内藤陽介 Yosuke NAITO
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 米墨国境
2017-01-27 Fri 12:28
 米国のトランプ大統領は、25日(日本時間26日)、大統領選挙での公約通り、不法移民の侵入を阻止するため、メキシコとの国境沿いに“大型の物理的障壁”を建設するための大統領令に署名しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ地図(1923)

 これは、1923年にメキシコが発行した自国地図の切手で米国(切手ではスペイン語で“ESTADOS UNIDOS”と表示されています)との国境線がしっかりとわかるデザインとなっています。

 現在のメキシコ国家の直接のルーツは、16世紀にメキシコシティを首都として創設されたスペインの副王領“ヌエヴァ・エスパーニャ”にさかのぼることができます。

 “新スペイン”を意味するヌエヴァ・エスパーニャは、もともとは、パナマ地峡以北の新大陸のスペイン領全てを指す概念で、大陸部分では、現在のメキシコの領域に加えて米国南西部(カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの各州)とフロリダ半島にまで広がり、カリブ海諸島や、さらには、フィリピンとマリアナ諸島をも含んでいました。

 1775年に米国独立戦争が勃発し、1776年の独立宣言を経て、1783年には諸外国が正式に米国の独立を承認。大西洋岸の東部13州で独立した米国でしたが、1803年にフランスからルイジアを購入すると、米国とヌエヴァ・エスパーニャとの国境を画定する必要が生じます。

 当時のスペイン側の認識では、ルイジアナのうち、ミシシッピ川西岸とニューオーリンズ市はスペイン領と考えていましたが、米国側はロッキー山脈の稜線までが自分たちの購入した土地だと考えていました。このため、東西はカルカシュー川(アロヨ・オンド)とサビーン川の間、南北はメキシコ湾から北緯32度近辺までは、当面、どちらにも属さない中立地帯(ルイジアナ中立地)とすることで決着が図られました。また、米国はスペインからフロリダを購入したいと希望していましたが、スペイン側はこれを拒否し続けてきました。

 ところが、19世紀初頭のナポレオン戦争と、その余波としてのラテン・アメリカ諸国の独立運動により、スペインは疲弊し、本国から遠く離れたフロリダの維持が困難になります。そこで、1819年、米西間でアダムズ・オニス条約が結ばれ、米国がフロリダとルイジアナを得て、それ以西のテハス(英語名:テキサス)からカリフォルニアまでをスペインの領土とする形で、国境が確定されました。この境界線は、1821年にメキシコが独立すると、基本的には米墨間でも継承されます。

 さて、1821年のメキシコ独立前後から、米国からテハスへのアングロサクソンの移民が大量に流入。メキシコ政府は1830年には米国人の新規移住を禁止したものの、その後も米国からの“不法移民”の流入は止まず、1832年の時点では、テハスの人口のうち、独立以前からのメキシコ人住民の人口比率は14%にまで落ち込んでしまいます。

 こうした状況の下で、1835年、メキシコ大統領アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが1824年憲法を廃止して、中央政府の権限が強い憲法を宣言すると、メキシコ各地でこれに反対する叛乱が発生。テハスでも、米国からの移住者たちがメキシコ中央政府からの分離独立を唱えて叛乱を起こしました。

 叛乱側は、1836年2-3月のアラモ砦の攻防戦で守備隊が全滅する敗北を喫したものの、3月21日のサン・ハシントの戦いでは、大統領を辞しメキシコ軍総司令官となっていたサンタ・アナを捕虜とし、ベラスコ条約を結んで“テキサス共和国”の独立を承認させました。

 さて、テキサス共和国はリオ・グランデをメキシコとの国境と主張していましたが、メキシコ側はより北側のヌエセス川を国境と主張しており、対立がありました。また、テキサス共和国内では独立当初から米国との統合を求める声が強かったものの、米議会には併合慎重派が少なくありませんでした。ところが、1844年の米大統領選挙で、テキサス併合を公約に掲げるジェイムズ・ポークが当選。1845年2月、米議会は「1846年1月1日までにテキサス共和国が併合を承認すれば、州として連邦への加盟を認める」とする決議を採択します。

 これを受けて、テキサス議会は米国への併合に同意。1845年12月、米大統領ポークはテキサスを合衆国の州として受け入れる法案に署名。こうしてテキサスを併合した米国は、その西側の領土の買収もメキシコに持ちかけましたが、メキシコはこれに猛反発します。

 こうした状況の下、1846年春、米国務省の命を受けた探検家のジョン・フレモントがロッキー山脈からコロンビア川に到着する最短ルートを求めてカリフォルニア(当時はメキシコ領)に到着。探検の継続をめぐってメキシコの上カリフォルニア軍事総督と対立したフレモントは、地元の入植者を扇動してメキシコ当局に対して反乱を起こさせます。これが、カリフォルニアにおける米墨戦争の発端となりました。

 さて、戦争は、終始、米国優位で進み、1847年9月には首都メキシコシティが陥落。翌1848年2月に結ばれたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコは、リオ・グランデ以北、テキサスからカリフォルニアまでの広大な領土をわずか1500万ドルで米国に売却します。

 しかし、さすがにこの金額は安すぎるとして批判も強かったため、1853年、米国は、メキシコに対する金銭保証の意味を込めて、現在のアリゾナ州南部およびニューメキシコ州にあたる地域を1000万ドルで購入。これにより、今回ご紹介の切手に描かれたような米墨国境が画定しました。

 こうして確定された現在の米墨国境線は、日本列島とほぼ同じ長さの約3200km になりますが、2001年の同時多発テロを機に、国境にはフェンス建設が進み、現在、全体の3分の1の約1126km (700マイル)に高さ約5m の鉄柵が築かれています。これに対して、トランプ大統領の構想では、万里の長城(高さ6-9m)より高い12m のコンクリート壁を国境線のすべてに設置しようというものです。

 建設費は最大で250億ドルで、米メディアの試算によるとは、4万人が建設にあたっても完成までに4年かかるのだとか。さらに、国境警備隊員が5000人、入管当局者が1万人増員されるほか、建設後は壁の維持費も必要となります。

 トランプ大統領は、選挙期間中から、“壁”の建設費用をメキシコに負担させると主張してきましたが、当然のことながらメキシコ側は壁の建設そのものに反対し、建設の支払も断固拒否する姿勢を示しています。(ただし、メキシコ側も米国への不法移民の流出を防ぐために、何もしなくていいということにはならないと思いますが…)

 このため、両国関係を主復するため、今月31日にはメキシコのペニャニエト大統領が訪米し、首脳会談も計画されていましたが、トランプ大統領が「国境沿いの壁の建設費用を負担する用意がないなら、首脳会談は取り止めるべき」と発言したことことから、首脳会談は中止されてしまいました。

 そこで、米国側では、メキシコからの輸入に20%の“輸入税”を導入し、年間100億ドルを捻出するプランが浮上しているとのことですが、こちらも、輸出補助金を禁じた世界貿易機関(WTO)協定にも違反する可能性が指摘されています。

 また、仮に建設資金の目途がついたとして、米墨国境沿いの土地は大半が私有地で、所有者の中には建設反対派も相当含まれていますから、壁を建設するための土地を確保するのは容易ではないでしょう。さらに、米墨間の自然国境となっているリオグランデの周辺では、洪水管理を妨げたり、資源の共有を妨害したりするものの建築が法律で禁じられているほか、米墨どちらの国も川の流れを変えることも条約で禁じられていますので、設計には様々な制約が課されることになります。

 “トランプの壁”は、これらをすべてクリアしていかねばならないわけで、そう考えると、実現に向けてのハードルは相当に高そうですな。


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