内藤陽介 Yosuke NAITO
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 フィデル・カストロ、亡くなる
2016-11-26 Sat 19:13
 キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が、25日夜、亡くなりました。享年90歳。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。というわけで、彼の肖像切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・CDR65周年

 これは、2013年にキューバで発行された「革命防衛委員会53周年」の記念切手で、演説をする若きフィデルと、老境に入り穏やかな表情となったフィデルを対比させた図案になっています。

 フィデル・カストロは1926年8月13日、キューバ島ビランの裕福な地主の子として生まれました。1950年にハバナ大学法学部を卒業し、弁護士として貧困問題に取り組んでいましたが、1953年7月26日、腐敗が蔓延するフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒すべく、同志165名とともにモンカダの兵営を襲撃しました。

 この蜂起は失敗し、フィデルも逮捕・投獄されましたが、裁判に際して、弁護士であったフィデルは、被告人でありながら自らの弁護を担当し、最終弁論を「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との有名な台詞で締めくくったものの、禁錮15年の判決を受け、ピノス島のモデーロ監獄に収監されました。しかし、彼が獄中で執筆した手記『歴史は私に無罪を宣告するであろう』が密かに出版されると、フィデルらに対する恩赦を求める運動が市民たちの間に広がり、1955年5月、バティスタも渋々ながらフィデルの釈放を認めざるを得なくなります。

 こうして釈放されたフィデルは、再起を期していったんメキシコに亡命。そこで、たまたま、“アメリカ帝国主義からラテンアメリカを解放する”との理想を抱いてメキシコシティに来ていたアルゼンチン出身の青年医師、エルネスト・ゲバラと知り合い、意気投合。こうして、フィデルとチェ(“仲間”を意味するゲバラの愛称)・ゲバラという黄金コンビが誕生し、彼らは、反政府組織“7月26運動(M-26-7)”を軸に、革命運動を展開することになりました。

 彼らは1956年12月、ヨットグランマ号でキューバに再上陸。バティスタ政権の攻撃により同志は一時17名にまで減少しましたが、国内のさまざまな反独裁勢力に支えられて徐々に勢力を盛り返し、1959年1月、バティスタ政権を打倒し、革命を成就しました。

 当初、革命政権の首相は弁護士のミロ・カルドナが就任しましたが、わずか2週間あまりで辞任。2月にはフィデルが首相に就任し、以後、2008年の引退にいたるまで、約半世紀に及ぶフィデルの政権がスタートします。

 革命当初、フィデルは必ずしもソ連型の社会主義国家の建設を志向していたわけではなく、あまりにも極端な富の偏在を是正する“改良主義”の立場に立っていました。
 
 ところが、その“改良主義”の実現に際してフィデルが行った農地改革は、外国人の農場経営の禁止等を法律に盛り込んでおり、米国系資本は大きな打撃を受けることになりました。このため、米国はキューバ政府に抗議し、フィデルがこれを拒絶すると、マイアミから飛行機が飛来し、爆弾を落としていくようになったほか、8月以降、融資停止などの経済制裁を開始します。

 米国との対立を深めていく中で、革命政府は、必然的に“敵の敵”であるソ連との関係を強化せざるを得なくなりました。

 1959年にキューバで革命が起こるまでは、米国の“裏庭”であるラテンアメリカ諸国では、ソ連と外交関係を結ぶことはおろか、経済的な関係を持つことさえタブー視されていました。したがって、キューバがソ連の期待しているような社会主義国家となるかどうかということはさておき、アメリカの“裏庭”に楔を打ち込むためにも、キューバを援助し、恩を売っておくことはソ連の冷戦戦略にとって有益なことでした。

 こうした事態を目の当たりにした米国は、キューバがついに“赤化”したと判断し、革命政権打倒のための経済封鎖に着手。1960年2月、キューバからの果実輸入を禁止するとともに、同年7月には、キューバ最大の輸出品であった砂糖の輸入を停止します。

 もっとも、米国によるキューバの砂糖輸入停止に対しては、米国が買い付けを拒否したのと同量の砂糖をソ連が国際価格で買い取ることを申し入れたため、米国が期待していたような効果を挙げることなく終わりました。これを受けてキューバ政府は、米国を挑発するかのように、「我が国が侵略されるようなことがあれば、ソ連の好意を受け取る以外の道はなくなるだろう」との声明を発表。この声明に激怒した米国は、ついに、実力で革命政権を転覆させることを決意し、8月16日、CIAによるフィデル暗殺計画(毒入の葉巻がフィデルのもとに届けられました)を実行に移します。しかし、この秘密工作は失敗に終わり、同月19日、米国はキューバに対する経済封鎖を発動しました。これに対して、フィデルは米資本の工場や農園を次々に接収するとともに、共産中国との国交樹立とソ連との経済関係の強化を決定。両者の対立はエスカレートしていきます。
 
 こうした状況の下で、9月18日から10日間にわたり、フィデルは国連総会へ出席するためにニューヨークを訪問。この間、米国務省はフィデルの在米中の行動範囲をマンハッタン島内に限ると通告すると、キューバも国連総会の期間中、駐ハバナ米大使の行動範囲を大使館周辺に限定すると通告するなど、両国の激しいせめぎあいが行われました。

 そして、9月28日、帰国したフィデルが革命広場で帰国報告の演説を行っている途中、4発(2発との説もあります)の爆弾が爆発するという暗殺未遂事件が発生。辛くも難を逃れたフィデルは、とっさに事件を逆手に取って、「集団的警備の充実のため」として、“革命防衛委員会”の設立を提案し、これを満場の拍手で承認させています。

 今回ご紹介の切手は、この事件から起算して65周年になるのを記念して発行されたもので、フィデルの写真は件の演説の際に撮影されたものではないかと思います。

 さらに、1961年4月、革命政権転覆を目指すCIAはキューバ侵攻作戦(ピッグス湾侵攻作戦)を発動。作戦は失敗に終わりましたたが、事態を重く見たキューバはひそかにソ連の核ミサイルを誘致しようと考えます。このことが明るみに出て、キューバを舞台とした米ソ核戦争の危機が懸念されたのが、いわゆるキューバ危機でした。

 キューバ危機は、結局、ソ連がキューバの核ミサイルを撤去することで終結したが、その後も、アメリカによる包囲網と対峙し続けるなかで、キューバではフィデルを頂点とする一党独裁体制が構築されていくことになりました。

 ところで、キューバの場合、他の独裁国家で見られるような指導者に対する個人崇拝が見られない点が最大の特色とされています。

 実際、キューバではバティスタ政権時代への反省から、存命中の人物のモニュメントを公式の場に飾ることを禁じる法律も存在しており、フィデル本人も、自身の肖像がTシャツにプリントされたり、絵画に取り上げられたりするのを極点に嫌っていました。現役時代のフィデルの肖像が切手に取り上げられたケースは皆無ではありませんが、毛沢東やホーチミン、金日成・正日父子、サダム・フサインなど、同時代の他の独裁者とくらべると、驚くほど少ないのが特徴でした。

 しかし、イデオロギーを前面に掲げる国家であればあるほど、抽象的な理念に人々を動員するためのイコンが必要となります。そこで、キューバにおいては、フィデルに代わって、ゲバラがその役割を担うことになりました。

 端正なマスクのゲバラは、長髪にベレー帽、ヒゲに戦闘服というスタイルで、革命政府の国立銀行総裁、工業相を歴任し、新生キューバの経済発展のために寝食を忘れて働きましたが、現実の前に革命の理想を曲げることを潔しとせず、キューバの支援者であったソ連に対しても「帝国主義的搾取の共犯者」と名指しで非難するなど容赦ありませんでした。そして、1965年には元勲の地位を捨ててキューバを後にし、家族とも別れ、再び一ゲリラ兵士となってボリビアのジャングルに赴き、捕らえられて銃殺されます。享年39。

 かくして、ハイスクール時代のジョン・レノンに“世界で一番カッコいい”といわしめたゲバラの神話が、英雄の悲劇的な死によって完成。キューバ人写真家アルベルト・コルダが撮影した「英雄的ゲリラ」のポートレイトは、1967年にゲバラが亡くなると追悼写真として紹介され、翌年のフランス5月革命のシンボルとして用いられたことで、いちやく、世界でもっとも有名なポートレイトのひとつとなりました。原写真の撮影者コルダと写真を加工してイラスト化したジム・フィッツパトリックが、ともに、著作権を主張しなかったため、“英雄的ゲリラ”は1970年代に入って西側諸国の学生運動が退潮期に入ってからも盛んに複製され、やがて、ゲバラの思想とは無関係にファッション・アイテムとして定着します。

 こうした流れと呼応するかのように、キューバ政府はゲバラの肖像を革命の理想を体現したイコンとして国中にあふれさせてきました。国家のメディアとしての切手においても事情は同様で、ゲバラの肖像切手はかなりの数が発行されています。特に、ソ連崩壊によって経済的支援者を失った1990年代以降、キューバ政府は世界的に人気のあるゲバラをさかんに切手に取り上げて、外貨獲得の一手段として活用してきました。

 ところが、そうしたキューバの革命神話の構造は、2000年以降、いささか様変わりし、フィデルの神格化が徐々に進行していくことになります。

 すなわち、2000年代以降、さすがのフィデルも年齢からくる体力の衰えは隠せなくなり、演説時に倒れこむ場面も見られるようになりました。このため、後継者問題が急速に現実のものとして浮上しましたが、半世紀にわたってフィデル築き上げてきた国内の権威を簡単に継承できる人物は存在しません。そこで、フィデルの負担が軽減され、彼の権限が少しずつ委譲されるようになると、キューバの国家体制は、フィデルの意思とは無関係に、フィデルを神格化し、行政実務の現場は神官の立場として神の意志を実行するという建前の下でまわしていかざるを得なくなったのでしょう。

 じっさい、フィデルが腸の病で外科手術を受けたのは2006年のことでしたが、その前年の2005年にはフィデルの肖像切手が2種類発行されています。以後、フィデルの肖像切手の発行は事実上解禁され、2008年2月、フィデルが国家元首に相当する国家評議会議長と軍の最高司令官を退任し、1959年の革命以来の同志で実弟のラウルがその後継者となると、フィデルの肖像切手が発行されることも珍しくなくなり、革命50年にあたる2009年にはフィデルの生家とその一帯が歴史博物館として国の文化財に指定されています。

 かつて、「歴史は私に無罪を宣告するであろう」と高らかに宣言したフィデルでしたが、晩年、みずからが急速に歴史上の人物として祭り上げられていくのを目の当たりにしながら、現在、半世紀に及ぶ革命の“成果”(社会主義政策の失敗により、キューバが経済的に困窮していることは万人の認めるところである)を棺の中でどのように総括しているのでしょうか。


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