内藤陽介 Yosuke NAITO
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 泰国郵便学(47)
2017-02-21 Tue 15:08
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第1号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・ムエタイ(1975年・肘打ち)

 これは、1975年5月20日に4種セットで発行されたムエタイ(ムアン・タイ)の切手のうち、肘打ちの場面を取り上げた2バーツ75サタン切手です。ムエタイが切手に取り上げられたのは、1966年12月9日、バンコクで開催された第5回アジア大会に合わせて発行された「タイの伝統競技」の切手(の1種)以来、これが2度目のことでした。

 さて、今回ご紹介の切手が発行された1975年は、ムエタイならびにタイの国際式ボクシング(我々が通常イメージするボクシング)における不世出の天才、センサク・ムアンスリンの黄金時代の幕開けにあたっており、そうした国民的英雄の登場が切手の発行にも少なからず影響を及ぼしていたと考えるのが自然なように思われます。

 センサク・ムアンスリン(本名ブンソン・マンシリ)は、1951年8月13日、ペッチャブーン県生まれ。ムエタイ選手だった兄の影響を受けてムエタイを始め(階級はジュニア・ウェルター級)、18歳でデビューした頃は初めの10試合で7敗するなど、あまり目立った選手ではありませんでしたが、その後は順調に白星を重ねて、ルンピニー・スタジアムのスーパーライト級チャンピオンとなり、68戦59勝(55KO)9敗の戦績を残しました。

 この間、ムエタイ王者として来日し、日本のキックボクサー、玉城良光(後の全日本ライト級王者)と戦い、3回KO勝ちを収めています。この時の試合で、センサクはパンチの得意な玉城を膝蹴りで一蹴。玉城はダウンしなかったものの、レフェリーが即座に試合を止めました。試合続行を望む玉城は、当初、この判定に不服でしたが、試合後、身体の異変を訴えて病院に直行。内臓破裂ですぐに緊急手術を受けています。後に、玉城は「まだやれる!と怒ったが、経験豊富なレフェリーの判断は正しかった。もう一発もらっていたら、命はなかった」と語っています。

 その後、93%という驚異的なKO率、しかも、その半分以上がパンチによるものであったことから、センサクは周囲の強い勧めを受けて国際式ボクシングに転向。まずはアマテュアとして1973年9月、シンガポールで開催された東南アジア競技大会では5試合すべてでRSC(レフェリー・ストップ・コンテスト。プロボクシングのTKOに相当)勝ちを収めて金メダルを獲得。その実績をもとに、1974年、国際式のプロボクサー(ジュニア・ウェルター級)に転向しました。

 デビューに際して、センサクのマネージャーは3戦で世界チャンピオンとなることを宣言。11月7日、いきなりWBC世界ランキング6位のルディ・バロ(フィリピン)と対戦し、1回KO勝ちを収める衝撃のデビューを果たしています。

 さらに、1975年2月16日、第2戦でWBC世界ランキング2位のライオン古山(日本)と戦い、7回、左フックで古山をグラつかせて連打し、レフェリーストップのTKO勝ち。そして、同年7月15日、WBC世界王者のペリコ・フェルナンデス(スペイン)と対戦し、8回、TKO勝ちを収めて公約通り、わずか3戦目で世界王者となり、いちやく、タイの国民的な英雄となりました。

 近代スポーツとしてのムエタイのルールが整備されたのはラーマ6世時代の1920年代のことでしたが、1932年の立憲革命後、タイのナショナリズムが強調され、タイは後進国ではなく、文化的に優れた民族の国であることを内外にアピールすることが要請されていく中で、ムエタイも、タイ独自の“伝統文化”として国軍を中心に奨励されるようになりました。

 すなわち、1935年以降、国軍がスアン・チャオチュートでのムエタイ興業をプロモートしたほか、1937年には教育省体育局が「ムエタイに関する規定」を策定して正式に“国技”として指定。さらに、1945年12月に王室の出資でラーチャダムヌーン・スタジアムが作られ、1956年にはルンピニー公園近くの陸軍所有地にルンピニー・ボクシング・スタジアム(陸軍が運営する株式会社の創業は1953年)がオープンします。これらは、いずれも、ムエタイが単なる娯楽ではなく、タイの国技にして文化であることを強調するための施策でした。

 こうしたこともあって、1970年代までには、ムエタイはタイの国技であるとの認識が国民の間に深く浸透します。1972年、日本の野口ジムがバンコクで“キック・ボクシング・ジム”を開設した際、その名称がタイの国技を侮辱したものであるとして国民の反感を買い、抗議集団による襲撃事件が発生。ジムの閉鎖を余儀なくされたという事例は、タイ社会におけるムエタイの地位を雄弁に物語っているといえましょう。

 名実ともにムエタイの王者として君臨していたセンサク・ムアンスリンが国際式ボクシングに転向するや、たちまち東南アジア競技大会で圧倒的な強さを示して優勝したのは、上述の野口ジム事件の翌年、1973年のことでした。このことは、ムエタイを国際式ボクシングの亜流であるかのように見なした(と少なからぬタイ人が理解した)事件の屈辱を晴らす、痛快な事件だったに違いありません。

 1975年に発行された切手の企画は1974年中に決められていますが、その過程で、身をもって国際式に対するムエタイの優位を示したセンサクを意識して、ムエタイ・シリーズも立案されたものと推定できます。

 なお、当時のタイの切手は日本の大蔵省印刷局で製造されることも多かったのですが、1975年のムエタイ切手はフィンランドのフィンランド銀行印刷局に印刷が委託されています。ただし、そこに、野口ジム事件の影響があったか否かは定かではありません。

 なお、センサクは、1976年1月25日、ライオン古山の挑戦を退けて王座を防衛しましたが、同年6月30日、スペインでミゲル・ベラスケスに敗れて王座から陥落。ただし、この時の対戦は、センサクがダウンを奪うなど一方的にリードしていたところ、4回終了間際のラッシュ中にゴングが鳴り、その直後にセンサクのパンチがベラスケスに入ってベラスケスがダウンしたことから、センサクが反則負けとみなされたものでした。そこで、センサク陣営は「力の入ったパンチではなく、偶然に緩いパンチがゴング直後にかすっただけで、観客の声援が大きすぎてゴングも聞き取れなかった」とWBCに訴え、4ヶ月後の再戦ではセンサクがベラスケスを下して王座に返り咲いています。

 ちなみに、ムエタイ出身のセンサクは国際式の試合でもムエタイの癖が抜けず、前蹴りが出そうになっただけでなく、左ジャブをわざと外して相手の首を巻くように上から押さえつけ、すかさず右を叩き込んだり、フックの打ち終わりに肘を当てたりする(今回ご紹介の切手には、まさに、肘打ちの場面が取り上げられています)など、ムエタイの技を応用した“反則”が巧みでした。

 センサクはタイトルを7度防衛したが、1978年12月30日、金相賢(韓国)に13回KOされ陥落。以後、王座を回復することはなく、1981年4月5日、OPBF東洋太平洋J・ウェルター級王者の黄忠載(韓国)と対戦し、12回判定負けとなったのを最後に引退しました。国際式ボクシングでの通算成績は20戦14勝(11KO)6敗。

 引退後は、試合の後遺症で右目を痛めたこともあって生活が荒み、現役時代に結婚した元女優の妻とも離婚。周囲に担ぎ上げられ選挙に出馬するも落選し、経済的にも不遇のまま、2009年4月16日、バンコク市内の病院で亡くなりました。


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