内藤陽介 Yosuke NAITO
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 モロッコ、AU に(再)加盟
2017-01-31 Tue 22:03
 アフリカ連合(AU)は、きょう(31日)、エチオピアの首都アディスアベバでの首脳会議を開き、西サハラ問題をめぐって30年以上対立が続いていたモロッコの加盟を承認しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モロッコ・OAU10年

 これは、1973年5月25日にモロッコで発行された“アフリカ統一機構10年”の記念切手です。

 1961年の時点で、アフリカの新興独立諸国は、急進派のカサブランカ・グループ(モロッコのほか、エジプト、ガーナ、タンガニーカ、ギニア、マリと、独立戦争のさなかにあったアルジェリアのアルジェリア共和国臨時政府が参加)、旧仏領諸国の穏健派を中心としたブラザヴィル・グループ、そして、両グループのいずれにも属さないモンロヴィア・グループの3つの勢力に分かれていましたが、こうした中で、旧ベルギー領から1960年に独立したコンゴでは、当初から熾烈な内戦が展開されていました。東西両陣営が内戦諸派を支援していたということもあり、アフリカ諸国間の対立が大国の直接的な武力介入を招くことを懸念したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエは、汎アフリカ主義の旗手であったギニア大統領セク・トゥーレらとともに、アフリカ諸国の連帯・団結により、政治的・経済的発言力を強化するとともに、植民地主義と戦うことを目的とした国際組織の樹立に向けて動き出しました。

 こうして、1963年5月26日、エチオピアの首都アディスアベバにアフリカ諸国の首脳が集まり、所期の目的を達するための国際組織として、アフリカ統一機構(OAU)が設立され、モロッコもこれに参加しました。

 ところで、モロッコとモーリタニアは、いずれも、OAUが結成された1963年以降、スペイン領西サハラに対する領有権を主張していましたが、1975年10月、国際司法裁判所は、モロッコおよびモーリタニアのいずれも西サハラに対して領土権を有しないとして、その要求を退けています。これに対して、1975年11月、モロッコ国王、ハサン2世の号令一下、35万人の非武装のモロッコ人が越境大行進を行い、西サハラを実効支配する“緑の行進”が行われ、モロッコは西サハラが“自国領”であることを改めてアピールしました。

 翌1976年、スペインは西サハラの領有を断念し、西サハラはモロッコとモーリタニアが“再統合”することになりましたが、これに対して、スペイン領時代の1973年から独立運動を続けていたサギア・エル・ハムラ・リオデオロ解放戦線(ポリサリオ戦線)は、アルジェリアの支援を得て両国に対する武力闘争を開始。さらに、1976年2月27日、アルジェでサハラ・アラブ民主共和国(SADR)の樹立を宣言します。

 アルジェリアの支援を受けたポリサリオ戦線の攻撃に対してモーリタニアは敗走を重ね、1978年にはクーデターで政権が崩壊。1979年にはモーリタニア政府はポリサリオ戦線と単独和平協定も締結されました。

 こうした中で、同年、OAUは、西サハラの住民が自決への権利を行使できるように住民投票の実施を呼びかけます。また、OAU加盟50ヵ国(当時)中、過半数の26ヵ国が1982年までにSADRを承認しました。

 西サハラ問題での国際的な圧力が強まる中、1981年6月に開催されたOAU首脳会議で、ハサン2世は西サハラで独立かモロッコへの帰属かを問う住民投票を行う意思があると表明。その背後には、住民投票の実施までに膨大な数のモロッコ人を西サハラに移住させ、あくまでも“民主的”な自由投票の結果、西サハラはモロッコに帰属するという結論を導き出そうという意図があったことは言うまでもありません。

 ハサン2世の提案を受けて、8月にケニアのナイロビで開催されたOAUの実務者委員会は、西サハラでの停戦と国連PKO部隊の派遣、OAUおよび国連の監視下で住民投票を行うまでの暫定統治機関の設置などを提案します。

 ここまでは、モロッコとしても予想の範囲内でしたが、翌1982年2月、エチオピアのアディスアベバで開催されたOAUの理事会では、当初の議事予定になかったSADRの加盟問題が取り上げられ、賛成多数でSADRの加盟が電撃的に承認されてしまいました。

 当然のことながら、住民投票の実施以前にSADRを独立国として扱い、モロッコによる西サハラ支配を全面的に否定するような決定に対して、モロッコは激怒し、モロッコに近い17ヵ国とともに、直ちにOAUの理事会を退席。さらに、1982年のOAUの年次総会は、8月にリビアのトリポリで開催される予定でしたが、上述のモロッコを含む18ヵ国に加え、リビアと対立していたエジプト、チャド(北部の内戦にはリビアが関与していた)が早々に欠席を表明します。

 当時のOAUの規定では、総会は(議長国を除き)加盟国の3分の2以上の出席をもって成立することになっていましたから、加盟50ヵ国中、最低でも(議長国を除き)30ヵ国の出席が必要でした。したがって、20ヵ国が欠席した時点で総会は成立しません。そこで、OAUは、当初の予定を延期して11月にも再度、総会を招集しましたが、やはり、定足数を満たすことができず、流会となりました。

 1982年の総会が流会となったことを受け、1983年6月、アディスアベバで開催されたOAU総会は、SADRの総会出席資格を一時的に停止するという便法を使うことで、何とか流会を免れます。その後、あらためて、同年12月、翌1984年9月に西サハラで住民投票を実施すべく実務レベルの協議が再開されたのですが、1984年2月には、長年、モロッコと共にSADRの存在を否認し続けてきたモーリタニアが、ついにSADRの独立を承認。西サハラ問題でモロッコは孤立してしまいます。

 これを受けて、強行突破でSADRを総会に参加させてしまえば、モロッコも妥協せざるを得ないとにらんだOAUは、同11月12日、アディスアベバで開催された総会にSADR代表の出席を認めました。

 しかし、たとえ最後の一国になろうとも、絶対にSADRの存在は認めないとのモロッコの決意は固く、モロッコは直ちにOAUを脱退。その後、OAUは2002年にアフリカ連合(AU)へと発展的に改組されましたが、モロッコはAUへも参加を拒否し続けてきました。しかし、2016年9月23日、SADRの独立は認めないという立場は維持したまま、モロッコはAUへの加盟を申請。今回、33年ぶりの(再)加盟が実現したというわけです。


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