内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日ソ共同宣言60年
2016-10-19 Wed 11:16
 日本と旧ソ連の国交を回復し、平和条約締結後に北方領土の歯舞、色丹両島を返還すると明記した日ソ共同宣言が1956年10月19日に調印されてから、今日でちょうど60年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留・タイプ4復片(1956?)  シベリア抑留・タイプ4復片(1956?)裏

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、ハバロフスク近郊で強制労働に従事させられていた日本人抑留者宛に差し出された葉書とその文面です。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ4と分類されているモノの復片です。

 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 ソ連当局が“捕虜”に対して各自の家族に通信することを許可すると発表したのは、終戦後1年以上が経過した1946年9月のことで、同年10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。
 
 また、ソ連側の検閲基準では、反ソヴィエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されており、必要に応じて“問題個所”を検閲担当者が抹消した後、日本宛に送られました。

 スターリン時代の粛清の嵐の中で、秘密警察により、多くのソ連国民が無実の罪を着せられて収容所に送られましたが、そうした人々もまた、収容所内の他人の消息を外部に伝えることが禁じられていました。シベリア抑留の捕虜郵便についても、この規定がそのまま踏襲されたとみてよさそうです。

 抑留者たちが書いた葉書は、内務省沿海地方本部検閲課を経由してウラジオストクから日本宛に発送されましたが、収容所の所在地などを葉書に記載することは禁じられていたため、1949年まではウラジオストク郵便局の、1950年代以降はバロフスク郵便局の私書箱が、差出人の住所として記載されています。

 私書箱の所在地がウラジオストクからハバロフスクに変更されたのは、1949年までに抑留者の帰還がそれなりに進み、1950年以降は収容所の数が激減(ピーク時の1946年に509ヵ所あった極東25地区の収容所は、1950年には15ヵ所となりました)し、そのうちの過半数(1950年の時点では8ヵ所)がハバロフスクに集中していたという実情を踏まえたものと考えられます。

 さて、シベリアに抑留されていた日本人に支給された葉書用紙のうち、タイプ4は抑留末期の1954-56年に使用されたと考えられています。この葉書には裏面に「9月10日発信」との書き込みはありますが、年号の記載はありません。ただし、文中には「日ソ交渉も十月には總理大臣が訪ソして再開する見込みに付き君達の帰国も遠からず実現するものと希待して居ます」との文言があります。これは、1956年10月12日からの鳩山訪ソのことだと思われますので、この葉書は1956年の差出と考えて良いでしょう。

 鳩山が10月19日にモスクワで調印した日ソ共同宣言では、「日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する」としたうえで、「ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる」とうたわれており、これにより、ソ連領内に残されていた日本人抑留者の帰国が実現することになります。

 なお、シベリア抑留者の郵便に関しては、拙著『ハバロフスク』でその概要についてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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