内藤陽介 Yosuke NAITO
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 サンバ100年
2016-12-16 Fri 12:25
 1916年12月16日、音楽としてのサンバの最初の一曲とされる「電話で(Pelo Telephone)」がブラジルで楽曲登録されてから、今日でちょうど100年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      コパカバーナ・宣伝絵葉書  

 これは、ニューヨークのナイトクラブ、“コパカバーナ”が1950年代末に制作した宣伝絵葉書で、1930-40年代に“ブラジルの爆弾”、“サンバの女王”と呼ばれたカルメン・ミランダをイメージしたフルーツ・ハットの女性の顔が大きく描かれています。

 ニューヨークのコパカバーナは、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸にちなんで名づけられたナイトクラブで、バリー・マニロウの往年のヒット曲『コパカバーナ』は、ここを舞台にした悲恋の歌です。ちなみに、現在、“デヴィ夫人”として芸能活動を行っている根本七保子が働いていた赤坂のクラブ、コパカバーナは、ニューヨークのクラブを真似て作られたものです。ちなみに、ついでですので、今回ご紹介の葉書のイラストの元ネタともいうべき、実際のカルメンの写真を下に貼っておきます。

      カルメン・ミランダ絵葉書

 さて、サンバの原型となった舞踏と音楽は、19世紀初までにアフリカ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーアに持ち込まれました。その後、1888年の奴隷制の完全廃止を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めて、当時のブラジルの首都だったリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれることになります。

 19世紀末以降、リオに流入した黒人たちは、プラッサ・オンゼ(第11広場)と呼ばれる地域を中心に集住。この地域では、“チア”と呼ばれる年配女性の家がアフリカ系の土着信仰の礼拝所にして、ダンスや音楽などの社交場となっていましたが、なかでも、“チア・シアータ”と呼ばれていたイラーリア・バチスタ・ヂ・アルメイダの家には、腕の良いミュージシャンたちが数多く集まっていました。

 当時、彼らが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみで演奏する2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパ伝来のポルカやマズルカの要素が入り込む。「電話で」とサンバは、こうしたチア・シアータでのセッションから生まれた1曲でした。

 さらに、1920年代以降、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置き、ゆったりとしたリズムで男女がペアで踊る“サンバ・カンサォン”が誕生。このサンバ・カンサォンの女王として君臨したのがカルメン・ミランダです。

 カルメンは1909年、ポルトガル北部のマルコ・デ・カナヴェセスで生まれ、翌1910年、リオに渡りました。生まれた時の名は、マリア・ド・カルモ・ミランダ・ダ・クーニャでしたが、オペラ好きの父は、ビゼーのカルメンにちなんで、彼女をカルメンと呼び、それが、後に彼女の通り名になります。

 カルメンは、幼いころから歌と踊りの才能を発揮。10代からラジオ番組のオーディションを受け、パーティーやイベントで歌っているうちに、作曲家のジョズエ・デ・バロスに見出され、1929年、最初のレコーディングを行いました。

 さらに、1933年、ラジオ・メイリング・ベイガと2年契約を結び、サンバ・カンサォンの歌手としてデビュー。さらに、翌1935年には「アロー・アロー・ブラジル」「エストゥダンテス」などの映画にも出演し、女優としても注目されます。1939年の映画『バナナ・ダ・テラ』で彼女が歌った「O Que E Que A Baiana Tem?(バイーア女には何がある?)」は、現在なお、ブラジル音楽のスタンダードとして有名です。

 カルメンの人気に目を付けた米ブロードウェイの劇場主、リー・シューバートは、1939年6月、英語がほとんど話せなかった彼女をニューヨークに呼び寄せました。翌1940年、彼女は『遥かなるアルゼンチン』に出演して成功しましたが、ブラジルでは「米国人の偏見を強調し、ステレオタイプにはめこんで売り出している」として彼女への反感も強く、1940年7月、彼女がリオで行った凱旋公演には容赦のない罵声が浴びせられました。ショックを受けた彼女は楽屋で号泣し、以後14年間、帰国しなかったほどです。

 その一方、米国での彼女の人気はますます高まり、1943年、果物を盛った“フルーツ・ハット”をかぶって出演した映画「ザ・ギャングス・オール・ヒア」で、ハリウッドでの人気は頂点に達する。ギャラも高騰し、年収は20万ドル(現在の貨幣価値で200万ドル以上と推定)にまで跳ね上がります。“フルーツ・ハット”のインパクトは絶大で、その後も、多くのデザイナーが彼女にインスパイアされたフルーツ・ジュエリーを制作するようになりました。今回ご紹介の宣伝絵葉書にも、カルメンを意識したと思しきフルーツ・ハットの女性の顔が描かれていますが、当時の米国人にとっては、“コパカバーナの女神”といえば、やはり、カルメン以外にはありえないということだったのでしょう。

 第二次大戦後は1950年に発表した「ウェディング・サンバ」が全米23位のヒットとなります。この頃になると、ブラジル社会も彼女の米国での成功を素直に祝福するようになっており、1953年10月、彼女が過労で倒れた後、休養のためにブラジルに帰国した際には、人々は温かく彼女を迎え、彼女も1955年4月までブラジルに留まりました。

 しかし、ブラジルから米国に戻った直後の1955年8月5日、カルメンはロサンゼルスでの番組の収録後、ビバリーヒルズの自宅で、急性心臓発作で亡くなりました。享年46歳。彼女の遺体はリオデジャネイロへ戻り、6万人がリオ市役所での彼女の追悼儀式に参加。50万人以上のブラジル国民に見送られて、リオデジャネイロのサン・ジョアン・バティスタ墓地に埋葬されました。

 なお、カルメンのエピソードを含むサンバの歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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