内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ダッハウの門扉返還
2017-02-23 Thu 22:02
 ドイツ南部のダッハウ強制収容所跡から2014年11月に盗まれ、昨年12月、ノルウェー南西部のベルゲンで発見された“働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)”の文言の入った鉄製の門扉の返還式典が、きのう(22日)、ダッハウの収容所跡で行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ダッハウ・1939年

 これは、1939年3月22日、ダッハウ収容所の収容者がウィーン宛に差し出したカバーです。

 1933年1月30日に政権を掌握したヒトラーとナチス(国家社会主義労働者党)は、同年2月27日に起こった国会議事堂放火事件を奇禍として、翌28日、ヒンデンブルク大統領名で「民族と国家の防衛のための緊急令」を発し、警察に対して「好ましくない人物」を、期限を定めずに“保護拘禁”する権限を与えます。これにより、放火事件の犯人として逮捕したドイツ共産党員を対象として、オラニエンブルク(ベルリン中心部から北に35キロ、ハーフェル川沿の都市)にある電機会社の工場を改造して拘禁施設を設けました。これが、後に“オラニエンブルク強制収容所”と呼ばれる施設です。

 一方、これをほぼ時を同じくして、ミュンヘンの北西15キロにあるダッハウにも、1933年3月20日、第一次大戦中の火薬工場跡を利用して、Konzentrationslager、すなわち、集団生活所という名の強制収容所が設置されます。ちなみに、今回返還された門扉の“働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)”の文言は、後に、アウシュヴィッツの門扉にも同様の文言が掲げられていたことから、ナチスの強制収容所と結び付けられることが多いのですが、この文言は、もともとは、1873年に発表されたロレンツ・ディーフェンバッハの小説のタイトルで、ワイマール共和国の時代には、失業対策として公共事業を拡充する際の標語としても使われていたこともあり、ナチスが考案したものではありません。

 なお、Konzentrationslagerという施設に関して、ヒトラーは1941年に「Konzentrationslagerの発明者はドイツ人ではない。英国人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べているほか、ゲーリングはニュルンベルク裁判で「Konzentrationslagerはボーア戦争の際に英国が南アフリカに建設したconcentration campをモデルにした」と証言しており、少なくとも、彼らの意識の中では、ナチスの強制収容所は、ボーア戦争以来の先例を踏襲したものと理解されていたことがうかがえます。

 さて、ダッハウ収容所は1933年3月22日に開設され、翌23日には最初の収容者として60人の政治犯が送られてきましたが、同年5月には、収容されていた共産党の国会議員4名が殺害されたことから、初代所長のヒルマール・ヴェケルレは解任され、テオドール・アイケが着任。アイケは、同年10月1日、収容所規則を制定し、収容者を250人ずつのブロックに分けて管理する体制や収容者への罰則規定、さらに、収容者を処刑する際の基準(たとえば、収容所内での政治的扇動やデマ、破壊活動、反逆的行為、脱走、看守への暴行などが、処刑に値する“罪”とされた)等を体系化します。これが、その後の各地の強制収容所の運営の基本的なモデルとなりました。

 今回ご紹介のカバーは、第二次大戦開戦以前の1939年3月22日、ダッハウ収容所の収容者が差し出したものですが、封筒は緑色の用紙で、中央には差出人(=収容者)の氏名、生年月日、収容所内の監房番号を書くスペースがあり、左側には、収容者と郵便物をやり取りする際の注意事項が6項目にわたって列挙されています。その概要は、以下の通りです。

 1.収容者は1月に2通の手紙もしくは2枚の葉書を親族に送り、または親族から受け取ることができる。収容者宛の通信はインクでよく読めるように書かねばならず、便箋1頁につき15行まで書いてよい。便箋は通常の大きさのもののみ認められる。二重封筒の使用は認めない。12ペニヒ切手5枚のみ同封できる。それ以外のものは禁止されており、没収の対象となる。葉書は10行まで記載してよい。写真を葉書として使うことは認められない。
 2.(収容者への)送金は認められる
 3.新聞(の購読)は認められるが、収容所当局を通して注文しなければならない。
 4.収容者は収容所内で何でも買うことができるので、収容者宛に小包を送ることは認められない。
 5.収容者の釈放に関する嘆願は受け付けない。
 6.収容者への面会や収容者との会話は原則として認められない。

 また、注意書きの末尾には、これらの要件を満たさない通信は廃棄されることが明記されています。この封筒のフォーマットは、アウシュヴィッツを含め、ナチス支配下の多くの収容所で収容者に支給される郵便用の用紙類の基本形のひとつとなります。このことは、郵便の面でも、ダッハウが収容所のモデルとなっていたことをうかがわせるものといえましょう。

 なお、このあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。  

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