

 浅草サンバカーニバルは、当初は、“サンバ”の様式にとらわれず、さまざまなスタイルのチームが参加していましたが、現在では、リオのエスコーラに倣ったチーム対抗の本格的なコンテストになっています。

 なお、リオとカーニヴァル、サンバの関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。
スポンサーサイト

別窓 | ブラジル:民政移管以降 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<< ケニアで TICAD VI 開催 | 郵便学者・内藤陽介のブログ |  ナミビアの日>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/