内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 ルーマニアで革命以来の大規模デモ
2017-02-02 Thu 14:50
 ルーマニアで、きのう(1日)、汚職を免罪する緊急命令を発令した政府への抗議デモが全土で30万人にまで拡大し、1989年にニコラエ・チャウシェスク大統領の社会主義政権を打倒したデモ以来、最大の規模となったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・1989年革命(ブカレスト)

 これは、1990年、1989年革命1周年を記念してルーマニアで発行された寄附金つき切手で、首都ブカレストでのチャウシェスク政権に対する反政府デモのようすが描かれています。

 社会主義経済が破綻していたルーマニアのチャウシェスク政権は、起死回生の策として、1988年3月、“農村再編計画”を発表。生産を高めるためとの名目で、農地整備のためにトランシルヴァニアを中心に8000もの村落を破壊し、農民を強制移住させようとしました。

 当然のことながら、“農村再編計画”は国民、なかでも、強制移住の対象者が多かったハンガリー系(当時のルーマニアの人口の27%を占めていました)の猛反発を招き、体制に絶望したハンガリー系住民のハンガリーへの逃亡が続出。ハンガリー政府もルーマニアの政策を人権侵害として国連人権委員会に提起するなかで、ラースロー・テケシュという一人のカルヴァン派牧師の存在がにわかにクローズアップされていくことになります。

 テケシュは1952年生まれ。最初の任地であったデジュで当局の意向に反してハンガリーの文化と歴史を講じて解職され、2年間のブランクの後、1986年、ティミショアラに赴任しました。

 ティミショアラでの彼は、次第に体制批判の度を強め、ハンガリー系のみならずすべての抑圧されたルーマニア人のための人権擁護運動を展開し、幅広い支持を集めるようになります。これに対して、テケシュの行動を苦々しく思っていたルーマニア政府は、1989年7月、厄介払いの意味も込めて、彼の申請を受理してハンガリー行きの旅券を発給しました。

 出国したテケシュはハンガリーでカナダのテレビ局のインタビューを受け、トランシルヴァニアのハンガリー系住民の苦境について語り、そのインタビューがハンガリーで放映されると、大きな話題となりました。

 当然、テケシュはそのままハンガリーに亡命するものと思われていたのですが、予想に反して、ルーマニアに帰国してしまいます。

 その後、テケシュの元には毎日のように脅迫状が舞い込み、9月には支持者が謎の“自殺”に追い込まれました。さらに、治安当局は彼を12月15日限りでティミショアラからの退去と北部の寒村、ミネウへの強制移住を命じます。

 これに対して、ティミショアラからの強制退去期限の12月15日が近づくと、その数日前から、彼を守ろうとする信者たちが教会に泊まり込むようになりました。そして、15日の当日はさらに多くの信者や市民が集まって教会を取り囲み、出動した治安警察部隊に激しく抗議します。さらに、翌16日、期限切れを理由に治安警察がテケシュを連行しようとすると、ついに市民の怒りが爆発。多数の市民が市内中心部に集まり、共産党ティミショアラ県委員会本部がある市役所に乱入して、書類を破り、チャウシェスクの肖像画を窓から投げ捨て、街路で火をつけるなど、ティミショアラは騒乱状態となりました。

 報告を受けた党政治執行委員会は緊急会議を招集し、チャウシェスクは治安警察部隊に実弾を供給していなかったとして、ヴァシレ・ミレア国防相とトゥドル・コスタニク内相、ユリアン・ブラッド秘密警察長官(内務副相)の三人を厳しく叱責。「党の建物に侵入した者を生きたまま帰すな」と厳命します。

 さらに、17日、チャウシェスクはティミショアラに内務省秘密警察、国境警備隊、治安警察の応援部隊を派遣し、市内中心部のオペラ劇場付近に集まっていた市民に対して自動小銃や装甲車の車載銃などで発砲。多数の死傷者が生じ、大聖堂正面の階段は、堂内に逃げ込もうとしたものの、背後から治安部隊の銃弾を受けた子供たちの鮮血で赤く染まりました。こうして、“暴徒”を鎮圧したチャウシェスクはすっかり安心し、予定通り、翌12月18日から外遊先のイランへと旅立ちます。

 一方、治安部隊の発砲によりティミショアラで多数の犠牲者が出たという情報は、ただちにVOA(アメリカの声)などによって全世界に伝えられました。ルーマニア国内では事件についての報道はなく、首都ブカレストも表面的には平穏を保っていましたが、17日の流血事件の情報は口コミでルーマニア国内を駆け巡り、ブラショフ、アラド、シビウ、クルージュなどでも暴動が発生。翌19日にはルーマニア全土に非常事態宣言が布告されました。

 チャウシェスクは20日にイランから帰国し、情勢報告を受けると、国営ルーマニア放送のテレビを通じて演説をおこない、発砲は“暴徒”鎮圧のためにやむを得なかったと説明。しかし、ティミショアラの市民や犠牲者たちを“フーリガン”“外国のスパイ”と非難した彼の演説は、結果的に、多くの国民の猛反発を買います。

 そして、21日、チャウシェスクはブカレスト中心部の勝利広場で官製集会を開きましたが、群衆の中から「チャウシェスク打倒」、「ティミショアラ」の野次が飛び、爆竹が炸裂し、演説を中断。翌22日、全土に戒厳令を発し、軍に治安回復を命じましたが、軍は命令を拒否し、かえって装甲車で大統領官邸のある共和国広場に押し寄せてきました。ここにいたり、チャウシェスク夫妻は党本部からヘリコプターで脱出。独裁政権は崩壊しました。

 さて、今回の大規模デモは、昨年12月の選挙で政権を奪還した社会民主党(PSD)ひきいるルーマニア政府が、先月31日夜、一部の汚職犯罪について免罪するとの緊急命令を出し、汚職による損失額が4万4000ユーロ以上だった場合のみ収監対象とすると宣言したことに対して、現在2万4000ユーロの汚職容疑で起訴されているPSD党首のリビウ・ドラグネアを救済しようとする意図が露骨だとして、抗議活動が広がったもので、首都ブカレストでは、昨晩、一部のデモ参加者がペットボトルや爆竹、石などを治安部隊に投げつけ、治安部隊側が催涙ガスで応酬。警官とデモ参加者、合わせて数人が軽傷を負う騒ぎになったそうです。

 なお、1989年のルーマニア革命については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。
スポンサーサイト

別窓 | ルーマニア:民主化以後 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<< 羅刹の王 | 郵便学者・内藤陽介のブログ |  沢村栄治100年>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/