内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 チャンドラ・ボース生誕120年
2017-01-23 Mon 12:30
 インドの独立運動家、スバース・チャンドラ・ボースが1897年1月23日に生まれてから、今日でちょうど120年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・チャンドラボース生誕100年

 これは、1997年1月23日にインドが発行した“スバース・チャンドラ・ボース生誕100周年”の記念切手です。

 スバース・チャンドラボースは、1897年1月23日、ベンガル州カタク(現オリッサ州)の弁護士の家庭に生まれました。カルカッタ大学在学中、英国人教師の人種差別的な態度に抗議して学生ストライキが発生すると、ボースは首謀者とみなされて停学処分となりましたが、ともかくも同大を卒業。1919年、英国に留学しました。

 1920年、インド高等文官試験に合格したものの、英国の植民地支配に奉仕することを潔しとせずに資格を返上します。翌1921年、マハトマ・ガンディーの“不服従運動”に参加しましたが、ガンディーの非暴力主義には強く反対。1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されマンダレー(ビルマ)に流刑となり、釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたものの、植民地政府の手により免職されました。

 1938年、ガンディーの推薦を受けて国民会議派議長に選出され、インド独自の社会主義“サーミヤワダ”を提唱し、若年層・農民・貧困層の支持を獲得。これに自信を得たボースは、議長はガンディーの指名によって決められるという慣例を破って、議長選挙に立候補し、ガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤに大差をつけて勝利しました。しかし、この結果、ガンディーを支持する国民会議派の多数派の支持を失い、ほどなくして、議長辞任を余儀なくされました。

 議長辞任後の1939年9月、英独開戦を知ると、これを独立運動の好機ととらえたボースは武装闘争の準備を開始。さらに、翌1940年6月、フランスが降伏し、7月にはドイツによる英本土上陸作戦の前哨戦としてバトル・オブ・ブリテンが始まると、ボースはガンディーに対して、反英レジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うよう要求。ガンディーはこれを時期尚早として退けましたが、ボースは大衆デモの煽動と治安妨害の容疑で逮捕されました。

 獄中でのボースは、ハンガーストライキを行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出。アフガニスタン経由で、ソ連に亡命しようとしましたが、アフガニスタン駐在のソ連大使がボースの入国を認めなかったため、1941年4月2日、ベルリンに逃れます。

 ベルリンに到着したボースは、4月9日、ドイツ外務省に対して、インドでの独立派の武装蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃を提案。ドイツ外務省は情報局内に特別インド班を設置し、1941年11月には“自由インドセンター”を創設。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2000人)を結成しましたが、対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立への支持を明らかにすることは和平交渉の生涯になると考え経ていたため、おおむね、ボースらの独立運動には冷淡でした。

 一方、日英開戦が現実のものとして迫りつつあった1941年9月、日本の陸軍参謀本部はアジア各地のインド人の反英闘争を組織化するため、バンコクで“藤原機関”を結成。同年12月、いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまり、日本軍がマレー半島に進攻すると、藤原機関は英軍の中核を占めるインド人兵士への降工作を行い、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って、インド国民軍を編制し、マレー半島西岸の街アロースターで投降してきたモーハン・シン大尉がその司令官に就任していました。

 インド国民軍はインド独立を最終目標と掲げ、白人支配からアジアを解放するためことを大義名分として掲げ、1942年8月には4万2000の兵力を擁するまでに成長しましたが、司令官に就任したシンにはその地位に見合った能力がなく、軍内は混乱。このため、インド独立運動の指導者として声望の高かったスバース・チャンドラ・ボースが招聘されることになります。

 こうして、1943年5月、ボースはドイツから日本に渡り、当時の首相・東条英機からインド独立のための支援の約束をとりつけ、シンガポールに乗り込み、同年7月2日、インド国民軍の総司令官に就任。10月21日にはシンガポールで結成された“自由インド仮政府”の首班に就任しました。

 日本政府は、はやくも同月23日、自由インド仮政府を承認。同政府首班としてのボースは、11月5-6日、日本の戦争目的である“アジア解放”を宣伝するために東京で開催された“大東亜会議”にオブザーバーとして招聘され、日本軍の占領下に置かれていたアンダマン・ニコバル諸島を同政府の統治下に置くことが決定されています。

 ところで、日本占領下のビルマから国境を越えてインドへ進攻しようというプランは、日英開戦後の早い時期から検討されていましたが、1943年11月の大東亜会議でボースがその実施を要請し、首相・東条英機がこれを強く支持したこともあって、1944年3月8日、ビルマとの国境に近いインドの都市インパールの攻略作戦が発動されます。

 日本軍は、インド国民軍とともに、4月29日の天長節までにインパールを攻略することを目標としていましたが、その作戦計画は補給面を軽視するなど杜撰なものでした。このため、日本軍はいったん、インパール近郊のコヒマを占領したものの、ジャングル地帯での作戦は困難を極め、空陸からの英軍の反攻が始まると前線は補給路を断たれて餓死者が大量に発生。最終的に、インパール作戦での日本側の損害は、戦死3万、戦傷4万2000を数え、ガダルカナルの4倍以上の被害を蒙り、惨憺たる結果に終わりました。

 インド国民軍は、その後もイラワジ会戦などで日本軍とともに英軍と戦ったものの敗走を重ねます。さらに、ビルマでは、敗色濃厚となった日本軍の能力を見限ったアウン・サン率いるビルマ国軍が反ファシスト人民解放連盟を組織し、日本軍から離反したため、仮政府とインド国民軍は、日本軍とともにビルマからタイに撤退し、そこで終戦を迎えました。

 日本が降伏すると、ボースは戦後の東西冷戦を見越して、イギリスの“敵の敵”であるソ連に渡って独立闘争への支援を得ようとしましたが、1945年8月18日、移動中の台湾で飛行機事故により死亡。彼の死により、仮政府は自然消滅状態となり、インド国民軍も英軍に降伏しました。

 戦後、英植民地政府はインド国民軍幹部を英国王に対する反逆罪で裁こうとします。しかし、ガンディー率いるインド国民会議派と一般のインド国民の激しい抗議活動にあい、被告は釈放。現在でも、チャンドラ・ボースをはじめとする仮政府幹部はインド独立の志士として、インド国民の尊敬を集めています。

 ちなみに、ことし(2017年)は、インド独立70周年にして日印文化協定発効60周年にあたっていることから、日印両国においてさまざまな交流事業を実施する“日印友好交流年”だそうですから、この機会に、ボースの波乱に満ちた生涯を切手や郵便物でたどってみるのも面白いかもしれません。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。
スポンサーサイト

別窓 | インド:ジャナタ・ダル時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<< 政府資金を持ち逃げして亡命 | 郵便学者・内藤陽介のブログ |  50歳になりました。>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/