内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(47)
2017-01-18 Wed 10:58
  『本のメルマガ』631号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1985年のアンマン合意について取りあげました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヨルダン・フセイン国王50歳

 これは、1985年にヨルダンが発行した国王50歳誕生日の記念切手で、国王の肖像とともに岩のドームが取り上げられています。

 1983年末のエジプトとPLOの和解を受けて、1984年1月、ヨルダンのフセイン国王は議会を再開し、パレスチナ人の有力者である(イスラエル占領下の)ヨルダン川西岸住民代表の政治参加を制度的に復活させることによって、パレスチナ問題解決への積極姿勢を示します。これを受けて、2月にはアラファトがフセイン国王と会談しました。

 ヨルダンとPLOの関係は、1970年9月、PLO内でファタハに次ぐ勢力を誇っていたゲリラ組織、パレスチナ解放戦線(PFLP)がアラブ諸国とイスラエルとの和平交渉を妨害するため、欧米系航空会社の旅客機5機をハイジャックし、うち3機をヨルダンのドーソン基地に強制着陸させ、爆破・炎上させた“ブラック・セプテンバー事件”を機に断絶していました。

 PLO内で反主流派の突き上げにあっていたアラファトは、ヨルダンとの関係修復という功績により、PLO内の権力基盤を維持しようとしたのでえす。

 一方、パレスチナからの難民を多数自国内に抱えるヨルダンとしては、PLOが自国の体制に脅威を与えない穏健組織となったうえで、自らがパレスチナ和平に向けてのイニシアティヴを握ることが外交上、重要な課題となっていました。

 かくして、アラファトとの会談後、フセイン国王は、1984年3月頃より米国の中東政策への批判を強め、ソ連を含む国際会議の開催を提唱するようになります。

 こうした国王の動きを受けて、当事者であるPLO内部では4月下旬にアラファト派と中間派が和解し、9月15日までにパレスチナ民族評議会(PNC)を開催することなどを定めた“アデン合意”が成立します。ただし、反アラファト派はアデン合意に強く反発し、かえって、アラファト派と反アラファト派の反目は強まりました。

 その後、7月にはソ連が中東和平提案を発表して国連の下での国際会議開催を提唱。9月にはイスラエルで対パレスチナ強硬派のイツハク・シャミール政権に代わり、穏健派のシモン・ペレス労働党党首を首班とする労働党・リクード連立政権が成立したほか、ヨルダンとエジプトが外交関係を再開しています。

 こうして、全体に宥和ムードが漂う中、1984年10月、ヨルダンの首都アンマンで第17回PNCが開催されました。

 議場では、フセイン国王が中東問題の解決に向けてのPLOとの共同行動を進める意欲を示したほか、アラファトも自らの指導体制の再確立を図るとともに、エジプトおよびヨルダンとの関係強化の方針を強調。しかし、PLO反アラファト派は、そもそも、このときのPNCを正規の開催とは認めず、議会を欠席。あらためて、PLO内部の亀裂の深さをうかがわせました。

 その後、PLOアラファト派とヨルダンは“共同行動”の可能性について協議を重ね、翌1985年2月11日、両者の間でいわゆる“アンマン合意”が成立します。

 その骨子は、①国連決議第242号(1967年の第3次中東戦争の戦後処理として、イスラエルに占領地から撤退することを求める一方で、アラブ側にはイスラエルの生存権を認め、イスラエルと共存することを求めている)を履行すること、②安保理常任理事国およびヨルダン、PLOを含むすべての関係当事国の参加する国際会議を開催すること、③ヨルダン川西岸地区でヨルダンとパレスチナの連合政府をつくる、の3点です。

 アンマン合意を受けて、エジプト大統領のホスニー・ムバーラクは、2月25日、米国がヨルダン=パレスチナ合同代表団との対話を開始する→合同代表団とイスラエル代表団との対話を行う→国際会議を開催するという、プロセスを示した“ムバーラク提案”を発表しました。

 当時の米国は、PLOを“テロリスト”と認定し、公式にはPLOとの交渉は拒否していましたから、3月12日、ムバーラクは米大統領のロナルド・レーガンと会談し、米国にPLOを含む合同代表団との対話を開始することの必要性を説いています。もちろん、この時の会談のみで米国がPLOのテロリスト認定を解除したわけではありませんが、4月13日には米国務次官補のロバート・マーフィーが中東諸国を歴訪して、和平プロセスの新たな進展を模索するなど、パレスチナ和平には何らかの進展がみられるかと期待されました。

 今回ご紹介の切手は、こうした情勢を反映して、1985年11月の国王50歳誕生日にあわせて発行されたもので、国王の肖像とともに、1967年までヨルダンの統治下にあった岩のドームをとりあげ、アンマン合意以降、ヨルダンがパレスチナ和平の進展に向けて主導的な役割を果たしていることをアピールしています。

 ところが、肝心のPLO内部では、反アラファト派が国連決議第242号に謳われた“イスラエルの生存権承認”の一項を頑として認めず、調整は難航。結局、アンマン合意から1年後の1986年2月、フセイン国王は合意を白紙撤回し、和平工作の中断を宣言せざるを得ませんでした。

 これにより、ヨルダンとPLOとの関係を完全に断絶したわけではなかったものの、アンマンに開設されたPLOの連絡事務所は閉鎖され、国王は、連合政府構想を撤回したうえで、①西岸地区のパレスチナ人の経済的福祉についてはヨルダンが責任を負う、②ヨルダン政府が実施する5ヵ年計画は西岸地区に対しても適用される、③ヨルダン国会におけるパレスチナ人の議席割り当てを増やす、方針を明らかにします。

 以後、フセイン国王は、イスラエルが存在しているという現実を踏まえたうえで、ヨルダン=パレスチナ=イスラエル3者による統治機構を作り、それによって、西岸地区をPLOから“独立”させ、部分的にせよ、西岸地区に対するヨルダンの主権を回復することを施行するようになりました。

 その後も、PLOはアンマン合意の継続を模索したものの、最終的に、反アラファト派の強硬論に引きずられるかたちで、1987年、アンマン合意を破棄。このように、イスラエルとの共存(=イスラエルの生存権承認)という点で、組織としての意思統一に失敗したPLOに対しては、西岸地区のパレスチナ人の間にも失望の声が大きく、そのことが、やがて、第1次インティファーダの導火線になっていくのです。


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